注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
曹魏(220~265)
開祖の曹操?は東漢末の群雄の1人で、自らの拠る許(許昌?市)に献帝を迎え、
袁紹?を滅ぼし河北を制して丞相として全権を掌握し、
赤壁で孫権に敗れ、天下統一は頓挫したものの、後には関中も平定して魏王とされた。
嗣子の曹丕?に至って献帝から禅譲され、洛陽?を都として魏王朝を樹立し、
明帝?の代には遼東の公孫淵を滅ぼし、高句麗を大破して朝鮮北部にも威令を及ぼした。
曹操は法治を重んじ、国力回復の為に大規模な屯田制を実施したが、
同時にこの時代は貴族制への移行期でもあり、曹操幕下にも多くの名流子弟が加わっており、
文帝の時代に始められた九品官人制は後に貴族制の定着に大きく寄与した。
朝臣の貴族化は明帝・斉王?代に進行し、貴族文化の先鞭として清談が流行したが、実権は宗族の曹爽?、
ついで河内豪族の司馬懿?に遷り、以後は司馬氏が天子の廃立を行ない、265年に元帝?が司馬懿の孫の司馬炎?に簒奪された。
文帝?が曹操?の継嗣となる経緯から魏は一族を冷遇した為に藩屏と呼べる存在が事実上存在せず、これが司馬氏の簒奪を容易にしたとされる。
皇室(宗室)
※夏侯氏もここに含んだ。
曹袞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
24 | 21 | 75 | 79 | 83 | 文化 | 節約 | 太学 | 覇道 |
【ソウコン】
曹操の子。母は杜氏?で秦朗?は異父兄。中山恭王。
幼い時から学問を好み十余歳で文章を著したが、
熱中し過ぎて体調を心配され諌められるほどだった。
他の兄弟達が遊興に耽る中、一人経典に打ち込み称賛されるが、
これを聞くと更に自らを戒めた。
封地では倹約に努め、妃妾達にも紡績や機織りを行わせた。
来朝した際に京の交通の禁を犯して訴えられたが、曹叡は平素の恩行から配慮を示した。
病に倒れると、曹叡は勅命で侍医を派遣し、太妃や曹林(同母弟)も遣わしたが、病没した。
生涯で2万余言の文章を著し、文才は曹植に及ばなかったがよく交流を持った。
曹遵
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
189 | 227 | 自然死 |
【ソウジュン】
曹真?の従弟。早世したため、曹真は哀れんで遺児に領地を分け与えた。
『演義』では、曹真配下として登場。諸葛亮の北伐を防ぐために出陣するが、魏延?に討たれた。
※死因は正史準拠
曹彦
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
215? | 249 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
31 | 33 | 30 | 34 | 30 | 文化 | 優柔 | 混乱 | 鋒矢強化1 | 礼教 |
【ソウゲン】
曹真?の子。曹爽?・曹羲?・曹訓?の弟。
曹爽が大将軍になると、散騎常侍・侍講に任ぜられた。
後に司馬懿?が政変を起こした際に兄達と共に処刑された。
※能力の数字は『三国志Ⅲ』のデータの半分(魅力は割り切れないので端数切り上げ)。
曹泰
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 69 | 47 | 38 | 68 | 剛将 | 胆力 | 動転 | 奮戦 | 激励 | 軍制改革2 | 覇道 |
【ソウタイ】
曹仁?の子。
222年に曹丕?が親征した濡須口の戦いに従軍するが朱桓?に敗れている。
翌年、父が死去すると跡を継ぎ、後に鎮東将軍に任じられた。
曹肇(長思)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
244 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 60 | 54 | 58 | 71 | 調練 | 奮戦 | 挑発 | 三令五申 | 覇道 |
【ソウチョウ(チョウシ)】
曹休?の子。
曹叡とは大変仲が良く、散騎常侍・屯騎校尉を歴任する。
曹叡が危篤になった時も遺言によって曹宇・秦朗・夏侯献と共に曹芳を支えるように指名されていたが、孫資・劉放らの画策で免職された。
正始年間に没し、息子の曹興が後を継いだ。
※没年は中国語版Wikipediaによる。
※親密武将:曹叡・曹宇・秦朗・夏侯献
※嫌悪武将:孫資・劉放
曹冏(元首)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
38 | 37 | 64 | 61 | 51 | 法律 | 戸籍整備 | 覇道 |
【ソウケイ(ゲンシュ)】
曹騰の兄・曹褒の曾孫。曹丕とは一族の同世代に当たる。
曹丕が魏皇帝に即位すると、漢代以上に宗室(皇族)の仕官を制限し、官職に就けるのは比較的遠縁に限られていた。
244年、曹冏は『六代論』と題して夏・殷・周・秦・漢・魏の制度を比較し、現状の宗室への極端な冷遇を改め、
重職に取り立てて国家の支えとするよう説いた。曹芳?はまだ子供だったので、実権を握る曹爽?を説得したが、
曹爽は採用しなかった。のちに弘農太守になった。
西晋で、司馬亮のもとで樹機能征伐に従軍した軍司・曹冏と同一人物であるかどうかは不明。
また、西晋の武帝?は、『六代論』が曹植?の作と聞き、子の曹志に質問したことがあった。
曹志が調べた結果、「目録にはありませんでした」。武帝「誰の作だ?」、曹志「臣の族父の曹冏と聞いています。
高名な父王にあやかって、書を後世に残そうと仮託したのではないでしょうか」。武帝は「昔からよくある事だ」と納得したという。
夏侯衡(伯権?)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 61 | 52 | 54 | 68 | ||||||||||||
70 | 61 | 52 | 54 | 73 |
【カコウコウ(ハクケン?)】
魏の将。字は不明だが伯権と考えられる。
夏侯淵の長男で、夏侯績の父、夏侯褒の祖父、夏侯覇?の兄。海陽哀侯の娘を娶る。
太和年間に関内侯の爵位を賜り、父の死後、安寧亭侯を継ぐ。
彼の死後、その子・夏侯績が跡を継いだ。
夏侯称(叔権)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
203? | 220? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 74 | 31 | 21 | 54 | 遠矢 |
【カコウショウ(シュクケン)】
夏侯淵の3男。
子供の頃から近所の子供を集めて軍旅を編成し、戦争の真似事をしていた。
夏侯淵から項羽?伝と兵書を読むよう命じられるが従わなかった。
16歳の時に狩りで虎と遭遇し、夏侯淵に止められるが馬を駆って一箭のもとに打ち倒す。
これを見た曹操?から「我は汝を得た!」と賞賛された。
曹丕と対等な友人関係にあったが、18歳で没した。
※生年は203年に設定。
史実武将として登場する次男の夏侯覇?(202年)と四男の夏侯威?(204年)の中間。
夏侯充
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 55 | 50 | 61 | 58 |
【カコウジュウ】
夏侯惇の長男。夏侯楙の兄。
父の死後、家督を継いでいる。
列女
丁氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
39 | 9 | 62 | 59 | 81 | 応援 | 本草学 | 王道 |
【テイシ】
曹操?の初代正室。子に恵まれず、生母を亡くした曹昂を代わりに愛育した。
しかし、張繍?による宛?奇襲の際に曹昂は曹操の身代わりとなって戦死。
愛する子を失った悲嘆で、彼女と曹操の仲は冷え込んでしまう。
曹操は気持ちが修復するのを待つため一旦は彼女を実家に帰らせるが、
心の溝は終生埋まらず、そのまま離縁。
その後、側室の一人である卞氏が後継の正室として迎えられた。
卞氏は丁氏への時候の挨拶、贈り物などを欠かさなかったため、
彼女は以前の自身の非を反省し、深く感謝したという。
親愛武将:曹昂 卞氏
毛氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
237 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 15 | 58 | 46 | 74 | 傾国 | 本草学 | 覇道 |
【モウシ】
司隷河内郡の人。曹叡の最初の皇后。父は毛嘉、母は夏氏。弟は毛曾。
身分の低い家の出で、曹叡が平原王の時に側室になった。美貌で寵愛され、曹叡は自分と同じ車に乗ることを許した。
曹叡が即位すると、正室の虞氏に代わって皇后に立てられた。
しかし、やがて曹叡の寵愛は郭氏に移った。237年、曹叡は後園(宮廷の裏庭)で毛皇后をのけ者にして
郭氏や女官たちと宴を催した。郭氏は皇后を招くよう勧めたが、曹叡は許さず、箝口令を敷いた。
しかし、毛皇后の耳に入り、翌日曹叡に会うと「昨日の北園での宴は、楽しまれましたか?」といった。
曹叡は、話を漏らしたとして女官ら十人ほどを殺し、毛皇后を自害させた。諡は明悼皇后。
郭氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
263 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 10 | 52 | 65 | 78 | ||||||||||||
45 | 10 | 52 | 69 | 80 |
【カクシ】
涼州西平郡の人。曹叡の二人目の皇后。父は郭満、母は杜氏。
反乱に連座して後宮に連行された。曹叡のお気に入りとなり、曹叡は嫉妬した毛皇后を自害させ、郭氏を皇后に冊立した。
曹叡の死後、曹芳によって皇太后となり、永寧宮と称した。以降、魏の実権を握った曹爽?・司馬懿?・司馬師?・司馬昭?は、
みな表向きは皇太后の令を根拠に権力を振るった。司馬懿はクーデターに際して、郭太后の支持を取り付けている。
司馬師・司馬昭は、郭太后とのパイプを維持するために、太后の従兄弟に当たる甄悳に相次いで娘を嫁がせた。
司馬師が曹芳を廃立すると、後継に曹據を推したが、郭太后は曹髦?を推し、郭太后の主張通りに曹髦が即位した。
しかし、曹髦が司馬昭を討とうとして敗死すると、表向きは郭太后を討とうとした事にされ、郭太后は曹髦を廃位させ、庶民として葬るように命じた。
司馬孚?の上奏で、曹髦は王の礼式で葬られた。263年12月に死去し、曹叡に合葬された。諡は明元皇后。
※司馬氏の魏簒奪のキーパーソンの一人。
劉曼
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
38 | 4 | 57 | 50 | 70 | 応援 | 王道 |
【リュウマン】
後漢の献帝(劉協)の娘。母は曹節。
王沈『魏書』によると、魏成立後の223年、曹丕は山陽公夫人となっていた曹節に湯沐邑を下賜し、
劉曼を長楽郡公主に封じ、各々五百石の領地を与えた。
※母が献帝に嫁いだのは213年なので、生年は214年以降と推測できる。
夏侯徽(媛容)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
211 | 234 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 3 | 74 | 65 | 80 | 才媛 |
【カコウキ(エンヨウ)】
司馬師?の前妻。夏侯尚?の娘、夏侯玄?の妹。
見識のある女性で、司馬師は事有るごとに先ず彼女に計画を語って助言を受けていた。
しかし司馬師が魏の純臣でないと気付いたため、司馬師に忌まれ24歳の時に毒殺された。
晋が成立すると司馬師の後妻である羊徽瑜の働きかけにより、皇后位が追贈された。
司馬師との間に五女を設けたが、男子は生まれなかった。
阮氏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
36 | 12 | 78 | 62 | 25 | 智嚢 | 察知 |
【ゲンシ】
許允の妻。阮共の娘。子に許奇、許猛。
醜女であり、許允は結婚しても彼女を避けていたので、親類は子供ができないことを心配した。
桓範は見かねて二人を仲介してやり、許允も阮氏の才智を認めて尊重するようになった。
李豊らの誅殺後、許允は鎮北将軍に任命されると、「私はどうやら免れたぞ」といった。
阮氏、「災いが間近に迫っているのに、どうして免れたと云えましょうか」。果たして許允は、司馬師によって非業の最期を遂げた。
阮氏は許奇、許猛の二人の子を儲けていた。鍾会?が司馬師の使者として面会を求めると、阮氏は子供に指導した。
「あなたたちは優れているが、才能が多いとはいえない。鍾会には率直に話をして、儀礼的以上に悲しみの態度を取らないようにしなさい。
朝廷の話も少しはしてよいでしょう」。二人がその通りにしたところ、鍾会は父に連座させる必要は無いと報告したため、罪を免れた。
二人の子は西晋に仕え、許奇は司隷校尉、許猛は幽州刺史にまでなった。
中国四大丑女(醜女)の一人とされる。
親愛武将:桓範、許允