注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
南宋(1127~1279)
金の侵攻による開封の陥落後、大名府に駐屯していた康王が応天府(商邱)に逃れて即位し、杭州に遷って宋朝を再興したもの。
高宗の時代は主戦派・和平派が対立し、岳飛?・韓世忠ら後に“抗金名将”と呼ばれる驍将を輩出したが、
秦檜の復帰で和平派が優勢となり、岳飛の処刑と岳家軍の解体を経て講和が成立した。
以後、金朝とは海陵王の南征(采石磯の役)とその報復を除けば1206年まで大規模な軍事衝突はなく、
江南開発によって特に江蘇・浙江は“天下の穀倉”と呼ばれるようになった。
孝宗の後は宰相が国政を主導するようになり、同時に慶元の党禁に代表されるように党争が激化した。
1234年には新興のモンゴルと結んで金朝を滅ぼしたが、和約の不履行と河南を急襲したことで敵対し、
モンゴルとの抗争を通じて江淮の地は荒廃の極に達し、このことは南征を図るモンゴルにとって、長江の存在とともに難題とされた。
軍の主力が軍閥によって担われていながらも、中央集権のために軍閥勢力を抑圧・統制したことで
国防力を弱め、1259年に四川が、1273年に襄陽?が、1276年には臨安が陥落して事実上滅んだ。
張世傑・陸秀夫ら一部廷臣は幼帝を奉じて海上に逃れたが、1279年に珠江デルタの崖山で暴風雨に遭って完全に滅亡した。
宗沢(汝霖)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 57 | 76 | 89 | 86 | 矍鑠 | 堅守 | 求心 | 再起 | 振興 | 聡明剛毅 | 斉射 | 激励 | 鉄壁 | 大喝 | 兵站改革 | 覇道 |
93 | 58 | 78 | 94 | 87 | 矍鑠 | 堅守 | 求心 | 再起 | 振興 | 聡明剛毅 | 斉射 | 激励 | 鉄壁 | 大喝 | 兵站改革 | 覇道 |
【ソウタク(ジョリン)】
南宋の政治家・武将。
北宋時代に官吏となり、靖康の変が起きると磁州知として金の南下を防ぐ。
康王趙溝(高宗)を救い、高宗が南京で即位すると東京留守に任命され開封を守備する。
以後、義勇兵と人材を集め、兵糧を蓄え、金に抗戦する備えを整える。
金の侵攻を度々防衛し、金の人々より「宗爺爺」と畏怖された。
晩年は高宗に開封への遷都と北伐を十数回上奏し続けるも、戦功を妬む和平派の工作により実現しなかった。
憂悶のうちに病に倒れ、死の直前に「過河!(黄河を渡れ!)」と叫んで没した。
李綱(伯紀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 54 | 82 | 85 | 79 |
【リコウ(ハクキ)】
北宋、南宋の政治家、詩人。号は梁溪。
開封が包囲された際には東京留守として籠城し、金の侵攻を食い止めた。
しかし江南に左遷され、さらに永安?に流配される。
靖康の変の後は南宋で河南の防衛線を固め、軍を再編し水軍を整えた。
しかし、黄潜善、汪伯彦らと対立し、張所により罷免され、海南島へ流された。
復帰後は、荊湖広南宣撫使や江西安撫制置大使を務める。
金への降伏論や和平論に反対し、岳飛?の抗金闘争を支援した。
文筆家として「梁溪集」百八十巻、「靖康伝信録」、「建炎時政記」などの著作がある。
朱松(喬年)
生年 | 登場 | 没年 |
1097年 | 1143年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 15 | 71 | 68 | 72 | 学者 | 詩想 | 人脈 | 太学 | 礼教 |
【シュショウ(キョウネン)】
北宋・南宋の政治家・学者。朱子学の祖である朱熹の父。
1118年に科挙に及第した後は地方官を務めたが靖康の変により山奥に逃れその際に朱熹が生まれている。
その後は南宋に仕えて金への主戦論を唱えて秦檜の和平論を批判したが、秦檜に憎まれて左遷された。
朱熹に対してはに二程子の学を教え、晩年に友人である胡憲・劉勉之・劉子翬の三人の元で学ぶよう遺言している。
秦檜(会之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
11 | 7 | 89 | 91 | 11 | 虚実 | 封殺 | 能吏 | 功名 | 悪名 | |||||||
13 | 7 | 95 | 93 | 11 | 虚実 | 封殺 | 能吏 | 功名 | 悪名 |
※個性の組み合わせ不可能(虚実/封殺)
【シンカイ(カイシ)】
南宋の宰相。江寧の人。
北宋滅亡後、金が傀儡国家の楚を誕生させるのに猛反対し、金首脳部に連行されるが、
脱走し高宗の下へ帰還すると絶賛され、宰相となる。
宰相として高宗の支持を得て対金講和を目指すと、主戦派を弾圧し、
岳飛?をも謀殺して一応は主戦派を抑え込み、和平(紹興の和議)を成立させたが、
それは、国境線を確定し、宋が金に毎年金と絹を貢ぐという屈辱的内容だった。
和平後も猛批判が続くが、反対派への弾圧や言論統制などの恐怖政治を貫いた。
後世、奸臣・売国奴と蔑まれたが、再評価の声もある。
張俊(伯英)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
69 | 88 | 64 | 78 | 13 |
【チョウシュン(ハクエイ)】
南宋の武将。南宋の中興四将の一人。
盗賊の出身で、騎射を好み、十六歳で弓箭手となった。
金の太原侵攻の中で奮戦し、包囲を突破して金兵の首級を上げつつ康王趙構の元に参じた。
苗劉の乱が起きると、張浚に諭されて韓世忠、劉光世と勤王軍に加わり乱を平定した。
金の南侵に対して高宗を海上に逃し明州で防衛するも、再侵攻を受けて台州に退いた。
金との最初の講和が破れると淮北を攻略するが、秦檜の意を受けて軍を還した。
柘皐の戦いの行賞で対立した劉錡を讒言して左遷させ、
秦檜の和平論に賛同して兵権を返し岳飛の謀殺に協力した。
補足:中興四将は岳飛?、韓世忠、張俊、劉光世の四人。
劉光世(平叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 76 | 62 | 74 | 55 |
【リュウコウセイ(ヘイシュク)】
南宋の武将。南宋の中興四将の一人。
北宋の代に軍人となり、賊討伐や西夏防衛で功を上げた。
北宋が滅ぶと康王趙構の元に駆けつけ、高宗の即位直後に頻発した賊や叛乱を平定した。
金の揚州侵攻では戦う前に軍が潰走し、高宗が長江を渡って逃避した。
苗劉の乱で高宗が帝位を一時逐われると、勤王軍に参加し高宗の復位に貢献した。
韓世忠と揉事を起こすと高宗に諭され和解し、共闘して偽斉の劉豫の侵攻を退けた。
偽斉の淮西侵攻で戦わずして廬州を放棄し、張浚から激しい弾劾を受け兵権を解かれた。
晩年は秦檜に猜疑されず、寵栄を失わなかった。
補足:軍の無規律、軍費兵糧の冗費、驕惰、酒色などで幾度も批判や弾劾を受けた。
王徳(子華)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 88 | 74 | 50 | 59 |
【オウトク(シカ)】
南宋の武将。
北宋の代に金との戦いで勇名を上げ「王夜叉」と呼ばれた。
劉光世の麾下となり先鋒として活躍し、たびたび劉光世の窮地を救った。
楚州救援や王念経討伐にも派遣され、邵青討伐では火牛の計を用いて賊を殲滅した。
偽斉の侵攻では逃げた劉世光に代わって楊沂中らと防戦し、偽斉軍を退けた。
劉光世の解任後に僚将の酈瓊が叛乱して偽斉に降ると、張俊の麾下となって宿州や亳州を攻め落とした。
金の合肥侵入では即座に長江北岸に渡って和州を抜き、
柘皐の戦いでは敵の先陣を一矢で斃し、勢いに乗じて兀朮の鉄騎兵を撃破した。
韓世忠(良臣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 98 | 76 | 42 | 81 | 闘将 | 掃討 | 果敢 | 豪傑 | 護衛 | 万人敵 | 奮戦 | 突撃 | 牽制 | 大喝 | 三軍強化 | 王道 |
【カンセイチュウ(リョウシン)】
南宋の将。「万人敵」と称された抗金の名将。延安の人。
妻の梁紅玉も共に金と戦った。夫婦仲は非常に睦まじかったという。
西夏迎撃・方臘の乱鎮圧に活躍するが、身分ゆえ評価は芳しくなかった。
靖康の変の後、高宗を済州まで護衛し、以降は抗金闘争に明け暮れる。
黄天蕩の戦いでは妻の梁紅玉とともに八千の兵で金の十万の大軍を破る殊勲を挙げ、
高宗から「中興の武功第一」と称された。
しかし、秦檜の対金講和の策で、岳飛は謀殺され、自身も兵権を奪われる。
その後は隠退し、二度と兵事を語らなかったという。
梁紅玉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 76 | 75 | 44 | 82 | ||||||||||||
84 | 74 | 75 | 46 | 84 |
【リョウコウギョク】
南宋の女性。韓世忠の妻。
元は芸妓であったが、韓世忠に惚れ込み、半ば押しかける形で婚姻に至る。
その後は、夫の副将として留守の指揮を担い、黄天蕩の戦いではその勇名を馳せた。
韓世忠が隠棲すると付き従ったようで、両者の仲は終生睦まじかったと伝えられている。
13での能力は88/67/89/75
岳雲(應祥)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 82 | 65 | 29 | 88 |
【ガクウン(オウショウ)】
南宋の将。岳飛?の甥。
本名は蔡済文だが、男子に恵まれなかった叔父・岳飛の猶子となる(後に岳飛には実子が生まれる)。
武勇に優れ、将器にも恵まれ頭角を現した。
だが、南宋の宰相の秦檜は岳飛父子が目の上の痰瘤であり、
そのため彼は金の皇族の梁王・宗弼(兀朮・斡啜)と密約を結び、
岳飛及びその養子の岳雲を逮捕して投獄した。
岳雲は秦檜によって養父の岳飛と処刑され、晒し首にされたという。
楊再興
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 91 | 54 | 17 | 77 |
【ヨウサイコウ】
南宋の武将。
最初は湖北の賊だった曹成の将となる。
岳飛?の討伐を受けると、岳家軍の将の韓順夫と岳飛の弟の岳翻を討ち取る。
投降すると岳飛に忠義報国を尽くすよう諭され、岳家軍の武将となる。
岳飛の北伐に従い、長水では斉の孫都統を撃ち、蔡州で敵の糧秣を焼き軍功を重ねる。
郾城の戦いでは単騎で金軍に突撃し、満身創痍となりながらも数百を討った。
三百騎で行軍中に臨潁の小商橋で十二万の金軍に包囲され、勇戦して二千人余りを討ち倒したが戦死した。
遺体からは二升もの鏃が出てきたという。
補足:「弓法神奇」と伝承されているので、特技は弓系でも可。
張浚(徳縁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 34 | 85 | 81 | 83 |
【チョウシュン(トクエン)】
南宋の政治家。
高宗が即位すると国防の重要性を説いて四川に赴任する。
宗弼の侵攻に対して富平で防衛するが、友軍が敵前逃亡したため敗れ撤退する。
自身の罪を奏上するも高宗から激励され、呉玠・呉璘兄弟を配して和尚原で金の侵攻を防いだ。
その後も軍政の要職を歴任したが、和平派の秦檜・張俊らと対立し左遷される。
秦檜の死後には再び任用され海陵王の南征に対抗する。
しかし、北伐を企図するも諸将の監督に失敗し敗北、和平派の再台頭を受けて失脚する。
その後、亡くなるまで金との和平を撤回するよう上奏し続けた。
呉玠(晋卿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 90 | 76 | 78 | 69 |
【ゴカイ(シンケイ)】
北宋・南宋の武将。
北宋時代から軍属として西夏との戦いで活躍。
南宋時代は張浚に重用され、弟の呉璘とともに金軍と戦う。
南宋軍が敗れ撤退命令が出た際には、和尚原で踏みとどまり金軍の追撃を阻む。
翌年、宗弼が和尚原に侵攻すると、強弓隊と伏兵をもって金軍を殲滅する。
その後も、地の利を生かした弓射・投石を駆使して金軍を撃退し続ける。
宗弼が再侵攻した際には仙人関で防衛し金軍を大敗させた。
屯田を導入して軍費を増やして余剰分を民に分け与えるなど、民政にも手腕を発揮した。
晩年は酒色に溺れ、喀血死した。
※PC版の場合、「玠」の字はTe-PersonEditorで入力可能。
呉璘(唐卿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 86 | 64 | 69 | 73 |
【ゴリン(トウケイ)】
南宋の武将、呉玠の弟。
和尚原の戦いでは和尚原を死守し、呉玠の兵が埋伏した地点まで金軍を誘導し大破した。
仙人関の戦いでは金軍の兵器による猛攻の中で、兵を督戦して連日血戦を挑み勝利に貢献する。
病没した呉玠の軍を引き継ぎ、
朝廷の使者に蜀の地の利を説いて兄の死後二十年以上に渡って四川で防衛の任に当たった。
海陵王の侵攻の際には大散関へ兵を送って金軍を牽制し、
反攻して陝西・鳳翔などを回復するが、隆興の和議によって撤兵し漢中?へ帰還する。
その後は漢中で城壁や水利を修復し生産力を回復させ、病没した。
※PC版の場合、「璘」の字は「燐」「隣」などの似ている字を代わりに入力。
劉錡(信叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 76 | 91 | 80 | 86 |
【リュウキ(シンシュク)】
南宋の武将。兵法と風水に通じていた。
隴右で西夏に連勝し、西夏の子供は「劉都護来」と聞くと泣き止むほどだった。
才能を張浚に見出され、四川方面の戦いで活躍をする。
宗弼が開封へ南進すると、精鋭の「八字軍」を率いて順昌で防御を固め、
潁河に毒を流すなどの計略を駆使して金の大軍を翻弄し、大勝した。
柘皐の戦いでも金軍を破るが、紹興の和議により兵権を奪われ左遷される。
海陵王の侵攻では江南に戦略的撤退をするが、敵前逃亡と謗られ憂死した。
揚州で「完顔亮ここに死す」と城壁に書き残し、実際に海陵王の死地となっている。
楊存中(正甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 88 | 39 | 46 | 62 |
【ヨウソンチュウ(セイホ)】
南宋の武将。本名は沂中。
張俊の配下として苗伝の反乱鎮圧で功績を上げ、高宗に重用され宿衛軍の統制となる。
韓世忠の指揮下で斉軍と藕塘で戦い、その活躍により宿衛の三軍を統括する。
柘皐の役では完顔宗弼の軍を劉錡らとともに撃退。
その後、秦檜の命令で岳飛?の捕縛に協力する。
岳家軍や韓家軍が解体される中、高宗の寵愛もあって朝廷に残り、存中の名を下賜される。
完顔亮が侵攻すると張浚と共に起用され防衛任務に就く。
隆興の和議まで南宋軍の重鎮として職責を果たした。
嫌悪武将:秦檜
虞允文(彬甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 39 | 94 | 90 | 74 | 火神 | 驍将 | 柱石 | 地利 | 水戦 | 五火の変 | 強襲 | 矢嵐 | 鼓舞 | 投石 | 火計研究 | 王道 |
【グインブン(ヒンホ)】
南宋の政治家・武将。
海陵王が六十万の軍を号して侵攻すると、参謀軍事として采石磯に駐屯し長江を挟んで対峙する。
南宋軍の主力が到着する前に戦端が開かれるが、虞允文は将兵を叱咤激励して奮戦。
海鳅船を突撃させ、強弩と霹靂砲(火薬を弾丸とした投石機)を使用して金軍を打ち破る。
その後は主戦派として強硬論を唱え一時左遷されるも右僕射・左丞相を歴任し、宰相として軍制改革と人材登用に励む。
その後、中央を辞して四川宣撫使として四川より北伐軍の準備を行うが、その最中に病没した。
李顕忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 89 | 64 | 52 | 81 |
【リケンチュウ】
金、西夏、南宋の武将。本名は世輔。
北宋の代に金との戦いで初陣を果たし奮戦するも、北宋が滅びたため投降する。
宗弼に才を認められ重用されるも、南宋への帰還を計画して失敗し一族が殺されたため西夏に出奔。
西夏でも武功を立て、二十万の兵を預かり金と戦って陝西を攻略する。
南宋国境に近づくと南宋領の四川へ越境し、帰還の念願を果たす。
高宗よりその忠義を称えられ顕忠の名を下賜され、以後は南宋の将として抗金戦で活躍した。
采石磯の戦いでは南宋軍の主力を率いて参陣し、完顔亮を打ち破っている。
魏勝(彦威)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 86 | 68 | 46 | 69 |
【ギショウ(ゲンイ)】
南宋の武将。
若い頃より弓射に優れ、名射手と称えられた。
完顔亮の海州入城の知らせを聞くと、淮河周辺を偵察し、兵器を製造するなど反攻の準備を整える。
金軍が淮河を渡り長江へ迫ると、三百人の「忠義軍」を率いて金領へ逆入し漣水城を落とす。
その後、海州を陥落させ、海州に籠城して抵抗活動を行う。
しかし、孝宗が金と和約交渉を行うために停戦命令を下し、
その隙を狙って金軍が魏勝を襲撃し、矢を受けた魏勝は戦死した。
趙汝愚(子直)
生年 | 登場 | 没年 |
1140年 | 1196年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 56 | 80 | 82 | 77 | 威風 | 慰撫 | 眼力 | 文化 | 太学 | 王道 |
【チョウジョグ(シチョク)】
南宋の皇族・政治家。
北宋の第二代皇帝・太宗の長男である趙元佐の末裔。
孝宗の時代に四川方面に赴任した際に羌族を征討して辺境を安定させ孝宗からは「文武に威風あり」と評された。
孝宗の死後に跡を継いだ光宗は暗愚で病弱であった為、廃して寧宗を擁立したが韓侂冑と対立した末に韓侂冑の
讒言により失脚し流罪の途中にて失意のまま病死した。
学を好み朱熹らと親しく交わり、趙汝愚が失脚した際に弁護したが逆に韓侂冑に弾圧される結果となっている。
親愛武将:朱熹
朱熹(元晦)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
32 | 29 | 89 | 82 | 88 | 学者 | 農政 | 名声 | 太 | 礼教 |
【シュキ(ゲンカイ)】
南宋の思想家・官吏。朱子。別字に仲晦。
19歳で進士に登第し、地方官を歴任し、社倉法の実施・義役法の考案などを行なう一方、学問を第一として講義を行う。
宰相趙汝愚に招聘されたが、韓侂冑によってすぐ罷免され、不遇のまま病死した。
朱子学は、仏教的思想によって儒経を解釈し“新注”とも称され儒学の正統となり、
朱熹は太師・徽国公を追贈されて孔子廟に従祀された。
孔子を最上の聖人とし、五経より四書を尊重し、
『朱子家礼』は以後の士大夫の日常生活の規範とされ、日本にも伝播し統治理論に用いられて大いに普及した。
辛棄疾(幼安)
生年 | 登場 | 没年 |
1140年 | 1207年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
79 | 78 | 71 | 62 | 66 | 詩想 | 召募 | 動員 | 教化 | 調練 | 三令五申 | 王道 |
【シンキシツ(ヨウアン)】
南宋の武将・政治家・詩人。済南府歴城県の人。
金の出身で海陵王の南宋侵攻に乗じて民衆を率い反乱を起こし、
同じく反乱を起こした耿京に合流して配下となったが耿京が配下の張安国に殺害された為に
張安国を討ち軍を率いて南宋に降った。
南宋では地方官などを歴任し金への主戦派であったが朝廷には受け入れられず不遇であった。
詩人として著名で「稼軒集」等が残る。
葉適(正則)
生年 | 登場 | 没年 |
1150年 | 1223年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
69 | 46 | 76 | 68 | 57 | 堅牢 | 徴税 | 改修 | 学者 | 鉄壁 | 歳出改善 | 割拠 |
【ショウテキ(セイソク)】
南宋の政治家。
趙汝愚や韓侂冑と共に光宗を廃位し寧宗の擁立に関与している。
韓侂冑が金を攻撃して敗れた際は山水の要地に堡や塢を置いて金軍を防ぐ功績を挙げたが、
韓侂冑の処刑によりその一派とみなされて追放され、以後は著述活動に専念した。
理財を重んじて南宋の国家財政を論じ著書に「習学記言」等が残る。
韓侂冑(節夫)
生年 | 登場 | 没年 |
1152年 | 1207年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
59 | 61 | 36 | 44 | 31 | 高慢 | 動転 | 短慮 | 軍制改革 | 我道 |
【カンタクチュウ(セツフ)】
南宋の武将・政治家。北宋の韓琦の曾孫。
南宋の外戚で病弱であった第三代皇帝・光宗の代わりにその子である趙拡(寧宗)を即位させ、
側近として南宋の政治を主導し寧宗即位に共に尽力した趙汝愚を失脚させ、さらに自身に反発
する朱熹をも罷免し「慶元党禁」にて朱子学を弾圧した。
金への主戦派でもあり1206年に金征伐を行うも失敗に終わり、金からは韓侂冑の首級を求められ、
史弥遠により殺害されて首級は金に送られた。
親愛武将:趙拡 岳飛
嫌悪武将:朱熹
呉曦
生年 | 登場 | 没年 |
1162年 | 1207年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 72 | 48 | 44 | 32 | 山戦 | 徴税 | 動員 | 強欲 | 高慢 | 地勢研究 | 名利 |
【ゴギ】
南宋の武将。
祖父以来の四川の有力軍閥の長で対金強硬派であった韓侂冑と手を結びさらに勢力を得たが、
金の調略を受けて1206年に所領ごと金へと寝返った。
しかし僅か41日で部下に殺害され、半世紀以上に渡り四川に一大勢力を築いた呉氏の軍閥は崩壊した。
史弥遠(同叔)
生年 | 登場 | 没年 |
1164年 | 1233年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
39 | 27 | 72 | 68 | 51 | 徴税 | 小心 | 太学 | 割拠 |
【シビエン(ドウシュク)】
南宋の政治家。右丞相史浩の子。
1206年に当時の実力者であった韓侂冑の金征伐には反対の立場で、
金征伐に失敗した韓侂冑を殺害、韓侂冑の代わりに自らが朝廷の実権を掌握し
寧宗の死後は後継に理宗を擁立するなど20年以上にわたり朝廷の実力者として専権を振るった。
史弥遠が実権を握った時代は韓侂冑の「慶元党禁」で弾圧された理学の復活等、文治主義で
あったが民衆は物価の高騰や重税に喘ぐなど南宋が衰退に入り始めた。
嫌悪武将:韓侂冑
孟珙(璞玉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
98 | 84 | 93 | 87 | 90 | 洞察 | 堅守 | 求心 | 屯田 | 築城 | 聡明剛毅 | 堅城鉄壁 | 牽制 | 足止 | 罵声 | 墨守研究4 | 王道 |
【モウキョウ(ハクギョク)】
南宋の武将。
金がモンゴルとの決戦で敗れると、金に侵攻してモンゴル軍と挟撃し金の滅亡に貢献する。
その後、南宋がモンゴルとの協約を破り端平入洛の役を起こすと、孟珙は襄陽?を攻略する。
モンゴルが南征を開始すると、南宋防衛の任務を一手に担うようになる。
自ら水陸両軍を巧みに用いてモンゴル軍を破り、各地の防衛線に救援を送り続けた。
疲弊した四川と京湖には屯田を導入して生産力を回復させ、国境の守備軍を再編し強固な防衛体制を築き上げている。
生前没後含めて四十年以上この防衛体制は機能し、モンゴル南進の障害となった。
※「珙」の字が認識されないため、名は「王共」とするか、認識される「垬」(土偏)の字を代わりに当てる。
余玠(義夫)
生年 | 登場 | 没年 |
1253年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 76 | 82 | 75 | 54 | 屯田 | 法律 | 築城 | 堅牢 | 強欲 | 施設開発 | 割拠 |
【ヨカイ(ギフ)】
南宋の武将。
広済の出身で殺人を犯して逃亡した末に趙葵の配下となり、
1242年に自ら名乗り出て四川按撫制置使・知重慶府として四川方面の防衛を担い、
屯田を開いて食料を増産し釣魚山に城を築いて四川方面のモンゴル軍侵攻防衛の要となるが
モンケによるモンゴル軍の侵攻を防いだが政争に巻き込まれて憤死した。
李庭芝(祥甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 80 | 69 | 65 | 84 | 堅牢 | 封殺 | 不屈 | 施設開発 | 王道 |
【リテイシ(ショウホ)】
南宋の武将。
孟珙に見出され、水柵や烽火台を設置し長江の防備を固め、モンゴル軍の侵攻を四川や揚州で食い止めた。
襄陽?が包囲されると、援軍に向かおうとしない賈似道と范文虎を糾弾し、自身が援軍に赴く上奏も聞き入れられず逆に左遷される。
結局襄陽は五年の包囲の後に陥落し、これに怒った李庭芝は官を辞した。
その後、モンゴル軍の江南侵攻を受けて再び起用され揚州に籠城。
臨安が陥落し、謝太后から降伏するよう詔を受けるも降伏を拒絶。
包囲を突破し入水しようとしたところを捕縛され、帰順を拒否し処刑された。
呂文煥
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 81 | 78 | 52 | 87 | 剛将 | 堅牢 | 不屈 | 節約 | 堅城鉄壁 | 城壁拡張 | 王道 |
【リョブンカン】
南宋末期の将・軍閥の頭領。呂文徳の弟。
最前線の襄陽?の守将となり、五年に亘り籠城しモンゴル軍を苦しめた。
だが、宰相の賈似道と不和だったため、援軍に恵まれず、ついに降伏を余儀なくされた。
一方、クビライから高く評価され、以後は元の重臣となり、南宋攻略では諸城を降らせるなど、
旧人脈を活かした無血開城に成功した。
忠臣多き南宋では異色の存在だが、降伏には賈似道の責任もあるため、彼を売国奴として責める声は少ない。
ただし、文天祥だけは彼を激しく非難したという。
賈似道(師憲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 54 | 84 | 88 | 10 | 築城 | 農政 | 高慢 | 悪名 | 強欲 | 歳出改善 | 名利 |
【カジドウ(シケン)】
南宋の武将、政治家。
孟珙の後任として軍政を委ねられ、顎州の役でクビライを打ち破り、宰相位に就任する。
しかし、モンケ・ハーンの死によりクビライが後継者争いのために北還しようとしていた時期で、
顎州の勝敗は賈似道とクビライが密約を結んだという説がある。
宰相として増大する軍費のために、公田法や通貨改革を行い財政再建に務める。
しかしその結果、各軍閥を中央から遠ざけ援軍も送らなかったため、南宋の防衛線は崩壊する。
襄陽?陥落の責任を取る形で出兵するも蕪湖で大敗し、流刑に処される途上で殺された。
范文虎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 68 | 10 | 41 | 2 | 水戦 | 高慢 | 惰弱 | 水軍育成 | 名利 |
【ハンブンコ】
南宋、元の武将。賈似道の娘婿。
モンゴル軍が襄陽?を包囲すると、援軍として派遣されることを渋る。
襄陽包囲が長期戦となってから十万の援軍を率いて駆けつけるも大敗し投降する。
元に仕えてからは、世祖クビライに鎌倉幕府への使者を推薦するも、使者は全て北条時宗によって斬られる。
クビライの怒りを買った范文虎は弘安の役に江南軍の将として出陣させられる。
しかし、軍議に出席せずに連携を欠き、神風の被害の中で将兵を見捨てて本国へ逃げ帰るという失態を重ねる。
その後帰還した兵により告訴され、成宗テムルの代に処刑された。
謝枋得(君直)
生年 | 登場 | 没年 |
1226年 | 1289年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
59 | 55 | 72 | 74 | 78 | 召募 | 詩想 | 学者 | 不屈 | 占術 | 太学 | 王道 |
【シャボウトク(クンチョク)】
南宋の政治家、学者。
文天祥や陸秀夫と同じく宝祐4年(1256年)の進士になる。
憂国の志を持ち、賈似道を批判した事で左遷された事もあった。
元の侵攻に対して抗戦したが南宋の滅亡により放浪し、
元の仕官の誘いを断り続けた末に断食して大都に赴いて餓死した。
陸秀夫(君実)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 44 | 88 | 83 | 91 | 学者 | 泰然 | 太学 | 礼教 |
【リクシュウフ(クンジツ)】
南宋末期の政治家。亡宋の三傑の一人。
元の伯顔(バヤン)の軍が南宋の首都臨安に迫ると、和平交渉を進め国難を救おうとしたが失敗し、
臨安は無血開城し、恭帝は元に降伏した。
だが、滅亡を潔しとせず、前皇帝の度宗の遺児を連れ臨安を脱出して南方に逃れ、
張世傑と協力して亡命政権を樹立した。
亡命政権の宰相として抵抗運動を続けるが、元軍の猛攻の前に南宋の滅亡は決定的となる。
ついに崖山の戦いで妻子を殺害した後、幼帝と共に入水自殺を遂げた。
その悲劇的な最期は、現在でも多くの人々に哀惜の念を与え続けている。
文天祥(宋瑞)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 58 | 92 | 93 | 95 | 論客 | 詩想 | 不屈 | 地利 | 一心 | 忠烈之鬼 | 罵声 | 鼓舞 | 先従隗始 | 王道 |
【ブンテンショウ(ソウズイ)】
南宋末期の将・政治家。亡宋の三傑の一人。
科挙を状元(首席)で合格し天下に名を挙げたが、遷都論を巡り宰相の賈似道と対立する。
元との和平交渉の使者とされた際、伯顔との談判の後で虜囚となる。
宋の滅亡後も、張世傑・陸秀夫らは抵抗を続けていたため、
脱出してゲリラ的抵抗を続けたが、遂に捕らえられる。
獄中でも元への臣従を拒み続けたため、クビライも遂に決断し、惜しまれつつも処刑された。
クビライは「真の男子なり」と彼を評し、後世でも忠臣の鑑として称えられ、
『正気の歌』は多くの人に読み継がれた。
親愛武将:諸葛亮 厳顔 張良
嫌悪武将:クビライ 賈似道
※親愛武将は「正気の歌」で挙げられた人物でゲーム中に登場する武将。
張世傑
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 81 | 46 | 25 | 84 | 水戦 | 堅守 | 不屈 | 怒髪 | 一心 | 不撓不屈 | 水軍育成 | 王道 |
【チョウセイケツ】
南宋末期の将。亡宋の三傑の一人。
最初はモンゴルの家臣だったが、罪を得て南宋に逃亡し、
呂文徳にその優秀な才能を見出され将軍となる。
元軍の侵攻を一度は撃退するが、首都・臨安が陥落すると、
陸秀夫と共に前皇帝の度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を樹立した。
その後も南宋の将として失地回復を図るが果たせず、
元軍の猛攻の前に幼帝と陸秀夫は自殺して南宋は滅亡した。
後、ヴェトナムへ逃亡し再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没し死亡した。
張世傑の最期をもって宋は滅亡したと宋史は締めくくっている。
趙昺
生年 | 登場 | 没年 |
1271年 | 1279年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 36 | 57 | 55 | 80 | 求心 | 潜在 | 激励 | 太学 | 王道 |
【チョウヘイ】
南宋最後の皇帝・祥興帝。
第6代皇帝である度宗の七男で元の侵攻で臨安が陥落した際、
兄の趙昰(端宗)と共に南方に逃れて衛王に封じられた。
1278年に端宗が崩御した事により即位したが翌年の崖山の戦いにて陸秀夫と共に入水した。
※能力値は信長の野望・烈風伝を参照