注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
ユダヤ人
ユダヤ人は、ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のこと。原義は狭義のイスラエル民族のみを指したが、
『聖書*1』「出エジプト記」などに改宗者への言及があり、イスラエル民族以外からの改宗者も古くから存在した。このため、ユダヤ教徒という呼び名が正しい。
異邦人(非ユダヤ教徒)は、『タルムード』「ノアの七戒」に従う事で「ゲル・トシャフ(居住外国人)」として認められ、「正義の異邦人」とされた。
さらに、洗礼・生け贄の奉献・(男子のみ)割礼を行い、ユダヤ教の律法を全て受け入れた者が「義の改宗者」、完全な改宗者として受け入れられた
(割礼を拒む男子は「門の改宗者」、半改宗者として扱われた)。
後出のキリスト教やイスラム教のように布教に熱心では無かったが、紀元前1世紀にヘロデ大王を輩出したエドム人や、7世紀にカバール民族(ハザール王国の民族)がユダヤ教に改宗したのが著名な改宗例である。
狭義のイスラエル民族の由来はイスラエル民族のひとつ、ユダ族がイスラエルの王の家系だったことからきている。ユダヤ教という名称は、ユダヤ教徒が多く信仰していた宗教であることによる。
普通は、種族(遺伝子の繋がり)で、人種として扱う呼び名であるが、ユダヤ教宗教団体に属する人を、ユダヤ人という共通の呼称で呼ばれる国際的な宗教団体である。
キリスト教の教祖のイエスキリストもユダヤ教徒のユダヤ人であり、セム族である事が知られている。
ヨーロッパでは19世紀中ごろまでは、イスラエル教徒としての用法以外には主としてユダヤ教の信者というとらえ方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは宗教的民族集団としてのとらえ方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている。
イスラエル王国(イスラエル・ユダ連合王国)
紀元前11世紀に成立したとみられるユダヤ人(当時はヘブライ人)の王朝。初期は『聖書』以外の史料に乏しく、伝説の色合いが強い。
エジプト、中アッシリア王国、バビロニア王国の影響が弱まった時期に自立した物と見られている。
前1004年頃ダビデのもとで統一王国が成立したが、前926年北のイスラエル王国と南のユダ王国とに分裂。
イスラエルは前722年に新アッシリア王国に、ユダは前586年に新バビロニア王国に滅ぼされた。
サムエル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
76 | 49 | 87 | 61 | 69 | 妙算 | 督励 | 法律 | 眼力 | 粗暴 | 上兵伐謀2 | 礼教 |
古代イスラエルの士師(指導者)。ラマタイム・ツォフィムの人。父はエルカナ、母はハンナ。
『聖書』によると、祭司・士師のエリに仕えた。
イスラエルがペリシテ人に大敗し、モーセの十戒が刻まれた「契約の箱」が奪われると、
憤死したエリに代わって士師となった。20年後、ペリシテ人に挙兵し、失地回復に成功した。
サムエルは子のヨエルとアビヤを後継指名したが、民衆の支持を得られず、長老たちは王政を望んだ。
サムエルはやむなく神意を得て、サウルを王に擁立した。しかし、神意に従わないサウルと対立するようになった。
アマレク人はかつて、エジプト脱出(出エジプト)をしたユダヤ人を攻撃した。サムエルは神意として、
アマレク人を家畜に至るまで皆殺しにするようサウルに告げた。しかし、サウルが従わなかったので見限り、
神意によって密かにダビデを王に選び、サウルがダビデを殺そうとしたときには匿った。
サウルより先に亡くなった。
※「士師」はヘブライ語"שׁוֺפֵט"の意訳。「統治者」「裁く者」を意味し、現代イスラエルでは「裁判官」を指す。
サウル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC1004? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
83 | 79 | 53 | 66 | 76 |
『聖書』によると、イスラエル12支族の一つ、ベニヤミン族の出身で、キシの子。
背が高く、見目麗しい外見をしていたという。
当時のユダヤ人に王はおらず、士師と呼ばれる指導者が選ばれていた。
ユダヤ人に王を求める気運が高まると、士師のサムエルは反対したが、ついには民意に抗しきれず王政を受け入れた。
そこで神意を得て、サウルがお告げの通りの人物だったので油を注ぎ(神の祝福を意味する)、王に推挙した。
サウルはアモン人の侵攻を退け、ペリシテ人との戦いを優位に進めた。しかし、アマレク人との戦いで
「男女を問わず、家畜に至るまで滅ぼせ」という神意に背き、アガク王を助命し、良質な家畜を戦利品として接収した。
サムエルは神意を得て、サウルを王に値しないと非難した。サウルが謝罪したのでアガクを殺す事で妥協したが、
サムエルは密かにダビデを王として選んだ。
サウルは悪霊にうなされ、ダビデは竪琴の名手としてサウルに仕えた。ダビデの音楽で悪霊が出ていったとされる。
しかしサウルはダビデの名声を妬み、最前線に出陣させ、生還すると今度は暗殺を試みたが失敗した。ダビデに与する者は、
ダビデにサウルの暗殺を勧めたが、ダビデはサウルを王と認めていたので従わなかった。
最後はペリシテ人との戦いで、子のヨナタン、アビナダブ、マルキ・シュアと共に戦死した。
あるアマレク人がダビデに、サウルが死にきれずに介錯を望んだので止めを刺したと報告した。ダビデはその人物を、王を殺した罪で処刑した。
エシュバアル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
62 | 61 | 32 | 53 | 55 |
サウルの子。名前は「イシュ・ボシェテ」とも。
父の死後、唯一の生き残りの男子として、将軍・アブネルによってイスラエル王に擁立された。
しかしダビデがユダ王として自立し、王国は二つに分裂した。
アブネルがエシュバアルの側室と密通した事が発覚すると、エシュバアルはアブネルを非難した。
アブネルはダビデに寝返ろうとしたが、ダビデの側近のヨアブは信用せず、アブネルを暗殺した。
エシュバアルはアブネルの死を聞くと大いに気落ちしたという。
最期は掠奪隊の隊長であるバアナとレカブによって殺された。二人はエシュバアルの首を持って
ダビデに寝返ろうとしたが、ダビデは二人を罪人として処刑した。
エシュバアルに子は無く、従兄弟のメリブ・バアルは足が不自由で王に相応しくないとされた。
その結果、イスラエルはダビデの軍門に降り、ダビデが王国を統一した。
ダビデ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC961? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
90 | 84 | 86 | 80 | 92 | 神威 | 楽奏 | 詩想 | 一騎 | 名声 |
ユダヤ人の王で、『聖書』以外の史料に言及されている最初の人物。
『聖書』によるとエッサイの八男。ユダ族でモアブ人の血も引いている。
羊飼いで、音楽に巧みで、美しい容姿をしていた。サウルに失望したサマエルは、ダビデを密かに王に推挙した。
神意を失ったサウルが悪霊に悩まされると、近臣は竪琴の巧みな者を側近に置くよう進言し、ダビデが招かれた。
ダビデの演奏を聴くと、サウルから悪霊が離れたという。
ペリシテ人との戦いで、ペリシテ軍の巨漢兵・ゴリアテが一騎打ちを挑発すると、ダビデが進み出てこれに応じ、ゴリアテを討つことに成功した。
サウルはダビデを妬んで死地に送ったが、かえって戦功を重ね、サウルの次女のミカルを娶った。
さらにサウルはダビデの暗殺を企てたが、サウルの子のヨナタンがダビデを助けたので失敗した。
ある者が、ダビデに先手を打ってサウルを暗殺するよう勧めたが、ダビデはサウルを王と認めていたので従わなかった。
サウルが死ぬと、神託に基づいてヘブロンでユダ王に推挙され、即位した。
さらにイスラエルを降伏させ、エルサレムに進軍して全ユダヤ人の王となり、中央集権国家を築いた。
一方、私生活では部下のウリヤの妻であるバト・シェバを寝取って自分のものとし、ウリヤを自害させた。長男は数日して死去したが、神の怒りといわれたという。
また、晩年に三男のアブサロムに謀反を起こされるなど、家庭的には不遇だった。
1993年に発掘されたテル・ダン石碑に、「ダビデ家の出身であるイスラエル王を殺した」という記述が
ある事が明らかになり、ダビデの実在が証明されたと話題になった。石碑は紀元前9世紀頃、アラム王国のハザエル王が戦勝を祝したものとされる。
ソロモン
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC1011? | BC931? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
89 | 51 | 99 | 91 | 90 | 神眼 | 文化 | 論客 | 智嚢 | 浪費 | 施設開発7 | 王道 |
イスラエル・ユダ連合王国の3代目の王。ダビデの子。
兄・アドニヤなどと王位を争い、勝利して王位に即いた。
エジプトに従属し、ファラオのパロ(第21王朝のシアメン?)の娘を降嫁させた。この時、ギブオンで盛大な生け贄を捧げ、
神は夢枕に立ち「何でも願うものを与えよう」といった。そこでソロモンは知恵を願い、神はその願いを叶えただけでなく、富と名誉もソロモンに与えたという。
ソロモンはユダヤ教・キリスト教・イスラム教で共通して知恵者の代名詞となっており、二人の女が子供の親権で争った事件を裁いた逸話などが知られる。
対外的には周辺国との政略結婚や通商の振興を行い、離反したハマテ王国・ツォバ王国を平定。ガザからユーフラテス川沿岸まで領土とした。
内政は軍制の整備、12行政区の導入、エルサレム神殿の建設などに努め、後世「ソロモンの栄華」とうたわれる時代を現出させた。
しかし、一方で民は重税や労役に苦しみ、出身部族のユダ族を優遇したことへの不満も起きていた。さらに、外国から娶った妃や側室達の異教の信仰を容認し、
一定の保護を行ったことが、ユダヤ教徒の反発を招いた。
王の死後、王国は南北に分裂した。
ヘロデ朝
ユダヤ教に改宗したエドム人が、ユダヤ・パレスチナを支配したローマ共和国~帝国の属国。
紀元前37年、ローマ元老院よりユダヤ王と認められたヘロデがエルサレムに進軍し、ハスモン朝ユダを再興しようとしたアンティゴノスを打倒し、ユダヤの支配権を得た。
ヘロデの死後、領地は子供達に分割されたが、次第にローマの直接支配が強まり、曾孫のアグリッパ2世の死後、完全にローマ帝国の直轄領となった。
ヘロデ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC73? | BC4 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
79 | 70 | 88 | 78 | 56 | 詭計 | 果敢 | 論客 | 悪名 | 粗暴 |
エドム(現:ヨルダン領)の人。ヘロデ朝初代君主。アンティパトロスの次男。現代中国語では「希律」。
気性が激しく、政敵に容赦しなかった。父はハスモン朝ユダに仕え、ローマの軍事行動に積極的に協力。
ユリウス・カエサルの信用を得て、ハスモン朝とは別にユダヤの支配権を認められた。
父がマリコスに殺されると、謀反人としてマリコスを処刑。また、マルクス・アントニウスの支持を取り付け、ローマ元老院より
ユダヤ王として認められた。さらに、ハスモン朝ユダの再興を企てたアンティノゴノスを破り、ハスモン家の残党も、同家から嫁いだマリアムネを含めて皆殺しにした。
エジプトのクレオパトラ7世はユダヤを狙い、アントニウスの仲介で領土のエジプトへの割譲を余儀なくされた(ただし徴税は従来通りヘロデが行い、税収の一部をエジプトに納める間接支配)。
アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラが敗死すると、オクタウィアヌスに贈り物をして帰順を願い出た。ヘロデの弁明は堂々としており、
オクタウィアヌスは帰順を受け入れたばかりか、ハスモン朝時代にローマが取り上げた領土の一部も返還した。この事でヘロデの名声は高まった。
エルサレム神殿の大改築を行い、ローマ世界の評判となった。一方でローマ帝国に忠実でユダヤ教の律法に従わなかったので、ユダヤ教徒の支持は必ずしも高くはなかった。
晩年は後継争いが起き、3人の息子を殺し、末の息子のアンティパスを後継者としたが、死の数日前、生き残りの息子で最年長のアルケラオスに変更して死去した。
しかし、アンティパスは王位を主張し、双方がローマに訴えた結果、ローマ帝国はアルケラオスを後継者と認めたが、王号は認めず、
領地の半分はアンティパスとフィリッポス兄弟と、ヘロデの妹・サロメに分割された。
『新約聖書』では、ユダヤ人の王になる人物(イエス)が生まれたと聞き、ベツレヘム周辺の2歳以下の男児を皆殺しにしたとされる。
※洗礼者ヨハネの首を要求したことで知られるサロメは、同名のヘロデの妹の曾孫。
ヘロデ・フィリッポス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC27? | 34? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
53 | 49 | 37 | 60 | 51 | 惰弱 |
ヘロデの子。ヘロデ2世とも。母はマリアムネ2世。妻はヘロディア。女子にサロメ。
父はハスモン朝から嫁いだマリアムネと、その子のアレクサンドロス・アリストブロス4世を殺したが、
アリストブロス4世の遺児のヘロディアは助命され、フィリッポスに嫁がせた。
ハスモン朝の血を引くヘロディアを嫁がせることで、フィリッポスを後継指名したものだったが、
兄のアンティパトロスの讒言で後継から外された。
父の死後の後継争いで、ローマ帝国により4分割された領主の一人となり、バタナイアなど100タラント(30万シェケル)分の領地を安堵された。
しかしヘロディアは弟・アンティパスと浮気し、フィリッポスと離婚して、サロメと共にアンティパスの元に奔った。
他に子は無く、死後領地はローマ帝国に没収され、のちにアグリッパ1世(ヘロディアの兄)の領地となった。
※サロメの父は、ヘロデ・フィリッポスとは同名異人のフィリッポスだったとも。また、サロメの夫の名と混同説もある。
ヘロデ・アンティパス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC20? | 39? | 自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
56 | 41 | 47 | 66 | 65 | 振興 | 短慮 |
ヘロデの子。母はサマリア人のマルタケ。
ローマで育った。一度、父の後継者に指名されるが、死の直前に兄のアルケラオスに変更されたことを不服とし、
ローマ帝国に王位継承権を訴えた。要求は却下され、4分割された領主の一人となり、ガリラヤとペレヤ、
200タラント(60万シェケル)分の領地を安堵された。ローマ皇帝・ティベリウスにあやかったティベリアスを建設し、
新たな本拠としたが、古代の墓地であったため、ユダヤ教徒達から穢れた土地と非難された。
最初、ローマの従属国・ナバテア王国からファサエリスを妻に迎えていたが、フィリッポスの妻であったヘロディアに夢中になり、ファサエリスは実家に帰ってしまった。
この頃、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物が名声を得ていたが、アンティパスに誅殺された。
『ユダヤ古代誌』ではヨハネが人々を煽動することを恐れ、『新約聖書』ではヨハネに兄弟の妻との再婚を非難されたために、
ヘロディアの連れ子(サロメ)の頼みで殺害したとしている。その後、ナバテア王国の侵攻を受けて大敗し、ローマ帝国の仲裁を仰いで停戦した。
ヘロディアの兄・アグリッパ1世がカリグラ帝に王号を認められると、ヘロディアの願いで自分にも王号を認めるよう請願した。
しかし、アグリッパ1世によって謀反を企てていると告発され、大量の武器を蓄えていた件を弁明できなかったため、
領地没収の上ガリアへ流罪となった。その後は流刑地で死んだとも、カリグラに殺されたともいう。
親愛武将:ヘロディア
嫌悪武将:イエス
※『新約聖書』「ルカによる福音書」では、逮捕されたイエスがポンテオ・ピラトから送致されたので、イエスに何か奇跡を起こすのか試し、また色々質問をしてみた。
しかしイエスが何の反応もしないので、兵士達と共にイエスを嘲り、派手な服を着せてピラトの元に送り返してやったという。以前はピラトを敵視していたが、
この件がきっかけで仲良くなったという。
ヘロディア
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC15? | 自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
14 | 15 | 36 | 65 | 71 | 言毒 | 傾国 | 悪名 | 強欲 | 名利 |
ヘロデ朝の女性。父はアリストブロス4世、母はベレニケ。兄にアグリッパ1世。
B.C.7年、父が讒言により誅殺されたが、ヘロディアは助命され、叔父のヘロデ・フィリッポスに嫁いだ(夫の名は諸説あり)。
娘のサロメを儲けたが、フィリッポスの弟・アンティパスと恋仲になり、ついにフィリッポスと離婚してアンティパスと結婚した。
アンティパスはまた、ナバテア王国から嫁いだファサエリスと離婚しており、ダブル不倫であった。
洗礼者ヨハネは、離婚して前夫の兄弟と再婚したことを非難した。ヘロディアはヨハネを恨み、アンティパスに頼んで投獄させた。
しかしアンティパスは、ヨハネを殺しかねていた。娘のサロメが、アンティパスの誕生パーティーで褒美を約束されると、
ここぞとばかりにサロメにヨハネの首を要求させ、とうとうヨハネは処刑された。
39年、ローマ帝国に王号を認められたアグリッパ1世に対抗して、夫にも王号を名乗らせようとローマ帝国に請願した。
しかし、アグリッパ1世の讒言により、かえって夫はガリアへ流罪となった。ヘロディアも夫に従い、その地で死んだ。
親愛武将:ヘロデ・アンティパス
嫌悪武将:ヨハネ(洗礼者)
サロメ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
14? | 71? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
6 | 21 | 50 | 54 | 80 | 楽奏 | 傾国 | 悪名 | 礼教 |
ヘロデ朝の女性。父はヘロデ・フィリッポス(ヘロデ・ボエートスとも)、母はヘロディア。現代中国語では「莎乐美(莎樂美)」。
『新約聖書』には名は伝わっていないが、『ユダヤ古代誌』よりサロメの名で定着している。
『新約聖書』によると、ヘロディアがヘロデ・アンティパスと再婚すると、連れ子となった。
洗礼者ヨハネが兄弟の妻と再婚したことを非難すると、アンティパスはヨハネを投獄したが、名声を憚って死刑にしかねていた。
ある時、アンティパスの誕生パーティーでサロメが舞を披露した。アンティパスは喜び、
「欲しいものは何でも与えよう」と約束した。サロメが母に相談すると、母は洗礼者ヨハネの首を求めたので、
母のいう通りに義父にせがんだ。アンティパスは困惑したが、一度誓った手前、結局ヨハネを殺し、その首をサロメのものとした。
サロメは首を母に渡した。
ただし『ユダヤ古代誌』では、ヨハネの処刑には関わっていない。こちらではボエートスの子で、
フィリッポスと結婚したが死別し、アンティパスの兄弟であるアリストブロスと再婚した。
その後、ヘロデ、アグリッパ、アリストブロス(父と同名)の3人の子をもうけたという。
のちに『新約聖書』を題材とした芸術作品でしばしば題材となった。19世紀のギュスターヴ・モローや
オスカー・ワイルドなどの作品により、官能的な美少女、あるいはヨハネに片想いしたなどのキャラクターが作られていった。
ヨハネ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC6? | 30? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
49 | 44 | 80 | 62 | 82 | 求心 | 明鏡 | 英名 | 寡欲 | 礼教 |
ユダヤの宗教者・預言者。父は祭司ザカリア、母はエリサベト。
他のヨハネ(イエスの弟子など)と区別するため「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる。
『マタイによる福音書』によると、ヨルダン川河畔の荒野で「悔い改めよ、神の国は近づいた」と訴え、
らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物としていた。
洗礼は、異邦人がユダヤ教に改宗する儀式だったが、ヨハネはユダヤ人といえども罪に穢れ、神の民としての資格を失ったと考えた。
そこで、悔い改めのために洗礼が必要と訴え、多くのユダヤ人が支持した。イエスもまた、ヨハネの洗礼を受けた。
領主のヘロデ・アンティパスが兄嫁のヘロディアを寝取り、強引に再婚するとこれを非難した。
アンティパスはヨハネを投獄したが、名声と教えを憚って殺しかねていた。しかし、ヘロディアは娘のサロメを唆し、ヨハネの首を要求させた。
こうしてヨハネは斬首され、首はサロメに渡され、首の無い遺体は弟子達に葬られた。
『ユダヤ古代誌』では、アンティパスは民衆の支持を集めるヨハネを脅威とみて処刑しており、ヘロディアやサロメには触れられていない。
しかし、のちにナバテア王国の侵攻でアンティパスが大敗すると、神の復讐を受けたと噂されたという。
キリスト教では旧約最後の預言者であり、イエスの先駆者と位置付けられている。
親愛武将:イエス
イエス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
BC4? | 30? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
69 | 41 | 98 | 57 | 100 | 神威 | 求心 | 泰然 | 論客 | 慈悲 |
ナザレ(現:イスラエル領)の人。キリスト教の創始者。父はヨセフ、母はマリア。『新約聖書』では聖霊の子を処女懐胎したとされ、ヨセフは養父ということになる。現代中国語では「耶穌」。
ベツレヘム(現:パレスチナ領)で生まれた。幼少にして『聖書』を理解し、ラビ(ユダヤ教指導者)を驚嘆させた。
この頃、エルサレムの支配者のヘロデ・アルケラオスがローマ帝国に地位を追われ、ローマ帝国の直轄領(ユダエア属州)に組み込まれた(ナザレはヘロデ・アンティパスの支配地)。
ヨセフは大工で、イエスも家業を継いだと思われる。ユダヤ人の回心を訴える洗礼者ヨハネの洗礼を受けたという。
30歳の頃、ガリラヤ地方で宣教を開始した。ユダヤ教の改革を訴え、多くの弟子を持ち、ユダヤ人やギリシア人に支持者を広げた。
ユダヤ教主流派のファリサイ派を批判し、形式的な律法ではなく、神の愛による隣人愛と救済を説いた。また、「神の国は近づいた」と説き、
最後の審判では自らが裁き手になると主張した。説教ではたとえ話を多く用い、ユダヤ教主流派から賎民視されていたサマリア人などに対しても分け隔て無く接した。
『新約聖書』では僅かなパンと牛乳で多くの弟子の腹を満たしたこと、
重い皮膚病を治したこと、死者を蘇らせたことなど、多くの奇跡を起こしたとされている。
しかし、その活動はユダヤ教徒に告発され、ユダエア総督のポンティウス・ピラトゥス(ポンテオ・ピラト)によって磔刑(ローマ法では反逆罪への刑)に処された。
『新約聖書』によると、ピラトはイエスを無罪と思い、実際に口にしたが、処刑を訴えるユダヤ教徒達をなだめるために死刑を認めたという。
イエスの死後、復活して多くの弟子の前に現れ、昇天したとされ、イエスがキリスト(救世主)であるという信仰が生まれた。
もともとイエスの活動はユダヤ教の改革運動であり、イエスの弟子達はユダヤ教ナザレ派と認識されていた。
しかしやがて、ユダヤ教とは別の新しい宗教、キリスト教として認知されるようになった。
バラバ・イエス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
58 | 56 | 49 | 41 | 61 |
1世紀頃のユダヤ教徒。「バラバ」は「アッバスの子」を意味する。
『新約聖書』によると、暴動と殺人、あるいは強盗の罪でローマ帝国に投獄されていた。恐らくは反ローマ運動を起こしたのだろう。
「マルコによる福音書」によると、ユダエア総督のピラトは、過越の祭慣例となっている恩赦の候補にバラバとナザレのイエスを挙げた。
その実、ピラトはイエスの恩赦を望んでいたが、ユダヤ教徒たちはバラバの恩赦を強硬に主張したため、ピラトはバラバを釈放したという。
以降の消息は不明。
フラウィウス・ヨセフス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
37? | 100? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
64 | 48 | 77 | 72 | 67 | 論客 | 史官 | 割拠 |
ユダヤの武将、歴史家。エルサレムの人。父はマッティアス。現代中国語では「弗拉維奧・約瑟夫斯」。
元の名をヨセフ・ベン・マタティアフといい、ローマ降伏後、フラウィウスの名を与えられた。
『自伝』によると幼少にして神学を修め、14歳にして祭司長やラビが教えを請いに来るほどだった。
16歳の時、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派を順に体験し、最終的にファリサイ派を選んだ。
26歳の時、祭司の釈放の陳情団としてローマを訪れ、ネロ皇帝の后・ポッパエアの知己を得て目的を果たした。
66年、ユダヤ人殺害事件がきっかけで大規模な反ローマの挙兵が起き(ユダヤ戦争)、ヨセフスはヨタパタの守将となるが敗れた。
配下達は異邦人への降伏を潔しとせず、くじを引いて互いに殺し合ったが、最後の2人に残ったヨセフスは、もう一人を説得して投降した。
ローマ軍司令官・ウェスパシアヌスを皇帝になると予言して助命され、69年にウェスパシアヌスが皇帝に推挙されると重用された。
70年のエルサレム攻防戦では、ウェスパシアヌスの子・ティトゥスの配下として従軍した。ユダヤ人達に降伏を促す一方、
友人知人らの命乞いや釈放を嘆願した。
71年にローマに移住し、ローマ市民権を与えられた。しかしローマ人からは出自を中傷され、同胞からは裏切り者と非難された。
80年ころまでにユダヤ戦争の顛末を書いた『ユダヤ戦記』、95年ころまでに天地創造からユダヤ戦争直前までの通史『ユダヤ古代誌』を著した。
これらは、広くギリシャ・ローマ文化圏にユダヤ人に対する偏見を解く狙いがあった。そのため、『聖書』などで非ユダヤ人の
反感を買いそうな部分は削除や改変が行われている。また、傍証として非ユダヤ文献を多数引用し、
その点でも貴重な史料になっている。『ユダヤ古代誌』にはイエスへの言及もあり、『新約聖書』以外の同時代史料として珍重されるが、
現存の写本はキリスト教徒による改変や加筆説が有力。
歴史的経緯から、ユダヤ教徒よりもキリスト教徒の評価が高かったが、19世紀よりユダヤ教側の研究も進んでいる。
エレアザル・ベン・アナニアス
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
70? | 不自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
75 | 79 | 62 | 45 | 74 | 礼教 |
ユダヤ教の祭司。大祭司アナニアスの子。
ユダヤ国家再興を掲げる「熱心党」に属していた。
66年、カイサリアのギリシャ系住民との対立がきっかけで、ローマによるユダヤ人殺害事件が起き、
さらにゲシウス・フロルス総督はエルサレムで掠奪を行い、3600人を処刑した。
ローマ支配下で、エルサレム神殿では皇帝のために供物を捧げる儀式を命じられていたが、
アナニアスは祭司達に説いて儀式を廃止させた。これはローマからの公然たる自立を意味した。
ヘロデ宮殿のローマ守備隊を、助命と武装解除を条件に降伏させたが、約束を破って殺した。
また、ギリシャ人によるユダヤ人虐殺事件も起き、ギリシャ系住民を報復に虐殺している。
アナニアスは強硬派の指導者として、アグリッパ2世ら和平派と主導権争いを行ったが、これは貧困層と富裕層・貴族層の対立の側面もあった。
しかし、イドメアに将軍として派遣され、これは体よく排除されたとみられている。
シモン・バル・ギオラ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
71 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
63 | 84 | 65 | 55 | 77 | 礼教 |
ユダヤの反乱指導者、農民。恐らくゲラセネの人。エドム人で名は「改宗者の息子」の意味。
66年、ユダヤ戦争が起きると先陣を切って活躍し、ローマ軍に大勝した。
しかし、ローマとの全面戦争を望まない勢力により、指導者には選ばれなかった。
ギオラはユダ王を自称し、独自の貨幣を発行し、「奴隷には自由を、自由には報酬を」と号し、貧民層の支持を集め、富裕層を襲撃した。
ローマはネロ皇帝の横死による内紛が起き、反乱は長期化した。
しかし69年、ローマ軍に敗れエルサレムに撤退すると、エルサレムの反乱軍は、ギオラとギスカラのヨハネ、エルアザル・ベン・シモンに三分された。
そして、ローマ軍と戦う時以外は内ゲバをしていた。
内部抗争はギオラが優勢となったが、ローマ軍のティトゥスがエルサレムを包囲すると、大祭司マティアス・ベン・ボエートスを始め、
裏切り者と見なした人びとをみな処刑した。70年8月、エルサレムが陥落すると捕らえられてローマに連行され、
市中引き回しの末、タルペーイアの岩から突き落とされて処刑された。
エレアザル・ベン・ヤイル
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
73 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
73 | 63 | 60 | 39 | 77 | 礼教 |
ユダヤの反乱指導者。熱心党の中でも過激なシカリ派(短剣派)に属した。
シカリ派は「ユダヤの敵」と見なしたローマ人や親ローマ派ユダヤ人らを、過越の祭などの雑踏を狙って暗殺していた。
66年、ユダヤ戦争が起きると、ヘロデ大王が離宮としていた要塞(マサダ)を占領した。
70年にエルサレムが陥落すると、エルサレムから逃れて来た人達も加わった。
72年、ルキウス・フラウィウス・シルヴァ総督率いるローマ軍は、1万5千の兵で包囲した。
立てこもるユダヤ人は967人と伝わる。マサダは「蛇の道」と呼ばれる通路があるだけの難攻不落の要塞だったが、
ローマ軍はユダヤ人奴隷らを動員して崖を埋め立て、突破口を築いた。
73年4月15日、いよいよローマ軍の総攻撃が明日に控えたことを知ると、異邦人の奴隷となることを恥じ、
くじを引いて互いに殺し合い、要塞に火を放って集団自決した。ユダヤ教では自殺は禁じられているので、互いに殺し合ったのである。
ローマ軍に降ったのは、隠れていた5人の子供と2人の女性だけだったという。
バル・コクバ
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
135 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
71 | 76 | 64 | 55 | 75 | 昂揚 | 扇動 | 功名 | 粗暴 | 地域振興2 | 覇道 |
ユダヤの反乱指導者。初名はシモン・ベン・コスィバ。
ローマ帝国のハドリアヌス帝は、エルサレムの「アエリア・カピトリナ」への改称と、身体を切除する行為の禁止を布告した。
後者はユダヤ教徒にとって割礼禁止と同義であり、前者もユダヤ教色の払拭を企図したものだった。
シモンはメシア(救世主)を自称して反乱を企て、131年、ラビのアキバ・ベン・ヨセフの支持を得て挙兵した(バル・コクバの乱)。
シモンはアキバにより「バル・コクバ」(星の子)の名を授かり、ナーシー(大公あるいは議長)を称した。
一時はエルサレムを占領したが、ローマ軍がセクストゥス・ユリウス・セウェルスを派遣すると戦局は逆転。
また、バル・コクバをメシアと認めず、共闘を拒んだキリスト教徒を処刑し、キリスト教との対立は決定的なものとなった。
エルサレム陥落後もベタール要塞(現:パレスチナ領)に立てこもり抗戦したが、衆寡敵せず戦死した。
『タルムード』によると、ラビのエルアザル・ハムダイの内通を疑い処刑したことで、神の加護を失ったためという。
戦後、ローマ帝国によるエルサレムの「アエリア・カピトリナ」への改称と市内からのユダヤ人追放が行われ、属州名も
「ユダエア」から「シリア・パレスティナ」に改称され、ユダヤ色の払拭が促進された。
※「ナーシー」は現代イスラエルでは、大統領を意味する語句として使われている。
イェフーダー・ハン
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
135 | 217? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
62 | 15 | 76 | 81 | 81 | 法律 | 学者 | 富豪 | 論客 | 虚弱 | 太学4 | 礼教 |
ユダヤの指導者でラビ。ナーシー(大公あるいは議長)。シメオン・ベン・ガマリエル2世の子。『タルムード』によるとダビデの家系。
ローマ帝国に処刑された、アキバ・ベン・ヨセフの命日に生まれた伝承がある。
出身地は不明だが、ウシャ(現:イスラエル領)で育った。
アキバの弟子であるホセ・ベン・ハラフタらに師事し、律法を研究した。またギリシャ語を修め、ローマ帝国との交渉役となった。
指導者となった頃、ユダヤ人社会はバル・コクバの乱鎮圧の後遺症や蝗害など、多くの苦難に悩まされていた。
ハン=ナーシーはローマ皇帝アントニウス(アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニウス、
カラカラことマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルのいずれか)と良好な関係を築いた。
非常に裕福であり、皇帝に匹敵する富を持つと喧伝された。一方で富の快楽を否定し、飢饉の時には穀倉のトウモロコシを人びとに振る舞った。
ユダヤ教の口伝律法を成文化した『ミシュナー(反復)』編纂に大きな役割を果たした。また、自身も聖書の解釈を行い、後世に伝わっている。
親愛武将:ホセ・ベン・ハラフタ、マルクス・アウレリウス・アントニヌス、マルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサル