みんなの新武将/西晋・東晋/八王軍閥

Last-modified: 2023-04-06 (木) 22:51:34

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



司馬倫軍

孟観(叔時)

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8582735552
9084735552掃討捕縛沈着長駆奮戦大喝連弩魚鱗強化覇道

【モウカン(シュクジ)】
晋の武将。渤海郡東光県の出身で剛毅沈着な性格で若くして読書を好み、天文にも通じていた。
291年の楊駿誅殺に功績を挙げて黄門侍郎となり、恵帝から特に信頼されていた
40人を部下に与えられて後に積弩将軍に昇進。
斉万年の乱では諸将が敗北する中で張華の進言で追討軍の大将に任じられて
十数回の戦いに勝利して斉万年を捕える功績を挙げた。
301年に司馬倫が帝位を簒奪した際に最後まで従ったが、司馬倫が誅殺された事
によって殺害された。

親愛武将:司馬倫
嫌悪武将:楊駿

孫秀(俊忠)

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1813783714策士智嚢功名悪名強欲政令徹底我道

【ソンシュウ(シュンチュウ)】
越王司馬倫の側近。
琅邪の出身で、代々五斗米道を信仰していた。
元々は身分が低く潘岳の家の家人であったが、潘岳らには迫害されていた。
後に文書の才を持って越王司馬倫に仕えた。皇后・賈南風が皇太子・司馬遹を廃嫡すると、賈南風廃立計画に誘われたが、
司馬倫にわざと計画を賈南風に漏らし、司馬遹を殺させてから挙兵すれば両方始末できると進言し、成功させた。
さらに謀略を持って司馬倫の帝位簒奪に協力し、その功績を以て中書令に任じられ、恨みのある潘岳や石崇、
解系らの一族を悉皆処刑して権勢を奮ったが、司馬倫と共に殺害された。

親愛武将:司馬倫、梁緑珠、王戎
嫌悪武将:潘岳、石崇、解系、解結、張林

※ 呉から晋に寝返った孫秀とは別人

孫会

生年登場没年死因
281301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
466816711悪名惰弱侵略荒廃我道

【ソンカイ】
孫秀の子。
背が低く不細工で、風采は奴僕にも劣ると評された。
父の出世で、恵帝の娘・河東公主を娶ることになり、公主の母(賈南風)の喪が明ける前に婚姻を強行した。
三王が挙兵すると、士猗・許超と共に宿衛兵を率いて司馬穎を迎撃した。
緒戦は司馬穎軍の趙驤に勝利したが、司馬倫が3人に同格の指揮権を与えた不手際もあって連携を欠いた。
さらに一度勝利した油断もあったので、再戦を挑んだ趙驤に打ち破られて敗走した。最期は父と共に殺された。

張林

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5966484037疾走強欲

【チョウリン】
魏・西晋の将軍。常山郡真定県の人。張融の子で、張燕の曾孫。
司馬倫が賈南風へのクーデターを企てると、これに内応して功績を挙げ、張華を殺した。
司馬倫が九錫を受けようとした時、劉頌が反対したので、張林は劉頌を殺すよう主張した。
しかし孫秀が、「張華と裴頠を処刑した事で、民衆の信望は損なわれている。そのうえで劉頌まで殺すべきではない」と反対したので、取り下げた。
司馬倫が皇帝を簒奪すると、張林は衛将軍に取り立てられた。しかし孫秀の差し金で、開府の権限を与えられなかった。
元々孫秀とは不仲で、張林は曾祖父以来の家柄を誇りにしていたので、成り上がりの孫秀を見下していた。
そこで司馬荂に孫秀誅殺を勧める手紙を送ったが、司馬荂は司馬倫に通報し、司馬倫は孫秀に手紙を見せた。
その結果、孫秀の進言で、張林は三族皆殺しにされた。

嫌悪武将:孫秀(俊忠)

孫旂(伯旗)

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6241416972名声小心惰弱

【ソンキ(ハクキ)】
西晋の政治家・将軍。楽安郡の人。孫歴の子。子に孫弼・孫回ほか。
潔く物静かで、若くして身を正しく清めた。地方に出て荊州刺史となり、名声と地位は二解(解系・解結兄弟)に匹敵した。
290年、中央に戻り衛尉となるが、武器庫の失火の責任を取り免職となる。その後再び地方に出て兗州刺史となり、
さらに平南将軍・假節に任じられた。
子の孫弼は、司馬倫側近の孫秀を一族として迎え、司馬倫一党の簒奪に加担した。
孫旂も司馬倫政権で車騎将軍・開府となったが、年少の子の孫回を孫弼の元に使わし、「度を超すと必ずや家の災いになる」と
譴責した。しかし孫弼らを従わせることはできず、孫旂は慟哭した。果たして、司馬倫一党が討たれると、
孫弼らもまた殺された。そして孫旂は、司馬冏の檄文を奉じた襄陽太守・宗岱に誅殺され、三族皆殺しとなった。

孫弼

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3857506438能吏強欲高慢政令徹底名利

【ソンヒツ】
西晋の政治家。孫旂の子。
従兄弟(孫旂の弟の子)の孫髦・孫輔・孫琰と共に、優秀な官吏として評価された。
司馬倫側近の孫秀と親しくなり、家柄の悪い孫秀を一族として迎え入れた。
司馬倫の挙兵で孫秀に従い、司馬倫が簒奪すると、上将軍・射声校尉に昇進し、従兄弟達も揃って将軍となり、開国郡侯の爵位を賜った。
孫旂は司馬倫一党への深入りを戒めたが、孫弼は聞き入れなかった。
最期は孫秀と共に4人まとめて殺された。

親愛武将:孫秀(俊忠)

張泓

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8474735969

【チョウオウ】
西晋の政治家・武将。
司馬衷が皇太子であった時、父の武帝・司馬炎?が政治課題をテストしたことがあった。
賈南風は回答を代作させたが、張泓は「故事を用いた答案を書けば、代作と分かってしまいます。端的に回答を書くべきかと」と意見した。
そこで賈南風は張泓に代作させ、及第点の答案を司馬衷に書き写させた。司馬炎はこの回答に満足した。
司馬倫が実権を握ると、その配下となった。斉王・司馬冏の軍勢を迎撃し、連戦連勝した。
しかし、司馬倫に誤って「張泓が戦死した」と報告した者がおり、間違いが分かった後も軍勢は精彩を欠くようになった。
それでも司馬冏軍と戦い続けたが、司馬倫が王輿らのクーデターで退位させられると降伏し、処刑された。

司馬雅

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6876424448

【シバガ】
西晋の武将。
皇太子・司馬遹の近臣で、左衛司馬督。司馬遹が賈南風に廃立されると、司馬雅は司馬遹は無罪と考え、
許超・士猗と共に賈南風の廃立と司馬遹の復位を計画した。
張華・裴頠は勧誘しがたいと考え、趙王・司馬倫が野心家で誘いに乗りやすいと考えた。そこで、司馬倫側近の孫秀に
脅し半分に誘いを掛けた。ところが、司馬遹が殺されると司馬雅と許超は後難を恐れ、病気を理由に計画から降りた。
しかし、司馬倫がクーデターを成功させると許超と共に配下になったことから、何らかの密約があったのかも知れない。
その後は司馬倫の簒奪に加担し、三王が挙兵すると、張泓と共に斉王・司馬冏の軍勢に連戦連勝した。
恐らくは、司馬倫の敗死後に誅殺されたと思われる。

親愛武将:司馬遹、許超

※司馬姓だが、皇族という記述はない。遠縁だろうか。

司馬冏軍

王輿

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5959705325堅牢強欲功名侵略荒廃我道

【オウヨ】
西晋の政治家・武将。
司馬倫に従った。淮南王・司馬允が反司馬倫を掲げて挙兵すると、王輿は宮殿の門を閉じてこれを防いだ。
司馬允が敗死すると、功績で左衛将軍に昇進した。
司馬倫の簒奪に際しては、司馬雅らとともに甲士を率いて入殿し、三部司馬へ禅譲が執り行われる旨を告げた。その場で逆らう者は無かった。
司馬倫が三王の挙兵で劣勢になると、寝返って孫秀を攻撃し、立て籠もる中書省の建物を焼いた。孫秀は配下の趙泉が斬った。
さらに司馬倫に迫って退位させ、恵帝を復位させた。この功績で、王輿は死刑を免れた。
しかし、司馬冏と司馬蕤が対立すると、王輿は司馬蕤と結託して司馬冏を殺そうとした。陰謀は事前に発覚し、王輿は誅殺された。

何勗

生年登場没年死因
302不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7765526251

【カキョク】
西晋の政治家・武将。揚州廬江郡の人。何楨?の子。
楊駿が実権を握ると、司馬亮に楊駿を討つよう主張したが、容れられなかった。
のちに豫州刺史となった。301年、司馬倫が皇帝を簒奪すると、斉王・司馬冏の挙兵に、董艾らと共に呼応した。
司馬倫軍の張泓を破り、孫輔らを斬る功績を挙げた。司馬冏が勝利すると、何勗は車騎将軍・中領軍となり、側近筆頭と目された。
『資治通鑑』によると、長沙王・司馬乂が挙兵すると、大司馬長史の趙淵が司馬乂に寝返り、何勗は殺された。司馬冏もまた、趙淵に捕らえられた。

董艾(叔智)

生年登場没年死因
302不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7271412339果敢功名我道

【トウガイ(シュクチ)】
西晋の龍驤将軍。董綏の子で董遇の孫。
父や祖父と異なり、功名を立てることを好み、士大夫としては不品行だった。
司馬冏の反司馬倫の挙兵に、豫州刺史・何勗らと共に呼応した。
司馬冏が勝利すると典枢機に昇進し、側近として我が儘放題振る舞った。
劉喬は董艾の素行を弾劾したが、かえって董艾に失脚させられそうになり、自ら身を引いた。
長沙王・司馬乂が反司馬冏の挙兵をすると、董艾が迎撃したが、激戦の末敗れ、
司馬冏に連座して処刑された。

葛旟

生年登場没年死因
302不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5240664445智嚢直情

【カツヨ】
斉王・司馬冏の謀臣。
司馬冏が実権を握ると、牟平公・従事中郎となった。司馬冏配下で公爵を与えられた5人の側近の筆頭。
呉の旧臣の顧栄は司馬冏に仕えていたが、酒浸りになってサボってばかりいた。
顧栄の友人の馮熊は葛旟に働きかけ、顧栄を中書侍郎に回して貰うと、顧栄は一時的にサボらなくなった。
司馬顒・司馬乂が反司馬冏の兵を挙げると、王戎・司馬越は司馬冏に引退を勧めた。
葛旟は激怒し、「趙庶人(司馬倫)と孫秀が天下を傾けた時、率先して打倒する者が無い中で
わが公が危険を顧みず挙兵したから今の平和がある。漢魏以来、王公が辞職して
妻子が無事であった試しがあっただろうか。まだ言う者は斬る」と抗戦を主張した。
しかし、ちょうど司馬乂の属官に転任していた顧栄に殺された。

親愛武将:司馬冏
嫌悪武将:司馬倫、孫秀(俊忠)

盧播

生年登場没年死因
302?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6962556035

【ロハン】
西晋の振威将軍。
はじめ梁王・司馬肜に仕えた。ある時、司馬肜は「大臠(大きな肉の切り身。暗に権力)を食べるのは難しい」といった。
参軍の王銓は、「盧播こそ、(大臠を食べるのに)相応しい」と評価した。
斉万年が反乱を起こすと、援軍に来た周処と共に、盧播と解系が出撃した。しかし、司馬肜の差し金で、
周処一人に突撃させ、盧播と解系は周処を見殺しにした。
司馬肜の死後、斉王・司馬冏に仕えた。司馬冏らが司馬倫打倒の兵を挙げると、何勗と共に司馬倫軍の張泓に大勝した。
以降の消息は不明。

陳蒞(叔度)

生年登場没年死因
302?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2417515949史官

【チンリ(シュクド)】
巴西郡安漢県の人。陳寿?の甥(兄の子)。
『華陽国志』によると、梁州の別駕となった。八王の乱で斉王・司馬冏の辟召を受け、配下となった。洛陽で死去した。
病死なのか、司馬乂に誅殺されたのかは不明。
兄の陳符、従弟の陳階と共に、著作が数十編あったという。

※「蒞」は「莅」で代用可能。

司馬乂軍

皇甫重(倫叔)

生年登場没年死因
304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8565655761堅守名声癇癪連弩

【コウホジュウ(リンシュク)】
西晋の政治家。安定郡朝那県の人。皇甫嵩?の一族。弟に皇甫商。
性格は沈着・果断で才気があり、張華に評価された。新平太守となり、元康年間(291-299)、秦州刺史となった。
司馬顒配下の李含は、皇甫兄弟と憎み合っており、主人に司馬乂の元にいた皇甫商討伐を唆した。
司馬乂は戦を望まなかったので、両者を和解させようとしたが、皇甫重らは拒否した。
皇甫重の駐屯する冀城は司馬顒・司馬穎の攻撃を受け、皇甫重の知らぬ間に皇甫商も司馬乂も殺されたが、皇甫重はなおも城を堅守していた。
地上の兵は連弩で防ぎ、トンネルを掘って地下から侵入を試みる兵は、先手を打ってトンネルを掘り迎撃した。
また、養子の皇甫昌を派遣して司馬越に救援を要請したが、司馬越は既に裏切っていたので応じなかった。
司馬顒は城を抜けないと判断して降伏を促したが、皇甫重は拒否した。しかし、皇甫商が既に殺されたことが判明すると、
救援は来ないと判断した配下の兵達に殺された。

親愛武将:皇甫商
嫌悪武将:李含

皇甫商

生年登場没年死因
303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3458765743名声短慮高慢

【コウホショウ】
西晋の政治家。安定郡朝那県の人。皇甫重の弟。
豪族の家柄を恃みにしていた。寒門の出の李含に対し、恩に着せるような態度で付き合おうとしたので交際を拒否され、
報復に李含の仕官を徹底妨害した。その結果、李含とは仇敵関係になった。
司馬倫政権で重用され、梁州刺史となった。司馬倫が敗死すると司馬顒に降り、司馬顒は皇甫商を慰撫した。
しかし、司馬顒に仕えていた李含が、ここぞとばかりに皇甫商を警戒するよう主張し、
さらに皇甫商が洛陽に帰る時の送別会では、二人で罵り合いになり、司馬顒に仲裁された。
司馬冏が実権を握ると、皇甫商を参軍に任じ、司馬冏を倒した司馬乂もまた、皇甫商を再任した。
李含は司馬顒に皇甫商討伐を唆した。司馬乂は戦を望まなかったので、両者を和解させようとしたが、皇甫兄弟は拒否した。
さらに、司馬乂に進言して「河間王の昨今の行動は、全て李含の策謀です」と主張し、李含を討たせた。
司馬顒・司馬穎は皇甫商征伐を名目に、司馬乂を攻撃した。司馬乂は司馬衷の手勅を用意して、
司馬顒軍の游楷に兵を解散させるよう命じ、皇甫商を使者とした。その途中、従甥(姉妹の子)と出くわしたが、
従甥は皇甫商を憎んでいたので捕らえて司馬顒に引き渡し、司馬顒は皇甫商を殺した。

親愛武将:皇甫重
嫌悪武将:李含

劉沈(道真)

生年登場没年死因
304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5870776472求心不屈人脈猪突直情

【リュウシン(ドウシン)】
西晋の政治家・武将。燕国薊県の人。
幽州の名族の出身。広く学問を学び、古を好んだ。衛瓘?が辟召して掾とし、幽州大中正に任じられた。
儒学と賢能を重んじ、霍原を郷品二品(九品官人法で2番目であり、一部の例外を除いて最高評価)と評価した。
斉王・司馬冏が実権を握ると招聘され、侍中となった。蜀では李流が反乱を起こしていたので、劉沈を侍中・仮節とし、
益州刺史の羅尚と梁州刺史の許雄らを統轄して李流を討伐させた。
ところが、長安で河間王・司馬顒に軍師となるよう要請されて足止めされ、蜀にはやむなく席薳を代わりに派兵した。
司馬乂が実権を握ると、雍州刺史となった。張昌が反乱を起こすと、司馬乂政権は、司馬顒に張昌討伐として劉沈を派兵するよう命じた。
司馬顒は命令に従わず、独断で出兵しようとした劉沈から兵を取り上げた。司馬顒と司馬穎が公然と反乱を起こすと、
王瑚と祖逖は司馬乂に進言して、劉沈に司馬顒の背後を突かせた。劉沈は皇甫澹・衛博と共に司馬顒軍を破り、長安を包囲したが、
連携が悪く各個撃破された。捕虜となった劉沈は司馬顒の謀反を非難し、激怒した司馬顒に鞭打ちの上腰斬に処された。
有識者は、謀反人であり、忠義の士を虐殺した司馬顒の滅亡は近いと噂し合ったという。

司馬穎軍

盧志(子道)

生年登場没年死因
312?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6746897371

【ロシ(シドウ)】
西晋の政治家・参謀。盧珽の子。盧植?の曽孫にあたる。
成都王司馬穎の参謀となり、司馬冏が司馬倫に対して挙兵した際に司馬冏と共に
司馬倫を打倒すべきと進言、討伐に功積を挙げた。
以後の八王の乱においては司馬穎に付き従い、幾度となく進言した。
一方で旧呉の出身者を見下しており、孟玖の讒言に賛同して陸機一族を死に追いやったこともある。
司馬穎の死後は司馬越に属して軍諮祭酒を経て衛尉、尚書となるが永嘉の乱にて
家族と共に縁戚の劉琨を頼る途中で劉粲により殺害された。

親愛武将:司馬穎、劉琨
嫌悪武将:陸機、陸雲

盧綝

生年登場没年死因
不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4541805946史官

【ロリン】
西晋の政治家。尚書郎。盧志の甥。
成都王・司馬穎に仕え、盧志・盧謐と共に最後まで支えた。
自らの体験した内乱の顛末を記した著書『晋八王故事』が、後世、この内乱が「八王の乱」と呼ばれるいわれとなった。
著書『晋八王故事』『晋四王遺事』は現存せず、引用された一部が残っているに留まる。
なお、『晋四王遺事』には、恵帝が洛陽から逃れ、帰って来た時に宦官が素焼きの器に茶を奉ったという記述がある。
これは、呉の韋昭?と並んで、中国ではもっとも古い時期の喫茶に関する記事であるという。

孟玖

生年登場没年死因
304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1813672816言毒扇動悪名強欲

【モウキュウ】
成都王・司馬穎配下の宦官で司馬穎に寵愛を受けた。
父親を邯鄲令にしようとしたが陸機に止められ、陸機の軍にいた弟の孟超が
戦死した事で陸機を恨んでおり、陸機が長沙王司馬乂に通じていると司馬穎に誣告した。
牽秀・王闡・郝昌・公師藩・盧志らも賛同し、陸機を処刑に追いやった。
さらに、陸雲・陸耽・孫拯も殺そうとしたので、江統・蔡克らが敗戦の罪はまだしも、
謀叛は冤罪であると訴え、司馬穎に思い止まるよう諫言した。司馬穎は陸雲らを許そうとしたので、
孟玖は獄吏に孫拯の自白を偽造させ、ついに陸雲・孫拯らは三族皆殺しにされた。
司馬穎が皇太弟となると、政治の実権を握り権勢を振るったが、
後に孟玖も王澄の告発で罪を問われて殺害された。

嫌悪武将:陸機、陸雲、陸耽、孫拯

孟超

生年登場没年死因
303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
576111610強奪猪突侵略荒廃我道

【モウチョウ】
成都王・司馬穎配下の武将。
宦官・孟玖の弟で、司馬穎が長沙王司馬乂と対立した際には陸機の軍に
属して討伐に赴いたが、略奪を欲しいままにして陸機に批判されて陸機の謀反を
訴えた。
その後、独断で戦場に突出して戦死した。

親愛武将:孟玖
嫌悪武将:陸機、陸雲

石超

生年登場没年死因
305不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7972412448

【セキチョウ】
西晋の武将。冀州勃海郡南皮県の人。石喬の子、石苞の孫。
孫秀によって石崇が殺された時、連座して父も殺されたが、石超は難を逃れ成都王・司馬穎を頼った。
司馬穎が反司馬倫の挙兵に加わると、振武将軍に任じられた。緒戦は司馬穎軍が敗れたが、石超らは再戦で司馬倫軍の劉琨らを破った。
司馬穎と長沙王・司馬乂が争うと、石超は常に先鋒となって戦い、中護軍に移された。
陳眕らが恵帝を奉じて北伐すると、奇襲して大勝し、恵帝を鄴に軟禁した。
しかし、幽州刺史・王浚に攻められると大敗し、鄴を放棄して河間王・司馬顒を頼った。
305年、東海王・司馬越、范陽王・司馬虓らが反司馬顒の兵を挙げると、石超は滎陽で迎撃したが、司馬虓軍に敗死した。

公師藩

生年登場没年死因
306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6661374665

【コウシハン】
成都王・司馬穎配下の武将。陽平郡の人。
司馬穎の帳下督となった。303年、司馬穎軍で洛陽攻略の総大将となった陸機が敗北すると、
宦官の孟玖は、陸機が謀反したと讒言した。公師藩・王闡・郝昌はみな孟玖に取り立てられたので、
迎合して陸機は謀反人と証言した。その結果、陸機は殺された。
304年、司馬穎は王浚・司馬騰に敗れ、皇太弟を廃立された。
305年、公師藩・楼権・郝昌は司馬穎の復権を掲げて挙兵し、司馬穎を迎えて兵は数万に達した。
この時、群盗の汲桑・㔨(のちの石勒)も配下に加わっている。
しかし司馬模に敗れ、さらに司馬虓配下の苟晞に大敗し、斬首された。

親愛武将:孟玖、司馬穎
嫌悪武将:陸機、陸雲

司馬顒軍

索靖(幼安)

生年登場没年死因
239303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5846626764

【サクセイ(ヨウアン)】
西晋の政治家・武将・書道家。
後漢の書道家・張芝の姉の孫にあたる。
敦煌の出身で、戊己校尉を経て雁門太守、酒泉太守などを歴任した。
296年には征西大将軍司馬肜配下の左司馬として涼州の異民族討伐に功績を挙げ、
301年には帝位を簒奪した司馬倫討伐に加わって散騎常侍・後将軍となる。
その後は河間王・司馬顒に従って長沙王司馬乂討伐に参加したが、その時に
負った傷が元で死亡した。
書道家としても著名で衛瓘?と並び称され、書跡には「月儀帖」や「出師頌」がある。

牽秀(成叔)

生年登場没年死因
306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7167683722詩想功名癇癪

【ケンシュウ(セイシュク)】
西晋の武将。武邑国観津県の人。父は不明だが、牽招?の孫。
雄弁で文才があり、性格は豪快で侠気があった。二十歳前後で名声を得て、衛瓘・崔洪に評価された。
西晋の太康年間(280-289)、新安令に仕官し、司空府の従事中郎に昇進した。
しかし、外戚の王愷と不仲で、浮気の噂を立てられた。疑いは晴れたが、王愷を非難した文面が
激烈すぎたために世論の不興を買い、辞職に追い込まれた。
賈南風の時代には、賈謐二十四友の一人となった。
牽秀は血気盛んで、将帥となる事を望んでいた。張昌が反乱を起こすと、司馬乂に討伐を命じられたが、
牽秀は抜け出して司馬穎に味方した。司馬穎は司馬乂討伐のために、牽秀を冠軍将軍に任じ、陸機の元で従軍させた。
陸機が敗れると、死刑を主張して自ら執行し、また宦官の孟玖におべっかを使ったので、司馬穎に親しまれた。
司馬顒が台頭すると、牽秀を重用した。平北将軍となり、関中を守った。
司馬顒がひそかに司馬越に帰順を願い出ると、司馬顒の長史の楊騰は、かつて司馬越に従わなかったために処罰される事を恐れた。
楊騰は、牽秀の首を手柄にしようと考え、司馬越の軍勢と交戦中の牽秀に、主命と偽って戦いを止めさせ、追って彼を殺した。

親愛武将:劉毅、孟玖、司馬穎
嫌悪武将:王愷、陸機、陸雲

張方

生年登場没年死因
306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7688451719火攻強奪悪名粗暴

【チョウホウ】
西晋の武将。
河間の出身で卑賤の身であったが、勇猛さを河間王司馬顒に認められて配下となった。
斉王司馬冏の討伐に活躍し、304年には金墉城に幽閉された司馬乂を城ごと炙り殺し、
恵帝を洛陽から長安に強引に移動させた末に洛陽にて略奪を欲しいままにした。
その後、司馬顒が恵帝を洛陽に戻そうとした事に反対した事で殺害された。

親愛武将:司馬顒、郅輔
嫌悪武将:畢垣

李含

生年登場没年死因
303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4563736342言毒教唆悪名

【リガン】
西晋の政治家・武将。
隴西郡狄道県の人。寒門の出で、孝廉に推挙されたが、名門の皇甫商に交際を求められて拒んだため、皇甫商の嫌がらせで低い官職にしか就けなかった。
しかし、郭奕(郭淮の甥)は李含の才能を評価して抜擢した。上洛したが、やはり出自の悪さを咎められ、出世できなかった。
司馬倫配下の孫秀に評価され、のちに長安を守る河間王・司馬顒配下となった。司馬冏らが挙兵すると、李含は司馬倫に味方するよう進言した。
しかし、司馬冏らが優勢になると寝返って司馬冏らに付いた。
李含は再び上洛したが、怨敵の皇甫商は司馬冏に仕えていたので、ついに出奔し、司馬顒に詔を偽り、司馬冏を討つよう進言した。
李含の計画は、司馬乂に司馬冏を討たせ、返り討ちに遭ったところでおもむろに司馬冏討伐に乗り出すはずだったが、司馬乂が勝利したため失敗した。
皇甫商は、兄の皇甫重と共に司馬乂に仕えたため、李含は司馬顒に皇甫商を討たせようとした。司馬乂は李含と皇甫商を和解させようとしたが、皇甫商は拒否した。
李含はさらに、司馬顒の命令で司馬乂を襲撃しようとしたが、皇甫商の進言で備えをしていた司馬乂に捕らえられ、処刑された。

嫌悪武将:皇甫商、皇甫重

畢垣

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
343170149煽動高慢

【ヒツエン】
西晋の政治家。河間国の人。
河間王・司馬顒の参軍となる。畢氏は河間国の名門だったが、張方は畢垣を侮っていた。
司馬越との戦いが劣勢になると、畢垣は張方が謀叛を企んでいると讒言し、
「張方が親しく信任している郅輔は、きっとその謀略について詳しく知っているでしょう」と述べた。
そして郅輔に対しては、「王がもしそなたに質問したら、ただ『はい、その通りです』と言え。
そうしなければ、必ず禍を免れることはできまい」と命じた。
その結果、司馬顒は畢垣を信用し、郅輔に命じて張方を殺させた。

嫌悪武将:張方

郅輔

生年登場没年死因
306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6767257459富豪

【シツホ】
西晋の商人・政治家。
長安の富豪で、張方に目を掛けて手厚く援助した。
張方が出世するとその帳下督となり、非常に親密だった。司馬越が司馬乂を売ると、
張方の命令で司馬乂の身柄を引き取った。
司馬顒が劣勢になると、畢垣は彼に目を付け、「張方が反乱を起こそうとしている」と
司馬顒に吹き込み、司馬顒によって張方を殺すよう命じられた。
郅輔は張方と親しかったので、刀を持って軍営に入っても門番は怪しまなかった。
郅輔は、張方が書状の箱を開けた隙に首を斬った。
張方が死ぬと、司馬越方は司馬顒恐るるに足らずと判断し、競って攻め込んで来た。
司馬顒は張方を殺したことを後悔し、人をやって郅輔を暗殺したが、畢垣が殺されたという記述は無い。

親愛武将:張方

司馬越軍

江統(応元)

生年登場没年死因
310自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
917784552眼力短慮

【コウトウ(オウゲン)】
西晋の政治家。陳留郡圉県の人。江祚の子。
寡黙だが遠大な志があった。
斉万年の反乱鎮圧を機に、異民族が中国を乱していると考え、『徒戎論』を著した。
戎狄(異民族)は凶暴で漢民族とは相容れない存在なのに、戎狄の移民が進み、国内に雑居させたのが
反乱の原因と主張し、戎狄の国外追放を主張した。現実的では無く、却って反乱を招くとして受け入れられなかったが、
江統はあくまで異民族の追放を主張し、費用も異民族に自腹を切らせるべきだと主張した。
のち太子洗馬となった。皇太子・司馬遹の素行を心配して諫めたが、聞き入れられなかった。
司馬遹が廃立されると、賈南風の禁を犯して連行される司馬遹を見送り、免職となった。
八王の乱では司馬冏に仕え、ここでも諫言したが聞き入れられなかった。司馬穎の元では、陸雲の弁護をしたが聞き入れられなかった。
司馬越が兗州牧となると別駕となり、州治の実務を任された。郗鑒らを登用した。
310年、成皋に避難し、まもなく病死した。

親愛武将:司馬遹
嫌悪武将:樹機能、斉万年、劉淵、郝散、石勒、慕容廆、李特、拓跋力微

荀愷(茂伯)

生年登場没年死因
240?255305?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5575726248扇動高慢

【ジュンガイ(モハク)】
魏・西晋の武将・政治家。荀霬の子で荀彧の曾孫。母は司馬師司馬昭の妹。
『荀氏家伝』によると、司馬懿に将来を嘱望され、幼名を虎子と名付けられた。
263年、蜀漢征伐に護軍として従軍し、王含の籠もる漢城を1万の兵で包囲した。
西晋では司馬炎の従兄弟であり、また名門を自負していた。
楊駿が実権を握った頃、荀愷は従兄弟の喪中だった。楊駿を訪問すると、
傅咸は「喪中で家にいるべきにもかかわらず、楊駿にへつらった」と糾弾した。
かつて荀愷は、武茂に交際を求めて無視されたことを恨んでいた。楊駿が誅殺されると、
武茂は楊駿の母方の従弟だったので、荀愷は武茂を楊駿の一党であると讒言した。その結果、武茂は冤罪で三族皆殺しにされた。
のち司隷校尉に昇進した。八王の乱では司馬越に従った。
『演義』では、兵士として登場。蜀漢の将・盧遜によって窮地に陥った鍾会を助ける手柄を立て、護軍に昇進した。

嫌悪武将:武茂
※能力は『三國志Ⅸ』ベース。知力はやや高め、政治・魅力はやや低めに設定

劉喬(仲彦)

生年登場没年死因
249311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7563727066

【リュウキョウ(チュウゲン)】
南陽郡安衆県の人。劉阜の子で西晋の武将。
荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
その後は楊氏や賈氏らの誅滅に功績を挙げ、八王の乱の時期においては一時期
実権を握った司馬冏に度々進言し、
張昌の乱の討伐に功績を挙げて左将軍となるが、自身を左遷しようとする
東海王司馬越と対立し司馬顒側に所属した。
司馬越に敗れた後は赦されて都督豫州諸軍事・鎮東将軍・豫州刺史となるが、他の諸将と共に石勒に殺された。

親愛武将:劉弘
嫌悪武将:司馬越、董艾、嵇紹

劉輿(慶孫)

生年登場没年死因
265?311?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4110858678煽動能吏策士教唆悪名

【リュウヨ(ケイソン)】
西晋の政治家。中山国魏昌県の人。劉蕃の子で劉琨の兄。漢の中山靖王・劉勝の子孫。
賈謐二十四友にもなっている。司馬倫が実権を握ると、孫秀と不仲だったので一度免官となるが、
倫の子の司馬荂は劉琨の姉婿だったので、まもなく散騎侍郎に任じられた。
司馬倫が敗死すると、司馬冏は名声に免じて劉兄弟を助命した。
河間王・司馬顒が詔を偽り范陽王・司馬虓討伐を命じると、劉兄弟も標的となった。司馬顒に敗れ、河北に逃走した。
司馬虓は成都王・司馬穎を監禁していたが、司馬虓が死ぬと、劉輿は変事が起きる事を恐れ、詔を偽って司馬穎を殺した。
東海王・司馬越が劉輿を招聘しようとすると、「彼は脂ぎった人間で、近くに寄られると人を汚すでしょう」と反対する者がいた。
劉輿はあらかじめ、軍事に必要な地理と軍事力のデータを暗記して置いた。東海王府の潘滔らが、
議題の山積に頭を悩ませていたところで劉輿は司馬越に謁見し、司馬越はその計画を聞いて左長史に登用した。
司馬越の元で、賓客の応対や書類決裁に励み、徹夜で仕事することもあった。人々は皆、劉輿の交際・実務能力を高く評価した。
一方で、懐帝側近の繆播・王延らの誅殺を計画し、実行させた。また、劉琨を并州に駐屯させたのも、劉輿の進言であった。
洛陽が陥落する以前に、指先の腫瘍が元で死去した。

親愛武将:司馬越、劉琨
嫌悪武将:孫秀(俊忠)

裴盾

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5456572621

【ハイジュン】
西晋の政治家。河東郡聞喜県の人。裴康の次男。妹は東海王・司馬越の妻。
永嘉年間、徐州刺史となった。裴盾は司馬奧を長吏に任じた。
司馬奥の進言で、死刑を厳しく適用し、住民を兵士として徴兵したので、住民に恨まれた。
311年1月、苟晞が懐帝の密勅で司馬越と敵対すると、司馬越の命令で楊瑁と共に苟晞を攻撃したが、撃破された。
4月、漢(前趙)の王桑・冷道に攻められると、将兵は四散した。
司馬奥の進言で漢に降伏したが、王桑らによって殺された。

親愛武将:司馬越

裴邵(道期)

生年登場没年死因
311自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6047806069

【ハイショウ(ドウキ)】
西晋の政治家。裴康の三男。『晋諸公賛』では「裴郃」。
琅邪王・司馬睿が安東将軍となると、長吏となった。司馬睿の幕僚筆頭として、司馬となった王導と親交を深めた。
中央に召されて太子中庶子となり、使持節・都督揚州江西淮北諸軍事・東中郎将として司馬越に従軍するが、陣没した。
のちに王導が東晋の司空になると嘆いていった、「裴道期と劉王喬(劉疇)が生きていれば、吾一人で三公になることも無かっただろうに」。

親愛武将:司馬睿、王導

潘滔(陽仲)

生年登場没年死因
311不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1936837336言毒眼力悪名

【ハントウ(ヨウチュウ)】
西晋の政治家。滎陽郡中牟県の人。潘尼の甥。
始め皇太子・司馬遹に仕えた。司馬遹が廃太子されると、禁を犯して見送りに行き、投獄された。
東海王・司馬越の側近となり、「司馬越府には3才があり、潘滔は大才、劉輿は長才、裴邈は清才である」と賞された。
司馬越が司馬乂を裏切ると、進言して張方に司馬乂を殺させた。
司馬越が苟晞と義兄弟になると、苟晞を兗州から青州に移すよう進言した。その結果、両者の関係に亀裂が入った。
310年11月、司馬越が出陣すると、潘滔は河南尹に任命され、懐帝を監視した。また潘滔・劉望は苟晞を陥れようとしたので、
苟晞は潘滔を殺そうとした。懐帝も苟晞に、司馬越討伐の密勅を下した。潘滔は苟晞に捕らえられたが脱走し、
司馬越の死後も懐帝は排除することはできなかった。
漢(前趙)の攻勢で洛陽陥落が迫ると、苟晞が倉垣への遷都を主張した。懐帝も同意したが、潘滔が反対したので延び延びになり、
洛陽脱出を決行した時には、盗賊に阻まれてできなくなっていた。洛陽陥落後、潘滔は消息不明となった。『晋諸公賛』では陥落前に殺害されたとする。

親愛武将:司馬越
嫌悪武将:苟晞