- 注意点
- 唐(618~690、705~907)、武周(690~705)
- 李淵(叔徳)
- 李建成
- 李世民
- 李元吉
- 長孫無忌(輔機)
- 李孝恭
- 杜如晦(克明)
- 魏徴(玄成)
- 房喬(玄齢)
- 高倹(士廉)
- 李靖(薬師)
- 蕭瑀(時文)
- 段志玄
- 劉弘基
- 屈突通(坦豆抜)
- 殷嶠(開山)
- 柴紹(嗣昇)
- 長孫順徳
- 張亮
- 侯君集
- 張公謹(弘慎)
- 程知節(義貞)
- 虞世南(伯施)
- 劉政会
- 唐倹(茂約)
- 尉遅恭・李勣・秦瓊
- 平陽公主
- 宇文士及
- 張士貴(武安)
- 劉文静(肇仁)
- 裴寂(玄真)
- 羅士信
- 蘇烈(定方)
- 薛礼(仁貴)
- 劉仁軌(正則)
- 裴行倹(守約)
- 狄仁傑(懐英)
- 武照
- 張柬之(孟将)
- 姚崇(元之)
- 宋璟(広平)
- 楊玉環
- 王忠嗣
- 哥舒翰
- 高仙芝
- 安禄山
- 郭子儀(子儀)
- 李光弼
- 顔真卿(清臣)
- 杜甫(子美)
- 李晟(良器)
- 李愬(元直)
- 劉晏(士安)
- 楊炎(公南)
注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
唐(618~690、705~907)、武周(690~705)
隋の太原?留守李淵が創始。
実質的な創建者は次子李世民とされ、隋末の群雄を平定し、国家の基礎を確立した。
均田制・郷里臨保制を支配の基礎として租庸調を財政の根本とし、自立農民による自然経済が主体で、
商工業は官許の市に局限され、登記人口は最盛期には5000万人に達した。
貞観の治と呼ばれる太宗期に突厥・薛延陀などの北方異民族を征服し、
羈縻支配を介して北アジア・西トルキスタンにも威令を及ぼす未曾有の版図を有し、ビザンツ・イラン・インドととも交渉を持った。
高宗期には隋朝からの懸案だった高句麗を征服したが、トルコ系諸族の離叛が絶えず、玄宗期のタラス会戦と安史の乱は唐の内向化を顕著にした。
武后期は向上する生産力を背景に富商・地主の社会的・政治的発言力を増し、
その反動でもある玄宗のクーデターで始まった開元の治は史上稀な盛時となったが、
土地兼併・商業資本の発展で無産人民が増大し、国家の柱礎である均田制と府兵制を崩壊させた。
さらに玄宗後半の政治的無気力は羈縻体制の破綻と節度使の抬頭を招来し、律令制の全般的解体が決定的になった。
中国史の1つの分水嶺とされる安史の乱は玄宗朝で表面化した社会矛盾の結果でもあり、
反貴族・反朝廷の気運は節度使の自立化を促したが、宮中では宦官の跳梁を背景に貴族官僚と科挙官僚の党争が絶えなかった。
朝廷は両税法の実施と対節度使戦争の強行などで再建を図ったが、
財源確保の為に行なわれた塩の専売は民衆からの搾取に転じ、黄巣に代表される民衆叛乱が頻発するようになった。
安史の乱後も一定の権威を保っていた朝廷は、黄巣の乱後は関中の一部のみを支配する存在となり、黄巣から帰順した朱全忠に簒奪された。
李淵(叔徳)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
77 | 72 | 74 | 65 | 82 | 繁殖 | A | C | B | A | B | C | 566 | 635 |
【リエン(シュクトク)】
唐の初代皇帝。高宗。李昞の子。李建成・李世民・李元吉の父。
隋の文帝の独孤皇后の甥で、文帝に親愛された。
続いて楊広に仕え、高句麗遠征では糧食の運搬を監督し、楊玄感の乱では進軍を防ぎ、突厥軍を迎撃した。
後、李世民らの使嗾で隋への反乱を決意し、一気に軍を南下させ長安?を陥れて、
楊広弑殺を知ると禅譲を受けて自ら皇帝に即位。
李世民らの活躍で各地の群雄を破り覇を唱えるが、李建成と李世民の兄弟宥和は果たせず、
李世民が起こした玄武門の変で幽閉されて譲位させられ、そのまま軟禁状態で死去。
李建成
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 75 | 84 | 81 | 90 | 掃討 | A | B | A | B | C | B | 589 | 626 |
【リケンセイ】
唐の初代皇帝李淵の長男・皇太子。
李淵が太原?で反隋の決起後、左領軍大都督に任じられ、左軍を統轄した。
その後は、父の命により各地の軍閥を掃討。
しかし、隋末唐初の戦乱で、弟の李世民の戦功と名声が高く、李建成は太子位を奪われることを恐れ、
王珪や魏徴らを任用して謀士とし、李世民を誣告した。
幾度か兵乱を起こし、李世民を除くことを考えるが、玄武門の変で逆に射殺された。
史書からも半ば抹殺され評価も低いが、簒奪正当化のための曲筆も指摘されている。
李世民
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 88 | 95 | 100 | 92 | 仁政 | S | A | A | S | B | B | 599 | 649 |
【リセイミン】
唐の第ニ代皇帝。太宗。李淵の次男。
父の挙兵後、長安へ向け進軍し平定。唐の建国後秦王となる。
武将として優れた才能を発揮し、群雄平定に中心的役割を果たしたが、
戦功に比してその地位が低いとして、父や兄と対立。
「玄武門の変」を起こし、兄の李建成と弟を謀殺し、父を上皇に擁立し幽閉の末に譲位させて即位した。
突厥を討伐し西域の高昌国を滅亡させ、「貞観の治」と称される善政を行い、
府兵制、均田制、租庸調制、中央官制などの唐の諸制度の多くを完成させ繁栄を築いた。
中国史上最高の名君の一人と称えられる。
李元吉
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 88 | 57 | 13 | 26 | 槍将 | S | B | C | A | B | C | 603 | 626 |
【リゲンキツ】
唐の初代皇帝李淵の四男。斉王。李建成・李世民の弟。
李淵が反隋の挙兵をすると、太原?の留守を担うが劉武周の侵攻を受けて失陥した。
後、李世民の救援で竇建徳を迎撃し、王世充に対しては伏兵を置いて襲撃し、
王世充を捕らえ功績を挙げた。
皇太子李建成と次子李世民の内訌では李建成と結託して李世民の失脚を図り、
讒言や謀殺の企みを繰り返し、北伐の兵で兵変を企図するが、
参内途中の玄武門で李世民の兵に攻撃され、尉遅敬徳?に殺された。
特に槍術に優れ、槍術の達人の尉遅恭と勝負したという逸話が残る。
長孫無忌(輔機)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
54 | 32 | 86 | 82 | 81 | 百出 | C | C | C | C | B | C | ? | 659 |
【チョウソンムキ(ホキ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。趙国公。
太宗の長孫皇后の兄で、唐朝の外戚。
学問を好み、文章や史書に通暁し、李淵の長安?攻略後、謁見を受け唐に出仕。
李世民の征戦に従軍し、「玄武門の変」では、房玄齢・杜如晦らと謀議を練り、
李世民の即位後、功績第一として斉国公になり、唐の元勲・外戚として厚遇される。
後、晋王李治を皇太子に推して後見となるが、武氏立后に反対したため、
立后後は孤立し、朋党事件の黒幕と捏造され、黔州に流され縊死した。
『唐律疏義』・『隋書』の編纂者としても著名。
李孝恭
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 82 | 86 | 63 | 85 | 精妙 | A | A | A | B | B | S | 591 | 640 |
【リコウキョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。河間元王。唐の高祖李淵の族甥。
李淵の長安?平定後、山南道招尉大使となった。
金州から巴蜀に進出して三十余州を下し、朱粲を破り降伏させる功を立てる。
江陵?に拠る蕭銑を撃破して、輔公祏が江南で背くと大勝。この功で揚州大都督となる。
後、邸に石頭城を築いたことで、謀反を誣告され召還されて詰問されるが、
冤罪と判明して許され、涼州都督・晋州刺史を歴任した。
趣味は豪奢で歌舞や美人を好んだが、寛仁謙譲な人格で李世民にも重用された。
杜如晦(克明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
23 | 17 | 94 | 83 | 75 | 鬼謀 | C | C | C | C | C | C | 585 | 630 |
【トジョカイ(コクメイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莱国成公。
史書に親しみ、隋末には吏部に入ったが、間もなく官を辞し故郷へ戻った。
李淵が長安?を占拠すると、李世民の参謀役であった房玄齢により見出され幕下に加わる。
「玄武門の変」の前、讒言により秦王府を追われたが、太宗・李世民の即位後に中央政界に復活し、
太子左庶子や兵部尚書という要職を歴任し、尚書右僕射まで上り詰める。
左僕射の房玄齢とともに「貞観の治」を現出させた。
魏徴(玄成)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
47 | 55 | 83 | 87 | 78 | 明鏡 | C | C | C | C | C | C | 580 | 643 |
【ギチョウ(ゲンセイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄭国文貞公。
幼少時貧困で、隋末に群雄の一人の李密の下へ身を寄せ、敗戦後は唐へ帰するが、
竇建徳の捕虜となり、才能を見出された。
竇建徳が敗れると唐へ帰り、皇太子・李建成の側近となるが、玄武門の変で李建成が死ぬと、
李世民は率直さを評価して諫議大夫へ昇進させ、後に秘書監、侍中等の職を転任。
癇癪を起こした太宗を二百回余りも直諌したことで有名で、『貞観政要』にも残る。
その死は李世民にも哀惜され、彼の存在は「鏡」に譬えられた。
房喬(玄齢)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
7 | 3 | 92 | 91 | 76 | 眼力 | C | C | C | C | C | C | 578 | 648 |
【ボウキョウ(ゲンレイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。梁国公。
隋末の混乱時に唐に投じ、李世民の秦王府十八学士の筆頭とされた。
統一以後、優秀な人材の確保に努めて、杜如梅を見出し推挙。
建国直後の王朝内で皇太子・建成と世民の間で内訌が生じると、
房玄齢と杜如晦はその謀略の才を建成側に恐れられ、讒言を受け秦王府への立ち入りを禁じられた。
李建成に悟られぬよう策謀を進め、「玄武門の変」を成功させ李世民を即位させた。
「貞観の治」の立役者の一人で、正史の編纂を総監した。
高倹(士廉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 78 | 86 | 85 | 84 | 沈着 | B | A | B | B | C | C | 576 | 647 |
【コウケン(シレン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。義興郡公。申国公。高履行・高審行・高真行の父。
李淵が嶺南に遣使すると、交趾太守の丘和と共に投降し、秦王李世民の下で治中となった。
李世民が皇太子の李建成と争うと、長孫無忌と共に李建成を討つ計画を定め、
「玄武門の変」決行時は李世民の援軍として戦い、
李世民が皇太子となると義興郡公になるが、王珪を匿ったため安州都督に左遷された。
だが、蜀の地で学校を復興し、灌漑開発を進め、現地の風俗を一変させ、
長安に召還され許国公・司空に進み特進・上柱国となった。
李靖(薬師)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
100 | 85 | 96 | 78 | 84 | 疾走 | S | A | A | S | C | A | 571 | 649 |
【リセイ(ヤクシ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。衛国公。
初め隋に仕え、李淵の叛心を煬帝に報告しようとして失敗するも、
処刑前の壮言を見込まれ、李世民によって助命され秦王府に招聘された。
隋崩壊後、王世充の討伐に従事し、行軍総管として蕭銑、輔公祏、突厥の討伐に当たった。
その後も西海道行軍大総管として吐谷渾を討伐して帰順させた。
衛国公に改封され、後に開府儀同三司に進んだ。
敵の心理を見通し逆手にとる戦術眼と、軽歩兵・軽騎兵を用いた奇襲・挟撃戦法により、
寡兵であっても快勝を続けた。
兵法書『李衛公問対』の李衛公とは、李靖を指す。
蕭瑀(時文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 66 | 83 | 77 | 25 | B | C | B | C | B | C | 575 | 648 |
【ショウウ(ジブン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宋国公。
隋の楊広(煬帝)の外戚として重用されたが、進言が煬帝の勘気に触れ、河池郡守に左遷された。
唐の高祖李淵が長安?に入ると、蕭瑀を招き、宋国公に封じ、
秦王李世民が洛陽?を攻めると蕭瑀はその下で元帥府司馬を務めた。
李淵の側近として内外の政務の裁決に関与し、蕭郎と呼ばれた。
李淵の過失にも憚らずに発言して信頼され、李世民が雍州牧となると蕭瑀は雍州都督となるが、
貴族の出で、狭量で不平不満が多かったため、房玄齢や魏徴と度々対立し、幾度も朝政権を剥奪された。
段志玄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 92 | 36 | 23 | 76 | 急襲 | A | A | B | S | B | C | ? | 642 |
【ダンシゲン】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。樊国公。褒国公。
李淵の挙兵後、千人の兵と共に従い、右領大都督府軍頭となる。
霍邑・絳郡を下し、永豊倉を攻撃する際は常に先鋒を務めた。
劉文静が桑顕和に襲撃され唐軍が潰乱すると、二十騎を率いて敵陣に突入し、
流れ矢を足に受けつつも再三討ち入り敵を混乱させ勝利した。
さらに、王世充の征討に従い、竇建徳を破った。
皇太子・李建成に金や絹で誘われたが拒絶し、李世民の即位後、左驍衛大将軍・樊国公となる。
警備は厳重で、周亜夫に比すべき真の将軍と李世民に感嘆された。
劉弘基
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 87 | 56 | 15 | 64 | 駆逐 | S | B | A | A | C | C | 582 | 650 |
【リュウコウキ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。輔国大将軍。隋の河州刺史劉昇の子。
若い頃は素行不良で、侠客と交友し博奕に興じた。
高句麗遠征を忌避して部隊の者と牛を屠殺し官吏を批判したため捕縛され、釈放後は馬泥棒として自活する。
後に唐公李淵に仕え、李世民に見出されて、挙兵時に二千人を集めた。
王威らを捕らえ西河を攻め下し、宋老生を撃破し、先陣を切って黄河を渡り、隋軍に大勝。
長安?平定後は功績第一として、右驍衛大将軍に任ぜられた。
以後は割拠する群雄の討伐に活躍し、突厥への防備を固めた。
屈突通(坦豆抜)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 86 | 82 | 57 | 90 | 白馬 | B | S | A | S | C | C | 557 | 628 |
【クツトツツウ(タントウハツ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。蒋国忠公。北周の邛州刺史の屈突長卿の子。
武略を好み、騎射を得意とした。
隋の建国後は、左衛府司馬となり、楊広の命で長安?を守備する。
士気揚がらぬ官軍を指揮して長安を死守したが唐軍の勢いの前に敗北、
号泣しつつ東南に再拝して降伏する。
この言動ゆえ李淵に忠臣と認められて抜擢され、唐の国内統一に貢献した。
「玄武門の変」の後は洛陽?を守備し、まもなく没した。
官職に剛直で、法を犯す者が居れば親族でも容赦しなかったという。
殷嶠(開山)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
62 | 53 | 37 | 72 | 58 | B | C | B | C | C | C | ? | 622 |
【インキョウ(カイサン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄖節公。隋の秘書丞殷僧首の子。
李淵が太原?で起兵すると、召されて大将軍掾に補任され軍機に参預。
李建成に従って西河を攻撃した。
のち、元帥府司馬として李世民に従い戦うが、李世民の戒めを破って大敗を喫し、
死罪相当を一命を許されて庶民に落とされた。
薛仁杲に対する征戦に従軍し、功績によって爵位を戻され、
王世充を討つのに従い、功により鄖国公に任ぜられた。
柴紹(嗣昇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 92 | 88 | 30 | 75 | 機略 | A | A | B | S | B | C | ? | 638 |
【サイショウ(シショウ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。譙襄公。妻は唐の高祖李淵の三女平陽公主。
幼少より剽悍な侠客として知られていた。
李淵の太原?の挙兵後、間道を通って参陣し、長安?進軍では先頭で敵陣を陥れる功を上げた。
天下統一戦では李世民に従い薛仁杲・宋金剛・王世充・竇建徳らを討伐。
吐谷渾と党項の侵入では、高所から射かける敵軍に対し、
胡琵琶を弾かせ、二女子に舞いを舞わせる奇策で敵軍を疑心に陥らせ、
精鋭の騎兵を率い後方からの奇襲で大勝。
この功で鎮軍大将軍を加えられ、右驍衛大将軍を代行し、譙国公に改封された。
長孫順徳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 83 | 55 | 80 | 74 | 名声 | A | B | B | A | C | C | ? | ? |
【チョウソンジュントク】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。邳襄公。長孫無忌や長孫皇后の族叔。
隋に仕え右勲衛となるが、高句麗遠征への従軍を忌避して太原?に逃れ、李淵や李世民と親交を持つ。
李淵起兵後は、統軍に任ぜられ群雄平定に活躍。
劉文静とともに屈突通を潼関で捕らえ長安に連行する功を立て、
左驍衛大将軍に任ぜられ、薛国公に封ぜられた。
放縦で法律を守らなかったが、その統治は簡潔明瞭で、明肅と号され、
百姓を搾取する官吏を糾弾して許さなかったので、良牧と称された。
娘を亡くして意気消沈し、病死した。
張亮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 76 | 73 | 52 | 54 | 遁走 | B | A | B | A | B | C | ? | 646 |
【チョウリョウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。長平郡公。鄖国公。
群雄の一人の李密に従っていたが、李勣?とともに唐に帰順する。
李勣を補佐して鄭州刺史に抜擢されるが、王世充に鄭州を奪われ敗走。
李勣が劉黒闥を討伐した際、相州を守ったが劉黒闥の反撃には城を棄てて逃亡した。
房玄齢の推薦で秦王李世民に招聘され、車騎将軍に任ぜられて洛陽?に行き、
山東の豪傑と結んで太子・李建成に備え、李世民の即位後は朝政に参与。
李世民の高句麗遠征を度々諫めたが、聞き入れられず遠征は大敗。
帰還中に重罪が発覚し逮捕され、斬刑を受けた。
侯君集
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 83 | 88 | 17 | 55 | 射程 | A | C | S | B | S | C | ? | 643 |
【コウクンシュウ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。陳国公。
秦王李世民の幕府に召され、征戦に従い謀議に参与した。
「玄武門の変」では、李建成・李元吉の排除計画に大功があり、
李世民の即位後は潞国公・右衛大将軍に任ぜられた。
吐谷渾討伐戦では李靖の下で献策し、西域でも攻城兵器を駆使し功を上げる。
だが、高昌攻略後、無罪の人を奴隷に落として分配し、私的に宝物や婦人を略取したため、
その罪を奏上されると、詔で投獄される。
太宗は李広利や陳湯の例を引いた上疏を受け釈放するが、
のち、皇太子李承乾と共に兵変を計画した罪で処刑された。
張公謹(弘慎)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 73 | 82 | 84 | 80 | 屯田 | B | A | A | C | A | C | 594 | 632 |
【チョウコウキン(コウシン)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。鄒国公。郯襄公。
隋に仕え王世充の下で洧州長史となったが、刺史の崔枢とともに唐に帰順。
李勣?と尉遅恭?から李世民に紹介され秦王府に入る。
「玄武門の変」では李建成亡き後、部下の馮立・薛万徹らが玄武門を攻めるが奮戦しこれを阻む。
のち、代州都督となり、食糧運送の手間を省くために屯田を置いた。
ときの政治の得失を言上し、その言の多くが採用された。
突厥攻撃では李靖の副将として定襄を落とし、頡利可汗を破る功績で鄒国公に進封された。
襄州都督に転出し、寛容な統治で知られた。
程知節(義貞)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 93 | 65 | 30 | 62 | 騎将 | A | A | C | S | C | C | 589 | 665 |
【テイチセツ(ギテイ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。宿国公。盧国公。程婁の子。
李密に従い四驃騎の一つを領して活躍し、王世充討伐では単雄信と両騎営を担い、
王世充が単雄信を狙うと、裴行儼と共に苦戦しつつも救援した。
李密が敗れると、王世充を嫌い、秦叔宝と唐に帰順し、
宋金剛・竇建徳・王世充との戦いに従軍して、先陣を幾度も切る功績をあげる。
その後、李建成の讒言を受けて左遷されても無視し、
「玄武門の変」ののち、右武衛大将軍に任ぜられ叛乱平定などに活躍。
左領軍大将軍・原州都督を歴任し、普州刺史・盧国公に改封された。
虞世南(伯施)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
1 | 1 | 42 | 46 | 40 | 指導 | C | C | C | C | C | C | 558 | 638 |
【グセイナン(ハクシ)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。永興文懿公。初唐三大家の一人。
はじめ隋に仕えたが、のちに唐に仕えた。
王羲之の書を愛好した李世民に皇太子時代から仕え、その顧問として生涯信任をうけた。
書は智永にまなんで王羲之の正統を継承したと伝えられ、
太宗が開設した弘文館では貴族の子弟に書を教えた。
同時代の欧陽詢と共に楷書の大成者とされる。
劉政会
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 64 | 76 | 52 | 58 | 沈着 | B | A | B | C | C | C | ? | 635 |
【リュウセイカイ】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。渝襄公。北斉の中書侍郎・劉環雋の孫。
隋の太原?鷹揚府司馬で唐公李淵の麾下に属していた。
李淵が太原で挙兵するのに先立ち、王威・高君雅らを捕らえるのに功績を挙げた。
唐の建国後、衛尉少卿に任ぜられ、太原の留守を務める。
群雄の一人である劉武周が并州を攻撃すると虜囚となるが、
敵中にあって劉武周の動静を李淵のもとに書き送る。
劉武周が敗れると官爵を戻され刑部尚書・光禄卿を歴任し、邢国公に封じられた。
唐倹(茂約)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
66 | 65 | 51 | 25 | 62 | 掃討 | A | B | B | C | B | C | 579 | 656 |
【トウケン(モヤク)】
唐の凌煙閣二十四功臣の1人。莒国公。唐鑑の子。
親子二代で李淵親子に親しく、李父子に王業を説いた。
呂崇茂と劉武周の造反に対し、永安王李孝基・独孤懐恩・于筠らと討伐にあたるが、尉遅恭?に敗れ虜囚となる。
独孤懐恩の唐への造反を察知し、劉世讓を内密に李淵のもとに派遣しその謀略を告発させる。
李淵は彼が敵中でも忠義を尽くしたのを賞賛し、并州道安撫大使とする。
李世民の下では幽州の劉黒闥や馬邑の高満政を鎮圧し莒国公に進封された。
在官時は、酒宴に耽ったため光禄大夫に左遷されるが、国老として特進を加えられた。
尉遅恭?・李勣?・秦瓊?
いずれも唐の凌煙閣二十四功臣の1人。「いにしえ武将?」から。
平陽公主
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 配偶者 |
75 | 61 | 88 | 82 | 86 | 内助 | A | B | A | C | B | B | ? | 623 | 柴紹 |
【ヘイヨウコウシュ】
李淵の三女。柴紹の妻。平陽昭公主。
父の李淵が太原?で起兵すると、一計を案じて父の起兵に呼応した。
総管を称していた何潘仁を降して、周辺の李仲文・向善志・丘師利らを降した。
法の順守と略奪を厳禁させ、関中近隣の人士を懐柔し、
唐軍が黄河を渡ると、渭北で李世民の軍と合流した。
柴紹と公主は幕府を対置して、長安?の平定にあたり、公主の部衆を娘子軍と号した。
唐建国後、平陽公主に封ぜられる。
葬儀に際し、父の李淵は太常(葬儀の礼の官)の批判を押し切り、
常に軍中にいた彼女の死を軍楽で悼んだという。
宇文士及
「みんなの新武将/隋」のページを参照。
張士貴(武安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 86 | 56 | 36 | 58 | 弓将 | A | S | A | S | A | C | 586 | 657 |
【チョウシキ(ブアン)】
唐の将軍。虢国公。
百五十斤の強弓を引き、左右自在に射て的を外すことがなかったと言われる。
隋の末年に起兵して城邑を攻掠し、李淵が起兵すると招かれ右光禄大夫に任ぜられ、
劉文静・李建成の下で征戦に従い、功績を挙げた。
唐建国後に王世充の大軍と遭遇して奮戦し、功績により開国公の爵位を受けた。
その後も国内統一戦に先頭に立って戦い、国内が定まってからは南方の異民族の制圧にあたる。
高句麗遠征において遼東道行軍総管をつとめ、まもなく死去した。
劉文静(肇仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
73 | 60 | 82 | 36 | 34 | 指導 | B | A | A | B | B | C | 586 | 619 |
【リュウブンセイ(チョウジン)】
唐の将。劉韶の子。魯国公。
李淵が唐公となると李淵や李世民と親交を結ぶが、李密が反すると姻族として入獄する。
李世民は彼の他に起兵の計画の相談を出来る者がおらず、
このため彼に密会し献策を受けて父の李淵に挙兵させた。
李淵が挙兵すると司馬となり、屈突通・桑顕和と潼関で対峙し、両者を破り新安以西の地を平定。
李淵の即位後、魯国公に任ぜられたが、軽侮していた裴寂が重用されるのに不満を持ち、
李淵に怨み言を述べたため処刑された。
この時、韓信?の故事を引用し己の悲運を嘆いたという。
裴寂(玄真)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
24 | 17 | 81 | 63 | 72 | 秘計 | C | C | C | C | C | C | 569 | 629 |
【ハイセキ(ゲンシン)】
唐の功臣の一人。
はじめ隋に仕えていたが、隋末に李世民の意を仲介して李淵に伝えて起義を促した。
李淵が挙兵すると補佐を行ない、長安?を陥落させると、大丞相府長史となり、
後、魏国公となり、隋の恭帝侗の禅譲の際にも関与し、李淵に勧めて禅譲を受けさせた。
その後、尚書右僕射となるが、妖乱に連座して免官の上、蒲州に放逐された。
後、山羌の叛乱に際し、家僮を統率して賊を平定した功により入朝を赦された。
羅士信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 89 | 42 | 40 | 80 | 槍将 | S | A | C | S | C | C | 600? | 622 |
【ラシシン】
隋末・唐初の武将。
張須陀の義勇軍に参加し14歳で初陣を飾る。
この際、若年扱いされたことで鎧を二枚重ねて着用し奮戦した。
盧明月が張須陀を襲撃した際には、秦瓊?と共に寡兵を率いて盧明月の本陣を逆襲している。
張須陀の敗死後は、秦瓊・程知節らと行動を共にし、最終的に唐の李淵に帰順する。
李世民による洛陽?包囲戦で活躍し、王世充の太子の王玄応を突き落とし、硤石堡と千金堡を陥落させた。
翌年、漢東王劉黒闥と洺水で戦い捕縛され、帰順に応じず殺害された。
※享年20歳説(旧唐書)と28歳説(新唐書)がある。
しかし、どちらも張須陀軍で初陣を飾った613年とは辻褄が合わない(初陣年と没年から計算すると享年23歳)。
蘇烈(定方)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 94 | 82 | 67 | 84 | 騎神 | S | S | A | S | A | A | 592 | 667 |
【ソレツ(テイホウ)】
唐の将。蘇定方。
李靖の下で二百騎を率いて突厥戦での先鋒をつとめ、霧中に牙帳を襲撃した。
高句麗攻めでは程知節に従い前軍総管となり、連戦して敵陣に討ち入って功を挙げた。
その後、西域諸国を攻略し唐の西方拡大に大いに貢献した。
その後、新羅の要請で百済征討に参戦し、主力軍に勝利し、続く高句麗戦でも平壌を包囲した。
治軍厳正にして秋毫も犯さず、強襲と力戦により、しばしば寡兵で大軍を破った。
没後、生涯三国を滅ぼした名将であると高宗に悼まれた。
薛礼(仁貴)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 96 | 78 | 56 | 75 | 勇将 | A | S | S | S | A | C | 614 | 683 |
【セツレイ(ジンキ)】
唐の将。薛仁貴。薛軌の子。
張士貴の兵の徴募に応じて、高句麗遠征に参加。
劉君卬が高句麗軍に攻囲されている危機を救援して名を挙げ、
以後、突厥・高句麗・吐蕃・契丹といった唐王朝の遠征軍に連続して参加。
安市城の攻撃では、白衣を着て目印とし、戟を持ち、
二張りの弓を腰にかけて軍の先頭に立ち突撃し、高句麗軍を破った。
遠征軍が長安?に帰還すると、宮城の北門を守備。
突厥の骨篤禄が唐の北辺に侵入すると、阿史徳元珍の軍を雲州で撃退した。
その勇武は多くの民間伝承に伝えられる。
劉仁軌(正則)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 76 | 79 | 74 | 69 | 水神 | A | A | A | C | B | S | 602 | 685 |
【リュウジンキ(セイソク)】
唐の武将。
太宗の治世で給事中まで昇るが、李義府により青州刺史に左遷される。
高宗の百済討伐では海運を担当するが、暴風に遭遇して失敗し免職された。
百済の残党が起兵し百済城(泗沘)を攻めると救援に赴き、熊津江で百済軍を打ち破る。
さらに白江口(白村江)で倭・百済の連合軍を迎撃し、軍船四百艘を焼き払い倭の勢力を朝鮮半島から駆逐した。
百済を鎮守し、高宗の封禅には新羅、百済、耽羅、倭の四国の使者を連れて参加している。
高句麗、靺鞨、吐蕃との戦いでも活躍し、武則天の親政時にも重用された。
裴行倹(守約)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 75 | 78 | 82 | 84 | 心攻 | S | B | B | S | A | C | 619 | 682 |
【ハイコウケン(シュヤク)】
唐の武将、政治家。
明経に及第して長安令を務める。
高宗の武照(後の武則天)立后に反対したため、西域へ左遷される。
西域諸国を服属させ、中央に召喚されると少常伯(吏部侍郎)となって、
官吏の選定のための法整備に尽力した。
この間、蘇定方から兵法を学び、誠心を尽くして兵の信頼を得て、異民族との戦いで勝利を重ねた。
ササン朝ペルシャが滅亡して亡命してきた王子ナルセスの帰国を名目に、
途上で一万の騎兵を募って西突厥を破り、帰還後に礼部尚書に任じられる。
東突厥が反したため、三十万の軍を率いて平定した。
狄仁傑(懐英)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
53 | 41 | 86 | 92 | 88 | 眼力 | C | C | C | C | C | C | 630 | 700 |
【テキジンケツ(カイエイ)】
唐の政治家。号は徳英。高宗から武則天の四代に仕えた。
大理丞になると、滞っていた案件を一年で処理し、
一万七千人を裁いて冤罪者を一人も出さず、大きな名声を得た。
地方に出ると異民族も良く統治して人心を得、
叛乱の連座に問われた者達を減刑して命を助け、その仁政から民に慕われた。
酷吏の来俊臣に謀反を誣告され獄に下され、後に地方に左遷される。
中央に戻ると宰相に復帰し、武則天に直言・諫言を行い続け、武則天の信任も厚く非常に慕われた。
狄光嗣、張柬之、桓彦範、敬暉、姚崇らを抜擢し、後の唐中興の礎を築いた。
武照
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
42 | 38 | 88 | 88 | 77 | 眼力 | B | B | B | C | C | C | 623 | 705 |
【ブショウ】
中国史上唯一の女帝。
十四歳で唐の太宗の後宮に入り、太宗の死後は尼となるが、高宗に見初められて再び後宮に戻る。
権謀術数を尽くして皇后の地位を得ると、関隴集団を粛清して政治の実権を握り、
高宗の死後、帝位を継いだ中宗らを廃して自ら皇帝に即位し、武周朝を開く。
恐怖政治を布いて唐室や官僚らの反抗を抑え込む一方で、狄仁傑を始めとする非貴族層の人士を積極的に登用し、後の開元の治の礎を築いた。
しかし、晩年に張柬之らとの権力闘争に敗れ、帝位を中宗に返還した。
死後、その遺体は亡夫の高宗が眠る乾陵に埋葬された。
補足:こちら
張柬之(孟将)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 8 | 87 | 87 | 76 | 規律 | B | C | B | C | C | C | 625 | 706 |
【チョウカンシ(モウショウ)】
唐の政治家。襄陽?出身。
若い時に太学生となり、経史を広く読み、三礼に精通していた。
進士になると清源丞を務めた。
七十歳近い年齢の時に賢良征試で第一位となり、監察御史に抜擢される。
しかし武則天に逆らって合州・蜀州の刺史に左遷された。
洛州司馬になると、狄仁傑が司馬より宰相の器であると進言して中央へ戻された。
宰相となり、武則天が病床に伏せると桓彦範らと起兵し、
武則天に寵愛された張兄弟を斬り、武則天を退位させて唐を再興した。
しかし、武三思が権力を握ると左遷され、故郷で憤死した。
姚崇(元之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
49 | 28 | 81 | 95 | 82 | C | C | B | C | A | C | 650 | 721 |
【ヨウスウ(ゲンシ)】
唐の政治家。初名は姚元崇。
門蔭で入仕し、契丹防衛に関する情報収集の功績で、武則天の代に宰相に抜擢される。
睿宗の代に宰相に再任するが、太平公主によって失脚する。
玄宗が即位して宰相職を要請されると、
厳法の廃止、租税の軽減、外戚の排除など十ヶ条を提議し、玄宗が同意すると拝命した。
宋璟と政治改革を行って「開元の治」を招来し、唐の最盛期を築き上げた。
山東の蝗害では指揮をとって蝗九百万匹を捕殺し蝗禍を根絶した。
幕僚の賄賂発覚の際に死刑減刑を求めて玄宗の不興を買い、
後任の宰相位を宋璟に託して引退した。
※特技候補は、玄宗即位の際の建議から「指導」「仁政」、蝗害を抑えた功績から「風水」など。
宋璟(広平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
35 | 22 | 80 | 94 | 80 | 仁政 | C | C | C | C | C | C | 663 | 737 |
【ソウケイ(コウヘイ)】
唐の政治家。
17歳で進士に挙げられ、武則天に抜擢されて監察御史などを務め、名声を博した。
睿宗の代に宰相に任ぜられたが、太平公主によって失脚する。
玄宗が即位すると、刑部尚書となり、姚崇の引退後に再び宰相に任ぜられて、
後宮の女性が政治に容喙するのを禁じた他、
刑法の改正や、公正な人事の励行、国防の徹底などの内政の刷新を断行した。
姚崇と共に成したこれらの政治改革により唐の全盛期を現出させ、
その治世は後世「開元の治」と呼ばれた。
しかし、あまりにも厳格な政治手法をとったため、玄宗の憂いを招き、左遷された。
その後、尚書右丞・広平郡開国公に任じられ、その4年後に政界を引退した。
楊玉環
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
2 | 3 | 59 | 1 | 97 | 傾国 | C | C | C | C | C | C | 719 | 756 |
【ヨウギョクカン】
唐の玄宗皇帝の寵姫。楊貴妃。楊玄琰の娘。
元々玄宗の第十八皇子の妃だったが、見初められ後宮に入った。
玄宗は楊貴妃との愛欲に溺れ政治を放擲した為、外戚の従兄の楊国忠の専横を許し、
無謀な遠征などの悪政の結果国力を弱め、民衆の怨嗟の声が高まった。
さらに楊国忠は政敵の節度使の安禄山へ讒言を行い、危機感を覚えた安禄山は反乱(安史の乱)を起こした。
玄宗らが叛乱から逃亡すべく長安?から蜀へ向う最中、兵士達は楊国忠を強く恨んでいた為に彼を殺害し、
更に楊貴妃殺害を要求した為、やむなく縊死させられた。
王忠嗣
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 82 | 87 | 42 | 78 | 明鏡 | A | C | S | S | B | C | 705 | 749 |
【オウチュウシ】
唐の武将。初名は王訓。
九歳の時に父親が戦死すると、玄宗の仮子となり忠嗣の名を賜る。
玉川で吐蕃が閲兵中と聞くと諸将の制止を振り切って三百騎で出陣し、
数千を斬って吐蕃王を敗走させた。
吐蕃からの防衛や奚・契丹への北伐で活躍。
投降した突厥が召喚に応じなかった際には、突厥の三部に離間を仕掛けて降した。
吐蕃の石堡城攻めに反対し、軍を進めなかったため罪を問われる。
また、安禄山に謀反の兆しがあることを上奏していたが、逆に李林甫に讒訴された。
哥舒翰の尽力で極刑からは救われたが、閑職に左遷され間もなく没した。
補足:石堡城攻めに逆らったのは、吐蕃の防備が堅固なために数万の将兵の命が無駄になると見通していたため。
哥舒翰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 89 | 74 | 61 | 72 | 槍将 | S | B | S | A | B | C | ? | 757 |
【カジョ・カン】
唐の武将。突厥出身。
吐蕃との戦いでは、槍を巧みに扱って敵将三人を討ち取る。
王忠嗣が李林甫に陥れられると、自らの官爵を賭して弁護した。
十万の兵を率いて石堡城を攻め、数万の死傷者を出しながらも陥落させる。
安禄山と対立する中で酒色に溺れ、病を患って療養生活を送った。
安史の乱では、処刑された高仙芝らに代わって潼関防衛の指揮を執る。
堅守に徹しようとするが、楊国忠の猜疑を受け、玄宗から出撃命令が出される。
敗戦を承知で安禄山軍の崔乾祐に挑んで大敗し、捕虜となる。
安慶緒が洛陽?から逃亡する際に殺害された。
補足:哥舒の二字姓。
高仙芝
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 86 | 74 | 29 | 68 | 長駆 | A | A | A | S | B | C | ? | 755 |
【コウセンシ】
唐の武将。高句麗の出身。
玄宗の命により、歩騎一万を率いて西域に進軍する。
カシュガルからパミール高原を越え、ギルギットを攻め取り、タシュケントなどを征服していく。
イスラム帝国とタラス河畔で決戦するが、西域部族が離反して敗北し、長安?に帰還した。
安史の乱が勃発すると副元帥に任じられる。
先行した封常清が洛陽?を失陥すると、撤退を支援し唐軍の潼関への退却を成功させた。
しかし、宦官らが兵糧を着服したと讒言し、冤罪によって処刑された。
高仙芝を失った唐軍は潼関も陥落し、玄宗が長安から逃亡する事態となった。
安禄山
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 93 | 74 | 5 | 2 | 強奪 | A | B | B | S | A | C | 703 | 757 |
【アンロクザン】
唐の将・節度使。大燕国皇帝。
本姓は康で、サマルカンド出身のソグド人と突厥系の混血の巨漢。
語学に堪能で交渉事で頭角を現す一方、業績と忠誠のアピールに長け、
その膨らんだ腹の中には何が入っているのかと玄宗に聞かれた時、
「ただ忠誠のみが入っています」と答えた逸話も残る。
玄宗からの反乱への疑いを逸らす為の苦肉の策とされる。
賄賂や箴言を駆使し中央の有力者に取り入る一方で、
領民に自身を神に見立て生贄を求め、地方の酋長を宴に呼び毒酒で酔わせ、
数千人の部族諸共生埋めにして賊討伐の武功を上げる等、
唯我独尊を地で行く暴虐振りを見せた。
また玄宗に取入る為に自ら望んで楊玉環の養子となり、
入朝の際に赤子プレイの露骨なパフォーマンスも行った。
その甲斐あって寵愛を受けたが、玄宗の寵愛が楊国忠に移ってからは謀叛の準備を進めた。
楊国忠の讒言を承けて安史の乱を起こし、大燕帝国皇帝を僭称、最期は息子に殺されるも、
天下は虐殺と略奪・残虐行為に明け暮れる無秩序の極地を往った。
彼の叛乱軍には「石臼部隊」が存在したと謂われ、
敵味方無関係に戦没兵の屍を元にした「人肉団子」を兵糧とした。
この乱以降、唐王朝の衰退は加速していく。
郭子儀(子儀)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 83 | 92 | 86 | 90 | 洞察 | S | A | A | S | S | C | 697 | 781 |
【カクシギ(シギ)】
中唐の将。玄宗以降四代に仕えた名臣。客家人。郭令公。
寒門の出だが、武挙に通り、左衛長史に任ぜられ、安北都府使兼九原太守に累進した。
後、安史の乱を鎮定し国難を救う功を挙げ、続いて僕固懐恩の叛乱を撃退。
更に、吐蕃・ウイグルの叛乱を平定し、徳宗より尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。
李光弼と武名を斉しくし、世に「李郭」と尊称され、寛厚な人柄で万人に敬愛の対象となり、
外征の帰還に際し皇帝が自らで迎えるなど、特別待遇を受けた。
ウイグル人などの異民族からも畏敬の念を持って遇せられたという。
李光弼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 90 | 85 | 62 | 88 | 勇将 | S | A | S | S | A | C | 708 | 764 |
【リコウヒツ】
唐中期の武将。契丹族の出身。
郭子儀に才能を見出され、安史の乱に際して河東節度使に任じられ、各地を転戦する。
史思明・史朝義の軍と幾度も戦い、頻発する賊も平定して軍功を重ねた。
郭子儀と並んで「李郭」と称され、特に戦功は第一とされている。
軍規に厳しく用兵は冷静で、謀略を立ててから戦いに臨み、寡兵をもって大軍に勝つというものだった。
晩年は軍権を握る宦官と対立して恨まれ、官を辞そうとし引き止められる中で病に倒れた。
死に際して俸給の金と絹を将兵に分け与えるなど、部下思いの人物でもあった。
顔真卿(清臣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
70 | 55 | 74 | 78 | 88 | 不屈 | B | B | B | C | B | C | 709 | 785 |
【ガンシンケイ(セイシン)】
唐の政治家、武将、書家。楷書四大家の一人。
進士となり、監察御史や侍御史を務めるが、権臣の楊国忠に忌避され平原?太守に左遷される。
安史の乱が起きると平原を堅守し、義兵を率いて河北で史思明と戦う。
忠臣として賞賛され、工部尚書、憲部尚書、御史大夫などを歴任。
淮南節度使の李希烈が反すると、名声を妬んだ盧杞らによって慰撫の使者として送られる。
李希烈に捕えられ幾度も帰順を勧められるが、拒否し続けて殺された。
書家としては、「顔体」と呼ばれる楷書を編み出し、王羲之以来の伝統を変革した書法の改革家として名高い。
杜甫(子美)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
2 | 1 | 83 | 81 | 90 | 詩想 | C | C | C | C | C | C | 712 | 770 |
【トホ(シビ)】
盛唐期の詩人。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。三国時代の名将杜預?の末裔。
律詩の表現を完成させ、後世、詩人としての最高位の呼称である『詩聖』と称された。
その文学的功績は李白と並び称される。
反面、士大夫としては終生不遇と貧困に苦しみ、傑作が生み出されたのはその苦境の中であった。
李晟(良器)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 90 | 81 | 54 | 85 | 弓将 | A | B | S | A | A | C | 727 | 793 |
【リセイ(リョウキ)】
唐の武将。
王忠嗣の吐蕃討伐に従い、敵将を一矢で倒し「万人敵」と賞賛される。
安史の乱以後に吐蕃の侵犯が活発化すると、禁軍の神策軍を率いて吐蕃を退ける。
朱泚が秦を建国して徳宗が長安?を追われると、徳宗を追って奉天へと向かう朱泚の軍勢を破った。
長安攻略戦では民衆に危害が及ぶのを避けるために市街戦を回避し、
皇宮へ直接攻め入って朱泚を長安から駆逐し、徳宗を迎え入れた。
感激した徳宗により王に冊封され、肖像を凌煙閣の功臣に並ばせたが、
強大になった軍権を忌避され、後に軍権を取り上げられ名誉職に就けられた。
李愬(元直)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 76 | 88 | 74 | 72 | 強行 | S | C | S | B | A | C | 773 | 820 |
【リソ(ゲンチョク)】
唐の武将。李晟の子。
謀略を有し、騎射に優れていた。
裴度が呉元済の討伐を朝廷で説得している最中に、軍備を整え情勢をつぶさに調べ上げる。
呉元済に詐言を流して自身を無能と思わせ、
呉元済麾下の丁士良、呉秀琳らに接触し寝返らせることに成功する。
李光顔の主力軍に呉元済が向かって蔡州の防備が薄くなると裴度に出兵を請い、
大雪の夜に蔡州に侵攻して奇襲によって蔡州を陥落させ、呉元済を捕縛して長安?へ護送した。
その後、鳳翔節度使に任じられるが、病に罹り四十九歳で没した。
劉晏(士安)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
28 | 20 | 76 | 89 | 73 | 能吏 | C | C | C | C | B | B | 716 | 780 |
【リュウアン(シアン)】
唐の政治家。
幼い時から神童と称され、八歳の時には玄宗の封禅を称える文を献上した。
安史の乱の後、粛宗のもとで中央・地方で要職を歴任し、
塩鉄使、轉運使となって塩と鉄の専売や貨幣改鋳など、財政再建に尽力する。
代宗の代に宰相となり、吏部尚書、戸部尚書、塩鉄轉運使を兼任。
大暦年間には塩専売の利益で千二百万貫の財政収入を得、代宗に「朕の蕭何?なり」と賞賛された。
徳宗の治世で楊炎が宰相として実権を握ると誣告され、諸臣が陳情するも死を賜る。
没後二十年は財政政策に影響力を残し、楊炎失脚後に名誉回復された。
楊炎(公南)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
32 | 11 | 73 | 90 | 61 | 徴税 | C | C | C | C | B | C | 727 | 781 |
【ヨウエン(コウナン)】
唐の政治家。両税法の創設者。鳳翔郡天興の人。
呂崇賁の下で文才を開花させ、中央政府に入り高官を歴任。
徳宗の即位後に宰相職に抜擢され、朝権回復と財政再建という難題に取りかかる。
安史の乱以後の、藩鎮の割拠による国家分裂と農村の荒廃を打開すべく、
反対を押し切って両税法を導入し、宦官の収入流用禁止や人材登用に注力した。
だが、諸政策が貴族・宦官・藩鎮ら既得権益層の強硬な反発の対象となり、
徳宗の側近・廬紀の讒言に反対勢力も一斉に同調したため、
徳宗もそれに従い、左遷の途上で処刑された。