みんなの新武将/孫呉

Last-modified: 2024-01-04 (木) 21:23:16

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

孫呉(229~280)

呉郡の孫氏が江南に樹立した政権。
始祖とされる孫堅は袁術に属して董卓討伐に加わり、後に荊州攻略中に戦死した。
嗣子の孫策は袁術の僭称を機に自立して呉会地方を征服。
孫策を襲いだ孫権が荊州を接収した曹操を赤壁で撃退し、江南の独立と土豪に対する求心力を確立した。
南遷した名士にも政権に連なる者が多く、219年に劉備から荊州を奪い、229年には建業に拠って称帝した。
夷陵の役の前後を除いては概ね蜀と同盟して魏に当たり、江南開発による国力の増強を進めたが、
人口の中原回帰や山越の反抗などに苦しみ、孫権の晩年の内訌(二宮の変)が長期化したこともあり、
挙国的な軍事行動は年々困難を極めていく。
殊に山越の存在が呉の大患だった事は敵国である魏の識者にも指摘され、
土豪勢力の伸張もあって軍事は保守に偏り、蜀との連携も円滑を欠いた。
末期には魏の征蜀に呼応した交州の離叛や孫皓の集権化の失敗があり、280年に半ば自壊的に晋の南征軍に征服された。
物語的には地味ながらも、後の南朝の先駆け的存在であり、長い目で言えば現在の経済南遷の先鞭という非常に大きな意義を残した王朝であった。



一般臣下

李術

生年登場没年死因
201不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7069514564教化高慢墨守研究割拠

【リジュツ】
孫策配下。豫州汝南郡の人。
孫策によって劉勳?廬江?太守の座を追われると、後任の廬江太守に任命された。
200年、曹操?の任命した揚州刺史・厳象を殺した。
しかし同年、孫策が急死すると、跡を継いだ孫権のいう事を聞かなくなり、孫権の元からの逃亡者を迎え入れた。
孫権が逃亡者を帰還させるよう命じると、「(この者達は)徳のある者のところに来たので、徳の無いところに返す必要はありません」
と放言し、公然と自立した。李術は曹操を頼ろうとしたが、孫権は先手を打って李術を助けないよう要請し、討伐の兵を出した。
李術は籠城したが曹操は援軍を出さず、落城ののち孫権に誅殺された。配下の兵は3万に上ったという。

嫌悪武将:孫権

賀邵(興伯)

生年登場没年死因
226275不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3429697071諌止地域振興割拠

【ガショウ(コウハク)】
呉の政治家。賀斉の孫。
孫休の代に散騎中常侍に任じられ、呉郡太守を務めた。
孫皓が即位すると中書令や太子太傅を歴任する。
孫皓に対して、忠臣の諫言を聞き、奸臣を遠ざけるよう直言した。
また、苛政を除いて国と民を豊かにし、過去の歴史に学んで行いを改めるよう諌めた。
このため孫皓に恨まれ、国事を誹謗したとして免職された。
間もなく復職するが、中風で口が利けなくなり数ヶ月で辞職する。
これを孫皓に仮病と疑われ、拷問にかけられ一言も話せないまま殺された。

王蕃(永元)

生年登場没年死因
228266不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2328746067学者泰然沈着太学礼教

【オウハン(エイゲン)】
呉の政治家。
博学多聞で天文や数学にも通じていた。
尚書郎を務めたが一時官を去り、孫休即位後に散騎中常侍に任じられる。
蜀漢に遣わされた際には蜀の人からも称賛を受けた。
孫皓が即位すると常侍となるが、中書丞の陳聲らに讒言される中でも憚らずに直言を行った。
孫皓の酒宴の際に、酔っても威厳のある姿でいたため、怒った孫皓に斬られた。
天文学者としては渾天儀を作って一年の長さを求め、
数学者としては円周率を3.15以内と算出し、後代へ業績を残している。

葛玄(考先)

生年登場没年死因
164244自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2318804170幻術

【カツゲン(コウセン)】
呉の方士。号は仙公。呉書の趙達伝に登場。
方士左慈の弟子で九丹金液仙経という道法を伝授された。
晩年の孫権に招かれ重用された。ある時長い間雨が降らず困っている人を見て、
護符を用いて雨乞いを実行し大雨を降らさせた。
さらに孫権が「この大雨の中に魚を呼べるか?」と聞いたところ、簡単に呼んで見せた。
その他にも水の上を歩いたり、乗った船が沈没しても忽然と姿を現したという話がある。
『抱朴子』の著者で有名な仙道研究家の葛洪は葛玄の子孫。

祖郎

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7682483570掃討不屈地勢研究割拠

【ソロウ】
丹陽の宗教指導者。孫策が丹陽太守呉景の援軍に来ると、先手を打ってこれを包囲し、孫策を討死寸前にまで追い詰めた。
孫策が江東を平定した後も抵抗を続けるも、ついには捕らえられる。
この時、孫策が恨み事を言わずに協力を頼んだため、祖郎は孫策に帰服し、軍勢の先導を務めた。

桓彝(公長)

生年登場没年死因
258不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1217566671不屈戸籍整備礼教

【カンイ(コウチョウ)】
呉の政治家。尚書。長沙?郡臨湘県の人。魏に仕えた桓階?の弟。
兄と異なり、長沙に留まり続けて呉に仕えた。
258年、孫綝?孫亮?の罪悪を並べ立て、廃立に賛成するよう重臣に迫った。
桓彝はただ一人署名を拒否し、孫綝に殺された。
呉の滅亡後、司馬炎?薛瑩?に呉の名臣は誰かと問うた。薛瑩は「桓彝は忠誠の操を捧げました」と答えた。

周循

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3314716370火攻水戦督励虚弱水軍育成王道

【シュウジュン】
周瑜?の長子。周胤?の兄。
孫魯班?を娶り、騎都尉に任じられる。父の威風を持っていたとされるが若くして死去した。

親愛武将:孫魯班

芮玄(文表)

生年登場没年死因
226年自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5964534166

【ゼイゲン(ブンヒョウ)】
呉の武将。
娘が孫登?に正室として彼の生前に嫁いだことが記されている。

※芮の字は、ゲーム内では外字でも入力不可なので別の字(丙など)を当てよう。

馮則

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4475311430

【フウソク】
孫権配下の騎兵。
孫堅以来、孫家の大敵であった黄祖を討ち取った。
史書で直接大将を討ち取った兵士の名が記されることは珍しく、黄祖を討った功績の大きさを示しているという。

呂覇

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6373515167水戦潜在水軍育成覇道

【リョハ】
呂蒙の次男。呂琮の弟、呂睦の兄。
219年に父が死去すると、その跡を継いだ。

※さすがに三國志2の能力そのままだと強すぎるので抑えめに。その代わり父親に倣って潜在を持たせてみた。

朱才(君業)

生年登場没年死因
231自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6561636561動員輿望雁行強化王道

【シュサイ(クンギョウ)】
朱治の実子。朱然の義弟にあたる。
騎射が巧みで、孫権の寵愛を受けて、遊ぶときには常に同行させていたという。
父の死後家督を継ぎ、偏将軍に任じられる。自身の死後、その軍勢は義甥の朱績に引き継がれた。

※朱然が朱治の養子になったのは13歳頃(194年)とされるので、生年は195年以降に設定。

朱琬

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7072605162調練奮戦駆逐強襲軍制改革王道

【シュエン】
朱才の子。朱治の孫。
父の死後、父が率いていた兵は義理の従兄弟である朱績が継いだが、父の爵位である故鄣侯は朱琬が継いだ。
鎮西将軍まで昇進し、272年に西陵督の歩闡が反乱を起こした際は陸抗の指揮下として西晋軍と戦った。

張儼(子節)

生年登場没年死因
266自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2723807168論客学者縦横術礼教

【チョウゲン(シセツ)】
呉郡呉県の人。
若年時より名が知られて朱異・張純らと親交を結び、驃騎将軍朱拠にも才を評価された。
孫晧の時代には大鴻臚となり266年に丁忠と共に使者として西晋に赴いた。
その際に賈充・裴秀・荀勗らに難問を持って試されたが屈しなかったという。
呉への帰国途中にて病死した。

親愛武将:朱拠 朱異 張純 羊祜

丁忠

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5647676363縦横術覇道
5647676363特使縦横術覇道

【テイチュウ】
呉の武将、政治家。
265年、魏で晋の文王・司馬昭が死去し、同年司馬炎は禅譲を受けて皇帝に即位した(西晋)。
266年、丁忠と張儼は司馬昭の弔問を名目に西晋への使者となった。
張儼は呉への帰国途中で病死したので、丁忠が孫晧に報告した。
丁忠は「北方には防備の備えがございませんから、弋陽を襲撃すれば奪い取ることができます」と主張した。
鎮西大将軍・陸凱は、出兵に反対した。車騎将軍・劉纂は、間諜を遣わせて敵に隙がないか調査することを提案した。
孫晧は劉纂の提案に乗り気だったが、結局実行されなかった。
また、丁忠の帰国祝いの宴会で、孫晧の勘気を被った王蕃が殺害されている。

劉纂

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7068653870覇道
6563654865召募駆逐牽制地勢研究覇道

【リュウサン】
呉の武将。妻は孫権の次女、のち孫魯育
235年、廬陵郡の李桓と路合・会稽郡の随春・南海郡の羅厲らが蜂起した。
劉纂は呂岱の配下として鎮圧に貢献した。
孫権の次女を娶っていたが、妻に先立たれた。朱拠が死去すると、未亡人となった孫魯育と再婚した。
255年、蜀漢の使者の公式訪問を狙った、孫峻の暗殺計画が発覚した。孫魯育は、姉の孫魯班の讒言で連座して処刑された。
256年8月、孫峻は劉纂・文欽呂拠朱異唐咨らを北伐に動員し、淮水・泗水流域に侵入させた。しかし、翌月に孫峻が死去したため撤退した。
孫綝が実権を握ると、不服とした呂拠・滕胤が挙兵を企てた。孫綝は先手を打って、孫亮に呂拠討伐の詔を出させ、
劉纂・唐咨・文欽らが呂拠を討伐した。追い詰められた呂拠は自害し、滕胤は劉丞に討たれた。
266年、司馬昭の弔問から帰国した丁忠は、弋陽攻撃を主張した。陸凱は出兵に反対したが、劉纂は
「敵に隙があれば、捨て置いてよい物でしょうか。まず間諜を派遣して情勢を調べましょう」と提案した。
孫晧は劉纂の提案に乗り気だったが、蜀漢が滅ぼされて間もない時期であり、躊躇している間に沙汰止みになった。
以降の消息は不明。
『抱朴子』によると、皇象らと並んで絶技を持つ書家であったという。

何定

生年登場没年死因
272不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
413557128徴税調達強欲浪費悪名縦横術我道

【カテイ】
豫州汝南郡の人。
元々は孫権の使い走りに過ぎなかったが他者に媚びへつらう事が得意で孫晧即位後は上手く取り入って
楼下都尉となり酒や穀物の買い入れを務めた。
孫晧の信頼は厚かったが横暴な振る舞いが多く数々の悪行を行い、陸凱には岑昏らと同列の佞臣として弾劾される等、
人臣や民衆には嫌われていた。しかし272年にこれまでの悪事を責められ処刑された。

親愛武将:孫晧
嫌悪武将:孫秀 陸凱 陸抗 賀邵

陳声

生年登場没年死因
273年不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1513363218徴税高慢短慮小心政令徹底我道

【チンセイ】
孫晧の時代の佞臣。
孫休の時代までは小役人であったが、孫晧により中書丞に抜擢され王蕃への
弾劾をしばしば行い王蕃が後に誅殺される原因を作った。
後に司市中郎将となるが孫晧の愛妾を処罰した事により孫晧の怒りを買って
焼いた鋸で首をはねられる最期を迎えた。

親愛武将:孫晧
嫌悪武将:陸凱 王蕃

奚煕

生年登場没年死因
274?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4037593733強欲地域振興名利

【ケイキ】
呉の政治家。
何定同様、孫晧の佞臣と目されている。
死の直前の陸凱?に、「奚煕は小役人で、浦里で新田開発しようとしているが、
無謀で出世欲に駆られてのことだから聞き入れてはいけません」と言及されている。
また、中書令であったころ、賀恵を讒言し、徐粲の聞き取り調査で展開が不利になると、
今度は徐粲を讒言して孫晧に殺させた。しかし賀恵は、恩赦を受けて赦免された。
のちに臨海太守となった。274年、会稽太守の郭誕に国政を非難する書簡を送りつけた。
孫晧は謀反と判断し、何植?に討伐軍を率いさせた。奚煕は海路を遮断して守りを固めたが、
配下の兵に殺され、首は建業に送られた。遺族は三族皆殺しとなった。

※『三国志』「孫晧伝」によると、孫奮?が帝位に即く妖言を信じての行動であるように見えるが、孫奮は270年に誅殺されたという記述もある。どちらが正しいのかは不明。

張俶

生年登場没年死因
277不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
19164275徴税強欲浪費悪名粗暴混乱縦横術名利

【チョウシュク】
孫晧に寵愛され司直中郎将となるが、讒言を得意とし陸凱からは岑昏らと共に佞臣として弾劾されており
会稽郡山陰県の役所の小役人であった父親をして張俶に罪があった場合は連座したくないと上表するぐらいであった。
不正な裁判や豪奢な生活を続け多くの無実の民を殺害したが、結局は処刑された。

親愛武将:孫晧

駱秀

生年登場没年死因
264不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6454707466節約不屈護衛魚鱗強化礼教

【ラクシュウ】
会稽?の人。駱統?の子。父の死後、一族の者たちから不当な謗りを受けていたが、同郷の謝淵がこれに憤って擁護したことで悪評を晴らすことが出来た。
司塩校尉として海塩に滞在中に海賊に襲撃されて必死に防戦をするが、援軍が来る前に打ち破られて戦死してしまったという。

孫諝

生年登場没年死因
263不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3836471215徴税調達強欲高慢浪費運搬開発名利

【ソンショ】
呉の交阯太守。
交阯にて暴政を行い度々民衆を徴用して秣陵へ送っていた事等で民衆の不満を買っていた。
262年に孫休の命で交阯に派遣された鄧荀の孔雀3千羽を秣陵へ送る要請に応えるも、民衆の
反発は強く配下の郡吏である呂興が先導した反乱で殺害された。

呂興

生年登場没年死因
264不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6459685556扇動鼓舞地域巡回王道

【リョコウ】
呉の交阯太守孫諝配下の郡吏。
孫諝は交阯にて暴政を行った事で知られ度々民衆を徴用して秣陵へ送っていたが、
263年5月に不満を持つ民衆を扇動して孫諝に反乱を起こし孫諝を殺害した。
その後は魏に服属したが配下の李統に殺害された。

劉俊

生年登場没年死因
268不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6258405756召募地勢研究王道

【リュウシュン】
呉の交州刺史。
268年、西晋から交州を奪回すべく脩則?らを率いて侵攻した。
しかし西晋の毛炅に敗れ、斬首された。兵達は合浦に逃れた。

※能力は『三國志Ⅸ』参考。

李勖

生年登場没年死因
270不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3641536248名声小心方円強化割拠

【リキョク】
呉の少府。
270年、呉の交州奪還の出兵に従軍し、荊州軍の監軍となった。
督軍の徐存とともに、建安?を経由して陶璜?と落ち合う計画だったが、行軍が困難な道であるとして、
道案内の馮斐を殺し、勝手に兵を退いてしまった。その結果、何定によって糾弾され、
李勖・徐存は三族皆殺しにされた。遺体は孫晧によって焼かれた。
何定はかつて、李勖の娘をわが子の嫁に所望したが、李勖に断られたのを恨みに思っていたという。

272年、陸抗は薛瑩?の赦免を求めた上奏で「楼玄?・王蕃・李勖は当世の秀穎(優れた人物)でしたが、
罪も定かでないうちに誅殺されてしまいました」と、暗に冤罪を訴えた。

蔡貢

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6771523656水戦水軍育成王道

【サイコウ】
呉の武将。
272年、西陵督の歩闡?が西晋に寝返った。陸抗?左奕?吾彦?・蔡貢を動員して
西陵城を包囲し、歩闡を討った。

※能力は『三國志Ⅸ』参考。ゲーム上は240年生まれ設定。

張咸

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8066634164堅守水戦
7566634164改修水戦堅牢城壁拡張割拠

【チョウカン】
呉の武将。江陵督。
呉は長江の北岸に溜池を築いており、陸抗は張咸に命じて堰を増築させた。
しかし、西晋の羊祜?が、溜池を船の通路に利用しようとすると、陸抗の命令で堰を破壊した。
羊祜が江陵を包囲すると、呉の諸将は陸抗に江陵の救援を説いた。しかし陸抗は
「江陵城の守備は堅く、兵も足りている。仮に落とされてもすぐに取り返せる。
それよりも(歩闡の籠もる)西陵をそのままにして置けば、取り返しが付かなくなる」
と従わず、西陵の包囲を続けさせた。
その結果、陸抗が西陵を奪還するまで、張咸は江陵を守り切った。

范慎(孝敬)

生年登場没年死因
206274自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7554737083規律仁政鎮静激励鉄壁三令五申王道

【ハンシン(コウケイ)】
徐州広陵郡の出身。
孫権が帝位に就いた際、皇太子孫登の賓客に招かれた一人。
名声は顧譚に及ばぬが謝景や羊衜と並ぶ名声を持ち、孫登は范慎を国士の風と評価した。
侍中・武昌右部督を歴任して軍紀が厳格であった。
孫晧の時代に首都が武昌に移った際は孫晧は畏敬の念を示し、後に太尉となるも高齢を理由に
辞退しさらに引退する事により兵士は嘆き悲しんだ。

陸禕

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7868756771寡欲果敢慎重駆逐矢嵐地域巡回王道

【リクイ】
陸凱の子。
黄門侍郎を経て偏将軍となる。
266年に陸凱が丁奉及び丁固と共に孫晧を廃しようと企てた際、留平も誘うべく陸禕を使者に送るが
留平の計画を察知したのかのような発言を聞き、計画を伝えずに戻った。
269年に父が亡くなった際は太子中庶子となり、華覈が陸禕を重く用いて重要拠点の夏口を守らせるべきと
孫皓に上表したが聞き入れられず275年に建安に一族と共に流罪となった。

※共に流罪となった従弟の陸式は278年に呼び戻されて復職しているが、陸禕はその後の西晋時代も含めて消息不明なため、同年以前に没したか。

鍾離徇

生年登場没年死因
280不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7471674856築城水戦鉄壁駆逐強襲城壁拡張割拠

【ショウリジュン】
鍾離牧?の子。
呉末期に偏将軍となり西陵の守備にあたった。
監軍の唐盛に対し西晋に対する防備として宜城と信陵に敵に先んじて城を築く事を主張したが、
唐盛に意見は受け入れられずに終わり、逆に信陵にて西晋側に城を築かれてしまった。
西晋の呉征討により水軍で迎え撃つも戦死した。

陸晏

生年登場没年死因
280不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6557626070操舵動員火計研究王道

【リクアン】
呉の武将。陸抗?の子。
陸抗の死後に家督を継ぐ。
父の率いた軍を、弟の陸景、陸玄、陸機、陸雲と分けて統率した。
裨将軍、夷道監に任じられる。
晋の呉討伐で王濬の軍に抵抗するが戦死した。

※同じく王濬に抗戦した弟の陸景が31歳で戦死しているため、生年は250年より少し前に設定。

陸景(士仁)

生年登場没年死因
250264280不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6863767574水戦火矢駆逐施設開発王道

【リクケイ(シジン)】
陸抗の次男。
学問を好み弟の陸機、従兄弟の陸曄と並び称された。
孫皓が即位した際に母方の従姉妹にもあたる孫皓の妹を妻に迎え、
騎都尉となり毗陵侯に封じられた。
274年に父が亡くなった際は兄弟で軍を分割相続し偏将軍・中夏督に昇進した。

280年の晋の侵攻においては夷道・楽郷城において王濬率いる晋軍に敗れて兄の陸晏や虞忠と共に死亡した。
『三国志演義』においては張尚に討たれている。

※能力値は三国志Ⅷを参考

紀陟(子上)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3627677979論客縦横術割拠

【キチョク(シジョウ)】
丹陽郡秣陵県の人。呉の政治家・外交官。紀亮の子。子に紀孚・紀瞻。
孫亮?の代に中書郎の職にあり、孫和?を謀叛の罪で取り調べるように命じられた。
しかし、紀陟は孫和に堂々と弁明させた為、孫和を抹殺したい孫峻?に疎まれ、恐怖を感じて出勤を休んだ。
のち中書令に昇進した。父・紀亮は尚書令で、朝議では隣席になった為に屏風で仕切ることになった。
一時、地方に出て豫章太守となるが、孫晧?の代に中央に呼び戻され、光禄大夫となる。
司馬昭?が呉に降伏勧告の使者を送ると、弘璆と共に魏への使者となり、職務を全うした。
司馬昭は紀陟の受け答えを称賛したが、ちょうど司馬昭が亡くなり、帰国を命じられた。
孫晧は、かつて孫和を迫害した者達を報復に流罪にしていたが、
紀陟は弁明の機会を与えたことが考慮され、特別に許されていた。

※没年は不詳だが、呉の滅亡前か

親愛:孫和、諸葛瞻?
※子の紀瞻は諸葛瞻と同名同字

張政

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4779233542粗忽地勢研究割拠

【チョウセイ】
呉の武将。呉末期の西陵督。
名将と評判だったが、西晋の杜預?の攻撃を受け、城外で迎撃するも大損害を出した。
張政は敗戦を恥じ、孫晧?に報告しなかった。杜預はこれを知ると、捕虜を西陵とは別の場所で解放し、
敗戦の事実を孫晧の耳に入れさせた。果たして孫晧は張政を解任して召還したので、杜預は呉がすっかり傾いたと判断した。
その後の消息は不明。

周興

生年登場没年死因
不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5665362058

【シュウコウ】
呉の武将。武威将軍。
280年1月、西晋の王渾?が呉征討の口火を切って呉に侵入した。
王渾軍は尋陽・賴郷など長江以北の呉の拠点をことごとく陥落させ、周興ら5人の将が捕虜となった。
その後の生死は不明。

留憲

生年登場没年死因
280不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6964404857改修城壁拡張割拠

【リュウケン】
呉の武将。劉憲とも。留平?の子か。
張政が杜預?の策略で失脚すると、後任の西陵督となる。
280年2月、西晋の王濬?軍の攻撃を受け、成據・鄭広と共に斬首された。

虞授(承卿)

生年登場没年死因
279不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4944755160学者政令徹底礼教

【グジュ(ショウケイ)】
呉の政治家。会稽郡余姚県の人。虞翻?と同族。子に虞基。
幼少より経書や史書を学び、大きな志があった。
広州刺史・広州督(都督?)を歴任した。
279年、郭馬?の反乱で、南海太守・劉略と共に攻め殺された。また、広州刺史・徐旗は逃走した。

『易経』の学問を大成し、時の人は「(経書を)音読しないと、虞生に見られるぞ」と謳ったという。

虞忠(世方)

生年登場没年死因
280不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6348725669人脈眼力政令徹底割拠

【グチュウ(セイホウ)】
呉の政治家・武将。虞翻?の五男。虞潭の父。
節操を守ると共に実行力があった。人物評価の才能があり、陸機の文才を見いだし、魏遷・王岐を評価した。
呉の末期に宜都太守となった。280年2月、西晋の王濬?の攻撃を受け、陸晏・陸景らと共に宜都城に
立て籠もったが落城時に殺害された。一説には自害させられたともいう。

張象

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6260373837水戦消沈水軍育成割拠

【チョウショウ】
呉の游撃将軍。
[演]呉の前将軍。西晋の王濬?を迎え撃つべく長江に布陣するが、俄に西北の風が起こり軍旗がことごとく倒れたのを見て、
兵士達は逃げ出した。そこへ王濬の水軍が進軍して来たので、石頭城で降伏した。
[史]『晋書』によると、孫晧は張象に1万の水軍で王濬を防がせた。しかし張象の軍勢は、王濬の軍旗を見るや降伏した。

※能力は『三國志Ⅸ』ベースで、統率・武力は-5。『三國志Ⅸ』では244年生まれの設定

徐旗

生年登場没年死因
自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4633486553

【ジョキ】
呉の広州刺史。
279年、郭馬が反乱を起こすと、同年8月に徐旗は郭馬に追い払われた。以降の消息は不明。

曾夏

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6765414655動員地域振興割拠

【ソカ】
交州の豪族。
交州南海郡で十年以上にわたって多くの私兵を抱えて独自勢力を築いていた。呉は曾夏をて手懐けようとたびたび官職や財物を送ったが心服しなかったという。
245年に呉の鍾離牧が南海太守として赴任すると、彼は曾夏に使者を送ってその気持ちを和らげつつ説得したので曾夏は呉に帰順し、以後は忠実に仕えたという。

親愛武将:鍾離牧

濮陽逸

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3943807870

【ボクヨウイツ】
兗州陳留?郡の人。濮陽興?の父。
戦乱を避けて江東に疎開し、陸瑁?と親交を得る。
長沙?太守に就任したことが記されている。

親愛武将:陸瑁

何典

生年登場没年死因
280?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5975302142

【カテン】
279年、郭馬が呉に反乱を起こすと従い、蒼梧を攻略した。
その後の消息は不明。

王族

生年登場没年死因
280?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5666483550堅牢地勢研究我道

【オウゾク】
王が姓、族が名。
279年、郭馬が呉に反乱を起こすと従い、始興を攻略した。
呉の広州牧の滕脩?が鎮圧に向かったが、攻め落とせないまま晋軍の攻勢が始まり、滕脩は晋軍と戦うため撤兵した。
その後の消息は不明。あるいは、王蕃の遺族だろうか。

呉述

生年登場没年死因
280?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5168404150

【ゴジュツ】
279年、郭馬が呉に反乱を起こすと従った。
郭馬は呉述を、勝手に南海太守に任命した。その後の消息は不明。

殷興

生年登場没年死因
280?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5675454645

【インコウ】
279年、郭馬が呉に反乱を起こすと従った。
郭馬は殷興を、勝手に広州刺史に任命した。その後の消息は不明。

張奕

生年登場没年
270年代頃(自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6166553459監守優柔地域巡回割拠

【チョウエキ】
孫呉の武将。
孫皓の時代に交州におり、孫皓に睨まれ交阯に流された楼玄の監視役となり、
さらに楼玄を部下として賊の討伐等に従事した。
孫皓からは密かに楼玄殺害の命を下されていたが、楼玄に敬意を抱いていた
張奕は殺害を果たす事ができずに亡くなった。
その葬儀の際に楼玄は自身の殺害命令を知る事になり自害した。
「江表伝」の記述では楼玄は張奕に下されていた命令を張奕の生前に
察して自害した記述であり、裴松之はこちらを支持している。

親愛武将:楼玄