みんなの新武将/前漢/前漢後期

Last-modified: 2024-01-23 (火) 18:27:05

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

前漢(武帝期以降~)

景帝を襲いだ武帝は儒教を利用して君主権を強化し、
蓄富を背景に南北に軍事拡大を行ない、殊に匈奴に対する大遠征の成功は歴朝の称賛するところとなった。
また西域諸国との外交も本格化して漢朝の最盛期を現出したが、その後期には外征と
奢侈による財政難が深刻化し、塩鉄会議に象徴される財政改革の必要性を逼られた。
宣帝による中興の後は儒教への傾倒と外戚の王氏による専横を招き、A.D.8年に王莽に簒奪された。



劉徹(通)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7052909895梟雄任才教化徴税眼力先従隗始覇道

※治世後期Ver.

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5042808345徴税高慢消沈短慮浪費侵略荒廃覇道

【リュウテツ(ツウ)】
前漢の第7皇帝。武帝。景帝の子。
即位当初は外戚に実権を握られたが、皇太后没後から親政を開始。
対外政策では積極策に転じ、衛青や霍去病?を登用して、匈奴を打倒。
東に朝鮮四郡を置き、西に張騫を派遣し西域との交流を開いた。
内政では桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、
塩鉄専売や、均輸法・平準法を公布して物価統制を試みた。
だが、相次ぐ外征で蓄積の欠乏と財政破綻が進み、新税は農民を困窮させた。
更には治世後期に譫妄に陥り、自らの疑心暗鬼で十数万人が粛清された(巫蠱の獄)。
末子の弗陵を後継者に定め、霍光・金日磾・上官桀の三人に後事を託し崩じた。

李広

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9298705194飛将一騎求心頑健直情神弓奮戦斉射大喝罵声三軍強化我道

【リコウ】
前漢の将。隴西郡成紀県の人。
匈奴征伐に功があり、文帝の側に騎士として仕え、景帝の代には、呉楚七国の乱の鎮圧に活躍。
その後も匈奴攻略で武名を挙げ、飛将と恐れられた。
武帝の代には衛尉に昇進したが、匈奴に敗れて捕虜となり、
脱出して長安に戻るも、罪を問われ平民に落とされた。
その後は不振であり、高齢ゆえ匈奴討伐から外されるが、猛抗議して参戦を許可された。
だが、衛青の別働隊を任されたが、道に迷って遅参してしまい、
この事を詰問された際、天を仰ぎ自刎した。
呂布?が飛将軍と呼ばれるのは李広に由来する。

衛青(仲卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9892902575神機疾走長駆泰然寡欲軍神突撃急襲斉射混乱三軍強化覇道

【エイセイ(チュウケイ)】
前漢の将。河東郡平陽県の人。長平侯。
幼少時は北方で羊の放牧に従事した奴隷であった。
しかし、姉が武帝の寵姫となり、自身も匈奴の文物に詳しく、騎射の名手であったことから登用される。
匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、七度勝利し首級を数万挙げ、領土獲得など多大な功績を挙げる。
その後は大司馬、大将軍にまで出世するが、政治には無関心を貫いた。
甥の霍去病?が台頭すると、人気・軍功ともに譲ることになるが、
霍去病が早逝したため、軍の第一人者で有り続けた。

張騫(子文)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6479737873長駆不屈山戦論客特使

【チョウケン(シブン)】
前漢の外交官。
力が強く、寛大で信用され、蛮夷を愛する為人だった。
匈奴に対抗するための同盟の使者として月氏の国へ派遣され、
途上で匈奴に十数年間抑留されるも、脱出して大宛に至り、康居を経て大月氏国へ辿り着いた。
張騫がもたらした西域の情報により、武帝は外征事業に弾みをつけた。
衛青の匈奴討伐に従軍し、知識を生かして軍の案内役として活躍したが、
後に李広の匈奴討伐に合流できず庶人に落とされる。
武帝から西域について諮問されると烏孫との同盟を進言し、使者となって烏孫へ赴き、
西域諸国と漢の修好に尽力した。

劉細君

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1012643475

【リュウサイクン】
前漢の皇族。江都公主。烏孫公主。
烏孫が匈奴と対立し漢の支援を求めた際に、
千頭の烏孫馬と引き換えに烏孫王昆莫のもとに嫁ぎ、右夫人となった。
昆莫はすでに老年で言語も通じなかったことから、望郷の詩『悲愁歌』を詠み、
伝え聞いた武帝は憐れんで一年ごとに帷帳と錦繍を贈っている。
レビレート婚の風習により昆莫の孫の岑陬に嫁ぐことになると、
公主はこれを拒んで武帝に書状を出すが、烏孫の風習に従うように命じられ、
岑陬との間に一女を設けるも、間もなく没した。

郭解

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8479542389

【カクカイ】
前漢の侠客。祖父は人相見で有名な許負。司馬遷の「遊侠列伝」に登場する。
若い頃から無頼の道を行き、悪事を重ねていたが、壮年になってから足を洗い人助けを旨とする大侠となった。
遊侠に関わる数多くの事件を、相手の義を重んじなるべく血を流さずに解決したことから多くの人から慕われた。
多くの遊侠の頭目や若者が食客にしてほしいと押しかけ、郭解の知らないところで郭解の敵を始末することもあった。
しかし郭解の兄の子が役人を殺してしまったことで連座され、逮捕・投獄される。
郭解の食客が取調に立ち会ってた儒者を殺してしまい、最期はその罪で公孫弘の命により一族皆殺しにされた。
司馬遷は郭解を最後の侠客と見なしており、郭解以後は特記すべき侠客は出現していないと慨嘆した。

李広利

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8682533341

【リコウリ】
前漢の武将。貳師将軍。
大宛馬を欲した武帝から大宛征伐の命を受けるが、兵糧不足に陥って軍を還し、武帝の怒りを買う。
精兵と軍備を与えられて再出征すると、勇将の煎靡を捕縛し、開城させて三千頭の馬を得た。
対匈奴戦では右賢王を撃破するも匈奴に包囲され、援軍の李陵が敗れて投降している。
朔方からの出撃では、且鞮侯単于と接敵して十数日間連戦して帰還する。
五原出兵では連勝して匈奴を潰走させたが、
巫蠱の獄による妻子処刑の報せを聞き、夜襲を受けて大敗し投降する。
匈奴では尊重されるも、待遇を恨んだ衛律の讒言で殺された。

司馬遷(子長)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5432758688詩想諌止強運文化史官

【シバセン(シチョウ)】
前漢の史家。茂陵の人。大史公。
父の司馬談は左馮翊夏陽の人で茂陵に移住し、太史令まで進んだ。
成人後は各地の名所旧蹟を巡って伝説・碑史を収集し、
父の死後、太史令を継ぎ太初暦を完成させ、紀伝体の史書である『史記』を起稿した。
しかし、李陵を弁護したことで武帝の逆鱗に触れて宮刑を受ける。
数年後に才能を惜しまれた武帝の恩赦により出獄して中書令となり、宮刑の屈辱に耐えつつも『史記』を完成させた。
「天道是か非か」の精神に裏打たれたその記述は、無名の義人を後世に伝えるもので、
それは自身と武帝との関係を示唆するものでもあった。

李陵(少卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9594813085神威一心不屈泰然胆力気炎万丈奮戦斉射激励鉄壁魚鱗強化我道

【リリョウ(ショウケイ)】
前漢の将。飛将李広の孫。
李陵は武帝の命により李広利の救援のため出陣したが、匈奴の本隊と遭遇する。
李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に善戦したが、力尽きやむなく降伏した。
降伏の報告を受けた武帝は激怒し、知人の司馬遷だけが善戦と無実を訴えたが、宮刑に処された。
漢の地に残った一族は誤解で族滅されたため、匈奴に高く評価された李陵は帰順し、右校王となった。
なお、李陵とは対照的に漢に忠節を貫いた蘇武を陰から助けていたという。

蘇武(子卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8167837689

【ソブ(シケイ)】
前漢の将。京兆尹杜陵の人。
中郎将として匈奴への使者に任じられた際、漢の降将虞常の逃亡事件に巻き込まれ、
この時に自決を図るも一命を取り留め、バイカル湖畔に抑留される。
ここで辛酸を嘗めることとなるが、単于の弟や降将李陵の援助もあり、
20年近い抑留の後、ついに帰国する。
その後、上官桀や桑弘羊の粛清劇に連座するが、霍光の弁護で免官に留まる。
晩年、宣帝擁立に関与し、関内侯の位を賜った後、間もなく没した。
詩想に秀で、宋の厳羽は「五言詩は李陵・蘇武に起こる」と評した。

※麒麟閣十一功臣の一人。

桑弘羊

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
158879668徴税能吏工面

【ソウコウヨウ】
前漢の政治家。洛陽?の商家出身。
算術の才で武帝に抜擢され、財務官僚として東郭咸陽・孔僅らと経済改革に着手し、
塩鉄専売・均輸法・平準法の施行を担当した。
霍光・上官桀らと武帝の遺詔を受け、御史大夫として政務の中心となるも、霍光と対立。
桑弘羊ら外朝勢力と霍光ら内朝勢力の政争の激化の結果、
塩鉄会議の翌年、上官傑・燕王らとの簒奪計画が露見し誅殺された。
専売制、均輸法・平準法は財政面で高い評価を受けた一方で庶民の負担は確実に増大し、
恣意的運用の弊害もあったが、処刑後も当政策が継続された。

霍光(子孟)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6139929890
6139929890王佐眼力寡欲看破慎重王佐の才政令徹底王道

【カクコウ(シモウ)】
前漢の政治家。霍去病?の異母弟。
霍去病の推挙で武帝の側近となり、武帝の死に際して大司馬大将軍に任ぜられ、
金日磾・上官桀と後事を託された。
だが、霍光と上官桀は対立を始め、霍光謀殺と昭帝廃位の謀略が企てられたが事は露見し、
逆に上官桀らは誅殺された。
昭帝没後、後嗣が無かったため、武帝の孫・昌邑王を擁立したが、
新帝は淫乱の所業が惨いため僅か27日で廃位し、改めて宣帝を擁立した。
霍光は娘を宣帝の皇后に据えて外戚となり、政権を一任される事二十年にして病没。
霍光自身は謙虚だったが一族は高慢な振る舞いを嫌われ、後に族滅された。

※麒麟閣十一功臣の筆頭。

金日磾(翁叔)

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8380849091

【キンジツテイ(オウシュク)】
前漢の政治家。
匈奴の休屠王の太子であるが、霍去病?に敗れ、漢に降伏。
官奴となるが、勇壮な容姿と聡明さを武帝に寵愛され、祭器の金人に因み、金姓を賜る。
江充・戻太子劉拠の事件では、江充の親友の馬何羅らの武帝暗殺計画をいち早く察知し、
馬何羅を格闘の末に捕らえた。
武帝の崩御時、大司馬大将軍の霍光・左将軍の上官桀らと昭帝を補佐するよう後事を託される。
霍光は当初地位を彼に譲ろうとしたが、出自故辞退し、霍光の補佐役となった。
車騎将軍に上るが、翌年死去。
出自故に慎み深く、生涯慎重な進退を続けた。
金旋?の祖先にあたる。

上官桀(少叔)

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8472788280

【ジョウカンケツ(ショウシュク)】
前漢の将。隴西郡上邽の人。
武帝にその忠義を評価され、寵愛を受け侍中となる。
武帝の臨終後は、太僕と左将軍を兼ね、霍光・金日磾らと遺詔を受け、幼い昭帝を補佐する。
匈奴防衛のため北辺を巡察し、馬通の反乱を鎮圧した。
息子の上官安は霍光の娘と姻戚で、二人の娘を後宮に入れ上官皇后としたが、
霍光はこれに反対し、更に上官安の乱行や情実人事の横行の結果、霍光とは対立し始める。
燕王や桑弘羊と結んで霍光排除を狙うが、霍光の反撃で一網打尽になり、
霍光の孫でもある上官皇后以外は処刑された。

※上官の二字姓

張安世(子孺)

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6058808679

【チョウアンセイ(シジュ)】
前漢の政治家。麒麟閣十一功臣の一人。
武帝が行幸の際に書物を亡くすと、その書物の内容を誤りなく覚えていたため抜擢される。
昭帝の代には霍光の厚い信任を受け、上官桀が誅された後に右将軍、車騎将軍を歴任し霍光を補佐する。
昭帝の後に即位した昌邑王の淫乱な行跡を受け、霍光と謀って昌邑王を廃立し宣帝を擁立。
魏相から霍光死後の要職を推薦され一旦は辞退するも、
宣帝に説得されて大司馬、尚書事、衛将軍に任じられ、軍権を委ねられた。
職務への精勤や忠義を度々称賛されるも、自らは業績を秘匿して権勢を遠ざけていた。

韓増

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7775707372

【カンゾウ】
前漢の武将。麒麟閣十一功臣の一人。韓王信の玄孫。
兄の韓興が巫蠱の獄で誅殺されると、助命され家門の復興を許される。
昭帝の代に前将軍となり、霍光の宣帝擁立に協力する。
匈奴征伐を命じられた五将軍の一人として三万騎を率いて雲中を出、百余りの首級を挙げて帰還する。
張安世の後任として大司馬、車騎将軍、尚書事となる。
武帝から宣帝までの三代に忠臣として仕えて朝廷で重きをなし、
寛大かつ温和な為人で、謙遜な態度で人に接し、晩年まで恩寵を保った。

趙充国(翁孫)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9285887284洞察矍鑠屯田監守柱石天地通察激励鉄壁挑発投石

【チョウジュウコク(オウソン)】
前漢の将。武帝から宣帝の三代に仕えた。
若くして騎士となり、武勇と智謀を兼備し、兵法を学び異民族の事情に通暁していた。
李広利の仮司馬として匈奴攻めに従軍し、匈奴の包囲網から李広利を庇い勇戦、
全身に二十余の創を受けて武帝を感嘆させたという。
後、大将軍霍光と共に宣帝擁立に関り、辺境に駐屯して匈奴を退けた。
羌族の反乱では屯田を敷いて持久策を採用し、内訌を誘って大勝を得る。
老齢で引退すると、朝廷は彼に四頭立ての馬車を賜り、忠義と功績に報いた。
引退後も異民族問題では、常に謀に参与した。

※麒麟閣十一功臣の一人。
情報収集のため「百聞は一見に如かず」の言葉を残しているので防計系(看破、明鏡など)も候補。
他にも若い時の武勇伝から血路、匈奴への懐柔策から心攻など候補多数。

魏相(弱翁)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5245859278

【ギショウ(ジャクオウ)】
前漢の政治家。麒麟閣十一功臣の一人。
河南太守として奸邪を取り締まって豪族を畏服させる統治を敷くが、
恨み言が霍光に上奏されて怒りを買い、獄に下されるも河南の官吏と民が陳情して赦された。
丙吉から慎んで自重するよう助言され、威厳を抑えて職務に当たる。
宣帝の代に丞相となり、謀反を計画した霍氏を誅し、群臣を統領し、職務に精励した。
宣帝と趙充国が匈奴への出兵を計画すると、軍を出すより間者を用いて帰順を促すよう諫言する。
故事や賢臣の言を引用して租賦を減らし災害に備えるよう奏上し、民のための政治を実行した。

丙吉(少卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5552788476仁政

【ヘイキツ(ショウケイ)】
前漢の政治家。麒麟閣十一功臣の一人。
巫蠱の獄の際に、劉拠の孫で連座するはずの劉病已を獄中に匿って養育し、
武帝が獄中の人間を全て殺そうとした際にも命令を拒んで劉病已を救った。
昌邑王劉賀が廃されると霍光に劉病已を推薦し、宣帝即位の功労者となる。
魏相の後任の丞相となり、寛大で礼譲を好んだ施政を行う。
人事面では過失よりも長所や勤勉さに目を向け、
罪を犯した官吏を休養させてそれ以上追求しない「公府不案吏」の故事の元となった。
獄吏の出身ながら、後に『詩経』『儀礼』を学び、大義に通じていた。

杜延年(幼公)

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7056838978

【トエンネン(ヨウコウ)】
前漢の政治家。麒麟閣十一功臣の一人。
益州蛮の反乱が起きると南陽?兵を率いて平定する。
燕倉から漏れた上官桀と燕王の反乱計画を報告し、霍光に重用された。
刑罰に厳しい霍光に対して寛恕を進言し、紛糾する朝廷の和を取り持った。
また、武帝の豪奢な外征の後であるため倹約寬和な政治を上奏し、酒・塩・鉄の専売を止める議論を提出した。
昌邑王の廃立時に息子を通して親交のあった劉病已を推薦し、宣帝擁立に貢献する。
霍光死後に丞相の魏相に排斥されて免官となるが、地方官としての評判を得て、御史大夫として中央に戻った。

補足:杜預?の先祖。

劉徳(路叔)

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5248828580

【リュウトク(ロシュク)】
前漢の政治家。麒麟閣十一功臣の一人。
黄老を学んで智謀を有し、武帝から「千里駒」と称賛された。
上官桀、蓋公主らの謀反の際には皇族を管轄する宗正として事件を処理した。
妻を亡くしていたため霍光から後妻を紹介されたが、
『老子』の知足の教えに従い、霍氏の権勢が続かないことも見抜いた上で断った。
同時期に、自裁した蓋公主の扱いについて讒訴されたこともあり、霍光の恨みを買い免官される。
程なくして復職し、宣帝が即位すると功績が認められ侯に封じられた。
温厚な性格で施しを行い、京兆尹として多くの冤罪から民を救った。

補足:劉邦?の弟・劉交の曾孫で、封爵は陽城侯。景帝の子で武帝の兄の劉徳(封爵は河間王)とは別人。

梁丘賀(長翁)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2319816266

【リョウキュウガ(チョウオウ)】
前漢の儒学者、官僚。麒麟閣十一功臣の一人。
心計を得意とし武騎常侍となる。
京房に師事して『易経』を学び、さらに田王孫に学んだ。
宣帝の代に京房の門人として召し出され都司空令となるも、罪を得て免官される。
黄門で侍中を教えていたことが目に止まって郎に任じられる。
宣帝が昭帝廟へ行った際に不吉な兵謀があることを筮で占うと、
代郡太守の任宣が暗殺を計画して息子を廟に潜ませていたことが発覚し、この功績で太中大夫となった。
給事中、少府を歴任し、常に細心の注意を払う性格で宣帝からの信用が厚かった。

補足:姓は梁丘の二字。

蕭望之(長倩)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2932867968

【ショウボウシ(チョウセン)】
前漢の政治家、儒学者。麒麟閣十一功臣の一人。
学問を好んで『斉詩』を修め、白奇や夏侯勝に『論語』と『礼服』を学ぶ。
丙吉から霍光に推薦されるも任用されず、霍光死後に宣帝に招聘され、
専横する霍氏を除いて賢材を用いるよう助言し重用される。
大鴻臚、御史大夫などを歴任し、烏孫や匈奴への外交政策で献策を行うが、
常平倉の設置に反対し、重篤だった丙吉を詰問したため弾劾される。
太子太傅として元帝を教え、元帝が即位すると重用されたが、
中書から宦官を排除しようとしたため恨みを買い、誣告され自殺した。

黄覇(次公)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5876759083

【コウハ(ジコウ)】
前漢の政治家。循吏として名高い。
武帝の末期に官位を金銭で買い、ゆえに当初は閑職に回されるが、清廉な仕事を称賛される。
河南太守に昇任し、明察かつ鋭敏な為人で、人心を得て民衆から敬愛された。
宣帝の代に武帝の廟の議論に関係して夏侯勝に連座し、獄中で夏侯勝から『尚書』を教受される。
潁川太守となると良吏を選別し、貧窮者を養い、農業や畜産を推奨し、治安も改善させ、「神明」と称された。
評判を聞いた宣帝により中央に召喚され、丞相の地位にまで昇る。
民を治める能力については漢が興って以来の筆頭と評された。

補足:武力は、若い頃は豪傑で、游徼(賊を捕える下級官吏)の職にあったことを考慮。

常恵

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8583696564

【ジョウケイ】
前漢の武将。
武帝の代に蘇武の匈奴への使者に随行し、十数年匈奴に勾留される。
和平のために派遣された漢の使者に面会し、蘇武とともに解放された。
烏孫公主から匈奴が烏孫に侵攻したとの報せを受けて校尉として烏孫に派遣され、
烏孫西域の兵を率いて烏孫軍五万騎とともに匈奴を撃破し、三万九千の首級と七十万の家畜を得、
帰路で印綬を盗まれる失態があったものの、戦功ゆえに長羅侯に封じられた。
昭帝の代に頼丹を殺害した亀茲の討伐を独断で行い、
西域諸国から四万七千の兵を発して三方から亀茲を攻め、貴人の姑翼を斬って帰還した。

鄭吉

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9085757376

【テイキツ】
前漢の武将。
西域への出兵に卒伍として従い、力強い為人で、外国の事柄に通じていた。
渠犁で屯田を行い、徴発した諸国の兵を率いて車師国の王都・交河城を攻め破る。
翌年に車師王が逃れた石城を攻め、匈奴の救援を得られなかった車師は漢に降伏した。
匈奴の内紛で日逐王が漢に降ると、亀茲国の兵を率いて迎え、長安?まで送り届けた。
これらの功績で西域を震撼させ、初代の西域都護となり、
西域に幕府を立てて諸国を鎮撫し、漢の西域支配を確立させた。
楚主解憂と魏和意らが赤谷城に包囲されると、兵を発して救出している。

劉解憂

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4022706568

【リュウカイユウ】
前漢の皇族。楚主解憂。烏孫公主。
江都公主が亡くなったため烏孫王の岑陬に嫁ぎ、
岑陬が亡くなると肥王の妻となり三男二女をもうける。
烏孫が匈奴に攻撃されると書状を送って漢に救援を求めた。
肥王の死後、後を継いだ岑陬の息子の狂王との間に一男をもうけるが狂王とは不仲で、
使者として訪れた魏和意らと暗殺を企てるも失敗し、赤谷城に包囲されたが鄭吉の援軍に救出された。
この件を取り調べた張翁に頭を捕まれて罵られたため、宣帝に訴えて張翁を処刑させている。
息子たちが病死すると帰国を請い、長安?で亡くなった。

馮奉世(子明)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9182745380

【フウホウセイ(シメイ)】
前漢の武将。
三十歳を過ぎて『春秋』や兵法を学び、
韓増の上奏で軍司空令となり、匈奴出兵に従軍する。
韓増の推薦を受けて大宛への使者として派遣されると、
その途上で莎車が漢に反乱を起こしたため、
諸国の兵を集めて莎車の城を攻め落とし、莎車王を自殺に追い込んだ。
大宛に着くと莎車討伐の件で非常に敬われ、大宛の名馬「象龍」を得て帰還する。
元帝の代に隴西で羌が反すると、消極的な朝廷の中で討伐を主張し、
羌を大破して八千の首級と数万の馬・牛・羊を鹵獲して帰還した。
対外折衝の宿将として、功名は趙充国に次いだ。

陳湯(子公)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9288684942神機威風論客驍将強欲倒山傾海突撃大喝混乱罵声鋒矢強化我道

【チントウ(シコウ)】
前漢の武将。
長安?で張勃と交友を持ち秀才に推挙されるが、父の喪に服さず獄に下される。
その後、郎となって外国へ遣わされ、西域副校尉となった。
勇気があり策謀が多く、漢の使者を斬った匈奴の郅支単于を討つために独断で諸国の兵を集め、
西域都護の甘延寿を脅して出兵し、郅支単于を支援した康居を破り、郅支単于を殺害した。
後に独断専行や鹵獲した財を不正に得たことが問題視され、成帝の代に罷免される。
段会宗が烏孫に包囲された際の対応で王鳳に重用されるが、
その後も素行が悪く不敬を弾劾され、敦煌や安定?に左遷された。

王嬙(昭君)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
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【オウショウ(ショウクン)】
前漢の元帝の寵姫。王昭君。匈奴の呼韓邪単于、復株累若鞮単于の時代の閼氏(皇后)。
古代中国四大美女の一人。
呼韓邪単于が、漢の女性を閼氏にしたいと元帝に依頼した際(漢王朝の側からという説もある)、
王昭君が選ばれ、一男を儲けた。
呼韓邪単于の没後、当時の匈奴の習慣として、義理の息子の復株累若鞮単于と再婚し、二女を儲けた。
これが儒教道徳の禁忌に当たるため、悲劇の題材となった。
伝承では、絵師に賄賂を贈らなかったため、一番醜く描かれていた王昭君が選ばれてしまい、
実像を知った元帝は後悔したとされる。