注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
蜀漢(221~263)
開祖の劉備は西漢景帝の裔であり、黄巾の乱に義兵を興してより各地を転戦し、
荊州寄寓のおりに諸葛亮ら名士層と結んで赤壁の役で荊南を確保し、
更に益州を併せて三国鼎立の形勢をなした。
219年には荊州を失って益州のみを支配し、221年に曹丕の禅譲に対抗して称帝したが、
翌年には夷陵の役で呉に大敗し、人材面でも深刻な損失を被った。
劉備の死後は丞相の諸葛亮が雲南地方の安定と開発、対呉関係の修復、荊州閥と益州閥の融和に尽力し、
魏に対しては227年より度々北伐を行なったものの、補給の困難から思うような成果をあげられなかった
諸葛亮の死後は外征を控え、国力の涵養と人材育成に努めて小康を保ったが、
費禕の横死特に陳祗死後は劉禅に寵遇された宦官黄皓が朝政を壟断した上、
大将軍姜維の度重なる北伐と相俟って国力が著しく疲弊し、263年に魏軍によって滅ぼされた。
なお、魏によって簒奪された漢朝の後継を称しているため、正式な国号は「漢」であり、「蜀」と公称したことはない。
前漢・後漢と区別する必要があるときは、「季漢」(末っ子の漢)と称した。「蜀」「蜀漢」はいずれも通称、あるいは魏側からの呼称。
皇室(宗室)
劉林
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
55 | 62 | 40 | 37 | 52 | 召募 | 軍制改革 | 覇道 |
【リュウリン】
劉封?の子。
父が処刑された際に助命され、後に牙門将となった。
蜀滅亡後は河東に移住した。
劉胤
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
227? | 244 | 256 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
30 | 17 | 51 | 53 | 64 | 虚弱 | 戸籍整備2 | 王道 |
【リュウイン】
劉理?の子。母は馬超?の娘。244年に父が死ぬと、安平王の地位を継ぐが、若くして死去する。諡号は哀王。後を継いだ息子の劉承も父の死の翌年に急死した。
後にこれを嘆いた劉禅によって劉胤の弟の劉輯が王位に立てられた。
※生年はゲーム上の父親の生年と史実である没年からの逆算で227年以外に設定の選択肢は無いといういう意味で。
一般臣下
馬斉(承伯)
生年 | 登場 | 没年 |
241年以前(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
37 | 38 | 70 | 72 | 67 | 能吏 | 政令徹底 | 王道 |
【バセイ(ショウハク)】
蜀の文官。
益州巴西郡閬中県の出身で巴西太守となった張飛の功曹となり、
張飛の推挙によって尚書郎となる。
建興年間に従事丞相掾及び広漢太守となり諸葛亮の死後は尚書となった。
親愛武将:張飛
孫狼
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
219? | 不自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
57 | 55 | 49 | 38 | 54 | 強奪 | 侵略荒廃 | 王道 |
【ソンロウ】
弘農郡陸渾県の平民。
218年、陸渾県長の張固は、曹操?軍の命令で、漢中?攻防戦のために人夫を徴発しようとした。
住民はこれを嫌がり、孫狼らを首謀者として反乱を起こし、県の主簿を殺した。
張固は在野の名士の胡昭の元に逃れた。
孫狼らは関羽?を頼り、印綬を授けられ、武器を供与された。
孫狼らは陸渾県で掠奪を行ったが、胡昭の住む長楽亭だけは、「胡居士は賢者だ、部落に危害を加えてはならない」
と手を出さなかった。その後の消息は不明。関羽敗死と共に、曹操軍に鎮圧されたのだろうか。
親愛武将:関羽
黄元
生年 | 登場 | 没年 |
223年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 67 | 22 | 18 | 16 | 直情 | 粗暴 | 業火 | 侵略荒廃 | 我道 |
【コウゲン】
蜀の武将。
劉備が死去した際は漢嘉太守であったが諸葛亮とは不和であり反乱を起こした。
諸葛亮不在で手薄になった成都を狙うが陳曶・鄭綽率いる追討軍に敗れ、
捕らえられた末に処刑された。
嫌悪武将:諸葛亮
陳曶
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 62 | 59 | 46 | 55 | 地利 | 地勢研究 | 割拠 |
【チンコツ】
蜀の武将。
劉備が死去した直後に漢嘉太守・黄元が反乱を起こして手薄になった
成都攻略を狙う中で楊洪の推挙で鄭綽と共に討伐に従事し、南安峡を
封鎖して黄元を撃破した。
岑述(元倹)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 43 | 51 | 54 | 48 | 運搬 | 兵站改革 | 王道 |
【シンジュツ】
蜀の武将。
張裔が留府長史であった際には司塩校尉であったが、激しい対立関係にあり
諸葛亮は張裔に手紙を送り嗜める程であった。
その後の北伐の際には督運領として李厳の下で北伐軍への食糧輸送を担い、
第四次北伐で李厳が食料輸送を怠り北伐軍の撤退を招いた際、李厳により罪を
なすりつけられ殺害されそうになるが李厳の罪が発覚して事なきを得た。
嫌悪武将:張裔
李盛
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
228 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
46 | 40 | 39 | 31 | 46 | 補佐 | ||||||||||||
46 | 40 | 39 | 31 | 46 | 猪突 | 長蛇強化 | 我道 |
【リセイ】
蜀の将。いつ頃から劉備陣営に加わったかも明らかでは無い。
北伐で馬謖の副将を務めたが、最後は、主将たる馬謖の作戦の責任を取って処刑。
正史に伝は立てられていない。
張休
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
228 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
42 | 50 | 35 | 33 | 42 | 補佐 | ||||||||||||
42 | 50 | 35 | 33 | 42 | 高慢 | 鋒矢強化 | 我道 |
【チョウキュウ】
蜀の将。いつ頃から劉備陣営に加わったかも明らかでは無い。
北伐で馬謖の部将を務めたが、最後は、上記の李盛同様主将たる馬謖の作戦の責任を取って処刑。
正史に伝は立てられていない。
張裕(南和)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
219? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
6 | 8 | 65 | 60 | 50 | 占術 | 眼力 | 智嚢 | 粗忽 | 太学 | 礼教 | |||||||
6 | 8 | 63 | 59 | 50 | 占術 | 眼力 | 智嚢 | 粗忽 | 挑発 | 太学 | 礼教 |
【チョウユウ(ナンワ)】
後漢末の政治家。
図讖の術に長けており、当時無名だった鄧芝の人相を見て「70歳を過ぎて大将軍となり侯に封ぜられる」と予言し、
鄧芝は予言通りに70歳を越える高齢で車騎将軍となった。
劉璋に仕えていた時、劉璋の従事として劉備との会談に同席し、劉備は張裕の髭が豊かであったのを見てからかった。
それに対し、張裕は髭のない劉備にあてつける形で「潞涿君」(ひげの薄い人物の意)と言い返した。
劉備が益州を占領すると、その家臣になった。漢中を占領しようとする劉備に対し、敗北を予言した。
しかし、劉備は曹操軍を撤退させ漢中を手に入れたので、張裕の予言は外れたのだと理解した。
建安の末に、張裕は漢朝の滅亡と劉備の死を予言したため、これを聞いた劉備は「潞涿君」のこともあったため激怒し、
漢中についての予言が当たらなかったことを口実に張裕を処刑しようとした。
諸葛亮は張裕の助命を嘆願したが、結局劉備によって処刑された。
親愛武将:鄧芝
彭羕(永年)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
178? | 194 | 214? | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
25 | 17 | 73 | 64 | 34 | 調練 | 法律 | 強欲 | 高慢 | 政令徹底 | 我道 |
【ホウヨウ(エイネン)】
後漢末の政治家。
まず劉璋に仕えたが、驕慢な性格だったために髠鉗(頭髪を剃られ、刑具に付けられる)にされ奴隷に落とされた。
劉備の入蜀の際に龐統に会い意気投合し、龐統と法正に推挙されて劉備に仕える。
劉備が軍令を諸将に伝える役割を与えると見事にこなして賞賛された。
劉備が益州牧となると治中従事に任じられるが次第に驕るようになり、諸葛亮の進言で江陽太守に左遷される。
劉備への誹謗を馬超に漏らしたため、処刑された。
演義では、孟達への書状が馬超に見つかって処刑され、孟達が魏に寝返ることになった。
親愛武将:龐統
※生没年不詳だが、処刑されたのは214年といわれる(生年は178年)。
演義では、孟達の出奔との関係から没年は220年となる(生年は184年)。
黄柱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
30 | 34 | 66 | 73 | 67 | 法律 | 政令徹底 | 王道 |
【コウチュウ】
蜀の政治家。南陽出身。
劉備が漢中王に即位すると光禄勲に任じられる。
許靖?、糜竺?、諸葛亮?、頼恭?、王謀?とともに劉備に対して皇帝即位を上奏した。
頼恭、黄柱、王謀の3名は蜀漢成立時の重職にあったが、
業績の記録が失われていたために蜀書に立伝できなかったと陳寿は記している。
李邈(漢南)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
234 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
17 | 9 | 62 | 53 | 43 | 智嚢 | 短慮 | 罵声 | 挑発 | 墨守研究 | 割拠 |
【リバク(カンナン)】
蜀の政治家。李朝?の兄。
劉璋のもとで牛鞞県長を務め、劉備が益州牧となると従事となる。
新年の謁見の際に「劉璋に賊討伐を委託されたのに劉璋を滅ぼしたのは甚だ宜しくない」と直言し、
劉備に殺されそうになるが、諸葛亮の執り成しで許された。
犍為太守、丞相参軍、安漢将軍を歴任する。
第一次北伐で馬謖を斬ろうとする諸葛亮を諌めたが、諸葛亮の意図を理解できず蜀へ還された。
諸葛亮の死後、「諸葛亮は狼虎のような危険人物で、蜀は安全になった」と劉禅に慶賀を述べたため、
怒った劉禅により獄に下され誅殺された。
嫌悪武将:諸葛亮
劉邕(南和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
68 | 63 | 64 | 68 | 73 | 親蛮 | 地域振興 | 王道 |
【リュウヨウ(ナンワ)】
蜀の武将。義陽出身。
劉備の入蜀に従い、益州の平定後に江陽太守となる。
諸葛亮が丞相府を開府すると、蒋琬?が茂才に推挙されるが、
蒋琬は最初固辞して、劉邕、廖淳らに譲ろうとした。
劉禅の代に監軍、後将軍を歴任し、関内侯に封じられる。
「季漢輔臣賛」では尚篤で、輔匡とともに異民族に当たる任務で活躍したと評されている。
杜微(国輔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
31 | 36 | 71 | 68 | 73 | 学者 | 太学 | 割拠 |
【トビ(コクホ)】
蜀の政治家、学者。梓潼出身。
広漢の仁安に学び、劉璋に仕え従事となる。
病気と称して辞職し、劉備の入蜀後も聾と称して門を閉ざして出なかった。
諸葛亮が丞相となると主簿の位を打診されるが固辞する。
諸葛亮が親書を認めて復帰するよう求めるとようやく応じ、諌議大夫に任じられた。
演義では、諸葛亮が出師表を上奏して北伐に赴く際に、
留守を託す諸臣の一人として名を挙げられ、尚書に任じられている。
李譔(欽仲)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
18 | 10 | 72 | 62 | 34 | 学者 | 占術 | 発明 | 太学 | 割拠 |
【リセン(キンチュウ)】
蜀の政治家、学者。梓潼出身。
[演]諸葛亮が出師の表を上奏したのち、漢中に出陣。軍中で博士に任命された。
[史]父の李仁は尹黙とともに荊州を遊学して司馬徽らに師事し、五経・諸子を学んだ。
さらに算術・占術・医術・弓射・機械などの技に通じており、李譔はその業績を全て伝授された。
劉璿が立太子されると、その養育係となって劉璿に近侍した。
劉璿には寵愛されたが軽佻な性格だったため、世間からは重んじられなかった。
易経、尚書、詩経、礼記、左氏伝などの古文に注釈を行う。
その内容は当時主流の鄭玄のものとは異なり、会ったことはないが魏の王粛の見解と似ていた。
景耀年間に没した。
親愛武将:尹黙
※景耀年間は258から263年。
「譔」の字は「撰」や「巽」の字を代わりに当てる。
楊顒(子昭)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
24 | 34 | 69 | 73 | 78 | 能吏 | 諌止 | 戸籍整備 | 王道 |
【ヨウギョウ(シショウ)】
蜀の政治家。楊儀の宗族。
巴郡太守を務めた後、諸葛亮の主簿となる。
ところが諸葛亮が自ら下役の仕事である簿記校正を行っていたため、
「治には礼があって、上下の職分を侵すべきではない。」と述べ、
「自ら帳簿に記入まで行って一日汗を流してもただ労するだけだ」と諫言した。
諸葛亮は諫言を受け入れて謝り、楊顒を東曹属として選挙(官吏の人事)を司らせた。
楊顒が死ぬと、諸葛亮は三日泣き続けたという。
劉琰(威碩)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
234 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
66 | 57 | 40 | 53 | 24 | 文化 | 論客 | 酒乱 | 粗暴 | 縦横術 | 王道 |
【リュウエン(イセキ)】
蜀の重臣。魯国出身。
劉備の予州時代から仕え、風流で言論に巧みであり同姓であることから厚遇された。
劉備の蜀平定後、固陵太守に任じられ、劉禅の代には車騎将軍まで昇進した。
しかし、自身の酒乱癖や魏延との折り合いから、諸葛亮に更迭され成都へ戻された。
最期は妻の胡氏が劉禅と私通したと疑い、鞭打ちなどして離縁したため、処刑された。
『演義』では諸葛亮の第1次北伐に従い、攻略した安定城を守備した。
嫌悪武将:魏延
袁綝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
55 | 51 | 46 | 58 | 56 | 召募 | 政令徹底 | 王道 |
【エンチン】
潁川の人。出身地から、豫州時代もしくは新野時代より劉備に従ったものと思われる。
蜀の前将軍。李厳の処罰を諸葛亮らと協議した際に名が見えるのみ。
事績は残っていないが、官職としては、魏延、劉琰に次ぎ、呉懿・呉班・高昇と同位であり、高位であった。
「華陽国志」では、後に征西将軍となったと記録されている。(ただし、前将軍より位が下がるため、征西大将軍の間違いと推測される)。
※241年成立の「季漢輔臣賛」に収録されていないため、没年はそれ以降か。
薛永(茂長)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
61 | 54 | 42 | 45 | 48 | 長駆 | 地域巡回 | 王道 |
【セツエイ(モチョウ)】
呂布?の将、薛蘭?の子。劉備?に従い入蜀し、蜀郡の太守となる。
薛斉(夷甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
60 | 58 | 61 | 67 | 70 | 動員 | 戸籍整備 | 王道 |
【セツサイ(イホ)】
薛永の子。巴郡と蜀郡の太守になり、蜀漢が滅亡すると5千戸をともなって魏に降り、光禄大夫となった。
尚挙
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
173 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
20 | 24 | 69 | 73 | 58 |
【ショウキョ】
蜀の重臣。
後漢の滅亡後、諸葛亮や許靖・麋竺らと共に劉備に皇帝即位を勧めた重臣の1人。
※能力値と生年は『三国志Ⅲ』による。
王林
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
67 | 65 | 35 | 22 | 51 | 山戦 | 急襲 | 長蛇強化 | 王道 |
【オウリン】
蜀の武将。
244年に魏の曹爽と夏侯玄が漢中に攻め寄せた際、夏侯玄の副将であった司馬昭の陣営に
夜襲を仕掛けたが司馬昭の陣営は堅牢であった為に撤退した。
龐宏(巨師)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
33 | 34 | 72 | 56 | 48 | 石兵 | 高慢 | 罵声 | 挑発 | 墨守研究 | 王道 |
【ホウコウ(キョシ)】
龐統の子。龐林の甥。
蜀末期において率直な性格で人物批評をよく行うが、陳祗を軽んじて怒らせた為に涪陵太守にて生涯を終えた。
嫌悪武将:陳祗
王士(義彊)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
169? | 225 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
70 | 61 | 60 | 64 | 68 | 屯田 | 運搬 | 振興 | 連弩 | 挑発 | 兵站改革 | 礼教 |
【オウシ(ギキョウ)】
王甫?の従兄。
益州の出身であるが、劉備の入蜀に従ったと伝えられており、荊州時代以前の仕官か?
益州平定後、牙門将軍に任じられ、各地の太守を歴任した。
諸葛亮の南征の際に蜀郡太守に任じられるが、異民族軍に討たれたという。
楊戯の『季漢輔臣賛』では、龔禄と共に「士気勇壮であり、心映え良く、蜀漢の誉れとなる人物であった」と評価されている。
※『華陽国志』では王商?の諸弟とされている。
龔禄(徳緒)
生年 | 登場 | 没年 |
不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 58 | 56 | 64 | 73 | 召募 | 鼓舞 | 三令五申 | 王道 |
【キョウロク(トクショ)】
蜀の武将。益州巴西郡安漢県の出身。
劉備が蜀を平定した際に郡従事・牙門将軍に任じられた。
225年に越巂太守となり諸葛亮の南征にも従軍、同郷である姚伷と
同等の名声を得ており、張嶷とも親しかったが叟族の李求承の反乱にて殺害された。
親愛武将:張嶷 姚伷
習隆
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 46 | 60 | 63 | 59 | 文化 | 施設開発 | 礼教 |
【シュウリュウ】
蜀の武将。習禎の孫。
歩兵校尉となり宮中の書物の校勘を務めた。
また中書郎の向充と共に諸葛亮の墓所近くに霊廟を建てる事を上奏している。
梁虔
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
28 | 15 | 63 | 62 | 67 | 能吏 | 運搬開発 | 王道 |
【リョウケン】
当初は天水郡の主記であったが228年に姜維・梁緒・尹賞と共に蜀に降り、
蜀では大長秋にまで昇進したが姜維よりも早く亡くなった。
演義においては梁緒は兄となる。
親愛武将:姜維 梁緒 尹賞
何祗(君粛)
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
41 | 39 | 77 | 76 | 72 | 親羌 | 看破 | 監守 | 浪費 | 激励 | 地域巡回 | 王道 |
【カシ(クンシュク)】
益州蜀郡の出身。
蜀郡太守楊洪により門下書佐に迎えられ、能力が認められて郡吏となり後に督軍従事となる。
諸葛亮は何祗が職務を怠っているとの噂を聞きつけて管轄する牢獄の調査をした際に調書を読み込み諸葛亮の諮問にも滞りなく答えて評価された。
また異民族が不穏な汶山の太守に任じられた際は異民族はすべからく何祗に服属し、後に広漢太守となった後に異民族が汶山太守の再任を望んだほどであった。
最後は犍為太守となり、在任中に48歳で亡くなった。
親愛武将:楊洪 張嶷
王離(伯元)
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
25 | 18 | 63 | 68 | 65 | 法律 | 地域巡回 | 礼教 |
【オウリ(ハクゲン)】
蜀の文官。益州広漢郡の出身。
才能を認められて督軍従事となり法を用いて公平に職務に当たった。
そして何祗の後任として犍為太守となり実績を挙げ、聡明さでは何祗に及ばなかった一方で文辞の美しさでは王離の方が上であった。
李簡
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
55 | 50 | 37 | 56 | 61 | 運搬 | 運搬開発 | 王道 |
【リカン】
魏・蜀漢の政治家。
254年、狄道県長であった時、蜀漢に密書を送り降伏を願い出た。
蜀漢側は、降伏を装った罠では無いかと疑ったが、張嶷は李簡の帰順は本物と主張し、
姜維・張嶷らが狄道に出兵すると、果たして李簡は城ごと降った。
姜維らは狄道・河間・臨洮の三県の住民を連れて帰った。李簡も従ったと思われるが、
以降の消息は不明。
張表(伯達)
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
58 | 57 | 63 | 71 | 83 | 親蛮 | 地域巡回 | 礼教 |
【チョウヒョウ(ハクタツ)】
益州蜀郡の人で張粛の子とも張松の子ともいう。
若い頃から楊戯らと共に名を知られ、礼儀正しく風貌が立派であった。
尚書を務めた後は庲降都督・後将軍となり名声は馬忠を上回ったが威厳と功績は馬忠に及ばなかった。
楊戯よりも早く亡くなったという(楊戯は261年没)。
王含
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
60 | 55 | 56 | 58 | 54 | 堅牢 | 斉射 | 井闌 | 墨守研究 | 割拠 |
【オウガン】
蜀末期の武将。
263年の魏による蜀の侵攻の際は監軍の地位にあり、漢中の楽城に五千の兵を以て守備し、魏の李輔が率いる1万の兵に包囲された。
蔣斌?と同様に城を護り抜き、蜀滅亡を以て魏に降伏した。その後の動向は不明。
※三国志Ⅷ・Ⅸの能力を参考
※Ⅷ・Ⅸの生年は225年。
李球
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
263 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
66 | 71 | 53 | 58 | 62 | 不屈 | 城壁拡張 | 王道 |
【リキュウ】
蜀の羽林右都督。李恢?の弟の子。鄧艾?の蜀侵攻時に諸葛瞻?に従って戦い、黄崇?・張遵?らと共に戦死した。
能力値は魅力以外9準拠。諸葛瞻?・李恢?には親愛があっても良いかもしれない。
李遺
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
56 | 37 | 63 | 56 | 69 | 兵站改革 | 王道 |
【リイ】
李恢?の子。関銀屏?の夫。
正史では、父の後を継いだことが触れられているのみ。
民間伝承では諸葛亮?が南征で李恢?を起用した際に、諸葛亮?を仲人とし、南征に同行した関銀屏?を娶った。
親愛武将:関銀屏
諸葛攀
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
55 | 34 | 72 | 60 | 71 | 果敢 | 石兵 | 看破 | 連弩 | 投石 | 兵器強化 | 礼教 |
【ショカツハン】
諸葛喬の子。諸葛顕の父。
父が若くして亡くなった後、諸葛亮に引き取られて成人後は行護軍・翊武将軍となる。
呉の孫峻が伯父の諸葛恪一家らを殺害した後、諸葛亮には実子の諸葛瞻ができていたので、
呉に戻って諸葛瑾の爵位を継ぐことになった。その後間もなく亡くなった。
※正史に登場するが、早卒したとしか記述が無い(孫峻による殺害説が『はじめての三国志』にあるが、史料としては存在しない)。
諸葛顕
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
46 | 34 | 63 | 58 | 66 | 石兵 | 連弩 | 投石 | 兵器強化 | 礼教 |
【ショカツケン】
諸葛攀の子。
父が呉へ赴いた際に同行せず蜀において成人し蜀臣となる。
蜀滅亡後は同族の諸葛京らと共に河東に移住した。
王羲之の『十七帖』に諸葛顕に蜀について尋ねたという記述があり、それが諸葛攀の息子のことであるならば、蜀滅亡から半世紀以上後にかつての呉の地で健在にしていたことになる。
来忠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
45 | 36 | 75 | 63 | 61 | 学者 | 屯田 | 衝車 | 名利 | 本草学 |
【ライチュウ】
来敏の子。
学問を広く身につけて父の面影があった。
姜維の参軍として活動した。
常勗(脩業)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
265 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
69 | 52 | 66 | 73 | 71 | 堅牢 | 鼓舞 | 城壁拡張 | 割拠 |
【ジョウギョク(シュウギョウ)】
蜀郡江原県の人。
各種典籍に通じ蜀においては尚書左選郎・督軍従事となった。
263年の魏による蜀侵攻においては郫の県令を務めており、緜竹の陥落で各地の県令が次々と
降伏したり逃亡する中で城に篭り劉禅の降伏指示が出るまで抗戦の姿勢を示した。
264年、魏が袁邵を益州刺史に任命すると招聘されたが、出頭の途中で病死した。
親愛武将:姜維
孟琰 (休明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
70 | 70 | 50 | 50 | 60 | |||||||||||||
63 | 65 | 46 | 54 | 64 | 親蛮 | 長蛇強化 | 割拠 |
【モウエン】
諸葛亮のいわゆる南蛮遠征完了後、孟獲らと共に登用された南中出身の人材の一人。虎歩監に任じられ北伐に従う。
爨習
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
71 | 69 | 45 | 57 | 66 | 親蛮 | 輿望 | 短慮 | 奮戦 | 鯨波 | 兵站改革 | 割拠 |
【サンシュウ】
建寧郡の豪族。同郷の李恢は妻の甥にあたる。
劉璋の時代には建寧の県長であったが法を犯す等の行動で罪に問われ李恢も罪に問われたが、南中の有力豪族である事により益州太守であった董和は罪に不問にした。
後に孟獲の反乱に同調するも諸葛亮の南征により帰順し行参軍・偏将軍となり次いで領軍となって北伐にも加わった。
親愛武将:孟獲 李恢
向充
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
53 | 48 | 64 | 68 | 65 | 築城 | 斉射 | 施設開発 | 礼教 |
【ショウジュウ】
向寵の弟。向朗の甥。
諸葛亮が亡くなった後、中書郎を務め歩兵校尉習隆と共に劉禅に諸葛亮の墓所近くに霊廟を建立するよう上表した。
蜀末期は尚書・射声校尉を務め姜維を補佐、蜀の滅亡後は魏に降り梓潼太守となる。
衛継(子業)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
44 | 28 | 73 | 67 | 78 | 能吏 | 激励 | 太学 | 王道 |
【エイケイ(シギョウ)】
漢嘉郡厳道県の人。
父は県の功曹で5人兄弟に生まれる。
父の上司であった県長の張君に才能を評価されて養子となり広い学識と頭の回転の速さにより順調に昇進を重ね、
奉車都尉・大尚書にまで登り人々の信望を集めたが264年の鍾会の反乱に巻き込まれて殺害された。
郤揖
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
52 | 40 | 34 | 31 | 46 |
【ゲキシュウ】
河南郡偃師県の人。郤倹の子で郤正?の父。
父を馬相の乱で失い、益州に留まったが、劉焉?・劉璋?には仕官しなかった。
劉備?が入蜀すると仕え、孟達?のもとで営都督となる。孟達が曹操?に降ると
これに従い、魏に仕えた。蜀漢に置いて来た妻子とは離ればなれになり、妻(郤正の母)は再婚したという。
諸葛亮?の北伐で消息が不明なので、没年は227年以前か。
李虎
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
18 | 10 | 60 | 63 | 56 | 教化 | 戸籍整備 | 割拠 |
【リコ】
蜀の文官。
蜀の滅亡時は尚書郎で劉禅の命にて戸数・人口・兵数やその他の物資の総数が書かれた国の士民簿を鄧艾に提出した。
※魏に仕えた、巴氐の李虎とは別人。
龐柔
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
63 | 68 | 54 | 48 | 35 | 親羌 | 政令徹底 | 割拠 |
【ホウジュウ】
龐徳の従兄。演義では龐徳の兄として名前だけ登場。
馬超が劉備に降るとこれに従い蜀の将となる。
※能力値は三國志IIIそのまんま(統率=陸指)ですが、政策を人事系にして君主の主義と政策がかみ合わない馬騰軍の救済を図りました。
郭模
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
53 | 41 | 60 | 67 | 55 | 扇動 | 撹乱 | 縦横術 | 王道 |
【カクモ】
蜀の官吏。
諸葛亮の策で孟達と申儀が不和であったことに付け込み謀反を促すため、
偽降して孟達の密謀を申儀に漏らす役目を担った。
申儀が密かに孟達の密謀を奏上した際に、
事態の急変を恐れた司馬懿が油断させる手紙を孟達に送り決起を遅らせたため謀反は失敗に終わった。
在野
李意
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
14 | 10 | 84 | 44 | 74 | 占卜 | 王道 |
【リイ】
蜀の隠者。『正史』の注に引用された『神仙伝』に登場する。『演義』では「李意其」という名前で登場する。
呉討伐の決意を固めた劉備は、人をやって招き、礼を尽くして事の吉凶を尋ねた。
李意はこれに答えず、ただ兵馬や武器の絵を数十枚描いては一枚一枚破り捨て、そして最後には大きな身体の人物の絵を描いてそれを地に埋めて立ち去った。
劉備はその意味を悟ることが出来ず、ただ不快に思うだけだった。
その後、蜀に夷陵の戦いでの大敗と劉備の病死の知らせが届き、人々は李意は蜀の兵馬や武器が喪われ、劉備が死んで地に埋められることを示唆したのだと知ったという。
列女
呉莧
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
4 | 5 | 59 | 43 | 66 | 太学 | 王道 |
【ゴカン】
呉懿の妹。諡は穆皇后。
人相見から「高貴な身分に登る」と評されたことで、劉瑁の妻に迎えられる。
劉瑁に先立たれた後、蜀入りした劉備の継室として勧められるも劉備は固辞していたが、法正の説得で婚姻が成立。
蜀漢王朝が成立すると皇后に立てられた。