注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
王守仁(伯安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 75 | 94 | 87 | 92 | 洞察 | 掃討 | 規律 | 教化 | 学者 | 機略縦横 | 文事武備 | 王道 |
※個性の組み合わせ不可能(洞察/規律)
【オウシュジン(ハクアン)】
明の政治家、武将、思想家。陽明学の始祖で、号は陽明。
宦官劉瑾の専制を批判し左遷されるが、左遷先で陽明学を起こす。
劉瑾処刑後に中央へ戻り、江西・福建・広東で住民が蜂起するとこれを平定。
寧王の乱が生じると、檄を飛ばして江西の諸将を集め、南昌を急襲して陥落させる。
黄家渡で寧王朱宸濠を破り、鄱陽湖で寧王の船団に火を放って壊滅させ、
乱を短期間で鎮圧した功績で「大明軍神」と称えられた。
その後も江西・広東の慰撫に務め、少数民族の叛乱を鎮めるなどの功績を上げた。
広東からの帰還途上で肺の病を患い、没した。
※相性的に同郷の学者虞翻?と合わせると良いかと。
唐順之(応徳)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
77 | 91 | 79 | 52 | 71 | 一騎 | 詩想 | 楽奏 | 教化 | 学者 | 太学 | 礼教 |
【トウジュンシ(オウトク)】
明の武将。人呼んで「荊川先生」
倭寇やモンゴルと戦った武将であり、明の名将戚継光の先輩格でもある。
拳法・槍術を得意とし、戚継光に槍術を伝授するほどの腕前だったという。
また学識広く、天文、地理、楽律、兵法、数学にまで通じた。
詩文にも優れ、日本では江戸時代『荊川先生文集』がよく読まれた。
武術関連では『武編』のほかに詠詩「楊教師鎗歌」「日本刀歌」「峨嵋道人挙歌」などの作品で知られる。
張居正(叔大)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
40 | 17 | 87 | 95 | 47 | 王佐 | 能吏 | 徴税 | 法律 | 強欲 | 政令徹底 | 名利 |
【チョウキョセイ(シュクダイ)】
明の政治家。
徐階に見出され、当時政治を壟断していた厳嵩の排除に協力する。
その後も政敵を排除し、万暦帝の代に政治の独裁権を握った。
倭寇で増大した軍費により国庫は破綻寸前だったため財政改革を行い、考成法を実施して大量の冗官を処分する。
さらに丈量と一条鞭法を実施して国庫を再建し、十年分の糧秣と余剰金を生み出した。
女真族が活発化し北辺が脅かされると、戚継光と李成梁を用いて北辺の守備に当たらせている。
しかし、独裁や言論弾圧などの強硬手法により政敵も多く、病没後に弾劾され死刑扱いとなった。
戚継光(元敬)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
96 | 86 | 84 | 62 | 90 | 規律 | 水戦 | 築城 | 召募 | 調練 | 三軍強化 | 王道 |
【セキケイコウ(ゲンケイ)】
倭寇およびモンゴル軍を撃退した明を代表する名将。
戚継光は倭寇の被害が著しい浙江へ赴任するが、そこの官軍があまりに弱体化していた。
そこで戚継光は、住民が精悍なことで知られた金華・義烏の地で兵を募り、
厳しい訓練を施して精強な自らの軍隊を組織した。
戚継光は軍律を明らかにし、信賞必罰で兵士に臨んだため、決して略奪などは働かない
精鋭部隊となり、「戚家軍」と呼ばれ倭寇制圧の中核となった。
後に北方に赴任するが、そこでも在任16年間にわたってモンゴルの侵略を防いだ。
戚継光が著した『紀効新書』『練兵実紀』は後世の兵法家の必読書となっている。
兪大猷(志輔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 91 | 80 | 12 | 88 | 掃討 | 豪傑 | 猛者 | 水戦 | 操舵 | 水軍育成 | 王道 |
【ユタイユウ(シホ)】
明の武将、武術家。号は虚江。
若い頃より易経を学び、剣と棍と騎射に優れた。
武挙に及第し千戸を授かるが上司に疎まれ失職、しばらく不遇となる。
広西の叛乱鎮圧に起用され活躍、海南を平定する。
後期倭寇が活発化すると十数年にわたって「兪家軍」を率いて迎撃し、戚継光、劉顕らと倭寇を駆逐した。
時の権力者・厳嵩の一派に阿らなかったため幾度も免職するが、その度に倭寇討伐の功績を上げて復官した。
清廉正直な人柄で、倭寇討伐の名将として戚継光と名声を等しくする。
また、武術家として「剣経」などを著している。
馬芳(徳馨)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 92 | 88 | 34 | 72 |
【バホウ(トクケイ)】
明の武将。
十歳の時にモンゴルに掠取される。
狩猟で虎を射倒しアルタンの側付となるが、下賜された良弓良馬を用いて帰還する。
モンゴルの侵犯防衛で戦功を重ねて累進し、行伍から太帥にまで昇りつめた。
敵情に通じて伏兵詭計を見破りつつ、常に先陣に立って奮戦するという戦いぶりで、
戦闘中に兜を脱ぐと敵軍が「馬太帥!」と驚愕して撤退するほどだった。
馬蓮堡防衛では空城の計を用い、敵の退却時に突撃して十万の軍勢を大破している。
大小百余りの戦いで数十の負傷をしつつ、常に寡兵で戦いながら大勝しないことはなかったという。
李成梁(如契)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 87 | 74 | 72 | 31 |
【リセイリョウ(ジョキツ)】
明の武将。朝鮮から亡命した一族の出身。
遼東総兵となり、二十年以上に渡ってモンゴル、女真の侵攻を防いだ。
この間、王杲や速把亥といった国境を侵す女真族の首領を討った。
女真を統御するため女真族を互いに争わせるため煽動し、
覚昌安と塔克世が殺害されると、塔克世の息子努爾哈赤(ヌルハチ)の後ろ盾となる。
しかし、着服や賄賂などの汚職、流民を虐殺して虚偽の戦勝報告をするなどの悪行が発覚し免職された。
免職と時を同じくして努爾哈赤が女真を統一し、李成梁の行動を「七大恨」と奉じて明と交戦状態に入った。
李贄(宏甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
71 | 35 | 89 | 74 | 71 | 文化 | 学者 |
【リシ(コウホ)】
明の思想家。号は卓吾。
王陽明(王守仁)の流れをくむ陽明学の左派リーダーとして名を馳せた。
地方官吏としての生活を送っていたが、54歳の時に引退し思想家として活動する。
李卓吾は「童心(飾りの無い無垢そのものの心)」を重視し、儒教の伝統的な価値観を徹底的に批判した。
著書『蔵書』において歴史上の人物を、儒教的基準で一律に評価できないと主張し、
素行の悪い司馬相如、姦雄と評された曹操?、何度も君主を変えた無節操な馮道など、
悪評の高い歴史上人物を称賛している。また男女に優劣の差はないという思想の持ち主であり、女性の弟子も受け入れた。
あらゆる価値や権威を否定した李卓吾は危険思想家として弾圧を受け、最期は投獄されて獄中で自刎した。
その先進的思想は後の知識人に大きな影響を与え、日本でも幕末維新の思想家・吉田松陰に強い影響を与えている。
劉綎(省吾)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 91 | 56 | 68 | 31 |
【リュウテイ(ショウゴ)】
明の武将。倭寇討伐で活躍した劉顕の子。
劉顕の苗族討伐に従軍し功績を立てる。
ビルマの侵犯に対応し、象兵を打ち破って雲南を回復する。
文禄の役で四川兵を率いて朝鮮に二年間留まった。
慶長の役で再び朝鮮に赴いて小西行長らと戦い、撤兵交渉を行って順天倭城に入る。
四川兵に日本軍の火器を導入し播州の乱の鎮圧に貢献したが、
驕って官吏を殴打したため禄を半年没収されている。
サルフの戦いで友軍の敗戦を知らずに深入りし戦死した。
馬上で百二十斤の鉄刀を飛ぶように用い「劉大刀」の異名で呼ばれ、諸将の中で最も驍勇とされた。
※入力する場合、「綎」の字は「廷」などを代わりに当てる。
なお、生年は1553年、1558年、1560年と諸説ある。