日本 RankII 中戦車 Chi-To / 四式中戦車 試作型
概要
チハからチヌまでの車体設計を見直し、完全な対戦車用途に設計された日本軍戦車の雄。
中国戦線で鹵獲したボフォース社製75mm高射砲を元にして作られた五式戦車砲は、今までの戦車砲とは文字通り桁違いの貫徹力を誇っている。
車両情報(v2.25.0)
必要経費
必要小隊レベル | 5 |
---|
車両性能
項目 | 数値 |
---|---|
砲塔旋回速度(°/s) | 13.0 |
俯角/仰角(°) | -10/20 |
リロード速度(秒) | 7.7 |
スタビライザー/維持速度(km/h) | 無し / - |
車体装甲厚 (前/側/後)(mm) | 75 / 35 / 35 |
砲塔装甲厚 (前/側/後)(mm) | 75 / 50 / 50 |
重量(t) | 19.8 |
エンジン出力(hp) | 763 |
2,000rpm | |
最高速度(km/h) | 50 |
実測前進~後退速度(km/h) | *** ~ -*** |
視界(%) | 88 |
乗員数(人) | 5 |
武装
名称 | 搭載数 | 弾薬数 | |
---|---|---|---|
主砲 | 75 mm Type II Model II cannon | 1 | 55 |
機銃 | 7.7mm Type 97 machine gun | 2 | 4000 |
弾薬*1
名称 | 砲弾名 | 弾種 | 弾頭 重量 (kg) | 爆薬量 (g) | 初速 (m/s) | 貫徹力(mm) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
10m | 100m | 500m | 1000m | 1500m | 2000m | ||||||
75 mm Type II Model II | Type 1 APHE | APHE | 6.56 | 67.84 | 865 | 149 | 146 | 133 | 118 | 105 | 93 |
Type 4 kou | APHE | 6.76 | 80.64 | 865 | 151 | 148 | 137 | 124 | 112 | 101 | |
Type 90 HE | HE | 6.2 | 490.0 | 830 | 17 | 17 | 15 | 14 | 12 | 11 |
小隊ツリー
前車両 | 三式中戦車Ⅱ |
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次車両 | 試製七糎半対戦車自走砲 |
解説
特徴
前車の火力をそのままに装甲を若干強化した車両。
砲塔がやや右にずれて設計されている。
【火力】
前車と同じ主砲と砲弾を使えるため、火力は前車と同じであるが砲塔旋回が遅くなっているので注意が必要。ただ、M10に比べればはるかに速く、中戦車平均程度の速度なので使いにくさはない。
【防御】
前車は基本的に炸薬入りの弾ならどこを撃たれてもワンパンだったが、正面への小口径弾の命中であれば操縦手気絶程度で済むようになった。ただし必ずではないので過信してはいけない。砲塔側面も他の戦車と変わらないくらいにはなったが、他の戦車同様抜かれるので注意。昼飯で多少防御力を付けることができるようになった。
【機動性】
前車に比べて下がった。ただ操作性は癖もなく、加速も普通、最高速度も速めなので使いやすい。
史実
1937年にチハ車が「九七式中戦車」として制式化された後、陸軍技術本部は数種類の後継中戦車の開発を推進した。
それらの正式な開発・装備計画が決定されたのは、対米開戦翌年の1942年になってからであった。
新型中戦車(駆逐戦車を除く)としては、2種類が計画された。
1つはすでに開発の最終段階にあった長砲身47mm戦車砲装備のチヘ車(後の一式中戦車)で、もう1つが長砲身57mm戦車砲装備の新規設計のチト車(後の四式中戦車)である。
チト車の開発はチヌ車(後の三式中戦車)よりも比較的早く、1942年後半から着手されていた。
この時期はまだ戦況がそれほど悪化していなかったこともあって、チト車の研究開発には充分な時間を掛けていたようである。
チト車はチハ車に始まってチヌ車に至る、同一車体を利用したそれまでの中戦車群とは全く異なる新設計の強力な戦車であった。
その設計思想は日中戦争勃発時からの歩兵支援用戦車という観念を捨て、対戦車戦闘を主目的に置いた純然たる主力戦車であった。
1939年半ば、満州と外モンゴルの国境ノモンハンで日ソ両軍が衝突する事件が起こり、これに参加した日本軍の戦車部隊は長砲身の45mm戦車砲を装備するソ連軍戦車と砲火を交えた。
そして日本軍が充分に威力があると信じていた、八九式中戦車や九七式中戦車が搭載する短砲身の5.7cm戦車砲は威力不足で対戦車戦闘では使えないことが露呈し、ソ連軍の誇るBT快速戦車と対戦車砲に悩まされ、この草原の戦いで日本軍の戦車は次々と火を噴いた。
このノモンハン事件(ハルハ川戦役)の苦い戦訓から、1939年8月に陸軍技術本部はこれまで研究を進めてきた高初速戦車砲の本格的な試作に入った。
これが後に「一式四十七粍戦車砲」として制式化され、九七式中戦車の改造砲塔に載せられたのは1942年4月のことである。
こうして九七式中戦車改(新砲塔チハ車)が登場したのだが、当時欧米列強の主力戦車はさらに大口径化の方向に進みつつあった。
また太平洋や南方戦域では、アメリカ軍は37mm戦車砲装備のM3軽戦車に代わって、強力な75mm戦車砲を搭載するM4中戦車を投入するようになっていた。
さらにヨーロッパの電撃戦で勝利を収めたドイツ軍も、大口径戦車砲の開発を進めていたのである。
ここにおいて日本軍もこれらの戦車に対抗すべく、より高性能で強武装、重装甲の新型中戦車の開発に踏み切ったのである。
この新型中戦車の秘匿呼称は、「チト車」と呼ばれた。
このチト車の監督部門を担当したのは、陸軍技術本部の第六技術研究所である。
製作は、三菱重工業東京機器製作所丸子工場で行われた。
またその研究技術資料として、日本軍が各戦域で鹵獲した戦車が技術研究所に集められていた。
まず中国大陸からは中国軍が使用したイギリス製のヴィッカーズ豆戦車や水陸両用車、対ソ戦のノモンハンではソ連軍の誇るBT快速戦車や各種装甲車、さらに太平洋戦争が始まってからは米英軍が南方戦線に投入したM3軽戦車などが戦利品として送られてきていた。
また他の参考資料としてソ連やドイツ、イギリスの対戦車砲も集められ、「敵」を知る上での重要な参考品とした。
チト車の開発方針が正式に決められたのは1942年9月のことで、当初の設計では予想重量20t、新開発の5.7cm戦車砲を搭載することになっていた。
この戦車砲は一式機動四十七粍砲の後継砲として開発された試製機動五十七粍砲をベースとした、長砲身の戦車砲であった。
しかし原型砲は厳しい各種試験の結果、装甲貫徹力が不充分であると判定された。
この新型5.7cm戦車砲(試製五糎七戦車砲(新))を搭載したチト車の第1次試作車は、砲塔がそれまでと同じ溶接構造を持ち、後に出現する鋳造砲塔車に比べてやや小型であったが、前記の理由により結局この第1次試作車は1両が製作されただけで制式化には至らなかった。
チト車はその1年後の1943年になって、7.5cm級の戦車砲を載せるように計画が変更された。
それに伴いエンジンや変速・操向機の改修を余儀なくされ、また重量も試作第1号車の20tから大幅に増加することになった。
なお車体やエンジンなどの主要部分は、これまで多くの戦車を生産し続けてきた三菱重工業に依頼した。
技術的にチハ車系列と一線を画す、チト車の本当の意味での開発はこの時点から始まる。
なおこの時、チリ車(後の五式中戦車)の開発も並行して進められることになった。
1944年5月に、チト車の第2次試作車が完成した。(本車は第2次試作車)
ただし、主砲はまだ試製五糎七戦車砲(新)が装備されていた。
同年8月、主砲を三菱工場でとりあえず九〇式野砲(口径7.5cm)に換装し早速実弾射撃を行い、翌月には機甲整備学校の手で公開運行試験も実施された。
チト車に搭載する新型7.5cm戦車砲は、1943年7月から開発が開始された。
翌44年10月までには試作が終わり、実用試験を経て1945年2月に先に完成していた車体に装備された。
同年3月から、チト車の運行試験が開始された。
欧米列強に遅れること約3年でやっと日本もドイツのIV号、ソ連のT-34、アメリカのM4並みの中戦車を手に入れることになったのである。
小ネタ
2023年11月に公開された「ゴジラ-1.0」で国会議事堂前にゴジラ撃退のために出撃し、砲撃を行ったが、ゴジラの熱戦で全車吹っ飛ばされた。ちなみに筆者はこのシーンを見て泣きそうになった。なんで?
外部リンク
コメント
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- A型ごろしの砲配置 右と左で被弾した時の被害変わる気がする -- 2024-02-24 (土) 10:36:32
- 装填無駄に長い。大和魂足りてない。 -- 2024-03-20 (水) 00:10:10
- 機動力もいいし砲も優秀だし装甲薄いのもあんまり気にならん。癖がない車両なので誰でも扱える。 -- 2024-04-02 (火) 09:29:58
- 砲が強い。隠れながら、しっかり狙ってワンパンすれば、かなり生存できる -- 2024-04-15 (月) 21:21:54