みんなの新武将/後漢中期

Last-modified: 2024-01-30 (火) 01:10:16

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です。

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします。

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です。
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります。

後漢中期(88~184)

東漢とも。漢の再興を旗頭とした、前漢景帝の後裔である光武帝によって樹立。
次代・明帝、三代・章帝の時代には隆盛を迎え、対外的にも積極的な方針に転じて匈奴を大破。
和帝の時代には班超の目覚ましい活躍により西域諸国も帰属し、前漢最盛期と同様の威信を回復した。
しかし、和帝が幼少で即位したために外戚の竇一族が朝政に容喙し、これに対抗して和帝は宦官を重用。
和帝の存命時は有能且つ善良な宦官が用いられたため問題とならなかったものの、若くして和帝が崩御すると、
以降も幼帝が続出したことにより外戚の専横が繰り返され、それに対抗するために重用される宦官も次第に無能で貪欲な者が増えていった。
2世紀中頃には官僚と宦官による度重なる政争の結果、二度に亘る“党錮の獄”が発生し、朝廷は宦官派が主流となって求心力を失っていく。
霊帝の代には十常侍と呼ばれる徒党を組んだ宦官集団により悪政が蔓延し、各地で叛乱が続発。
その中でも最たる物が184年に起こった張角?を首領とした黄巾の乱であり、叛乱は全国に波及した。



皇帝・宗室(皇室)

劉肇

生年登場没年死因
7988106自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5255818082
5255819390

【リュウチョウ】
後漢の第四代皇帝。和帝。光武帝の曽孫。生母は梁貴人。
3歳で皇太子に立てられ、父の早逝により9歳で即位する。
幼少期は竇太后の専横を許すが、長じてから宦官の鄭衆を重用し外戚勢力を一掃する。
その後も鄭衆を信任し続けつつも、自ら災害復興の詔を出し善政を敷くが、弱冠27歳で早逝した。

劉纘

生年登場没年死因
138145146不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5011694074王道

【リュウサン】
後漢の第十代皇帝。質帝。勃海王・劉鴻の子。章帝(劉炟)の玄孫。
145年、沖帝(劉炳)が3歳で急死すると、8歳で外戚の梁冀に擁立された。
太尉の李固は、年長の済河王・劉蒜の即位を主張したが、梁冀は李固を解任して劉纘擁立を強行した。
幼少にして聡明だったが、実権は梁冀に握られていた。146年、大臣達を見やってから梁冀に「これは跋扈将軍だ」といった。
梁冀はこの発言を憎悪し、質帝の餅(小麦パンの一種)に毒を盛って殺した。
『資治通鑑』によると、苦悶の質帝は李固を呼び、「煮餅を食べた。お腹が痛い。水が欲しい」といった。
そばにいた梁冀は「吐いてはいけません、水を飲んではいけません」といい、質帝は梁冀が言い終わらぬうちに崩御したという。

※「跋扈」は魚が梁(やな。川魚を捕る仕掛け)から跳ね出すことで、転じて部下が好き放題に振る舞うさまを意味するようになった。

嫌悪武将:梁冀

劉志

生年登場没年死因
132146168自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5940455276楽奏浪費悪名名利

【リュウシ】
後漢の第十一代皇帝。桓帝。蠡吾侯・劉翼の子で、章帝(劉炟)の曾孫。
146年、質帝(劉纘)が外戚の梁冀に毒殺されると、梁冀とその妹の皇太后・梁妠らによって皇帝に擁立された。
また、別の妹の梁女瑩を桓帝の皇后に立てた。
159年、単超ら5人の宦官と手を組んで梁冀一派を誅殺した。しかし、今度は宦官が権力を握り、
さらに宦官に養子による爵位を含めた相続を認めたことから、外戚・豪族を中心とした士大夫が反発。
士大夫は自らを「清流」、宦官を「濁流」と呼び、司隷校尉・李膺や、太学の学生・郭泰らは中常侍の専横を告発した。
しかし、桓帝は宦官に味方し、李膺らを逮捕。「清流派」は公職追放された(党錮の禁)。
桓帝はまもなく没したが、男子が無かったため、従甥(いとこの子)の劉宏(霊帝)が跡を継いだ。
儒教よりも浮図(ブッダ、仏教)や老子を尊崇し、また音楽を愛好し、琴笙に優れていたという。

※宦官の養子縁組を認めたことで、曹騰は曹嵩を養子とし、その子の曹操が後漢末に台頭した。

親愛武将:単超、唐衡、曹騰
嫌悪武将:梁冀

宦官

蔡倫(敬仲)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
64858277一心節約文化能吏学者

【サイリン(ケイチュウ)】
後漢の宦官。桂陽?の人。
明帝の時代に宦官として登用されたが、経緯は不詳。
和帝の時代には中常侍にまで登り詰め、誠実な人柄や学問や工作を好み、
また潔癖な品行が評価され、尚方令となる。
蔡倫は樹皮・麻屑・破れた魚網などの材料で実用に耐える紙を製造し、献上した。
この蔡倫が発明した紙は「蔡侯紙」という尊称で呼ばれ、高く評価された。
和帝の没後、安帝を擁立した鄧太后ら一族の粛清に巻き込まれ、
かつての讒言の責任を取り毒を飲んで自害した。

曹騰(季興)

生年登場没年死因
100159自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2520828890徴税眼力富豪人脈
2520829190徴税眼力富豪人脈

【ソウトウ(キキョウ)】
中国後漢末期の宦官。曹操の祖父。諡号は高皇帝。
年少の頃黄門の従官となり、皇太子・劉保(後の順帝)の学友の一人として抜擢された。
125年、順帝が即位すると小黄門に任じられた。安帝、順帝、沖帝、質帝の四帝に仕え、その間中常侍、大長秋にまで昇進し宮中に仕えること三十余年に及んだ。
桓帝の時代には費亭侯に封ぜられ、特進の位を与えられた。
優れた人物を抜擢することが好きで、陳留の虞放、延篤、張温、弘農の張奐などの人物が引き立てられ、高官に登った。
しかし曹騰は彼らに恩着せがましい態度を取ることはなかった。
蜀の太守が曹騰に贈賄の使者を送った際、益州刺史の种暠は函谷関での取り調べでその文書を手に入れた。
种暠は皇帝に対し曹騰を免職するように上奏したが、皇帝は「外部からの書状であり、曹騰の関与は認められない」としてその申請を却下した。
曹騰はこの件を意に介する事無く、种暠の節度を賞賛した。後に种暠は司徒となると「今日三公となれたのは曹常侍のおかげである」と語った。

唐衡

生年登場没年死因
164自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
368837051扇動人脈策士

【トウコウ】
中国後漢後期の宦官。潁川郡郾県の人。
桓帝の初年(146年)、小黄門史となった。
時に外戚の梁冀が権勢を振るい、質帝を毒殺するなど多くの者達が殺された。梁冀の妹である梁皇后もまた、多くの妃嬪を毒殺した。
桓帝は内心不満を抱いていたが、殺されることを恐れて行動に移せずにいた。
159年、梁皇后が死去すると、桓帝はひそかに唐衡を呼び、「外舎(外戚である梁冀)とうまく行っていない者はいないか」と相談した。
唐衡は単超・徐璜・具瑗・左悺を推薦し、5人は皆側仕えの宦官だった。桓帝と唐衡たちは、梁一族を粛清する手はずを謀議した。
8月、梁冀が謀叛を企てたとして、詔で司隸校尉の張彪に梁冀の家を包囲させ、梁冀夫婦を自害させた。さらに、梁一族300人ほどが処刑された。
唐衡は中常侍に昇進し、汝陽県侯に封じられた。5人の宦官はみな侯に封じられ、「五侯」と呼ばれた。
これにより、後漢は宦官が実権を握り、「清流派」と称する士大夫との抗争の時代となった。
ある時、傅公明という者に養女を嫁がせようとしたが、傅公明に断られた。そこで、代わりに荀彧に嫁がせた。
164年死去し、車騎将軍を追贈された。
165年、左悺と具瑗が失脚すると、唐衡の後継者は郷侯に降封され、親族で爵位の分爵を受けた者は没収された。

※荀彧は163年生まれであり、実際に結婚したのは唐衡の死後である。『典略』は、荀彧の父・荀緄が唐衡の権勢を味方に付けようと望み、
婚約に応じたとしている。裴松之は年代的にあり得ず、また「八龍」に数えられた荀緄が自発的に宦官に迎合はしなかったと主張し、
(他の宦官に?)強要されたのではないかと反論している。

親愛武将:劉志、単超

趙津

生年登場没年死因
166不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
64463612

【チョウシン】
後漢後期の宦官。晋陽郡の人。
桓帝の時代、小黄門となった。南陽郡の富豪で悪名高い張汎(張汜とも)と共に、宦官の権勢で州郡の悩みの種となった。
太原太守・劉瓆の部下である王允に摘発され、処刑された。また、張汎も南陽太守・成瑨に処刑された。
趙津の兄弟は宦官を頼り、宦官は劉瓆と成瑨を公開処刑するよう主張した。さらに、中常侍・侯覽が山陽太守・翟超に摘発されて財産を没収され、
下邳令・徐宣が東海相・黄浮に誅殺された。侯覽らの意をくんだ桓帝は怒りに震え、劉瓆らを投獄した。
陳蕃は宦官の罪悪を糾弾して劉瓆らを擁護したが、桓帝は聞き入れず、かえって禁錮(公職追放)となった。これが党錮の禁の始まりとなった。

列女

鄧綏

生年登場没年死因
81121自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
506848674
506889074

【トウスイ】
和帝の皇后。鄧禹の孫。
六歳で史書を読み、十二歳で詩経や論語に通じていた。
母から女工を習うよう戒められたため、昼は婦人の業を修め、夜に経典を諳んじた。
後宮に入ると、常に陰皇后を立てて謙虚に仕え、陰皇后が廃されると皇后に立てられる。
和帝が崩御すると、殤帝・安帝のもとで皇太后として摂政となる。
天災や夷狄の侵犯等が続く中、不眠で政務に携わって民を災害から救い、豊穣で平安な状態に還した。
治世は善政だったが、女性として政治基盤を固めるために外戚と宦官を重用しており、
後の権力争いの火種も生じている。

一般臣下

班超(仲升)

生年登場没年死因
32102自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9785898895神威洞察長駆威風一心大虎雄略

【ハンチョウ(チュウショウ)】
後漢の武将・外交官。班固の弟、班昭の兄、班彪の子。
弁舌・文章に優れたが、竇固の匈奴遠征に従軍し、西域招撫を担う。
鄯善以下、匈奴の圧迫に苦戦しつつも南路諸国を帰服させ、
勅命に背いても西域経略を続け、疏勒・亀茲などの離叛諸国を征服した。
この時の「虎穴に入らずんば虎児を得ず」の格言で名高い。
後、西域都護として亀茲に都護府を置き西域五十余国を統轄し、
副使の甘英を大秦国に派遣し、クシャン朝の遠征軍を撃退するなど大功を挙げ、定遠侯となる。
帰国後、洛陽?で病没したが、彼の死後西域経営は衰退した。

甘英(崇蘭)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8076726780長駆節約特使軽率

【カンエイ(スウラン)】
後漢の武将。
97年、班超の命令で西海の探索を命じられた。條支国(ローマのシリア属州? カラケネ王国?)を通過し、安息国(パルティア王国)にまで到達し、
大海(地中海またはカスピ海)に出た。この地方は『山海経』にも記録が無く、漢民族で足を踏み入れた者は甘英が初めてだった。
甘英は、さらに海の向こうの大国・大秦国(ローマ帝国)の本国を目指したが、船乗りに「順風なら3ヶ月、逆風なら2年は掛かる。
だから航海する者は3年分の食料を用意する。その上、海には人を故郷に恋慕させる者が現れ、多くの者が死ぬのだ」と脅され、渡航を諦めた。
これは、貿易商が交易の利益を妨害されないよう、誇大に数字を述べたものだという。
甘英はローマに辿りつけなかったが、彼の西域の報告書で、中国に大秦国の名は一躍知れ渡った。
彼の報告書はかなり正確で、ローマの共和制期、あるいはネルウァ帝の頃の初期ローマ帝国の実情が詳細に報告されている。

※船乗りが甘英を脅した「人を故郷に恋慕させる者」は、ギリシャ神話のセイレーンを指すという説がある。
当時の航路の実際の所要時間は、シリア、あるいはユダエア属州からの場合、順風なら2週間、悪天候などの時は8ヶ月という記録もある
(後者はローマ-アンティオキアの航海。なお『魏略』にある「安谷城」はちくま訳ではアンティオキア比定説を取る。
他にユーフラテス川河畔(エリドゥ?)説もある)。
『新約聖書』によると、パウロ(?-60?)がローマに護送された時、ユダエア属州のカイサリアからローマまで、
途中の港で停泊したり、嵐に巻き込まれて漂流した期間を含めて5ヶ月を要したという。
船乗りは、甘英に対して所要時間を3~4倍に誇張したことになる。

虞詡(升卿)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9270948084虚実洞察疾走機略築城虚誘掩殺斉射連弩牽制罵声鼓舞文事武備王道

【グク(ショウケイ)】
後漢の武将。
羌族に敗れた鄧騭の涼州放棄を諌める。
鄧騭に恨まれ賊が蜂起していた朝歌に赴任させられるが、
賊を誘き出し伏兵を用いて鎮圧し、「神明」と賞賛された。
武都に赴任する際には、陣の竈を増やしながら行軍し、
増援が来ているように見せかけ、羌軍の動きを牽制して入城した。
赤亭が攻囲されると、まずは弱弓で応戦し、油断したところで強弩を斉射し羌軍を撃ち破る。
さらに羌軍を河の浅瀬に誘い込み、伏兵をもって撃破し反乱を平定した。
その後は、宦官の専横に逆らい九度の譴責と三度の刑罰を受けるが、宦官に対して不屈を貫いた。

張衡(平子)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
833857876発明詩想学者

【チョウコウ(ヘイシ)】
後漢の政治家。
文学者、詩人、発明家、数学者、天文学者、地理学者と多才を発揮した。
洛陽?長安?で学び、故郷の南陽?郡の主簿となる。
その後京官郎中となり、暦法を扱う太史令に任じられ、尚書にまで昇った。
しかし、宦官が政治を動かすようになったため、これに反抗して退官した。
文学者としては「二京賦」「帰田」「思玄」等を著す。
暦算の研究では「霊憲」「算罔論」を著した。
また、水力で動く渾天儀を製作し、地動儀(地震計)も発明した。
さらに円周率、月の直径、一年の長さなどを求め、後代に多大な足跡を残している。

馬賢

生年登場没年
141年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9695562456神威疾走威風山戦掃討白馬鉄騎突撃急襲大喝鼓舞

【バケン】
後漢の将。永初の大乱と永和の乱の平定で活躍。
護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに
20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた。

竇武(游平)

生年登場没年
168年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6456727477名声人脈諌止優柔消沈太学王道

【トウブ(ユウヘイ)】
後漢の政治家・外戚。扶風平陵県の人。
後漢の功臣である竇融の玄孫で若い頃から学問と行いで身を立て長安方面で名を挙げた。
娘が桓帝の皇后になった事により外戚として累進を重ねるが、外戚の地位に驕らず賄賂を
受け取るのを慎み、多くの清流派人士を起用し党錮の禁が起きた際は桓帝を諌めて禁を解いた。
桓帝の死後は霊帝を即位させて大将軍となり、清流派人士の陳蕃と協力して宦官の排斥を
図るも宦官一派との交戦の末に敗れて自害した。

李膺(元礼)

生年登場没年
169年(不自然死)
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8152938088洞察泰然名声親鮮威風先従隗始王道

【リヨウ(ゲンレイ)】
後漢の政治家・武将。潁川郡襄城県の人。
孝廉に推挙された後は青州刺史にまで昇進し下にいる太守・県令は彼の威厳・物事を見通す能力に
畏れてことごとく辞任したと云われ護烏桓校尉になった際は鮮卑族を度々撃退し、鮮卑族は李膺を恐れた。
宦官の専横が酷くなる中で李膺は司隷校尉に着任し公明正大に宦官やそれに連なる者達を裁き、また彼の目にかなった
清流派の人士は「竜門に登った」と云われ「登竜門」の語源となる。
しかし、宦官勢力に憎まれた事により党錮の禁により投獄され後に釈放されたが再び逮捕されて殺害された。

張奐(然明)

生年登場没年死因
104181自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8889322455神威泰然胆力史官柱石文事武備王道

※別案

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9089422460神威泰然胆力史官柱石文事武備王道

【チョウカン(ゼンメイ)】
後漢の武将。
鮮卑、羌など北方の異民族との戦いで名を馳せる。
党錮の禁では宦官・曹節に唆されて竇武、陳蕃を撃退してしまうが、後日過ちに気づくと職を辞している。
羌との戦いでは董卓?を従えていたこともあるが、その人柄を嫌い董卓?からの贈り物を受け取らなかったとされる。
また、趙娥?の仇討ちを表彰し絹を贈ったという記録も残る。
余談だが、曹操主役の蒼天航路だと184年まで生きており、張曼成に討ち取られたことになっている。
なお、その後は夏侯惇がすぐさま敵を討っている。

親愛武将:趙娥
嫌悪武将:董卓

皇甫規(威明)

生年登場没年死因
104174自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8987744088矍鑠規律胆力親羌柱石文事武備覇道

※別案

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9291674084矍鑠規律胆力親羌柱石忠勇義烈文事武備覇道

【コウホキ(イメイ)】
後漢の武将。皇甫嵩?の叔父にあたる。
羌族討伐に赴く征西将軍・馬賢の敗北を予見すると、その眼力を評価され兵を任されるようになる。
実力は高かったが、それ故に老齢になっても引退を許されず戦い続けることを余儀なくされている。

親愛武将:皇甫嵩

段熲(紀明)

生年登場没年死因
104179不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9193482257梟雄山戦求心強奪柱石神威穿貫突撃激励鼓舞大喝足止上兵伐謀我道

※別案

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9495682257梟雄山戦求心強奪柱石神威穿貫突撃激励鼓舞大喝足止上兵伐謀我道

【ダンケイ(キメイ)】
後漢の武将。張奐、皇甫規と共に「涼州三明」として知られる。
張奐、皇甫規よりも強硬派で、鮮卑や羌と戦っては数多くの首級を上げている。
その名は北方異民族の脅威となり、若き日の賈詡?が氐族に捕えられた時も身内と偽ったことで難を逃れた程である。
170年、中央に戻ると重職を歴任し、179年には太尉にまで昇った。こうして段熲は順調に出世を重ねたが、
それは宦官と通じていた事によるものであった為、宦官の王甫が誅殺されると、段熲も弾劾を受けて投獄され、自殺に追い込まれた。