みんなの新武将/遼

Last-modified: 2023-07-02 (日) 16:25:53

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

遼(916~1125)

契丹人の耶律氏による王朝。
国号は「契丹」と「遼」で揺れ動くが、契丹人による王朝時代を「遼」とする。
国号の変遷は916年に「契丹」、947年に「遼」、983年に「契丹」、1066年に「遼」。
太祖耶律阿保機がモンゴル族を支配下に置き、渤海を滅ぼし契丹の帝国を打ち立てる。
太宗耶律徳光が後晋より燕雲十六州を割譲され、漢土の征服王朝となる。
後周や北宋と燕雲十六州を巡って激しい戦いが行われるが、1004年に北宋と澶淵の盟を締結し和睦する。
1048年には西夏に大勝しこれを服属させている。
しかし、遼の貴族層が繁栄を謳歌する反面、服属していた女真族や西夏のタングート族が反旗を翻すことになる。
1115年に金が建国されると1122年に天祚帝は金に大敗し、遼と北遼の分裂状態となる。
これを好機と見た金は北遼を1123年に、遼を1125年に滅ぼした。
その後、天山山脈まで逃れた徳宗耶律大石により西遼(1132~1211、イスラム圏ではカラ・キタイと呼称)が建国されている。



耶律億(阿保機)

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【ヤリツオク(アボキ)】
契丹の太祖。契丹名は耶律啜裏只。
迭刺部の軍の長となり、契丹諸部を制圧してハーンに即位する(第一次即位)。
室韋への外征を行いつつ、契丹の内乱を鎮圧して契丹を統一して帝位に就き国号を契丹に定める(第二次即位)。
室韋・奚など周囲の異民族を支配下に置き、渤海へ親征を行って滅ぼすが、
帰還の途上で病に倒れて扶余城で崩じた。
治世では漢人官僚を登用し、部族の交代制だったハーンを中華王朝に倣って世襲へと変え、
上京臨潢府など中華風の城を築き、契丹文字を制定するなど、
契丹の遊牧国家としての体制をより堅固なものとした。

※登録する場合は、字はどれか一文字を削って登録。

述律平

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【ジュツリツヘイ】
太祖耶律阿保機の皇后。述律皇后、地皇后と呼ばれる。
太祖がタングートヘ遠征を行っている最中を狙って室韋が侵攻してくると、
自ら軍を率いて大勝し威名を轟かせた。
太祖が怒って韓延徽を抑留すると、執り成して謀士として任用するよう助言した。
渤海征伐では謀略の面で太祖を補佐する。
太祖が崩じると殉死しようとするが諌められ、右腕を斬って太祖の棺に収めた。
摂政となって耶律徳光(太宗)の即位に協力する。
太宗の死後、寵愛していた息子の耶律李胡を帝位に就けようとして挙兵するが、
諫言を受けて撤兵し、軟禁された。

※述律の二字姓。

耶律徳光(徳謹)

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【ヤリツトクコウ(トクキン)】
遼(契丹)の太宗。契丹名・耶律堯骨。太祖耶律億の次子。
太祖に従い吐谷渾、回鶻の征伐で功績を上げ、渤海征伐では兄の耶律倍とともに首都・忽汗城を攻略する。
耶律倍が廃嫡されたため、契丹の二代目皇帝に即位する。
後唐へ亡命した耶律倍に促され、後唐の後継者争いに介入。
この際に石敬瑭(後晋の高祖)と燕雲十六州割譲の取引を結び、協力して後唐を滅ぼす。
後晋が離反すると首都・大梁(開封)を攻略し、後晋を滅ぼす。
開封入城後に国号を「契丹」から「遼」へと改称するが、開封から帰還する際に病に倒れ没した。

韓延徽(蔵明)

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【カンエンキ(ゾウメイ)】
遼の政治家。
馮道とともに劉仁恭に仕官する。
劉守仁により契丹へ使者として遣わされるが、不羈の態度が耶律阿保機の怒りを招き抑留される。
その後、太祖に許されると軍師として重用され、タングートや室韋の征服で功績を上げる。
契丹の領地に城を築いて降服した漢人を住まわせ、農業などを教えて民心を安定させた。
郷愁に駆られて後唐に逃亡するが、間もなく帰還し太祖に悦ばれて「匣列」と呼ばれた。
渤海征伐に従軍し長嶺府を抜くなどの功績を上げる。
太宗のもとで政事令を務め、世宗の代に南府宰相となって遼の政策を担った。

趙延寿

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【チョウエンジュ】
後唐、遼の武将。本姓は劉。趙徳鈞の養子となり姓を改めた。
容貌が美しく、書史を好み、後唐の明宗の公主を娶る。
石敬瑭が後晋を建てると、養父と共に契丹に投降した。
後晋が契丹との盟約に背くと親征軍の先鋒となって貝州を降し、
天候不順で兵を返そうとする太宗を諌めて高行周を大破した。
後晋から内通を仕掛けられると、逆に偽投降を仕掛けて誘き出し、滹沱河で力戦して杜重威を降す。
太宗より龍鳳赭袍を下賜されて契丹軍の漢人兵を全て所有する権利を授けられ、
中京留守、大丞相、録尚書事、都督中外諸軍事、枢密使の要職を務めた。

高模翰

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【コウモカン】
遼の武将。別名に松。渤海の出身。
膂力があり、騎射に秀で、兵談を好んだ。
太祖が渤海を平定すると高麗に一時逃亡し、その後獄に下るが才能を惜しまれ許された。
石敬瑭が後唐軍に太原を包囲されると援軍として派遣され、
後唐軍を打ち破って石敬瑭の後晋建国を支援する。
この功績で太宗から冊礼の際に「勇将」と賞賛された。
後晋征伐の際には関南の数十城を降し、後晋軍に恐れられた。
滹沱河での戦いでは太宗に計略を諮問され、中渡橋の守備を委ねられる。
晩年は国政に与り、開府儀同三司、中台省の右相・左相を歴任した。

趙思温(文美)

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【チョウシオン(ブンビ)】
桀燕、晋王(後の後唐)、遼の武将。
劉仁恭の幕下に入り、李存勗の桀燕討伐では流矢で目を負傷しながらも抗戦した。
周徳威に捕縛されて李存勗に仕え、後梁との戦いでは驍勇ぶりを発揮する。
その後、遼の太祖が幽州を経略したため遼に投降した。
渤海討伐で力戦して扶余城を抜く功績を上げ、
この時に幾つも傷を受けたため、太祖自ら薬を調合して与えたほどだった。
石敬瑭の援軍要請に応じて出兵し、その後は南京留守、開府儀同三司、侍中などを兼任する。
後晋に対する冊礼の使者として随行し、その翌年に庭に隕石が落ちて亡くなった。

耶律休哥(遜寧)

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9693878393洞察疾走長駆威風柱石神威穿貫突撃足止混乱鎮静三軍強化王道

【ヤリツキュウカ(ソンネイ)】
遼の将。
父の耶律棺思を幼年より補佐し名を挙げた。
宋が燕雲に侵攻し南京が攻囲されると、主命を受け救援に向かい、
高梁河で宋の大軍と遭遇し撃破したが、その復仇戦では壊走する遼軍本隊を援護するに留まった。
その後も、宋の軍と度々交戦し、楊業・曹彬ら宋の名将による北伐軍を撃退し続けた。
その勇名のため、時の宋人は子供を泣き止ませるために「于越(耶律休哥の官名)が来たぞ!」と脅したという。
困窮する民を救済すべく賦役軽減や民心慰撫に努め、無辜の民を守った愛民の将でもあった。

耶律斜軫(韓隠)

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【ヤリツシャシン(カンイン)】
遼の武将。
白馬嶺の戦いで遼軍が宋軍に敗れた際に救援に駆けつけ、弓射で援護し撤退を成功させる。
宋が燕雲十六州の奪回を目指すと得勝口に誘い込んで撃破、高梁河の戦いでは耶律休哥と共闘し宋軍を打ち破った。
摂政の睿智皇太后の信任を受け、遼の内政にも携わる。
宋の太宗による北伐に対抗し、代州に駐屯する。
蔚州城を包囲すると、宋の援軍も打ち破り蔚州を制圧する。
潘美と賀令図の率いる宋の西路軍を飛狐で迎撃し大勝すると、楊業を狼牙村で伏兵をもって破り捕縛した。
その後は南征に度々従軍し、南征の陣中で没した。

耶律奚低

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【ヤリツケイテイ】
遼の武将。
弓馬に通じて戦で武勇を示し、景宗の代に軍事を委ねられる。
北宋が北漢を滅ぼした勢いで侵攻してくると、迎撃するが敗れ、耶律学古に救われる。
北宋の西路侵攻では、耶律斜軫の麾下で楊業を迎え撃つ。
この戦いで常に先鋒となり、矢を外すことはなかったという。
朔州の南で敗れた楊業が林に逃げ込もうとすると、楊業の馬を射抜いて捕縛した。
南伐でも功績を上げ、その後病没した。

耶律学古(乙辛隠)

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【ヤリツガクコ(イツシンイン)】
遼の武将。
学問を好み聡明で理解が早く、詩の翻訳に巧みだった。
北宋が燕州に侵攻すると、包囲された南京に駆けつけ籠城戦を指揮する。
昼夜の見張りを解かず、北宋軍が城壁を登るのを許さずに援軍到着まで持ちこたえた。
高梁河の戦いにも参加し、その功績で保静軍節度使となり国境で疲弊していた民を慰撫する。
潘美が侵攻してくると、守備兵が少なかったが幟旗を多く掲げて兵を偽装し、
夜に村で烽火が上がると駆けつけて北宋軍の略奪を防ぎ、敵将を捕らえた。
その後、潘美と国境を侵さぬよう約定を結んで民に安寧をもたらした。

補足:遼の南京は「南京幽都府」(1012年に「南京析津府」に改称)で現在の北京付近。別名「燕京」。

耶律斡臘(斯寧)

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【ヤリツアツロウ(シネイ)】
遼の武将。
機敏で力強く、騎射にも長じていた。
景宗の護衛に任じられ、頡山の狩りで帝に突進してきた猪を射殺し、
赤山の狩りでは隘路で鹿の角から景宗を守り、景宗に賞賛され護衛太保となる。
耶律斜軫の麾下で楊業の撃破に貢献する。
行軍都監となり奚和朔奴の兀惹討伐に従軍するが、敵の堅守に阻まれ奚和朔奴は撤退しようとする。
蕭恒德が敵地に深入りして掠めるよう進言すると、斡臘は諌めたが聞き入れられず、遼軍は大敗した。
諸将が官位を剥奪される中で諫言した斡臘のみ許され、同政事門下平章事、東京留守に任じられた。

蕭綽

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【ショウシャク】
遼の景宗耶律賢の皇后。通称は蕭皇后、蕭太后。
景帝崩御後は承天皇太后。諡から睿智皇后とも呼ばれる。
景宗の皇后として立てられ、耶律隆緒(後の聖宗)を含め三男三女をもうける。
景宗が崩御すると、十二歳の聖宗の摂政となり、信賞必罰をもって国を治めた。
耶律斜軫を北院、韓徳譲を南院の枢密史に任じて朝政を司らせ、宋との国境には耶律休哥を当てた。
宋が北伐の大軍を起こすと、聖宗とともに駝羅口に駐屯し、東路に耶律休哥、西路に耶律斜軫を当てこれを退けた。
自らも戦車に乗って南征を度々行い、聖宗の親征にも随行した。

耶律隆緒

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【ヤリツリュウショ】
遼の第六代皇帝・聖宗。契丹名・耶律文殊奴。
景宗が早世したため十二歳で即位し、承天皇太后の執政のもとで富国強兵を行う。
宋へ親征した際には、迎撃に親征してきた宋の真宗と黄河で対峙し、澶淵の盟を結んで宋を朝貢国とする。
統和二十七年に親政を開始すると、東征して女真を服属させるが、高麗への侵攻は失敗し講和を結んだ。
また、タングートと同盟を結んで西域を支配下に置いた。
内政でも法制改革を行い、遼の全盛期をもたらした。
晩年は仏教に傾倒し翳りも見せたが、遼最高の名君と称えられている。

蕭撻凜(駝寧)

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【ショウタツリン(ダネイ)】
遼の武将。蕭太后の親族。
誠実で才略があり、天文に通じていた。
楊業の侵攻では耶律斜軫に従軍して、楊業の捕縛に貢献する。
南征において沙堆で力戦して負傷し、蕭太后に見舞われた。
第一次高麗征伐にも従軍し、西夏の侵犯に対応し軍功を重ねた。
烏古・敵烈部らの反乱を征討し、反乱への抑えとして諸部に城を建てるよう進言を行う。
聖宗の南伐では宋将の王先知を捕え、遂城を落とす。
澶州で宋軍と対峙すると周辺の偵察に出るが、張瑰に床子弩(大型の弩)で狙撃され戦死した。
その死を蕭太后は痛哭し、北宋との和約へ動くこととなった。

耶律隆運

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【ヤリツリュウウン】
遼の武将、政治家。初名は韓徳譲、別名に徳昌。
智略に厚く、政治にも明るかったため重用された。
父の韓匡嗣の後任として南京留守となり、南京が北宋に包囲されるとこれを固守した。
高梁河の戦いでも戦功を立て、南院枢密使に昇って徳昌の名を賜る。
聖宗が即位すると蕭太后の信任を受けて朝政に参画し、
科挙の導入や戦争や災害時の賦役減免などを行い、漢風の制度に改革した。
北宋の東路侵攻では曹彬麾下の米信を打ち破る。
大丞相となって耶律姓と隆運の名を賜り、漢人ながら最も権勢を極める。
第二次高麗征伐に従軍し、帰還中に陣没した。

張倹(仲宝)

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【チョウケン(チュウホウ)】
遼の政治家。
第一位で進士に及第し、「一代の宝」として聖宗に推挙される。
この際、政務について尋ねられると三十余りの事を上奏し、重用されて昇進を重ね左丞相まで昇る。
聖宗の遺言に従って興宗の即位を補佐し、太師、中書令の位に尚父が加えられた。
誠実な性格で、清貧な生活を送っていたため、興宗から衣が下賜されるほどだった。
親族への贈官も固辞し、冤罪で処刑された人の名誉回復を訴えるなど善政に与り、
二十年余りの期間にわたって宰相を務めた。
引退後も、興宗が北宋への親征を企図すると利害を説いて諌めている。

蕭恵(伯仁)

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【ショウケイ(ハクジン)】
遼の武将、政治家。契丹名は蕭脱古思。
伯父と共に高麗征伐に従軍し、その戦功によって要職を歴任していく。
西域の征討に出てウイグルの阿薩蘭部を討ち、
阻卜の反乱では自軍の疲弊を見て諸将の出撃を許さず、敵兵の撤退時に伏兵を仕掛け打ち破った。
興宗の代に北宋征伐を問われると積極策を唱える。
南進による圧迫で北宋が歳費を増大してきたため、功績により北府宰相に昇った。
西夏親征では、大風による砂塵で視界を奪われ兵が混乱し敗れる。
再侵攻した際にも大敗を喫するが、息子が戦死したため敗戦の罪を許された。

耶律鐸軫(敵輦)

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【ヤリツタクシン(テキレン)】
遼の武将。
聖宗の代に仕官するが、初めは評価されていなかった。
北宋侵攻の際に、緋色の頭巾を被って敵陣に突入し戦功を挙げ、蕭太后の目に留まる。
軍事を委ねられて東北詳穏に任じられ、阻卜討伐に従事する。
その後、東北路統軍使、天徳軍節度使を歴任。
西夏征伐では造船を命じられ、百三十隻の楼船を建造する。
鐸軫は別軍を率いて進軍したが、興宗が楼船に座乗して黄河から侵攻し大勝を収める。
興宗に褒賞を問われると固辞したため、
その忠義を讃えて「勤国忠君、挙世無双」と興宗自ら書いた衣が授けられた。

耶律大石(重徳)

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【ヤリツタイセキ(チョウトク)】
西遼(カラ・キタイ)の建国者。徳宗。遼の皇族。
漢文と契丹文に精通し、騎射にも秀でていた。
進士に及第して翰林学士(林牙)となり、要職を歴任する。
天祚帝が金に敗れ逃亡すると天錫帝を擁立して北遼を建国する。
北宋の侵攻は退けるが金軍に敗れて捕縛され、脱出して天祚帝の元へ駆けつける。
しかし天祚帝から疑念を抱かれ、鉄騎兵二百騎を率いて外蒙古へ逃れ自立。
天山山脈一帯に西遼を建国し、祖国回復を目指し七万騎を率いて東征するが、長路で牛馬が死に撤兵する。
その後、イスラム諸国を服属させ中央アジアに一大勢力を築いた。

補足:「遼史」に記録された中で、契丹人ながら科挙に合格した二人のうちの一人。
上記の西遼の東征に関する記述は「遼史」の記述(康国元年=1134年)に準じているが、
1143年頃に東征に出て、その途上で陣没したといわれている。