みんなの新武将/明/明(末期)

Last-modified: 2023-08-21 (月) 23:25:06

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



朱由検

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5549646759使役法律消沈優柔王道

【シュユウケン】
明17代目の最後の皇帝。崇禎帝。
明14~16代で乱れた国政*1を立て直すために奮起し、その手始めとして悪名高い奸臣の魏忠賢を追放し、名臣として名高い徐光啓を登用するなど国政改革に取り組んだ。
しかし猜疑心が強いという悪癖を有しており、特に山海関での防衛を一手に引き受けていた名将袁崇煥を誅殺したことは致命的であった。*2これがきっかけで後金・清に降った軍人も多く明が滅亡した原因としてこれも挙げられてしまう。
1634年李自成の順軍は北京を包囲し、3月19日に北京は陥落した。
崇禎帝は家族の自害等を見届けた後、危急を知らせる鐘を鳴らしたが、文武諸官はすべて逃亡し、君側に参じたのは宦官の王承恩ただ一人であった。*3
ここにいたって紫禁城の北にある景山で首を吊って自殺した。

熊廷弼(飛百)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8579848779

【ユウテイヒツ(ヒヒャク)】
明の武将、政治家。号は芝岡。
遼東経略の楊鎬がサルフの戦いで大敗すると、後任の経略となる。
サルフから逃げ帰った武将を処罰して城濠を修復し、兵器と火器を揃え防御を固めた。
ヌルハチの瀋陽侵攻を撃退するも、不仲の御史たちに弾劾され職を去った。
瀋陽・遼陽が相次いで陥落すると再び遼東経略に任じられる。
しかし遼東巡撫の王化貞は驕慢で、熊廷弼の忠告に従わず広寧を失陥する。
熊廷弼は死戦を繰り広げて山海関へ退却した。
後に姦臣の魏忠賢により領土失陥の罪を追求され処刑されたが、後に冤罪として名誉回復された。

補足:最大の戦犯である王化貞は賄賂を送って助命されたが、魏忠賢誅殺後にそれが発覚し処刑された。

孫承宗(稚縄)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9060878271
9060938271

【ソンショウソウ(チジョウ)】
明の政治家、武将。科挙に榜眼で合格した。
広寧失陥後に兵部尚書に任じられ、後に自ら志願して遼東に赴任する。
軍制を整えて袁崇煥らに軍備を整えさせ、軍内の綱紀を改め馬世龍に軍を監督させた。
遼寧など九つの城、四十五の堡を修復し、十一万の軍を屯田させ、後金に備えた。
しかし、柳河の戦いで馬世龍が敗戦すると、魏忠賢と対立し辞任する。
袁崇煥が捕縛されると山海関の守将となって後金の侵攻を防ぐが、
袁崇煥が処刑されたため祖大寿が清に投降してしまい、罷免される。
清の第四次侵攻の中、故郷の高陽城で抗戦し戦死した。

徐光啓(子先)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3822938775

【ジョコウケイ(シセン)】
明末の政治家。農学者。科学者。上海の人。
貧しい生活の中勉学を重ね、43歳の時にようやく科挙に合格する。
キリスト教宣教師のマテオ・リッチやダ・ローニャと親交を結び、西洋文化・科学に関心を持つ。
崇禎帝の時に宰相となり、清の侵攻に対する代案として、西洋の火薬製造技術の導入を提案した。
西洋の暦法を取り入れて、明の暦(大統暦)を改修するとともに、西洋暦学・科学の本を次々と翻訳した。
マテオ・リッチの協力を得てユークリッド幾何学を翻訳した『幾何原本』を刊行したり、
中国古来の農学者の説を集大成した『農政全書』を編集するなど、自らの主要な研究をたゆまず継続した。
なお徐光啓が策定した暦は明では用いられなかったが、後の清では新暦として採用された。

茅元儀(止生)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
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【ホウゲンギ(シセイ)】
明の軍学者、武将。号は石民や東海波臣、夢閣主人など。
幼少から文才を発揮し、18歳で北京国子監に遊学。
後に孫承宗の命で従軍して、その軍機に参画し実戦上で活躍した。
明代の軍事百科全書で有名な『武備志』は、26歳から28歳の3年間で完成させたものだという。
これ以外に十数種の史学著作、詩文集を残した。
晩年は人にそしられて左遷され、清朝が興り各地に反乱が勃発する中、明朝を憂い酒に溺れて没した。
『武備志』は清朝では発禁書となったが、日本では翻訳版が出て武士階級に普及した。

馬世龍(蒼淵)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8487742750

【バセイリュウ(ソウエン)】
明の武将。別字に蒼元。
武挙に及第して孫承宗に才を認められて兵を統率し、袁崇煥の東巡に従い形勢を調査して帰還する。
軍費の増大が馬世龍に原因があるとして誣告されるが、孫承宗の弁護により不問となる。
降将の言を入れて耀州に軍を派遣するも、派遣軍は柳河の戦いで壊滅し、弾劾されて職を去った。
その後逮捕されたが、後金の侵攻を受けると再度起用される。
祖大寿とともに遵永の戦いで四城を回復し、祖大寿に次ぐ功績を立てた。
寧夏総兵となると、オルドス(モンゴルの部族)を撃ち破り西方を震撼させた。

※特技は寧夏で地形を生かした戦い方(伏兵による挟撃)をして連戦連勝しているので「掎角」か「待伏」あたりか。

袁崇煥(元素)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9465928488伏龍屯田求心堅牢築城不撓不屈大喝足止鼓舞投石文事武備4王道

【エンスウカン(ゲンソ)】
明末の武将。広東省東莞の人。
本来は科挙に合格し、進士に及第した文官だったが、仕官時に軍事に関心を持っていたとされる。
後金対策のため、寧遠城を築城し、ポルトガル製の大砲(紅夷砲)を導入する等防備を固めた。
この策は当たり、後金のヌルハチ、ホンタイジの侵攻を阻止出来たが、
買収された宦官の讒言で崇禎帝から謀反の嫌疑を被ったため、凌遅刑にされた。
諸葛孔明?に準えられた軍略と、兵への慈愛に満ちた将であり、彼の処刑は明の崩壊を決定づけた。
後、彼の子孫は皮肉にも後金・清に仕えて昇進している。

毛文龍

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6568425440方円強化名利

【モウブンリュウ】
明末の武将。杭州府銭塘県の人。
最初は遼東総兵李成梁に仕え、武功を挙げた。
ヌルハチ率いる後金(後の清)が遼陽府を陥落すると、広寧巡撫王化貞のもとで左都督となり、遼東半島沿いの住民を慰撫して、鴨緑江下流付近を奪回した。
しかし、同年末にヌルハチの反撃を受けると、王化貞から離反して、李氏朝鮮の平安道鉄山沖の椵島や身弥島に亡命したが、これは丁卯胡乱勃発の原因にもなっている。
後に、明の寧遠城の守将袁崇煥と対立し、毛文龍は明の朝廷に賄賂を贈って、自身に有利になるように動いた。同時に後金の一門の阿敏と戦うも、大敗して逃げ戻る有様であった。
袁崇煥は毛文龍が敗戦を繰り返していながら、朝廷に賄賂を贈って、同時に交易で儲けており、それが人々を苦しんでいる元凶となっていると判断した。
ついに袁崇煥は朝廷に毛文龍が職務怠慢であると上奏して、独断で彼を逮捕して、斬首に処した。

李自成

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8589705490掃討遠矢求心再起賊徒倒山傾海斉射連弩鼓舞衝車侵略荒廃我道

【リジセイ】
明末期の農民反乱の指導者。
明軍に処刑された前指導者・高迎祥を後を継いで『闖王』を名乗り反乱軍の首魁となった。
均田と免糧をスローガンとして西安を陥落させると、国号を“順”と改めた。
その後も北京を陥とし、崇禎帝を自殺に追い込み明を滅ぼした。
しかし、ドルゴンと呉三桂の連合軍に敗れて農民に殺害された。

曹文詔

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8989804772

【ソウブンショウ】
明の武将。
勇毅と智略があり、熊廷弼、孫承宗の麾下として遼東で遊撃任務を担当し軍功を重ねる。
馬世龍の参将となり遵永の戦いで活躍する。
陝西で民衆蜂起が起こると鎮定に赴き、各地を転戦して反乱の首領を次々と討ち取るか捕縛していった。
高迎祥・李自成・張献忠らを河南に追い詰め包囲するも、配下の王朴の失策で取り逃がす。
後金の侵攻では懐仁を固守するが、後金軍の撤退の際に追撃を仕掛け敗れている。
その後も洪承畴らと反乱鎮圧で功績を重ねるが、李自成を追撃中に包囲されてしまう。
数十人を斬るが力尽き、自刎した。

盧象昇(建闘)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8789766984

【ロショウショウ(ケントウ)】
明の政治家、武将。号は九台。
幼い時から読書と騎射を好み、白い肌の文人ながら腕力にも恵まれていた。
ホンタイジの侵攻に対し「天雄軍」を組織し、高迎祥率いる反乱軍に対抗する。
兵糧が切れると自ら食事を絶って兵の信頼を得、高迎祥を撃ち破る。
その後も反乱軍に連勝を重ね、高迎祥を湖広まで追いやった。
清が侵攻の気配を見せると北京?で練兵を行い、清軍を掣肘する。
大軍を整えた清軍の侵攻に対し、寡兵ながら慶都・真定で清軍を食い止める。
宦官の高起潜に援軍を求めるが拒否されたため、孤軍で死戦を挑み戦死した。

張献忠

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
73846211梟雄掃討強奪悪名賊徒侵略荒廃10我道
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【チョウケンチュウ】
陝西省出身の軍人で、法を犯し除籍され反政府運動に参加。
清に逐われ60万の叛乱軍を擁して四川に入り、大量虐殺の限りを尽くした。
嗜虐癖の異常に強い人間で、忽ち陥落させた重慶で民衆と降兵3万7千を集め1人ずつ惨殺。
成都?を占領すると大西王朝の皇帝に「即位」した。
先ず成都守備軍の士官とその家族32万人を集め、その15歳以上の者を全員殺害、
屍は城外に延々と数十kmに渡り積上げられた。
この頃から自らに「1日200人」の殺害を課し、
兵士がいなくなれば僧侶を、次は職人、男、女と、虐殺を続けたが、勿論王朝役人も無関係では無かった。
また宮殿前で喜捨を行う触書を出し四川中から数万の僧侶を集め、軍を投入し鏖殺。
科挙を行うとの偽情報で集まった1万7千もの知識人を機械的に斬首し屍は川に遺棄、
民衆達の激しい抵抗には「草殺」で根絶やしにしていった。
殺害人数で恩賞が決定した為に我先にと兵卒は殺戮を行ったが、
大量虐殺による人口激減により軈て「食人」の様相を帯びる。
四川を文字通り喰らい尽して放棄する処を清に征伐された。
彼の行為に因り古代より続く四川人は壊滅し、
現代の四川人は州外から流入した民衆の末裔である。その為か言語も北京語に近い。


*1 ただし、15代目の父でもある泰昌帝は即位1ヶ月で亡くなったそれも謀殺された可能性もあるため、これにはカウントしづらい面も
*2 このあと、山海関を守ったのはあの悪名高き呉三桂。守備自体はこなしていたが、李自民が紫禁城を制圧したことにより清に降ってしまう
*3 他には、彼及び明朝に忠義を尽くしていたのは秦良玉?くらい