注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
西晋(265~316)
魏の内部で勢力を培った河内(豫北)の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って265年に簒奪したもの。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南風の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。
中期の武将は西晋中期 を参照
後期(賈南風の死後)の武将は西晋後半を参照
末期の武将は 西晋末期を参照
孫呉・蜀漢の遺臣系は旧孫呉・旧蜀漢系を参照
異民族は異民族(十六国以外)および五胡十六国時代を参照
- 注意点
- 西晋(265~316)
- 晋成立~司馬攸帰藩事件辺りまで
- 一般臣下
- 段灼(休然)
- 樊震
- 徐胤
- 羊琇(稚舒)
- 向雄(茂伯)
- 甄悳(彦孫)
- 馮紞(少冑)
- 曹志(允恭)
- 曹翕
- 曹楷
- 劉阜(伯陵)
- 任愷(元褒)
- 庾純(謀南)
- 庾旉(允臧)
- 孫和
- 劉康
- 姫署
- 袁邵
- 皇甫晏
- 王恂(良夫)
- 傅玄(休奕)
- 張斅(祖文)
- 劉毅(仲雄)
- 山濤(巨源)
- 王乂(叔元)
- 孫歴
- 劉欽
- 劉旂
- 尹璩
- 魯芝(世英)
- 嵇喜(公穆)
- 王覧(玄通)
- 袁準(孝尼)
- 袁毅
- 盧欽(子若)
- 鄭袤(林叔)
- 鄭黙(思元)
- 鄭沖(文和)
- 李憙(季和)
- 孔恂(士信)
- 周浚(開林)
- 張喬
- 張翰
- 范通
- 耿黼
- 解脩
- 姜宗
- 陳勰(太和)
- 華表(偉容)
- 胡威(伯虎)
- 胡羆(季象)
- 武陔(元夏)
- 李胤(宣伯)
- 厳詢
- 孫鑠(巨鄴)
- 侯史光(孝明)
- 謝纘(伯登)
- 范粲(承明)
- 魚豢
晋成立~司馬攸帰藩事件辺りまで
一般臣下
段灼(休然)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
39 | 36 | 71 | 56 | 68 | 嚮導 | 激励 | 運搬開発 | 覇道 |
【ダンシャク(キュウネン)】
魏・西晋の政治家。
敦煌の豪族の出身で、最初は鄧艾の部下として活動していた。
鄧艾が殺害され、晋が成立した後は議郎となり、267年に皇帝司馬炎に対して罪人扱いとされて
いた鄧艾の罪を解く為、鄧艾を強情でせっかちな人物と評しつつも忠義心があったと弁護した。
これにより273年に鄧艾の名誉は回復され、西域に流されていた孫の鄧朗が郎中に取り立てられた。
親愛武将:鄧艾
樊震
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 67 | 51 | 38 | 57 | 長駆 | 斉射 | 雁行強化 | 王道 |
【ハンシン】
魏・西晋の武将。
魏の時代には鄧艾の配下で帳下将として蜀討伐に従った。
晋の成立後は積射将軍となり、咸寧年間(275年~280年)に西戎牙門将と
なった際に司馬炎に謁見し、その際に鄧艾の事を尋ねられて樊震は涙ながらに
鄧艾が忠義溢れる人物である事を語った。
親愛武将:鄧艾
徐胤
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 59 | 62 | 45 | 68 | 水戦 | 諌止 | 駆逐 | 水軍育成 | 覇道 |
【ジョイン】
西晋の武将。
羊祜配下。羊祜は任地での外出を好んだ。ある時徐胤は、こっそり外出しようとした羊祜の前に立ちはだかり、
「将軍の安危はすなわち国家の安危でもあるのです。私が今日死ねば、この門は開くことでしょう(目の黒いうちは通しません、の意味)」
と諫めた。羊祜は態度を改めて謝り、それからはあまり外出しなくなった。
巴東監軍を務めて272年の西陵の役において水軍を率いて長江を下り、
建平にて呉の留慮・朱琬と戦った。
親愛武将:羊祜
羊琇(稚舒)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
236 | 282 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 46 | 81 | 73 | 26 | 浪費 | 強欲 | 方円強化 | 覇道 |
【ヨウシュウ(チジョ)】
魏・西晋の政治家。
羊祜と同族である羊耽と辛憲英との間に生まれた。
263年の魏の蜀攻略の際は参鎮西軍事として鍾会に従ったが、鍾会の反乱には加担せず、
帰国後に関内侯の爵位を受けた。
司馬炎とは親しく、司馬炎の後継に尽力した功績で重んぜられ、左衛将軍を経て
中護軍・散騎常侍となって長く禁軍を統括したが、後に斉王司馬攸が青州に赴任する
ことに反対した為に太僕に左遷された。まもなく引退を願い出て、許されると程なくして病死した。
贅沢を好んで昼夜問わずに宴会を行い、他人に対する礼儀の区別を付けず、賄賂を配った事で
人々に非難され、法を犯すことも多かった。司隷校尉の劉毅に弾劾され、死刑に相当するところを
司馬炎の温情で免職だけで済まされたこともあった。
親愛武将:司馬炎、司馬攸
嫌悪武将:楊珧
向雄(茂伯)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
283? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
28 | 17 | 67 | 65 | 63 | 怒髪 | 歳出改善 | 覇道 |
【ショウユウ(モハク)】
魏・晋の文官。
当初は河内太守・王経に主簿として仕え、王経が死んだ際には慟哭して市井の人も皆悲しんだ。
後任の太守となった劉毅(劉毅は太守の経験は無い。『世説新語』に従うなら劉準の誤記か)によって無実の罪で笞打たれ、その次の太守の呉奮に些細な罪で投獄された。
鍾会に助け出されて都官従事となり、鍾会が死んだ際には遺体を引き取って埋葬した。司馬昭は向雄を呼び出して叱責したが、
堂々と弁明した。司馬昭は向雄を称賛し、酒席を共にした。
晋の時代には秦州刺史・御史中丞・侍中を歴任し、最後は河南尹となる。
司馬炎に弟である司馬攸を重用すべしと進言したが、聞き入れられずに怒りを募らせて憤死した。
親愛武将:王経、鍾会
嫌悪武将:劉準?
甄悳(彦孫)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
283? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
25 | 13 | 40 | 63 | 74 | 慎重 | 輿望 | 兵站改革 | 王道 |
【シントク(ゲンソン)】
魏・西晋の政治家・将軍、外戚。西平郡の人。郭立の子で、曹叡の明元郭皇后(郭太后)は従姉妹。甄黄の後継者として甄姓に改姓した。
曹叡は、母の文昭甄皇后の実家を重んじていた。232年、曹叡の1歳にもならない娘の曹淑が死去し、
曹叡は、甄氏の姪孫にあたる甄黄と合葬させた(冥婚)。甄悳は二人の養子の扱いを受けたが、異姓の養子はタブーとして強い非難を受けた。
司馬師が魏の実権を握ると、甄悳に娘を嫁がせた。その娘の死後、司馬昭も娘の京兆長公主を甄悳に嫁がせた。
郭太后を通して命令を下すには、親類になっておくのが望ましかったからである。魏では鎮軍大将軍にまでなった。
西晋でも司馬炎の姉婿に当たるため厚遇され、特進の位を加えられた。甄悳は才能学識は乏しかったが、
慎み深く謙虚で、外戚でもあるため富貴となることができた。
司馬炎が斉王・司馬攸を帰藩させようとすると、反対に加わり大鴻臚に左遷され、侍中・光禄大夫を加えられた。その後まもなく病死した。
※西晋成立の影の功労者といえる。
馮紞(少冑)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
286 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
31 | 27 | 79 | 61 | 17 | 智嚢 | 言毒 | 縦横術 | 名利 |
【フウタン(ショウチュウ)】
西晋の政治家で李孚の孫。
安平の出身で経史に通じて弁舌に優れ、皇帝司馬炎の側近として寵愛され、魏郡太守
から侍中にまで登った。
呉征伐の際は汝南太守を務めて当初は征伐に反対であったが、王濬に随行して功績を挙げた。
賈充や荀勗らと親しく、賈充の娘である賈南風を皇太子・司馬衷の皇太子妃とするのに
尽力し、荀勗と関係が思わしくなかった斉王司馬攸の帰藩を進言した。
かつて張華は、馮紞の兄・馮恢を貶したことがあった。馮紞はこれを恨み、
暗に張華を鍾会になぞらえて讒言するなど奸臣としての行動が目立った。
なお李孚は本姓が馮であった。
親愛武将:賈充、荀勗
嫌悪武将:張華
曹志(允恭)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
288 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
36 | 48 | 67 | 70 | 77 | 消沈 | 斉射 | 太学 | 覇道 |
【ソウシ(インキョウ)】
魏の皇族、西晋の政治家。曹植の子。
若くして学問を好み、才知に秀でて寛大な人柄で知られ、騎射にも優れていた。
父の死後に跡を継ぎ、済北王となる。
晋の成立後は司馬炎に評価されて楽平太守となり、各地の太守を歴任したが、
司馬攸が司馬炎の意向で領国に赴任する事に悲しんだ為に司馬炎の怒りを買って
官を剥奪されたが、後に復帰した。
母親の死去によって精神に異常をきたし、程なくして病死した。
曹翕
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
17 | 17 | 69 | 54 | 56 | 医術 | 本草学 | 覇道 |
【ソウキュウ】
魏の皇族、西晋の政治家。曹徽の子で曹操の孫。
魏では父を継ぎ東平王となった。西晋が成立すると、廩丘公に降封された。
西晋の曹一族では、曹志に次ぐ名声があったという。
著書に医書『解寒食散方』があり、皇甫謐の同名の著書と共に読まれたという。
曹楷
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
41 | 50 | 30 | 62 | 54 | 教化 | 粗忽 | 工法改革1 | 覇道 |
【ソウカイ】
魏の皇族、西晋の政治家。曹彰の子。
『魏氏春秋』は曹芳の実父説を載せるが、中華民国の盧弼は『三国志集解』で疑義を呈している。
任城王の父が死去すると後を継ぎ、中牟王に転封された。224年、任城県王に転封された(父は「任城国王」であり、県は国の下)。
232年、父と同じ任城国王となり、食邑は5県の2500戸となった。235年、役人に宮中の(皇帝専用の)器物を作らせようとした罪状で500戸を減封された。
246年、済南王に移され、1000戸を加増された。正元年間(254-256年)と、景元の初め(260年)にも加増があり、4400戸になった。
西晋が成立すると、県公に降封された。皇族を管理する宗正に任命され、次いで皇太后・王元姫(文明皇后)の
宮殿・崇化宮の少府となった。
※同名の曹仁の子とは別人。
劉阜(伯陵)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
50 | 34 | 66 | 62 | 60 | 能吏 | 地域振興 | 割拠 |
【リュウフ(ハクリョウ)】
魏・西晋の政治家。子に劉喬。
南陽郡安衆県の人。漢室の末裔で、先祖は三代にわたって安衆侯に封じられた。
叔父の劉廙の後を継いだ。
魏では陳留太守となり、西晋で曹奐が陳留王に封じられると、陳留相(次官)として
引き続き太守の実務を執り行った。
任愷(元褒)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
224? | 284? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 15 | 60 | 81 | 61 | 名声 | 王佐 | 浪費 | 先従隗始 | 王道 |
【ジンガイ(ゲンホウ)】
魏・西晋の政治家。晋初期の賈充の政敵。
楽安郡博昌県の人。任昊の子。魏では曹叡の娘・斉長公主をめとり、員外散騎常侍となる。
西晋が建国されると侍中となった。幼少より知識が豊富で、国家運営の才能があり、あらゆる政務に携わっていた。
性格は忠正で、社稷の為に働くことを自認し、司馬炎に重用されていた。
しかし賈充の人となりを嫌い、互いの主張に反対し合う関係となった。
271年(泰始7年)、秦州・涼州で樹機能の反乱が拡大すると、任愷・庾純は賈充を討伐軍の総大将にさせようとした。
しかし荀勗・羊祜の反対で頓挫した(泰始七年の政変)。
任愷と賈充の対立はますます激しくなり、朝廷は任愷派と賈充派で一触即発の状況になった。
司馬炎は二人に和解するよう促したが、内心は不穏のままだった。
ある時、賈充は任愷を皇帝から引き離す目的で吏部尚書(人事担当)・奉車都尉に推挙し、司馬炎はこれに従った。
賈充・荀勗らは、任愷が皇帝の用いる食器で贅沢をしていると非難し、司馬珪(司馬孚の七男)に弾劾させて、遂に任愷を失脚させた。
後に、食器は斉長公主の持参品と判明したが、任愷が復職することはなく、司馬炎の気持ちも離れ、ついに任愷は官職を逐われた。
任愷はすっかりやる気を無くし、酒と美食にふけった。一食に一万銭を掛け、箸を置くところが無いほどの御馳走を並べていた。
司馬炎は任愷を呼び、慰め諭したが、任愷はただ泣くばかりであった。
後に官職に復帰し、太僕、太常を歴任したが、志を得られず死去した。
【上があまりにも長いので短縮版】
魏・西晋の政治家。楽安郡博昌県の人。任昊の子。
魏では曹叡の娘・斉長公主を娶り、西晋においても忠正な性格から司馬炎?に重用された。
一方で賈充とは対立し、賈充から幾度となく讒言を受け、用いる食器が皇帝の用いる食器であるとの弾劾が切欠となり、官職を追われた。
後に食器は斉長公主の持参品と判明するが、失意の任愷は酒と美食にふけるようになった。
司馬炎から幾度と慰問を受けたことで晩年には官職に復帰するが、志を得られずに死去した
親愛武将:司馬炎、庾純
嫌悪武将:賈充
庾純(謀南)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
24 | 19 | 76 | 60 | 54 | 学者 | 直情 | 太学2 | 礼教 |
【ユジュン(ボウナン)】
潁川郡鄢陵県の人。庾遁の子。魏・西晋の政治家、儒学者。
博学多才で、当世の儒学の大家だった。西晋では中書令・河南尹となり、任愷と共に賈充の邪佞を嫌い、
鮮卑の樹機能討伐に出征させようとしたが、成功しなかった。
ある時、賈充の宴会に招かれ、「君の父は年老いているのに、どうして(『泰始律令』に従って)辞職して世話をしないのか」
と嫌味を言われた(事実は、兄弟のうち一人が世話を見ていれば在職に問題は無く、また庾純は以前に辞職を却下された事があった)。
庾純は「賈充! 天下を乱した元凶は君一人だ」と言い返し、賈充「充は二代にわたって国政を補佐し、
巴蜀の平定に貢献した。何の罪があって元凶というのか」、庾純「高貴郷公(曹髦)はどこにいるのか!?」
と返したところで、周囲に制止されて宴会はお開きになった。
庾純は酒の上の失言であったと謝罪して辞職し、それ以上の処分はなかった。
のち復職して国子祭酒となり、貴族の子弟の教育に当たった。父が死去すると、服喪のため辞職し、喪が明けた後で御史中丞となった。
晩年は尚書、魏郡太守、少府を歴任した。享年64。
※生没年不詳だが、享年は判明している。285年前後の死去か
親愛武将:任愷
嫌悪武将:賈充
庾旉(允臧)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
21 | 16 | 65 | 55 | 59 | 学者 | 直情 | 太学2 | 礼教 |
【ユフ(インゾウ)】
西晋の政治家・儒学者。庾純の子。
幼少より、清らかで節操があると評された。司馬炎の時代に博士となった。
司馬炎が司馬攸を就国させることになり、下賜に適切な贈り物を答えるよう命じられた。
庾旉・太叔広・劉暾・秦秀らは、司馬攸の帰藩自体に反対する上書をしたため、父に草稿を見せたが黙認された。
そこで司馬炎に提出したが、司馬炎は「博士は答えるべきでないことに答え、答えるべき事に答えないのか」と激怒し、
ただちに逮捕してその罪を裁判させた。朱整・劉頌らは死刑を主張したが、夏侯駿・魏舒らの反対により、免職で済んだ。
数年後、再び仕官して散騎侍郎となり、国子祭酒にまでなった。
孫和
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
31 | 29 | 58 | 65 | 67 | 振興 | 地域振興 | 礼教 |
【ソンカ】
西晋の遼東太守。呉の同名の人とは別人。
司馬衷の太子中庶子になった、陳留郡の孫和と同一人物か。
孫和や、広漢太守の鄧良は、母の世話を理由に辞任を願い出たが、許されなかった。
賈充と喧嘩した庾純の処分に際しては、二人の先例が考慮されたという。
親愛武将:范粲
劉康
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
285 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
15 | 10 | 40 | 30 | 75 | 節約 | 兵站改革 | 王道 |
【リュウコウ】
後漢の献帝(劉協)の孫。
劉協の死後、父は既に死去していたので、魏によって山陽公に封じられた。
西晋でも、引き続き山陽公の地位を認められた。
西晋は山陽公国の督軍を廃止し、劉康の監視を緩めたようで、そのせいか267年に洛陽に来朝している。
姫署
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
271 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 8 | 34 | 31 | 70 |
【キショ】
周王室の末裔。衛公。
過去の王朝の末裔を礼遇する習慣は「二王三恪」と呼ばれ、姫氏は前漢より爵位を受けていた。
37年、後漢で姫武が衛公に封じられたが、姫署までの記録は途絶えており、両者のつながりは不明。
『南史』によると、西晋で公爵から侯爵への降格が議論されたが、衛公のまま死去した。
以降も衛公は存続したが、永嘉の乱で後継者は絶え、廃止された。
袁邵
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
43 | 47 | 60 | 65 | 59 | 眼力 | 政令徹底 | 割拠 |
【エンショウ】
東郡の人。魏・西晋の益州刺史。鄧艾?が益州刺史に任じた師纂?が殺されると、魏によって益州刺史に任命された。
蜀漢の遺臣から常勗・段宗仲を主簿に取り立てた。
皇甫晏
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
272 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
36 | 48 | 64 | 37 | 49 | 学者 | 教化 | 猪突 | 直情 | 政令徹底 | 名利 |
【コウホアン】
魏・西晋の儒学者・政治家。平民から出世した。魏では王経の配下だったことがあり、
王経が刑死すると私財を投じて王経とその母を埋葬した。
西晋では、恐らく董栄の後任の益州刺史。272年5月、汶山胡の討伐を企てた。
従事の何旅は、夏に兵を起こすと疫病が蔓延する危険があるので、秋を待つように諫めたが、
皇甫晏は聞き入れなかった。異民族の康木子焼香という者が出征すれば必ず敗れると反対すると、
皇甫晏は彼を処刑し、出兵を強行した。6月、益州牙門の張弘は皇甫晏を殺して洛陽に首を送り、
朝廷には謀叛を起こしたので斬ったと上奏した。
主簿の何攀は冤罪を主張し、張弘が反乱を起こしたと証言した。張弘は王濬に討たれた。
親愛武将:王経
※西晋の益州刺史は袁邵→董栄→皇甫晏→王濬の順。
王恂(良夫)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
278 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
45 | 37 | 76 | 71 | 65 | 規律 | 学者 | 太学 | 覇道 |
【オウジュン(リョウフ)】
魏・西晋の政治家。王粛の長男で文明皇后の弟。
文章の意義に博識で、朝廷に忠実に仕えた。侍中・河南尹を歴任し、2つの大学を設立し、『五経』を尊んだ。
司馬氏にとっては外戚だが、賄賂の受け取りを拒むなど、身辺に手抜かりは無かった。
また、太原諸部の有力者は、匈奴・胡を耕作に使っていた。司馬炎が西晋皇帝に即位すると、
詔で異民族を耕作に使わせることを禁じた。王恂はあらかじめ準備をしていたので、
王恂の配下で禁令を犯した者は出なかった。死後、車騎将軍を追贈された。
※生年は218年以降。
傅玄(休奕)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
217 | 278 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 32 | 79 | 70 | 34 | 発明 | 詩想 | 諫止 | 癇癪 | 直情 | 政令徹底 | 覇道 |
【フゲン(キュウエキ)】
魏・西晋の政治家。涼州北地郡霊州県の人。傅幹の子。先妻は何氏、後妻は杜韡(杜預の従妹)。
博学で文章と音楽に長じていた。剛直でせっかちで、不正を見逃すことのできない性格だった。
先妻の死後、再婚相手を探したが、傅玄は曹爽側近の何晏・鄧颺に睨まれていたので、何度も断られた。
しかし厳氏(字は憲)は、何晏らはいずれ敗れると踏んで、娘の杜韡を傅玄に嫁がせることを許した。
司馬氏が魏の実権を握ると、司馬昭の参軍となり、温県令・弘農太守・典農校尉などを歴任。
司馬炎が西晋の皇帝になると、諫官として朝廷の綱紀粛正を推進した。しかし、同僚の皇甫陶と喧嘩して、二人とも免職になった。
のちに太僕となった。278年、景献皇后羊氏の葬儀で席次をめぐって同僚と喧嘩して免職となり、まもなく死去した。
著書に『傅子』120巻など。また、西晋の軍楽「晉鼓吹曲」を作詞するなど、楽府や雅楽の作品も現存している。
親愛武将:馬鈞、司馬懿、司馬師、司馬昭
嫌悪武将:曹爽、劉曄、劉陶、何晏、鄧颺
※「発明」があるのは発明家の馬鈞を高く評価し、記録を残したため。親愛、嫌悪とも『傅子』より。
また、早くから司馬家に接近していたことを考慮して、司馬家三代を親愛に追加。『晋書』の記述から、何晏・鄧颺を嫌悪に追加。
張斅(祖文)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 60 | 69 | 50 | 52 | 法律 | 政令徹底 | 覇道 |
【チョウコウ(ソブン)】
涼州敦煌郡の人。張就の子。名は張勃とも。度量があって意志が強く、厳正な人物だった。
広漢太守の時、益州刺史の王濬が虎符(募兵許可証)を持たずに呉征伐の募兵を行ったため、ただちに係官を逮捕して摘発した。
司馬炎はなぜ内密にしなかったのかと張斅を責めたが、張斅は「蜀は遠方にあり、かつて劉備が利用しました。これでも軽すぎると考えています」
と譲らなかった。王濬はおとがめ無しだったが、司馬炎は張斅の直言もまた評価した。
のちに匈奴中郎将にまで昇進した。
劉毅(仲雄)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
216? | 285 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
33 | 13 | 88 | 72 | 48 | 威風 | 諌止 | 法律 | 直情 | ||||||||
33 | 13 | 88 | 72 | 48 | 能吏 | 諌止 | 法律 | 直情 | 地域巡回 | 王道 |
【リュウキ(チュウユウ)】
魏・西晋の政治家。東萊郡の人。前漢の城陽景王・劉章の末裔で劉喈の子。
王侯貴族らしい風貌をしていた。平陽太守の杜恕に功曹に取り立てられ、百人以上の勤務評定を手早く片付けて名を挙げた。
魏の末期に司隸都官となり、不正を厳しく取り締まったので洛陽は粛然とした。
しかし、河南尹の摘発は上司の鍾会に止められ、不服として辞職した。
のち司馬昭に招かれ、病気を口実に応じなかったが、司馬昭に脅される形で再び仕官した。
西晋では司馬炎に諫官に任命され、ご意見番の一人となった。さらに司隷校尉に昇進し、
司馬倫ら皇族や貴族も容赦なく取り締まった。
ある時、司馬炎が尋ねた、「朕は漢の皇帝の誰に相当すると思うか」。劉毅「桓帝・霊帝に相当します」。
理由を聞かれ、「桓霊は売官で得た金を国庫に入れましたが、今は自分の懐に入れているので当時より悪いです」と答えた。
司馬炎は笑って、「桓霊の時代は(処罰されるから)このような発言はできなかった。今は直言の臣がいるから同じでは無いな」と自賛した。
また、九品官人法の廃止を献策し、「上品に寒門無く、下品に勢族無し」と理由を挙げたことで知られる。
親愛武将:范粲
山濤(巨源)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
205 | 283 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
29 | 32 | 77 | 79 | 81 | 監守 | 文化 | 太学 | 割拠 |
【サントウ(キョゲン)】
魏から西晋の文人。 河内郡懐県の人。
幼時に父を亡くし、貧窮していたが、老荘思想に耽り嵆康、阮籍らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。
40代で出仕し司馬氏に属したため、嵆康を推挙した際、「山巨源に与える絶交書」を突きつけられた。
曹爽の台頭で隠棲するが、司馬懿の決起の後再び出仕し、
司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、鄴の警護に当たり、皇族を監視した。
西晋代には栄達し、司徒にまで登った。
また、鍾会の讒言で殺された、嵆康の遺児の嵆紹らを推挙している。
王乂(叔元)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
271? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 67 | 54 | 61 | 62 | 惰弱 | 城壁拡張 | 王道 |
【オウガイ(シュクゲン)】
徐州琅邪郡臨沂県の人。王雄の子で王渾(太原王氏の同名人物とは別人)の弟。子に王衍。
魏末期の鍾会の乱に際し、司馬昭によって相国司馬に任じられた。
西晋では督幽州諸軍事・平北将軍として幽州の守備に当たった。
また、祖逖の兄の祖納を従事中郎に取り立てた(取り立てたのは王敦説もあるが、年代的に王乂の方が妥当か)。
『世説新語』によると、王乂が平北将軍を解任されそうになった時、洛陽に在京していた王衍に釈明を頼んだ。
王衍は人事権を持つ山濤・羊祜を前に、見事な釈明をして見せた。
山濤は「うちの子が王夷甫(王衍)のようだったらなあ」と羨んだが、羊祜は「いや、天下を乱すのはああいう子だ」といったという。
孫歴
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 41 | 60 | 57 | 63 | 嚮導 | 運搬開発 | 覇道 |
【ソンレキ】
楽安郡の人。魏・西晋の将軍。『新唐書』によると孫旃の子で、孫炎の弟。子に孫旂・孫尹。
魏晋交替の時代に幽州刺史・右将軍となった。
劉欽
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
68 | 57 | 50 | 57 | 56 | 山戦 | 長蛇強化 | 覇道 |
【リュウキン】
魏・西晋の政治家・武将。
魏末期に魏興太守となる。鍾会・鄧艾の蜀漢征伐に従軍し、子午谷を通って漢中に進軍した。
西晋で并州刺史となる。271年1月、南匈奴の劉猛が背いた。11月、劉猛は并州を侵略するが、
劉欽は撃退した。
劉旂
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
270 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
34 | 42 | 30 | 15 | 20 | 小心 | 方円強化 | 我道 |
【リュウキ】
西晋の将軍。
270年、樹機能が大規模な反乱を起こし、秦州刺史・胡烈の軍を包囲した。
司馬亮は劉旂・敬琰を援軍に派遣したが、二人は怖じ気づいて進軍せず、胡烈を見殺しにした。
二人の罪状は死罪に相当したが、司馬亮が減刑を願い出て自ら謝罪した。
劉旂は詔により処刑され、司馬亮は免職となった。
尹璩
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
272? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
49 | 50 | 53 | 60 | 71 | 特使 | 運搬開発 | 名利 |
【インキョ】
西晋の敦煌太守。後漢末の敦煌太守・尹奉の同族か。
尹璩の死後、敦煌県令の梁澄が太守を代行したが、令狐豊は梁澄を追放し、勝手に太守を自称した。
魯芝(世英)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
190 | 206 | 273 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 61 | 73 | 78 | 70 | 堅守 | 沈着 | 法律 | 寡欲 | 輿望 | 城壁拡張 | 覇道 |
【ロシ(セイエイ)】
魏・西晋の将軍・政治家。司隸扶風郡郿県の人。
豪族の家に生まれたが、父を郭汜に殺され、乳児の時に故郷を離れた。
雍州で仕官し、魏では車騎将軍・郭淮に重用され、蜀漢の諸葛亮の侵入を迎撃した時は別駕となった。
さらに天水太守となり、城市を修復し、最前線を守り切った。
のち曹爽の側近となった。司馬懿がクーデターを起こすと、曹芳を擁して司馬懿討伐を呼びかけるよう主張したが、
曹爽は決断できなかった。果たして曹爽は誅殺され、魯芝も投獄されたが、言い訳しなかったことが評価され死刑は免れた。
以降は司馬氏に従い、諸葛誕討伐などで功績を挙げ、魏末期には青州刺史となった。
西晋では鎮東将軍となるが、高齢を理由に辞職し、光禄大夫となった。84歳で死去した。
清廉で、私宅を持たなかったので、司馬炎が屋敷を建ててやったという。
※『三國志』『後漢書』によると、太僕の魯馗(魯旭とも)が、王允の董卓誅殺に協力したため、李傕・郭汜に殺された人物として挙げられている
(魯馗の本貫である平陵県は隣県だが、本貫を移したのかも知れない。少なくとも、魯芝が魯馗の親族である可能性は高い)。
嵇喜(公穆)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
74 | 69 | 62 | 70 | 64 | 慎重 | 墨守研究 | 王道 |
【ケイキ(コウボク)】
魏・西晋の政治家。譙国銍県の人。嵆康の兄。
弟と異なり常識人で、『世説新語』によると、阮籍の喪中に礼法に則った見舞いをしたが、
白眼視されたので不快になって帰った。弟の嵆康が酒を持って見舞いに行くと、阮籍は喜んで青眼で迎えたという逸話がある。
魏の末期に司馬攸の司馬となった。司馬昭が死去すると、司馬攸は悲しみのあまり食事を取らなくなった。
衰弱を見かねた嵆喜が、無理矢理食事をさせたという。
西晋では外地に出て江夏太守となった。274年、呉の孫遵・李承の攻撃を撃退した。
呉の滅亡後、徐州刺史となった。282年、呉の遺臣の莞恭・帛奉が揚州で反乱を起こしたが、嵇喜が鎮圧した。
著書『嵆康伝』(『嵆康別伝』は別人の著作)。
親愛武将:司馬攸
王覧(玄通)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
205 | 278 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
28 | 13 | 70 | 63 | 75 | 護衛 | 察知 | ||||||||||
28 | 13 | 70 | 63 | 75 | 慎重 | 察知 | 方円強化 | 礼教 |
【オウラン(ゲンツウ)】
魏・西晋の政治家。琅邪郡臨沂県の人。父は王融で、王祥の異母弟。母は朱氏。
親孝行で恭しく慎み深い性格で、名声は王祥に次いだ。
朱氏は生さぬ仲の王祥を虐待したが、王覧は常に兄を庇った。朱氏はさらに王祥を毒殺しようとしたが、
王覧が毒味しようとしたので慌てて毒酒を捨てた。こうしたことが何度もあり、朱氏は王覧を殺してしまうことを恐れてようやく諦めた。
兄が仕官すると、王覧もまた仕官した。魏では司徒西曹掾・清河太守にまでなった。
西晋では弘訓少府となり、同職が廃止されると太中大夫に転任した。咸寧年間(275-280)療養のため辞職したが、
光禄大夫に転任し、まもなく死去した。
東晋の功臣である王敦・王導はいずれも王覧の孫である。
親愛武将:王祥
袁準(孝尼)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
19 | 27 | 67 | 42 | 50 | 慎重 |
【エンジュン(コウニ)】
魏・西晋の政治家、評論家。豫州陳郡の人。袁渙の四男。
建安年間(196-220)に生まれた。嵆康に師事した。袁準は「広陵散」と呼ばれる琴の曲の教授を
何度も願ったが、嵆康は惜しみ、教えようとしなかった。
司馬氏の台頭する情勢下で、栄達を望まず、多くの著書を著し、治世について議論した。
西晋の泰始年間(265-274)には給事中となった。
著書に『儀礼喪服経注』『袁子正論』『袁子正書』など。『袁子正論』は、陳寿『三国志』の裴松之注に『袁子』として引用されている。
袁毅
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
12 | 26 | 22 | 33 | 16 | 強欲 |
【エンキ】
西晋の政治家。豫州陳郡の人。袁渙と同族に当たる。妻は盧氏。
275年頃、平原郡鬲県令であった時、高官に賄賂をばらまいていた事が発覚し、有罪となった。
少なくとも山濤・王恂・何遵・何劭に賄賂を贈ったと糾弾されている。
ただし山濤は賄賂に手を付けず、王恂は賄賂を断っている。
また、華表に、食客に奴僕のなりすましがいるので見つけ出して欲しいと頼まれたことがあった。
袁毅の疑獄が発覚すると、華廙(華表の子)も盧氏を妻にしていたことから、荀勗の主張で連座して失脚している。
盧欽(子若)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
278 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
63 | 46 | 63 | 75 | 63 | 法律 | 人脈 | 寡欲 | 学者 | 経世済民 | 王道 |
【ロキン(シジャク)】
魏・西晋の政治家・将軍。范陽郡涿県の人。盧毓の子、盧珽の兄。
盧氏は代々儒学者の家柄で、盧欽は経書と史書をよく学んだ。
はじめ曹爽に仕え、司馬懿のクーデターで曹爽が処刑されると、連座して免職となった。
復職すると琅邪太守となり、一度中央に戻るが、再び外地に出て陽平太守となり、淮北都督・伏波将軍を歴任した。
魏では吏部尚書にまでなった。
西晋の時代になると、都督河北諸軍事・平南将軍・仮節となった。盧欽の統治は緩すぎず厳しすぎない中庸を抑えており、
統治する地方はよく治まった。晩年は洛陽に戻り、尚書左僕射・侍中・奉車都尉・吏部となった。
盧欽は清貧で、司馬炎より絹百匹が下賜された。また人材登用は実力で行い、公平であったという。
鄭袤(林叔)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
189 | 205 | 273 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
37 | 25 | 80 | 84 | 81 | 名声 | 能吏 | 人脈 | 策士 | 小心 | 地域振興4 | 覇道 |
【テイボウ(リンシュク)】
魏・西晋の政治家。司隷滎陽郡開封県の人。鄭泰の子。子に鄭黙・鄭質・鄭舒・鄭詡・鄭稱・鄭豫。妻は孫氏、のち再婚して曹氏。
開封県の鄭氏は2つの家系が知られ、鄭袤の家系は名門だった。
幼少にして父を失い、早くから良否を見分ける能力があった。荀攸は「鄭公(鄭泰)の業績は死なず」と鄭袤を讃えた。
叔父の鄭渾に従って江東に避難し、豫章太守・華歆を頼った。華歆は実子同然に鄭袤を可愛がった。
17歳の時、帰郷した。同郡の任覧は、魏諷と親しく付き合っていたが、鄭袤は魏諷を警戒して距離を置いた。
魏諷が反乱を企てて処刑されると、鄭袤は先見の明を讃えられた。
曹丕が帝位に即くと、司空・王朗の掾(副官)に招聘された。鄭袤は許允・魯芝・王基を推挙し、みな採用された。
黎陽県令、済陰太守、散騎常侍、広平太守を歴任。広平では住民を徳化し、指示が行き届いていた。
曹髦が即位すると、王粛と共に宮城に送迎する役目を行った。毌丘倹が反乱を起こすと、司馬師が自ら鎮圧に出馬した。
鄭袤は見送りを病欠したので、司馬師は王粛に「鄭袤だけが見送りに来ないのが恨めしい」と文句を言った。王粛は鄭袤に伝え、鄭袤は慌てて見送りに駆けつけた。
司馬師に毌丘倹討伐の計略を問われると応えた、「毌丘倹は謀略を好みますが、実情を把握できていません。文欽は勇猛ですが何も考えがありません。
今、大軍で不意を突けば、敵は勇猛ですが守りが苦手ですから士気をくじくことができます。これぞ周亜夫の計です」。司馬師は、鄭袤の作戦を称賛した。
曹髦が博士を招聘すると、劉毅・劉寔・程鹹・庾峻を推挙し、みな登用された。260年、病気で失明し、引退を願い出たが許されなかった。
西晋が成立すると、司空に任命された。十数回辞退し、ようやく辞退を許され、三公待遇の儀同三司とされた。273年、死去した。
親愛武将:王粛
※妻の孫氏、曹氏はいずれも富春孫氏(孫堅一族)・譙県曹氏(曹操一族)と無関係。
鄭黙(思元)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
224? | 291? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
17 | 20 | 70 | 78 | 75 | 沈着 | 名声 | 史官 | 本草学2 | 王道 |
【テイモク(シゲン)】
魏・西晋の政治家。鄭袤の長男。
司馬炎が郷品(九品官人法に基づく評価)を得る事になった時、司馬炎の司隷河内郡には同等に比較できる人材がいないとされた。
そこで比較対象を司隷の他郡にも広げ、南に隣接する滎陽郡の鄭黙が郷品の比較対象とされた。
秘書郎に任官し、古典籍を調べ、後世の加筆を取り除いて原典を復元する作業を行った。中書令の虞松はこの仕事を称賛した。
西晋が成立すると、太原郡の郭奕と共に太子中庶子となった。
地方に出て東郡太守となった年、飢饉となり、独断で倉を開いて食料を支給した。鄭黙は処罰を乞うたが、司馬炎は詔書で憂国の行いを讃えた。
洛陽に戻り、散騎常侍となった。ある時司馬炎は車に同乗させていった、「むかし卿と私は郷品の同輩だった。
(なのに今は)清談ばかりしていることを恥じてくれ」。そして政治の意見を問うた。
鄭黙は「農業を振興し、人材を選抜し、よい人材に長く務めさせ、タイミングのよい賞罰を行い、儒者の行いを尊重することです」。
司馬炎は、この回答を評価した。
273年、父の服喪で辞職した。復職した頃、袁毅による疑獄事件が政界を揺るがしたが、鄭黙兄弟は潔癖で、賄賂に染まらなかった。
人となりは寛大かつ厳粛で、やんわりと間違いを正した。ある時、山濤は親類を博士に推挙しようとしたが、鄭黙の態度を見て自分から取り下げた。
司馬攸帰藩事件に際して、太常として曹志らの反対意見を容認した。このため、連座して免職となった。
のち大鴻臚となった。母が死去すると、法律では葬儀後に復職すべきとされたが、鄭黙は懇切に服喪の意思を述べ、追認された。
ついには令が改正され、大臣の服喪が公認された。喪が明けると大司農、光禄勲を歴任し、死去した。
※『晋書』程黙付伝では太康元年(280年)死去としているが、そうすると283年の司馬攸帰藩事件に関わることはできない。
『晋書』礼志中に、鄭黙の母は太康七年(286年)死去とあるので、鄭黙は288年以降の死去か。
鄭沖(文和)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
274 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
21 | 13 | 70 | 78 | 69 | 寡欲 | 学者 | 太学 | 礼教 |
【テイチュウ(ブンワ)】
魏・西晋の政治家・儒学者。滎陽郡開封県の人。
開封県の鄭氏は2つの家系が知られ、鄭沖の家系は寒門だった。
また、鄭沖は名声を求めなかったので、長い間州郡で仕官のお呼びがかからなかった。
曹丕が魏の王太子になると召し出され、儒学者として重んじられた。
魏で三公を歴任し、鄭小同と共に曹髦の教育係にもなっている。
司馬昭が晋公に封じられると、型どおり辞退した司馬昭に対し、
臣下を代表して晋公を受けるように勧める勧進文を提出している(草稿は阮籍の作)。
蜀を滅ぼすと、司馬昭は賈充らに新たな律令の編纂を命じたが、事前に鄭沖に相談した上で実行した。
曹奐が司馬炎に禅譲を行う儀式では、鄭沖が曹奐の正使として重責を担った。
西晋では太傅となった。鄭沖はたびたび引退を願い出たが、許されなかった。
273年、ようやく引退を許され、翌年死去した。
※能力は『三國志Ⅸ』準拠。『三國志Ⅸ』では206年生まれとするが、遅くとも217年には曹丕に仕えていること、
司馬炎の詔に「(魏晋通算で)六十餘載」仕えたとあるので、生年は200年以前に遡ると思われる。
李憙(季和)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
282? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 70 | 63 | 70 | 65 | 疾走 | 寡欲 | ||||||||||
75 | 70 | 63 | 70 | 65 | 法律 | 寡欲 | 錐行強化 | 覇道 |
【リキ(キワ)】
魏・西晋の政治家・将軍。上党郡銅鞮県の人。父の李佺は後漢の大鴻臚。
管寧と共に賢良として推挙されたが、仕官しなかった。司馬懿に招聘されても、
病気を理由に固辞した。その時母が重体で、まもなく亡くなった母の喪に服したので、論者は李憙の志操を讃えた。
司馬師が実権を握るとようやく仕えた。理由を問われ、「先君は礼に従い、明公(司馬師)は法に従うからです」と、
処罰を恐れたことを説明した。毌丘倹の死後、御史中丞に任命され、不正を取り締まったので恐れられたが、公務上の理由で免職となった。
のち涼州刺史となった。羌が侵入すると、独断で深入りし、大勝したので、独断の罪は不問に付された。冀州刺史を経て、司隷校尉となった。
曹奐が司馬炎に禅譲を行う儀式では、鄭沖の副使として重責を担った。
西晋でも司隷校尉として辣腕を振るい、山濤・司馬睦・裴秀らを糾弾したが、受け入れられなかった。
司馬衷が皇太子になると、太子太傅となった。
涼州で樹機能が反乱を起こすと、李憙はいち早く討伐を進言したが、採用されなかった。果たして反乱は拡大し、朝廷では大いに悔やまれた。
さらに李憙は、鎮圧に匈奴の劉淵の起用を進言した。しかし孔恂が、「樹機能の代わりに劉淵が独立するだけです」と反対したので、これも採用されなかった。
斉王・司馬攸の帰藩に反対し、まもなく死去した。清貧であったという。
親愛武将:劉淵
孔恂(士信)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
289? | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
49 | 39 | 66 | 66 | 48 | 言毒 | 慎重 | 名利 |
【コウジュン(シシン)】
魏・西晋の政治家・武将。魯国の人。魏に仕えた孔乂の子。孔子二十一世の子孫に当たる。
西晋が成立すると、護軍長史となり、267年、太子中庶子になった。
272年、庾純が酒席で賈充と喧嘩した事件では、御史中丞として庾純の罷免を主張した。
王済は呉討伐に、匈奴の劉淵の起用を司馬炎に進言した。孔恂と楊珧は、「劉淵は比類無く有能だからこそ脅威です。
呉を平定したら、自分が独立して帰って来ないでしょう。異人種は信用できません」と反対し、司馬炎は起用を断念した。
涼州で樹機能が反乱を起こすと、李憙は鎮圧に劉淵の起用を主張した。しかし、再び孔恂が反対して断念させた。
のち侍中となり、さらに監豫州軍事・平東将軍に昇進し、許昌に駐屯した。
その後中央に戻り、衛尉となった。没年は不詳だが、280年代後半だろうか。
嫌悪武将:劉淵
周浚(開林)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
289 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
75 | 62 | 62 | 67 | 74 | 水戦 | 果敢 | 水軍育成 | 覇道 |
【シュウシュン(カイリン)】
魏・西晋の将軍・政治家。汝南国安成県の人。周裴の子。
意志が強く果敢で、才能学識があった。州郡に仕えず、上洛して魏の尚書郎となった。
西晋では揚州刺史となり、王渾の元で呉征伐に従軍した。
周浚は呉の張悌・沈瑩らを斬り、数千人を討ち取り、1万人を捕虜とした。
長江上流から攻め入った王濬が勝利を重ねていると情報が入ると、別駕の何惲は、
「今進撃すれば、敵は戦わずして擒にできます」と進言した。周浚は賛同して
王渾に進言したが、「詔が無ければ動くことはできない」と応じなかった。
しかし王濬は、独断で建業に攻め入り、孫晧を降伏させた。王渾は憤慨して王濬と功績を争おうとした。
周浚は諫めたが、王渾は応じず、王渾と王濬は互いに功績を主張し合う結果になった。
戦後、王渾の推薦で使持節・都督揚州諸軍事・安東将軍となり、旧呉地域の安定に力を注いだ。
※能力は『三國志Ⅸ』を元に、武力以外を底上げ、政治は他より高め。『三國志Ⅸ』では237年生まれの設定。
張喬
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 65 | 68 | 46 | 62 | 調練 | 鋒矢強化 | 覇道 |
【チョウキョウ】
西晋の武将。
280年、呉征伐に際し、王渾・周浚配下の都尉として出陣した。
陳慎と共に尋陽・瀬鄉を陥落させ、呉の孔忠を斬り、周興ら5人の将軍を生け捕る戦果を挙げた。
7千の兵を率いて、楊荷橋で張悌率いる3万の呉軍と交戦し、不利とみて降伏を願い出た。
呉軍の諸葛靚は「彼は援軍が来ていないので、偽って降伏するといっているだけです」と、張喬の将兵の皆殺しを主張した。
しかし張悌は従わず、張喬に兵を慰撫させた。呉軍が敗北すると、果たして張喬は背後から呉軍に襲いかかり、呉軍は壊滅した。
※能力は『三國志Ⅸ』準拠、ただし政治は低め。後年、劉琨に従って前趙に敗死した張喬と同一人物であるかどうかは不明。
『三國志Ⅸ』では245年生まれの設定。
張翰
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 58 | 60 | 29 | 50 | 不屈 | 操舵 | 水軍育成 | 覇道 |
【チョウカン】
西晋の武将。討呉護軍。
280年、呉征伐に際し、揚州刺史・周浚と共に、呉の張悌・沈瑩の軍勢と対峙した。
晋軍は呉軍の三度にわたる突撃に耐え、カウンターで呉軍を壊滅させた。
※呉の張儼の次男の張翰は別人。
范通
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
57 | 26 | 76 | 55 | 72 | 諌止 | 慎重 | 戸籍整備 | 礼教 |
【ハンツウ】
西晋の武将。益州護軍。王濬の外親(女系の親戚)。
王濬の呉討伐に従軍した。呉討伐後、王濬は戦功をめぐって王渾らに弾劾されたことをいつも不満に思っていた。
司馬炎に対しても、謁見の度に不満を口にしたり、挨拶せず退出したりしたが、司馬炎は大目に見ていた。
范通は王濬を諫めた、「平呉の事をいってはなりません。もし人に聞かれたら、『聖主の徳、諸将の力によるものであって、
この老いぼれに何の力があろうか』と答えるべきです」「藺相如が廉頗に屈した理由を考えれば、
王渾はどうして恥じないことがありましょうか」。王濬は鄧艾の二の舞を恐れ、以降は自重したという。
※『晋書』によると、王濬は天下統一後、旧恩に報いるために蜀人を好んで取り立てたという。范通も旧蜀漢系だった可能性はある。
耿黼
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 38 | 68 | 66 | 64 |
【コウホ】
魏・西晋の政治家。中山郡の人。
263年、魏が蜀漢を滅ぼすと、益州北部を分割して梁州を新設した。相国参軍の耿黼が初代梁州刺史となり、漢中を役所とした。
また、魏に焦先という隠者がいた。耿黼は彼を仙人と考え、傅玄は鳥獣と同じ性情と考え、それぞれ焦先の伝記を著したという。
解脩
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
49 | 42 | 64 | 70 | 61 | 能吏 | 地域振興 | 王道 |
【カイシュウ】
魏・西晋の政治家。済南郡著県の人。子に解系・解結・解育。
魏末期に琅邪太守、梁州刺史を歴任し、勤務評定で天下第一と評された。
西晋が成立すると、梁鄒侯に封じられた。
※耿黼と梁州刺史就任時期が接近しており、なおかつ梁州の設置が263年以降なので、就任期間は限られる。
この時期、涼州刺史の記録が残っていないことから、「梁州は涼州の誤字」とする考察もある。
姜宗
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 64 | 63 | 60 | 62 | 堅牢 | 消火 | 墨守研究 | 王道 |
【キョウソウ】
西晋の政治家。漢中太守。
278年、郡吏の襲祚らが姜宗の謀殺を企てたが、姜宗は堅く守った。襲祚らは
南鄭の市を焼いたが鎮圧され、一族誅殺された。
陳勰(太和)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
68 | 52 | 81 | 80 | 78 | 慎重 | 調練 | 改修 | 三軍強化 | 覇道 |
【チンキョウ (タイワ)】
創意工夫と暗記力に溢れ、軍令に長じた人物で、曹丕の代より仕えたとされる。曹髦の代には九龍堰の治水を完遂。
予てから司馬昭より諸葛亮の用兵術(八陣図)の知識回収を命ぜられており、
征蜀に従軍し平定後、八陣図を完全に暗記した上で、
鍾会の謀叛未遂事件もあり、危険性を考慮し兵書を破棄した模様。
会得した兵法は羊祜が創設した晋の宿衛軍の中核と成った。
又、宿営軍を原隊とする馬隆は279年の会戦で、防騎陣形「車蒙陣」で以て禿髪樹機能?の撃滅に成功した。
華表(偉容)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
204 | 223 | 275 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
13 | 25 | 70 | 68 | 66 | 慎重 | 小心 | 城壁拡張 | 王道 |
【カヒョウ(イヨウ)】
華歆の長男。20歳で散騎黄門郎を拝命し、後に侍中に転任した。
正元年間の始め(254年頃)、石苞が上洛し、曹髦を曹操の生まれ変わりと讃えた。
華表はこれを聞き、変事が起きることを恐れ、病気を装って自宅に引きこもった。
果たして曹髦は司馬昭を討とうとして返り討ちに遭ったが、華表は難を逃れることができた。
西晋では、太子少傅を拝命し、光禄勲、太常を歴任した。
老病のため引退を願い出ると、司馬炎は華表を太中大夫(顧問)に転任させ、待遇は九卿並とした。
胡威(伯虎)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
280 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
61 | 37 | 67 | 78 | 73 | 諌止 | 農政 | 教化 | 寡欲 | 地域巡回2 | 礼教 |
【コイ(ハクコ)】
魏・西晋の政治家、武将。淮南国寿春県の人。胡質の長男。子に胡奕。
父同様、清廉で知られた。父が荊州刺史に就任すると、京都(洛陽)から祝いに行ったが、貧乏だったので
供も連れず、一人でロバに乗って荊州に出向いた。父が帰りに絹一匹を渡そうとしたので、どこから用立てたのか尋ねた。
胡質、「これは俸禄の余りだから、お前の旅費にしなさい」。胡質の部下に、独断で休暇を取り、偶然を装って
胡威の帰りの旅の世話をした者がいた。胡威が不審に思って聞き込むと、父の部下である事が分かったので、絹を謝礼に渡して帰らせた。
後に父に報告すると、胡質は部下を杖で百叩きにして解雇した。この一件から、親子の清廉さが知れ渡った。
魏では侍御史に任ぜられ、南郷、安豊太守などを歴任。民政に努め、住民の教化を評価された。のち徐州刺史に昇進した。
257年、諸葛誕が反乱を起こすと、石苞麾下で遊軍として守備に当たった。
西晋が成立すると、監豫州諸軍事・右将軍・豫州刺史、尚書・奉車都尉、前将軍・監青州諸軍事・青州刺史を歴任。
ある時、淮北での水害の原因を、魏で兵糧調達のため作られた陂(堤防やため池)にあると指摘し、取り壊しを献策した。
この時は実行されなかったが、278年に杜預の献策で取り壊された。
また、司馬炎の政治を寛容すぎると諌め、「尚書郎以下には目こぼししていない」と反論されると、
「臣のような高官を罰しなければ下々の教化はなりません」と主張した。
天下統一直後の280年10月、在官のまま死去した。
※『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父・李虎の避諱により字を「伯武」と表記。また、諸葛誕の反乱鎮圧に出陣したのを「徐州刺史胡質」とするが、
胡質は250年に死去しており、息子の胡威の誤字と判断。ただし、『晋書』では胡威の徐州刺史昇進を咸煕年間(264-265)としている。
胡羆(季象)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 35 | 65 | 64 | 63 | 寡欲 | 礼教 |
【コヒ(キショウ)】
西晋の政治家・武将。胡質の次男。
父兄同様、潔癖で知られた。益州刺史・征南将軍にまで昇進した。
李密の『述理論』を、皇甫謐と共に高く評価した。
親愛武将:李密
※益州刺史の就任順は、王濬→胡羆→張敏。胡羆は280年代半ばの死去か。
武陔(元夏)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
34 | 24 | 77 | 49 | 71 | 眼力 | 智嚢 | 強奪 | 政令徹底1 | 王道 |
【ブガイ(ゲンカ)】
魏・西晋の政治家。沛国竹邑県の人。武周の長男。弟に武韶・武茂。
二人の弟と共に、若くして名が知られた。同郡の劉昶は、父に三兄弟の人物評を依頼され、
「いずれも国士でございます。中でも元夏が最も優れており、帝王を補佐する才能があり、
力を尽くしてその位にあって職任に務めれば、三公に次ぐ位となることができましょう」と評価した。
武陔は人物評を好み、陳泰と仲がよかった。魏の曹叡の時代に
下邳太守に昇進し、司馬師が大将軍になると招聘され、司隷校尉、太僕卿を歴任した。
司馬昭は武陔を親しみ尊重し、しばしば一緒に当世の人びとの人物評を行った。ある時、司馬昭が陳羣・陳泰父子について、
陳羣が勝っていると論じると、武陔は二人にはそれぞれ異なった長所があり、甲乙付けがたいと論じた。司馬昭は武陔の論に納得した。
西晋が成立すると尚書となり、左光禄大夫・開府儀同三司にまでなった。
西晋では老臣として重んじられたが、自身では晋成立の功臣ではなく、魏で既に大臣だったので、本来なら魏臣として引退すべきと認識していた。
そのため常に謙遜し、清潔さを失わなかったので当世の美談とされた。在職のまま死去した。
死後、司隷校尉・李憙は「故人の劉友と武陔らは、官用の稲田を押領したので、悪諡をおくられるべきです」と弾劾した。
調査の結果、詔で「主犯は劉友であり、武陔らは常習犯ではないから責任を問うてはならない」とされ、諡は「定」となった。
親愛武将:陳泰、司馬昭
李胤(宣伯)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
282 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
52 | 22 | 58 | 79 | 73 | 寡欲 | 政令徹底2 | 礼教 |
【リイン(センハク)】
魏・西晋の政治家。遼東郡襄平県の人。李信の子。
祖父の李敏は、後漢の河内太守だった。戦乱を避け郷里に逃れたが、公孫度に出仕を無理強いされ、小舟で逃れようとして消息不明となった。
李信は何年も父を捜索したが、手掛かりは掴めず、いつも喪中のように振る舞っていた。徐邈の勧めて妻帯したが、
李胤が生まれるとすぐに別居し、いつも父のために服喪していたので数年で死んでしまった。
こうして李胤は孤児となったが、物心が付くと喪礼に沿って生活し、木主(位牌)を祖父の代わりとして仕えた。
始め、遼東郡に仕えて上計掾となり、幽州で孝廉に推挙され、楽平侯相に昇進した。
中央に出て吏部郎(人事官)となり、心清く公平な人物を登用した。
司馬昭に召し出されて大将軍の従事中郎となり、御史中丞に移ると、慎み深く正直であるため百官は恐れ憚った。
蜀征伐では西中郎将、督関中諸軍事となり、司馬昭の本軍の都督となった。
西晋が成立すると尚書となり、太子少傅・司隷校尉を兼任した。しかし皇太子の指導は激務であり、兼職に無理が出たので太子少傅を辞職した。
李胤は要職を歴任したが、家は貧しく子供の病気の薬代も無かった。そこで司馬炎は、十万銭を下賜した。
278年9月、司徒に昇進し、さらに司馬炎は詔で、かつての丞相の職能を割り当てるよう指示した。
282年、死去した。長男の李固は既に死去していたので、孫の李志が爵位を継いだ。
親愛武将:李信
嫌悪武将:公孫度
※238年、司馬懿が公孫淵を滅ぼした時、15歳以上の男子を皆殺しにしたことから、李胤はこれ以前に公孫淵のもとを去っていたか、
あるいは225年以降の生まれかのいずれかという事になる。
厳詢
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
80 | 62 | 65 | 69 | 54 |
【ゲンシュン】
西晋の政治家、武将。
劉毅・魏舒と年齢が近く、楽安郡の孫尹は3人を比較して、劉毅が最も勝っていると評価した。
散騎常侍、雍州刺史、安北将軍、司隷校尉を歴任した。
272年10月、雍州刺史の時に扶風郡で白鹿を捕獲し、司馬炎に献上した。
282年3月、安北将軍として鮮卑の慕容廆を昌黎で大破し、数万人を討ち取った。
孫鑠(巨鄴)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
26 | 34 | 72 | 69 | 68 | 明鏡 | 胆力 | 能吏 | 王道 |
【ソンシャク(キョギョウ)】
魏・西晋の政治家、武将。河内郡懐県の人。
県の役人となり、彭城太守・呉奮は主簿に転任させた。
孫鑠は身分の低い家の出で、名家の同僚たちは彼を嫌って同席しなかった。
呉奮は部下の振る舞いに憤慨し、孫鑠を司隸都官従事に推薦した。司隸校尉・劉訥は孫鑠の働きを称賛した。
さらに呉奮は大司馬・石苞に推薦し、大司馬の掾(事務官)となった。
268年、呉の丁奉の離間策により、司馬炎は寿春に駐屯する石苞の謀反を疑った。
たまたま石苞の使いで許昌に出向いたが、汝陰王・司馬駿が石苞の召還を命じられて進軍しており、拒否すれば攻撃する手はずになっていた。
司馬駿は同郷のよしみで、孫鑠に攻撃の計画を教え、石苞を見捨てるよう伝えたが、孫鑠は寿春に戻った。
孫鑠は石苞に、武装を解除して恭順するように進言した。その結果、石苞は大司馬を罷免されたが謀反の疑いは晴れた。
のちに尚書郎にまで昇進した。
親愛武将:呉奮、石苞
侯史光(孝明)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
37 | 21 | 54 | 74 | 63 | 屯田 | 法律 | 地域巡回4 | 名利 |
【コウシコウ(コウメイ)】
魏・西晋の政治家。東萊国掖県の人。
身分の低い家に生まれた。幼い頃から才智があり、同県の人である劉夏に学問を教わった。
孝廉に推挙され、魏の咸煕年間の始め(264年)、洛陽典農中郎将となり、関中侯に封ぜられた。
西晋が成立すると、散騎常侍を拝命し、まもなく侍中を兼任した。
266年、皇甫陶・荀廙と共に国内の巡察を命じられ、各地の風俗を視察して回った。
祈祷や修祓の風習で、不要なものがあれば止めさせた。
268年にも巡察を行い、司馬炎に業績を評価され、御史中丞に昇進した。
法の適用は寛大だったが、私情で手心を加えることは無かった。
太保の王祥は長く病身で朝議に出席できず、朝議が開けないことが続いた。侯史光は王祥の解任を願い出たが、司馬炎は却下した。
のち少府に昇進し、在職のまま死去した。
儒学は特に古の内容に通暁し、いずれの官職でも業績を残した。その文章や上奏・議文に関しては、いずれも筋道の通った内容であったという。
※侯史の二字姓。
謝纘(伯登)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
214 | 282 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
41 | 36 | 57 | 80 | 63 | 屯田 | 農政 | 兵站改革3 |
【シャサン(ハクトウ)】
魏の典農中郎将。豫州陳国陽夏県の人。子に謝衡。
太学で学び、典農官となった。これは、屯田民を管轄する職掌で、典農中郎将は一般の郡太守に相当した。
司馬懿は謝纘を長安に派遣し、農耕技術を教えさせた。
木や桑を植えさせ、畑は青々と生い茂った。こうして魏軍の兵糧・衣服の充足に貢献した。
249年、司馬懿が高平陵の変を起こすと、典農官を管轄する大司農・桓範は息子の説得で曹爽への味方を決めた。
謝纘は司馬懿に味方するよう説得して容れられなかったが、そのために勝利した司馬懿からの処分を免れた。
魏の末期から典農官は段階的に縮小され、西晋で廃止された。
引退後は洛陽で亡くなった。
※正史に記録はほとんど無く、『晋書』で名前が残るのみ。1997年、河南省太康県老冢鎮謝家堂村で謝纘の墓碑が発掘され、詳しい経歴が明らかになった。
360年、曾孫の謝万が建立したもので、1077年、子孫の謝文瓘が再建した。
正史に経歴が記録されていないのは、典農官の地位が一般の郡太守より低いことを示しているという。
親愛武将:司馬懿
范粲(承明)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
202 | 285 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 44 | 65 | 74 | 64 | 不屈 | 築城 | 慰撫 | 輿望 | 墨守研究3 | 礼教 |
【ハンサン(ショウメイ)】
魏の政治家。陳留郡外黄県の人。後漢に仕えた范丹の孫。范馨の子。
博覧強記で、遠近問わず師匠になって欲しいと望む者が絶えなかった。
始め州の役所の招聘に応じなかったが、のち治中従事に任官し、中央で太尉掾・尚書郎、
再び外地に出て征西司馬に昇進した。
司馬懿が魏の実権を握ると、武威太守となり、良吏を選任し、学校を設立し、農耕・養蚕を振興させた。
武威は対異民族の最前線であったが、范粲は防衛設備の構築に優れ、敵を寄せ付けなかった。
その結果、武威は交易で栄えた。また、武威は豊かで住民が奢侈に流れがちであり、范粲は倹約を勧めさせた。
母の高齢を理由に辞職を願い出たが、朝廷は最前線に必要な人材と評価していたので許さず、
なおも辞職を願うと、一時は酒泉郡・楽涫県令に左遷された。のち太宰従事中郎に転任した。
254年、曹芳が司馬師に廃立され、金墉城に送られると、范粲は白い喪服を着て見送った。
司馬師は官僚達を召集したが、范粲は応じなかった。司馬師は范粲の声望の高さを見て、穏便に済ませようと
再度侍中に任命する使者を送ったが、范粲は発狂したフリをして一言も喋らなくなった。
范粲は車輪を付けた寝台に寝たままで、地面に立とうとしなかった。家族が相談事がある時は、
こっそりと用件を告げた。范粲の態度が変わらなければOK、寝てしまった時は拒否のサインだった。
西晋が成立すると、陳留郡の孫和(孫権の子とは別人)は司馬炎に范粲の品行を称賛し、医薬を下賜するよう勧めた。
長男の范喬は父の重病を理由に辞退したが、司馬炎は許さなかった。范粲は狂ったフリをしたまま亡くなった。
※『晋書』では狂ったフリをした期間を36年間としているが、計算が合わない。
寝台から降りなかったのは「晋の地を踏まず」という意思表示だという。
親愛武将:曹芳
嫌悪武将:司馬師、司馬昭
魚豢
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
19 | 11 | 71 | 56 | 63 | 史官 | 太学 | 覇道 |
【ギョカン】
魏の政治家・歴史家。京兆郡の人。
曹叡の時代に郎中となった。後漢末から三国時代の歴史書『魏略』50巻、通史『典略』38巻を私撰した。
魏を正統とする内容で、敵国の記述は伝聞が多いため信憑性は落ちる。しかし外国の記述はもっとも充実しており、当時の中国の国際認識を示す貴重な史料となっている。
現存の記事は254年、曹芳が廃立された内容が最後のもので、曹髦の代以降に完成したと見られている。
西晋には仕えなかったが、『魏略』輯本を編纂した中華民国の張鵬一は、太康年間(280-289)まで存命していたとしている。
『魏略』『典略』は正史『三國志』の裴松之注に多数引用されており、大秦国(ローマ帝国)に関する記事は現存最古のものである。
倭国に関する記事も、陳寿の本文と並んで邪馬台国論争の争点となっている。
唐の劉知幾は、「巨細何でも載せ、雑然とした記事が多い」と批判しているが、南宋の高似孫は「筆力があり、また同時代の記述は優れている」と評価した。