みんなの新武将/孫呉(皇室・烈女)

Last-modified: 2023-03-31 (金) 01:20:49

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

孫呉(229~280)

呉郡の孫氏が江南に樹立した政権。
始祖とされる孫堅は袁術に属して董卓討伐に加わり、後に荊州攻略中に戦死した。
嗣子の孫策は袁術の僭称を機に自立して呉会地方を征服。
孫策を襲いだ孫権が荊州を接収した曹操を赤壁で撃退し、江南の独立と土豪に対する求心力を確立した。
南遷した名士にも政権に連なる者が多く、219年に劉備から荊州を奪い、229年には建業に拠って称帝した。
夷陵の役の前後を除いては概ね蜀と同盟して魏に当たり、江南開発による国力の増強を進めたが、
人口の中原回帰や山越の反抗などに苦しみ、孫権の晩年の内訌(二宮の変)が長期化したこともあり、
挙国的な軍事行動は年々困難を極めていく。
殊に山越の存在が呉の大患だった事は敵国である魏の識者にも指摘され、
土豪勢力の伸張もあって軍事は保守に偏り、蜀との連携も円滑を欠いた。
末期には魏の征蜀に呼応した交州の離叛や孫皓の集権化の失敗があり、280年に半ば自壊的に晋の南征軍に征服された。
物語的には地味ながらも、後の南朝の先駆け的存在であり、長い目で言えば現在の経済南遷の先鞭という非常に大きな意義を残した王朝であった。



皇室(宗室)

孫暠

生年登場没年死因
176以前自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5951593264召募粗忽軽率地域巡回割拠

【ソンコウ】
孫静?の長子。孫瑜?孫皎?孫奐?の兄。孫綝?孫峻?の祖父。
孫策の代に定武中郎将となり、烏程に駐屯していた。
孫策が暗殺されると独立を企て、会稽郡を乗っ取ろうとした。
しかし虞翻から孫権が人を率いることの理を説かれ、これを快く受け入れて軍を引き上げた。
その後、父の孫静?と共に責任を取って退官した。
兄弟や息子らはこの咎を受けず、呉の宗室として一繁栄した。

※孫静を一回り弱く、判断を誤ったため政治をさらに落としつつ、子らは許されたため魅力は高め。
 即座に独立を企て兵を率いる召募と、そそっかしさから粗忽。報告に速攻で踊るシステム的なイメージも併せて軽率。短慮ほどではない…?

孫紹

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5361617066教化政令徹底王道

【ソンショウ】
孫策?の子。
孫権が魏により呉王に封じられると、張昭?滕胤?・鄭礼らと共に周・漢の制を採取して朝廷の儀礼を撰定した。
呉王朝が成立すると当初は呉侯、その後上虞侯に任じられた。
孫権?が孫策に帝位を追号しなかった(孫策の諡は長沙桓王)のは、孫紹に皇位継承権が生じないようにするためという説もある。

※既に平均的なステータスが設定されていたが、統率武力魅力はそのままにしつつ滕胤一歩前程度に知力と政治を底上げ。
 個性に教化を追加。

孫泰

生年登場没年死因
234不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5851525557操舵水軍育成王道

【ソンタイ】
孫匡?の子で孫秀?の父。母親が曹操?の姪にあたるので孫策?孫権?の甥にして曹操?の又甥となる。
長水校尉に任じられている。234年の孫権の北伐に従軍するが、合肥で流れ矢に当たり戦死した。
ちなみに演義には登場しないが、何故か演義では孫匡?の婚姻相手が変えられているため演義設定だと孫堅?曹仁?の孫になる。

孫憲

生年登場没年死因
256不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義親愛嫌悪
6056403348怒髪惰弱三令五申名利王惇、孫峻孫綝

【ソンケン】
孫超の子。孫峻?孫綝?の従兄弟。
諸葛恪?暗殺に貢献したことを認められ、孫峻が政権を握ると右将軍に叙せられ9つの役所の統括を任されるなど厚遇された。
しかし孫峻が死に、孫綝が実権を握ると遠ざけられるようになった。
冷遇を恨んだ孫憲は王惇?と共謀して孫綝打倒を目指すが露見、自害を余儀なくされている。

孫拠

生年登場没年死因
259不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義親愛
5148604337補佐消沈工法改革割拠孫綝

【ソンキョ】
孫綽の子で孫綝?の弟。孫拠以外にも孫恩・孫幹・孫闓という弟がいる。
孫綝が孫亮?を廃立すると孫拠は兄の恩恵に与る形で右将軍に昇進、兄弟全員侯爵に叙せられ、近衛兵も握った。
しかし重すぎる権威は皇帝・孫休?に危険視されるようになり、丁奉?張布?らによって捕縛された。
丞相府の旗竿が折れたことで不吉の前兆を感知した孫拠だったがクーデターは防げず、滅族の憂き目に遭っている。

孫奉

生年登場没年死因
270不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4538505666動員地域振興王道

【ソンホウ】
呉の皇族。孫紹の子。孫策?の孫。上虞侯。※没年は270年
孫晧?の時代、左夫人(王氏)が亡くなると、孫晧は悲しみのあまり数ヶ月間人前に出て来なくなった。
そのため人々は孫晧は既に死んでいると思い込み、孫奮?か孫奉のいずれかが帝位に即くという噂が広まった。
これを聞いた孫晧によって、孫奮とともに誅殺された。なお、孫秀?の存在などからこの一件は274年のこととする説もある。

孫英

生年登場没年死因
254不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4034505267

【ソンエイ】
呉の皇族。孫登の次男。
兄の孫璠は早世したため、孫英が父の跡を継ぎ、呉侯に封じられた。
254年、孫峻暗殺を企てるが発覚し、自殺。封国は除かれた。
『呉歴』によると、孫峻が孫和を自害させたことに憤激した桓慮が、孫峻暗殺と孫英擁立を計画した。
陰謀は事前に発覚し、関係者は誅殺されたが、実のところ孫英は計画を知らず、巻き込まれただけだったという。

孫𩅦(𦯶)

生年登場没年死因
263265不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2423506457惰弱太学王道

【ソンワン(キツ)】
呉の皇族。孫休の嫡男。
孫休の即位後、262年に皇太子に立てられた。孫休は実名を避けやすくするため、
自分の子のために文字を創作し、4人の子に「𩅦」(ワン)・「𩃙」(コウ)・「壾」(モウ)・「𠅨」(ホウ)と名付けた。
263年、孫休が重体となり、口がきけなくなると、字を書いて丞相・濮陽興を呼び寄せ、孫𩅦を指して後事を託した。
しかし濮陽興・万彧張布は、年長の孫晧を帝位に推戴した。
孫晧が即位すると、孫𩅦を豫章王に封じた。265年、弟の孫𩃙と共に殺され、残りの2人の弟もまもなく殺された。

※能力は『三國志Ⅸ』準拠。「ワン」「キツ」は孫休の創作文字なので、他での使用例はほとんど無い。
「𩅦」はゲームの外字に用意されているが、「𦯶」は孫休が同音といっている「迄」で代用するとよいだろう。

孫謙

生年登場没年死因
266不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1110374052小心惰弱本草学割拠

【ソンケン】
孫和の三男。孫晧の異母弟。
孫休の時代に永安侯に封ぜられていたが、兄の孫晧の時代である266年に永安の山賊で呉の反乱を起こした施但により拉致されて強制的に反孫晧の御輿に祭り上げられた。
施但は丁固と諸葛靚により敗死し孫謙はただ一人馬車の中にいて捕らえられた後に自害した。
一説には孫皓により毒殺されたとも。

孫俊

生年登場没年死因
266不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5256605875明鏡鶴翼強化王道

【ソンシュン】
孫和の四男。孫晧の異母弟。
孫休の時代に騎都尉となった。
聡明で物事の道理に通じ、国中の評判は高かったが266年の兄孫謙と施但の反乱が起きた際に関与を孫晧に疑われて殺害された。

孫楷

生年登場没年死因
304自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5649586270特使動転水軍育成王道

【ソンカイ】
孫韶?の子で孫異?の兄。241年に孫韶?が没した際に後を継いだのが孫越(孫楷の弟で孫異?の兄)のため、長庶子だったと思われる。
父や弟と共に京口を守っていた。258年、宗正として中書郎の董朝?と共に帝位に就くのに難色を示した孫休?を説得する使者となっている。
孫晧?の代に武衛大将軍・臨成侯となり、孫越に代わり京下督を任せられる。しかし266年の孫謙を担いだ施但の乱に際し、すぐに討伐に向かわず勝ち馬に乗ろうとしたと告発され、
孫晧?から何度も京口に詰問の使者を遣わされることになり不安な日々を過ごすことになった。
276年、都に召し返された孫楷は宮下鎮において驃騎将軍に任じられる。しかし同格の都督であった孫呉皇族の孫壱?孫秀?が晋に亡命して重用された事を頼みにしたのか
妻子と子飼いの兵士数百人を引き連れて晋に亡命してしまう。彼らと同様に司馬炎?は孫楷を車騎将軍・丹陽侯に封じて厚遇した。
孫呉が滅ぼされると度遼将軍に格下げとなったが、孫秀?と違い西晋での動向の記述は残っていない。しかし世間的な名声は孫楷の方が高かったらしい。304年に没した。

孫慎

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7175534854長駆強奪侵略荒廃覇道

【ソンシン】
呉の陳南将軍。孫俊の子で孫河?の孫。274年、魯淑?の後任の夏口督となった。
277年、西晋の江夏、汝南に侵入し、焼き討ちして千家余りを略奪した。
その後の消息は不明だが、子の孫拯は西晋にも仕えている。

孫述

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5148222454消沈城壁拡張王道

【ソンジュツ】
呉の武昌督。孫鄰の三男。孫賁?の孫。孫震?孫歆?は弟。
280年、西晋の王戎?・羅尚・劉喬らが武昌に侵攻し、孫述・楊雍、江夏太守・劉朗らは降伏した。
なお陶濬?は当初武昌にいたが、途中で退却したようだ。

※能力は『三國志Ⅸ』では文官になっているが、武寄りに変更。『三國志Ⅸ』では231年生まれの設定。

孫瑾

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2022473449惰弱太学王道

【ソンキン】
呉の皇族。孫晧?の長男。269年、皇太子に立てられた。
280年、孫晧が西晋に降伏すると、孫瑾は司馬炎?によって中郎に任じられ、呉で王に立てられていた弟たちは郎中に任じられた。

列女

呉氏

生年登場没年死因
207?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3335747683胆力才媛諌止

【ゴシ】
孫堅?の第一夫人。武烈皇后。呉景の姉。
孫策?孫権?孫翊?の母である。他にも孫匡と一人の娘を産んだ。
呉氏は早くに父母を失ったため、銭唐に移住して弟と共に暮らしていた。
孫堅は、彼女が才色兼備であると伝え聞くと、妻として迎えたいと申し出たが、呉氏の親族は、身分の低さもあってか反対した。
しかし、彼女が自分の運命を受け入れる覚悟を決めたため、親族は孫堅からの申し出を受け入れ、婚姻を許した。
194年ごろになると長子の孫策が活躍し呉が台頭しつつあったが、孫策は短気な部分があったためささいなことで王晟や魏滕を殺そうとしたこともあったが、それを諌めた。
孫策が亡くなると孫権がその跡を継いだが、孫権がまだ若かったため、それを心配した呉氏は張昭と董襲を呼び出し、将来のことを相談する。
建安7年(202年)、官渡の戦いで袁紹を破り勢いのあった曹操が孫権の元に使者を差し向け、人質を送るよう命令した。
周瑜は、人質を送らずこのまま力を蓄えて天下の情勢を見極めるべきと述べ、呉氏もこれに同調した。また孫権に対し、周瑜を兄として仕えるよう命じた。孫権はこれに従った。
同年、呉夫人は死去した。亡くなる前に張昭らを招いて後事を託し、高陵(孫堅の墓陵)に合葬された。
『三国志』に注をつけた裴松之は、当時の会稽郡の貢挙簿の記録から、建安12年(207年)に死去したと断言している。

周徹

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
98535468

【シュウテツ】
周瑜の娘。孫登?の妃。
孫登の妃には芮玄の娘も正室として嫁いだとの記録があるものの、どちらが先に嫁いだのかは定かではない。

親愛武将:孫登

趙姫

生年登場没年死因
243自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
73747374諫止才媛文化史官太学割拠

【チョウキ】
呉の女官。別名虞貞節。潁川の出身で、東郡の虞韙に嫁いだ。後に呉に移り、夫は桐郷郡の県令となるが死別する。
しかし、その文才と才媛ぶりは既に宮廷まで知られており、孫権によって召し出されて女官として仕えることになった。
劉向の『列女伝』注解を行うなど、その著作は数十万字にわたったという。
後に孫権が公孫淵討伐を計画した際に諫めている。

朱佩蘭

生年登場没年死因
265不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義父親母親配偶者
2616525079慰撫地域巡回礼教朱拠?孫魯育?孫休?

【シュハイラン】
景皇后朱氏。朱拠と孫魯育の娘。孫権の命で孫休に嫁いだ。
孫峻暗殺未遂の容疑で母である孫魯育が処断されると、孫休にも累が及ぶ可能性があり夫と涙の別れをした。
結果的に孫休は建業出頭が功を奏して難を逃れたという。後に夫の皇帝即位に伴い262年に皇后立后。
夫の死後、遺言に基づき孫𦯶を擁立する万彧と、濮陽興、張布が「長沙桓王の再来」と期待する孫晧?の擁立で意見が分かれると
佩蘭は「孫呉を存続できるなら誰でもかまわない」と意見の述べなかった。
しかしこの委任措置は凶と出て孫晧によって太后の位を剝奪され、後に死に追いやられた。
佩蘭の訃報がもたらされた時、人民は深く悲しんだという。

※佩蘭の名は『老狐談歴代麗人記』より。孫休の正妻だが伯父と姪の間柄でもあるため、このゲームでは母:魯育、夫:孫休としての設定は不可能。

在野

魏翱(伯陽)

生年登場没年死因
151?221?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2518805275文化占術医術学者本草学4割拠

【ギコウ(ハクヨウ)】
後漢末の煉丹術士、道士。真人(仙人)と称された。会稽郡上虞県の人。魏朗の子か。
生没年は諸説あり、後漢の桓帝の時代(146-168)に活躍したとも、姓名は複数人の組織を指しているとも、老子を指しているともいう。
仕官することなく、道家を好んだ。丹薬の錬成を詩文にした『周易参同契』などを著した。
同書は煉丹術の古典とされ、また王弼による理論化前の初期の道教思想がうかがい知れるという。
同書では、毒性の強い鉛と汞(水銀)を重視したことから、丹薬を作ろうとして中毒死する者が後を絶たなかった。
また同書によると、錬成に失敗すると「亀が飛び蛇が舞う」現象が起きたといい、これはたまたま火薬を作ってしまったものと考えられている。
『神仙伝』によると、3人の弟子の前で犬に丹薬を飲ませ、自らも服用したが頓死してしまった。
実はこれは弟子を試した物で、犬と自身と服用した弟子は生き返り、2人とも仙人になったので、逃げ出した2人は後悔したという。

親愛武将:何晏裴秀ライザ

※名は翔とも。煉丹の過程で金の錬成も企図されたため、錬金術師(英:Alchemist、独:Alchimist)とされる場合もある。
錬金術との違いは、仙人になることと不老長寿が主目的であること。また、意図した発明ではなかったが、火薬の初出といわれている。