注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
後金(1616~1636)、清(1636~1912)
建州女真のヌルハチが女真族をほぼ統一し、部族名を満州と改称して金(後金)を国号として大汗の位に即位。
1636年にホンタイジが満蒙漢三族の君主を宣言して大清に改号し、
1644年、睿親王ドルゴンの指導下に李自成を逐い、北京?に遷都して中国王朝として明朝の後継王朝を自認した。
順治年間に華南から遺明勢力をほぼ一掃し、康煕帝は三藩・台湾を平定して中国の一元支配を達成し、
諸制度を整備して文化を奨励する傍ら、ロシアの東進を抑え、ジュンガル部の叛乱を鎮め、最も充実した時代を現出した。
雍正帝は制度の強化と税制改革による国庫の充実、思想統制と綱紀粛正、御製朋党論の布告などによって
中央集権化を強化し、殊に政治思想の面では民族主義から脱却する過渡期とされる。
乾隆帝は前2代の国富を背景に十全武功に代表される大征を行なう傍ら、
『四庫全書』編纂など文運を奨励し、清朝のみならず中国社会の極盛期を現出した。
乾隆末期には苗族の乱(1795~1798)・白蓮教徒の乱(1796~1804)を惹起し、
八旗兵の都市貴族化と緑営兵の腐敗は一連の兵乱の長期化をもたらした。
次の嘉慶年間は内乱鎮圧に終始し、道光年間ではイギリスとのアヘン戦争(1840~1842)に完敗し、
1842年に南京条約を締結して半植民地化の端緒を開いた。
咸豊年間の太平天国の乱(1850~1864)・アロー戦争(1857~1860)で内外に完全に弱体化を露呈し、
各地には郷兵から発達した団練・郷勇が組織され、軍閥化の傾向が生じた。
同治年間の洋務運動も成果を挙げ得ず、光緒年間の日清戦争(1894~1895)後は列強の進出が本格化し、
康有為らの戊戌の変法では新旧両派の抗争が激化する結果が残され、政府の硬直化が顕著となった。
1900年の義和団事変によって改革の気運が朝野で急速に醸成され、孫文らの指導する辛亥革命によって1912年に打倒された。
愛新覚羅努爾哈赤
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
96 | 90 | 83 | 81 | 85 | 威風 | S | S | A | S | B | C | 1559 | 1626 |
【アイシンギョロヌルハチ】
後金(後の清)の太祖。
明の李成梁の謀略で祖父と父を失うが、その後ろ盾を得て建州女真を統一する。
豊臣秀吉の朝鮮出兵に明が対処している隙をついて、グレの戦いで海西女真を打ち破る。
後金を建国し、女真の名を満州に改める。
檄文「七大恨」を掲げて明に宣戦布告、サルフの戦いで明の討伐軍を殲滅する。
この戦いで明の支援を受けていた海西女真のイェヘを掌握し、満州を統一する。
明領への侵攻を企図し万里の長城へ攻め寄せたが、寧遠城で袁崇煥の大砲の前に敗れる。
この直後に病死したが、戦傷がもとで死んだともいわれる。
補足:国姓は愛新覚羅(発音はアイシンギョロ、中国名の慣例的にアイシンカクラ)。
ただし、新武将として登録する場合は長すぎるので、清の皇族は名前部分のみを分割して登録(例:姓に「努爾」、名に「哈赤」)。
額亦都
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 94 | 64 | 57 | 69 | 騎将 | A | A | S | S | C | C | 1562 | 1621 |
【エイドゥ】
後金の武将。氏はニウフル(鈕祜禄)。後金開国五大臣の筆頭。
ヌルハチの挙兵から従った股肱の臣。
バルダ城を攻めた際には夜襲を仕掛けて城壁を登り、
五十余の傷を負いながら陥落させ、「バトゥル」の称号を賜った。
その後、海西女真のハダ部、野人女真のワルカ部を降した。
ヌルハチが後金を建国すると五大臣となり軍事を司る。
サルフの戦いでは、ダイシャンがヌルハチの到着を待とうとする中、
築城中のサルフとジャイフィアンに急行するよう主張したホンタイジを支持し、
杜松、馬林、劉綎ら明の諸軍を各個撃破して大勝に貢献した。
補足:「バトゥル」は清の武官に対する名誉称号で「英雄」「勇将」の意味。
後金建国から咸豊帝の代まで200年余りの間は33名のみに与えられている(清末期は乱発される)。
費英東
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 91 | 71 | 76 | 70 | 弓将 | B | B | S | S | A | C | 1564 | 1620 |
【フィオンドン】
後金の武将。氏はグワルギャ(瓜爾佳)。後金開国五大臣の一人。
驍勇で弓射に秀で、重さ十石の強弓を引くことが出来た。
ワルカ討伐で功績を立て、野人女真の諸部を降す。
ウル部のブジャンタイが斐悠城を攻めるとシュルハチとともにこれを守る。
後金が建国されると五大臣に任命される。
明の撫順を攻囲した際には、大砲に怯んで潰走する友軍を叱咤して勝利に導く。
イェヘ城を占領して女真統一を成し遂げ、ヌルハチに「万人敵」と賞賛された。
没後には、ホンタイジが人材教育の面でも有能であったことを讃えている。
補足:生年は1562年説もある。
愛新覚羅皇太極
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
93 | 89 | 88 | 84 | 74 | 詭計 | S | S | A | S | B | C | 1592 | 1643 |
【アイシンギョロホンタイジ】
清の太宗(崇徳帝)。太祖・ヌルハチの第八子。
ヌルハチの跡を継いでハーンとなる。
即位後の混乱の中、明、李氏朝鮮、チャハル(モンゴルの部族)の三方を敵にして戦う。
寧遠城と錦州城では袁崇煥に敗北したため、正攻法では勝てないことを悟り、
明の宦官を買収して讒言させ、謀略によって崇禎帝に袁崇煥を殺害させた。
チャハルが降伏すると、手に入れた玉璽を元に国号を「清」として皇帝に即位する。
朝鮮に親征し(丙子胡乱)、李氏朝鮮を冊封国とした。
満を持して明を攻めるが、山海関を抜けないまま没した。
范文程(憲斗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 72 | 91 | 92 | 60 | 能吏 | B | B | B | A | A | C | 1567 | 1666 |
【ハンブンテイ(ケント)】
清の政治家。
若い時から秀才として名を知られたが、後金の侵攻を受けてヌルハチに降った。
ホンタイジの親征に従軍し、その智謀から信任を受けて大学士となる。
また体格にも恵まれ、戦場で力戦して武功も立てている。
ホンタイジとドルゴンら諸王との間に緊張が生じると、双方の間を取り持つ。
順治帝が即位すると、李自成の駆逐を進言して中原の制覇と統治政策を提示した。
国政に与って税制を定め、会試・履試を導入し、法整備を行う。
康熙帝の代に病没し、清初期の国政を定めた功績から「元輔高風」の四字が贈られている。
愛新覚羅阿巴泰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 84 | 71 | 76 | 52 | 屯田 | B | A | A | S | S | C | 1589 | 1646 |
【アイシンギョロアバタイ】
清の皇族、武将。ヌルハチの第七子。饒餘敏郡王。
若い頃はフィオンドンの征討軍に従軍する。
廣渠門で袁崇煥・祖大寿と戦うが損耗激しく撤退し、その後も明と攻防を繰り広げた。
六部が設置されると工部を掌握する。
大凌河包囲に参加し、明将の祖大寿が降ると明軍に扮装して錦州を襲撃する。
朝鮮・チャハル討伐では留守を預かり、ドルゴンと義州で屯田を行いながら明の糧道を断つ作戦を行う。
明伐では華北の八十八城を侵して明の魯王・朱以派を斬り、捕虜三十六万人と多額の金を掠めて帰還した。
その後、南明征伐の準備の最中に病没した。
愛新覚羅多爾袞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 83 | 90 | 97 | 73 | 指導 | S | A | A | S | A | B | 1612 | 1650 |
【アイシンギョロドルゴン】
清の武将、政治家。太祖・ヌルハチの第十四子。睿忠親王。摂政王。
ホンタイジのもとで、チャハルを討つのに功績があった。
順治帝フリンが即位すると摂政となり実権を握る。
李自成の乱で北京?が陥落し明が滅ぶと、山海関の守将・呉三桂が清に投降する。
李自成の軍を破って北京に入城し、崇禎帝を弔い明の後継者として漢土を征服した。
戦乱で疲弊した民を慰撫する一方、辮髪を強制するなど清の支配権を固めていった。
順治帝に「摂政王」と称されるも、狩猟中に急逝。
死後、独断専行を理由として宗室から除籍されたが、乾隆帝により復籍した。
愛新覚羅多鐸
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 92 | 68 | 24 | 17 | 捕縛 | A | S | A | A | S | B | 1614 | 1649 |
【アイシンギョロドド】
清の皇族、武将。ヌルハチの第十五子。ヌルハチの同母弟。豫通親王。
明、朝鮮、チャハルとの戦いで功績を重ねていく。
しかし、傲慢かつ好色な性格で、戦に妓女を随行させたことから降格処分も受けている。
松錦の戦いで錦州の包囲に参加し、明の援軍を松山で大破して洪承疇を捕縛する。
ドルゴンに従い北京?に入城し、李自成軍を追撃して潼関と長安?を陥落させる。
その後、南明を攻めて大虐殺「揚州十日」を起こし、南京?も占領して弘光帝を捕縛した。
天然痘に罹り三十六歳で病没。乾隆帝の代に、諸王の中で戦功第一と賞された。
洪承疇(彦演)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 61 | 89 | 90 | 36 | 心攻 | A | B | A | B | S | C | 1593 | 1665 |
【コウショウチュウ(ゲンエン)】
明、清の武将、政治家。号は亨九。
明末に頻発した民衆蜂起の鎮定で功績を上げ、兵部尚書となる。
高迎祥を大破して大打撃を与え、一時的に反乱活動を抑え込んだ。
薊遼総督に任じられると清の錦州侵攻に対応し、陣を築きながら持久の構えで進軍する。
しかし中央から進軍を督促されたため、松山で決戦を挑んで敗北し捕縛された。
清に帰順すると、ドルゴンの南下に随行して数々の献策を行って李自成を破り、北京?入城に功績を上げた。
清の要職を歴任し、漢語・儒学思想・典礼制度を取り入れさせ、満州族と漢民族の同化政策の基礎を築いた。
呉三桂(長伯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 84 | 56 | 33 | 41 | 掃討 | S | B | A | B | B | A | 1612 | 1678 |
【ゴサンケイ(チョウハク)】
明、清の武将。別字に月所。
清の侵攻を防衛する任に当たる。
李自成の乱が発生すると北京?防衛に向かうも間に合わなかった。
李自成の帰順勧告を聞かず、清に投降してドルゴンに山海関を明け渡す。
ドルゴンとともに北京に向かい、李自成軍を破って北京に入城する。
その後は陝西から四川を制圧し、雲南?に逃れた明の勢力(南明)を討伐する。
永暦帝を捕えて殺害し、南明を完全に滅ぼした。
功績により漢族の三藩の一つとなるが、康熙帝が廃潘を計画したため叛乱を起こす。
大周国を立て皇帝を名乗るが直後に病没し、乱も鎮圧された。
陳円円
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
2 | 4 | 44 | 9 | 83 | 傾国 | C | C | C | C | C | C | 1624 | ? |
【チンエンエン】
呉三桂の妾。「江南八艶」と呼ばれた妓女の一人。
崇禎帝の命で美女を探した田弘遇により見出され、献じられる。
その後田弘遇に身請けされ、そこで呉三桂に見初められ妾となる。
李自成の乱で北京?が陥落すると、賊将の劉宗敏に捕えられた。
呉三桂は北京への救援の途上にいたが、その知らせを聞くやドルゴンに投降し、
清軍を関内に招き入れて李自成を駆逐する。
愛妾を奪われたことを理由に清に投じた呉三桂の行為は批判の対象となった。
陳円円は北京奪還時に自縊したとも、呉三桂の元に戻って三藩の乱の頃に亡くなったとも云われる。
※生涯に関しては諸説あり、呉三桂の投降理由も真偽が疑われている。
施琅(尊侯)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 85 | 61 | 47 | 48 | 推進 | B | S | A | C | A | S | 1621 | 1696 |
【シロウ(ソンコウ)】
清の武将。号は琢公。
鄭芝龍に仕え共に清に降るが、鄭芝龍の子・鄭成功?が清に対して起兵するとこれに参加。
しかしアモンで曾徳と対立しこれを殺害、怒った鄭成功により施琅の一族郎党が処刑され、再び清に降った。
以後は清で副将、総兵、水軍提督と昇任し、台湾に拠った鄭成功・鄭経父子に対抗した。
鄭経が死ぬと台湾攻略の好機として、康熙帝より福建水軍提督と太子太保に任じられる。
澎湖海戦で片目を負傷しながら勇戦し大勝、台湾に上陸する。
鄭氏政権を下して台湾を平定し、靖海侯、靖海将軍の位を授けられた。
劉国軒(観光)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 89 | 80 | 47 | 72 | 連戦 | A | A | S | C | A | S | 1629 | 1693 |
【リュウコクケン(カンコウ)】
鄭氏政権、清の武将。
鄭成功?のもとで北伐や台南攻略に従い、鄭経の代には台中の大肚王国を下す。
三藩の乱に呼応して鄭経とともに泉州に上陸。
度々清軍を打ち破って勇名を上げるも、三藩の乱が鎮圧されていくと孤立しながらも海澄を攻略する。
その後も泉州を堅守するが兵糧が尽き、海澄も奪回されたため、台湾に撤退した。
鄭経が死に清軍が侵攻すると澎湖諸島で清軍を食い止めるも、風向が変わった隙を突かれて大敗。
清に投降後は天津総兵となり、漢軍八旗に加わった。
間諜を利用し敵情に通じて勝利を収めたため「劉怪子」と呼ばれた。
愛新覚羅玄燁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
96 | 75 | 91 | 98 | 96 | 仁政 | S | A | A | S | A | B | 1654 | 1722 |
【アイシンギョロヒョワンエ】
清朝第四代皇帝。聖祖康熙帝。世祖順治帝の第三子。
十五歳で親政を始め、三藩の乱を台湾鄭氏と併せて平定し、清朝の中国支配を確立。
海禁を解除して国際貿易を開放し、ロシアを撃退してネルチンスク条約を締結し、
中国王朝として初めて国境を画定した。
またガルダンを滅ぼし漠南全域を藩部とした。
内政面では西洋人を積極的に登用し、自らも西洋科学を学び、
文化の奨励と国庫の充実を果たし、後の清朝極盛期を準備した。
治世は中国歴代最長の61年に及び、唐太宗と共に歴代最高の名君とされる。
趙良棟(擎宇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 84 | 78 | 54 | 82 | 攻城 | A | A | S | B | S | B | 1621 | 1697 |
【チョウリョウトウ(ケイウ)】
清の武将。別字に擎之。号は西華。
清の陝西平定時の募兵に応じ、明の残存勢力の征討、回族の反乱鎮圧、南明討伐に従事した。
三藩の乱が起きると寧夏で呉三桂を破り、勇略将軍の号を授けられる。
四川へ侵攻して成都など百数十城を攻め取り、
広西・湖南を攻略してきた別働軍と合流して雲南?・貴州を攻め、三藩の乱を鎮圧する。
この際、雲南で諸将が略奪を行う中でただ一人軍紀を守って部下に秋毫も犯させなかった。
その後はガルダン・ハーンの侵犯に対応し、辞職後間もなく病没した。
康熙帝から「偉男子」とその功績を讃えられた。
于成龍(北溟)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 41 | 82 | 93 | 96 | 仁政 | C | C | C | C | C | C | 1616 | 1684 |
【ウセイリュウ(ホクメイ)】
清の官吏。号は于山。「天下第一の廉吏」として知られる。
知県、知州、福建按察使、両江総督などを歴任した。
任地では戦乱で荒廃した土地を開墾し、民の負担を減らすなどの善政を敷く。
盗賊を取り締まり、酷吏を排し、東山で起きた叛乱も鎮圧している。
訴訟は公正で、海禁政策のために死刑にされた人々を再審して助けている。
また、康熙帝の外戚が狼藉を起こした際には、自ら死刑の判決を下している。
清廉潔白で質素な生活を送っていたため、民衆から敬愛された。
死去した際には南京?の街中が悲痛に暮れ、康熙帝自ら表彰したという。
索額図
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
52 | 39 | 82 | 89 | 16 | 論客 | C | C | C | C | B | B | 1636頃 | 1703 |
【ソンゴトウ】
清の政治家。号は愚庵。氏はヘセリ(赫舍里)。
康熙帝の輔政大臣・オボイ(鳌拜)が専制を行うと、オボイの逮捕に協力し、康熙帝に重用される。
三藩の乱の鎮圧のために計画を練り、姪が康熙帝の皇后となったこともあって権勢を誇る。
ロシア帝国が黒竜江(アムール川)より南下すると、
全権を委ねられてネルチンスク条約を締結し、清に有利な形で国境を定めた。
太子・胤礽の廃立問題を受けて諸臣から弾劾され、処刑された。
有能ではあったが、権臣として「清朝第一の罪人」と忌避されていた。
補足:当時の悪評は、ロシアを対等国として認めたことが中華王朝の威信を傷つけたとされたことが一因。
ただし清末期に列強の介入による不平等条約で清が疲弊したこともあり、業績に関しては再評価されている。
名前の発音は、満州語ではソンゴトウ、中国語ではソエト。
策棱
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 88 | 75 | 76 | 73 | 勇将 | S | S | A | S | B | C | 1672 | 1750 |
【ツェリン】
清の武将。氏はボルジギン(博爾濟吉特)。
ハルハのサイン・ノヤン部出身。チンギス・ハーンの二十世孫。
祖父の代に清に帰順すると、康熙帝に寵愛され、
北京?に住居を与えられて内廷で学び、公主を娶った。
雍正帝の代に外モンゴルまで版図が広がると、清の代表としてロシアとキャフタ条約を締結した。
ジュンガルの侵犯を幾度も撃退し、漠北の国境を安定させた。
卓抜した戦功により和碩親王の爵位を授けられ、「超勇」の称号を賜る。
その後は定辺左副将軍として漠北で辺境守備を務め、乾隆帝の代に没した。
※「棱」の字を入力する場合は禾偏の「稜」(字義も「棱」と同じ)を用いる。
年羹堯(亮功)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 89 | 79 | 66 | 24 | 踏破 | A | S | A | B | S | C | 1679 | 1726 |
【ネンコウギョウ(リョウコウ)】
清の武将。漢軍八旗の出身。号は双峰。
ジュンガルがチベットに侵攻すると、四川総督の健泰が兵の心を失っていると奏上し、
康熙帝により四川総督に任じられ、岳鐘琪らを率いてチベットに出兵する。
雍正帝が即位すると撫遠大将軍となり、青海の反乱鎮圧で功績を上げる。
戦功は著しかったが驕慢で、一度弾劾されたが雍正帝により罪が許された。
しかし、瑞祥の慶賀の際に不敬な書状を送って雍正帝の怒りを買い、将軍職を降格される。
その後、大逆・詐欺・残虐・賄賂など九十二の罪状を数えられ、獄中での自裁を命じられた。
岳鐘琪(東美)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 86 | 68 | 24 | 81 | 強行 | S | A | S | B | B | C | 1686 | 1754 |
【ガクショウキ(トウビ)】
清の武将。号は容斉。岳飛?の二十一世孫といわれる。
ジュンガルの西蔵(チベット)侵攻では討伐軍の先鋒を務め、ジュンガル軍を撃破しながらラサに入る。
その後、六千の精兵を率いて雪原と高山病を克服しながら青海を招撫する。
曽静に謀反を唆された際にはこれを斬り、雍正帝に忠義心を賞賛された。
しかしジュンガル討伐では、拠点のクムルを失い諸将に弾劾され死刑となるが、
雍正帝が崩御したため平民に落とされ釈放された。
後に乾隆帝に請われて四川提督に任じられる。
四川・西蔵の叛乱鎮圧に功績を上げ、重慶の叛乱を平定後に没した。
愛新覚羅弘暦
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 77 | 79 | 94 | 88 | 名声 | B | B | A | A | A | B | 1711 | 1799 |
【アイシンギョロフンリ】
清の第六代皇帝高宗。治世の元号から乾隆帝と呼ばれる。
中国史上最長となる六十四年の間、最高執政者として君臨した。
子供の頃より才幹を示して帝王教育を施され、雍正帝の後を継いで即位する。
豪奢を好んで外征を繰り返し、
金川、ジュンガル、回部、ビルマ、安南、台湾、グルカを征討し清の最大版図を築く。
民衆には減税を施し、叢書「四庫全書」を編纂させるなど文化的にも隆盛を極めた。
自ら「文治武功十全老人」と称して治績を誇ったが、
文字の獄による弾圧を行い、鎖国体制を確立し、奸臣の和珅を寵愛するなど晩年は凋落した。
補足:皇帝在位は60年で、太上皇として4年統治した。
帝位を退いたのは康熙帝の在位61年に並ばないための配慮だったが、以後も実権は手放さなかった。
福康安(瑶林)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 85 | 72 | 76 | 14 | 威圧 | A | S | B | A | S | A | 1753 | 1795 |
【フカンガ(ヨウリン)】
清の武将。氏はフチャ(富察)。
アグイ(阿桂)の元で金川平定に参加し勇名を馳せる。
雲貴総督となると交趾を支配下に置き、四川総督として反乱鎮定に携わる。
アグイとともに甘粛の回族の反乱を討伐し、陝甘総督として残党を殲滅する。
林爽文の乱では、台湾へ上陸して反乱軍の攻囲から救出し、林爽文を捕縛した。
その後も安南(ベトナム)やグルカ(ネパール)の侵犯に対応し、苗族討伐の最中に陣没した。
不正に財を蓄えたため弾劾・讒言されることも度々で、権臣和珅に次ぐ悪評をもっていた。
明亮(寅齋)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 72 | 90 | 35 | 43 | 待伏or火攻 | S | B | A | A | S | A | 1736 | 1822 |
【ミンリャン(インサイ)】
清の武将。氏はフチャ(富察)。
乾隆帝の皇后の甥で、皇族の娘を娶る。
回族の反乱、ビルマ出兵で軍功を重ねる。
金川平定では僚将の敗戦を収拾しつつ、伏兵や挟撃などを駆使して勝利を収める。
甘粛回族の反乱を鎮圧し、苗族の反乱では城を火攻めにして撃ち破った。
白蓮教徒の乱では、四川・陝西・湖北を転戦し、首魁の徐天徳を撃破して入水自殺に追い込み、乱を平定した。
報告を怠る、命令違反、乾隆帝への批判などで度々免職や降格をされるが、
その度に軍功を立てて許され、反乱が起きる度に起用され続けた。
楊遇春(時斉)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 96 | 79 | 26 | 85 | 強運 | S | A | B | S | A | A | 1760 | 1837 |
【ヨウグウシュン(ジサイ)】
清の武将。
甘粛の回族の叛乱、台湾の林爽文の乱、グルハ戦争への介入、湖南の苗族の叛乱討伐で功績を上げる。
白蓮教徒の乱が起きると提督となり、四川や陝西を転戦して叛乱の領袖を数多く討ち取った。
天理教徒の乱では、指導者の李文成を追い詰め自刎に追い込んでいる。
回族の叛乱では新疆へ遠征し、カシュガルからホータンまでを平定した。
戦法は変幻、常に冷静で落ち着いていた。
数百の交戦で先頭に立ちながら一度も傷を負わなかったことから、「福将」と称された。
また、楊遇春の率いる軍は必ず黒旗を掲げ、「楊家軍」と呼ばれた。
林則徐(元撫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 34 | 86 | 94 | 85 | 規律 | C | C | B | C | A | A | 1785 | 1850 |
【リンソクジョ(ゲンブ)】
清の政治家。別字に少穆、石麟。
農政や訴訟制度の改革を行い、地方行政に辣腕を振るった。
湖広総督となると阿片の取り締まりを強化し、欽差大臣に任じられる。
イギリスは林則徐の徹底的な密輸取り締まりに怒り、清に対して阿片戦争を起こした。
広州を海上封鎖しようとするイギリス船団を七度に渡って阻止するが、
イギリス艦隊が北京?に近い天津に出現すると、怯えた道光帝により解任された。
その後左遷され、新疆の開墾や陝西の巡撫を行った後に引退した。
太平天国の乱が起きると再び召され欽差大臣となるが、任務に就く前に病没した。
関天培(仲因)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 94 | 66 | 51 | 89 | 乱戦 | S | A | B | C | S | S | 1781 | 1841 |
【カンテンバイ(チュウイン)】
清の武将。号は滋圃。一兵卒から将帥となる。
林則徐とともに阿片密輸を摘発し、イギリス商船より押収した阿片二万箱を焼く。
怒ったイギリス艦が戦火の口火を切ると、広州周辺を防衛してイギリス海軍を破る。
虎門要塞を広州防衛の要として軍備拡張を行おうとするが、
林則徐が解任され琦善が就任すると、琦善はイギリスに諂って砲門を撤去し、守備兵も三割削られる。
翌年、イギリス軍が大挙して侵攻すると四百の兵で虎門要塞に籠城。
要塞内にイギリス兵を引き摺り込んで近接戦に持ち込み、イギリス軍に多大な出血を強いて玉砕した。
僧格林沁
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
93 | 84 | 74 | 32 | 56 | 規律 | A | A | B | S | A | B | 1811 | 1865 |
【センゲリンチン】
清の将。内蒙古のホルチン左翼後旗の人。
一族の傍流の出身だったが、旗長が男子のいないまま没すると、養子として王位を継ぐ。
太平天国の北伐軍を撃破し、アロー戦争でも大沽で英仏連合軍を破るも、抗し切れず北京?は陥落。
後、捻軍が蜂起すると掃討に当たり、山東省・河南省・安徽省を転戦した。
だが、軍規に厳格すぎ、些事で提督を鞭打ち、敵への苛烈な姿勢を示すなど、
兵や民を疲弊させる性分であり、高楼寨で壊滅的敗北を喫し、自身も戦死した。
後々も、清の国難に際し救国の英雄として彼の再来を求める声があったという。
※氏はボルジギン(博爾濟吉特)。
博爾濟吉特という表記は清代のもので、モンゴル帝国および元の時代では孛兒只斤と表記されていた。
葉赫那拉杏貞
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
54 | 24 | 60 | 52 | 8 | 遁走 | C | C | C | C | C | C | 1835 | 1908 |
【エホナラキョウテイ】
咸豊帝の后。同治帝の母。西太后、慈禧太后と呼ばれる。
咸豊帝の貴妃となり、載淳(同治帝)を産む。
咸豊帝の死後に奕訢と結んで辛酉政変を起こし、同治帝を即位させる。
東太后と垂簾政治を行って洋務運動を推進し、東太后が病卒すると奕訢を失脚させて独裁権を握る。
光緒帝の親政に移行し戊戌の変法が行われるが、袁世凱の協力を得て光緒帝を幽閉し、再度実権を握る。
義和団の乱では列強に宣戦布告を行い、列強軍の侵攻を受け北京?から一時逃亡した。
乱の終結後に戊戌の変法に基づいた新政を開始するが、光緒帝崩御の翌日に崩じた。
※氏はエホナラ(葉赫那拉もしくは叶赫那拉)。イェヘナラと読む場合もある。名は慣例的に音読み。
文字数の都合上、登録する際の名前は「西太后」とするのもあり。(史実武将に呉国太などの通称もあるため)
曽国藩(伯涵)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 61 | 74 | 77 | 39 | 強奪 | A | B | B | C | S | A | 1811 | 1872 |
【ソウコクハン(ハクカン)】
清末の将、政治家。
太平天国の乱では湖南で団練(民兵)を組織し、湘軍を率いて太平天国軍と戦う。
水戦で大敗し入水自殺を図るが救出されると、湘軍を再組織し岳州と武昌を攻め落とす。
弟の曾国荃とともに安慶、天京(南京?)を攻略し太平天国を滅ぼすが、
この際住民に対して殺戮、破壊、略奪を行ったため非難されている。
その後は湘軍を解散し、洋務運動(西洋技術による近代化)を推進する。
直隷総督となり天津教案では列強諸国と交渉を担当した。
しかし、多額の賠償金と首謀者の処刑で列強の矛先を収めたため、漢奸と批判された。
李鴻章(漸甫)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
78 | 41 | 79 | 88 | 67 | B | C | B | C | A | A | 1823 | 1901 |
【リコウショウ(ゼンホ)】
清末の将、政治家。号は少荃。
太平天国の乱では曽国藩の幕下に加わり、淮軍を組織し蘇州を攻略する。
乱の鎮圧後も捻軍の討伐などで功績を上げ、直隷総督となると洋務運動を推進した。
日本との戦争に反対するも、日清戦争が開戦すると麾下の北洋艦隊(淮軍が母体)が清軍の主力となる。
威海衛の戦いで丁汝昌の指揮する北洋艦隊は壊滅し、李鴻章は欽差大臣となって下関条約に調印した。
義和団の乱では敗戦処理を担当し北京議定書に調印。
莫大な賠償金と列強軍の駐留を認める代わりに、列強に宣戦布告を行った西太后の責任を逃れさせた。
※「荃」(草冠に全)の字は認識されないため「茎」などで代用。
※特技は外交官として「論客」か、淮軍を組織したり諸外国から一目置かれていたことから「名声」あたりか。
左宗棠(季高)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 49 | 82 | 87 | 72 | 急襲 | A | B | B | C | A | B | 1812 | 1885 |
【サソウトウ(キコウ)】
清末の将、政治家。
太平天国の乱では張亮基の幕下で長沙を防衛する。
フランス・イギリスとの混合軍を組織して浙江を転戦、その後も太平天国の残存軍を掃討した。
新疆でヤクブ・ベクの乱が起こると、欽差大臣に任命され討伐を行う。
この際に緩進急戦の戦略をとり、屯田を行いながら西征の準備を整え、速戦をもって新疆を回復した。
国防において塞防論を主張し、海防派の李鴻章と激しく対立する。
清仏戦争で欽差大臣に任じられ戦局の打開に尽くすも、
李鴻章がベトナムの宗主権を放棄する天津条約に調印したため、失意のうちに病没した。