みんなの新武将/後漢

Last-modified: 2023-12-09 (土) 18:34:25

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です。

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします。

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です。
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります。

後漢(25~220)

東漢とも。漢の再興を旗頭とした、前漢景帝の後裔である光武帝によって樹立。
光武帝は新の王莽に対する抵抗を組織化するとともに、銅馬や赤眉など多くの農民叛乱勢力を自軍へ吸収、
洛陽を都に定めて漢朝を再興して36年までに全土を統一、内治の整備と荒れ果てた国土の復興に尽力した。
その甲斐あって次代・明帝、三代・章帝の時代には隆盛を迎え、対外的にも積極的な方針に転じて匈奴を大破。
和帝の時代には班超の目覚ましい活躍により西域諸国も帰属し、前漢最盛期と同様の威信を回復した。
しかし、和帝が幼少で即位したために外戚の竇一族が朝政に容喙し、これに対抗して和帝は宦官を重用。
和帝の存命時は有能且つ善良な宦官が用いられたため問題とならなかったものの、若くして和帝が崩御すると、
以降も幼帝が続出したことにより外戚の専横が繰り返され、それに対抗するために重用される宦官も次第に無能で貪欲な者が増えていった。
2世紀中頃には官僚と宦官による度重なる政争の結果、二度に亘る“党錮の獄”が発生し、朝廷は宦官派が主流となって求心力を失っていく。
霊帝の代には十常侍と呼ばれる徒党を組んだ宦官集団により悪政が蔓延し、各地で叛乱が続発。
その中でも最たる物が184年に起こった張角?を首領とした黄巾の乱であり、叛乱は全国に波及する。
これによる混乱に乗じて董卓?が首都洛陽を支配し少帝弁を廃位して殺害、この時点で後漢は事実上、統治機能を喪失した。
220年に魏王・曹操?が没すると後を継いだ曹丕?は献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位。およそ200年間続いた後漢王朝は滅びを迎え、三国時代へと突入することとなる。

※光武帝の功臣については雲台二十八将を参照。



皇帝(天子)

劉秀(文叔)

生年登場没年死因
BC657自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
100969896100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009410096100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
100949898100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009210098100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009298100100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
10090100100100神機神将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5

※別案1

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
100969896100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009410096100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
100949898100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009210098100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009298100100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
10090100100100神機闘将任才伏龍強運天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5

※別案2

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
100969896100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009410096100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
100949898100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009210098100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
1009298100100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5
10090100100100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民5

※別案3(中華統一後Ver. 43歳以降)

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
949096100100任才名声振興教化仁政神機妙算大虎雄略大器大徳斉射連弩鉄壁王道経世済民5
949096100100任才名声振興教化仁政八門金鎖深謀遠慮大器大徳斉射連弩混乱王道経世済民5

※別案4(三國志14準拠版)

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
100959694100神機闘将洞察強運仁政天下無双大器大徳急襲連弩混乱鎮静王道経世済民3
100929895100神将任才伏龍強運仁政神算鬼謀大器大徳突撃急襲連弩鎮静王道経世済民3

※別案5(信長の野望・烈風伝Ver.)

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
98899596100神機闘将伏龍強運仁政天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神機闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神機任才伏龍強運仁政天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神機任才伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神将闘将伏龍強運仁政天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神将闘将伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神将任才伏龍強運仁政天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3
98899596100神将任才伏龍掃討堅守天下無双神算鬼謀大器大徳急襲連弩鎮静王道経世済民3

『信長の野望・烈風伝』の「諸王の戦い」に登場。
采配(≒統率)、戦闘(≒武力)、智謀(≒知力)、政治は同様。厳密には采配=部隊防御力、戦闘=部隊攻撃力。
上記の様に三国志14とは能力システムが異なる上、20年以上前の能力査定となるため参考にする際は注意が必要です。

※その他候補となる特技:神威・神眼・疾走・胆力・威風・慈悲。

※別案6(三国志14、李世民とチンギスハーンをベースに。合計能力値456以内に収める)

統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策
9981909293神機洞察求心仁政強運大器大徳神算鬼謀突撃急襲連弩鎮静王道経世済民

【リュウシュウ(ブンシュク)】
後漢の創始者。世祖・光武帝。
中国史上屈指の名君の一人であり、唯一滅亡した王朝の再興に成功した。
その器量人徳を慕って多くの優秀な人材が集い、これら家臣は雲台二十八将と呼ばれる。
即位前後を問わず、戦場では軍頭で自ら得物を手に戦う勇士であり、度々諫言された。
赤眉軍を撃破して後、各地の群雄を次々と打倒。最後に蜀の公孫述を滅ぼし再統一に成功。
晩年は戦争を忌避して民衆の安寧を重んじ、疲弊した中華の復興に全力を尽くし、封禅の儀を実施。
その翌年に崩御。創業を為した皇帝には珍しく、統一後に功臣を粛清することはなかった。

※補足
世に名高い「昆陽の戦い」では自ら数十人の敵を討ち取る武勇を発揮、一万の軍勢で百万と号する新軍(実数四十二万)を破った。
また遠征中の将軍から届いた報告書を読むだけで、自軍の勝敗や敵将の寝返りを予知して的確な指示を下すなど、智謀においても図抜けていた。

劉荘(子麗)

生年登場没年死因
2875自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
7064929896任才洞察名声振興文化深謀遠慮明察秋毫混乱鼓舞治療王道経世済民3

【リュウソウ】
二代皇帝、顕宗・明帝。
光武帝の四男。母は陰皇后。元の名は劉陽。
劉彊の皇太子辞退に伴い、新たに皇太子に立てられ、名を劉荘に改める。
皇帝即位後は光武帝の施政方針を踏襲しつつも対外政策では積極策に転じ、
西羌、北匈奴を撃破し、西域都護を設置するなど領土を拡大し西域進出を開始した。
黄河の治水事業でも多大な成果を収め、以後800年以上も黄河では大規模な氾濫が起こらなかった。
文化面においては蘭台で史書編纂など修史事業を開始。また光武帝の功臣28人を雲台に描かせ顕彰した。

后妃(皇后・妃嬪)

陰麗華

生年登場没年死因
564自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
2810848098応援傾国楽奏慈悲寡欲天衣無縫鼓舞鎮静王道本草学5

【インレイカ】
光武帝の皇后、光烈陰皇后。荊州南陽郡の豪族陰氏の娘。陰識の妹、陰興の姉。
明帝の皇后である馬皇后と共に史上屈指の賢后として後世に称えられた。
幼少より容姿端麗にして聡明な佳人として評判で、若き日の光武帝も彼女に憧憬を抱いており、
長安に留学していた頃には「仕官するなら執金吾、妻を娶らば陰麗華」と公言していたという。
後に光武帝に嫁ぎ、二代皇帝となる明帝(劉荘)を初めとする多くの子女を産み育てる。
皇后となってからも質素倹約に努め、外戚である自身の一族が政治に関与しないよう図り、夫を大いに助けた。

郭聖通

生年登場没年死因
52自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
3218747586応援富豪

【カクセイツウ】
光武帝の皇后、光武郭皇后。冀州真定国の名族郭氏の娘。真定王・劉楊の姪。郭況の姉。
光武帝と真定王・劉楊の友好関係構築のため光武帝に嫁ぎ、寵愛を受けて多くの子女を産み育てる。
光武帝の即位後には既に男児を産んでいたことや陰麗華の辞退もあり皇后に立てられた。
しかし、陰麗華に対する光武帝の寵愛や自身への寵愛が衰えたことに不満を抱く様になり、
自身が産んでいない皇子や皇女への適切な教育が出来なくなったため、遂には廃后とされた。

※補足
一部の創作では光武帝と不仲であるように描かれていたりするが、陰麗華と同数である五人もの皇子を出産している。
また廃后となった後も中山王太后、次いで沛王太后という過去に前例の無い位(通常は皇太后のみ)を授けられており、
自身が産んだ五人の皇子と共に北宮で平穏に暮らせるように取り計られる等、陰麗華には及ばぬものの寵愛を受けていた。
叔父・劉楊の謀反と廃后を関連付けている作品もあるが、廃后となったのは叔父の謀反から15年も後であり、強い影響があったとは考え難い。

馬氏

生年登場没年死因
4079自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
358808295応援才媛節約慈悲寡欲鼓舞治療鎮静王道歳出改善5

【バシ】
明帝の皇后、明徳馬皇后。後漢草創期の功臣・馬援の娘。
光武帝の皇后である陰皇后と共に史上屈指の賢后として後世に称えられた。
幼くして両親と兄を喪い、十歳にして大人同然に家や使用人を管理し、周囲の人々を感嘆させた。
後に従兄の馬厳が推薦したことにより、当時皇太子であった明帝の後宮に入る。
聡明で慈悲深く礼節を弁えていたことから陰皇后(陰麗華)の寵愛を受け、明帝の即位後には皇后とされた。
長身で美しい髪を持ち、質素倹約に努め、易経や春秋等の経書を読むことを好んだ。

宗室(皇族)

劉縯 (伯升)

生年登場没年死因
23不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
9490777094掃討驍将威風果敢直情猛虎爪牙急襲激励大喝罵声投石王道三軍強化3

【リュウエン(ハクショウ)】
新末の群雄。光武帝の長兄。
王莽の治世の末期に、荊州南陽郡で反新の活動を行った舂陵軍の頭領で、
鄧晨を新野で、光武帝、李通、李軼を宛で挙兵させ、自身は舂陵で挙兵。
緑林軍等の叛乱勢力と連合軍を組み、小長安聚の戦いでは敗北するも泚水の戦いで大勝。
皇帝擁立が議論された際は劉玄に盟主の地位を譲り大司徒となり、宛を包囲し攻略した。
後、名声を恐れた朱鮪と李軼の画策で、配下の勇将劉稷もろとも誅殺された。
『三国志』で著名な劉備は劉縯の末裔という説がある。

劉稷

生年登場没年死因
23不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
8194604570勇将豪傑怒髪果敢癇癪鎧袖一触突撃斉射大喝衝車我道魚鱗強化5

【リュウショク】
新末の武将。劉縯の同族。
劉縯が率いる舂陵軍の部将で、敵陣を何度も陥落させ、
その猛将振りは「その勇は三軍に冠たる」と称された。
劉縯が軍の分裂を避けるべく劉玄に皇帝の地位を譲ると、
「元々蜂起を画策したのは劉伯升兄弟だ。劉玄が何をしたというのだ」と怒って言い放った。
この言が更始帝一派に報告されると、朱鮪の画策により将軍の位を授けられる。
劉稷はこれを拒否したが、これが謀反の口実とされて捕縛され、劉縯もろとも誅殺された。

劉彊

生年登場没年死因
2558自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
2218757887慈悲名声富豪寡欲虚弱王道

【リュウキョウ】
東海恭王。光武帝の長男。母は郭皇后。
26年に皇太子に選ばれるが、母の廃后に伴い自ら皇太子の座を明け渡した。
皇位継承争いをすることなく地位を降りた謙譲な行動に対し光武帝、明帝は並外れた厚遇で報いた。
後に東海王となり58年に死去。葬儀も特別なものであったという。後漢末期の劉虞?は彼の子孫にあたる。

姻戚関係の臣下

鄧晨(偉卿)

生年登場没年死因
49自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
7458768785運搬調達振興農政工面王道運搬開発5

【トウシン(イキョウ)】
新末後漢初の将。光武帝の義兄。鄧奉の叔父。
劉縯らの挙兵後、食客たちを率いて合流したが、
同年末の小長安聚の戦いで漢軍は敗北、妻の劉元と三人の娘を失う。
更始帝が即位すると、光武帝と共に頴川を攻略し常山太守に任命された。
王郎が挙兵すると、光武帝に鉅鹿で合流し王郎と戦うことを願い出るが、
後方支援を命じられ、常山に帰還して支援活動に従事した。
銅馬征伐では千人の精鋭弓兵を派遣。絶やすことなく物資の補給を行った。
後、中山・汝南?太守を歴任し、優れた治績を残した。

李通(次元)

生年登場没年死因
42自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
8269869291工面改修慰撫富豪寡欲王道城壁拡張5

【リツウ(ジゲン)】
新末後漢初の将。光武帝の義弟。
南陽の豪商の出身だが、王莽の統治を嫌悪し、棄官して南陽の劉氏を支援し反新活動に従事。
だが、?での挙兵計画が露見してしまい、辛うじて脱出したが、一族は悉く処刑されてしまう。
更始帝の即位後は大将軍として荊州を鎮撫。後、光武帝に招聘され皇宮衛尉、次いで大司農となる。
光武帝の出征時は首都・洛陽?の留守を任され、民心慰撫と首都再建に尽力。
後に前将軍へ転じ、王覇らを率いて延岑や公孫述の軍を撃破。南陽郡で屯田を行う。
光武帝の縁者で在りながら、謙虚で慎み深く、政軍両面で信頼された。
没後は明帝によって二十八将と共に雲台で顕彰された。

陰識(次伯)

生年登場没年死因
59自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7565768485明鏡堅牢監守眼力寡欲政令徹底王道

【インシキ(ジハク)】
新末後漢初の将。陰麗華の異母兄で光武帝の義兄。
更始帝の下で行大将軍事となるが、赤眉軍の侵攻に際して南陽?の鄧奉に保護を求め客将となった。
後、陰麗華が洛陽?に迎え入れられると、共に招聘され光武帝に仕えた。
天下平定後、論功行賞を親族であることを理由に辞退し賞賛され、
朝廷では言葉を尽くし正論を唱えるが、朝廷から離れて賓客と話すときは国事を一切話題にしなかった。
光武帝から敬重され、他の皇族・親族に手本とするよう諭した。
任用した吏員は人物揃いで、多くが公卿や校尉になったという。

來歙(君叔)

生年登場没年死因
35不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8864938892名声輿望仁政監守策士精練策数経世済民王道

【ライキュウ(クンシュク)】
新末後漢初の将。光武帝の従叔父。劉嘉の義兄。来褒の父。来稜の祖父。
最初更始帝に仕えるが、重用されず辞去し、義弟の漢中?王・劉嘉の陣営に移る。
劉嘉が進退窮まると光武帝への臣従を進言し、君臣共に光武帝に拝謁し歓迎された。
西涼の豪族の隗囂を説得する使者の任務を務め、子の隗恂を人質として光武帝の下に送らせた。
隗囂の造反後は側近の王遵を引き抜き弱体化させて隗囂の遺児・隗純を滅ぼし、襲来した北方民族をも撃退。
戦後、戦災に苦しむ隴右の民に公庫を開き救済に努めたが、蜀攻略中に環安の刺客に暗殺された。

馬援(文淵)

生年登場没年死因
BC1449自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9687968190矍鑠神将長駆屯田論客万馬奔騰破竹之勢急襲激励混乱罵声文事武備王道

【バエン(ブンエン)】
後漢の将。茂陵の人。戦国趙の馬服君(趙奢)の裔という。馬騰?馬超?親子の祖先に当たる。
北地で牧馬・私兵を擁して王莽に登用されたが、後に隴西の隗囂に属し、光武帝への帰属を勧めた。
隗囂はまもなく公孫述に通じて造反すると、光武帝に従い羌・隗囂平定に貢献した。
交趾の徴姉妹が太守の横暴に抵抗して挙兵すると伏波将軍に任ぜられ、二年で鎮圧して新息侯とされた。
以後も匈奴・烏桓撃退に転戦したが、武陵五渓蛮の討伐に苦戦する中で病に罹り陣没。
寵臣梁松の讒言で失脚するが、冤罪は晴れて名誉は回復した。娘は後に明帝の皇后になり、その賢明さを称えられた。
晩年、光武帝に出陣を止められた際に元気な様を見せて「矍鑠たるかなこの翁」と評され、「矍鑠」という言葉の由来とされる。

竇融(周公)

生年登場没年死因
BC1562自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9069859091求心名声輿望仁政親羌経世済民割拠

【トウユウ(シュウコウ)】
新末後漢初の政治家。司隷右扶風平陵県の人。
新の王匡に従い赤眉軍の討伐に従軍する等、新の武将として功を挙げる。
新滅亡後は更始帝に投降し、再び頭角を現して張掖属国都尉に就任。
更始帝の死後は現地の人々に推戴され河西五郡の統領として割拠。
善政を布き、度々侵攻してくる匈奴を撃退して河西に平穏を齎した。
後に従属先の隗囂とは訣別し光武帝への帰属を選択、涼州牧に任ぜられた。
この後は光武帝の隗囂親征に従い、多くの城を投降させている。
後に大司空に上り、他の功臣を遥かに凌ぐ待遇を得た。
没後は明帝によって二十八将と共に雲台で顕彰された。

竇固(孟孫)

生年登場没年死因
88自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9285768084

【トウコ(モウソン)】
後漢の武将。竇融の甥。光武帝の娘を娶る。
中郎将・騎都尉に任じられるが、従兄の竇穆の罪に連座し十年謹慎する。
明帝が北匈奴討伐を企図すると軍に復帰。
酒泉から出撃して天山山脈まで遠征し、北匈奴の呼延王を撃ち破る。
巴里坤湖まで追撃した後に哈密(クムル)に駐屯し、班超を西域諸国に派遣して後漢に帰属させた。
玉門から再遠征を行った際には白山を破り、車師を降し、数年間西域に留まって慰撫を行った。
章帝の代には大鴻臚、光禄勲、衛尉を歴任。高位に就いて富貴を得るが、謙虚に慎ましく暮らし、人々に施しを行った。

その他の臣下

王常(顔卿)

生年登場没年死因
36自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
9092766582剛将堅守胆力金剛一心豪気衝天奮戦突撃激励鉄壁衝車王道軍制改革5

【オウジョウ(ガンケイ)】
新末後漢初の将。
弟の復仇の罪で逃亡中に緑林軍に参加し、分派の「下江軍」の頭領になるが、
新軍に大敗し、断金の交わりを結んだ劉縯と連合。泚水の大勝に貢献した。
昆陽の戦いでは光武帝と協力し新の主力を殲滅。
長安の更始帝が赤眉に敗死すると、劉縯の弟である光武帝に帰順する。
光武帝から山桑侯・漢忠将軍に任命され、荊州・華北を転戦。
更には光武帝の親征に従って蘇茂・龐萌を討伐し力戦奮闘した。
後、横野大将軍に任命され、長安?で隗囂に備え、高峻を安定?で破り羌軍を平定した。
没後は明帝によって二十八将と共に雲台で顕彰された。

耿況(侠遊)

生年登場没年死因
36自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
8578808186疾走堅守召募慰撫医術王道本草学4

【コウキョウ(キョウユウ)】
新末後漢初の上谷太守。耿弇、耿舒、耿国、耿広、耿挙、耿覇の父。司隷扶風茂陵県の人。
河北に光武帝が来た際、王郎が割拠すると寇恂らの進言を容れて新から光武帝に帰順。
呉漢らが率いる漁陽の突騎兵と共に光武帝の援軍に向かわせた。
この来援を契機に、光武帝は王郎を滅亡させることに成功する。
流軍の五校が二十万の大軍で上谷に来寇すると、子の耿舒と協力し撃退した。
漁陽太守の彭寵が反旗を翻すと誘いの使者を斬って断り、上谷を守った。
六人の息子は皆、青紫の綬を授かる要職に就くという栄誉を得た。

耿舒

生年登場没年死因
59自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
9285927076洞察疾走地利機略妙算機略縦横急襲連弩業火罵声投石王道地勢研究5

【コウジョ】
新末後漢初の将。後漢草創期の功臣の一人。上谷太守・耿況の子、耿弇の弟。
流軍の五校が上谷郡を攻撃してくると、耿舒は父の耿況と協力して撃破し、
叛逆した彭寵が匈奴の軍と来寇すると、これを撃退して匈奴の二王を斬り敗走させた。
さらに父と共に軍都に逃げ込んだ彭寵軍を破り軍都を奪還し、この功により牟平侯に封じられた。
後、馬援の指揮下で武陵五渓蛮の討伐に参加し、馬援の失策と病没により苦戦を強いられるが乱を平定した。
常勝将軍の兄に劣らぬ知略を持った名将であった。

祭肜(次孫)

生年登場没年死因
73不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9093858889

【サイユウ(ジソン)】
後漢初期の将。祭遵の従弟。
三百斤の強弓を扱う膂力があり、容貌雄偉な外見に質厚重毅な為人だった。
鮮卑が侵略した時には自ら敵陣を陥落させ、三千余の首級と数千頭の馬を獲得した。
さらに外交戦略で鮮卑を帰属させて匈奴を討たせ、匈奴の弱体化に成功する。
烏桓が上谷を侵犯した際にも鮮卑に討たせて鎮圧した。
恩信ある異民族統治は声望が高く、高句麗、濊、貊、倭なども朝貢に訪れている。
明帝の代に北匈奴の征伐に赴くが、南匈奴の左賢王に欺かれて会敵できず、
軍法に従って怯懦を理由に獄に下され、羞恥心から吐血死した。

卓茂(子康)

生年登場没年死因
28自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2418828690名声教化農政占術学者地域振興王道

【タクモ(シコウ)】
前漢末から後漢初の政治家。荊州南陽郡?県の人。元帝の代に長安?に遊学。
『詩経』『礼経』、算法、暦象に精通し通儒と評され、寛仁・恭愛な人柄で、郷里の旧友から敬愛された。
密県の令として民心の教化と勤務に精励し、平帝の代の蝗害も密県は免れた。
後、王莽の命で農業・養蚕業に従事すると、人民から泣いて見送られ、任地に赴く。
更始帝の即位後に長安に入城したが、老年のため帰郷。光武帝からも謁見を賜ったが、既に七十余歳だったという。
没後は明帝によって二十八将と共に雲台で顕彰された。

伏湛(恵公)

生年登場没年死因
37自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6456869589諌止名声慰撫学者寡欲太学王道

【フクタン(ケイコウ)】
前漢末、後漢初の政治家。徐州琅邪郡東武県の人。
名儒学者だった父の学問を受け継ぎ、数百人に教授する。
前漢、新に仕え、更始帝が立つと平原?太守となる。
門下督が起兵を唆すと即座に斬り、民を心服させた。
光武帝が即位すると招聘され、旧制度の制定を担当した。
大司徒の鄧禹に宰相の才能と評され、鄧禹出征中の留守を預かり、
鄧禹が赤眉軍に敗れ辞任すると後任の大司徒となる。
光武帝の漁陽親征を諌め、礼楽の政化を唱えて郷飲酒礼を施行した。
張歩親征の留守を預かるが、高廟での蒸祭で起きた論争を報告しなかったため罷免された。

侯霸(君房)

生年登場没年死因
37自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
7032879992王佐名声法律輿望慰撫王道政令徹底5

【コウハ(クンボウ)】
前漢末、後漢初の政治家。司隷河南尹密県の人。
九江太守の房元に師事し、「穀梁春秋」を修める。
新代に隨県宰となって賊を討伐し、執法刺奸となると憚ることなく糾弾を行う。
淮平大尹となって善政を敷き、王莽死後も淮平の安定を保つ。
更始帝に招聘されるも民が使者に懇願したため、璽書を渡さずに還った。
光武帝に招聘され、尚書令となり数少ない旧制に精通した人物として、
旧制の中から善政で有益な法律を上奏し、施行させた。
伏湛の後任の大司徒となり、明察守正の態度で国家を支えた。
侯霸が没すると、光武帝は深く痛惜して自ら葬儀に参列した。

馮勤(偉伯)

生年登場没年死因
56自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
6568849786振興農政能吏工面仁政王道兵站改革5

【フウキン(イハク)】
後漢初の政治家。冀州魏郡繁陽県の人。身長8尺3寸(197cm)の偉丈夫。
はじめ魏郡の功曹となり、忠誠心と才能を太守の銚期に認められ推挙される。
給事尚書となると兵糧の調達に精勤し、光武帝から「良吏なり!」と称賛され、
諸侯の封地を任されると適正且つ公平であったため、諸侯からは全く不満が出なかった。
これにより光武帝からは益々重用され、その後は尚書僕射、尚書令、大司農、司徒(大司徒から改称)を歴任。
三公が罪により辞職・解任される事例が多かったが、職務を全うして称賛され、在官のまま没した。

趙憙(伯陽)

生年登場没年死因
BC380自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法主義政策Lv
8170859089胆力規律慈悲名声慰撫王道三令五申5

【チョウキ(ハクヨウ)】
後漢初の武将、政治家。荊州南陽郡?県の人。
更始帝に抵抗していた舞陰・穎川の平定に貢献し、更始帝より「名家の馬」と称賛される。
その後、光武帝や王常と共に昆陽の戦いに参戦し軍功を上げた。
更始帝が赤眉軍に敗れると武関に逃げ、丹水で更始帝の親族を助け帰郷させた。
後に光武帝に仕えると未定の地域へ派遣され、簡陽の城門を開き、平林の賊を平定した。
懐県や平原では、義行を奉じて奸悪を誅する治績を上げる。南匈奴が降ると、幽・并州の領域を定めた。
封禅の挙行を上奏し、光武帝や明帝の葬儀を取り仕切り、章帝の代に没した。