注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
百済
解説はこちら
階伯
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 79 | 68 | 47 | 80 | 不屈 | A | A | C | B | C | C | 613 | 660 |
【ケベク】
百済後期の将軍。出自は不詳だが王族ともいわれる。
百済の三忠臣の一人と言われ、唐新羅連合軍が18万で攻めてきた際には
わずか5000人で迎撃。その侵攻を4度受け4度跳ね返すという活躍を見せる。
しかし、人質となっていた金官昌を悔やみながら処刑したことから新羅軍が
一気呵成に攻め込み、ついに進退窮まって戦死、祖国に殉じた。
高句麗
解説はこちら
高朱蒙
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 89 | 76 | 74 | 86 | 弓神 | A | B | S | A | B | C | 前58年 | 前19年 |
【コ・チュモン】
東明聖王。高句麗の初代国王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)。天帝の子を自称する
解慕漱(ヘモス)の子、または扶余の金蛙王(クムワワン)の庶子とされる。
扶余の7人の王子と対立し、卒本(チョルボン)に亡命して高句麗を建国、初代の王となった。
朱蒙の名の由来は扶余の言葉で弓の達人と言う意味である。
高憂位居
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 76 | 49 | 61 | 75 | 長駆 | C | C | B | A | C | C | 209 | 248 |
【コウ・ユウイキョ】
高句麗の第11代の王(在位:227年‐248年)。東川王の名で知られている。
勇猛で騎馬と射撃が得意であったという。
隣国の魏とは友好的な関係を結んでいたが、
公孫淵討伐後は軍を旧公孫領に侵入させるなど、魏との関係を急速に悪化させた。
それにより243年から246年にかけて毌丘倹率いる魏軍によって、
高句麗軍は壊滅させられ、高句麗の首都・丸都も占領されてしまう。
しかし憂位居は逃げ出すことに成功し、高句麗を復興する為に、破壊された丸都から平壌へ遷都をする。
補足:国姓が「高」。
事績から『三国志』及び『梁書』で記録されている「位宮(イキュウ)」と推定される人物。
後代に編纂された高麗の『三国史記』では「位宮」を一代前の山上王の別名としている。
高談徳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 65 | 66 | 58 | 67 | 攻城 | A | C | C | B | A | C | 374 | 412 |
【コ・タムドク】
高句麗の第19代の王。故国壌王の子。好太王・広開土王の名で知られる。
王位に就くや、百済に対して攻勢を繰り返して永く隷属することを誓わせた。
倭が百済と結び新羅を侵攻すると倭軍を撃退して新羅を救援し、
後燕が攻めてくると逆に侵攻して領土を拡張し、西は遼河、北では開原から寧安、
東では琿春、南へは臨津江流域にまでに至るという大領土を有した。
内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、
歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。
乙支文徳
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 76 | 74 | 55 | 69 | 虚実 | B | C | C | A | B | C | ? | ? |
【ウルチムンドク】
高句麗の将軍・大臣。
隋の楊広による第一次高句麗遠征で、偽りで七戦七敗して隋軍を引き寄せて
さらに偽投降で宇文述に兵を引かせたところを急襲して徹底的に撃破した。
遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることが
できたのはわずかに2700人であったという。この大勝利を「薩水大捷」と言い、
後に日本軍を破った李舜臣とともに、祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。
戦後の動向は『三国史記』には記されておらず、没年についても詳細は不明。
淵蓋蘇文
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
77 | 65 | 72 | 75 | 68 | 築城 | B | B | C | C | A | B | ? | 665 |
【ヨン・ゲソムン】
高句麗末期の宰相。
北方千里にのぼる長城を築造し唐の侵入に備えた。
親唐派の親善を図った栄留王と穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を立てて自ら政権をとった。
新羅との和解を勧告する唐の要求を拒否すると、太宗李世民は17万の大軍を率いて高句麗に侵入する。
淵蓋蘇文は国内の諸城塞を整備して、侵攻を安市城の楊萬春が阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。
その後にも4回の唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んだ。
弑逆者であるが、軍民からは強力な支持を受けていたと伝わる。
楊萬春
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 66 | 58 | 53 | 61 | 鉄壁 | B | A | A | C | B | C | ? | 671 |
【ヤン・マンチュン】
高句麗末期の将軍。安市城主。
淵蓋蘇文が栄留王を弑逆して政権を握ると、集権を認めず戦うが和解した。
孤立無援の中、遼東の安市城を守って、唐の太宗李世民の100万の大軍を相手に
鉄壁の守りを敷いて勇猛果敢に撃退した。
この時、李世民は楊萬春が直接放った矢に当たり片目を失ったという逸話も残る。
その後も4度、唐と戦いことごとく阻んだ。
後に高句麗が滅ぼされてからも最後まで安市城に残り抗戦を続けるが落城、祖国に殉じた。
新羅
解説はこちら
金春秋
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 62 | 84 | 85 | 84 | 論客 | B | C | B | B | C | C | 602 | 661 |
【キム・チュンチュ】
新羅の第29代の王。武烈王。
宿敵・百済に対抗するため、高句麗に赴いて援軍を求めるが逆に監禁されてしまう。
脱出して、今度は倭国へ使者として赴き、百済への牽制を図ろうとした。
さらに唐に入って、百済の討伐のための救援を願い出て出兵の約束を取りつける。
先代の真徳女王が死去すると、閼川に推挙されて王位に就いた。
唐に帰順して関係の強化を果たし、百済を滅ぼした。
続いて唐と連合して高句麗を滅ぼそうとしたが、軍を北上させている途上で病に倒れ、
陣中で病死した。
金法敏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 72 | 80 | 71 | 82 | 駆逐 | A | C | C | B | B | B | ? | 681 |
【キム・ボンミン】
新羅の第30代の王。文武王。武烈王の子。
太子であったが対百済戦で活躍して大功を上げた。
百済を平定した余勢での高句麗討伐の途上で武烈王が死去すると即位。
名将金庾信を遇して、唐軍とともに白村江の戦いで倭国の水軍を壊滅させ、
高句麗を滅亡させた。その後、朝鮮半島の直接支配を目論む唐と反目して、
唐と戦い唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、朝鮮半島の統一を果たした。
金庾信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
81 | 83 | 75 | 55 | 63 | 強行 | A | B | C | B | C | B | 595 | 673 |
【キンユシン】
新羅の将軍。太大角干。
善徳女王の死後、金春秋と共に真徳女王を立てて補佐し、女王が死ぬと
金春秋を武烈王として即位させた。唐と連合して百済・倭と歴戦の末に、
百済、高句麗を滅ぼしてついに三国を統一した。
『三国史記』は三国統一において彼の功績を随一と評している。
妹は武烈王に嫁いだ文明夫人で、長子が後の第30代の文武王である。
善徳女王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
41 | 34 | 23 | 55 | 78 | 洞察 | C | C | C | C | C | C | 不詳 | 647 |
【ソンドク女王】
新羅の第27代の王。新羅初の女王であると同時に、日本の推古天皇に続いて東アジア2例目の女性君主である。
姓は金で、諱は徳曼。632年に父の眞平王が嫡子のないまま死去したため、貴族会議によって史上初の女王にたてられた。
聡明であり、その表れとして三つの予知を行ったとされる。
治世においては百済と高句麗の侵攻を許し、救援を求めた唐にも廃位を迫られたため新羅国内に内部抗争を生んだ。
女王自らが任命した毗曇なども反乱を起こし、収拾に当たったが間もなく陣没した。
高麗
解説はこちら
王建(若天)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
72 | 63 | 85 | 92 | 96 | 仁政 | C | C | A | B | C | A | 877 | 943 |
【オウケン(ジャクテン)】
初代高麗王。字は若天。後高麗の出身。中国人、ないし朝鮮人と言われる。
もとは後高麗王であった弓裔に仕えていたが、人望が衰えたため同僚の裴玄慶、申崇謙らに
推挙されて王となった。以後新羅と盟を結び、朝鮮に勢力を構える後百済と戦う。
はじめ大敗を喫し、同盟を結んでいた新羅を滅ぼされるが、後百済の内乱に乗じて反撃を開始し、
936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島統一を成し遂げる。以後は内治外交に励み、高麗400年の礎を築いた。
死の間際に「訓要十条」を定め、その死は左右の者を嘆き悲しませたと言われる。
李氏朝鮮
解説はこちら
李成桂
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 90 | 82 | 47 | 68 | 弓神 | B | C | S | A | C | A | 1335 | 1408 |
【リ・ソンゲ】
李氏朝鮮の創始者にして初代国王。全州李氏の出身と言われるが、異説として女真族とも。
父に従い高麗に味方して対元戦線で活躍、紅巾の乱による紅巾族侵入の際には紅巾賊に
よって占領された開京を迅速に取り戻した。また元による納哈出、崔儒らの侵攻を尽く跳ね返し
南方による倭寇討伐にも貢献。しかし遼東討伐に赴く際に中央と対立を起こし、軍を取って返し
高麗王の王禑を廃位殺害し、のち1392年に高麗王朝を滅ぼした。以後李氏朝鮮を建国して統治にあたるが、
後継者問題によって5男・李芳遠が反乱を起こし、それ以降は政治への関心を失い仏門に帰依した。
弓の腕に優れ、高麗一として史書にその武勇を評価されている。
李芳遠
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
71 | 40 | 89 | 97 | 98 | 風水 | C | C | B | C | C | A | 1367 | 1422 |
【リホウエン】
李氏朝鮮の第3代国王。李成桂の五男。李成桂の「太祖」に対し、「太宗」と呼ばれる。
聡明で知られ、早くから父である李成桂を補佐して朝鮮統一に貢献した。
父の李成桂が後継候補として8男の李芳碩に定めると反目。李成桂が病に伏せると反乱を起こし、
反乱軍の中心的人物として活躍。反乱後は兄の李芳果が王位を継いだが実権は自身が握っていた。
しかしその後、兄である李芳幹が反乱を起こすと自身が王位を継ぎ、反乱を鎮圧。即位後は
王権強化のために王族功臣縁戚の弱体化に腐心し、一方で内政外交に力を注ぎ、議政府や六曹を設置。
また現在に至る朝鮮八道をも定めた。後継者には長男を廃して有能で知られた3男を定めた。1422年薨去した。
李祹
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
66 | 47 | 94 | 95 | 99 | 仁政 | C | C | B | C | C | B | 1397 | 1450 |
【イド】
李氏朝鮮の第4代国王。李芳遠の三男。「世宗大王」とも呼ばれた。
幼い頃から学問好きで聡明であり、太宗がその才を高く評価して後継者に指名した。
即位直後は父と協力して政治を行い、対馬を攻撃したのち外交手腕によって
倭寇問題を解決させた。一方で北方侵略を開始して建州女真族と戦いその領土を得た。
内政では田制改革や技術革新、廃仏政策を進める一方、集賢殿を設置してハングル文字を
創製するなど文化的にも多くの貢献を残す。1450年薨去。祖国韓国では「海東の堯舜」と呼ばれ、歴代最高の王とされる。
李昖
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
9 | 12 | 16 | 7 | 3 | 遁走 | C | C | C | C | C | C | 1552 | 1608 |
【イヨン】
李氏朝鮮の第14代国王。国王に即位したが、儒教に傾倒したために
文官の対立や朝政の混乱を引き起こす。豊臣秀吉らによる壬辰倭乱では家臣らの再三再四の
諫言にも関わらず、日本軍を侮って防備を一切固めなかったため、朝鮮潰走の
元凶となった。開戦から1月足らずで領土の大部分を占領され、都落ちの際には
人民が叛民や乱民となって暴動を起こし、国王に石を投げる者や進んで日本に協力した者までいた。
明の必死の救援と秀吉の死により難を逃れたが、晩年は王子らとの内乱や対立が絶えず、死後政治は混乱して清の冊封国となる。
李舜臣(汝諧)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
75 | 72 | 68 | 64 | 71 | 水神 | B | B | A | C | B | S | 1545 | 1598 |
【イ・スンシン(ヨヘ)】
李朝の将軍で、国民的英雄。豊臣秀吉の朝鮮侵攻を防いだ。
幼馴染の柳成龍の強い推薦により水軍大将に大抜擢され、文禄の役では日本軍を撤退へと追い込んだ。
このとき、朝廷から命ぜられた指示を無視したため降格させられたが、慶長の役では再び戦を指揮した。
露梁海戦で島津水軍を撤退させることに成功するが、自身は戦死した。
勇猛果敢な性格で朝鮮各地を転戦したが、上司との折り合いが悪く、罷免されたり白衣従軍を命ぜられたりした。
侵攻を受けた際も独断が祟り、一度は死刑宣告をされたほどであった。
郭再祐(季綬)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
64 | 78 | 74 | 45 | 77 | 遁走 | S | B | A | C | C | C | 1552 | 1617 |
【カクサイユウ(キジュ)】
李氏朝鮮の武将。
一介の農民として過ごしていたが、文禄の役の際の日本軍の侵攻を受け義兵として挙兵する。
朝鮮側からは当初逆賊と見なされるが、ゲリラ戦術を用い戦功を重ね次第に名声を高めていった。
第一次晋州城攻防戦では金時敏と共に数倍の日本軍と戦い、防衛に成功する。
戦後は宮廷内の権力闘争を嫌い、官職に就かず都落ちした。
戦場では紅い軍服を纏い、「天降紅衣将軍」と呼ばれた。
金時敏(勉吾)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 75 | 72 | 45 | 76 | 不屈 | B | S | B | C | A | C | 1554 | 1592 |
【キンジビン(ベンゴ)】
李氏朝鮮の武将。
1578年に武科に及第し、腐敗した軍の状態を見かね改革を兵農判書に建議するが、要れられず官を辞す。
その後女真との戦いで活躍し官途に復帰する。
文禄の役では晋州城に籠城し、3倍近い細川忠興軍の猛攻を耐え抜き遂に守り抜くが、自身は戦死した。
その戦いぶりは日本からも高く評価され、木曽判官(もくそほうがん)として歌舞伎の登場人物にもなっている。
李元翼(公励)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
46 | 35 | 77 | 83 | 82 | 仁政 | C | C | B | C | C | C | 1547 | 1634 |
【リゲンヨク(コウレイ)】
李氏朝鮮の官僚。李舜臣とは姻戚関係にあたる。
1569年に文科に及第し、諸官を歴任し飢民の救済等に功績を挙げる。
文禄・慶長の役では募兵を行い、李如松の平壌城奪還戦に参加し同城を奪還する。明軍への食料調達等も行った。
戦後は党派間の権力闘争の中悪政を正すため尽力し、引退後は清貧な暮らしを貫き1634年に没する。
清白吏として知られ、党派を問わず評価されており多くの逸話を残す。
惟政
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
62 | 53 | 78 | 64 | 83 | 論客 | B | B | B | C | C | C | 1544 | 1610 | 冷静 |
【イセイ】
李氏朝鮮の僧、武将。松雲大師と呼ばれる。
文禄・慶長の役に際し、義僧兵として挙兵し各地で戦う。
1594年に敵将である加藤清正の陣に三度乗り込み、朝鮮側に有利な講和条件を結んだ。
終戦後朝鮮側の使者として日本に送られ、徳川家康と伏見城で会い日本と朝鮮間の国交回復に成功した。
宋象賢(徳求)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 67 | 56 | 42 | 70 | 不屈 | B | A | B | C | C | C | 1551 | 1592 |
【ソウショウケン(トッキュウ)】
李氏朝鮮の武将。
文科に及第し、文禄の役の時点では慶尚道東莱府使だった。
小西行長軍が鄭撥を殺し東莱城を攻めると諸官が逃亡するなか降伏を勧められるが、「戦死易仮道難」という言葉を残し戦い戦死した。
その忠義心を讃えられ鄭撥と共に東莱の忠烈祠に祀られている。
鄭撥(子固)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
59 | 71 | 62 | 41 | 70 | 不屈 | B | A | B | C | C | C | 1553 | 1592 |
【テイハツ(シコ)】
李氏朝鮮の武将。
武科に及第し、女真族との戦いで活躍する。
文禄の役の際釜山鎮水軍僉使として釜山鎮を守っていたが、偵察中に日本軍を発見すると船を沈め日本軍の手に渡らないようにする。
釜山鎮に日本軍が上陸すると、諸官が逃亡するなか黒色の甲冑を着て奮戦するが戦死した。
その忠義心を讃えられ宋象賢と共に東莱の忠烈祠に祀られている。
申リツ(立之)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 76 | 32 | 20 | 58 | 騎将 | B | C | B | A | C | C | 1546 | 1592 |
【シンリツ(リッシ)】
李氏朝鮮の武将。
武官として諸官を歴任し、女真族の侵犯に対応していた。
文禄の役では破竹の勢いで進軍する日本軍に対し弾琴台で決戦を挑むが、敗れて自害した。
李カク
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
35 | 19 | 5 | 16 | 11 | B | C | C | C | C | C | ? | 1592 |
【リカク】
李氏朝鮮の武将。
文禄の役の際は慶尚左兵使だったが、日本軍の襲来に対し戦わずに撤退する。
その後罪を問われ捕縛され処刑された。
金千鎰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 64 | 74 | 38 | 68 | 不屈 | B | A | B | C | C | C | 1537 | 1593 |
【キンセンイツ】
李氏朝鮮の武将。
1592年に文禄の役が起きると、義兵として挙兵し転戦する。
漢江の日本軍を急襲したり、明軍に地形や日本軍の情報を教えたりと活躍を重ねる。
第二次晋州城攻防戦では日本の大軍相手に徹底抗戦するが落城してしまう。
戦後は南江に息子と共に身を投げ自害した。
大韓帝国(1897~1910)
解説はこちら
李㷩
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
5 | 3 | 15 | 17 | 16 | 遁走 | C | C | C | C | C | C | 1852 | 1919 |
【リキ】
李氏朝鮮の第26代皇帝、大韓帝国の初代皇帝。高宗。
11歳で傍系として即位すると父の大院君が実権を握る形で政治を行う。外戚の金氏の打倒に努めたが効果はなかった。
朝鮮が壬午軍乱などを通じて外国からの圧力が強まると、大国清に頼り問題を解決しようとする事大主義の立場をとったが政治混乱を加速させた。
清が日清戦争に負け衰退の気運を見せると、今度はロシアを頼るが逆に自国内の独立の動きが高まり国号を大韓帝国と改め、即位する。
その後も政治混乱は収まらず親政を行い改革を進めるも失敗。韓国併合後は王族に列され、1919年に病没。
安重根
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
65 | 63 | 68 | 24 | 82 | 待伏 | B | B | C | C | B | C | 1879 | 1910 |
【アンジュングン】
大韓帝国の独立運動家。別名は應七。
資産家の子として生まれたが学問を嫌い、義侠や遊興に耽る。
東学党の乱が起こると自警団を組織し、東学党と戦った。その頃にカトリックに改宗しキリスト教に没頭する。
私財を投じ学校を建設し、石炭商に手をつけるが失敗した。
日本が大韓帝国に対し圧力を強めると統監の伊藤博文の暗殺を謀り、周到な準備を経てこれを成功させるが逮捕され銃殺刑となった。
韓国国内では国民的英雄として李舜臣と共に名高いが、韓国併合の原因になったなどの批判も多い。
※伊藤を暗殺したのは彼一人ではなかったという陰謀論も根強く、事件の真相は未だに不明である。
朝鮮民主主義人民共和国(1948~)
解説はこちら
金日成(聖柱)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
61 | 53 | 68 | 74 | 45 | 名声 | C | C | C | B | A | C | 1912 | 1994 |
【キムイルソン(ソンジュ)】
朝鮮民主主義人民共和国の初代最高指導者。本名は金聖柱とされる。
満州の軍事学校で学んだ後、抗日組織に所属。
物資の略奪・拉致を指揮し成功させ名声を得るが、日本軍に攻撃されソ連に逃亡。
一時捕縛されるが許され、ソ連にて北朝鮮臨時政府の重役となる。
1945年にソ連が朝鮮北部を占領したのち、金日成を名乗り朝鮮労働党の幹部に就任。
弱小政党だった同党を北朝鮮の基幹政党にまで押し上げた。
朝鮮戦争では朝鮮統一を掲げて、戦車と人員を駆使し電光石火の南下で戦況を有利に展開させるも、
連合軍に反撃されると真っ先に中国領まで逃亡し中国に叱責され、最終的には米中戦争となり停戦した。
政治家としては共産勢力を隠れ蓑にして世襲を行い、事実上の王朝国家を創業。
外交面では数多くの思想、主義を提唱しながらも、成果が伴わず空洞化を引き起こし、
個人崇拝を強制するなど、のちの国家運営における負の遺産をつくった。
人物としては、粛清を厭わず独断で部下を見捨て逃亡するなど冷酷な人物であった一方、
信頼する人物や家族、近親者には笑みを絶やさない好人物であったという。
金正日
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
22 | 14 | 58 | 57 | 15 | 発明 | C | C | C | C | C | C | 1941 | 2011 |
【キムジョンイル】
朝鮮民主主義人民共和国の2代目最高指導者。金日成の嫡子でロシア生まれ、本名は「ユーラ」との説も。
早くから党の要職を歴任し父・日成に後継者指名を受けた。
親族との権力争いに勝利し、最終的には父から実権を奪って失脚同然に追い込む。
金日成の死後は徹底した個人崇拝を推し進め、報奨や官職譲与により組織強化に腐心。
先軍政治を標榜し、軍事面で核開発やミサイル製作を指導し世界中で日本人拉致を行う一方、
瀬戸際外交により一時は近隣6カ国を相手に互角に渡り合ったが、
内政面ではデノミネーション失敗による経済活動の停滞や新事業の失敗、国民生活の著しい低下など失政も多かった。
風貌は父に似ず地味で演説が得意ではなく、ほとんど公式の場で肉声を残さなかった。
数えきれないほどの異名を持ち、シークレットブーツやサングラスを愛用、
各方面で非常識な記録を記すなど、父以上に虚栄心の強い人物であったとされる。
大韓民国(1948~)
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李承晩
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
17 | 9 | 22 | 7 | 6 | 強奪 | C | C | C | C | C | C | 1875 | 1965 |
【リ・スンマン】
大韓民国の初代大統領。李王朝は両班の末裔と言われる。
日露戦争直後から朝鮮半島の「独立運動」に数多く参加、アメリカに「功績」を認められ、
アメリカの庇護を利用し終戦後のソウルで政治的勢力を拡大。
その後国民の大反対を押し切って形式だけの総選挙を強行した結果、
非武装反乱を起こした済州島民を虐殺。
穏健派の議院内閣制を否定し、大統領制により独裁的な権力を振るい続けた。
対馬・九州・奄美を侵略しようと全軍を半島南端に集結させた処を北朝鮮に攻め込まれ(朝鮮戦争)、
朝鮮戦争では真っ先にソウルから逃亡、橋を破壊し後続の退却を妨害、
戦況を省みぬ強攻策を実行するなどの凶行を行い、米軍・韓国軍に対する信用を失う。
停戦後は更に腐敗を深め、議会や軍との調整を怠り、
不正選挙や親族への特権付与、反対派の処刑などを繰り返して国民の怒りを買い、
最終的に後ろ盾であったアメリカに促される形で失脚、まもなく病死した。
穏やかな外見とは裏腹に、頑固で寛容さがなく熱烈な小中華主義者であった。
朴正煕
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 55 | 71 | 91 | 46 | 論客・指導・名声 | B | B | C | C | A | C | 1917 | 1979 |
【パクチョンヒ】
大韓民国の軍人、政治家。同国の第5~9代大統領。同国の第18代大統領朴槿恵の父。
満州軍の軍人として軍に入り、太平洋戦争が終わると大韓民国の国防警備隊において重鎮となる。
朝鮮戦争で活躍し大佐へ昇進するなど着実に栄達するが、自国内の政治・軍事的腐敗を見かね1961年にクーデターを起こし、軍事政権を成立させる。
日本やアメリカと友好関係を結び、両国の支援を得て「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を実現させた。
反面、国民に対しては民主化を弾圧し政治犯に対する拷問を行うなど徹底的な人権弾圧を行った。
またベトナム戦争において国民を米軍の慰安婦として進んで提供し、結果として在韓米軍慰安婦問題の原因を作る。
1979年に独裁に不満を持った側近に暗殺された。