注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
元(1271~1368)
※元の成立以前はモンゴル帝国を参照
モンゴル帝国の中枢を簒奪したクビライ?が定めた国号。
中国の完全支配を視野に1271年に国号を大元としたもので、モンゴル帝国ではクビライ=ウルスでもあり、近年は大元ウルスと呼ぶこともある。
1278年に江南の南宋を征服したことで、約150年ぶりに中国の統一を回復しただけでなく、モンゴリアをも包摂する空前の大国となった。
クビライの治世は東西両面で軍事に忙殺されながらも国家体制を固め、曾孫の武宗の時代には各ウルスとの和合も成り、
“パクス=モンゴリカ”と呼ばれる世界規模の安定がもたらされた。
元朝では大都?・上都が行政上の首都とされて中書省が最高行政府とされ、時に財政を掌る尚書省が並立したが、大汗は遊牧の伝統に従って季節ごとに牧地を移動した。
遊牧封建体制を圧倒的多数派の中国人に対して維持する必要から“モンゴル・色目・漢人・南人”に
区別する身分制を用い、モンゴル至上主義を貫徹する一方で、制度・税制などは中国制が採用された。
漢人・南人(女真・漢人・南宋人など)は概ね政治組織の上層から排除され、民間に下野して
仕官を拒む者も多く、このことが知識層の下方拡大と市民文化の普及をもたらした。
遊牧社会の伝統を保つ元朝では相続法が確定されず、そのため継承紛争はしばしば武力衝突に直結し、
武宗の後は通婚氏族たるオンギラト族の内訌も加わり、軍の中核として抬頭したキプチャク軍団が実権を握るようになった。
遊牧社会の分権傾向と世界規模の気象異常などによって各ウルスが急速に没落していた頃、
元朝でも通貨政策の破綻や軍閥抗争も重なって中央の統制力が無力化し、14世紀中葉には
黄河治水での酷使を原因とし、搾取の最も激しかった河南で農民を主力とした白蓮教の叛乱が発生して全国に拡大した。
江淮が反抗勢力に占拠されたことで塩に依拠していた中央財務は完全に麻痺し、
白蓮教団から派生した朱元璋の北伐に遭うと、自壊同様に中国を逐われた。
以後しばらくは漠北に侮りがたい勢力を保って明朝と長城地帯を争ったが、1387年に満州のジャライル軍20万が
食糧不足から降伏したことが致命傷となり、翌年には大汗が内紛で殺されてクビライの血統は滅んだ。
クビライ時代
忽必烈
「クビライ?」を参照。
史天沢(潤和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 92 | 89 | 81 | 87 | 召募 | 人脈 | 崩壁 | 補佐 | 規律 | 投石 | 斉射 | 地勢研究 | 覇道 |
【シテンタク(ジュンカ)】
元代の漢人軍閥の一人。史秉直の次男で、史天倪の弟。
元は金の臣だったが、モンゴルの将ムカリに降伏しモンゴルに臣従。
兄の横死後、都元帥となり、漢人軍閥の重鎮として金討伐でも功績を立てた。
その後、クビライと誼を通じ、アリクブケの乱でも擁立に活躍。
クビライの即位後は、宰相として華北再編や漢化政策に尽力した。
南宋攻略戦の襄陽?の戦いでは、投石器で襄陽の支城の樊城を陥落させ、
調略で呂文煥軍を投降させる大功を立てた。
南宋攻略軍の総司令官に任命されたが、高齢のため病に倒れ、後任にバヤンを推挙し死去。
郭侃(仲和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
98 | 88 | 90 | 85 | 84 | 神機 | 督将 | 遠矢 | 崩壁 | 長駆 | 陥陣営 | 鯨波 | 投石 | 衝車 | 兵器開発 | 覇道 |
【カクカン(チュウカ)】
元の将。華州鄧県の人。智勇兼備の名将で特に攻城戦に卓絶した。
郭宝玉の孫で、幼くして史天沢の家に養われた。
金への遠征に従って戦功を挙げたのを皮切りに、フラグの西方遠征に従い、
ペルシアの乞都卜城やアラムート城塞を陥落。
遂にはバクダードを攻囲し、アッバース朝のカリフを降伏させた。
更にはシリアで十字軍と戦い、その用兵の見事さから「極西の神人」と称された。
憲宗モンケの没後中国に帰還し、江漢大都督理問官となる。
万戸長に抜擢されると襄陽?を攻め、元の江南制圧後、知寧海州に任ぜられた。
劉秉忠(仲晦)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 57 | 92 | 95 | 64 | 王佐 | 能吏 | 文化 | 振興 | 築城 | 王佐の才 | 経世済民 | 礼教 |
【リュウヘイチュウ(チュウカイ)】
元の政治家。本名・劉侃。号は臧春散人。法名は子聡。
十七歳で金に出仕するも、翌年に金が滅んだためモンゴル帝国に仕える。
一時官職を返上し武安山で仏教を修めた後、クビライの謀臣となって漢人ブレーンの登用に務める。
モンケ・ハーンが陣没すると、クビライの皇帝即位に尽力した。
元号を定め、中書省を設置するよう上奏し、太保、中書令に任じられ「秉忠」の名を下賜される。
その後、国号を「大元」として首都を燕京?に移すよう進言し、大都として大造営を行う。
晩年は太子太保となり、紫山書院を建立して教育に務めた。
姚枢(公茂)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 48 | 95 | 88 | 84 | 学者 | 智嚢 | 策士 | 占術 | 妙算 | 深謀遠慮 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【ヨウスウ(コウモ)】
元の政治家。号は雪斎、敬斎。
クチュの南宋遠征に従軍し、その際に儒教・道教・仏教・医学・占卜を探求した。
クビライの参謀となり絶大な信頼を寄せられ、大理国・南宋遠征に従軍した。
北宋の曹彬に倣い、包囲後は無血開城を促し、民を殺さないよう進言している。
クビライ即位に劉秉忠とともに尽力し、太子太保に任じられる。
世侯を廃止し、州県制度を設けて中華王朝化を進める。
南宋征伐でも無駄な殺戮・略奪を避けるよう進言を行う。
これを的確に実行したバヤンと呂文煥によって南宋側に投降者が続出し、臨安は無血開城した。
王文統(以道)
生年 | 登場 | 没年 |
1262年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
26 | 22 | 74 | 83 | 59 | 徴税 | 農政 | 振興 | 歳出改善 | 王道 |
【オウブントウ(イドウ)】
元の政治家。字は以道。
益都の出身でモンゴル帝国に属する漢人世候の一人であった李壇に仕えてその子である李彦簡の師を務め娘を李壇に嫁がせる等重く用いられた。
元の成立後は劉秉忠・廉希憲の推挙により中章平章政事に任じられて徴税の任にあたる十路宣撫司の設置や紙幣の発行を行う等元における財政の
基礎を築いたが、李壇の反乱の際に共謀者として殺害された。
廉希憲
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 66 | 82 | 88 | 79 | 眼力 | 慰撫 | 法律 | 能吏 | 規律 | 斉射 | 鉄壁 | 激励 | 先従隗始 | 覇道 |
【レンキケン】
元のウイグル人の武将・政治家。
天山ウイグル王国の宰相であったブルト・カヤの子。
父がトゥルイ家に仕えた事からトゥルイの子フビライハンに仕えて儒学を学び弓矢も得意とした。
地方官として善政を挙げて学校を建設、フビライハンの即位にも尽力した。
漢人軍閥の削減と官僚化、監察機関である御史台の設置に功績を挙げているがアフマドとは対立し、讒言を受けているがフビライの信頼は揺らがなかった。
以降も旧南宋領などの統治困難な地の地方官を務めて治績を挙げたが1280年に病死した。
親愛武将:フビライハン
嫌悪武将:アフマド
阿合馬
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
40 | 24 | 79 | 94 | 24 | 徴税 | 能吏 | 振興 | 高慢 | 歳出改善 | 名利 |
【アフマド】
元の政治家。ムスリム。
クビライの側近で、財務官僚として頭角を現す。
平章政事(宰相)として十数年間政治を司った。
財政改革、戸籍整理、専売制の導入などに辣腕を振るう。
南宋滅亡後は江南で税制改革を行い、元の治世に経済発展をもたらした。
しかしアフマドの税制は漢人官僚には不評だった。
尚書省で権勢を誇り、中書省のチンキム(クビライの嫡子)との対立を招く。
クビライの留守中にチンキムによって大都?へ召還され、その配下の王著らに暗殺された。
死後に不法を訴えられ、クビライにより屍を車裂にされている。
補足:姓名は「アフマド・ファナーカティー」。「阿合馬」は元史の表記。
元史では姦臣伝に記述されているが、業績を考慮すると漢人視点からの極端な評価とされている。
賽典赤赡思丁
生年 | 登場 | 没年 |
1211年 | 1279年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 72 | 78 | 88 | 85 | 親蛮 | 慰撫 | 能吏 | 振興 | 運搬 | 地域振興 | 王道 |
【サイイド・アジャッル】
モンゴル帝国・元の武将。
中央アジアのブハラ出身の色目人でサイイドはムハンマドの後裔を称していた事が由来。
チンギスハンの大西征によりモンゴル帝国に降り、歴代のハーンに仕えて官僚や兵站管理
の任務を歴任してクビライの時代には征服した雲南の統治を担った。
雲南の開発に力を尽くし諸民族に対しても恩恵を施したので亡くなった時には大いに惜しまれたという。
伯顔
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 91 | 91 | 82 | 95 | 神眼 | 神機 | 威風 | 柱石 | 疾走 | 白馬鉄騎 | 連弩 | 激励 | 鼓舞 | 沈静 | 先従隗始 | 覇道 |
【バヤン】
元の重臣。バアリン部の出身。
若くしてイル・ハン朝の将軍となるが、クビライに容貌と才幹を認められ抜擢された。
呂文煥の降伏後、南宋討伐の総司令となり、投降者を寛大に扱ったため、
士気喪失した南宋軍は瓦解し、ほぼ無血で南宋攻略に成功した。
直後、シリギの乱を鎮圧すべくカラコルム総督となり、モンゴル一帯を元の支配下に収めた。
フビライ没後のクリルタイを収拾し若きテムルを輔弼したが、惜しまれつつも急逝した。
「伯顔」の音は「百眼」に通じるため、南宋を滅ぼした「百眼の怪物」の伝承の元となった。
阿朮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 84 | 54 | 37 | 50 | 勇将 | 遠矢 | 疾走 | 長駆 | 突撃 | 投石 | 三軍強化 | 覇道 |
【アジュ】
元の武将。名将スブタイの孫。
父のウリヤンカタイに従軍して西南討伐、大理?平定、交趾攻略などで功績を立てた。
李璮の反乱鎮圧でも功を上げ、宿衛将軍・征南都元帥となり襄陽?・樊城を包囲するが、
呂文徳・文煥の激しい抗戦を受ける。
南宋の援軍を大破し、軍船を鹵獲して水軍の編成を始め、
張順・張貴の来援では劉整に水軍を統率させて自ら追撃し両将を討った。
回回砲が導入されると樊城を抜き、襄陽の呂文煥を降すことに成功した。
その後は丞相バヤンの麾下で南宋滅亡に貢献し、シリギが反乱すると北伐にも従事した。
劉整(武仲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 88 | 81 | 51 | 32 | 胆力 | 水戦 | 調練 | 遠矢 | 水軍育成 | 覇道 |
【リュウセイ(ブチュウ)】
南宋、元の武将。京兆の出身。
金末期に南宋に入って孟珙の麾下となり、
信陽攻めで勇士十二名を率いて登城して陥落させ、李存孝の武勇に比された。
四川東部の要衝を抑えるが、武功を襄陽?の呂文徳から忌まれ、
賈似道の粛清も恐れたためモンゴルに投じた。
クビライに南宋侵攻を進言して襄陽包囲戦を開始させ、
五千隻の軍船を建造してモンゴル水軍を調練し統率する。
襄陽包囲が長期化すると樊城を先に攻略するよう進言し、
回回砲で樊城を破ると呂文煥を説得し、襄陽を開城させた。
驃騎上将軍となり南宋の水軍を破るが、淮南出兵の際に没した。
阿里海牙
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 64 | 84 | 80 | 78 | 督将 | 崩壁 | 発明 | 水戦 | 慰撫 | 絡繰利器 | 兵器開発 | 覇道 |
【アリハイヤ】
元の武将。ウイグル出身。
襄陽?攻囲に参加するが、阿朮が五年に渡って襄陽を降せずにいたため、
クビライの許可を得てウイグル人技師のイスマイルらに投石兵器の回回砲を製作させた。
回回砲で樊城を破り、襄陽にも投石を浴びせて呂文煥を降伏させ、
襄陽に駐屯して南宋平定を上奏し、丞相バヤンの征討軍に平章として加わる。
水軍を率いて漢水・長江を下り、武磯堡や鄂州を攻略し、南宋水軍を洞庭湖で破った。
南宋領五十八州を攻め取り、兵士に殺害と侵掠を禁じ、
賦税を軽くするなどの善政を敷いたため、南宋の民は祠を立てて喜んだという。
張弘範(仲疇)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 85 | 51 | 69 | 57 | 水戦 | 築城 | 長駆 | 水軍育成 | 覇道 |
【チョウコウハン(チュウチュウ)】
元の武将。漢人世侯の張柔の息子。
漢人世侯の一部が反乱を起こすと、史天沢の討伐軍に従った。
アジュの襄陽?・樊城包囲戦に参加し、一字城を築いて襄陽と樊城を分断させ樊城を攻略する。
襄陽攻略後にはバヤンの南宋征伐に従軍し、臨安に入り漢軍都元帥に任じられる。
その後、南宋の残存勢力を追討し、文天祥を海豊で破り五坡嶺で捕縛する。
端宗と衛王を擁立した陸秀夫、張世傑を追撃し、海上へと追いやり水と補給を断つ。
これに疲弊した抵抗軍を崖山の戦いで滅ぼし、南宋は完全に滅亡した。
李恒(徳卿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 87 | 59 | 24 | 67 | 崩壁 | 果敢 |
【リコウ(トクケイ)】
元の武将。西夏の皇族の出身。
モンゴル皇族のイェスンゲの妃に育てられる。
漢人世侯の李璮が謀反を計画している事を告発し、クビライから功績を賞賛された。
襄陽?・樊城の戦いに参加し、襄陽降伏後はバヤンの南宋侵攻に従う。
陽羅堡(武磯堡)で先鋒となり流矢で額を負傷するも、
バヤンの制止を振り切って継戦し、敵将の夏松を斬った。
洞庭湖で高世傑を捕え、江西から文天祥を逐い、広東を経略する。
張弘範と合流して崖山の戦いで南宋を滅ぼし、金璽を入手した。
トガンの失政で反した交趾を攻めるが、毒矢を受けて戦死した。
阿塔海
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 72 | 46 | 68 | 53 |
【アタハイ】
元の武将。
ウリヤンカタイ(スブタイの子)に従軍し、雲南?攻略で功を上げる。
クビライの代には襄陽?攻囲に参加し、南宋の夏貴の援軍を阻止した。
バヤンの南宋討伐に従軍し、建康?陥落後は李庭芝の篭る揚州を包囲し救援を絶つ。
張世傑・孫虎臣を焦山で破り、張彦を斬って平江を攻略し、臨安を開城させるのに功績を立てた。
左丞相を務め、弘安の役の直前にアラクカンが急逝すると、征東行省丞相に遷任。
江南軍を率いて日本へ侵攻するが、九州沖で大風に遭遇し、軍船と兵を喪失して帰還する。
晩年はナヤンの叛乱討伐に扈従した。
洪俊奇
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 76 | 63 | 65 | 4 | 徴税 |
【コウシュンキ】
高麗、元の武将。通称は洪茶丘。
父の洪福源が処刑されると、高麗を恨んでモンゴルに投じ、三別抄の乱の討伐で功績を立てた。
クビライの日本侵攻計画に便乗して高麗の人々に高い賦税を課すように仕向ける。
文永の役では右副元帥として対馬・壱岐を襲撃。
帰還後はクビライに高麗占領を訴え、金方慶への讒訴を繰り返した。
弘安の役では東征都元帥として先発し、対馬・壱岐を制圧し志賀島から上陸するも、
元寇防塁を越えられず撤退し、江南軍と合流するも台風の直撃を受けて帰還する。
第三次日本侵攻計画にも尽力したがナヤンの乱で頓挫した。
蒲寿庚
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 54 | 70 | 67 | 25 | 富豪 | 封殺 | 嚮導 | 操舵 | 運搬開発 | 名利 |
【ホジュコウ】
南宋末期の商人、武将、政治家。号は海雲。祖先はアラブ人のムスリム。
泉州で海商・海寇として名を上げており、
その財力と海軍力は南宋・元の双方から注視されていた。
蒲寿庚は海軍力を必要としていた元に投じ、
張世傑が泉州で再起を図ろうとした際に、泉州に匿われていた南宋の皇族を殺害する。
張世傑の泉州攻囲も計略を用いて防衛し、元の援軍到着まで約三ヶ月持ち堪えた。
元軍の海戦を指揮し、崖山の戦いで南宋滅亡に大きく貢献した。
その後、元の治世で泉州の海上貿易の権益を掌握し、泉州は世界有数の貿易港として繁栄した。
補足:マルコ・ポーロによって、泉州は世界最大の港「ザイトン」として紹介されている。
明代には、蒲寿庚を反逆者として忌み嫌った朱元璋により、子孫が徹底的に迫害・弾圧されている。
桑哥
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 24 | 81 | 85 | 52 | 徴税 | 論客 | 運搬 | 嚮導 | 歳出改善 | 覇道 |
【サンガ】
元の政治家。
チベット人ともウイグル人とも伝えられる。
元々はチベット仏教のサキャ派の僧としてサキャ派の最高指導者であるパスパの従者であったが、
諸国の言語に通じていた事で元王朝に仕えた。
1287年に財務を担っていたアフマドや盧世栄の失脚後、財務を担う尚書省の長官として財政改革に
努めており、新紙幣である至元鈔の発行や江南地方の開発と運輸の整備等に功績を挙げた。
しかし厳しい監査や色目人官僚の登用などでモンゴル人系の貴族らの反発を買い讒言の末に処刑された。
許衡(仲平)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
22 | 15 | 76 | 77 | 70 | 学者 | 人脈 | 諌止 | 教化 | 太学 | 礼教 |
【キョコウ(チュウヘイ)】
元の学者。
懐州河内県の出身でフビライハンの所領であった京兆地方に創設された学校の校長に任じられた。
元朝成立後は中央に入り漢地の伝統に基づいた統治を主張、劉秉忠らと共に元の政府機構の整備に参加、
1271年には国子祭酒として若いモンゴル人貴族の子弟の教育に務め、郭守敬と共に新暦の作成にも携わった。
郭守敬(若思)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 36 | 85 | 90 | 76 | 学者 | 改修 | 能吏 | 振興 | 文事軍備 | 王道 |
【カクシュケイ(ジャクシ)】
元の政治家、水利学者、天文学者、数学者。
劉秉忠に師事し、クビライに謁見した際に水利について説き、任用される。
西夏の地で灌漑・水路を整備して治績を上げた。
バヤンの南征の際には水路の兵站が計画され、河北・山東を視察する。
南宋征服後には、大都?(北京)から通州(天津)に至る大運河を開削する。
西海(大都の人工湖)の積水潭を修復して「通恵河」を完成させ、水路による交通を飛躍的に発展させた。
また、王恂・許衡らとともに大規模な天文観測を行って暦法を改正し、「授時暦」を定めた。
朱清(澄淑)
生年 | 登場 | 没年 |
1243年 | 1303年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 76 | 59 | 65 | 59 | 水戦 | 運搬 | 徴税 | 農政 | 運搬開発 | 覇道 |
【シュセイ(チョウシュク)】
元の武将。
元は江南地方の海賊であったが元に降り管軍千戸に任じられ、バヤンの南宋征伐に
従軍しアタハイに従い海賊征伐に功績を挙げ、日本遠征やチャンパー遠征にも加わった。
後に海軍千戸として海運業にも携わるが讒言により自殺した。
土土哈
生年 | 登場 | 没年 |
1237年 | 1297年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 85 | 73 | 45 | 66 | 疾走 | 掃討 | 血路 | 殿軍 | 察知 | 疾風迅雷 | 魚鱗強化 | 覇道 |
【トトガク】
元の武将。資料によってはトトハとも。
キプチャク族の出身でキプチャク族から構成される軍団を率いてクビライに仕えた。
1277年~1278年におけるシリギの乱の鎮圧にキプチャク軍団を率いて活躍し、クビライ直々に多大な恩賞を得た。
その後もナヤンの乱やカイドゥ・ウルスとの戦いに活躍し1289年にはカイドゥの攻撃で窮地に陥った晋王カマラの
奮戦により救出しさらに伏兵を用いて追撃するカイドゥの部隊を撃破した。
闊里吉思
生年 | 登場 | 没年 |
1298年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 88 | 86 | 65 | 77 | 洞察 | 不屈 | 疾走 | 長駆 | 文化 | 疾風怒濤 | 急襲 | 太学 | 覇道 |
【コルギス】
元の武将。
オングト部の出身で文武に秀でて私邸に「万巻堂」という建物を築き数多くの学問を研究した。
皇室と通婚してきたオングト部の伝統にて皇帝テムルとその父チンクムの娘を娶っており、また
ネストリウス派のキリスト教徒で後にモンテ・コルヴィノと出会いカトリックに改宗した。
ナヤンの乱ではトトガクと共に奮戦して功績を挙げ、テムルの時代には高唐王となり対カイドゥ前線の将となった。
1298年に他の将が冬である事を理由に防備を緩める中でコルギスのみは警戒を怠らず、
カイドゥの急襲で軍が混乱に陥る中で唯一奮戦するが捕らえられ、帰国できぬままに死去した。
王忱(允中)
生年 | 登場 | 没年 |
1231年 | 1310年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 38 | 75 | 76 | 62 | 諌止 | 興望 | 地域巡回 | 王道 |
【オウシン(インチュウ)】
元の政治家。
剛直をもって知られクビライの皇太子であったチンキムによって引き立てられ、
モンゴル貴族の民田蹂躙を抑えチンキムの死後はクビライに代わりの皇太子を立てるべきと進言した。
また人身売買を禁じ晩年には雲南の地方官を任じられるも赴任途中で病死した。
マルコ・ポーロ
生年 | 登場 | 没年 |
1254年 | 1324年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 52 | 84 | 70 | 76 | 徴税 | 調達 | 運搬 | 特使 | 嚮導 | 投石 | 駆逐 | 地域巡回 | 名利 |
ヴェネツィア国出身の商人・冒険家。漢文では馬可・波羅(一番わかりやすい漢字で)
1271年に父と叔父と共にアジアに向けて出発し1274年に元に到達し、フビライの宮廷に仕えたという。
1295年に帰国し、1298年にジェノヴァとの戦争で投獄された際に出会った著述家のルスティケロがマルコの語る旅の口述を「東方見聞録」に表した。
元側の資料にはマルコ・ポーロと思われる人物の記録はなく、実在しないという説や複数の人物の体験を集めた物という説もあるが、
「東方見聞録」はヨーロッパ社会に当時のアジア事情を伝えてコロンブス等後世の人物にも貴重な存在であり日本を黄金の島ジパングと称して初めて日本の存在をヨーロッパを伝えている。
親愛武将:フビライハン
※蒼き狼Ⅳの能力値をベースに総合力をやや落とす。
クビライ没後
海山
生年 | 登場 | 没年 |
1281年 | 1311年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
89 | 84 | 67 | 53 | 76 | 驍将 | 掃討 | 疾走 | 屯田 | 調練 | 万馬奔騰 | 急襲 | 斉射 | 三軍強化 | 覇道 |
【カイシャン】
元第3代皇帝・武宗。
第2代皇帝テムルの兄ダルマバラの子でテムルの時代にはモンゴル高原の軍を指揮して
1301年にはカイドゥを撃破し1304年にはメリク・テムルを降す等の功績を挙げている。
叔父テムルが1307年に崩御した後の後継者争いに勝利し、皇族や家臣に賞与を乱発して
支持を得たが財政難に陥り、財政改革を進めるも僅か4年で崩御した。
薩都剌(天錫)
生年 | 登場 | 没年 |
1308年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
37 | 39 | 67 | 69 | 74 | 詩想 | 文化 | 諌止 | 地域巡回 | 王道 |
【サドゥラ(テンシャク)】
元の官僚・詩人。
色目人の出身で元の軍人であった父親が駐屯していた雁門で生まれ幼少の頃より漢文化に親しんだという。
20歳の時に科挙に及第したが権臣を弾劾した事で疎まれ出世しなかったという。
元末の混乱の中で官を辞して江南の杭州に隠棲して詩吟の生活を送り数多くの漢詩を残し詩集には「雁門集」がある。
脱脱(大用)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 81 | 76 | 89 | 62 | 史官 | 改修 | 徴税 |
【トクト(ダイヨウ)】
元の武将、政治家。メルキト部出身。
伯父のバヤンが漢民族を排撃すると、クーデターを起こして実権を握る。
バヤンに廃された科挙を復活させ、正史編纂を行い「遼史」「金史」「宋史」を完成させた。
一時職を辞すが、右丞相として新紙幣の発行や黄河の治水対策を行う。
しかし、治水工事に使役された民によって紅巾の乱が発生し、華南を中心に反乱が頻発する。
徐州の芝麻李を討つなど反乱平定で軍功を重ねる。
だが、張士誠の討伐中に哈麻に讒言され、雲南?に追放され毒殺された。
後に名誉回復されたが、元朝の衰退が決定的なものとなった。
補足:伯父のバヤンはメルキト部出身の宰相で、南宋征伐で活躍したバヤンとは別人。
賈魯(友恒)
生年 | 登場 | 没年 |
1297年 | 1357年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 52 | 67 | 80 | 55 | 使役 | 史官 | 改修 | 振興 | 能吏 | 工法改革 | 王道 |
【カロ(ユウカン)】
元末期の官僚。
宰相トクトに起用されて「宋史」の編纂に携わった。
1344年に黄河が氾濫した際に大都周辺の治水に携わる行都水監となり、
黄河の大規模な治水工事が必要であると訴えて多数の人民を動員した大工事により僅か三ヶ月にて治水工事に成功し黄河の氾濫を防いだ。
しかし直接関係しない江南地方の住民らを動員した事により不満は高まり紅巾の乱の要因の一つとなり、反乱鎮圧に従事した際に受けた傷が元で亡くなった。
親愛武将:トクト
察罕帖木児(延瑞)
生年 | 登場 | 没年 |
1362年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 82 | 63 | 68 | 75 | 疾走 | 召募 | 動員 | 直情 | 地勢研究 | 割拠 | ||||||
99 | 81 | 92 | 78 | 93 | 神威 | 疾走 | 召募 | 動員 | 直情 | 地勢研究 | 割拠 |
【チャガン・テムル(エンズイ)】
元の武将。
ナイマン部の流れを汲む河南の名士で紅巾の乱が起きた際に住民を招集して河南を守り、
その功績で河南のダルガチに任じられ元末の有力軍閥に成長した。
1359年には開封を奪回しら山西・山東方面にも勢力を拡大して田豊・王士誠を降伏させた
功績で中書平章政事となるも王士誠の反乱により殺害された。
親愛武将:アユルシリダラ 王保保(ココテムル)
嫌悪武将:ボロト・テムル
孛羅帖木児
生年 | 登場 | 没年 |
1365年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 81 | 52 | 45 | 58 | 疾走 | 動員 | 怒髪 | 直情 | 高慢 | 長蛇強化 | 我道 |
【ボロト・テムル】
元の武将。
元末期の有力武将であるタシュ・バートルの子で父の軍勢を引き継ぎ紅巾の乱の討伐に功績を挙げ、
大都の西の要衝である大同を本拠とし元末期の有力軍閥に成長したが、河南の有力軍閥であったチャガン・テムル
とは対立し、さらに皇太子アユルシリダラとも対立してアユルシリダラを大都から追放し宮廷の実権を握った。
しかし恐怖政治を行い皇帝トゴン・テムルの信任を失い、アユルシリダラとチャガン・テムルの養子ココテムルら
の反撃により窮地に陥りトゴン・テムルの放った刺客により暗殺された。
嫌悪武将:アユルシリダラ チャガン・テムル ココテムル
王保保
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 89 | 68 | 55 | 80 | 神威 | 疾走 | 地利 | 胆力 | 遠矢 |
【オウホウホウ】
元、北元の武将。ココ・テムル(拡廓帖木児)。
チャガン・テムルの外甥で養子となるが、
養父が紅巾の乱の最中に殺害されると、軍権を引き継いで山東の紅巾軍を討伐する。
元朝内部の政争で皇太子を支持して大都へ進軍し、
専横していた軍閥のボロト・テムルが誅殺されると、左丞相に任じられてココ・テムルの名を賜る。
江南を統一していた朱元璋と対決するが、
軍内部の分裂・反乱もあって徐達の北伐軍の前に連敗を重ね、カラコルムまで敗走した。
しかし、カラコルムで徐達を大破して数万を討ち取り、朱元璋のモンゴル征服の野望を挫いた。
補足:入力する文字数の都合上「王保保」表記を採用。
中華圏では父親が漢人のため(母親がチャガン・テムルの姉)、漢名の「王保保」で呼ばれる。
朱元璋には「奇男子」と気に入られており、度々帰順を勧められている。
親愛武将:チャガン・テムル
嫌悪武将:ボロト・テムル
妥懽帖睦爾
生年 | 登場 | 没年 |
1320年 | 1370年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
25 | 16 | 46 | 48 | 56 | 詩想 | 文化 | 高慢 | 小心 | 惰弱 | 太学 | 割拠 |
【トゴンテムル】
元の第十一代皇帝・順帝。
第九代皇帝コシラの子でコシラの死後は叔父のトク・テムルの即位により高麗や広西に流されていたが1333年に即位した。
宮廷で対立する勢力との政争に明け暮れる中で江南を中心とした民衆の不満は頂点に達し紅巾の乱が勃発、
元の国力は大きく衰退し1368年に朱元璋の明により大都を追われて失意のまま病死した。
蘇天爵(伯脩)
生年 | 登場 | 没年 |
1294年 | 1352年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
55 | 48 | 72 | 75 | 77 | 史官 | 文化 | 法律 | 太学 | 礼教 |
【ソテンシャク】
元の政治家・文人。
呉澄・虞集に師事し元朝の官僚として「武宗実録」の編纂や地方官として冤罪を正す等の
功績を挙げ、紅巾の乱の討伐の最中に病死した。
清修篤志で博識であり文章に秀でて天下に重きをなしたという。
危素(太樸)
生年 | 登場 | 没年 |
1295年 | 1372年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
21 | 26 | 75 | 71 | 73 | 学者 | 史官 | 詩想 | 文化 | 消沈 | 太学 | 礼教 |
【キソ(タイボク)】
元・明の学者。
江西の出身で若くして五経に通じて呉澄らに師事し、1335年に経筵官に就任して以降は翰林関係の仕事を
歴任して宋・遼・金の国史編纂にも携わった。
元の滅亡の際に自殺を図ったが友人から生きて正しい歴史を伝えよと勧告されて自殺を思いとどまり
歴代皇帝の実録を明軍の兵火より守った。
後に明に仕えたが亡国の臣という事で弾劾を受けて左遷され失意のまま死去した。
詩文の第一人者でもあり朝廷の詔勅作成は危素が殆ど担っていたという。