注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
東南アジア
カンボジア
ジャヤーヴァルマン7世
クメール王朝最盛期を築いた国王。「阇耶跋摩七世」。
遠征軍を指揮している間に父が殺されたのを受けて帰国し、国内に潜伏。
後にチャンパ王国に占領された都城アンコールをゲリラ戦で開放し、これを復興した後に王位に就いた。
以後、相次ぐ反乱やチャンパ王国の再侵攻を乗り切り、数々の遠征を行って領土を広げた。
熱心な仏教徒で人格的にも優れていた彼は、国内に多くの寺院や病院を作り道路を整備し、それらを民に開放した。
しかし、その事業や祭礼の為に重税と労役が課され、財政は逼迫。クメール王朝は衰退へと向かうことになった。
タイ
ラームカムヘーン
タイのスコータイ王朝第3代君主。
初代君主シー・インタラーティットの子で1279年に兄のバンムアンから王位を継承した。
その業績は自らが残した「ラームカムヘーン大王碑文」にて残されており、武勇に秀でて
敵国の王と一騎打ちで勝利した事や国民の為に自身に直訴できる機会を与えたり商売の自由を
認める等の善政が行われ、後世にてタイ三大国王の一人に数えられる。
ナレースワン
タイのアユタヤ王朝第21代国王。サンペット2世とも。
ビルマの従属化にあったアユタヤ王朝の独立を回復するのに成功した。
武勇に秀でてムエタイはナレースワンの時代の軍隊訓練が始まりとされ、
1593年のノーンサライの戦いには戦象に跨り一騎打ちでビルマの太子ミッチット・スラを討ち取っている。
「黒の王」の異名を持つ他、後世にてタイ三大国王の一人に数えられる。
山田長政
【ヤマダナガマサ】
17世紀前半にタイのアユタヤ朝に仕えた日本人。
若い頃は駿河国沼津の籠かきに過ぎなかったが(出自は諸説あり)、
海外雄飛を試みてアユタヤの日本人町に流れ着き現地の日本人町の長となり
アユタヤ朝のソンタム王の元で日本人傭兵を率いて功績を挙げて官位を貰い王女を娶ったとされる。
ソンタム王の死後は王族のシーウォーラウォンと協力してチェーター王の即位に尽力したが、
後にチェーター王を暗殺したシーウォーラウォンと対立、南のリゴール太守に左遷され戦場で毒を盛られて死亡した。
タイ側の資料では彼の存在は確認できず、非実在人物とも考えられる。
※信長の野望シリーズでも登場するが、武勇60代に他は40代と総じて低めの傾向なので伝説的な活躍の側面を重視して高めに査定
コンスタンティン・フォールコン
【コンスタンティンフォールコン】
17世紀後半にタイのアユタヤ朝に仕えたヨーロッパ人。
ギリシャのケファロニア島にてイタリア人の父とギリシャ人の母の間に生まれ、若くしてイギリスの東インド会社に入り、
やがてタイに縁を得てアユタヤ朝のナライ王に仕えて重用された。
西洋の知識と語学力を活かして砦や副首都の建設、ヨーロッパとの交渉にて活躍し政府の最高顧問となるが
ナライ王にキリスト教への改宗を勧めた事やフランス軍を城内に入れた事が王族や高官の不満を招き暗殺された。
ラーマ1世
【ラーマイッセイ】
現在まで続くタイのチャクリー王朝の祖。
漢字では拉瑪一世。「清史稿」は鄭華と呼ばれ「大南寔録」では質知と呼ばれる。
アユタヤ王家の血を引きアユタヤ王朝がビルマにより滅亡した後、
タイからビルマ軍を駆逐しトンブリー王朝を築いたタークシンに仕え配下の武将として功績を挙げ出世していった。
後にタークシンが精神錯乱になるとタークシンを殺害して自らが王位に就きチャクリー王朝を築いた。
ビルマの侵攻を撃退し法律の整備や文学の復興を進め、多数の寺院を建設した。
また「三国志演義」のタイ語への翻訳を配下に命じ、翻訳作品は「サームコック」と呼ばれて人気を博しタイ文学に大きな影響を及ぼした。
ラーマ5世
タイのチャクリー王朝第5代国王。
即位後に欧米視察を行い「チャクリー改革」と呼ばれる政治改革を進めて
奴隷制の廃止、官僚制と議会制の導入、学校教育の開始といった近代化を進めた。
外交においても当時植民地化が進みつつあった東南アジアにおいて独立を維持するのに成功している。
ラームカムヘーン、ナレースワンと並び後世にてタイ三大国王の一人に数えられる。
フィリピン
東南アジアの島国。大小7641の島を支配している。
B.C.65000年頃、カヤオ人が住んでいたことが遺跡から明らかになっている。B.C.28000~23000頃、ネグリト族が移住し、次いで古マレー族が移住した。
その後はマレー系の移民が進み、多くの海洋国家や独立した土豪が成立した。
伝説的な国家も含めると、ルソン島のトンド王国(呂宋国)、ミンドロ島の摩逸国、ミンダナオ島のブトゥアン王国(蒲端国)、ビサヤ諸島のセブ王国やマジャ・アスなどが知られる。
14世紀にイスラム教が広まると、スールー諸島のスールー王国、ミンダナオ島のマギンダナオ王国がイスラム教を奉じた。
1521年、スペインのマゼランの上陸を皮切りに、スペインの侵攻が始まった。1529年のサラゴサ条約で、ポルトガルにフィリピン領有を認めさせると、
植民地を拡大し、貿易拠点として日本や、その鎖国後は明・清の移民で栄えた。しかしイスラム諸国は300年以上にわたってスペインに屈しなかった(モロ戦争)。
19世紀になると独立運動が盛んとなり、1898年、米西戦争が起きるとアメリカ合衆国は戦争協力を条件に、フィリピンの独立に協力すると表明した。
しかし、米国が勝利すると、スペインからフィリピンの領有権を獲得。1899年、エミリオ・アギナルドはフィリピンの独立を宣言したが、米比戦争によって米国の植民地となった。
1915年、米国がフィリピン全土の支配者となったが、1934年、10年後のフィリピン独立を承認した。1942年、第二次世界大戦で日本がフィリピンを占領すると、
1943年、日本はフィリピン独立を承認した。しかし連合国側は独立を認めず、1945年、米国に再占領された。
1946年7月4日、改めて米国より独立し、マヌエル・ロハスが大統領となった。
ラプ=ラプ
セブ島の東方、マクタン島の領主。名は「セラプラプ」とも。ムスリム。
マクタン島は、ラプ=ラプとズラの2人の領主が治めていた。1521年、スペインのマゼランがセブ島に上陸すると、
セブ島の領主ラジャ・フマボンをスペインに臣従させ、キリスト教に改宗させた。
さらにマゼランは、周囲の領主に臣従と貢納を要求した。ズラを含む多くの領主が従う一方、ラプ=ラプは拒否した。
4月28日、マゼランはズラの手引きでマクタン島に侵攻したが、岩礁や珊瑚礁に阻まれ船は接岸できなかった。
マゼランらは小舟で上陸を図ったが、甲冑の弱点が足にあることを見抜いたラプ=ラプ軍は毒矢で足を狙い、弱ったところでマゼランを討った。
伝承ではラプ=ラプが一騎討ちで討ったとされているが、史実では無いという。
のちにフィリピンがスペインに征服されると、ラプ=ラプはフィリピンの英雄として尊崇されるようになった。
マレーシア
谷豊
【タニユタカ】
昭和時代初期にマレー半島で活動した日本人盗賊。
福岡県の出身でマレーシアのクアラ・トレンガヌに移住した。
一時日本で働いたが満州事変の影響で暴動を起こした華僑が妹を殺害したのを機にマレー半島に戻り盗賊団を結成、
主に華僑を中心に強盗を働いて一時は三千人の部下を率いたとも云われ、「ハリマオ(マレー語で虎の意味)」と呼ばれた。
太平洋戦争において英領であるマレー半島の制圧を目指す日本軍の諜報機関に協力、物資運搬や諜報活動、破壊工作に従事したが
日本軍のマレー半島進出の中、マラリアに罹りシンガポールで病死した。
その死後は戦意高揚の為に英雄として祭り上げられ、漫画や映画等が作られた。