みんなの新武将/西晋・東晋/東晋

Last-modified: 2024-01-11 (木) 23:41:44

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

西晋(265~316)

西晋」を参照

東晋(317~420)

安東将軍として建業?に進出した琅邪王司馬睿が、洛陽?陥落後に南遷貴族や江南土豪の支持を得て樹立。
王導の尽力で江南勢族と北来貴族の支持を集め、陽羨周氏を制圧して北主南従の体制を確立したが、
江南に基盤を持たない司馬氏の指導力は脆弱で、貴族層による共和体制が行なわれた。
347年に成漢を滅ぼして蜀を併合し、383年には淝水の役で前秦を大破して南北朝の大勢を確立したものの、
地方に対する統制力に欠け、揚州の北府軍と荊州の西府軍の伝統的な対立に加え、
王敦の乱、孫恩の乱、桓温・桓玄父子の専横と簒奪などが続いて、安定性に欠けた。
国内では琅邪王氏・陳郡袁氏・陽夏謝氏ら門地二品を頂点とする貴族制が確立され、江南開発の進展に伴い
大土地所有・荘園経営が発達した。貴族文化も開花して、詩の陶淵明、画の顧愷之、書の王羲之など中国屈指の文化人を輩出した。
桓玄平定の後は北府軍を掌握した軍人の劉裕が急速に抬頭し、南燕・後秦の征服による洛陽回復などの声望を背景に、420年に簒奪が行なわれた。

桓温の台頭以降は東晋後半を参照



皇帝・皇室(宗室)

司馬睿(景文)

生年登場没年死因
276290323自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5732687986求心節約強運消沈優柔斉射鼓舞歳出改善3割拠

【シバエイ(ケイブン)】
東晋の初代元帝。司馬覲の子で司馬懿?の曾孫。
15歳で父の爵位を継ぎ琅邪王となった。
八王の乱が起きると参謀・王導の進言で混乱する洛陽を離れて山東の封国に赴いた。
永嘉の乱が本格化すると建康(「建業」が愍帝の名・司馬鄴の避諱に触れるという理由で改称)に下り、
北来貴族と在地豪族を糾合して力を蓄えた。
愍帝が即位すると左丞相に任ぜられ、一年あまりのちに丞相、大都督中外諸軍事に昇進した。
劉曜によって長安が陥落し、捕虜となった愍帝崩御の報が届くと晋王、続いて晋皇帝に即位して晋朝を再興した。
天水に拠る司馬保も晋王を称したが、間もなく家臣に殺され、対抗勢力にはならなかった。
王氏の権勢が強まったため、側近の劉隗と刁協を重用して牽制を図るが、
王敦の叛乱を招き、首都・建康を失陥して謝罪。憂憤のうちに病死した。

親愛武将:刁協、劉隗

司馬紹(道畿)

生年登場没年死因
299317325自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8376808561機略果敢召募虚弱突撃斉射激励足止文事武備2王道

【シバショウ(ドウキ)】
東晋の二代明帝。司馬睿の長子。
幼少の頃から頭脳明晰であり、父に寵愛され世子となった。
その後、皇太子となり、王敦が反乱を起こした際には
自ら鎮圧に向かおうとするが、側近に諌められる。
皇帝に即位した後は、王敦らの反乱を鎮圧して体制構築に奔走。
宰相王導を重用して東晋の基盤を築くが、在位わずか3年、27歳にて早逝した。

司馬承(敬才)

生年登場没年死因
264322不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7159767473

【シバショウ(ケイサイ)】
西晋・東晋の皇族。司馬懿の弟・司馬進の孫。
篤実・品行方正で知られ、西晋の時代には広威将軍・安夷護軍として雍州安定郡に駐屯し、
その後は洛陽に戻って311年に洛陽が陥落した際には脱出に成功して荊州の山簡を頼り、
山簡の死後は司馬睿に帰順して軍諮祭酒となり、長安の愍帝から帰還を求められたが、
従わなかった。
司馬睿の即位によって左軍将軍・散騎常侍となって有力な藩屏として重んぜられ、
次いで湘州刺史となるが、王敦の反乱によって王敦に加担した武将らによって城を
包囲され、抵抗の末に捕らえられて殺害された。

一般臣下

薛兼(令長)

生年登場没年死因
322自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3936728375
3936728375名声能吏激励太学割拠

【セツケン(レイチョウ)】
西晋・東晋の政治家。呉の薛綜の孫で薛瑩の子。
呉の滅亡後に西晋に仕えて散騎常侍となり、同じ呉の出身である紀瞻・閔鴻・顧栄・賀循
らと共に「五俊」と称された。
その後も西晋にて比陽国相・太子洗馬・懐県令を歴任して功績を挙げ、東海王司馬越に仕えた後は
司馬睿に仕えて東晋の成立により太子少傅・尚書として皇太子司馬紹(後の明帝)の指導に当たった。
祖父の薛綜に父の薛瑩も皇太子の教育係であった為、三代続いて皇太子の指導に当たる事となった。

賀循(彦先)

生年登場没年死因
260275319自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5345768483運搬文化教化学者鼓舞太学3礼教

【ガジュン(ゲンセン)】
西晋・東晋の政治家・学者。賀斉の曾孫で賀邵の子。
父が孫晧によって処刑された際に臨川郡に流されたが、呉滅亡により赦された。
礼儀正しく学問を好み、三礼に通じていた。
西晋の会稽内史に務めていた際は西興運河を開墾し、会稽郡から銭塘江までの運河を
開通させ、後に中央に栄転したが司馬倫の帝位簒奪で官を辞した。
張昌の乱の討伐には参加したが、陳敏の乱の際には江東の諸豪族が陳敏に従う中で頑なに仕官せず、
その後しばらくして東晋の司馬睿に仕えて宗廟の祭祀に関する決まりの制定等、東晋の学者の中心
として活躍した。

胡毋輔之(彦国)

生年登場没年死因
269?317?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6250666178眼力酒乱

【コブホシ(ゲンコク)】
西晋・東晋の政治家・将軍。泰山郡奉高県の人。後漢末の胡毋班(胡母班とも)は高祖父。胡毋原の子。
若くして名声があり、人物鑑を持っていた。酒好きで、勝手気ままに生き、細かい事に拘らなかった。
また、王衍の四友に数えられた(後の三人は王澄、王敦、庾敳)。
始め仕官しなかったが、生活のため自ら仕官し、試しに繁昌令に任じられ、そこで初めて酒を断って仕事に励み、有能と評価された。
斉王・司馬冏討伐で手柄を立て、のちに望んで外地に出て建武将軍・楽安太守となった。
成都王・司馬穎が皇太弟となると洛陽に呼び戻されたが、謝鯤・王澄・阮脩・王尼・畢卓・桓彝らと共に
髪を振り乱して裸になったり、部屋に閉じこもって酒盛りするなど勝手気ままに振るまい、「八達」と呼ばれ評判になった。
他人に対しても同様で、たとえば息子の胡毋謙之が父子の礼に従わず、友達のように字で呼んでも平然としていた。
のち東海王・司馬越に仕えた。陳留太守となるが、王弥に占領されて勝つことが出来ず、免職となった。
司馬越の死後、江南に渡り東晋に仕えた。揚武将軍・湘州刺史・仮節となるが、まもなく死去した。

親愛武将:王衍、王澄、楽広、光逸、謝鯤、畢卓、桓彝

畢卓(茂世)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
715572769酒乱

【ヒツタク(モセイ)】
西晋・東晋の政治家。新蔡郡鮦陽県の人。畢諶の子。
官僚としての業績は特にないが、酒豪で知られた。若くして気ままに生きようと望み、胡毋輔之に生き様を認められた。
東晋の大興年間(318 - 321)、吏部郎となったが、酒ばかり飲んで仕事をしなかった。
ある時、隣家で仕込んだ酒が熟したので、侵入して盗み飲みして捕縛された。役人であることが
分かり解放されたが、そのまま家の主人と酒宴を始め、へべれけになって帰った。こんな調子だったので、まもなく解職された。
畢卓はかつて人に言ったことがあった。「酒数百斛(おおよそ数キロリットル)を船に満たし、いつも甘味を両側に置き、
右手に酒杯を、左手に蟹鋏を持ち、酒船の中を手足をばたつかせて泳いでいれば、もういつ一生を終えても満足できる」。
のち長江を渡り、温嶠により平南長史に任じられ、在職のまま死去した。

親愛武将:鄭泉、胡毋輔之

※「長江を渡り」は東晋に仕えた時の常套句だが、畢卓はそれ以前から東晋に仕えている。
文字通り、長江以北の東晋支配地域から長江以南に引っ越したという意味だろうか。「酒船」はいわゆる酒槽のこと。

陳眕

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4321735466名声功名消沈惰弱

【チンシン】
西晋・東晋の武将。潁川郡許昌県の人。陳準の子。
はじめ賈謐に接近し、金谷二十四友(賈謐二十四友)に数えられた。
賈一族の失脚後に恵帝の側近となり、右衛将軍となった。
304年、成都王・司馬穎が実権を握り、皇太子・司馬覃と皇后・羊献容を廃して自らが皇太弟に納まった。
陳眕は司馬乂の故吏である上官巳、東海王・司馬越と共に司馬穎討伐を計画し、恵帝の詔を得ることに成功した。
陳眕らは司馬覃と羊献容をそれぞれ復位させると、恵帝を親征させ、十万余の軍勢で司馬穎の本拠であるに攻め込むが、石超の奇襲を受けて惨敗した。
陳眕らは逃亡し、恵帝の身柄は司馬穎の手に落ちた。陳眕は洛陽に退却したが、河間王・司馬顒の軍勢に逐われ、江南に出奔した。
311年、石勒の攻撃を受け降伏したが、東晋が成立するとこれに従い、明帝の時代に尚書となった。323年、名目上の都督幽平二州諸軍事・幽州刺史を兼務した
(幽州・平州を実効支配していたのは拓跋賀傉・石勒・段末波・慕容廆などの勢力)。

上官巳

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5974513944殿軍監守短慮粗暴

【ジョウカンシ】
西晋・東晋の武将・政治家。
長沙王・司馬乂に仕えた。高誕(高柔の子)を信任し、上官巳の推挙により高誕は徐州刺史・雍州刺史を歴任したという。
司馬顒と司馬穎らが司馬乂を殺し、朝廷の実権を握ると、上官巳は東海王・司馬越、陳眕、逯苞、成輔らと共謀して司馬穎討伐を企てた。
しかし石超の奇襲を受け惨敗すると、陳眕と共に洛陽に退却した。司馬越が封国に逃げ帰ると、司馬覃を皇太子に奉じて実権を握った。
しかし、将兵が掠奪を繰り返したため信望を失い、周馥・満奮は上官巳を暗殺しようとしたが、逆に返り討ちにした。
司馬顒軍の張方が洛陽を包囲すると、司馬覃の裏切りで逃亡した。
その後は独立勢力となった様で、趙固・李矩・郭黙と争っていたが(豫州か徐州に拠っていた?)、320年頃、東晋の祖逖の仲介でその傘下に入ったという。

親愛武将:司馬乂

紀瞻(思遠)

生年登場没年死因
253324自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8167867478堅守楽奏督励罠破斉射鉄壁鼓舞駆逐方円強化3割拠

【キセン(シエン)】
丹陽郡の人。西晋・東晋の武将・政治家。呉の紀陟の子。
幼い頃から読書に親しみ、また詩や音楽等多彩な芸にも親しんだ。
呉が降伏すると、一家は暦陽郡に移住した。孝廉に推挙されたが、仕官しなかった。
さらに秀才に推挙されたが、これにも応じなかった。
陸機とは親しくしばしば議論を行い、陸機が死亡した際は残された娘の
為に結婚の世話をして仕送りも送った。
301年、司馬冏に召し出されて西晋に仕えた。陸機が司馬穎に殺されると、
一度辞職して帰郷したが、陳敏の討伐に活躍、
その後は司馬睿に仕えて京口の守備軍を率いて石勒の侵攻を防いだ。
また、王導と共に、司馬睿の皇帝即位を推し進めた。これが東晋である。
司馬睿の即位後は侍中を経て尚書となり、その後は高齢と病の為に引退を
願い出たが、司馬睿は才を惜しんで中々引退させなかった。

親愛武将:陸機、陸雲、顧榮、司馬睿

蒋珩

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5243656477慰撫頑健輿望割拠

【ショウコウ】
零陵郡泉陵県の人。呉・西晋・東晋の将軍・政治家・宗教家。蜀漢に仕えた蒋琬の同族説がある(ただし、本貫の県が異なる)。
呉では始興太守・広州都督を歴任した。
東晋の時代まで健在で、江表で仏教の寺を開基し、中原から移住した住民を帰依させたという。
湖南省(荊州南部)・陽明山には、蒋珩と、杜鵑(つつじ?)と呼ばれた美少女の恋物語が今に伝わっている。

華譚(令思)

生年登場没年死因
244?322?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4836768376論客仁政

【カタン(レイシ)】
呉・西晋・東晋の政治家・将軍。広陵郡江都県の人。華諝の子。
生まれて1年経たずに父を亡くし、母に育てられた。
呉の滅亡後、揚州刺史・周浚の従事となり、才能を愛され、友人として待遇された。
徐州刺史・嵆喜によって秀才に推挙されて上洛し、司馬炎には全国の秀才の最優秀と評価された。
王済に「亡国の余り物に何の才能があるのか」と嘲笑されると、華譚は「国家の盛衰は天命です。
仲尼(孔丘)も魯を離れて斉に逼塞したではありませんか」と反論し、王済は非常に立派だと思った。
永寧年間(301-302)、(刺史の?)代行となった。八王の乱で荒廃し、住民は飢饉で苦しんでいたので、
華譚は力を尽くして住民を救い、王戎から穀物300石の援助を得ることができた。
陳敏が反乱を起こすと、旧呉の有力者は軒並みその官職を受けた。華譚は「陳敏は呉の真似をしようとしているが、
晋に叩き潰されるだけだ」と手を引くよう呼びかけ、多くの者が従った。
のち司馬睿に従った。州大中正となり、干宝らを推挙した。東晋が成立すると、秘書監になった。
王敦が反乱を起こすと、病気を理由に辞職し、まもなく死去した。

※『晋書』には秀才に推挙したのは嵆紹とあるが、嵆紹が赴任したのは司馬炎の死後である。

周勰(彦和)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6866444968水戦輿望浪費短慮我道

【シュウキョウ(ゲンカ)】
西晋・東晋の武将・政治家。呉興郡陽羡県の人。周玘の子、周処の孫。周魴の曾孫。
父は王導ら、北方から来た人士に干されて憤死したので、常に復讐の機会を窺っていた。
周勰は呉興郡功曹の徐馥と謀議して、挙兵を企てた。徐馥の家に部曲(私兵)がおり、周勰は叔父・周札(周処の三男)の命令と偽って部曲に募兵させた。
荒くれ者達が集まり、王導・刁協の討伐を目標にした。孫晧と同族の孫弼もまた、呼応して挙兵した。
徐馥は呉興太守の袁琇を殺し、数千の兵を集め、周札を奉戴して首領にしようとした。
しかし周札は挙兵に加わらず、反乱を義興太守の孔侃に通報したので不発に終わった。徐馥は仲間達に殺され、
孫弼は宣城太守・陶猷に討たれた。元帝は周氏の声望が高く、呉人の中心にいる豪族なのを重く見て、周勰を罪に問わなかった。
周札に叱責されて下野し、私宅で淫蕩の日々を送った。人に会うと、「人生どれほどの時間があるだろう。ただ迅速に決断しなければならない」というばかりだった。
のち再び仕官したが、臨淮太守で亡くなった。

嫌悪武将:王導、刁協

※周勰の反乱不発は、王導の呉豪族分断策の巧みさの例としてよく挙げられる。

刁協(玄亮)

生年登場没年死因
322不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2426828115法律文化学者酒乱高慢

【チョウキョウ(ゲンリョウ)】
西晋・東晋の政治家。渤海郡饒安県の人。刁攸の子。
幼少より経籍を好み、博覧強記だった。濮陽王・司馬允の文学に選ばれ、本郡大中正に昇進した。
八王の乱では成都王司馬穎・趙王司馬倫・長沙王司馬乂・東嬴公司馬騰らの幕僚を歴任。
307年、河南尹に任命されたが受けず、江南に避難し、司馬睿(元帝)の傘下となった。
愍帝が即位すると御史中丞に任命されたが、長安には行かなかった。
東晋が成立すると、尚書左僕射となった。当初、東晋の朝廷は国家方針が定まらず、有職故実に通じた朝臣もいなかった。
刁協は長く洛陽にいたので、故実をそらんじることが出来た。そこで、東晋の制度は全て刁協がチェックした。
尚書令に昇進し、数年後に紫金光禄大夫を加えられた。
刁協は強気な性格で、ことある毎に人と衝突した。また、元帝の側近として、王氏と江南人士の双方を抑圧したから、双方から恨まれた。
その上酒乱で暴言を吐くのが癖だったので、眉をひそめない者はいなかった。
王敦が叛逆すると、上疏して刁協・劉隗の罪を訴えた。二人は元帝の命令で王敦を迎撃したが大敗し、
建康から落ち延びるよう重ねて命令された。しかし、刁協は人に恨まれていたので従者達は皆逃げ、長江の船着き場で殺された。
首は王敦の元に送られた。

親愛武将:司馬睿

王敦(処仲)

生年登場没年死因
266281324自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9079833849梟雄崩壁楽奏悪名高慢急襲火矢大喝罵声衝車上兵伐謀2覇道

【オウトン(ショチュウ)】
西晋の政治家。東晋建国の元勲。琅邪王氏の出身。王基(東萊郡が本貫の将軍とは別人)の子で王覧の孫。王導の従兄。司馬炎の娘の襄城公主をめとった。
司馬炎の前で、神懸かり的な太鼓の演奏を披露したことがある。
王愷の酒宴に出た時のこと。王愷は客が酒を飲まないと、給事をした侍女を手討ちにした。
王導は下戸だったが、侍女のために無理に酒を飲み干したが、王敦は酒を断って平然としていた。
八王の乱の中で、叔父の王彦に反司馬倫の挙兵を勧め、恵帝が復位すると洛陽に駆けつけた。
司馬越によって揚州刺史に赴任すると、従弟の王導が司馬睿(のちの元帝)を擁して身を寄せている。
江南の軍権を司って各地の反乱を鎮圧させた。
東晋が建国されると大将軍となり、元帝を凌ぐ権力があったので「王と馬が天下を共にす」と謳われた。
元帝は実権を握るために、王導を遠ざけて劉隗・刁協らを重用し、王敦の軍権が削ろうとした。
322年、武昌で起兵し、建康に進軍し石頭城を陥落させたため、元帝は王敦の軍権を認めざるを得なくなった。
王敦は丞相に就任して専横を極め、刁協ら元帝の側近を殺した。明帝の代に、王敦は簒奪を企てていると糾弾され、
討伐の勅命が出され親征軍に敗れた。
病没後に、墓を暴かれ屍を晒されている。

嫌悪武将:劉隗、刁協、王澄、劉琨

王導(茂弘)

生年登場没年死因
276339自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7540869495王佐柱石名声求心能吏斉射罵声鎮静経世済民3割拠

【オウドウ(モコウ)】
両晋の政治家。王裁の子。魏の王覧(王祥の弟)の孫。琅邪王氏の出。
西晋時代、琅邪王司馬睿に晋滅亡を予測し、建康へ移るよう進言した。
五胡の乱の際、劉淵の漢軍に晋の都洛陽は陥落し、皇族は半ば全滅したが、
唯一江南に逃れ無事だった司馬睿の後見となり、東晋を成立させる。
宰相として多くの人材を推薦し政権基盤を安定させ、従兄の王敦に長江中流を制圧させた。
後に王敦は造反するが、自身は失脚せず執政を続け、成帝の代には司徒として大権を担った。
東晋の簡文帝は、桓温に対し、諸葛亮と並び皇帝を輔弼した忠臣の例に挙げたという。

王承(安期)

生年登場没年死因
273?318?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5237678189名声慰撫寡欲補佐

【オウショウ(アンキ)】
両晋の政治家。太原王氏の出で王湛の子、王昶の孫。
寡欲で言葉を飾らない性格で、若くして名声があった。王衍は、楽広と同等に評価した。
301年、常山王・司馬乂の元で驃騎参軍となった。司馬乂と司馬穎・司馬顒の争いが起きると洛陽を離れ南下した。
恵帝が長安から洛陽に戻るのに寄与し、307年より、許昌に駐屯する東海王・司馬越の参軍となり、重用された。
また、司馬越は子の司馬毗に、王承・趙穆・鄧攸を頼りにするよう書き残している。
王承は東海太守(東海内史のことか)に赴任し、清浄かつ些事に拘らない統治を行った。「王承魚盗」などの逸話がある。
その後辞職し、漢(前趙)の侵攻などで道路がまともに通れない中、江南に逃れた。
司馬睿の元で鎮東府従事中郎となり、王導・庾亮ら重臣をとりまとめ、中興第一と賞された。
46歳で死去した。

親愛武将:司馬越

※東晋的には王導より評価が高かった。初期に亡くなったために目立たなくなったのだろうか。

周訪(士達)

生年登場没年死因
260320自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9290795578掃討一心水戦胆力調練豪気衝天突撃牽制駆逐強襲水軍育成4王道

【シュウホウ(シタツ)】
東晋の武将。汝南郡安成県の人(ただし、出生地は廬江郡)。呉に仕えた周敏の子。
若い時から沈着剛毅で、陶侃と親交を持った。
司馬睿の元で揚烈将軍となる。
華軼の討伐では馮逸を破り、華軼の水軍も破って江州(九江)を東晋の版図に加えた。
杜弢の反乱では王敦の麾下で水軍を率いて戦い、流れ矢で前歯を折りながら勇戦した。
杜曾征伐を命じられると、杜曾の勇猛から正攻法を避け800の精鋭を率いての奇襲を仕掛けて鎮圧した。
王敦が荊州刺史を自任したことに怒り、襄陽で練兵を行い北伐を企図しながら王敦に対する抑えとなる。
しかし周訪、祖逖と軍の重鎮が相次いで没したため、王敦の専横が始まった。

親愛武将:陶侃

祖逖(士稚)

生年登場没年死因
266321自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9782886588神将求心沈着英名召募大器大徳突撃激励牽制衝車三軍強化3王道

【ソテキ(シチ)】
東晋の将。
司馬炎?の死後、八王の乱に際し長江の南に避難し、司馬睿が推戴されると東晋に仕えた。
以後は積極的に北伐を主張するが東晋に承認されなかったため、
約2千名の義勇軍だけで北伐して次々と勝利を収め、黄河以南を全て東晋へ奪回し、
後趙の石勒にも連戦連勝するが、名声を憂えた元帝に戴淵と代えられた。
後、東晋の朝廷では政争が起こり、国難の中、中原の回復を憂えて病没した。
長江を渡る際、「北方を回復しない限りは生きてこの河を渡らず」と誓った事で知られ、
南宋の文天祥の『正気の歌』でも詠われた。

親愛武将:劉琨
嫌悪武将:戴淵

周顗(伯仁)

生年登場没年死因
269322不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4940687579沈着論客動転酒乱

【シュウギ(ハクジン)】
西晋・東晋の将。汝南郡安成県の人。周浚の子。
若い頃から風采がりっぱで、他人と馴れ合わなかった。一方で寛大で、無礼な態度を取られても受け流していた。
司馬越の子・司馬毗が鎮軍将軍になると、その長史となった。司馬睿の元で甯遠将軍・荊州刺史となった。
しかし、傅密・杜弢が反乱を起こすと狼狽して逃げ出した。揚威将軍・兗州刺史となるが、(石勒が実効支配していたためか)司馬睿は建康から出させなかった。
東晋が再興されると、吏部尚書となるが、酒癖の悪さを糾弾されて解任された。
のち尚書左僕射に昇進したが、アルコール依存症で「三日僕射」と揶揄された。
王導とは非常に親密で、彼を膝枕して語り合ったことがあった。
王敦が叛逆すると、劉隗は琅邪王氏を連座して族滅するよう主張した。王導は周顗に取りなしを頼んだが
周顗は答えず、しかし元帝に対して王導の忠誠を訴えた。一方で王導には「今年は賊徒共を殺したい物です」といったから、王導は周顗を恨んだ。
王敦が王導に、周顗をどうすべきか尋ねると、何とも答えなかった。王敦は部下に、周顗を馬蹄で踏み殺させた。
のちに王導は、周顗が自分を救ってくれたことを知り、後悔して周囲に云った。
「吾が伯仁を殺したわけではないが、伯仁は吾のせいで死んだ。あの世に行ったら、良友に謝ろう」。

親愛武将:王導

衛展(道舒)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6546736835捕縛水戦法律名利

【エイテン(ドウジョ)】
西晋・東晋の政治家。衛恒の族弟(一族で年下の同世代)。衛瓘の族子。
尚書郎・南陽太守を歴任した。永嘉年間(307-312)に、江州刺史となった。
衛展は、後任の江州刺史となった華軼に礼遇されなかったことを恨んでいた。
永嘉の乱での洛陽陥落後、華軼は琅邪王・司馬睿に従わなかったので、衛展は豫章太守・周広と共に司馬睿に内通し、華軼を奇襲した。
敗走した華軼を安城で斬首し、華軼の五人の子供も殺し、建康に華軼の首を送った。その後、司馬睿の大理(刑罰の職)に取り立てられた。
当時、司馬睿の元では子の罪状を取り調べる時は父に証言させ、あるいは子の行方を自白させるために父母を拷問していた。
衛展は、いずれも儒教に反していると上奏し、中止させた。
東晋が建国されると廷尉となり、上疏して肉刑の復活を主張した。国内を二分する論争になったが、王敦が反対したため導入は見送られた。
書家の衛鑠は、一説によると衛展の娘であるという。

親愛武将:鍾繇
嫌悪武将:華軼

甘卓(季思)

生年登場没年死因
322不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6581457254水戦振興優柔

【カンタク(キシ)】
呉・西晋・東晋の武将・政治家。丹陽郡の人。甘昌の子で、甘述の孫。甘寧の曾孫。
呉の滅亡後、下野した。孝廉、次いで州の秀才に推挙され、西晋の呉王・司馬晏の常侍となった。
石冰の反乱鎮圧で戦功を立て、東海王・司馬越の参軍となった。
その後西晋に見切りを付けて辞職し、故郷に帰ろうとしたところで陳敏と意気投合し、その反乱に加わった。
しかし、周玘・顧栄の説得で、陳敏討伐側に回った。
司馬睿が建業入りすると、その傘下となり、周馥討伐や杜弢の乱鎮圧などで活躍した。
320年、安南将軍・梁州刺史・仮節・都督沔北諸軍事となり、襄陽に駐屯した。善政を敷き、市場の二重課税をなくした。
王敦から反乱の誘いを受けると、一度は同意したが、決心が付きかねていた。その後反乱鎮圧側に回るが、
なお進軍を躊躇していた所で打ち負かされ、襄陽に退却した。最期は寝ているところを、王敦の意を受けた周慮に暗殺された。

郭璞(景純)

生年登場没年死因
276324不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
108805769詩想占術

【カクハク(ケイジュン)】
東晋の占師、文学者。
博学で巫術・天文・陰陽に通じ、古の京房や管輅も郭璞には及ばないとされた。
河東が異民族よって荒廃するという占いにより、江南に避難した。
王導に招かれ、的確な助言を行ったために重用される。
晋王司馬睿に対して銅鐸の発掘と湧水を宣託し、これを晋再興の瑞兆とした司馬睿は帝位に就いた。
王敦が謀反を起こした際に「成無(成功しない)」と占ったため、怒った王敦により処刑された。
また、東晋の寿命を200年と占ったが、実際は104年(317-420)だった。『晋書』は、
西晋の最後と宋の始めを除くと102年になるとして、百二年では短いので、ひっくり返して二百と述べたのでは無いかと推測している。
文学者としては「江賦」を詠み、「山海経」「爾雅」に注釈を施している。
後代には風水思想の発案者として仮託されている。

桓彝(茂倫)

生年登場没年死因
276328不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6861787770

【カンイ(モリン)】
西晋・東晋の政治家。譙国龍亢県の人。桓顥の子で桓温の父。
幼少にして父を亡くし、食器が買えなかったのか、ひょうたんの器で生活していた。
八王の乱では斉王・司馬冏の挙兵に従った。のち司馬睿に従い、311年、江南に逃れた。
胡毋輔之らと共に、奇行で「八達」と呼ばれたのはこの頃である。
王敦が実権を握ると、病と称して辞職した。明帝(司馬紹)が即位すると、王敦討伐の密謀に関わった。
王敦の死後、宣城内史として外地に出て、善政を敷いた。
327年、蘇峻が反乱を起こすと、長吏の裨恵は「宣城の兵は弱く、民は動揺しやすいので(動かない方がよい)」
と説いた。桓彝は血相を変えてこれを退け、将軍の朱綽を派兵し、蘇峻軍を破った。
蘇峻が建康を攻め落とすと、裨恵は蘇峻に従うよう進めたが、これも従わなかった。
蘇峻軍の韓晃の攻撃を受け、降伏を拒み徹底抗戦するが宣城は陥落し、処刑された。

親愛武将:胡毋輔之、庾亮、周顗、温嶠

温嶠(太真)

生年登場没年死因
288304329自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7238799085水戦人脈論客補佐浪費鼓舞強襲地勢研究3王道

【オンキョウ(タイシン)】
西晋・東晋の政治家。太原郡祁県の人。温憺の子で温羨の甥。温恢の曾孫。
博学で容姿・談論に優れた。州郡の辟召に応じず、上京して司隷校尉の都官従事となり、庾敳の蓄財を弾劾して名を挙げた。
匈奴の漢(前趙)の侵攻に晒されると、叔母が劉琨の妻であった事から并州に拠る劉琨の部下となり、石勒との戦いで功績を挙げた。
しかし洛陽が陥落し、西晋が滅亡すると、建康に拠る琅邪王・司馬睿を次の皇帝に推挙する使者として并州を離れ、そのまま東晋に仕えた。
東晋では王導・周顗・謝鯤・庾亮と親交を結び、特に庾亮と親しくなった。元帝(司馬睿)の擁立に貢献し、驃騎将軍・王導の長吏となった。
司馬紹が皇太子に立てられると太子左庶子に任じられ、側近となった。王敦が反乱を起こすと、司馬紹は自ら打って出ようとしたが、
温嶠が馬車の鞅を剣で斬って思いとどまらせた。王敦が勝利すると、王敦は司馬紹の廃立を企てたが、温嶠が司馬紹の器量を説き、百官が賛同したので廃立を断念した。
明帝(司馬紹)が即位すると、中書監となった。当初は王敦に従い、丹陽尹となるが、かえって王敦討伐の謀議に加わった。
324年6月、明帝が王敦は死んだと称して「残党討伐」を命じると、王敦は温嶠の誅殺を号して挙兵した。王敦の兄・王含は建康に侵攻したが、
温嶠は水軍を率いて王含を破り、鎮圧に貢献した。
成帝(司馬衍)が即位すると、実権を握った庾亮は蘇峻を警戒し、温嶠を江州刺史に任命して武昌に駐屯させた。さらに庾亮は蘇峻の軍権を
取り上げようとしたため、温嶠は王導らと共に反対した。果たして蘇峻は祖約と反乱を起こし、建康を陥落させた。庾亮は建康を脱出し、温嶠の元に逃れた。
温嶠は庾亮を討伐軍の総大将に推戴したが、庾亮が断ったため、荊州刺史・陶侃を説得して総大将とさせた。さらに兗州刺史・郗鑒の協力を取り付け、各地に蘇峻討伐の檄文を送った。
329年、蘇峻の乱を鎮圧すると、温嶠は武昌への遷都を進言したが、容れられなかった。戦功で驃騎将軍・開府儀同三司に昇進したが、その翌月、抜歯に失敗して中風となり、死去した。

親交のあった桓彝に子が生まれた時、泣き声を聞いて「真の英物(傑出した人物)だ」と評価した。桓彝は喜び、子の名を「温」とした(桓温)。
温嶠は笑って、「私が名字を変える必要があるかもな」といった(桓温が皇帝に成り上がるという意味)。
『世説新語』によると博打好きで、散財すると庾亮に金をせびっていた。また口が汚く、謹厳な卞壼としばしば口論になったが、
庾亮は「太真はいつも、ひなびた言葉は言わないものだ」と温嶠を評価していた。

親愛武将:劉琨、庾亮、桓彝、臧洪
嫌悪武将:王敦

※字は「泰真」とも。

陸曄(士光)

生年登場没年死因
261334自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5642678381名声

【リクヨウ(シコウ)】
東晋の政治家。呉郡呉県の人。陸英の子で陸瑁?の孫。
若くして名声があり、従兄の陸機は「我が家は代々公に事欠くことがない」と評していた。
西晋には出仕しなかったが、琅邪王・司馬睿が江南入りするとこれに仕えた。
東晋が成立すると、江南の人材で初めて侍中に抜擢された。
王敦の死後、残党の銭鳳を討伐した功績で、爵位を江陵伯に進められた。
明帝(司馬紹)が重体になると、王導・庾亮らと共に遺命を受け、録尚書事に任じられた。
成帝(司馬衍)の即位後、蘇峻が反乱を起こすと、蘇峻は建康を占領した。しかし陸曄は名声があったために殺されずに済んだ。
蘇峻の死後、宛の匡術を降伏させる功績を挙げ、乱の平定後に衛将軍に昇進した。

葛洪(稚川)

生年登場没年死因
283343自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7358756468学者規律召募火矢業火駆逐本草学礼教

【カツコウ(チセン)】
江蘇地方の名門の出身で西晋の地方官であった父の死後は貧苦の中で多くの教養を身に付け、神仙思想に
興味を持って一族であった葛仙公の弟子・鄭隠に弟子入りした。
303年の張昌の乱で張昌が江東に侵攻した際は義兵を募って討伐に功績を挙げて伏波将軍となる。
その後官を辞して神仙思想と煉丹術の理論書である「抱朴子」を著し東晋成立後は関中侯となる。
晩年は広東の羅浮山に篭って煉丹術の研究を続けた。

荀崧(景猷)

生年登場没年死因
263?329?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7960788072文化教化工面輿望斉射牽制鼓舞墨守研究礼教

【ジュンスウ(ケイユウ)】
西晋・東晋の武将、政治家。荀頵の子、荀彧の玄孫。
志は清純で文学を好み、王敦や陸機らと交友を持ち、司馬倫に仕えた。
永嘉の乱で洛陽が陥落すると、母の屍を守って逃げるが賊に襲われて負傷し気絶した。
母を弔い喪があけると襄城太守となり、後に荊州の都督となる。
杜曾の乱でが包囲されると、娘の荀灌を遣わして援軍を求め、兵も兵糧も少ない中で宛を守り抜いた。
東晋が成立すると尚書僕射となり、刁協とともに中興儀礼を定めた。
蘇峻の乱では、王導とともに幼い成帝を護って幽閉先の石頭城に付き従う。
乱の平定後に病が篤くなり、没した。
生前の官位は金紫光録大夫のち右光録大夫。

荀組(大章)

生年登場没年死因
258277322自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6637695668名声地利消沈割拠

【ジュンソ(ダイショウ)】
西晋・東晋の政治家。荀勗の子。
20歳の時、王衍に「公正で才識がある」と評価された。初任は司徒左西属。
太子中庶子・滎陽太守を歴任した。趙王・司馬倫が相国となると、輿論の支持を得ようと名士を招聘したが、
荀組もその一人だった。八王の乱のさなか、散騎常侍・中書監・司隷校尉・特進・光禄大夫に昇進した。
荀組兄弟は名門なので高位に就いたが、権力者との衝突を恐れ、ただ評論するだけだった。
洛陽が漢(前趙)によって陥落する直前、兄の荀藩と共に脱出し、滎陽の開封に行台(臨時政府)を立て、琅邪王・司馬睿を盟主とした。
荀藩の死後、司馬鄴(愍帝)政権で司空・太尉を歴任し、豫州牧となり漢と戦った。
愍帝が漢に拉致されると、司馬睿を皇帝に推す勧進文に名を連ねた。
許昌に駐屯していたが、石勒の攻勢に劣勢となり、
数百人の配下と共に許昌を放棄し、長江を渡って建康に逃れた。
東晋で録尚書事に任命された。太尉・太子太保に昇進したが、拝命する前に死去した。

荀邃(道玄)

生年登場没年死因
329自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
910735064楽奏慎重消沈名利

【ジュンスイ(ドウゲン)】
西晋・東晋の政治家。荀藩の長男、荀勗の孫。
音楽を聞き分け、議論を得意とした。弱冠(二十歳)にして、趙王・司馬倫の相国掾に辟召され、太子洗馬に遷った。
長沙王・司馬乂にもそのまま仕え、参軍となった。司馬乂が敗れ、成都王・司馬穎が皇太弟となると、そのまま仕え、中舎人となった。
鄴が石勒によって陥落すると、荀藩に随って密県に行った。琅邪王・司馬睿に招聘されたが断り、司馬熾(懐帝)政権に左将軍・陳留相を加えられた。
司馬鄴(愍帝)が即位すると、荀邃の娘を娶ることを望み、散騎常侍とした。しかし荀邃は長安の陥落は近いと踏んで従わず、
長江を渡り司馬睿(元帝)を頼った。東晋では侍中となった。
元帝の側近・刁協とは姻戚関係にあり、刁協は荀邃を吏部尚書にしようとしたが、荀邃は断って刁協と距離を置いた。
王敦が反乱を起こすと、刁協派とみられた人士は粛清されたが、荀邃は処分を免れた。
のち尚書となった。蘇峻が反乱を起こし、司馬衍(成帝)を石頭城に拉致すると、王導・荀崧と共に成帝に従った。
反乱鎮圧後、まもなく死去した。

庾亮(元規)

生年登場没年死因
289340自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6051769270節約名声法律消沈動転斉射挑発罵声政令徹底3礼教

【ユリョウ(ゲンキ)】
東晋の政治家。東晋の宗室の外戚。
容姿が美しく、風格を備え、善談と老子・荘子を好んだ。
明帝に王導と共に後事を託され、中書令となって法治主義に基づいて政治を行った。
王導を凌いで権勢を誇ったが、厳格に過ぎたため陶侃ら諸将からは反感を買っている。
蘇峻の乱で成帝とともに捕えられるが、幽閉先から脱出し陶侃に援助を求める。
陶侃と協力して蘇峻の乱を平定すると、自らは責任をとって中央から退き蕪湖に駐屯した。
北伐を企図するも、邾城を失陥したため計画のみに終わる。
王導死後に中央への召還を固辞して死去した。

※「庾」では認識されないので、代わりに「臾」などを用いる。(PC版)

陶侃(士行)

生年登場没年死因
259334自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
9284858988洞察一心節約水戦農政百戦錬磨突撃牽制足止駆逐文事武備3王道

【トウカン(シコウ)】
西晋・東晋の武将。呉の出身。
劉弘の配下として厚く信頼され、襄陽?での張昌の乱を平定し、武昌を攻めた陳敏を破った。
永嘉の乱で天下が乱れる中、頻発する反乱の鎮圧に奔走する。
東晋の代になると王敦に推挙され荊州刺史となるも、荊州平定の功績を王敦に疎まれ広州刺史に左遷される。
以後も広州や交州を鎮めて統治し、王敦が乱を起こして失脚すると荊州刺史に復帰しかつての領民から喜ばれた。
蘇峻が首都の建康?を陥落させ成帝を捕えた際には、義軍の盟主として蘇峻を攻め敗死させている。

郗鑒(道徽)

生年登場没年死因
269339自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8473766985堅守求心規律教化輿望火矢鉄壁鼓舞駆逐墨守研究3礼教

【チカン(ドウキ)】
西晋、東晋の政治家。
最初は趙王・司馬倫に仕えたが、簒奪の野望を察して職を去った。
永嘉の乱で中原が乱れると故郷に帰り、戦災に苦しむ人々に施しを与えた。
郷里の人々から盟主に推されて千家余りを率いて魯の嶧山に避難した。
司馬睿に帰順すると石勒の軍が攻め寄せ、孤立無援で飢餓も起きたが、
味方から内通者は現れず、逆に数万の避難民が新たに帰順してきた。
王敦と蘇峻が立て続けに叛乱を起こし首都・建康を陥れると、
鎮圧に中心的役割を果たして司空に昇進。のちに大尉に進み71歳で病死した。

※「郗」は認識されないので、代わりに「希」などを用いる。(PC版)

諸葛恢(道明)

生年登場没年死因
284345自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6353728481振興文化教化仁政罵声鼓舞地域振興3割拠

【ショカツカイ(ドウメイ)】
東晋の政治家。諸葛誕?の孫、諸葛靚?の子。
山東で官吏を務めていたが、八王の乱等で西晋が混乱すると江東に逃れる。
王導・庾亮らに次ぐ名声があり、王導から黒髪の若いうちに高位を得ると予見された。
琅邪王司馬睿(後の東晋の開祖元帝)の主簿として事務を取り仕切る。
西晋の愍帝が長安?へ召喚したが、司馬睿は拒否し会稽?太守に任じた。
会稽で善政を敷き、元帝からその政治手腕を「政清人和」と表彰された。
王敦の乱では王含を討つ功績を上げ、後将軍となる。
その後も、吏部尚書、散騎常侍、尚書令などの要職を歴任した。

王羲之(逸少)

生年登場没年死因
303361自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2524586690詩想名声文化人脈高慢罵声歳出改善我道

【オウギシ(イツショウ)】
東晋の政治家・書家。右軍将軍。書聖と称された史上最高の書家。
琅邪王氏の出で、王導や王敦らから将来を嘱望されていた。
会稽?に赴任後、山水に恵まれた土地柄に惹かれ清談の風に染まったが、
飢饉に際し、中央への租税の減免を要請するなど統治にも力を注いだ。
後、病気を理由に官を辞して隠遁し、会稽の地で、悠々自適の生活を過ごし、
各地を巡って古書を見、寝食を忘れて仙道に精進し、楷書・行書・草書の各書体に一家をなした。
「書道の革命家」「書道の最高峰」と評され、書道を一個の芸術として確立した人物。

姚襄(景国)

生年登場没年死因
331357不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8593675192驍将求心英名慈悲直情虎嘯風烈急襲激励大喝挑発三軍強化王道

【ヨウジョウ(ケイコク)】
東晋の武将。離反後は独立勢力を率いた。後秦の姚萇の兄。
腕の長さが膝下まで届くほどあり、武芸多才で雄武を賞賛されていた。
父の姚弋仲が東晋に通じており、その没後に前秦を南下し、
前秦軍と一進一退を繰り広げながら東晋領の寿春?に辿り着く。
北伐に消極的な中でも屯田と練兵を続けるが、殷浩に疎まれ幾度も刺客を放たれる。
殷浩の北伐の際に東晋から離脱し、東晋軍を撃ち破って許昌?で独立する。
桓温の討伐を受け大敗するが、敗残兵や民衆は姚襄を慕い付き従った。
その後、故郷を目指し関中に侵攻するも、前秦の鄧羌に敗れ戦死した。

沈勁(世堅)

生年登場没年死因
365不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8076541358堅守不屈胆力召募奮戦激励鉄壁方円強化王道

【シンケイ(セイケン)】
東晋の武将。
父・沈充が王敦の腹心で叛乱に関与したことから、父の汚名を雪ぐことを志した。
王胡之の推挙で仕官が許され、 前燕の南下に際して洛陽を守備。
2千未満の兵力ながら壮士を募って何度も前燕軍を撃退した。
兵糧が尽きても尚も僅かな兵力で留まるが、衆寡敵せずまもなく捕虜となった。
慕容恪から仕官の誘いを受けるが、慕容虔が後の患いとなるから殺すよう進言したため処刑された。
慕容恪は自国へ帰還後にその才を惜しみ「沈勁を殺した事を天下に恥じる」と述べた。

列女

荀灌

生年登場没年死因
303自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7470734972疾走一心果敢血路強運長駆直入突撃鼓舞混乱錐行強化王道

【ジュンカン】
荀崧の娘で末子。荀彧の六世孫。
荀崧が平南将軍として宛に鎮守していた際に、杜曾の乱によって城を包囲された。
13歳だった荀灌が襄城太守の石覧のもとへ救援を求め、数十名の兵を率いて城を脱出する。
賊の追撃を受けるが兵士を励まして戦って進み、無事に石覧のもとに辿り着いた。
独断で更に周訪にも救援を求め、三千の援軍により宛が救われた。
その後の事績は不明。
(追記)なお、13のDLCで古武将として登場している。その時の能力は80/73/77/62。

※荀灌が援軍を求めたのは晋書荀崧伝では平南将軍で宛に鎮守し、襄城太守を石覧が務めている時。
しかし、晋書列女伝では荀崧が襄城太守で、石覧が平南将軍と真逆になっている。

在野

虞喜(仲寧)

生年登場没年死因
270?345?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
311783259占術史官

【グキ(チュウネイ)】
西晋・東晋の天文学者・歴史家。会稽郡余姚県の人。虞察の子で虞翻?の同族。弟に虞預。
虞察は呉の征虜将軍だった。虞喜は幼少より素行が良く、古代史に博学だった。
会稽太守・諸葛恢によって功曹に任命され、さらに孝廉、秀才に相次いで推挙されたが、いずれも受けなかった。
懐帝(司馬熾)・明帝(司馬紹)・成帝(司馬衍)・康帝(司馬岳)の招聘を受けたが、いずれも辞退した。
345年10月、朝廷で殷祭の執行について議論がまとまらなかったので、虞喜に使者を派遣して意見を求めた。
このように、虞喜は知識人として重んじられていた。76歳で死去した。

著書に天文書『安天論』、歴史書『志林』など。虞喜は、「天の高さは無窮であり、地の深さは底知れず、いずれも測定できない」
と主張し、宣夜説と呼ばれた。また、太陽の冬至点が年々西にズレて行くことを発見し、50年で1度ズレ、18000年で360度1回転すると計算した。
この現象を虞喜は「每歲漸差(毎年少しずつ違いがある)」(『宋史』律暦志)と表現し、略して「歳差」と呼ばれるようになった。

親愛武将:孫晷

※生没年は281-356説もある。
歳差の発見は古代ギリシャのヒッパルコスだが、虞喜はこれとは別に独自に発見した。現在の天文学では、約25772年で1回転とされている。

孫晷(文度)

生年登場没年死因
307?344?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1928665074慎重寡欲

【ソンキ(ブンド)】
東晋の士大夫。呉国富春県の人。孫秀?の曾孫。
幼い頃から人に怒られることがなく、顧栄に評価された。
裕福な家にもかかわらず、孫晷は自ら木綿の服を着て粗食に甘んじ、荘園を自ら耕作し、詩歌を口ずさむ日々を送っていた。
両親は心配して、もっと楽をした方がいいと勧めたが、孫晷が生活を変えることは無かった。
孫晷は虞喜を尊敬し、その姪(虞喜の弟・虞預の娘)を娶った。
何充が揚州刺史となると(343年頃)、孫晷を主簿に招聘し、司徒の蔡謨もまた掾属に招聘したが、孫晷はいずれも応じなかった。
さらに、尚書・張国明の推薦で公車(朝廷の公用車)を差し向けられて招聘されたが、ちょうどその頃38歳で死去した。

親愛武将:虞喜

※312年死去の顧栄に評価されたことから、その数年前の生まれか。