みんなの新武将/後漢末~三国

Last-modified: 2023-04-16 (日) 19:09:19

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

後漢末(184~220)

後漢第12代の霊帝は中常侍の張譲を阿父と尊称して宦官に政治を一任し、
自身は蓄財を好んでしばしば売官を行い、宮殿造営などの大造作を行った。
184年に起こった道教的農民叛乱“黄巾の乱”は河北全域に拡大し、
黄巾軍鎮圧の過程で各地に軍閥が割拠した事から、後漢は事実上滅亡した。
朝廷は兗州軍閥の曹操に支配され、曹操の子の曹丕によって220年に簒奪される。



皇帝・皇室(宗室)

劉宏

生年登場没年死因
156168189自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4523375580使役徴収人脈悪名虚弱

【リュウコウ】
後漢第12代皇帝。
中常侍の張譲を阿父と尊称し宦官に国政を一任し、自身は蓄財を好み、しばしば売官を行った。
その金銭は禁軍である西園八校尉の創設に充てられた他は趣味である宮殿造営などの大造作に消えたとされる。
しかし、一方で何進や蓋勲のような有能な人物も取り立てており、
何進は黄巾の乱について近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、兵器を修繕し軍備を整えたり、密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げた。
蓋勲の言葉には厳しいものも多かったが素直に受け入れていた。
死後、孝霊皇帝(霊帝)と諡された。「霊」は「国を乱したが自分の代で滅ぼすほどでは無かった」という意味である。

劉弁

生年登場没年死因
173?188190不自然死

通常版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
437575小心惰弱

後漢書版

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4413645982詩想胆力

【リュウベン】
三国志演義やら横山三国志やら蒼天航路では、ボンクラ扱いされているが、実際はそうでない可能性が。
その理由として、『後漢書』皇后紀下及び『後漢書』本紀では、
帝を廃されてから、弘農に董卓の兵が来た際に劉弁は少しも恐れず、妃や妻達を集めて別れの酒宴を開いたとある。
そこで、劉弁は、妃の唐妃と歌を詠みあい、最期には
「君は皇帝の妻だ、どうか誇りを持ち、吏民と再婚などしないでくれ、では体を大事にするんだぞ」
唐妃にこう言い残すと董卓の兵に連行され、生きて戻ってこなかったという哀しい話があるため。
さらに言うと唐妃は、彼の最後の話をしっかり聞いて「吏民と再婚するな」という遺言を頑なに守り、父の持ってきた再婚話を断っている。
これを見る限り、三国志演義等の劉弁と後漢書の劉弁は全くの別人としか思えないほど。

劉協(伯和)

生年登場没年死因
181189234自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5411697592

【リュウキョウ(ハクワ)】
後漢の第14代皇帝。献帝。霊帝の次子。母は王氏。
在位189~220年。
[演]霊帝が死に、少帝が即位すると、陳留王となる。
間もなく董卓に擁立されて即位し、長安への遷都を強行された。
董卓の死後は李傕に支配されるが、長安を脱して曹操の保護を受け、許昌に移る。
以後、政権を曹操に掌握され、たびたび曹操の討伐を図るが、いずれも失敗。
220年、魏王・曹丕に禅譲を迫られ退位。山陽公に封ぜられ、後漢は滅亡した。
[史]母の王氏は何皇后に殺され、董太后に育てられた。
男子は劉馮・劉熙・劉懿・劉邈・劉敦の5人の名が判明しており、他に早世した太子と、伏皇后の子で曹操に殺された2人がいた
(片方は太子と同一人物の可能性あり)。女子は曹皇后の子である劉曼の他、
曹丕の側室に献上した2人がいた。
また、董貴人(董承の娘)が胎児を身ごもっていたが、生まれる前に母もろとも曹操に殺されている。
死後、山陽公は太子の子(劉協の孫)である劉康が継いだ。

※参考 三國志11の逆賊討伐戦(決戦制覇)Ver. 

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5411696582

劉寵

生年登場没年死因
197不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6078635875遠矢調練堅守短慮連弩斉射牽制雁行強化我道

【リュウチョウ】
後漢の皇族であり陳国の王。諡号は愍王。
173年に前任の陳国相と結託して天神を祭り不道を働いたと現職の陳国相である師遷に訴えられた。
霊帝は前年に別の国王を誅していたこともあり、黄郎君を祭り長寿を願っただけだとして結局その罪は不問とされた。
弩射に長け、十発撃てば十発同じ場所に当たった。
黄巾の乱が起こると数千の弩を揃えて出陣。賊はあえて近寄らず、10万を超える人民が彼に身を寄せた。
董卓?の乱でも兵を率いて陽夏(陳国)に駐屯して輔漢大将軍を自称した。
袁術?曹操?に敗れて寿春?に来ると糧食に困り援助を求めてきた。
国相の駱俊はこれを拒絶したため袁術は食客を送って劉寵と駱俊を殺害した。

劉続

生年登場没年死因
184不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1211324142小心惰弱縦横術王道

【リュウショク】
後漢の皇族。安平王。劉得の子。
152年、父の死により王位を継いだ。
184年、黄巾の乱が起きると、広宗で黄巾軍の捕虜となった。安平国から身代金を払って解放されたが、
劉続の処分が問題となった。安平相の李燮は、「聖朝の名を辱めた」と劉続を非難し、
王位に復帰させてはならないと主張した。その時は李燮の意見は退けられ、安平王に返り咲いた。
しかし、その年の9月に、捕虜の件が「大逆不道」として誅殺され、安平国は廃止された。

劉贇

生年登場没年死因
207不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
911353150

【リュウイン】
後漢の皇族。河間王。河間孝王・劉開の子孫で、劉康の子。子に劉開。
父の死により王位を継いだ。
207年11月、黄巾残党の徐和・司馬倶らに殺された。徐和らは、曹操配下の夏侯淵に討たれた。
子の劉開が跡を継いだが、曹丕が魏皇帝に即位すると、崇徳侯に降封された。

※漢魏革命時点で残っていた後漢の諸侯王は、一律に崇徳侯に降封されている。
ただし『後漢書』では、献帝の皇子で王に封じられていた者は列侯に降封されたとある。
崇徳侯と列侯では、列侯の方が格上ということだろうか。

劉熙

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1310453652

【リュウキ】
後漢の皇族。済陰王。献帝の皇子の一人。
212年9月、献帝の四人の皇子の、劉熙が済陰王に、劉懿が山陽王に、劉邈が済北王に、劉敦が東海王にそれぞれ封じられた。
『山陽公載記』によると、巴郡にいた許靖は「『(『老子』あるいは『逸周書』より)これを合わせようとする時は
必ず一旦その威を張らせ、これを奪おうとする時は必ず一旦それを興す』。それはまさに孟徳(曹操)のやっている事だ」
と評した。曹丕が後漢を簒奪したのは、その8年後のことであった。劉熙ら4人はそれぞれ列侯に降封された。

劉熙

生年登場没年死因
216不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3015363947

【リュウキ】
後漢の皇族。琅邪王。琅邪王・劉容の子で、光武帝(劉秀)の十一男・琅邪孝王劉京の六世の孫。
192年、劉容の死で琅邪国はいったん廃止されていたが、206年、曹操の献策で叔父・劉邈の献帝への忠誠を理由に、
劉熙に琅邪王を再興させた。216年、陰謀を企て、江東(の孫権の元)に渡ろうとしたとして曹操に誅殺され、琅邪国は廃止された。

※献帝の皇子とは別人。

宦官

張譲

生年登場没年死因
135?189不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
121846624徴税言毒高慢惰弱強欲縦横術名利

【チョウジョウ】
十常侍の筆頭宦官。霊帝からの寵愛を受け、我が父とまで称された。
黄巾の乱では宮廷において乱の原因として挙げられ、黄巾党との内通も露見したが、
賄賂や讒言を駆使して自らの権力を保った。
だが霊帝が没した後に外戚として権力を得た何進と対立し殺害したことで、
袁紹袁術らからの反攻を受け多数の宦官が死亡。
張譲は劉弁・劉協を連れて逃亡したが、盧植らの追撃を受けて入水自殺した。

親愛武将:蹇碩
嫌悪武将:呂強、張鈞、何進

蹇碩

生年登場没年死因
189不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2566313019召募高慢直情軍制改革名利
2573293019召募高慢直情軍制改革名利

【ケンセキ】
霊帝期の宦官。演義では十常侍の一人に数えられている。
宦官ながら身体壮健で武勇に長けるとされ、西園八校尉の筆頭に任じられている。
霊帝が崩御すると劉協を立てるべく何進の排除を図るが返り討ちにされてしまった。

※唯一登場する「11」では、能力値が「16・7・78・62・18」と極端な政治型に設定されている。

呂強(漢盛)

生年登場没年死因
184?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
113667750諌止寡欲政令徹底王道

【リョキョウ(カンセイ)】
霊帝期の宦官、中常侍。河南尹成皐県の人。都郷侯の封爵を辞退し、霊帝にしばしば諫言するなど、硬骨漢で知られた。
蔡邕が宦官の害を主張して死刑になりかかった時には、蔡邕の無罪を主張して減刑させている。
黄巾の乱が起きると、皇甫嵩は党錮の禁を解き、討伐のために霊帝の資金と馬を提供するよう献策した。
呂強は霊帝に方策を問われ、「もし党人が黄巾と手を組めば、取り返しの付かないことになります」
「左右の貪婪な者を誅殺し、党人に大赦を行い、刺史や郡太守に取り立てるべきです」と皇甫嵩に賛同した。
その結果、党錮の禁を解除し、黄巾討伐に起用することになった。
しかし、中常侍の趙忠と夏惲に「呂強は党人とつるんで、『霍光伝』(霍光は前漢で皇帝廃立をした人)を読んでいます」と讒言され、
呂強は逮捕される前に自害した。さらに、趙忠と夏惲によって呂強の一族も処罰され、遺産も没収された。

※没年が明記されていないため、廃立の讒言は霊帝では無く、少帝弁を指した可能性もある。

一般臣下(主に中央官)

張鈞

生年登場没年死因
184不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2334706866
2334576866諫止政令徹底王道

【チョウキン】
後漢の郎中。黄巾の乱が起きると、上書して「張角?に万人が味方しているのは、
十常侍が人民から掠奪しているのに、民衆は不平をいうことができないからです。
十常侍を斬って天下に謝罪すれば、乱は自ずと消えるでしょう」と述べた。
霊帝は十常侍を信用して、「こいつは真の狂人だ」と張鈞を非難した。
さらに、十常侍は張鈞が張角と内通していると誣告し、張鈞を自害に追いやった。
しかし、その後に十常侍に張角の内通者がいたことが発覚した。
『演義』では、黄巾討伐の褒賞を得られなかった劉備?三兄弟のために、霊帝に掛け合っている。

嫌悪武将:張譲、蹇碩

※能力は『三國志Ⅵ』参考。ただし知力は少しマイナス

張超(子並)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5134726563文化鶴翼強化王道

【チョウチョウ(シヘイ)】
後漢末の将。河間郡鄭県の人。
同時代に活躍した広陵太守の張超?とは別人。
前漢三傑の1人である張良?の末裔と言われ、
漢書と後漢書によると直接の祖は張千秋(張良の嗣子の張不疑の玄孫)だという。
車騎将軍の朱儁の別部司馬として黄巾党の乱の鎮圧に従軍した。
草書の達人で、賦・頌などの19篇を残している。

陳寔(仲弓)

生年登場没年死因
104123187自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2114808892名声慰撫人脈寡欲地域振興礼教

【チンショク(チュウキュウ)】
後漢末の政治家。魏の政治家の陳羣?の祖父。また玄奘三蔵や小説家の陳舜臣の祖先ともいわれる。
非常に清廉潔白な人格で知られ、多くの名士と友好を持ち、
孔融?鍾繇?といった多くの清流派の士人から師と仰がれた。
また公平無私な政治を行った事から民からの人気も非常に高かったが、
宦官からの弾圧を受け、党錮の禁に巻き込まれた結果隠遁を余儀なくされる。
その後何進?からの出仕の招きを受けるも、最期まで再び表舞台に出ることは無かった。
その陳寔の葬式には3万人もの人が集まり、3年もの喪に服する人も3桁の数に及んだという。

趙岐(邠卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4029757367論客文化縦横術王道

【チョウキ(ヒンケイ)】
後漢の政治家。元の名は嘉、字は台卿。
宦官と対立し、唐玹に親族を皆殺しにされて逃亡生活を送る。
再び召されるも党錮の禁により十数年追放される。
涼州の反乱では辺章に捕縛されるも、詭弁を用い脱出した。
献帝の代に天下慰撫のため派遣され、袁紹?公孫瓚?らと交渉し、
彼らは兵を引いて会合することを約するが、2年経っても訪れなかった。
献帝が洛陽?に入ると、劉表?を説き伏せて洛陽の城壁修理の支援を得る。
老病が篤く荊州に留まるも太常に推挙され、九十余歳で亡くなった。
著述家として『孟子章句』『三輔決録』を著した。

桓典(公雅)

生年登場没年死因
201自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7465788270規律教化太学王道

【カンテン(コウガ)】
後漢の政治家。
12歳の時に父母を亡くして叔母に育てられ、清廉な行いで知られた。
数百人の門徒に潁川で『尚書』を教え、孝廉で郎となる。
侍御史として宦官の権力乱用を取り締まって畏怖され、
常に葦毛馬に乗っていたため「御史の葦毛馬を避けろ」という言葉が流行った。
黄巾の乱が起きると官軍を監督して滎陽の賊軍を撃破するが、
宦官に逆らったため恩賞は与えられなかった。
霊帝が崩じると何進?と宦官排除の謀議に与り、
献帝が即位するとその忠義が称賛され恩賞が下された。
後に献帝の長安?行に従い、御史中丞、光禄勲を歴任した。

張倹(元節)

生年登場没年死因
115198自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3212787188人脈名声地域巡回王道

【チョウケン(ゲンセツ)】
後漢の政治家。
山陽の人で、江夏太守張成の子。
「八及」の一人とされ、茂才に挙げられるが官職には就かなかった。
翟超によって山陽郡の督郵に任じられると、宦官の候覧の一族の不正を取り締まった。
これを恨んだ候覧によって党錮の禁で追われる身となるが、進んで匿おうとして処罰を受ける者が相次ぎ、「望門投止」と言われた。
黄巾の乱が起こると赦免されるが出仕せず、建安年間になってようやく衛尉に任ぜられるが、曹操の専横に失望して家に戻り1年ほどで病死した。

嫌悪武将:候覧

皇甫酈

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4435788280法律政令徹底王道

【コウホリ】
後漢の政治家。伯父は後漢の名将皇甫嵩。
中平5年(188年)、并州牧となった董卓へ皇甫嵩に軍を委ねるようにとの詔勅が届いたが、董卓はこれを拒否していた。
この時に皇甫酈は、詔勅に逆らう董卓を討ち取るよう皇甫嵩に進言した。しかし皇甫嵩は事の次第を朝廷に上奏するにとどめた。
結果、董卓は皇甫嵩への憎悪を募らせ、後に皇甫嵩を殺害しようとした。
興平2年(195年)、謁者僕射となっていた皇甫酈は、献帝の命で李傕と郭汜の争いを調停するよう命じられた。
皇甫酈は、郭汜を説得には成功したものの、李傕を説得することは出来ず、李傕の怒りを買ってしまった。
皇甫酈は献帝の下に戻って、李傕の不敬な態度を報告したが、その際に李傕に取り入っていた侍中の胡邈と言い争いになった。
献帝は、胡邈の讒言により皇甫酈が李傕に害されるのを恐れ、彼を直ちに逃亡させた。
果たして、李傕が虎賁(近衛兵)の王昌に皇甫酈の暗殺を命じたが、王昌は故意にこれを見逃した。

親愛武将:皇甫嵩
嫌悪武将:董卓 李傕 胡邈

王昌

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6064625963

【オウショウ】
帝の虎賁。李傕を批判した皇甫酈の捕縛を命じられるも、見逃す。

伍瓊(徳瑜)

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4645777876

【ゴケイ(トクユ)】
董卓に信任されるも、推挙した人間が董卓打倒の挙兵をした為、惨殺された。

胡母班(季皮)

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3838597471輿望

【コボハン(キヒ)】
後漢の執金吾。兗州泰山郡の人。妻は王匡?の妹。
度尚・張邈?らと共に、財産に拘らず施しを好み、侠気があることで評判となり、「八厨」に数えられた。
董卓?が実権を握ると、王匡への使者として、反董卓連合を解散するよう命じさせた。
袁紹?は王匡の報告を受け、胡母班を殺すように命じた。胡母班は「董卓が都にいる状況で、
幼い天子(献帝)の身を危険に晒す行動が正しいとは云えない。僕は董卓の親戚では無いし、悪事に荷担するはずも無いだろう」
と反論したが、結局王匡に殺された。胡母班の親類は、のちに曹操?と協力して王匡を殺し、仇討ちした。

※『晋書』に立伝された玄孫・胡毋輔之(コブホシ)の伝では「胡毋班」。

楊琦(公珽)

生年登場没年死因
195?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2427646668
1114555771

【ヨウキ(コウテイ)】
献帝の側近で侍中。弘農郡華陰県の人。「楊奇」とも。楊震の曾孫(玄孫とも)、楊牧の孫。子は楊亮。

[演]李傕の酷い扱いに対し、あくまで耐える様に密奏し容認される。
[史]謝承『後漢書』によると、霊帝の時に侍中だった。ある時、霊帝に「朕と桓帝はどちらが上か」と聞かれると、
「陛下と桓帝は、ちょうど虞舜の徳が唐堯に匹敵するよう(に同じくらい)です」と答えた。自分が上と
答えて欲しかった霊帝は喜ばず、楊琦を汝南太守に左遷した。
霊帝が亡くなると、侍中に復帰した。『献帝起居注』では、演義とほぼ同じく、李傕に耐えるよう上奏している。
しかし一方で、楊琦は鍾繇と共に、李傕の部曲である宋曄と楊昂を離反させている(正史『後漢書』他)。
献帝が長安を脱出しようとした時、郭汜?の兵に包囲されたが、同僚の侍中であった劉艾と共に、
献帝の姿を兵に見せることで脱出に成功している。

献帝が曹操によって?に遷都すると、献帝は子の楊亮を陽成亭侯に取り立てた。
恐らく、楊琦はそれ以前に死去したと思われる。

尚弘

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3643546262

【ショウコウ】
献帝の長安脱出の際、行軍校尉として従う。
『献帝紀』によると、李楽の手配した船で黄河を渡ろうとしたが、岸が高くて降りられず、
尚弘が献帝を船に乗せたという。

※能力は『三國志Ⅲ』準拠。

王則

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義性格
4653617268

【オウソク】
後漢の奉車都尉。
曹操が献帝を迎え入れた頃、呂布にも献帝からの使者が送られてきていたが、劉備や袁術との関係から物資の援助が出来ずに使者だけを送った。
しかし、曹操の意向で王則が派遣されて呂布を平東将軍に任じた。
『演義』ではこの際に和平の仲介も行って劉備と講和したことになっている。

※『三国志Ⅲ』では175年生。

呉子蘭

生年登場没年死因
200不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義性格
6068595276

【ゴシラン】
後漢の将。董承・王子服らと共に曹操暗殺を計画するが、発覚して処刑された。

※『三国志Ⅲ』では呉碩と同じ177年生。
※親愛武将:董承・王子服・呉碩

呉碩

生年登場没年死因
200不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義性格
5162587069

【ゴセキ】
後漢の議郎。董承・王子服らと共に曹操暗殺を計画するが、発覚して処刑された。

※『三国志Ⅲ』では呉子蘭と同じ177年生。
※親愛武将:董承・王子服・呉子蘭

張温(伯慎)

生年登場没年死因
191不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5148586456
5648586456優柔兵站改革王道

【チョウオン(ハクシン)】
後漢の政治家。
曹騰の抜擢を受けて要職を歴任し、大司農、司空を務める。
韓遂?、辺章が反乱を起こすと罷免された皇甫嵩?に代わり、
車騎将軍に任じられて陶謙?孫堅?を参軍として出征する。
緒戦は董卓?、周慎らの活躍で勝利するが、その後は戦果を挙げられずに罷免され、皇甫嵩が再起用された。
この間、軍法に従わない董卓の処刑を孫堅から進言され、拒否するものの董卓の恨みを買う。
董卓が実権を握ると、袁術?と内通したと誣告され殺害された。
演義では張温の処刑を受けて王允が董卓暗殺計画を決意している。

伏完

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
19586060
2519586067優柔政令徹底王道

【フクカン】
後漢の重臣で伏壽の父。娘から曹操?の危険性を訴える手紙を荀彧?経由で受け取る。
その数年後に史実では病没しているが、『演義』では214年に謀叛未遂事件を起こして敗死。
諸般の事情で黙殺した荀彧は後に露見して自害している。

親愛武将:荀彧

吉本

生年登場没年死因
218不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2910565470医術治療本草学王道

【キツホン】
後漢の太医令。『演義』では吉平として登場。
218年に子の吉邈・吉穆及び少府の耿紀と謀って挙兵するも敗死。

种払(穎伯)

生年登場没年死因
192不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5142708983果敢仁政文化地域巡回王道

【チュウフツ(エイハク)】
後漢末期の太常。子に种劭。
种払の統治は有能で知られ、南陽の郡吏は百姓に迷惑をかけていたが、
种払は見かけるたびに下車し公人として挨拶したため郡吏は恥じらいを覚え更正した。
董卓が誅殺され李傕・郭汜が反乱した際、
多くの役人が戦乱を避けて逃亡するなか种払は剣をふるって飛び出し
「国の大臣たる者、戈を止めて暴を除くことができず、凶賊の兵刃を宮殿に向かわせるとあっては、去ってどうしようというのか」
と叫び、戦って死んだ。

※父の种暠は163年に64歳で死去しているため、生年は120~130年代か。

种劭(申甫)

生年登場没年死因
194不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6347787570泰然言毒論客王道

【チュウショウ(シンホ)】
後漢末期の諫議大夫。种払の子。
何進によって董卓が召し出された際、种劭は董卓を迎え入れて労をねぎらうとともに軍勢を引き返すよう説得した。
董卓は武器を突きつけて种劭を脅したが、种劭は大声で怒鳴りつけ進みでて董卓を難詰し、董卓は返す言葉もなく軍勢を夕陽亭に返した。
董卓が誅殺され李傕・郭汜が反乱した際に、父である种払が殺されてしまう。
その後、朝廷を奪還しようと馬騰・韓遂らと連合して父の仇である李傕・郭汜と戦ったが、槐里で樊稠に敗れて戦死した。

何顒(伯求)

生年登場没年死因
190?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4158717887名声文化学者眼力太学王道

【カギョウ(ハクキュウ)】
後漢末期の政治家。荀彧を「王佐の器」と評したことで知られる。
若くして洛陽に遊学し、若年にも拘らず時の名士である郭泰・賈彪と誼を通じて太学に名を顕した。
袁紹の敬慕を受けて彼と往来し、奔走の友となった。
当時、党錮の難を避けて洛陽から逃れる者が多かったが、何顒は逆に洛陽へ入り、袁紹の計画に従って多くの囚われの者を助けた。
荀爽・王允・鄭泰・荀攸らと共に、董卓を排除する謀議を練っていたが、
荀爽が間もなく病没し、何顒もまた別の罪で捕らえられ憂憤しながら死去した。

親愛武将:袁紹 荀彧 荀爽 王允 鄭泰 荀攸
嫌悪武将:董卓

荀悦(仲豫)

生年登場没年死因
148209自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
913708681明鏡文化学者寡欲鎮静太学礼教

【ジュンエツ(チュウヨ)】
後漢末期の政治家。荀倹の子。荀彧の従兄。
宦官が権力を握っていたため、病と称して仕官せず無名だったが、
荀悦の才を見抜いた荀彧に推挙され、黄門侍郎として後漢の朝廷に仕えた。
曹操が実権を握ると「申鑒」5編を著して献帝に政治論を教え、大いに喜ばれた。
また、献帝に「漢書」を「春秋左氏伝」と同じ編年体で改訂するよう命じられ、「漢紀」30編を著した。
他にも「崇徳」・「正論」ら数十の著作を残した。

李燮(徳公)

生年登場没年死因
134186自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
824687276名声人脈政令徹底王道

【リショウ(トクコウ)】
後漢末期の政治家。漢中郡南鄭県の人。李固の三男。
李固が梁冀の専横で失脚すると、父によって故郷に帰された。さらに李固が誅殺されると、
二人の兄も殺されたが、李燮は徐州に逃れて酒家の王成にかくまわれ、姓名を変えて生き延びた。
梁冀が誅殺されると赦免され、議郎となった。荀爽?と賈彪は不仲で知られたが、李燮は
分け隔て無く友だち付き合いしたので称賛された。
のちに安平相となった。黄巾の乱が起きると、安平王・劉続が黄巾軍の捕虜となり、
身代金を払って解放される失態となった。李燮は「劉続は藩国を守れず、聖朝の名を辱めました」と非難し、
宗室を誣告したとして左遷された。しかし、すぐに劉続は誅殺され、李燮は議郎に復職した。
父の李固は、梁冀の質帝・桓帝擁立に反対したことから、「父は皇帝を立てるのに肯定せず、子は王を立てるのに肯定しなかった」
と都で評判になった。河南尹に転任し、在職2年で死去した。

親愛武将:荀爽

崔烈(威考)

生年登場没年死因
192不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2618467553能吏小心惰弱

【サイレツ(イコウ)】
後漢末期の政治家。涿郡安平県の人。崔盤の子。子に崔均・崔州平?。妻は程氏。
幽州で名声を博し、郡太守や高官を歴任した。
霊帝は売官を行い、三公までも売りに出された。
崔烈は母に五百万銭を出して貰い、司徒の官職を買った。霊帝は「勿体なかったな、倍の千万銭は取れた」と惜しんだ。
妻は夫の所業を嘆き、世間の名声も失った。また、子の崔均にも「論者は銅臭を嫌います」と非難された。
涼州で韓遂?・王国(人名)らが反乱を起こすと、涼州の放棄を主張して傅燮に弾劾された。
187年、太尉になった。十常侍ら宦官が皆殺しにされると、段珪に拉致された少帝・陳留王(献帝)を保護した。
董卓が実権を握ると、子の崔均が袁紹?に呼応して反董卓連合に加わったため、投獄された。
董卓が誅殺されると城門校尉となったが、李傕?が長安を占領すると、乱兵のため殺された。

※銅臭=金で官位を得た者という非難の語源。

何咸

生年登場没年死因
189不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3131225156

【カカン】
後漢末期の政治家。何進の子、何晏の父。妻は尹氏。
名前は伝わっていない。しかし、何晏『論語集解』で、基本的に他の論者の実名を挙げているのに、
包咸だけは「包氏」と諱を避けているため、梁の皇侃は父の諱を避けた物と推測している。
恐らく父と同時期に十常侍に殺された。残された尹氏は曹操の側室となり、連れ子の何晏は曹操の養子となった。

※何晏は190年生まれの設定なので、遺腹の子と見なしている事になる。

曹嵩(巨高)

生年登場没年死因
194不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2017607053徴税富豪動転悪名

【ソウスウ(キョコウ)】
後漢末期の政治家。沛国譙県の人。宦官・曹騰の養子。子は曹操・曹徳など5人。曹丕が魏皇帝に即位すると、太皇帝と追尊された。
実家は夏侯氏とする説が『曹瞞伝』『世語』にあるが、『曹瞞伝』は呉側の文献であり信憑性は低い。
人情に厚く、忠孝を重んじると評判だった。司隷校尉となり、霊帝の時代、売官で大司農、大鴻臚の地位を買い、
さらに187年11月、一億万銭(一億あるいは十億銭?)と宦官への賄賂の合わせ技で三公の一つ・太尉の官職を買った。しかし5ヶ月で辞任した。
引退後は譙県に戻ったが、董卓の乱が起きると琅邪国に避難した。曹操と徐州牧・陶謙が争い始めると、曹操は泰山太守・応劭に命じ、
父を自らの根拠地である兗州に送らせようとした。ところが、応劭の迎えが来る前に陶謙が騎兵を襲撃させ、まず曹徳を殺し、曹嵩を妾もろとも殺した。
韋昭『呉書』によると、陶謙は張闓に曹嵩の護衛を命じたが、張闓は曹嵩を殺して財産を奪うと出奔した。
曹操は父殺しの報復に陶謙を攻撃し、軍民問わず虐殺した。

『演義』では『曹瞞伝』『呉書』準拠で、幼少の曹操の悪戯に翻弄されるエピソードなどが描かれている。

袁隗(次陽)

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3319717438人脈富豪浪費強欲名利

【エンカイ(ジヨウ)】
後漢末期の政治家。豫州汝南郡汝陽県の人。袁湯の子(四男?)。兄は袁平・袁成・袁逢。子は袁満来・袁懿達・袁仁達。甥は袁基・袁紹・袁術ら。
資産家で、贅沢な暮らしをしていた。
172年、三公の一つである司徒に昇進した。これは、兄の袁逢よりも早い三公だった。
中常侍の袁赦は袁隗と同族で、袁隗は袁赦を通じて宦官と結びついていた。
のち太傅となった。この頃、袁紹は在野におり、名士との交際に励んでいた。宦官の趙忠が袁紹の行動を警戒したことを知ると、
袁隗は袁紹を呼びつけて叱りつけた。『英雄記』では袁紹は従ったとするが、『後漢書』では従わなかったという。
189年、少帝弁が即位すると、後将軍から再度太傅となった。董卓と袁紹が対立すると、袁紹・袁術は出奔したが、袁隗は洛陽に留まった。
袁紹・袁術らが挙兵し、反董卓連合を組織すると、董卓は胡母班らを派遣し和睦交渉させた。胡母班らが、袁紹の意を受けた王匡に殺害されると、
袁隗は董卓により三族皆殺しとなった。在京して殺害された袁一族は、二十数名に上ったという。
『後漢書』では、董卓の胡母班らの派遣を、袁隗らを殺害した後のこととしている。

親愛武将:袁赦

袁基(士紀)

生年登場没年死因
190不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5433626376名声袁家栄光王道

【エンキ(シキ)】
後漢末期の政治家。袁逢の嫡男。袁紹・袁術の異母兄。
背が高く立派な容姿をしており、上品な人物だった。
父の死後、家督を継ぎ、安国亭侯の爵位を相続した。
のち太僕となった。袁紹・袁術らが反董卓連合を組織すると、董卓によって袁隗と同時に三族皆殺しにされた。
一説によると、袁紹はのちに長男の袁譚に、袁基の後を継がせたという。

※袁紹は、袁成の実子説もある。