注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
新
外戚の王莽が9年に漢を簒奪して建国。
王莽は『周礼』に則った復古改革を実施したが、全土の国有化と兼併厳禁、
秤量無視の高額貨幣の発行などは実情を無視したもので、短期間で改廃を続けた為に政治・経済を混乱させた。
また過度の中華思想から周辺諸民族を離叛させ、殊に北アジア~中央アジアでは匈奴の復権を許した。
国内でも叛乱が頻発して赤眉軍と緑林軍の拡大で瓦解状態となり、23年に緑林系の更始帝に滅ぼされた。
王莽(巨君)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
36 | 49 | 86 | 60 | 69 | 詭計 | 教化 | 学者 | 短慮 | 悪名 | 酖毒 | 政令徹底 | 礼教 |
【オウモウ(キョクン)】
前漢末の官吏・新王朝の皇帝。
一族が外戚として繁栄を極める中、苦学の末に隆盛しつつあった儒学を修め、漢に出仕。
その後は順調に出世し、国政の枢要を担う一方、儒学と予言書に基づく人気取りで
民衆の支持を受け、位人臣を極めた後、漢を簒奪し、新の皇帝に即位。
周代の治世を理想にして善政を志すが、現実性に欠けたため間もなく行き詰り、
匈奴討伐や塩鉄専売強化も失敗し、新の財政は困窮。
その後、赤眉の乱の混乱の中で横死し、新は滅亡した。
奸臣と評されるが、彼の残した礼法は後漢でも採用されている。
王邑
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
57 | 44 | 25 | 46 | 64 | 動員 | 召募 | 高慢 | 浪費 | 功名 | 戸籍整備 | 名利 |
【オウユウ】
新の大司空。大将軍王商の子。王莽の従弟。
王莽が新の皇帝に即位すると大司空に任命され、
光武帝・王常らが頴川郡に侵攻すると、王莽の命で洛陽に派遣され先発隊の王尋と合流。
四十二万の兵を「虎牙五威兵」と称し、多数の兵法家や猛獣と宝物を随行させ威風を示した。
宛への進軍途上で、荘尤の諫言を無視して昆陽城を攻囲するが、
光武帝の援軍に大敗して大混乱に陥り、指揮を放棄して敗走した。
後、大司馬に転任し、更始帝の軍勢が武関を突破し長安へ突入すると、
自ら軍を率い、王莽を守るべく奮戦するが、遂に力尽き戦死した。
王尋
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 36 | 12 | 44 | 35 | 動員 | 高慢 | 短慮 | 功名 | 施設開発 | 名利 |
【オウジン】
新の大司徒。
王莽の配下で、王莽が新の皇帝として即位すると大司徒に任命された。
十数万の軍勢を率いて洛陽に駐屯していたが、光武帝・王常らが頴川郡に進攻すると、
大司空王邑と共に四十二万の兵力を動員し平定に向かうが、昆陽の戦いで光武帝に大敗を喫し戦死した。
廉丹
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 76 | 72 | 5 | 6 | 動員 | 調練 | 悪名 | 粗暴 | 侵略荒廃 | 我道 |
【レンタン】
新の将。趙の名将廉頗の子孫で、前漢の右将軍廉褒の子。
王莽配下の将軍で、南方異民族の反乱鎮圧に向かうが疫病に苦しめられ失敗に終わる。
続いて匈奴征伐に動員されるが、荘尤が諫止して罷免されたため沙汰止みとなった。
その後、赤眉軍の勢力拡大に対し、王匡と共に精鋭十万の軍勢を率いて討伐に向かうが、
赤眉軍の別働隊を率いていた董憲と交戦して敗死した。
王舜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
64 | 68 | 55 | 52 | 56 | 特使 | 消沈 | 地域巡回 | 礼教 |
【オウシュン】
新の太師将軍。王匡の父。前漢の大司馬王音の子。王莽の従弟。
前漢に仕えて皇太后王政君、王莽らの命により、中山王を出迎え平帝として擁立した。
王莽の腹心として、簒奪の際に伝国璽を引き渡すように求める使者となった。
要求を聞いた王政君は激怒し、自身も内心は悲嘆を感じていたが、
王政君を説得して、彼女が投げつけた伝国璽を受け取り、王莽に献上した。
新創建後は新たに王莽の側近となった人物たちの台頭に押され、
心臓を患い、間もなく死去した。
王匡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
51 | 42 | 49 | 17 | 42 | 浪費 | 猪突 | 侵略荒廃 | 我道 |
【オウキョウ】
新の太師将軍。王舜の子。
赤眉軍が勢力を拡大すると、廉丹と共に精鋭十万の軍勢を率いて討伐に向かう。
東平郡で蜂起していた索盧恢を鎮圧し、続いて赤眉軍の別働隊の董憲軍に向かい、
兵士の休養が必要との廉丹の諫言を聞かず交戦、敗北し逃走した。
その後、洛陽を守備するが、更始帝配下の王匡の攻囲に洛陽は陥落し、降伏後に処刑された。
荘尤(伯石)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 63 | 89 | 72 | 75 | 機略 | 長駆 | 諌止 | 智嚢 | 三令五申 | 王道 |
【ソウユウ(ハクセキ)】
新の納言将軍(大司農)。史書では後漢の明帝の避諱で厳尤と表記される。
匈奴・高句麗との戦争に活躍するが、赤眉軍への警戒を説いたため王莽の激怒を買い免職された。
後、納言将軍として復帰し、王常の下江軍を撃破するが、劉縯に敗れ、
大司空王邑、大司徒王尋の新軍主力部隊に合流した。
宛に向かう前に昆陽城を包囲する王邑を諌めるが無視され新軍は大敗する。
陳茂と共に沛郡へ逃れ、汝南の劉望に投降し更始帝配下の劉賜を破るが、劉信に敗死した。
智略に優れ、光武帝の才能を早くから評価していたという。
哀章
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 24 | 67 | 34 | 18 | 浪費 | 強欲 | 高慢 | 悪名 | 縦横術 | 名利 |
【アイショウ】
新の将。
素行不良で大法螺を好む性質で、権勢を極める王莽に取り入るべく銅匱を製造し、
そこに王莽が「真天子」となり、当時の八人の大臣に加え王興、王盛、
そして哀章の十一人が官爵を得、王莽を補佐する等と記した。
間もなく銅匱は発見され、報告を受けた王莽は、孺子嬰を廃し自ら皇帝に即位し、
自身も国将に任命され、四輔として上公に列せられた。
反新勢力が各地で決起すると自薦して東方に派遣され、王匡と共に反新軍に当たり、
後、再び共同で洛陽を守備したが、更始帝配下の王匡の攻撃に洛陽は陥落し、降伏後に処刑された。
平晏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
27 | 8 | 71 | 62 | 42 | 能吏 | 使役 | 施設開発 | 礼教 |
【ヘイアン】
前漢末から新の政治家。前漢の丞相平当の子。
王莽の腹心で、その下で機密を管轄していた。
王莽が新を創建するとともに、太傅に任命され四輔とされている。
大司空王邑と共に洛陽に派遣され、王莽のために宗廟、社稷、郊兆の建設予定地を選定した。
劉歆(子駿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 26 | 64 | 81 | 79 | 学者 | 太学 | 礼教 |
【リュウキン(シシュン)】
前漢末から新の経学者、天文学者、目録学者。改名後の名は劉秀。
成帝の代に黄門郎となり、父の劉向と共に校訂に携わり、哀帝の代に完成させた。
これが現存最古の書籍目録の『七略』である。
また、律暦を考定して三統暦を作り、王莽の新朝では古文経の学官の国師となり、
度量衡を規定し、標準器の「嘉量」を新開発した。
後、王莽に息子を殺害されたため謀反を企てるが失敗し、自殺した。
「劉秀が天下を取る」という予言書が発見された際に目された人物で、
光武帝・劉秀が「僕じゃないって何故わかるのさ」と言った逸話が残る。
董忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
66 | 57 | 23 | 44 | 26 | 調練 | 粗忽 | 軍制改革 | 王道 |
【トウチュウ】
新の大司馬。王莽配下の武将。
匈奴攻撃を諫止した荘尤が罷免されたため、後任の大司馬に任命された。
各地で反新軍が勃興してくると、王莽の命令により、軍の訓練に従事した。
王邑率いる新の主力部隊が、昆陽で光武帝率いる漢軍に殲滅され、王尋も戦死すると、
王渉と密談し、劉歆と謀反の計画を謀るが、配下の孫伋が妻の説得により翻意し陰謀は露見。
後、参内途中に刺し殺された。
更始政権
劉玄 (聖公)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
4 | 25 | 3 | 1 | 42 |
【リュウゲン(セイコウ)】
新末後漢初の緑林軍による更始政権の皇帝。更始帝。劉縯や光武帝の族兄。
前漢の皇族の出で、賓客が法を犯したため隠棲していたが、緑林の乱の発生後に陳牧の平林軍に参加。
平林軍、舂陵軍と連合し、皇帝に擁立されて更始帝を自称した。
だが、長安遷都後は奢侈に溺れ朝政を趙萌に一任し、専権を放任。
赤眉軍が長安に迫ると、猜疑心から粛清に走り、翌年投降し、赤眉軍が擁立した皇帝劉盆子に禅譲した。
劉盆子の兄劉恭の助命嘆願で許されるが、降将の張卬は後難を恐れて讒言し、謝禄の手で殺害された。
李松
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 48 | 62 | 64 | 58 |
【リショウ】
新代の更始帝配下の丞相。後漢建国の功臣李通の従弟。
更始政権で丞相司直に任じられ、申屠建らと共に長安を攻略。
武関を破って長安へ侵攻し、王莽を斬り新を滅ぼした。
更始帝に皇帝の輿と服を送り、長安への遷都を促し、即位後丞相に昇進した。
方望・弓林が劉嬰を天子に擁立すると、蘇茂と共に更始帝の命で討伐し、
洛陽駐屯中の朱鮪と合流し赤眉軍を攻撃したが、大敗する。
叛旗を翻した王匡・張卬の軍と長安城内で戦闘し、激戦の末勝利するが、
西進してきた赤眉軍との戦いに敗北し、長安入場後に処刑された。
趙萌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 56 | 13 | 2 | 1 |
【チョウボウ】
新代の将。更始政権の右大司馬。娘は更始帝劉玄の趙夫人。
申屠建、李松と共に長安へ侵攻し、王莽を斬り新を滅ぼしたが、
先に長安入りし、玉璽や宮女、儀杖を秘蔵していた王憲を謀殺したため、三輔各地で反乱を引き起こしてしまう。
大司馬の朱鮪が左大司馬に降格すると右大司馬に任命され政治を統括し、娘を更始帝に娶わせ外戚として専横を振るう。
光武帝配下の鄧禹軍と赤眉軍が長安へ侵攻すると迎撃態勢を整え、造反した王匡、張卬らを破ったが、やがて赤眉軍の侵攻で長安は落城。
その末路は史書で触れられていない。
申屠建
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 60 | 58 | 24 | 27 |
【シントケン】
新代の将。
更始政権下で、大将軍に任じられ李松や趙萌らと共に長安を攻略。
武関を破って長安へ侵攻し、王莽を斬り新を滅ぼした。
この時、かつての学問の師の新の大司空崔発が降伏してきたが、
崔発が王莽の即位を正統化する言質を取っていたことを知ると、
丞相劉賜に崔発の身柄を引き渡し処刑させている。
更始政権の重鎮王匡が光武帝の部将の鄧禹に敗れ、さらに赤眉軍が西進してくると、
南陽へ逃れることを進言したが、更始帝は拒否。
張卬、廖湛、胡殷、隗囂と共に兵乱を計画するが失敗し誅殺された。
王匡
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 77 | 58 | 40 | 63 |
【オウキョウ】
新代の将。緑林軍の創始者の一人。
王莽の統治の末年に、同郷の王鳳と共に頭領となり緑林山に立て篭った。
軍勢は瞬く間に膨らみ、荊州牧の大軍に勝利するも疫病に苦しんだ。
そのため軍を二分し、南陽郡に入って「新市軍」と号し、陳牧や劉縯と合流。
劉玄を擁立し洛陽を陥落させ、更始帝として即位させた。
後、光武帝配下の鄧禹と戦うが大敗し、さらに長安で西進する赤眉軍と戦うが、
疑心暗鬼に陥った更始帝が部下の誅殺を行うと進退窮まり赤眉軍に降伏。
後に光武帝配下の宗広に降伏するが、変心して逃亡を計ったため宗広に捕えられ処刑された。
王鳳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
70 | 84 | 63 | 35 | 62 |
【オウホウ】
新代の将。緑林軍の創始者の一人。
王莽の統治の末年に、同郷の王匡と共に頭領となり緑林山に立て篭った。
軍勢は瞬く間に膨らみ、荊州牧の大軍に勝利するも疫病に苦しんだ。
そのため軍を二分し、南陽郡に入って「新市軍」と号し、陳牧や劉縯と合流。
その後、頴川郡で昆陽に籠城し新軍の主力部隊と戦うが衆寡敵せず降伏を申し入れるが、許されず必死で防戦。
光武帝の援軍が到着すると、呼応して新軍を挟撃し、完膚なきまでに撃破した。
更始帝の長安遷都後、宜城王に封じられ、これを最後に史書から姿を消す。
張卬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 82 | 26 | 35 | 30 |
【チョウゴウ】
新代の更始帝配下の将。
元は緑林の将だが、王常、成丹と共に「下江軍」を号し、王常を頭領に戴いた。
皇帝擁立が諸将の間で議論となると劉玄を推薦し、抜剣して地を斬りつけ議論を終止させた。
新が滅亡し更始帝が長安へ遷都すると淮陽王となる。
河東郡を守備するが、光武帝配下の鄧禹に大敗し、長安で兵乱を図るが露見し逃亡した。
造反し王匡の軍を加え、更始帝側の趙萌、李松と戦うが敗北。
赤眉軍に降伏し長安まで導き、長安を陥落させ、謝禄を唆して更始帝を絞殺させた後、史書から姿を消す。
朱鮪
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 72 | 89 | 80 | 49 |
【シュイ】
新末後漢初の将。
緑林軍の別働隊長で、推薦した盟主劉玄が更始帝として即位すると、大司馬となる。
後、劉縯を危険視し、李軼らと謀り劉縯とその部将劉稷を誅殺し、三十万の兵と号して洛陽に駐屯。
馮異に篭絡された李軼を殺害し、平陰を攻めたが、光武帝配下の馮異・寇恂に撃破され、丞相李松と合流して赤眉軍と戦うが、再び大敗した。
呉漢ら十一将が洛陽を攻囲すると、堅守し漢軍を苦しめたが、最後は岑彭から降伏を説得され、自らを縛して光武帝に降った。
光武帝は許して縄を解き礼遇し、平狄将軍・扶溝侯とした。
李軼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
62 | 73 | 60 | 45 | 7 |
【リイツ】
新代の将。後漢建国の功臣李通の従弟。
従兄の李通と共に反新の謀議を画策し、劉縯、光武帝の兄弟舂陵軍に参加し挙兵した。
劉玄が更始帝として即位した後に五威将軍に任命され、新の大軍が攻めてくると、光武帝や王鳳、王常等と共に昆陽の戦いで新軍を撃破した。
劉縯の腹心だったが、更始帝に内通し大司馬朱鮪と謀って、劉縯とその部将劉稷を誅殺。
更始帝の長安入城後、王に封じられ洛陽に駐屯する。
光武帝が南下すると、馮異の斡旋で降ろうとするが、光武帝は故意に内通の手紙を朱鮪に公開し、朱鮪に殺害された。
赤眉
樊崇(細君)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
92 | 95 | 67 | 1 | 90 |
【ハンスウ(サイクン)】
赤眉軍の頭領。
呂母の乱の後、琅琊で挙兵し泰山郡に入り三老を号した。
王莽の鎮圧軍を撃破した際、識別のため自軍兵士の眉を赤く染めたことが赤眉の由来となる。
各地を攻略した後、劉盆子を皇帝に擁立し、遂に長安を攻略して更始軍を滅ぼした。
しかし、略奪の結果として糧食に困窮したため長安を捨てて西進するが、
遠征の疲弊と大雪で多数の死傷者を出したため東方へ帰る決断をする。
漢軍の追撃から懸命に逃れ東進したが、馮異の軍に大敗し、光武帝の一大親征軍の前に降伏。
後、逄安と共に造反したため誅殺された。
逢安(少子)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 80 | 42 | 4 | 53 |
【ホウアン(ショウシ)】
赤眉軍の将。
泰山郡で挙兵した同郷の樊崇の傘下に加わった。
頴川に入り軍を二分すると樊崇の指揮下に入る。
長安で赤眉軍の主力部隊を率い、杜陵の延岑・李宝と交戦。
李宝を降伏させ優勢に立つが、これは偽降の計であり、
すり替えられた幟旗のために、本陣が奪われたと判断した赤眉軍は潰走。
谷底に雪崩れ込んで十万余の軍勢を失う壊滅的打撃を被る。
後、鄧禹の軍を各地で撃破しつつ懸命に東方へ逃走したが、馮異率いる漢軍に大敗。
許されて洛陽に妻子と共に居住したが、同年夏、樊崇と共に謀反して誅された。
徐宣(驕穉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 79 | 70 | 66 | 84 |
【ジョセン(キョウチ)】
赤眉軍の将。
県の獄吏であったが、泰山郡で挙兵していた樊崇の傘下へ同郷の謝禄、楊音と共に加わる。
頴川に入り軍を二つに分けると一軍を指揮して、陽翟・梁を攻略して河南太守を斬った。
劉盆子を皇帝に擁立した際に、『易経』に通じていたため、樊崇から丞相の地位を譲られた。
鄧禹の軍を撃破しながら懸命に東へ逃走したが、馮異率いる漢軍に大敗して降伏。
許されて、楊音と共に故郷に帰り平穏に一生を終えた。
楊音
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 81 | 56 | 15 | 64 |
【ヨウイン】
赤眉軍の将。
泰山郡で挙兵した樊崇の傘下へ同郷の徐宣、謝禄と共に参加。
頴川に入り軍を二分すると徐宣の指揮下に入る。
劉盆子を皇帝に擁立した際は大司農に任命されたが、
その宴会の席で、擁立した皇帝への無礼に激怒し騒乱を拡大させる。
周辺勢力との戦いで疲弊した結果、糧食が尽きてしまい、
鄧禹の軍を各地で撃破しながら懸命に東へ逃走したが、馮異率いる漢軍に大敗して降伏。
許されて、徐宣と共に故郷に帰り、平穏に一生を終えた。
謝禄(子奇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
81 | 80 | 22 | 2 | 40 |
【シャロク(シキ)】
赤眉軍の将。
泰山郡で挙兵した樊崇の傘下へ同郷の徐宣、楊音と共に参加。
頴川に入り軍を二分すると徐宣の指揮下に入る。
劉盆子を皇帝に擁立した際、右大司馬に任命され、長安を陥落し更始政権を滅ぼした。
その後、張卬の謀略で更始帝を絞殺する。
逄安が赤眉軍の主力を率い延岑・李宝の討伐に向かう際、
漢軍の鄧禹が長安を急襲したが、市街戦の末、鄧禹を撃破する。
逄安が大敗したために懸命に東へ逃走するが、馮異の漢軍に大敗し降伏。
許されて洛陽に移住したが、後に更始帝の仇として殺害された。
新末後漢初の群雄・将士
鄧奉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 93 | 72 | 65 | 80 |
【トウホウ】
新末後漢初の将。鄧晨の甥。
南陽郡で反新の挙兵をし、赤眉軍の侵略から南陽を守り抜く。
光武帝の即位後、叔父鄧晨と同様に臣従し、破虜将軍となる。
だが、大司馬呉漢が荊州の群雄を討伐に向かった際、
故郷新野が呉漢軍に略奪の被害を受けたため激怒し、呉漢軍を破り造反する。
岑彭らを退け、賈復を負傷させ、朱祜を捕虜とするほどの軍略を示すが、
遂に光武帝の親征に敗北し、小長安での決戦に大敗。
進退窮まり、捕虜の朱祜の仲介で漢に降伏する。
光武帝は赦そうとしたが、諫言を受けて処刑された。
董憲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 86 | 81 | 48 | 82 |
(別案)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 75 | 35 | 31 | 55 |
【トウケン】
新末後漢初の群雄の一人。
初めは赤眉軍の別部校尉で、新の討伐軍十万を成昌で戦い撃破した。
樊崇の赤眉軍本隊が西進すると、東海郡で群雄の一人として独立し、
梁で皇帝を自称した劉永の統治を受け入れて翼漢大将軍に任命された。
漢軍との戦いで劉永が戦死すると、その子の梁王劉紆の陣営でも梁軍の重鎮となる。
漢軍の蓋延と龐萌の軍を撃退し蘭陵を陥落させ、漢に反逆した龐萌を帰順させた。
しかし光武帝の親征により大敗を喫し、劉紆を守って東海郡へ逃亡。
光武帝に降伏しようとしたが、降伏を阻止しようと追撃してきた呉漢によって斬られた。
蘇茂
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 78 | 66 | 34 | 70 |
【ソモ】
新末後漢初の将。劉永軍の大司馬。
初め更始帝に仕えて、方望、弓林らが挙兵すると丞相李松と共に鎮圧した。
その後、洛陽を守備する朱鮪に帰属し、賈彊と共に馮異、寇恂と交戦。
しかし、賈彊が戦死する大敗を喫し、洛陽へ退却した。
同年、朱鮪が洛陽を開城して光武帝に降伏すると蘇茂もこれに従った。
蓋延と共に梁王劉永の討伐に従軍するが、蓋延と反目して離反し、
劉永の元に寝返り大司馬に任命されて、以降漢軍と戦い続ける。
劉永死後も漢軍に抵抗するが、光武帝の謀略により、盟友の張歩に暗殺された。
※補足
史書には敗戦の記述が多いが、光武帝や馮異等、当代屈指の用兵家との力量差を考えれば止むを得ないところがある。王覇には用兵の才と軍の精鋭さを高く評価された。
隗囂(季孟)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 64 | 86 | 81 | 85 |
【カイゴウ(キモウ)】
新末後漢初の群雄の一人。隗純の父。
方望を軍師として招聘し、「漢室復興」を掲げ郷里で挙兵。
十万の大軍で周辺を攻略し、隴西から敦煌までを支配した。
更始帝の長安入城後、方望の諫止を聞かず長安に向かい右将軍に任命された。
光武帝の即位後は破格の待遇を受け臣従するが、後、蜀の公孫述について反旗を翻した。
しかし、来歙の計で腹心王遵や安定を守備する高峻らが調略され、
天水を奇襲され窮地に陥るが、降伏勧告を拒否して抗戦した。
公孫述の救援が間に合ったが、直後に病死した。
公孫述(子陽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 71 | 79 | 83 | 86 |
【コウソンジュツ(シヨウ)】
新末後漢初の群雄の一人。扶風茂陵の人。
若くして統治の才を発揮し、王莽の代、蜀の太守として能名を馳せた。
赤眉の乱の最中、漢中から四川で、宗成と王岑が漢軍の将を称して挙兵すると、
輔漢将軍・蜀郡太守兼益州牧を称し、彼らを討伐して蜀の地で独立し、蜀王を僭称した。
漢中・武都を支配下に置き、陳倉に進出するが、光武帝の功臣の鄧禹・馮異と三輔にて交戦し敗退。
光武帝の蜀遠征では来歙・岑彭を暗殺するも、遂に呉漢に成都を包囲され、防衛戦で戦傷死した。
成都開城後、一族は呉漢によって一人残らず誅殺された。
延岑(叔牙)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 87 | 76 | 32 | 65 |
【エンシン(シュクガ)】
新末後漢初の群雄の一人。
更始帝配下の劉嘉に従い漢中に入ると造反し、南鄭・武都・天水・陳倉・杜陵を転戦。
長安の赤眉軍を撃破し漢の鄧禹の攻撃を退けるが、
馮異・耿弇に敗北し、黎丘の秦豊に帰順。
秦豊の滅亡後は漢中へ敗走し、蜀の公孫述の傘下で大司馬となる。
しかし、蜀討伐軍の岑彭の迂回・奇襲作戦に大敗し、
公孫述から策を問われると、次は決死隊による奇襲策で呉漢を破り、臧宮に連勝した。
だが、公孫述は戦傷死し、延岑は降伏したが、赦されず族滅された。
光武帝の天下統一に最後まで抵抗し続けた闘将。
匈奴
烏珠留
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 84 | 87 | 76 | 73 |
【ウシュリュウ】
前漢末新初の匈奴の単于。呼韓邪単于の子。烏累単于、呼都而戸単于の兄。
弱体化した匈奴の存続に尽力し、烏孫の襲撃や烏桓の反抗を退け、前漢の領土割譲要求も粘り強い交渉で切り抜ける。
前漢で王莽が台頭すると、強圧的な要求を数多く突きつけられるが、呼韓邪単于以来の前漢との和親を堅持し、王莽からの要求を呑み続けた。
しかし、皇帝に即位して新を建てた王莽から、匈奴の地位の格下げを一方的に通告されると、ついに怒りを爆発させて挙兵。
長城を越えて雲中郡、雁門郡、朔方郡へ侵入し、太守や都尉を殺して人や家畜を掠奪した。
烏累
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
73 | 62 | 89 | 85 | 68 |
【ウルイ】
新代の匈奴の単于。呼韓邪単于の子。烏珠留単于の弟。呼都而戸単于の兄。
烏珠留単于が新と開戦した時、王莽の計略で息子たちと一緒に拉致され、無理やり単于に即位させられるが、直後に脱出して匈奴に帰還する。
烏珠留単于が新との戦いの最中に死去すると、王昭君の娘である須卜居次云の意向で単于となり、新と停戦した。
しかし、新に残してきた息子が処刑されていたことを知ると、表向きは新との和親を維持して多大な賞賜を受け取りながら、
裏では兵を繰り出して新の北辺を寇掠し、新に戦時体制を強いて国力を消耗させた。
呼都而戸
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
97 | 98 | 83 | 45 | 89 |
【コトジシ】
新末後漢初の匈奴の単于。呼韓邪単于の子。烏珠留単于、烏累単于の弟。
冒頓単于の再来を自称し、新の混乱に乗じて烏桓や鮮卑、西域諸国を従属させるなどして、匈奴の黄金時代の復興を目指した。
新の滅亡後は、中国北部における群雄の勢力争いに介入し、張畢、彭寵、盧芳らを援助して光武帝と対立する。
光武帝の天下統一後も辺境への侵略や略奪を繰り返し実行し、後漢と敵対するが事業半ばにして死去。
中興の祖を失った匈奴は内乱状態に陥り、匈奴最後の黄金時代は終わりを迎えた。