注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
モンゴル
モンゴル帝国とは、モンゴル高原の遊牧民を統括し、のちにその勢力を世界規模にまで押し上げた国家である。
帝国創始者は初代皇帝と呼ばれる、のちの チンギスカン?であるテムジンであった。テムジンの父であるイェスゲイは
勇者(バアトル)と謳われるほどの人物であったが早逝し、テムジンは幼くして辛酸を舐めることとなった。
しかし長じるとモンゴルの有力者となり、モンゴル高原の諸部族との争いで徐々に地位を高め、盟友で強敵でもある
ジャムカ?を始めとする多くの部族・首長を倒して諸部族を統一。1206年にモンゴル帝国を建国した。
テムジンを支えたのは「バルジュナ湖の誓い」と呼ばれる君臣の契を結んだ19人の股肱の忠臣、「四駿四狗」と呼ばれる8人の優秀な側近、
そしてテムジンの弟達や、第一皇后とされるボルテ?の産んだ子息達であった。その後チンギス・ハーンとなったテムジンは、
金 、西遼、ホラズム・シャー朝などに対して積極的な外征を繰り返し、帝国の祖を築いた。チンギス・ハーンの死後、後継となったのは
彼の三男であるオゴディ(オゴタイ)であった。兄弟いずれとも仲の良い彼はチンギス・ハーンの生前から後継者に目されており、またその役目を忠実にこなした。
オゴディ は兄弟たちと協力して金を滅ぼし、周辺諸国を支配下に置き、首都カラコルムを中心として帝国最盛期を築いた。
また遠くヨーロッパに対しても、オゴタイの甥であるバトゥを始めとする西征軍が編成され、1241年のワールシュタットの戦いではヨーロッパ諸国連合軍に大勝した。
この戦いはワールシュタット(ドイツ語で死体の山の意)の名が示す通り、ヨーロッパ全土にモンゴルの脅威を伝播させる戦いとなった。
しかし、1241年、帝国最盛期を現出したオゴタイが死去し、翌1242年にオゴタイの兄であるチャガタイが死去すると、帝国全土に暗雲が立ち込めた。
既にジョチ、トルイといった他のチンギス・ハーンの息子達は世を去っており、後継者の選出が長引き、権力の空白化を生じさせた。
1246年悶着の末にオゴタイの後継には彼の長男であるグユクが選ばれたが、皇帝即位当初から彼と不仲であったバトゥと対立が生じた上、
グユクは1248年、即位からわずか2年で病没。結局以降モンゴル帝国では、大カーンと呼ばれる皇帝を巡る争いや、勢力拡大による膨張化で生じた
有力ウルス(諸王家)同士、あるいは皇帝を含めた争いにより、世界帝国は徐々に解体へと向かい、第5代皇帝であるクビライ?が
元を建国する頃には、モンゴル帝国は 元 を中心とする緩やかな諸連合国家(ウルス、ハン国)の集合体となった。
元が1368年に 明 によって中原から撤退し、1388年にクビライの子孫が途絶えた後も、北元をはじめ、いくつかのハン国が
チンギス・ハーン及び、モンゴル帝国の遺産、継承政権として残存した。しかし、それらの国々も時代の流れとともに歴史上から徐々に消滅していき、
1783年、ロシア帝国 エカチェリーナ2世 によるクリミア・ハン国併合をもってモンゴル帝国の遺産国家は完全に消滅した。
今日世界最大の領国版図を誇ったモンゴル帝国は多くの国々を滅ぼし、多くの国々を支配下にいれた。その遠征事業が完全失敗に終わったのは
バイバルス 率いるエジプトのみとされており、後継国家を含めても 北条時宗 を中心とする日本など、帝国に抗えた国家は数少ない。
元、四汗国・モンゴル系国家も参照
モンゴル帝国(~1271年)
チンギス時代
成吉思汗
「チンギスカン」を参照。
※別案
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
100 | 95 | 92 | 91 | 100 | 飛将 | 奸雄 | 神機 | 長駆 | 強運 | 天下無双 | 軍神 | 魏武の強 | 急襲 | 激励 | 突撃 | 三軍強化 | 覇道 |
合撒児
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 81 | 85 | 44 | 65 | 遠矢 | 一騎 | 疾走 | 長駆 | 軽率 | 軍制改革 | 覇道 | |||||
80 | 88 | 55 | 44 | 65 | 遠矢 | 猛者 | 疾走 | 長駆 | 軽率 | 虎弓 | 軍制改革 | 覇道 |
【カサル】
イェスゲイの次男。ジョチ(搠只)。
膂力に秀でて強弓を引いた勇猛な武将で幼少から兄を補佐して兄弟たちとともにモンゴル帝国創建に貢献した。
チンギス・カンはジョチ・カサルを深く信頼しており、ジョチ・カサルに相談した上で軍事行動を決定することもあった。
しかし勢力拡大に伴い、反乱に加担した事を疑われる等次第に遠さげられた。
鉄木哥斡赤斤
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
60 | 53 | 65 | 85 | 83 | 王佐 | 柱石 | 疾走 | 長駆 | 浪費 | 工法改革 | 覇道 | |||||
63 | 53 | 65 | 81 | 83 | 疾走 | 動員 | 浪費 | 工法改革 | 覇道 |
【テムゲ・オッチギン】
イェスゲイの末男。テムゲ(鉄木哥)。チンギスから特に愛され、国王の称号を与えられた、
また、派手好みな性格で、領地に宮殿や園囿を多く造ったと言われている。
チンギスの西征ではモンゴル本国の留守居役を務め、チンギス死後は一族の重鎮として重きを成した。
しかしオゴタイの死後、ハーン位を伺ったのをグユク派に咎められ自身は処刑を免れたが、配下が処刑された。
木華黎
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
94 | 89 | 84 | 69 | 87 | 神機 | 督将 | 疾走 | 長駆 | 柱石 | 白馬鉄騎 | 陥陣営 | 文事武備 | 王道 |
【ムカリ】
モンゴル帝国の元勲。四駿の一人。国王。
テムジン(チンギス・ハン)に仕え、モンゴル諸部の統一戦で卓抜した戦功を上げる。
左翼万戸を授かり、右翼万戸のボオルチュらと共に「四駿」に数えられた。
第1次金征伐では野狐嶺の戦いで金軍を大破し、金の衰退を決定付ける。
チンギスから「国王」の称号が与えられ、西征の際の契丹・女真・漢族の抑えとなった。
史天沢・張柔・厳実などの漢人軍閥を引き込んで金征服の準備を整え、第2次金征伐で開封へ侵攻した。
西夏や郭蝦蟆らの抗戦に対応するため、山西へ軍を回す途中で陣没した。
補足:漢字表記は他に「木合里」「謀合理」「摩和賚」「摩睺羅」などがある。
博魯朮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 88 | 78 | 78 | 81 | 洞察 | 驍将 | 疾走 | 長駆 | 補佐 | 白馬鉄騎 | 聡明剛毅 | 文事武備 | 覇道 | |||
81 | 86 | 76 | 65 | 81 | 疾走 | 長駆 | 柱石 | 動員 | 補佐 | 文事武備 | 覇道 |
【ボオルチュ】
モンゴル帝国の初期の武将チンギス・カンの最初の側近。四駿の一人。
少年時代のテムジンと名乗っていた頃のテムジンが馬泥棒に遭った際に協力した事を切っ掛けとして最初の部下となり
政戦両面にてチンギスのモンゴル草原統一に功績を挙げてチンギスの第二次即位の際は功臣第二位の位置にあり、以後も帝国の重臣として信頼された。
博爾忽
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 96 | 63 | 44 | 84 | 闘将 | 剛将 | 疾走 | 長駆 | 血路 | 白馬鉄騎 | 単騎駆 | 三軍強化 | 覇道 | |||
81 | 83 | 76 | 44 | 84 | 疾走 | 血路 | 論客 | 三軍強化 | 覇道 |
【ボロクル】
モンゴル帝国初期の武将。四駿の一人。
フウシン部族の出身で幼少の頃にチンギスに拾われ、チンギスの母ホエルンに養育された。
成長後はチンギスの有力武将として活動し、ケレイトとの戦いでは重傷を負ったオゴタイを救出した。
1217年にトマト部の討伐に従事した際に捕虜となり殺害された。
赤老温
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 85 | 69 | 44 | 76 | 神眼 | 勇将 | 疾走 | 長駆 | 眼力 | 白馬鉄騎 | 確乎不動 | 三軍強化 | 覇道 | |||
74 | 82 | 69 | 44 | 76 | 疾走 | 血路 | 三軍強化 | 覇道 |
【チラウン】
モンゴル帝国初期の武将。四駿の一人。
タイチウトに属していたスルドス氏のソルカン・シラの子。
若き日のチンギスがタイチウトのタルグタイの捕虜となった際、ソルカン・シラや兄のチンベと共に
チンギスの逃亡の手助けをしており後にチンギスに仕えてタルグタイを討った。
哲別
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 94 | 51 | 58 | 71 | 遠矢 | 猛者 | 疾走 | 長駆 | 寡欲 | 鉄騎突 | 神弓 | 鶴翼強化 | 覇道 | |||
86 | 92 | 65 | 58 | 71 | 遠矢 | 猛者 | 疾走 | 長駆 | 寡欲 | 神弓 | 突撃 | 斉射 | 鶴翼強化 | 覇道 |
【ジェベ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。
初めはタイチウトに属しており、精密な弓射を得意としていた。
ケレイトとタイチウトの戦いではテムジンの馬を射て落馬させる。
テムジンに投降すると「ジェベ」の名前を賜り、
ナイマンとの戦いではクビライらと先鋒を務め、「四狗」の勇名を馳せた。
第一次金征伐では守兵を城外に誘き出す戦術を用い、烏沙堡や居庸関を陥落させた。
その後はクチュルクを討って西遼を滅ぼし、
西征ではカルカ河畔の戦いでキャプチャク・ルーシの連合軍を破る。
チンギスの帰還命令を受けて帰還する途上で没した。
補足:漢字表記は他に「者別」「只別」など。なお、ジェベは鏃の意味。
ジェベ以前の名はジルゴアダイ(只儿豁阿歹)。
速不台
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 93 | 76 | 19 | 64 | 崩壁 | 果敢 | 疾走 | 長駆 | 護衛 | 鉄騎突 | 彊壮進軍 | 錐行強化 | 覇道 | |||
95 | 90 | 76 | 39 | 64 | 崩壁 | 果敢 | 疾走 | 長駆 | 護衛 | 百戦錬磨 | 衝車 | 斉射 | 火矢 | 鯨波 | 錐行強化 | 覇道 |
【スブタイ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。
メルキト部の征討で功績を立て、西征に従軍してホラズム・シャーを追討した。
ジェベと共にロシア平原に侵攻してカルカ河畔の戦いで勝利を収める。
帰還後はチンギス・ハーンの西夏親征に従軍した。
第二次金征伐ではトルイの別働隊で指揮を取り、完顔陳和尚を撃破し、開封を攻略し金を滅ぼした。
バトゥの西征にも従軍し、キャプチャクやハンガリー征服などにおいて功績を立てた。
世界史の中でも最も広範囲を駆け巡った武将の一人で、
東は高麗、南は開封、北はシベリア、西はアドリア海まで至っている。
補足:漢字表記は他に「雪不台」「速別額台」「唆伯台」など。
拙速な編纂だった元史には、「速不台」(120巻)と「雪不台」(121巻)の二つの列伝が併在している。
者勒蔑
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
93 | 95 | 77 | 44 | 71 | 堅守 | 解毒 | 疾走 | 長駆 | 医術 | 鉄騎突 | 万法帰一 | 本草学 | 覇道 |
【ジェルメ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。スブタイの兄。
ボオルチュと共に古くからのチンギスを支えた重鎮で、戦闘でチンギスが毒矢を射られた際は自ら毒を吸い出し懸命に治療を務めた。
忽必来
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 98 | 63 | 44 | 70 | 掃討 | 一騎 | 疾走 | 長駆 | 規律 | 鉄騎突 | 怪力無比 | 政令徹底 | 覇道 |
【クビライ】
モンゴル帝国の武将。四狗の一人。元の皇帝クビライ?とは別人である。
バルラス部の出身で剛勇で知られ度々先鋒を務めた。
朮赤
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
90 | 86 | 68 | 62 | 67 | 仁政 | 王佐 | 疾走 | 長駆 | 柱石 | 経世済民 | 礼教 |
【ジュチ】
チンギス・ハーンの長男。
ジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の祖。ジョチと表記する事も。
ジュチとはモンゴルにおいて「客人」の意味を持ち、これは生母であるボルテが
一時メルキト族に略奪されており、後に再びチンギスの元に戻った際にジュチが誕生した
事による出生の疑惑から来ているとされる。
父に従ってモンゴル統一戦争やその後の各地の遠征に従軍して功績を挙げ、大西征の
後は中央アジア西北部から東ヨーロッパ南部のキプチャク草原を与えられ、子孫は
代々この地を治めたが、ジュチ自身は父に先んじてこの地にて病死した。
察合台
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 84 | 66 | 86 | 64 | 法律 | 言毒 | 疾走 | 長駆 | 柱石 | 地域巡回 | 我道 |
【チャガタイ】
チンギス・ハーンの次男。
チャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)の祖。
父に従い各地の遠征に従軍して活躍し、西遼が統治していたトルキスタン付近を与えられた。
法に対して厳格であった為、父からモンゴル帝国の法律・ヤサの管理を任されて「ヤサの番人」の異名を取った。
兄であるジュチとはジュチの出生の疑惑や激しい気性もあってか不仲であった。
チンギスの死後はハーンに即位したオゴタイを補佐し、子孫は代々チャガタイ・ウルスを支配した。
拖雷
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
95 | 93 | 77 | 75 | 86 | 飛将 | 地利 | 疾走 | 長駆 | 王佐 | 三軍強化 | 覇道 |
【トゥルイ】
チンギス・ハーンの四男。
他の兄と共に父に従って各地の遠征で多大な功績を挙げ、父が死去した際には
末子相続の慣習に従い、父の持つ多大な財産を譲り受けて帝国随一の実力者となり、
監国として帝国の政治を担い、その後はハーン位に就くのを固辞して兄オゴタイの
即位に尽力した。
1232年には完顔陳和尚率いる金の大軍を撃破し、モンゴル軍屈指の名将としての
実力を轟かせたが、モンゴルに帰還する途中で急死した。
耶律阿海
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 75 | 93 | 86 | 72 | 遠矢 | 論客 | 慰撫 | 文化 | 智嚢 |
【ヤリツアカイ】
金、モンゴル帝国の政治家、武将。遼の宗室の出身。
勇略を有し、騎射に優れ、諸国の言語に通じていた。
金の官吏としてケレイトに使者として赴いた際に、テムジンと面識を持つ。
その翌年にテムジンに投じ、参謀として活躍する。
オン・カンに敗れたテムジンの逃避行にも随伴し、バルジュナ湖の誓いにも加わった。
モンゴル統一や西夏征伐で献策を行い、功績を重ねていく。
第一次金征伐では先鋒を務め、中都を包囲して和議を結び、太師に任じられた。
西征にも従軍し、攻略したサマルカンドで征服地の統治を委ねられ、73歳で没した。
補足:「バルジュナ湖の誓い」は、落ち延びたテムジンと麾下の19騎が湖の濁水を飲んで再起を誓ったもの。
この19名はチンギス・ハーンの股肱の重臣として非常に信頼された。
郭宝玉(玉臣)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
82 | 77 | 84 | 75 | 79 |
【カクホウギョク(ギョクシン)】
金、モンゴル帝国の武将。郭子儀の末裔、郭侃の祖父。
金末期に猛安となるが、烏沙堡で金軍が敗れるとモンゴルに投降した。
チンギス・ハーンに中原攻略の策を問われると、西南諸藩を征服してから中原に進出するよう進言する。
また、無辜の人々を殺さず、大罪以外での極刑を廃止するなどの統治政策を上奏した。
攻城策を献じ、ムカリに従軍してモンゴルの燕南侵出に貢献した。
西征にも従い、胸を負傷しながらも陣頭に立ち、敵の船団を火矢で壊滅させるなどの活躍をする。
その後スブタイの契丹・渤海征伐に従い、帰還の途上で没した。
失吉忽圖忽
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 46 | 66 | 81 | 69 | 徴税 | 寡欲 | 能吏 | 戸籍整備 | 覇道 |
【シギ・クトク】
モンゴル帝国の家臣。
タタール部の出身で孤児であった所をチンギスカンに拾われ、チンギスの母ホエルン(集史ではボルテ)に養育された。
モンゴル家臣の中ではウイグル文字に通じていた為に大断事官に任じられて徴税を担当した。
大西征にも従軍しパルワーンの戦いにてホラズムのジャラールッディーンに大敗したが罪に問われなかった。
チンギス死後も帝国の重鎮であったがモンケ死後の後継争いではアリクブカ側であった為に晩年は不遇であったとされる。
親愛武将:チンギスハン ボルテ
劉嶷(孟方)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 88 | 68 | 65 | 59 |
【リュウギョク(モウホウ)】
モンゴル帝国の武将。別名・劉黒馬。
父の劉伯林がモンゴルに投降しており、若い時から征戦に従軍していた。
武仙の反乱では真定を降し、胡岭の戦いでは金将の忽察虎を斬る。
オゴデイが即位すると漢人軍閥の筆頭となり、
第二次金征伐では西路から侵攻し、三峰山で金軍を大破し釣州城まで攻め取った。
金の南京(開封)を陥落させ、西京・河東・陝西の諸軍を統括する。
モンケの代には陝西の商州に駐屯して南宋への抑えとなり、親征に従い成都を落とす。
クビライの代に南宋が瀘州を包囲すると、病を押して救援に向かうが途上で陣没した。
補足:通称の「黒馬」は幼名。産まれたときに同時に厩で黒馬が産まれたことが由来。
特技は、13人で外出していた際に金兵に包囲されたが、包囲に斬り込んで一人も欠けることなく突破したエピソードから。
張柔(徳剛)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
85 | 92 | 74 | 57 | 69 | 掃討 | 昂揚 | 動員 | 築城 | 鋒矢強化 | 覇道 |
【チョウジュウ(トクゴウ)】
金、モンゴル帝国の武将。張弘範の父。
金末期に苗道潤に取り立てられ重用されるが、苗道潤が賈瑀に殺害されたため復仇を誓う。
本路経略使となるが、賈瑀討伐の直前にモンゴルの侵攻を受け投降する。
モンゴルの武将として雄・易・安・保の諸州を攻略し、賈瑀を殺害し仇を討った。
河朔を転戦し、流矢で二度負傷しながらも冀北の三十余城を落とし、
金を河南に駆逐して河朔を震撼させたと驍勇を賞された。
金が滅亡すると入朝し、南宋領の湖北・淮南・四川への出兵に従軍する。
晩年は工部事となり、クビライの大都造営に携わった。
厳実(武叔)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 75 | 76 | 72 | 80 | 崩壁 | 動員 | 文化 | 慰撫 | 慈悲 | 太学 | 割拠 |
【ゲンジツ(ブシュク)】
金、南宋、モンゴル帝国の武将。
義侠の人物で、金国内の反乱の際に功績を上げて取り立てられるが、誣告を受けて青崖山に逃れた。
南宋の済南治中となるも、南宋の国力不足を見てムカリの侵攻の際にモンゴルに投じた。
金征伐では濮・東平・益都など山東地方の攻略で功績を上げた。
東平路行軍万戸を授かり、五十余城を統べる。
タイスン(ムカリの弟)の殺戮では河南の数万の民を匿って食料を供給し、
親族を殺害した武将の妻子を怨まずに帰郷を援助するなど、寛大な人物であった。
没すると領内は民の慟哭で溢れたという。
補足:後代には、南宋を裏切っている点で否定的な評価もされている。
董俊(用章)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 85 | 51 | 60 | 76 | 遠矢 | 堅牢 | 召募 | 直情 | 雁行強化 | 覇道 |
【トウシュン(ヨウショウ)】
金、モンゴル帝国の武将。
金末期に募兵に応じ、強弓を引いたことから募兵隊の指揮を委ねられる。
ムカリの侵攻を受けて投降し、金将の武仙を大破した。
武仙が投降するとムカリに対して武仙の動向に注意するよう進言し、
武仙が史天倪を殺害すると、史天沢を支援して武仙の反乱を鎮圧する。
金の汴京(開封)攻囲中に夜戦で襲撃を仕掛けられ、乱戦の中で戦死した。
漢人軍閥の中では席次が低かったが、濫りに民に殺害や掠奪を加えず、
大小百余りの戦いで戦功を上げた忠孝の士として賞賛された。
史天祥
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
72 | 89 | 78 | 74 | 55 | 崩壁 | 調練 | 運搬 | 運搬開発 | 覇道 |
【シテンショウ】
モンゴル帝国の武将。
親族の史秉直(史天沢の父)に従い、モンゴルのムカリに降った。
父の史懐徳と勇士数百名を選抜した黒軍を編成し、懐徳が戦死すると黒軍を統率する。
ムカリの麾下で金征伐や叛乱平定で活躍し、諸城を攻略していく。
真定に至ると、民に危害が出ぬよう武仙を説得し投降させる。
真定に駐留しようとするが、将才を惜しんだムカリに従軍するよう説得され、
以後も黒軍を率いてムカリを補佐し続けた。
西夏征伐の際に負傷して視力を失い北京に帰還するが、
致仕は許されずに軍務を委ねられ続け、モンケの代に没した。
鎮海
生年 | 登場 | 没年 |
1251年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 59 | 83 | 88 | 54 | 築城 | 屯田 | 能吏 | 運搬 | 調達 | 文事武備 | 覇道 |
【チンカイ】
モンゴル帝国の武将・政治家。田鎮海とも。
ケレイト部の出身でチンギスハンに古くから仕えてバルジュナ湖の19人の功臣に数えられる。
モンゴル統一後は宮廷の書記官の筆頭となり1212年にはアルタイ地方に城塞を建築して自らの名前を
取って鎮海城と名付けられ、鉄器の生産などが行われた。
オゴタイの時代にも中書右丞相として文書行政の長となりグユクの時代まで重用されたがモンケの即位後に
グユクの皇后であるオグルガイミシュと処刑された。
塔塔統阿
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
28 | 24 | 73 | 84 | 63 | 徴税 | 文化 | 能吏 | 先従隗始 | 覇道 |
【タタ・トゥンガ】
モンゴル帝国の政治家。
元々はナイマン部に仕えて金印と金銭の管理を任されていた。
チンギスハンのナイマン部征服により捕虜となり、その際にチンギスは金印の存在を知り配下にして金印の管理を任せた。
またウイグル文字にも通じていた事でウイグル文字を諸子らに教える役割を担い、モンゴル式のウイグル文字が帝国内に普及した。
石抹也先
生年 | 登場 | 没年 |
1177年 | 1217年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
86 | 87 | 75 | 55 | 67 | 疾走 | 遠矢 | 動員 | 功名 | 雁行強化 | 覇道 |
【セキマツヤセン】
モンゴル帝国の武将。
金に反感を持つ契丹人の家に生まれ、剛勇を謳われたが金王朝の招聘には応じなかった。
チンギスハンの台頭により配下に加わり、「四駿」のムカリの配下として遼東攻略に活躍し、
その後は北京のダルガチとなった。
河北方面の城を攻略中に砲石に当たり死亡した。
親愛武将:チンギスハン ムカリ
察罕
生年 | 登場 | 没年 |
1255年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
84 | 76 | 78 | 72 | 75 | 疾走 | 諌止 | 慈悲 | 地域巡回 | 覇道 |
【チャガン】
モンゴル帝国の武将。
西夏出身のタングート人で最初の名を益徳といった。
牧童をしている際にチンギスに出会い、その受け答えに感心したチンギスは宮廷に連れて帰り子同然に遇した。
帝国の武将として成長し金や西夏の征服で活躍、西夏攻略の際は降伏した城の民衆を皆殺しにすべきという
諸将らを諌めて民衆の命を救った。オゴタイの時代には金及び南宋の攻略に従事しモンケの時代まで活動した。
オゴタイ時代
窩闊台
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
80 | 73 | 75 | 87 | 91 | 任才 | 疾走 | 長駆 | 仁政 | 酒乱 | 大虎雄略 | 先従隗始 | 王道 |
【オゴタイ】
モンゴル帝国第2代ハーン。チンギス・ハーンの三男。
父の遠征に従って活躍し、兄弟の中では温厚で一族の和を取り持つ事が出来た
為、父より帝国の後継者に指名された。
西はヨーロッパ、東は中国や朝鮮半島に遠征軍を派遣して帝国の領土を拡大し、
数多くの人材を起用して帝国の統治に務めたが、深酒が原因で在位十年余で死去した。
耶律楚材(晋卿)
「耶律楚材?」を参照。
瓦剌哇赤
生年 | 登場 | 没年 |
1255年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
34 | 38 | 84 | 89 | 65 | 徴税 | 振興 | 改修 | 能吏 | 教化 | 鎮静 | 経世済民 | 覇道 |
【ヤラワチ】
モンゴル帝国の政治家。
ホラズム朝の出身でチンギスハンが大西征でホラズム領ウロゲンチを攻略した際に降伏し、
財務に秀でた事で西方でのダルガチを務めて大西征で荒廃した地域の復興に務め、
オゴタイの時代には中国方面での財務も担当した。
オゴタイ死後の摂政ドレゲネの時代に一時失脚したが、後に復帰してモンケの時代まで活動した。
麻速忽
生年 | 登場 | 没年 |
1289年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
35 | 28 | 73 | 81 | 62 | 徴税 | 振興 | 築城 | 改修 | 文化 | 経世済民 | 王道 |
【マスウードベク】
モンゴル帝国の政治家。ヤラワチの子。
父と共にモンゴル帝国に仕えて財務官僚となる。
父が中国方面に転出した後、後任として中央アジア方面の財務や戦乱で荒廃した土地の
復興に務め、大西征で破壊されたブハラを復活させた。
その後も中央アジアで活動し子孫はチャガタイ・ウルスに仕えている。
粘合重山
生年 | 登場 | 没年 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 45 | 76 | 85 | 66 | 一心 | 諌止 | 寡欲 | 能吏 | 慈悲 | 鎮静 | 政令徹底 | 覇道 |
【チュンシャン】
モンゴル帝国の武将・政治家。
金の貴族の出身でモンゴル帝国の侵攻により祖父により人質に出され、そのまま帝国に仕えた。
チンギスの時代には城の攻略中に矢を受けてもそのまま戦闘に参加した事や酒宴続きのチンギス
を諌めた話などが残る。
オゴタイの時代には中書省左丞相として文書行政に携わり、1235年にはクチュの南宋遠征に加わり
降伏した30万の兵を一人も誅殺しなかった。晩年にはヤラワチと入れ替わりでブハラ・サマルカンド
のダルガチとなっている。
楊惟中(彦誠)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
52 | 67 | 86 | 90 | 77 | 能吏 | 眼力 | 運搬 | 法律 | 慰撫 | 鎮静 | 先従隗始 | 王道 |
【ヨウイチュウ(ゲンセイ)】
モンゴル帝国の政治家。西寧の弘州出身。
オゴデイに仕官し、西域三十余国に法治を敷き、戸籍を整備する。
南宋征伐が行われると行中書省事となって南宋から得た人材を燕京に集め、
姚枢らを推挙し、宋代の政治制度や技術をモンゴルに浸透させていく。
グユクの代に耶律楚材が没すると中書令となり、国政を一身に背負った。
楚材の統治方針を継承しつつ、武仙の反乱で発生した残党の平定を行う。
また、河南・四川・陝西で暴政を取り締まって綱紀を引き締めた。
モンケの代にはクビライの麾下で南宋征伐に従い、蔡州で陣没した。
汪世顕(仲明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
88 | 88 | 49 | 53 | 62 |
【オウセイケン(チュウメイ)】
金、モンゴル帝国の武将。祖先はオングート(汪古)族。
初めは金に仕え、陝西の田端の反乱平定や、モンゴルの侵攻を防ぎ功績を上げた。
開封陥落後も鞏昌府でモンゴルに抵抗を続け、金滅亡の翌年にコデンに投降した。
その後はコデンの四川侵攻で先鋒を務め、陽平関では曹友聞の掎角の陣に単騎で突撃し、友聞を討ち取る。
以後も葭萌や開州(重慶)で勝利を重ねるが、長江沿岸に至る度に南宋の孟珙の援軍に阻まれた。
成都を陥落させると論功で甘粛・隴西の諸州を封じられ、
全ての漢人世侯を凌ぐ勢力となるも、間もなく病没した。
グユク時代
貴由
生年 | 登場 | 没年 |
1206年 | 1248年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
78 | 76 | 56 | 63 | 52 | 掃討 | 疾走 | 癇癪 | 酒乱 | 直情 | 突撃 | 投石 | 斉射 | 罵声 | 挑発 | 政令徹底 | 覇道 |
【グユク】
モンゴル帝国第3代君主。オゴタイの子。
1233年に大真国の蒲鮮万奴を討つ功績を挙げ、その後はバトゥを総大将としたヨーロッパ遠征に
参加して功績を挙げたがバトゥと対立し父より帰国を命じられた。
帰国途中でオゴタイが亡くなり生母であるドレゲネと共にクリルタイを強行して即位。
父の時代同様に勢力拡大に努め、摂政として専権を振るったドレゲネの死後は寵臣らを粛清し、
ヤラワチや鎮海らの失脚していた人材を復職させた。
しかし酒色に溺れた事もあり体調を崩しており在位2年で崩御した。
一説には対立していたバトゥの暗殺説もある。
脱列哥那
生年 | 登場 | 没年 |
1246年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
17 | 5 | 73 | 46 | 37 | 言毒 | 高慢 | 強欲 | 縦横術 | 名利 |
【ドレゲネ】
モンゴル帝国第2代ハーン・オゴタイの妃で第3代ハーングユクの生母。
元はメルキト部出身で族長ダイル・ウスンの妃であったという。
オゴタイ死後、実子であるグユクをハーン位に就けるのに奔走し、
監国として帝国の実権を掌握して寵臣のアブドゥッラフマーンを起用してオゴタイ時代の官僚を失脚させる等専横を極めた。
奥都刺合密
生年 | 登場 | 没年 |
1246年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
26 | 17 | 64 | 75 | 18 | 徴税 | 教唆 | 高慢 | 強欲 | 挑発 | 歳出改善 | 名利 |
【アブドゥッラフマーン】
モンゴル帝国の政治家。
ペルシア出身の色目人官僚で財務能力に長けていた為帝国の財政問題を解決しオゴタイに重用された。
オゴタイ死後はオゴタイの妃であるドレゲネに重用され耶律楚材らの官僚を失脚させる等権勢を奮って
いたが専横が過ぎたことによりドレゲネの死後にグユクにより処刑された。
モンケ時代
蒙哥
生年 | 登場 | 没年 |
1209年 | 1259年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
91 | 83 | 90 | 83 | 74 | 勇将 | 疾走 | 法律 | 規律 | 文化 | 活殺自在 | 鯨波 | 斉射 | 牽制 | 足止 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【モンケ】
モンゴル帝国第4代ハーン。トゥルイの長男。
オゴタイの時代にはバトゥやグユクと共にヨーロッパ遠征に参加して活躍し、
オゴタイの死後はバトゥと共にグユクの即位に反対してグユク一派と対立、
そしてグユクの死後にバトゥらの支援を受けてハーンに即位した。
将としての才能に秀でてユークリッド幾何学など数多くの学術にも精通していたが、
敵対したオゴタイ家やチャガタイ家らの一派に対して粛清を行う等、猜疑心が強く
苛烈な一面も持ち、晩年は弟のフビライとの関係も思わしくない中で南宋攻略の際
に急死、結果的に帝国内部における分裂の一因となった。
阿藍答児
生年 | 登場 | 没年 |
1260年(不自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
76 | 67 | 80 | 71 | 46 | 召募 | 規律 | 捕縛 | 政令徹底 | 覇道 |
【アラムダル】
モンゴル帝国の武将。
元々はモンケの側近でビチグチ(書記官)を務めた。
モンケの即位後は重用されモンケがクビライを疑った際に監査官としてクビライ領を監査し、多くの漢人系官僚を捕えて処刑した。
モンケの死後は次のハーンにアリクブカを支持し主力武将として活動しクビライ軍と交戦したが敗北して戦死した。
親愛武将:モンケ
嫌悪武将:クビライ
忙哥撒児
生年 | 登場 | 没年 |
1253年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
83 | 77 | 86 | 72 | 61 | 規律 | 法律 | 察知 | 論客 | 上兵伐謀 | 覇道 |
【モンケセル】
モンゴル帝国の武将。
トゥルイの配下を経てトゥルイの長男モンケの側近となりヨーロッパ遠征にも従軍した。
モンケに重用されてモンケのオルドの管理を担い厳しい規律を持って治め、
その後はモンケの即位に尽力し即位後は敵対するオゴタイ家一派らの粛清に従事した。
親愛武将:モンケ
兀良合台
生年 | 登場 | 没年 |
1200年 | 1271年(自然死) |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
87 | 82 | 75 | 38 | 71 | 疾走 | 森戦 | 長駆 | 沈着 | 泰然 | 彊壮進軍 | 突撃 | 斉射 | 鯨波 | 長蛇強化 | 覇道 |
【ウリヤンカダイ】
モンゴル帝国の武将。「四狗」の一人スブタイの子。
オゴタイの時代にはグユクに従い遼東の蒲鮮万奴の討伐に従事し、父と共にバトゥのヨーロッパ遠征にも参加した。
モンケの時代にはフビライの麾下の将として南宋遠征に従事、雲南方面に進出し大理国を征服、
さらに南下してベトナムにも侵入して陳朝を一時服属させ、さらに南から南宋攻略を図るもモンケの死により撤退した。
以降の帝国内部での後継をめぐる内乱ではフビライを支持した。