注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
商(B.C.?~B.C.1046?)・西周(B.C.1046?~B.C.770)
商は殷とも呼ばれ、現在公認されている最古の世襲王朝で、概ね奴隷制社会として認識されている。
殷の名称は、王朝が殷(安陽)に遷都してからのものと説明されるが、
“商”は、楚の“郢”と同様に各王都に共通する冠称で、
広域勢力としての自称そのものが甲骨文からは確認できず、
周代に至って初めて国名として“殷”が用いられた。
『尚書』では一貫して“商”とあり、現代中国では“商”または“殷商”と呼んでいる。
第30代の紂王は妲妃を盲愛して遊興に耽り、酷刑と苛斂誅求などの悪政で人心を失い、
周を中心とする諸侯連合に滅ぼされた。
周は古公亶父の代に岐山に遷って勢力を増し、孫の昌の時代には殷から方伯とされ、
商の東方経略に乗じて次第に東進し、昌の子の発が武王を称して牧野の戦いで商を滅ぼした。
関中の鎬京?を宗周として旧領統治と宗廟祭祀の中心とし、洛邑?に王城・成周を造営して東方支配の拠点とし、
三監の乱を克服した成王の時代にほぼ統治体制が整い、
昭王・穆王の代には漢水・長江中流域に遠征するなど最盛期を現出した。
その後、拡大の停止と体制の硬直化で次第に王室が弱体化し、
財政強化を図った厲王は法治を強めて国人に追放され、
中興と称される宣王も晩年には中央集権化で失敗し、
第12代の幽王が褒姒に狂い犬戎の侵攻で敗死したことで西周は断絶した。
伊摯
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 56 | 94 | 100 | 95 | 風水 | B | B | B | C | S | C | ? | ? |
【イシ】
商建国の功労者。商王朝の阿衡(宰相)であったことから伊尹と通称される。
伝説では、伊尹の母は大洪水に巻き込まれ桑の大木と化し、その幹から伊尹が生まれたという。
商の君主・子履(後の湯王)の使用人であったが、才能を認められ、商の国政に参与。
商が夏を滅ぼす際にも活躍し、商王朝成立に大きな役割を果たした。
伊尹は湯王を補佐し、商王朝数百年の基礎を固めた。
世代が移り、湯王の孫・太甲が即位後国政を乱すと、伊尹は太甲を追放し、改心するまで統治を代行。
太甲の悔悛後は、再び彼を王に迎え自らは臣下の列に復した。
嬴来
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
55 | 98 | 44 | 11 | 22 | 猛者 | S | S | C | B | C | C | ? | ? |
【エイライ】
商の紂王時代の官僚。悪来。
剛力で知られ、その能力を認められて殷の紂王に仕えた。
紂王によって国政を任せられるが、讒言・暴行に走ったため王室は人心を失い、殷周革命を促進させた。
周の武王が商の紂王を討った際に共に殺され、父蜚廉と共に同じ墓に葬られた。
弟に季勝という者がおり、末裔が春秋戦国時代の晋の趙氏だという。
政治的手腕はともかく、その剛力ぶりは伝承・伝説となった。
『演義』では曹操?が典韋?の剛力を評して「悪来の再来」と言い、以後典韋の二つ名になった。
子受
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 素質 | 性格 | 口調 | 親愛 |
86 | 90 | 92 | 77 | 5 | 強奪 | A | A | A | S | C | C | ? | ? | 早熟・短い | 剛胆 | 尊大 | 妲己 |
【シジュ】
商の第30代王。諡号は帝辛。殷の紂王。
『史記』に、猛獣と格闘し、修辞で自己弁護を行う程の才覚を持っていたとある。
妲己を盲愛し「酒池肉林」と謂った放蕩に走り「炮烙刑」等の酷刑を創出、
異を唱えた臣下を即誅殺し、その肉を宴席で振舞ったとも謂われる。
人心を失った商は諸侯連合に滅ぼされ、後世儒家に夏の桀王と並ぶ暴君の象徴に貶められた。
実際には、彼の治世は商の最盛期であり、北方や東方に遠征を繰り返していた。
また、初めて貨幣(貝貨)を用いたが、その革新性は諸侯・臣民に理解されず、人心を失っていった。
そして、戦争による疲弊のため、周に滅ぼされたのである。
妲己
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 口調 |
4 | 3 | 70 | 2 | 1 | 徴税・傾国 | C | C | C | C | B | C | ? | ? | 冷静 | 尊大 |
【ダッキ】
商の帝辛(紂王)の妃。
子受に輪を掛けて残忍な性格で、淫靡な宴や酷刑の他、蓄財を趣味とした。
『史記』殷本紀には、余りの寵愛ぶりから、帝辛は妲己の言いなりであり、
土木工事や財貨蒐集に勤しみ、珍獣を愛好するなど「酒池肉林」の乱行を止めなかった為、
商周革命で周の武王に殺されたとある。
『国語』では、帝辛が有蘇氏を討った際に有蘇氏が献上したのが妲己で、己が姓、妲は字とする。
『列女伝』では、炮烙の法を見て笑い、それを諌めた比干を惨殺する等、
「紂を亡ぼす者はこの女なり」と評された。
末喜らと共に傾城傾国の悪女の代名詞として扱われ、『封神演義』でも題材とされた。
姫昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 60 | 90 | 97 | 99 | 仁政 | A | A | S | B | A | C | ? | B.C.1152-B.C.1056 |
【キショウ】
周王朝の始祖。周の文王。
周王朝の創始者である武王の父.
紂王により無実の罪で幽閉される。その後、財宝と領地を紂王に献上して釈放され、
西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられる。
国許に帰郷後、紂王に目を付けられないようにしながら仁政を行った。
その後、領土を広げ、また太公望?を軍師に迎える。
紂王の無道に見切りを付けた諸侯が昌を頼るようになったが、最後まで商の臣下としてあり続けた。
死後息子の武王が文王の積み上げた物を基盤として商を倒し、周王朝を立てる。
武王は昌に対し文王と追号。後世、特に儒家からは武王と並んで聖王として崇められ、為政者の手本となる。
姫発
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
96 | 94 | 88 | 85 | 97 | 勇将 | S | S | S | A | A | C | ? | B.C.1021 |
【キハツ】
周王朝の創始者。周の武王。
父の姫昌の没後、太公望?や周公旦を左右に父の事業の継承に励むが、
紂王の暴政は止まず、遂に挙兵。
周軍は瑞兆が現れ、諸侯も馳せ参じ、両軍は牧野で衝突するが、
商軍は奴隷兵を中心とした烏合の衆であり、離反者が続出して商軍は大敗。
紂王は自害し、商は滅んだ。
即位後、父姫昌に文王と追号し、論功行賞で太公望を斉に、周公旦を魯に封じ、
首都の鎬京以外に洛邑を副都と定め、天下の武器を廃し、軍を解散。
後、後事を太公望と周公旦に托し、病没した。
姫旦
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 55 | 93 | 100 | 95 | 仁政 | A | A | A | B | A | B | ? | ? |
【キタン】
周の政治家。武王の弟。周公旦。
政官として武王を扶けて周に分封され、戦後は実質的な宰相として洛邑に成周城を造営するなど、
殊に東方支配の確立に尽力した。
武王没後は召公と共に成王を後見し、三監の乱を鎮圧して周の支配体制を強化。
実権を成王に還した後も国政全般に大きく関わった。
また、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼の書である『周礼』『儀礼』を著したとされる。
孔子?が理想とした聖人・政治家であり、夢に見なくなった時には自身の加齢を嘆いたと言う。