みんなの新武将/異民族・賊徒

Last-modified: 2023-03-31 (金) 01:40:33

異民族

異民族とは、中国各地に割拠する、漢民族以外の民族の総称とされている。
しかし、長い時を経て漢民族と同化したもの、漢民族でありながら中央の政情によって
地方へ流れ着いたもの等もおり、区分に関しては明確化されていない。
三国志では烏丸、鮮卑、匈奴、南蛮、山越、羌族などがおり、それぞれが勢力を伸ばし
時の政権や周辺勢力、三国の王朝を苦しめた。曹操?の北方遠征、諸葛亮?の南蛮征伐などはその代表例である。
しかし、場合によってはその三国いずれか、または周辺勢力に協調し、彼らの勢力拡大を手助けした側面もある。
三国志の時代からその前兆があったが、異民族が漢民族に臣下の礼をとって官職を得、中原に住み着くこともあり、
晋の中華統一後に八王の乱で勢力を伸ばし、永嘉の乱でその力を決定的なものとする。
以後、五胡十六国時代をはじめとして、異民族の血を引く王朝が後の中華に君臨し続けることになり、
純正漢民族による漢王朝という構図は形骸化した。

ページの容量肥大に伴い異民族・賊徒(羌・氐)異民族・賊徒(黒山賊・張燕軍・賊徒)に分割



鮮卑

紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部に存在していた民族。
漢代の初め、匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏丸と鮮卑になった。
207年に曹操?の北伐で勢力として壊滅した烏丸族に代わり力を付けたのが鮮卑族。
晋代の分布としては襄平?に慕様鮮卑、北平?に段氏鮮卑、段氏の北方に宇文鮮卑、宇文の西方には拓跋鮮卑、武威?の東方に乞伏鮮卑、西方に拓跋から分かれた禿髪鮮卑と成る。
登場武将:軻比能? 泄帰泥? 歩度根?

檀石槐

生年登場没年死因
184自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9492756089飛将驍将強奪鮮卑英名倒山傾海急襲鯨波大喝三軍強化3覇道

【タンセキカイ】
後漢末の鮮卑の大人(酋長)。
武勇と統率力で鮮卑の各酋長達を恐れさせ、競って各部族が忠節を誓ったため大人に推挙され、鮮卑を統一。
さらに匈奴や烏丸の一部の部族までもが進んで傘下に入った為、モンゴル一帯の統一をも果たした。
彼を恐れた後漢朝は、張奐を討伐に送るも大敗。
檀石槐は、王に封ずる形であくまで鮮卑の上位に居ようとする後漢朝に怒り、幽州・并州以下、後漢領土への略奪侵攻を繰り返した。
霊帝は何度も討伐軍を送ったが、悉く破られたという。

※生没年不詳だが、後漢の光和年間(178-184)に死去、享年45。

扶羅韓

生年登場没年死因
218不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5664455433鮮卑召募軽率斉射牽制錐行強化3我道

【フラカン】
歩度根?の次兄。衰微する部族の為に別個に数万の衆を擁し大人となる。
代郡(=?)烏丸の能臣氐が帰参を申出て会盟を行うも、既に帰属先を軻比能?に能臣氐は替えており、
その席上で軻比能?に殺害され、軍勢と子の泄帰泥?は吸収された。

歩度根?をベースに大雑把に編集
 統率武力を-10、部族部下に心服されていなかったことから魅力-20、部族のための召募で政治に+10
 

莫護跋

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7970655070鮮卑強奪

【バクゴバツ】
鮮卑慕容部の祖。魏の時代に塞外から遼西に移住。公孫淵?の乱で功を立て、魏に臣従しつつ勢力を確立した。
その子孫は東晋期に燕を建国、河北を席巻することになる。

烏丸(烏桓)

紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部に存在していた民族。
漢代の初め、匈奴の冒頓単于が東胡を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓と鮮卑になった。
207年に曹操?の北伐で勢力としては壊滅し、後漢の内地に取り込まれたが、その後も魏の騎兵として天下に名を轟かせた。
陳寿『三国志』では「烏丸」表記だが、他の史書では「烏桓」表記が主流。
登場武将:丘力居? 蹋頓? 楼班?

阿羅槃

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
烏桓強奪消沈

【アラバン】
烏丸の大人。寇婁敦の弟。袁煕?袁尚?が烏丸を頼ると曹操?と戦うが、敗れて遼西に逃れたところ、遼東に逃れていた袁尚?や付随した烏丸の単于たちが殺されたためそのまま遼西にとどまった。
237年に毌丘倹?が遼東に遠征すると五千の兵を率いてこれに降った。その後兄の使者として洛陽にしたため、投降した烏丸の大人たちは魏より王に封じられた。

烏延

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3670312460烏桓強奪

【ウエン】
北平?の烏丸族長。800余の部落を支配下に置き、汗魯王と僭称。
袁紹?とは友好関係にあり、共に公孫瓚?と戦った。

王寄

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【オウキ】
烏丸の大人。魏から帰義王に任じられていた。
鮮卑の軻比能?に属していたが、異民族間の連帯を失わせることを狙った牽招?の離間策により軻比能?歩度根?が反目した結果、
魏についた歩度根?が攻め寄せたため軻比能?の弟苴羅候や同族の王同と共に討たれた。

王同

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4468412558烏桓強奪

【オウドウ】
烏丸王で帰義候。鮮卑の首領たちと争い殺された。

骨進桀黠

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4961232449烏桓強奪

【コツシンケツカツ】
烏丸の王。
魏に対して反抗的であり、曹彰?の討伐を受けて以来しばらく沈静化していた烏丸を再び活性化させ、たびたび北方の国境を騒がした。
護烏丸校尉として赴任した田豫?は骨進討伐を考え、百騎を率いて骨進のいる集落へ向かい、約束の場で出迎えて拝伏した骨進を容赦なく斬り殺し、その罪悪を顕わしてその場にいた人々に布告した。
この場に骨進は数万人を従えて来ていたが、彼らは肝を冷やして残らず田豫?に降伏した。このことから田豫?の威光は砂漠に響き渡ったという。

護留葉

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ゴリュウヨウ】
烏丸の大人。遼西烏丸都督の率衆王。
袁煕?袁尚?が烏丸を頼ると曹操?と戦うが、敗れて遼西に逃れたところ、遼東に逃れていた袁尚?や付随した烏丸の単于たちが殺されたためそのまま遼西にとどまった。
237年に毌丘倹?が遼東に遠征すると五千の兵を率いてこれに降った。その後同じ遼西烏丸の大人である寇婁敦の弟・阿羅槃を使者として洛陽に送って朝貢させたため、魏より王に封じられた。

寇婁敦

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【コウトンロン】
烏丸の大人。右北平烏丸の単于。
袁煕?袁尚?が烏丸を頼ると曹操?と戦うが、敗れて遼西に逃れたところ、遼東に逃れていた袁尚?や付随した烏丸の単于たちが殺されたためそのまま遼西にとどまった。
237年に毌丘倹?が遼東に遠征すると五千の兵を率いてこれに降った。その後弟の阿羅槃を使者として洛陽に送って朝貢させたため、魏より王に封じられた。

蘇僕延

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ソボクエン】
烏丸の大人。「速僕丸」「速附丸」とも表記される。
遼東に一千戸余りの集落を擁し「峭王」を称していた。幽州で張純?が反乱を起こすとこれに同調し、
張純?から五万の兵を任されて清川・平原を陥落させ多くの官民を殺したが幽州牧として着任した劉虞?の説得を受けて帰順した。
袁紹?公孫瓚?が争うと袁紹に味方し、袁紹?から単于に任ぜられた。袁家が分裂すると袁譚?に付くが、曹操?から使者として送られてきた牽招?の説得を受けて支援を中止。
袁煕?袁尚?が烏丸を頼ると曹操?と戦うが、敗れて遼東に逃れたところを袁尚?と共に公孫康?によって殺された。

難楼

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ナンロウ】
上谷烏丸の大人。霊帝の時代に九千の部落を率いて、王を称した。
蹋頓?が烏丸の大人になると、蘇僕延・烏延と共に公孫瓚?と戦い、袁紹?から単于の称号を受ける。
その後楼班?と蘇僕延・烏延は曹操?に敗れ公孫康?に斬首されるが、上郡烏丸の行単于・那楼は曹操?に降伏しており、
これが難楼と同一人物ではないかとも言われる。

能臣抵之

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ノウシンテイシ】
烏丸の大人。右北平単于とも代郡の大人ともいう。
袁煕?袁尚?が烏丸を頼ると曹操と戦い、白狼山の戦いでは数万騎を率いて出撃するが、軽騎兵を率いて急襲した曹操?との遭遇戦になり戦死した。

普富盧

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【フフウロ】
烏丸の大人。代郡の行単于。「修武盧」とも表記される。
烏丸を頼った袁煕?袁尚?を擁して曹操と戦ったが敗北し、遼東に逃げ込んだ袁尚?らが殺されると難楼と共に配下の名王たちを率いて曹操に帰順した。
曹操?が魏王に就任した時にも烏丸を代表して来朝している。その後は鮮卑の軻比能?に属し、魏と交易をおこなった。

貪至

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ドンシ】
烏丸の王。「貪至王」と呼ばれ本名は不明。
張純が烏丸を糾合して反乱を起こすとこれに協力するが、公孫瓚?の討伐を受けて降伏した。
その後貪至王の兵は公孫瓚?軍へ編入され、その中から選りすぐられた兵士が「白馬義従」と名付けられたため、公孫瓚?は「白馬将軍」と呼ばれるようになった。

魯昔

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ロセキ】
烏丸の王。魏に属しており、曹操?は漢中攻略後、魯昔を北方への備えとして置いた。
しかし魯昔は故郷に妻を残してきたことを口実として五百騎を率いて脱走した。
人々は馬術と弓術に通じた魯昔を討つことはできないと考えたが、西部都督の梁習?は同じく騎射に優れて土地勘もある鮮卑族にこれを追尾させ、弓をもって射殺させた。
曹操?は魯昔の脱走によって北方に大乱が起こることを危惧していたが、梁習?がすぐに解決したことを聞くとこれを称賛したという。

匈奴

モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた勢力。
紀元前200年には冒頓単于が白登山の戦いで前漢皇帝劉邦?を破ったことで、前漢から貢納物を受けるという実質的な中原の支配者となった。
紀元前121年に衛青・霍去病?との攻防で敗れ立場は逆転するものの、依然として中央ユーラシア東部を支配し続けた。
しかし、紀元前57年の内紛で五つに分裂した後は南北二部に集約され、北匈奴は東部を鮮卑に侵犯され、南匈奴は漢に臣従し同化した。
後漢末期においては北匈奴は姿を消し(一説にはフン族となって西に流れたとも)、南匈奴は同化しているため度々登場する。

阿眉拐

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【アビカイ】
匈奴の王子。左賢王劉豹?蔡琰?の次子。
母が曹操?によって帰国させられることになった時はまだ幼く、母との別れを嘆き悲しんだという。
蔡琰?はこの時の心情を『悲憤詩』に記している。本名は史書に記載されておらず、民間伝承に名が伝わっている。

阿迪拐

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【アチュウカイ】
匈奴の王子。左賢王劉豹?蔡琰?の長子。
母が曹操?によって帰国させられることになった時はまだ幼く、母との別れを嘆き悲しんだという。
蔡琰?はこの時の心情を『悲憤詩』に記している。本名は史書に記載されておらず、民間伝承に名が伝わっている。

檀柘

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ダンシャク】
匈奴の流れをくむ貲虜の大人。
貲虜は元来匈奴の奴婢だった種族であったが、匈奴が衰退したため独立勢力を持つようになった。
漢・魏の交代期に涼州に割拠したという。

胡薄居姿職

生年登場没年死因
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【コハクキョシショク】
匈奴の大人で涼州安定郡出身。
233年、安定城塞にて魏に反乱を起こしたため胡遵?の追討を受け、これに降伏した。

須卜骨都

生年登場没年死因
189自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【スボクコツト】
匈奴の単于。須卜骨都侯であったという肩書だけが伝わり本名は不明。
単于の羌渠が度重なる徴兵への反発から反乱を起こされて死亡すると、反乱軍から新たな単于として擁立される。
しかし即位後一年で死去した。

禿瑰来

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【トクカイライ】
匈奴の流れをくむ貲虜の大人。
漢・魏の交代期に割拠した檀柘の部族から枝分かれして南下し、広魏・令居の界隈の近傍にいてしばしば魏に反抗したが、涼州刺吏によって討ち取られたという。

藩六奚

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ハンロッケイ】
匈奴の右谷蠡王。去卑の弟。
単于の呼廚泉?が魏に入朝した後、本国に戻った兄に従い匈奴を監督した。
匈奴の拓跋部が反乱を起こして南へ攻め寄せたため兄の命で北上してこれを迎え撃ったが敗れ、五人の息子と共に捕虜となる失態を犯したという。
魏で死去した。子孫は彼の名前を姓として藩六奚氏を名乗ったが、後世の人が謝り伝えて破六韓氏としたという。

劉訓兜

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【リュウクントウ】
匈奴の将。右賢王去卑の子で、別名を誥升爰といった。
同族の北部帥・劉猛が晋に対して反乱を起こして敗死すると彼の率いていた部族を統率し、
後に「鉄弗部」と呼ばれる部衆の長となった。
その死後、後裔の赫連勃勃が五胡十六国の一つ「夏」を建国した際「元皇帝」と追尊された。

劉靖

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【リュウセイ】
匈奴王。魏で曹爽?が専横していた頃に并州で強勢を誇った。
このため魏は孫礼?を并州刺吏・振武将軍・使持節護匈奴中郎将に任命してその対策にあてた。
しかし孫礼?の派遣後も鎮圧されたという記録はなく、その後も勢力を保ち続けたと考えられる。

劉豹

生年登場没年死因
279自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【リュウヒョウ】
匈奴の左賢王。劉淵の父。冒頓単于と漢との姻戚関係を由来して、劉豹の代から匈奴の単于の家系は劉姓を名乗るようになった。

※晋の統一の前年に入朝して司馬炎?に謁見した。父とされる於夫羅の活動期と時代が離れすぎていることから「於夫羅?の子の左賢王」と「劉淵の父の劉豹」は別人であり、
 史書において複数人の事跡が合成されて劉豹という一人の人間のものとして記録されたのではないかという説が存在する。
 デフォルトで存在する劉豹?は前者、本武将は後者として扱う。

劭提

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【ショウテイ】
奴の流れをくむ貲虜の大人。
しばしば涼州に来寇したが魏はこれを討伐しきれず、貲虜の者もある者は降来し、ある者は遁去したが劭提は常に西州の道中の患であったという。

羌渠

生年登場没年死因
188不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5276343847

【キョウキョ】
南匈奴単于。単于の呼徴が使匈奴中郎将の張脩に殺されると、後継の単于として擁立された。
184年、黄巾の乱が起きると、後漢の命令に従って子の右賢王・於夫羅?を援軍に派遣した。
さらに、張純?の反乱に際しても、霊帝の詔に従って援軍を派遣した。
しかし、匈奴にとって実利のない、後漢への度重なる援軍は有力者の反発を買い、殺された。
匈奴の国人たちは、須卜部出身の骨都侯を単于に擁立したが、1年ほどで死去した。

去卑

生年登場没年死因
不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5171404959匈奴

【キョヒ】
匈奴の右賢王あるいは左賢王。河東郡平陽出身。
献帝が長安を脱出する際董承によって援軍として呼び寄せられ、楊奉と連合して李傕・郭汜と戦い、数千もの敵兵の首を取る戦果を挙げた。
その後白波賊の胡才と共に御車の後ろを守ったが、李傕の追撃を受けて大敗した。献帝が曹操に擁立され許都へ移るとこれに随行し、それから帰郷した。
曹操が魏公になると単于の呼廚泉に魏への入朝を勧め、これに従った呼廚泉が配下の諸王とともに魏へと移り住むと曹操から匈奴の監督を命じられた。

劉猛

生年登場没年死因
186205不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義

【リュウモウ】
匈奴の右賢王。去卑の弟というが活動期間の違いから息子とも推測される。
晋に対して反乱を起こし、長城を出て孔邪城に駐屯した。司馬炎?はこれに対して何楨率いる討伐軍を派遣した。
劉猛は何楨や并州刺吏の劉欽らによって幾度か討ち破られ、
勢力が弱まったところを何楨の策によって寝返った部下の李恪によって暗殺された。単于を自称していたという。