注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
古代ローマ(帝政前期)
- 歴代皇帝顔グラ参考ページ。
ttps://www.boredpanda.com/realistic-recreations-ancient-sculptures-of-roman-emperors-haroun-binous/?all_submissions=true&media_id=2395793&utm_source=labaq&utm_medium=referral&utm_campaign=organic
アウグストゥス
ローマ帝国の初代皇帝。カエサルの姪の子。ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスとも。「屋大维」。
弱冠18歳でカエサルの後継者に指名され、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名乗りカエサル配下から支持を集めた。
アントニウス、ポンペイウス、レピドゥスなどの政敵を次々と排除し、元老院にはアメと鞭を用いて、ローマの覇権を握ることに成功。
アントニウスを破ったアクティウムの海戦後は、ついにインペラトルの称号を得、ローマ帝国の初代皇帝となってパクス・ロマーナを実現した。
生来虚弱であり軍事に疎く、軍事全般は腹心かつ盟友のアグリッパに一任していたと言われている。また、虚弱と言われるが無理をしなかったためか75歳まで生きている。
アグリッパ
古代ローマの軍人。アウグストゥスの学友のち腹心。「マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ」「阿格里帕」
若年の頃からカエサルに仕え、カエサルの計らいでアウグストゥスと昵懇になる。
カエサルの暗殺後はアウグストゥスの腹心の1人として活躍。特に軍事に疎いアウグストゥスを支え、
実質司令官として多くの戦争で指揮を取り、勝利を導いてアウグストゥスの躍進に貢献した。
ローマの帝政樹立前後から政局にも参加。アウグストゥスは壮健な彼とその一族に期待し、
後継者にと考えていたが、彼に先んじて逝去。一族も早逝が多く、その後の帝政後継に大きな影響を残した。
ティベリウス
ローマ皇帝ユリウス・クラウディウス朝二代目。ティベリウス・ユリウス・カエサル。アウグストゥスが再婚したリウィア・アウグスタの連子であり、その養子となる。
実弟大ドルススとともに数多くの遠征で勝利を重ね、アグリッパに代わってアウグストゥス帝の軍事・外交を支える柱石となった。帝位継承後も優れた統治を行い元首制の確立に大きく貢献。
生真面目で謹厳な性格で軍からの支持は絶大であったが、市民から親しみをもたれることはなかったと言われる。
治世の後半は身内との諍いや元老院の堕落に失望しカプリ島に隠棲、側近セイヤヌスの専横を許すなどの汚点も残した。
ゲルマニクス・ユリウス・カエサル
日耳曼尼庫斯。ユリウス・クラウディウス一門に連なるローマ帝政初期の将軍。
名将大ドルススを父に持ち、アウグストゥス帝時代から将来の後継者として養育される。本人もその期待に良く応え、
ティベリウス帝の時代に将軍としてゲルマニア戦線を担当。ゲルマンの英雄アルミニウスとの激戦の末その侵攻を押しとどめ
トイトブルクの大敗の雪辱を果たした。市民と軍からの絶大な人気を誇ったが、若くして病に斃れる。
死後もその声望は衰えず、その血筋から子のカリグラ、孫のネロという二人の皇帝を輩出した。
ポンティウス・ピラトゥス
ローマ帝国初期の軍人・政治家。第5代ユダエア属州総督(知事とも)。「本丟・彼拉多」。『新約聖書』では「ポンテオ・ピラト」表記で訳されている。
騎士階級の出身で、26 - 36年にユダエア総督を務めた。親衛隊長官・セイヤヌスは反ユダヤ色の強い人物で、
ピラトゥスのユダエア統治もその影響を受けた。従来の総督は、偶像崇拝を否定するユダヤ教徒に配慮して、
皇帝の胸像付きの軍旗をエルサレムに持ち込もうとしなかった。ピラトゥスは、深夜密かに軍旗を持ち込んで掲揚させたが、
ユダヤ教徒の激しい抵抗を前に、折れて撤去させた。一方で、ユダヤ教徒の大祭司などから告発されたイエスを、その要求を飲む形で磔刑にしている。
『新約聖書』では、ピラトゥスはイエスを無罪と公言したが、ユダヤ教徒達の反発を恐れて磔刑を認めたとしている。
35年、「モーセの聖器がゲリジム山にある」という流言を信じてゲリジム山に集結したサマリア人を、反乱と勘違いして攻撃し、首謀者らを死刑にした。
サマリア人はピラトゥスをシリア総督(ピラトゥスの上官)・ウィテリウスに告発し、ウィテリウスは告発を認めてピラトゥスを解任し、
ローマに帰って皇帝に釈明するよう命じた。その後の消息は不明。
キリスト教の歴史家・エウセビオスは、ピラトゥスはカリグラによって流罪になり自害したとしている。
ユダヤ人歴史家のフィロンは、アグリッパ1世(ヘロデの孫)がカリグラに送った書簡を引き、ピラトゥスを
「頑固で無慈悲であり、収賄・冒瀆・虐待限りなく、正当な裁判を行わなかった」と批判している。
一方、ユダエア総督の中では長期の在任であり、相応に有能だったという評価もある。
カリグラ
卡利古拉。ガイウス帝とも。ティベリウス帝期に吹き荒れた粛清の嵐ののち、残された数少ない親族の一人として帝位後継者となる。
名将ゲルマニクスの子としての期待を背負って帝位に就くも、放漫財政と自身の奢侈によって国庫を危機に陥れ、財産没収のための処刑を
繰り返す恐怖政治を展開したと言われる。皇帝権威の強化のための自己神格化を行ったことも相俟って、元老院と対立。
数々の暴君伝説を残し、近衛兵・元老院議員らの関わった陰謀によって28歳の若さで暗殺された。
クラウディウス
ローマ皇帝ユリウス・クラウディウス朝4代。ティベリウス・クラウディウス・ネロ。皇帝や将軍を輩出した一門の出ながら、
生来虚弱であったために身内の恥と忌まれ、壮年に至るまで公務に就くことはなかった。甥カリグラ帝の暗殺直後、共和制復活
阻止のために近衛兵団によって擁立。誰にも期待されなかった政治手腕を発揮し、財政再建・ブリタンニア遠征などの実績を挙げ、
カリグラによって混乱した国政に平穏をもたらした。14年の治世の後、キノコ中毒によって死去。一説には実子ネロへの帝位継承
を目論んだ後妻小アグリッピーナの陰謀という。
ルキウス・アンナエウス・セネカ
ローマ帝国初期の政治家・哲学者。
ヒスパニアの騎士階級の出身で若年時にはローマやエジプトにて哲学等の学問を学んだ。
ティベリウス帝時代に元老院議員となり弁論術や哲学で注目されるようになり、
クラウディウス帝の皇后となったアグリッピナの信任を得て、前夫の子であるネロの家庭教師を務めた。
ネロの即位後は側近として政治を補佐したが、次第にネロの迷走を止められなくなり62年に引退、
以後は文筆活動に従事したが、ネロにより反乱を疑われて自殺に追い込まれた。
ガイウス・ペトロニウス
ローマ帝国の初期の政治家・文化人。
皇帝ネロの側近として元老院議員を務め、属州総督や西暦62年の執政官も務めた。
一方で文芸に長じネロの遊び仲間として放蕩快楽に身を投じた事でも知られ、「典雅の審判者」と云われた。
しかし讒言でネロ暗殺計画に加担した疑いを持たれて自殺に追い込まれた。
ネロ
尼禄。ローマ帝国ユリウス=クラウディウス朝最後の皇帝。
大伯父クラウディウス帝の跡を襲い若くして即位。セネカらの補佐を受けて無難に帝国を統治するが、*1
家庭の醜聞や母小アグリッピーナとの対立などの宮廷陰謀はその治世に暗い影を落とした。
また歌手や詩人としてオリンピア祭に出場するなどの奔放な振る舞いはしばしば市民の喝采を浴びたが、元老院勢力との深刻な対立に発展。
属州の反乱勢力を支持した元老院により国家の敵の宣告を受け、逃亡中に自害した。後世その名は暴君の代名詞として伝わることになる。
ブーディカ
ブリタニア(現在のイギリス)東端に位置するノーフォーク地域を治めていたケルト言語圏域のケルト人イケニ族の女王。
ブーディカの夫プラスタグス王の在位中はブリタニアへと進出したローマと同盟関係を結んでいたが、王が死ぬとローマは領域を蚕食し、土地と人々を事実上ローマの支配下へと組み込んだ。
反乱の機運の高まる中、紀元60年から61年にかけてローマのブリタニア総督がウェールズ北部へと軍事行動を起こした隙を突き、ブーディカはイケニ族・トリノヴァンテス族らを率い蜂起する。
まず、トリノヴァンテスの故地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)を奪回した反乱軍は、カムロドゥヌム奪還の為攻撃を仕掛けてきたローマの正規軍団すら打ち負かした。
一方、反乱を受けて周辺の軍団を糾合していた総督スエトニウスは軍勢を増していたブーディカ軍とワトリング街道の戦いでようやく相対した。
数的には圧倒的にブーディカ軍有利であったが、この会戦は兵の練度に優れスエトニウスの策もはまったローマ軍の一方的勝利によって幕を閉じた。ブーディカはこの敗戦に毒を仰いだとも病死したとも伝わっている。
コルブロ
ユリウス・クラウディウス朝期の名将。下部ゲルマニア総督として功績を挙げたのち、ネロ帝により東方属州を任される。
アルメニアの継承問題に端を発する対パルティア戦役を指揮。指揮系統の不統一と無能な味方に足を引っ張られながらも
敵地で勝利を積み重ね、ついに永年の宿敵であったパルティアを屈服させた。
しかしその絶大な功績と人気ゆえにネロ帝の猜疑を買い、賜死。
ウェスパシアヌス
韦斯巴芗。ローマ帝国フラウィウス朝初代。
ユリウス=クラウディウス朝期に政治・軍事のキャリアを積む。ネロ帝のコンサート中に居眠りをするという失態によって
一時期不遇をかこつも、ユダヤ戦争では指揮官として戦役を勝利に導き、表舞台に返り咲いた。
ネロ帝死後に皇帝が乱立する混乱期を勝ち抜き、元老院の支持を得て皇帝に即位。財政の健全化に注力し帝国に再び安定をもたらした。
大競技場コロッセオの建設を開始した皇帝としても著名。
個人としては、ジョーク好きのユーモラスな人柄を伝えるエピソードが数多く残されている。
ティトゥス
提圖斯。フラウィウス朝のローマ皇帝。即位前の父ウェスパシアヌスを補佐して早くから軍務を務める。ローマに進軍したウェスパシアヌスから
引き継いだユダヤ戦線では、イェルサレムを占領し乱を早期終結させる大功を立てた。
若い頃から非常な人格者として知られ、ローマ皇帝としても寛容で慈悲深い統治を行い、歴代皇帝中でも屈指の仁君と評される。
わずか二年の治世の後、惜しまれつつ病没。有名なウェスビウス火山の大噴火は彼の治世中の出来事である。
ドミティアヌス
图密善。フラウィウス朝のローマ皇帝。早逝した兄ティトゥスを継いで即位。兄に似た優雅な美男子にして弓の名手と伝わる。
父や兄に軍事の実績では劣ったが、属州出身の人材の積極的な登用と、徹底した綱紀粛正を行なった政治的手腕は高く評価される。
しかしその政治姿勢は恐怖政治と表裏であり、圧迫された元老院の保守層からの憎悪を買った。
粛清を恐れた宮廷内の反対派勢力によって暗殺。フラウィウス朝は断絶した。
ネルウァ
涅尔瓦。所謂「五賢帝」の一人。ネロの宮廷で信任を得て以来、目まぐるしく変転する政局を泳ぎ渡り、歴代皇帝のもと二度にわたり執政官に起用される。
反ドミティアヌス帝派によってその暗殺後に帝位に推戴。すでに老齢であったが、先帝期の恐怖政治を廃し、宥和的な政治運営に努めた。
しかし元老院派閥と先帝を支持する軍部との間で指導力を発揮することができず、早々に近衛軍団に屈服し失脚。
軍の支持を受けた上部ゲルマニア総督のトラヤヌスへの帝権の譲渡を余儀なくされた。
マルクス・ウルピウス・ネルウァ・トラヤヌス・アウグストゥス
※別案
古代ローマ帝国の皇帝。「五賢帝」の一人。属州初の皇帝でもある。単にトラヤヌス帝といえば彼を指す。「图拉真」
父がシリア総督であった際、その幕僚として従軍。反乱鎮圧などで功績をあげ、
ドミディアヌス帝からゲルマニアの司令官、総督に任命される。その後、従甥であった
ハドリアヌスの協力もあり帝国内で地位を高め、98年皇帝に即位する。穏当かつ硬軟交えた
政治体制を築いて福祉政策を進める一方、ダキア戦争、ナバテア併合、パルティア戦争で
華々しい戦果をあげ、ローマ帝国最盛期を築く。皇帝でありながら常に最前線で戦い続け、
数々の業績を成したことから「Optimus Princeps(最良の元首)」の称号を持つ。
※ 117年に死没し、後任にはハドリアヌスがついた。トラヤヌス千慮の一失はハドリアヌスによって対処され、ローマ帝国全盛期の礎となった。
プブリウス・コルネリウス・タキトゥス
古代ローマ帝国の政治家、歴史家。ガリア・ナルボネンシス属州、あるいはガリア・キサルピナ属州の人。
名はガイウスとも。妻はユリア・アグリコラ。
おそらくは騎士階級の出身。アグリコラの女婿となり、地方への赴任を経て、元老院議員に取り立てられ、執政官にまで昇進した。
一度引退したが、トラヤヌス帝の治世に復帰し、アフリカ属州総督のマリウス・プリスコスを汚職で弾劾し、辞任させた。
112年ころ、アシア属州総督となった。
現存する著書は『アグリコラ』『ゲルマニア』『雄弁家についての対話』『歴史』『年代記』。
共和制ローマを理想とし、政治の堕落をしばしば批判した。元老院中心の政治を主張し、そのため元老院を尊重した
トライヤヌス帝などへの評価が高く、対決姿勢を取ったティベリウス帝などは厳しく批判されている。
また、ローマ人の「退廃」と比較し、ゲルマン人を「高貴な野蛮人」と評した。
『年代記』ではキリスト教を「有害きわまりない迷信」と非難し、「クリストゥス」が処刑されたにもかかわらず、
ユダヤの地のみならずローマでも「猖獗を極めた」ことを嘆いている。
3世紀に即位した軍人皇帝の一人・タキトゥスは、本項のタキトゥスの末裔を称したが、実際には無関係という。
※「アシア属州」はアナトリア半島西部の、狭義のアジア地域。
親愛武将:プリニウス
嫌悪武将:ティベリウス、イエス
プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス
古代ローマ帝国の皇帝。「五賢帝」の一人。単にハドリアヌス帝といえば彼を指す。「哈德良」
トラヤヌス帝の従甥として彼の治世を支える。101年に彼の秘書として抜擢され、
第二次ダキア戦争に従軍して軍功を上げ、戦後執政官に推薦される。
パルティア戦役では司令官、シリア総督として主に後方の兵站補給を担当。
トラヤヌス帝が病没すると、皇后プロティナの支持から皇帝に即位する。
皇帝即位後はローマ帝国の再構成に腐心し、ユダヤ反乱の鎮圧、公共事業の推進に加え、僻地に長城を築いて帝国防衛網を構築した。
138年死去。元老院や同時代人の支持は薄かったが、その治世は初代アウグストゥスに比肩するとしばしば言われる。
アントニヌス・ピウス
五賢帝の一人。「安敦宁·毕尤」。
ハドリアヌス帝晩年の後継指名の迷走の末、帝位を継承。元老院による死後の断罪から「暴君」ハドリアヌスを守り、「ピウス(敬虔なるもの)」の称号を得たという。
23年の長きにわたり在位。穏健な政治に努め、大規模な戦争・内乱と無縁のローマ史上でもっとも平和な時代を現出した。
甥アンニウス・ウェルス(後のマルクス・アウレリウス帝)を養子としてスムーズな権力移譲の体制を整え、数代続いていた帝位後継の混乱を回避したことでも評価される。
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
五賢帝の一人。アントニヌスは「安敦宁」あるいは後漢書にある「安敦」。
ハドリアヌス帝期から後継者として期待され、アントニヌス・ピウス帝後にルキウス・ウェルスとの共同皇帝として即位。
全盛期を過ぎ、対外的な困難に直面しつつあった帝国をよく統治した。
マルコマンニ族らの大攻勢からの防衛のために治世の大半を戦場で過ごす一方、
学問を愛しストア派哲学に深く傾倒した姿は、哲人皇帝として讃えられる。
コンモドゥス
ローマ皇帝。父マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝との共同皇帝を経て、その死後単独皇帝に就任。
治世の初期は消極的ながらも無難に帝国を統治するが、実姉が首謀した暗殺未遂事件を契機に、政務から遠ざかり側近の専横を許すようになる。
近衛隊長クレアンデルの失脚に伴い重臣達を大量に粛清、親政に復帰するも、その時にはすでに精神に異常を来たしていたとも言われる。
自身の過度の神格化、剣術への異常な没頭の挙句自ら剣闘士として競技場に立つなどの奇行を重ね、元老院との対立を急速に深めていく。
最後は粛清を恐れた側近らによって暗殺。その名はローマ帝国有数の暴君として記憶されることになる。
傑出した武勇を誇り、剣術・槍術・弓術の全てに常人離れした技倆を示した。その最期も、全身に毒が回った状態でなお頑強に抵抗し、暗殺者をてこずらせたと伝わる。
コンモドゥスは中国語で「康茂德」。
※みんなの新武将コメントにも書かれているが、没年は董卓?と同年である。
東西の大帝国を疲弊させた二人の暴君が同年に暗殺されるとは、運命を感じざるを得ない。
なのでいにしえ武将のように董卓?と親愛があってもいいかもしれないし、ライバルになってもいいかもしれない。
*暗殺未遂事件前
元老院との対立や私生活の乱れなどがマイナスポイントだが、軍やローマ市民に好かれていたという逸話や、部下のおかげとはいえ比較的治世が安定していたことを評価して能力を上方修正。
ガレノス
ローマ帝国の医学者。
小アジアのペルガモン出身で剣闘士の外科医を務めた後はローマに移り能力を評価されて
皇帝マルクス・アウレリウスの侍医となり、以後はコンモドゥス帝、セプティミウス帝の侍医も務めた。
生涯に多くの医学書を残しており、ギリシャ語で著述された為ローマ帝国の衰退後はラテン語主体の
ヨーロッパには伝われなかったが、ギリシャ語主体の東ローマ帝国においては医学の正典として伝わり
さらにイスラム圏に伝わりイスラム医学に影響を与えた。
古代ローマ(帝政中期)
セプティミウス・セウェルス
ローマ皇帝、セウェルス朝初代。パンノニア総督時代に、クロディウス、ペスケンニウスら対立者を打倒し皇帝位を奪取。
その武威を背景に権力を確立し、「五賢帝時代」終焉後の混乱を一時的に収めた。
即位後も、パルティア遠征など対外戦争で大勝を重ねて帝国の軍事的な復権に成功する。
一方で内政を重視せず、権力基盤である軍を優遇する政策を進めたことから、のちの軍人皇帝の先駆けともいわれる。
セウェルスは中国語で「塞維魯」。
カラカラ
ローマ皇帝、セウェルス朝二代。陣没した父帝セプティミウス・セウェルスの後を継ぎ、弟ゲタともに共同皇帝に就任。
「兵を富ませよ」という父帝の教えをよく守り、また自身も前線での労苦を厭わぬ勇敢な戦士であったこともあり、軍隊からの支持をもとに権力を掌握。
ローマ市民権を全属州民に付与したアントニヌス勅令の発布、その威容が現代にも遺構として残る巨大浴場の建設によって歴史に名を残す。
しかしその長くない治世は、実弟ゲタとの凄惨な争い、重税、略奪、虐殺などの暗いエピソードに満ちたものだった。
数々の悪行の末、個人的な恨みを持った近衛兵に暗殺される最期を遂げる。その死によってセウェルス朝は一時断絶することになる。
カラカラは中国語で「卡拉卡拉」。
エラガバルス
埃拉伽巴路斯。セウェルス家の姻戚にあたり、セウェルス朝の復活を画策する勢力によって推戴。マクリヌス帝を打倒して14歳の若さで帝位につく。
シリアで信仰された太陽神エル・ガバルの神官であり、ローマの伝統的な神々の上にエル・ガバル神を据えるという奇抜な宗教改革によって人々を困惑させた。
また彼の性指向と女装癖は当時のローマ人には全く理解されず、皇帝に相応しくない振る舞いとして民衆から近衛兵、元老院にいたるあらゆる勢力からの
失望と憎悪の的となった。従兄弟のアレクサンデルを擁立した近衛兵の反乱によって廃位、18歳の若さで処刑された。
マクシミヌス・トラクス
ローマ皇帝。羊飼いから軍に入隊。人並外れた巨躯と武勇を気に入られ、時の皇帝セプティミウス・セウェルスによって引きてられる。
アレクサンデル・セウェルス帝の時代に、反乱軍によって擁立されて帝位を奪取。下層民出身で無教養な皇帝の出現は、元老院階級に衝撃を与えた。
優れた軍才によってゴート族らからの帝国防衛の責務をよく果たしたが、元老院の擁立した対立皇帝との対決のためにローマに進軍する途上、暗殺された。
一般に、彼の登場が軍人皇帝時代の幕開けとされる。
ウァレリアヌス
ローマ皇帝。歴代の皇帝のもとで要職をつとめ、高潔な軍人として名声が高かった。
トレボニアヌス・ガッルスから帝位を奪ったアエミリアヌスを破って即位。経験の乏しい元老院議員が要職を占める人事制度の
あり方を変革し、叩き上げの武官や在地の有力者などを高位軍人や総督に登用。また息子ガッリエヌスを副帝とし、
複数皇帝による帝国の分割統治という政策を初めて採用した。しかしサーサーン朝シャープール1世との戦いで不覚を取り、
エデッサにて敵の捕虜となる屈辱を受けた。その後の消息は不明。
ガッリエヌス
ローマ皇帝。父帝ウァレリアヌスがエデッサで敗戦して捕虜となり、共同皇帝から単独皇帝に昇格。
しかしガリアで反旗を翻したポストゥムスが帝位を称し、東方では盟友オダエナトゥスの死にともないパルミュラが離反。
中華帝国と同じくローマ帝国も三分割されるという異常自体に直面することとなった。
ウァレリアヌスの政策を引継ぎ、出自によらない有能な人材の抜擢、野戦機動軍の創設などの軍事・人事の改革を推進し、
歴代の軍人皇帝中でも優秀な君主と評される。
しかしその成果がガッリエヌスの治世中に結実することはなく、最後は将軍クラウディウス・ゴティクスらのクーデターにより殺害。
ゼノビア
ローマ帝国への反乱者。シリアの通商都市パルミラを率い、東方を席巻した女傑。
夫オダエナトスの死後にパルミラの指導者となるや、帝国の混乱に乗じて独立を画策。
一時はローマの東方領土の大半を手中におさめ、パルミラ帝国を建国。最終的に名将・アウレリアヌス帝の討伐軍に敗北するまでローマを苦しめた。
クレオパトラに比せられる伝説的な美貌のほか、優れた学識・語学力・乗馬術の持ち主であり、自らも陣頭に立って戦ったと伝わる。
降伏するとアウレリアヌス帝によってローマ市中引き回しにされたが、命は助けられ余生を過ごした。
ゼノビアは中国語で「芝诺比娅」。
アウレリアヌス
ローマ皇帝。数々の軍功を重ね兵卒から皇帝の位にまで上り詰めた、歴代皇帝でも屈指の名将。
度重なる皇帝の敗戦死、激化するゲルマン人のイタリア侵入に加え、パルミラ、ガリア両帝国の自立によって帝国が三分されるという未曾有の国難の対処にあたる。
期待された軍事指揮官としての手腕を遺憾無く発揮。ゲルマン部族を北方に追い返し、パルミラ、ガリアを次々に服属させる。その功業は「世界の修復者」の称号によって称えられた。
首都ローマの外壁「アウレリアヌス城壁」の建設者としても知られる。
しかしほどなく些細な諍いから、部下によって暗殺。帝国の再建事業はディオクレティアヌス帝の登場まで待たれねばならなかった。
アウレリアヌスは中国語で「奧勒良」。
(秦論)
【(シンロン)】
ローマまたはギリシャの商人。『梁書』では「秦論」は字とする。「レオン」の音写か。
『梁書』によると、226年、交趾に到達し、交趾太守・呉邈の仲介で孫権に拝謁した。
孫権に問われ、大秦(≒ローマ帝国)の地理や風俗を詳しく説明したという。
※『三國志』では、226年に交趾太守の士燮が死去し、孫権は陳時を後任として派遣しており、
呉邈ではない。『梁書』の記事そのものが誤りか、あるいは時代か人物にズレがあるのかも知れない。
古代ローマ(帝政後期)
ディオクレティアヌス
ローマ皇帝。低い身分から軍人として頭角を現し、先帝ヌメリアヌスの暗殺後に軍の推戴を受けて皇帝に就任。
強力な指導力を発揮して「3世紀の危機」に終焉をもたらし、ローマ帝国中興の英主と称えられる。
国内政治では帝国を四人の皇帝によって統治するテトラルキアの導入をはじめ数々の行政・財政制度の改革を断行。
対外戦争では、盟友マクシミアヌスの優れた軍略のもと、四方の外敵に悉く勝利を収め、辺境を安定させた。
晩年はローマ皇帝としてははじめて生前退位をし、キャベツの栽培に没頭する余生を過ごしたという。
ディオクレティアヌスは中国語で「戴克里先」。
※名将マクシミアヌスや副帝の抜擢、官僚制の改革成功など人事面で非常に高い功績を残しており
彼の死後に崩壊することを含めて、そこはかとない孫権感から任才を盛りました。
あとは法律を追加したが、ここは求心等でも良いかも。
マクシミアヌス
ローマ皇帝。ディオクレティアヌスの片腕として活躍、西方正帝として四分統治の一翼を担った。
ゲルマン諸族や国内の叛乱勢力を相手に勝利を重ね、帝国の長い混乱期の終焉に軍事面での大きな貢献を果たした。
一度はディオクレティアヌスとともに引退。しかしすぐに権力への執着を露わにし、コンスタンティヌスや
実子マクセンティウスらと西方正帝の座を争った。最後はコンスタンティヌスに敗れて降伏。疑惑の「自殺」を遂げた。
聖ゲオルギウス
キリスト教の殉教聖人。ローマ軍人を父に持つ、トルコのニコメディアの軍人。
302年にディオクレティアヌス帝がキリスト教徒への改宗や逮捕を強制すると、ゲオルギウスはそれを拒否して303年に殉教する。
後世には『黄金伝説』などで竜殺しの伝説が記され、欧州各国で聖人に認定された崇敬を受けた。
伝説によればトルコ南部のカッパドキアで悪竜を退治し、その地の住民をキリスト教徒に改宗させる。
しかし、それが王の怒りを買って様々な拷問を受けるも、教えを捨てず最期には斬首されたという。
聖ジョージは中国語で「聖喬治」。
コンスタンティヌス1世
君士坦丁。ローマ皇帝。ディオクレティアヌス帝引退後の覇権争いに参戦、対立者を悉く討ち果たして帝国を再統一した英主。
国内政治ではソリドゥス金貨の発行、後の帝都コンスタンティノープルの建設などの功績で知られる。
またローマ皇帝としては初めてキリスト教を信仰し、ニカイア公会議を召集するなど宗教行政上でも大きな足跡を残す。
コンスタンティウス2世
君士坦提烏斯。コンスタンティヌス朝ローマ皇帝。父帝コンスタンティヌス大帝の没後に三分割統治されていた帝国を、
僭称帝マグネンティウスの討伐によって再統一を果たした。為政者としては新都コンスタンティノープルの発展、副帝ユリアヌスを登用しての
ガリア支配の回復などの功績を残す。一方猜疑心が強く冷酷な人柄であり、大帝の死後に軍の暴動によって傍系の血族が皆殺しにされた
事件の黒幕と目される。かつて冷遇したユリアヌスがパリで反旗を翻すと自ら討伐に赴くが、その途上で突然病に倒れ、
ユリアヌスを後継に指名して死去した。
ユリアヌス
尤利安。コンスタンティヌス朝のローマ皇帝。幼少期に伯父コンスタンティヌス死後の後継をめぐる陰謀に巻き込まれ、家族のほとんどを失う。
半軟禁状態の前半生の間、学者顔負けの学識を身につけるとともに、キリスト教への反感を育んだと言われる。
コンスタンティウス二世によって副帝に登用されると、突如天賦の軍事の才を発揮し、ガリアに侵入していたゲルマン人の不服従勢力を一掃。
軍団の支持を得てコンスタンティノープルに進軍し、正帝に即位した。
五賢帝時代の市民的な皇帝像を理想に掲げ、コンスタンティヌス以来のキリスト教優遇政策を改めたことから、「背教者」の汚名を受けたことでも著名。
ペルシア遠征からの撤退中に負傷。陣没した。
テオドシウス1世
狄奧多西。ローマ皇帝テオドシウス朝初代。ウァレンティニアヌス一世に活躍したた将軍大テオドシウスの子。
アドリアノープルの戦いでの惨敗とウァレンス帝の戦死という非常事態を受けて東帝に即位。ゴート族の懐柔、サーサーン朝との講和締結によって
滅亡の危機から帝国を救う。国内政治でも、キリスト教会の分裂をニカイア信条派を正統信仰と定めることにより収拾した。
ウァレンティニアヌス家が統治していた西帝国に対しても度重なる内戦への介入によって影響力を強め、最終的に帝国の再統一を果たした。
コンスタンティノープルを事実上の首都とした最初の皇帝としても知られる。
アンブロジウス
安波羅修。4世紀の聖職者。卓抜した実務手腕を買われ、俗人ながらミラノ司教に推戴されたという異色の経歴を持つ。
教会政治家として辣腕を振るい、歴代のローマ皇帝と渡り合いつつ、ニカイア信条派による正統信仰の確立と教会権力の拡大に大きな功績を残した。
テッサロニカの虐殺事件では皇帝テオドシウスの責を問い、破門し屈服させるほどにその影響力は強大であった。
ホノリウス
弗拉維烏斯。西ローマテオドシウス朝の皇帝。父帝テオドシウス1世から西帝国を継承したが、
幼少であったため実権はテオドシウスの寵臣であった蛮族出身の将軍スティリコに握られ続けた。
国内外の情勢の緊迫化に乗じてスティリコを排除することに成功するも、ゴート王アラリックへの対処を誤りローマ劫掠の惨禍を招く。
ゲルマン諸族大挙して押し寄せた属州の支配を回復することができず、彼の代で西ローマはイタリア周辺を保持する地方政権に転落した。
ローマ帝国衰運を決定づけた暗君としての評価が残る。
親愛候補: 劉禅
※しかし、劉禅と違って有能な家臣(スティリコ)を殺しているという致命的問題も。
スティリコ
斯提里科。西ローマ帝国の権臣。ヴァンダル族の血筋ながらテオドシウス1世に能力を認められ、
親衛隊長などを経て最高司令官に就任。再分裂後の西帝国で幼帝の後見人として実際上の統治者となった。
東帝国からの妨害に苦しみつつ、西ゴート王アラリックらの攻勢をことごとく跳ね返す。
一方でゲルマニア・ブリタンニアの防衛を疎かにし、アラン・スエビ・ヴァンダル族による突破を招いたことは帝国の没落の契機となった。
権力奪回を目論むホノリウス帝の謀略により誅殺。最強の守護者を失ったローマがアラリックに蹂躙されるのは
その死の二年後のことである。
親愛候補: 諸葛亮・姜維
アエティウス
埃提乌斯。西ローマ末期を飾る名将。幼少期をゴートやフン族の人質として過ごす。
ウァレンティニアヌス3世期に帝国の実権を掌握、帝国軍総司令官としてフン族・ゲルマン諸族との戦闘を指揮する。
ことに、ローマ世界を震撼させた旧友・フン族のアッティラを退けたカタラウヌムの戦勝で名高い。
誰もが認める帝国の柱石であったが、その勢力を恐れた皇帝によって暗殺。「最後のローマ人」と称えられた
彼の死後、蛮族の侵攻に対抗できる人物はついに現れなかった。
リキメル
李希梅尔。西ローマ末期の将軍。亡命ゲルマン人の家に生まれる。将軍アエティウス ・皇帝ウァレンティニアヌス3世の相次ぐ暗殺の後の混乱期に
台頭し、親友マヨリアヌスとともに帝国の実権を掌握。その後マヨリアヌス帝ほか次々に皇帝の擁立・廃立を繰り返し、
自身は第一人者として国政の中枢を支配し続けた。リキメルの死後ほどなく、有名無実化していた西ローマ皇帝は正式に廃止された。
オドアケル
西ローマ帝国の将軍。イタリア領主。現代中国語では「奧多亞塞」、イタリア語では「オドアクレ」。
イタリア王(羅:rex Italiae, 伊:re d'Italia)を称したことから、初代イタリア王とされる場合もあるが、王号が公認されたかどうかは争いがある。
出自は諸説あり、ゲルマン人(これもスキル族、ゴート族など複数説あり)の生まれとも、フン族の生まれともいう。
キリスト教アリウス派の信徒。リキメル執政下の西ローマで将軍として頭角を現す。
東帝ゼノンの支持を得て、西帝ロムルス・アウグストゥルスを廃立。対立皇帝ユリウス・ネポスの死後も新たな皇帝を擁立せず、
自らがイタリア領主(あるいはイタリア公。羅:dux Italiae)として西帝国を統治した。文武に優れた英傑と評され、ローマ元老院の支持を取り付け、
キリスト教主流派のカルケドン派(カトリック、東方正教会の直接の前身)との関係も良好だった。
彼の治世のもとイタリアの内政・外交状況は急速に改善し、ローマは昔日の繁栄を取り戻したという。
しかし、対立した皇帝ゼノンの送り込んだテオドリック率いる討伐軍に敗北。降伏後に講和の席上で暗殺された。
※以降のイタリア半島は「イタリア」を参照。
古代ローマ(帝政期)の異民族
フン族
4~6世紀に掛けて、中央アジアから東欧で活躍した遊牧民。
匈奴と同族説があるが、未だ決定的な証拠は無い。
5世紀のアッティラ王の時に全盛、ゲルマン民族の大移動を引き起こしたといわれている。
ブルガリアやハンガリーは、フン族の子孫を称している。
アッティラ
アッティラは、フン族とその諸侯の王。
現在のロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げ、西方世界の「大王」を自称した。
パンノニアに本拠を置いて東ローマ帝国への侵入を繰り返して、短期間でライン川、ドナウ川、カスピ海に渡る大帝国を築き上げた。
しかしローマの将軍アエティウス指揮下の西ローマ=西ゴート連合軍とカタラウヌムで戦い、敗退した。
アッティラの治世下で帝国は最盛期を迎えるが、453年、自らの婚礼を祝う酒宴の席で急死した。
キリスト教の信者からは、「神の災い」や「神の鞭」と恐れられた。
※ある羊飼いが土中から剣を掘り出しアッティラへ献上した。
アッティラはこれを喜び、これを軍神マルスの剣であると信じ、自分は全世界の支配者になる運命であると自信を持ったという。
ヴァンダル族
ガイセリック
ガイセリックは、ヴァンダル族とアラン族の王である。
ガイセリックはフン族のアッティラ大王などと同様に稀代の軍略家で、北アフリカにヴァンダル王国を築き、
5世紀にローマ帝国の主に西部(西ローマ帝国)を攻めて、東西ローマ帝国を大いに悩ませた。
ガイセリック率いるヴァンダル王国の登場によって地中海を支配したローマの時代は終わりを告げる。
そしてローマ滅亡に向かう象徴的事件としてローマ略奪がある。ガイセリックの50年近くに渡る治世中、
ヴァンダル族は比較的小さなゲルマン一部族から地中海の主要勢力に隆盛した。
西ゴート族
アラリック1世
アラリック1世は、西ゴート族の最初の王である。
その名は彼が成した410年のローマ略奪で最も知られている。
ローマ略奪は、ローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退を決定づける事件であった。
しかしその直後に、アラリック1世は熱病にかかりこの世を去った。
テオドリック1世
テオドリック1世は、西ゴート王。
アラリック1世の庶子、または義理の息子とも言われている。
アッティラとの間で起きたカタラウヌムの戦いでテオドリック1世は右翼を指揮した。
テオドリックの軍はローマの決定的な勝利に貢献したが、彼はこの戦いで戦死した。
東ゴート族
テオドリック大王
テオドリック大王は、454年生の初代東ゴート国大王。
461年頃より東ローマ帝国のコンスタンティノープルの宮廷へ人質として送られ、10年間そこで暮らした。
東ゴート族に戻るが2年後に父が亡くなったことで20歳で東ゴート族を率いることになる。
3年後には東ローマのゼノンに力を貸すことによって彼を皇帝の座につけることに成功し、その功績によりでローマ貴族として認められる。
その後、ゼノンから互いの敵である対立皇帝レオンティウスを支持するイタリア領主オドアケルを討伐するよう命じられ、3回の会戦には勝ったものの篭城されると決定打が出なかった。
そこで交渉によって和解まで持って行き、酒宴の上でオドアケルを殺した。*2
こうして、西ローマ帝国を治めることになり、西ローマ・東ローマ・民共に三方よしな政治を布いていたが、晩年の523年に転機として崩れ始めた。
きっかけは現東ローマ皇帝のユスティヌスが自身が支持しているアリウス派を弾圧したため、疑心暗鬼になり、
東ローマと通じている疑惑のあった議員を擁護したボエティウスを幽閉して殺害したり、自身の弁明のために向かわせたローマ教皇ヨハネス1世を帰国後に獄死させている。
526年8月30日に没するが、最期まで東ローマとは和解できずこれが原因で東ゴート国は彼の死後衰退していくこととなる。