みんなの新武将/明/明(中期)

Last-modified: 2023-03-31 (金) 07:08:11

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



朱棣

生年登場没年死因
136013701424自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9792909675梟雄虚実疾走振興悪名倒山傾海斉射撹乱鼓舞投石文事武備覇道

【シュテイ】
明の第3代皇帝。成祖永楽帝。
北元対策のため燕王に封じられたが、
建文帝が諸王削藩を進めると挙兵し、建文帝を滅ぼし即位する(靖難の変)。
その経緯から譜代以外の家臣を信用せず、
君主権拡大の一方、大学士や宦官を抜擢し、東廠に言論統制を布かせる等、
太祖の方針を一転させ明の国制を決定的にした。
二大事業に漠北遠征と南海経略があり、殊に六次の南海経略は宦官の鄭和を提督に任じ、
三十余国の朝貢を齎した。
江南の輿論を嫌い、北京?へ奠都した結果、政治と経済の中心地が再び分離されたが、
大運河の改修で漕運が活発化し、南北の結合が本格的に進んだ。

朱高煦

生年登場没年死因
13801420不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8496372541掃討疾走強欲癇癪粗暴黄鬚剛勇鋒矢強化我道

【シュコウク】
明の皇族。永楽帝の次男。
父譲りの巨体に武勇に秀でて靖難の変では父と共に軍を率いて活躍した。
父の即位後に兄である朱高熾(洪熙帝)が柔弱である事から太子の候補として挙げられていたが、
粗暴な性格を父から嫌われて太子には選ばれず代わりに雲南の高陽王に封ぜられるも任地に赴くのを
拒否し、次いで青州の漢王となるも拒否した。
父が崩御し兄の洪熙帝も在位僅かで崩御すると洪熙帝の子朱瞻基が即位して宣徳帝となるが、
朱高煦は甥への反乱を企んだ事で捕縛され重さ300斤以上の銅釜に閉じ込められ、怪力で釜の蓋を持ち上げるも焼き殺された。

親愛武将:丘福
嫌悪武将:朱高熾(洪熙帝) 朱瞻基(宣徳帝)

姚広孝(斯道)

生年登場没年死因
133513481418自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5054928343学者占術智嚢策士悪名

【ヨウコウコウ(シドウ)】
明の政治家。出家しており、号を道衍という。
仏法や陰陽道を学び、兵法にも通じていた。容貌は魁夷だったという。
洪武帝に見出され、燕王朱棣(後の永楽帝)に仕える。
洪武帝が崩御し建文帝が即位すると、燕王府解体を命じられた朱棣に挙兵を促す。
靖難の変では軍師として活躍し、建文帝の軍を打ち破り、朱棣の即位を成し遂げた。
その後、永楽帝に功績第一と称えられ重用され、類書「永楽大典」の編纂などに携わった。
しかしながら儒教思想に反した皇位簒奪を勧めた批判も強く、
晩年には郷里の親族や知人から面会を拒否されるほどであった。

丘福

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7691172350掃討果敢操舵直情猪突鋒矢強化覇道

【キュウフク】
明の武将。
燕王朱棣(後の永楽帝)に仕え、朱能・張玉とともに北平?を攻略。
真定、白溝河の戦いで功績を上げ、夾河、滄州、霊璧の戦いでは常に先鋒を担った。
朱能と密かに数百の兵を率いて淮河を渡河し、盛庸の軍に大勝した。
策謀では張玉に及ばないが、勇敢さでは朱能と並ぶと評された。
永楽帝即位後、武の功臣第一位とされ淇国公となる。
漢王朱高煦の立太子工作を行うが、成功しなかった。
十万の軍を率いて北元のオルジェイ・テムル討伐に赴く。
敵を軽んじないよう忠告されるが、千人の兵でヘルレン河を渡河し伏兵に遭って戦死した。

朱能(士弘)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8885764275

【シュノウ(シコウ)】
明の武将。
燕王朱棣(後の永楽帝)に仕え、朱棣の挙兵に従い張玉らと北平?(北京)を奪う。
建文帝の討伐軍として北上した耿炳文、李景隆を破る。
南進して平安、徐福らの軍を破るも、疫病の流行や糧秣が尽きたため撤退論が出る。
その中、朱能は諸将を鼓舞して南進続行を進言する。
朱高煦が建文帝の補給を奪うと、これに乗じて霊壁で大勝し十万の兵を捕虜とし、その勢いをもって南京?を陥落させた。
永楽帝即位後、功臣第二位とされ成国公となる。
その後、胡朝(ベトナム)征伐に向かうも、遠征途上で陣没した。

張玉(世美)

生年登場没年死因
13431400不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8790706279

【チョウギョク(セイビ)】
元、北元、明の武将。
元および北元に仕えていたが、明の執拗な攻勢の前に洪武十八年に明に降る。
以後は燕王朱棣に仕え、その筆頭武将として燕王府の軍を指揮する。
靖難の変で朱棣が北平?にて挙兵すると、?を攻略し、真定で耿炳文を撃破する。
李景隆の軍が北上すると、白溝河での迎撃を進言しこれを打ち破った。
燕王軍が盛庸の大軍と遭遇し東昌で包囲されると、決死の兵を率いて奮戦。
包囲を突破し朱棣を逃がすことに成功するも、張玉は戦死した。
その死に際して朱棣は慟哭し、永楽帝即位後に栄国公と河間王を追贈された。

張輔(文弼)

生年登場没年死因
137513941449不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9086763865

【チョウホ(ブンヒツ)】
明の武将。
父の張玉に従って靖難の変に参加、父の戦死後は朱棣の南征に従い功績を上げる。
朱能の配下として胡朝征伐に向かうと、途上で朱能が陣没したため軍を引き継ぐ。
胡朝軍を打ち破って首都タインホアを攻略、交阯布政司を置いて唐以来のベトナム服属を成し遂げた。
その後も頻発するベトナムの叛乱を鎮圧し、ベトナムの人々に畏怖された。
洪熙帝の代に漢王朱高煦が簒奪を計画すると、これを張輔が洪熙帝に報告し叛乱を鎮めた。
晩年、エセン・ハーンの侵攻に対する英宗親征に随行するも老兵として軍政に関わらず、土木の変で戦死した。

金玉

生年登場没年死因
1421自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7271613953

【キンギョク】
明の将軍。京師応天府(現:南京)江浦県の人。
父の跡を継ぎ、羽林衛となった。靖難の変で永楽帝に従い、その功績で
薛禄・郭義・劉栄・朱栄と同時に爵位を授与され、河南都指揮使に任命された。
1408年、鷹揚将軍となり、北伐(モンゴル征伐)に従軍した。
この時、敵が置いていった牛・羊などの家畜を接収している。
1416年、山西の賊・劉子進を討伐した功績で、恵安伯に封じられ、禄900石を与えられた。
1421年、死去した。

鄭和

生年登場没年死因
137113821434自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9577869594洞察長駆求心水戦操舵連環の計突撃斉射駆逐強襲水軍育成5覇道

【テイワ】
明の部将・宦官。三保太監。賽典赤伯顔(サイイド・アジャッル・バヤン)の曾孫。
雲南・昆陽出身のムスリムで、本姓は馬、幼名は三保。
北元の梁王が勢力を維持していたが、1382年に明に平定された際に父は殺され、馬和は去勢され宦官にされた。
永楽帝の宦官となるが、靖難の変で軍功を挙げ、鄭姓を下賜され太監となる。
南海への大船団の指揮を委ねられ、七度に渡る大航海を行う。
東南アジアからインドへ船団を進め、四度目の航海ではアラビア半島、五度目の航海では東アフリカへと到達している。
この過程で東南アジア諸国の朝貢を促し、国威発揚と海上交易に貢献したが、
彼の死後には費用や儒教の観点から対外積極策は打ち切られた。
彼の大航海は欧州の大航海時代を半世紀以上先取りするものである。

王振

生年登場没年死因
1449不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5345101徴税高慢強欲悪名惰弱太学名利

【オウシン】
明の宦官。
蓄財を目的に自ら去勢して宦官となり皇太子であった頃の正統帝(英宗)の教育係であった事から
正統帝の即位後は次第に朝廷を壟断、王振に実権を握られた朝廷は完全に腐敗し農民反乱等の社会
不安が強くなり、北方ではオイラートのエセンが台頭した。
王振は朝廷内部での強い反対を押し切りエセン討伐の親征を強行、自らも従軍したが土木堡で大敗し
正統帝は捕虜となり、自らは配下の樊忠によって殺害された。

于謙(延益)

生年登場没年死因
139814201457不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8658899284堅牢詐謀召募慰撫詩想先従隗始王道

【ウケン(エンエキ)】
明の政治家、武将。
進士及第後に御史となり、漢王朱高煦の乱では親征軍に同行して投降した朱高煦の取り調べを行う。
以後、河南と山西の巡撫を行い、善政を敷いて民心を得る。
中央召還後、エセン・ハーンの侵攻に対する親征を諌めるも、英宗は出兵し捕虜となる(土木の変)。
この事態に南宋の先例に倣い景泰帝を擁立し、全軍権を委任されて北京?を防衛しエセンを撃退する。
その後、英宗返還のために謀略を駆使して講和を結び、英宗は無事に帰還する。
しかし、奪門の変により英宗が重祚すると、英宗擁立派に反逆罪を誣告され処刑された。

曹吉祥

生年登場没年死因
1461不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6337765213教唆高慢強欲縦横術名利

【ソウキッショウ】
明の宦官。
正統帝の時代に権勢を振るっていた王振に接近して監軍となり鄧茂七による反乱等に従軍、
武官に接近して王振に次ぐ権勢を得るようになるが土木の変で正統帝が捕虜となり王振が
殺害された後は景泰帝により一時失脚した。
しかし石亨と組んだ奪門の変において景泰帝を退位させて正統帝を天順帝として復位させて
実権を握り政敵であった于謙を処刑し石亨と共に権勢の限りを尽くして「曹石」と呼ばれた。
しかし次第に天順帝に疎まれ、その末に反乱を起こすも未遂に終わり処刑された。

石亨

生年登場没年死因
1460不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7884365325疾走眼力屯田高慢強欲三令五申我道

【セキキョウ】
明の武将。
華州渭南県の出身で騎射に秀で大刀をよく使い、辺境防衛に功績を挙げ屯田を企画したり
将才登用の道を講じたりしていた。
土木の変で逃げ帰った事で一時投獄されたが釈放されて于謙に協力して北京防衛に功績を挙げて
太子大師となるも驕慢な振る舞いが多く曹吉祥らと共に奪門の変を起こして于謙らを殺害し英宗
を復位させて忠国公となるも、驕慢な振る舞いは続き甥の罪に連座して処刑された。

徐有貞(元玉)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1815777834改修文化占術高慢強欲礼教

【ジョユウテイ(ゲンギョク)】
明の政治家。
天文・地理・兵法・水利・陰陽・方術等に通じて天文により南遷論を唱えたが、あまりにも奇異であった為に于謙と対立した。
1452年には張秋河の治水に尽力し数年後に洪水が起きた際は徐有貞が工事を担当した部分は無事であった。
曹吉祥や石亨らによる奪門の変に協力して累進を重ねたが于謙を失脚させた事で不興を買いさらに協力した
曹吉祥により投獄され晩年は郷里に帰った。

葉宗留

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7063322546

【ヨウソウリュウ】
 慶元の鉱夫。当時、慶元は銀山や農民への搾取が最も激しく、鉱山の独占によって失業した鉱夫の野盗化が深刻だった。 葉宗留もそうした盗賊の一人であり各地で貪官豪富を襲って貧民に配分した。 葉宗留は中国史上でも代表的な鉱賊の一人であり、彼の戦死後も乱は継続したが、結局それは地域叛乱にすぎなかった。