みんなの新武将/西晋・東晋/西晋中期

Last-modified: 2024-03-15 (金) 19:31:36

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります

西晋(265~316)

魏の内部で勢力を培った河内(豫北)の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って265年に簒奪したもの。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南風の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。



一般臣下

郭奕(泰業)

生年登場没年死因
287自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5046637666名声眼力軽率歳出改善王道

【カクエキ(タイギョウ)】
太原郡の人。字は大業とも。郭鎮の子で郭淮の甥。郭嘉の子とは別人。
若くして名声があり、山濤に評価された。魏の野王県令であった時、知り合った羊祜を気にいり、見送りに県外までついて行き免職された。
郭奕は羊祜を「現代の顔遠」と絶賛した。のち司馬昭に相国主簿に取り立てられた。
西晋の275年頃、雍州刺史・鷹揚將軍となり、家柄の悪さから不遇を託っていた李含を取り立てた。
太康年間(280-289)の中頃、中央に戻り尚書となった。郭奕は司馬炎に、寵臣の楊駿は器が小さいので
重用しないように進言したが、司馬炎は聞き入れなかった。

親愛武将:羊祜

楊駿(文長)

生年登場没年死因
291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2823453421教唆小心高慢悪名政令徹底覇道

【ヨウシュン(ブンチョウ)】
西晋の外戚。
弘農郡華陰県の出身で、楊脩の同族。祖父の楊眾(楊衆)は後漢末、献帝に仕えた。
姪が司馬炎の皇后であった事で外戚として地位を得る様になり、
姪の死後は自分の娘を司馬炎の新たな皇后として更に権力を得た。

司馬炎の晩年には司馬亮と共に後事を託されたが、司馬亮や衛瓘を失脚・左遷に追い込んで
恵帝即位後の朝廷にて権勢を恣にし、弟の楊珧・楊済と共に天下三楊と呼ばれるようになった。

しかし、恵帝の皇后である賈南風に唆された皇族の司馬瑋によって殺害され、三族皆殺しとなり、連座して処刑された者は数千人に及んだ。
永寧年間の始め(301年頃)、恵帝は詔して一族の楊超を奉朝請・騎都尉に任命し、弘農楊氏の後継者とした。

※北魏から唐代に栄えた弘農楊氏は、楊超の子孫が主流。楊超は楊珧の子か孫とされるが、楊珧も誅殺されていることから、
楊炳(楊駿の兄で晋成立前に死去)の子孫で連座を免れた生き残りであろうと見られている。

嫌悪武将:司馬亮 衛瓘

楊珧(文琚)

生年登場没年死因
291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4938707073言毒慎重縦横術王道

【ヨウヨウ(ブンキョ)】
西晋の外戚。楊駿の中の弟。
司馬炎の目に止まり、名声は楊駿に勝った。尚書令・衛将軍を歴任した。
兄の破滅を予感し、自らは官職を退くことを願ったが、許されなかった。
さらに「二人の皇后が出た一族が、滅亡しなかった試しがありません。どうかこの上表を宗廟に納め、
臣のいう通りの事態になったら災いを免れるようにして下さい」と願い出て、許された。
一方で、皇族の近親者を在京させず、要所に出鎮させるよう主張した。その上で、洛陽に留まる司馬攸の帰藩を推進し、
羊琇が楊珧襲撃を企てていることを知ると、担当官に羊琇の悪口を吹き込み、左遷させた。
楊駿が実権を握ると、弟・楊済と共にしばしば楊駿の暴走を諫めたが、聞き入れられなかった。
楊駿が殺されると、「どうか石函(宗廟)を開けて張華に確認させて下さい」と願い出た。
しかし賈南風・司馬繇らは構わず楊珧を斬り殺した。世論はこの処刑を嘆いたという。

王佑

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2518724018智嚢縦横術覇道
4433734018智嚢縦横術覇道

【オウユウ】
西晋の政治家。太原郡晋陽県の人。王默の子で王渾と同族。
賈充裴秀に匹敵する名望があった。しかし、3人とも羊祜には避けられていた。
才智があり、楊駿の腹心となった。
司馬炎が秦王・司馬柬に関中を統轄させ、楚王・司馬瑋と淮南王・司馬允を要害の地に派遣したのは、王佑の策であるという。
北軍中候となり、宮殿の親衛隊を指揮した。『晋書』武帝紀によると、外戚の楊駿を牽制するための起用だったが、
王佑はかえって楊駿の腹心となった。楊駿が政敵である司馬亮・衛瓘を排除したのは、みな王佑の策謀によるものだった。
だが、楊駿が実権を握ると、楊済の差し金で河東太守として体よく外地に出された。
しかし、そのおかげで楊駿一党が滅ぼされた時に死刑を免れた。三男の王嶠は東晋に仕えた。

親愛武将:崔洪
嫌悪武将:司馬亮、衛瓘、王済

王済(武子)

生年登場没年死因
246?291?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3677755638浪費罵声挑発斉射太学覇道

【オウサイ(ブシ)】
晋の政治家。太原郡晋陽県の人。王渾の子。
容姿に秀でて弓馬を好み、その勇力は誰も敵わなかったといわれ、
文才にも精通して「易経」や「老子」をよく読んだ。
司馬炎に愛されてその公主を娶り侍中となるが、一方で性格は悪く豪奢な生活を
好んだ人物で父と共に王濬を批判し、盲目となった妻の公主を丁重に扱わなかった事や
人乳で煮た豚肉を司馬炎に振舞ったことで知られる。
父よりも早く四十六歳で死去した。

親愛武将:孫楚、王湛、司馬攸
嫌悪武将:王濬、王佑

※司馬熾(懐帝)が豫章王となった290年までは存命しているので、孫楚より早く死去したことから、290-292年が没年と推定できる。

王湛(処仲)

生年登場没年死因
249295自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1969765065明鏡斉射太学王道

【オウタン(ショチュウ)】
晋の政治家。王昶の子で王渾の弟。
龍のような高い額と、大きな鼻の持ち主だった。口数が少なく、功績をひけらかさないので、
一族は王湛を馬鹿者と思っていた。ただ、父だけは只者では無いと思った。
父の死後、墓守をしていた。甥の王済もまた、王湛を軽んじていたが、ある時『周易』の話をしたところ、
思いもよらぬ玄妙な理論を披露され、何日も話し込んだ。さらに、王済は気性の荒い馬を飼っていたので、
王湛を乗せてみたところ、見事に乗りこなした。こうした事があって、王済は父に
「済は初めて叔父を得ました。すなわち、済以上の人です」と報告した。
司馬炎は常々、王済に「君の家のバカな叔父はまだ死なないのかね」とからかっていた。
しかし、王済は認識を改めてからいった、「叔父はバカではありません」。
司馬炎「どの程度だ?」、王済「山濤以下、魏舒以上です」。こうして28歳で出仕した。
天下統一後、王渾の武功により関内侯の爵位を得た。太子中庶子に昇進後、外地に出て汝南内史となり、現職のまま死去した。

武茂(季夏)

生年登場没年死因
291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2523705567礼教

【ブモ(キカ)】
西晋の政治家。沛国竹邑県の人。武周の三男。
徳と素行を讃えられ、名声は長兄の武陔に次いだ。上洛太守・散騎常侍・侍中・尚書を歴任した。
荀愷は武茂より年少だったが、司馬炎の従弟であり、外戚としての自負があった。荀愷は武茂と親交を結ぼうとしたが、
黙って拒否されたので荀愷は恨んだ。
楚王・司馬瑋や東安公・司馬繇が反楊駿の兵を挙げた時、武茂は楊駿と共に曹爽の元の大将軍府に詰めていた。
楊駿は何も手を打てないまま夜になった。侍中の傅祗は楊駿に提言し、武茂とともに雲龍門に入って事勢を観察してきますといい、
二人はそのまま楊駿の元を抜け出した。
楊駿が誅殺されると、荀愷は武茂が楊駿の母方の叔母の子であったことを咎め、楊駿の一味であると弾劾した。その結果、武茂は三族皆殺しにされた。
人びとは冤罪であると悼んだ。後に傅祗の上奏で赦免され、光禄勲を追贈された。

親愛武将:傅祗
嫌悪武将:荀愷

孫楚(子荊)

生年登場没年死因
293自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3638766540高慢縦横術覇道

【ソンソ(シケイ)】
魏・西晋の政治家。魏の重臣である孫資の孫。
魏の時代には鎮東将軍・石苞の配下として対呉の最前線に赴いて呉への降伏を
促した書状を作成した。
若くして優れた才能を持っていたが、一方で傲慢な性格で石苞に対してしばしば
見下した態度をとった為に深刻な対立状態となり中央に召喚された。
その後は扶風王司馬駿の配下となり、最後は馮翊太守として生涯を終えた。
小説家・夏目漱石の漱石という号は友人の王済と語り合った際に枕石漱流
という言葉を漱石枕流と言い間違えた故事から来ている。

親愛武将:王済、司馬駿
嫌悪武将:石苞

蒯欽

生年登場没年死因
自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1917676061沈着看破方円強化覇道

【カイキン】
西晋の政治家。弘訓少府。恐らくは蒯越の同族。一説には蒯良の子。従祖父に蒯祺。母は楊氏で楊駿のおば。
親戚の楊駿と、若い頃から親しく付き合っていた。楊駿が実権を握ると、しばしば直言したので、楊珧・楊済は肝を冷やした。
蒯欽はいった、「楊文長は暗愚だが、無実の人を無闇に殺さぬ程度の分別はあるから、私は遠ざけられるだけだろう。
そうすれば、(楊駿が破滅しても)一緒に死なずに済む。さもなくば、一族は生き残れないだろう」。
また『襄陽耆旧記』によると、司馬衷が即位すると、子供達に「二つの火は地に落ちて、哀しきことかな秋の蘭、
形を戻すよ街郵に、しまいは人に嘆かれる」という童謡が流行った。蒯欽は涙を流し、「二つの火」は先帝の諱(炎)、「秋の蘭」は楊芷(字は季蘭)を指し、
楊皇太后が無惨な最期を遂げ、皇后としての埋葬も行われないという事だと述べた。果たして、蒯欽の述べた通りの結果になったという。

親愛武将:楊駿

崔洪(良伯)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2015657145規律能吏直情罵声太学2覇道

【サイコウ(リョウハク)】
西晋の政治家。博陵郡安平県の人。崔讃の子。
若い頃から、気骨があることで名声を立てた。人の誤りに気付くとその場で面罵し、後から蒸し返すことはしなかった。
また、財貨のことを口にせず、珠玉を手に取ろうとしなかった。
西晋が成立すると、治書侍御史となった。ある時、馮恢という者が父が弟の馮淑に爵位を継がせたいことを知り、
仮病を使って跡を継げないアピールをして弟に爵位を譲ったことがあった。のち馮恢は博士祭酒となった。
散騎常侍の翟嬰は、馮恢を品行ある烈士と推薦した。しかし崔洪は、馮恢に小さな善行はあったが、儒学の素養は足りず、
博士祭酒として不適格であり、翟嬰の目は節穴だと断罪した。翟嬰は罷免され、朝廷で崔洪は恐れられた。
のち吏部尚書に昇進し、私情を挟まない人事を行った。ある時、郤詵を尚書左丞に起用したが、郤詵は崔洪の犯罪を告発したので、
恩を仇で返されたと愚痴った。郤詵は「互いに職務を遂行しているだけなのに、何故私事を言い出すのか」と反論したので、崔洪は反省した。
楊駿が誅殺されると、崔宏は楊駿の謀臣だった王佑と親しかったため、連座して罷免された。後に大司農となり、在官のまま死去した。

親愛武将:王佑

秦秀(玄良)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2422725655学者直情罵声挑発太学覇道

【シンシュウ(ゲンリョウ)】
西晋の政治家。魏に仕えた秦朗の子。
学業に熱心で司馬炎の時代に博士となり、讒佞な人物を嫌う直情的な性格で他人と
よく衝突したといわれる。
重臣の何曾に対しては驕奢が度を過ぎていると批判して「繆醜公」という諡号を
送るべきだと意見し、さらに賈充も嫌っており呉征伐で賈充が大都督となった事に
失望して哭いて見送ろうとした。
賈充の死後には異性の外孫に跡を継がせようとした事を批判して「荒公」という諡号
を与えるべきであると意見したが、司馬炎に却下された。
後に司馬攸を斉国に帰藩させるべきではないと意見して失職したが、後に復帰して
博士を二十年務めて死去した。

嫌悪武将:何曾、賈充

李肇

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6054597352捕縛政令徹底覇道

【リチョウ】
西晋の武将。
殿中中郎であった時、孟観と共に楊駿に軽んじられていた。二人は賈南風と結託して楊駿・楊太后の排除を企て、
李肇が使者となって司馬亮・司馬瑋を説得した。司馬亮は、楊駿は自滅するとして断ったが、司馬瑋は応じた。
司馬瑋が来朝すると、孟観・李肇は恵帝に詔を用意させ、手はず通りクーデターを起こして成功に導いた。
また、賈南風の命令で、李肇は楊駿の私宅にあった文書を焼き、証拠湮滅を図った。
積弩将軍に昇進した。司馬亮・衛瓘が実権を握ると、司馬瑋は干されたので二人の排除を考えるようになった。
さらに、司馬瑋配下の岐盛は、李肇に「司馬亮・衛瓘が皇帝廃立を企てている」と主張した。李肇の密告を受けた
賈南風は、恵帝に司馬亮・衛瓘の罷免を命じる詔を出させた。李肇は、司馬瑋配下の公孫宏と共に司馬亮を襲撃し、司馬亮を捕らえた。
以降の消息は不明。

親愛武将:賈南風
嫌悪武将:楊駿

魏舒(陽元)

生年登場没年死因
209290自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1460738272智嚢仁政補佐酒乱斉射雁行強化王道

【ギジョ(ヨウゲン)】
魏・西晋の政治家。任城郡樊県の人。
両親を早くに亡くし、外祖母の寧氏に育てられた。
身長8尺2寸(約197㎝)と容姿が立派で、騎射を得意とした。大酒飲みで、素朴で鈍くさい性格だった。
しかし太原王氏の王乂は、魏舒が三公に出世できると見込んで、たびたび援助した。
40歳ころ、孝廉に推挙され、鍾毓の長吏となった。鍾毓は将兵と射撃の腕を競うことを好んだが、魏舒はもっぱら記録係をしていた。
ある時、人手が足りずに魏舒が射撃を披露したところ、百発百中だったので、鍾毓は人の見る目の無さを反省した。
さらに司馬昭の参軍となった。魏舒は機密に預かり、人事の賞罰などを事前に相談され、職務を滞りなくこなした。
司馬昭は「魏舒は堂々としていて、人の領袖になれる人材だ」と称賛した。
西晋では、宜陽・滎陽太守、散騎常侍、冀州刺史を歴任し、寛大な統治を評価された。
西晋が天下統一すると、魏舒は衛瓘・張華・山濤らと共に、司馬炎に封禅を勧めたが、司馬炎は辞退した。
283年、山濤の後任として司徒に昇進した。常に一族を援助していたため、私財はなかった。
病気を理由に退職を願い出たが許されず、逆に兗州中正の職を加えられた。
286年、日食を理由に強引に辞職し、司馬炎は儀同三司(三公待遇)とした。

親愛武将:司馬昭、劉毅、夏侯駿
嫌悪武将:傅咸

劉準

生年登場没年死因
291不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6439605653智嚢墨守研究王道

【リュウジュン】
西晋の政治家。汝南王・司馬亮の長吏。
公孫宏・李肇が司馬亮を襲撃すると、司馬亮は配下に防戦を許さなかった。
司馬亮は「私には二心がない、なぜこうなるのか。もし詔書があるなら、見せろ」といったが、
公孫宏は無視して兵士に攻撃させた。劉準は「どうやら姦謀のようです。府中には俊英が林のように多く、
力を尽くせば防ぎ切れます」と主張したが、司馬亮は許さず、とうとう捕らえられ、殺された。
劉準の消息は不明だが、同時に殺されたか。

公孫宏

生年登場没年死因
291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5148674928楽奏扇動功名短慮悪名政令徹底覇道

【コウソンコウ】
西晋の政治家。譙国の人。楚王・司馬瑋の側近。
若い時は貧しかった。河陽県に住み、鼓や琴の名手で、文学に優れていた。
潘岳が県令として赴任すると、文才を評価され厚遇された。
のち司馬瑋に仕えて長吏となった。司馬瑋らが楊駿を誅殺すると、楊駿に仕えていた潘岳も死刑になりかけたが、
公孫宏の命乞いで助命された。
司馬亮・衛瓘が実権を握ると、司馬瑋は外地に出されることになったので激怒した。
さらに衛瓘は、同じく司馬瑋側近の岐盛を捕らえようとしたので、岐盛と公孫宏は司馬瑋の意向を先回りして、李肇と共謀して
賈南風に司馬亮・衛瓘のことを讒言し、賈南風はよく確かめもせずに二人を罷免する手詔を用意させた。
また、公孫宏は司馬瑋に進言し、王渾を味方に引き入れようとしたが、これは病と称して断られた。
司馬瑋が挙兵すると、公孫宏・李肇は司馬亮を襲撃して殺した。しかし、手詔が後から偽物とされると、三族皆殺しとなった。

親愛武将:司馬瑋、潘岳、岐盛

岐盛

生年登場没年死因
291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3861704619言毒悪名錐行強化覇道

【ギセイ】
西晋の政治家。楚王・司馬瑋の舎人。
楊駿と親しかったが、主人の楊駿誅殺に加担して難を逃れたため、衛瓘は岐盛の人となりを憎み、捕らえようとした。
岐盛は公孫宏と相談して、李肇と共謀して賈南風に司馬亮・衛瓘のことを讒言した。
司馬亮・衛瓘が司馬瑋一党に殺されると、岐盛は「この兵の勢いに乗って賈模・郭彰を誅殺し、王室を匡正すれば天下を安定させられます」と主張した。
しかし司馬瑋は決断できなかった。手詔が後から偽物とされると、三族皆殺しとなった。

親愛武将:司馬瑋、公孫宏、楊駿

賈模(思範)

生年登場没年死因
299自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2614827929言毒癇癪上兵伐謀覇道

【カモ(シハン)】
賈充の甥。平陽郡襄陵県の人。
知謀に優れ、確たる決断力があった。賈充に可愛がられ、ことある毎に相談相手となった。
賈充は死に臨んで、諡と後世の伝記を気に掛け、賈模に「私の死後に是非を見極めてくれ、目を伏せてはいけない」と言った。
楊駿誅殺で功績があり、賈南風が実権を握ると侍中に昇進した。また、張華・裴頠を推薦し、共に実務を執り行った。
賈模は表だって動くことを好まず、賈南風に用件がある時は、しばしば仮病を使ったりした。
賈模は有能ではあったが、好き嫌いが激しく、嫌いな相手は酷く中傷したので恐れられた。
また、賈南風に対して直言したが、次第に賈南風に遠ざけられるようになり、裴頠らと賈南風の廃立も検討したが断念した。
張華の勧めで、賈南風に司馬遹と仲良くするよう説いたが、聞き入れられずに亡くなった。

親愛武将:張華、裴頠

※時系列的には、郭槐や賈模が亡くなってから破局したので、賈南風は、ある程度は二人の言うことを聞いていたといえる。

韓寿(徳真)

生年登場没年死因
291?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1032545270果敢縦横術王道

【カンジュ(トクシン)】
西晋の政治家。南陽郡堵陽県の人。韓洪の子で韓曁の曾孫。妻は賈午。
美形で立ち居振る舞いが優れていたので、賈充に司空掾に取り立てられた。
賈充の末娘の賈午は、宴席で韓寿に一目惚れして、召使いの仲介で密通するようになった。
韓寿は垣を乗り越え、密かに賈午の元に通っていた。交際が発覚すると、賈充は追認して二人を結婚させてやった。
韓寿は西晋で清官(名門が就任するとされた官職)を歴任し、散騎常侍・河南尹にまでなった。
元康年間(291-299)のはじめ、死去した。
※字は「徳貞」とも。

親愛武将:賈午

賈謐(長深)

生年登場没年死因
300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3922635336人脈文化高慢太学我道

【カヒツ(チョウシン)】
西晋の外戚・政治家。字は「長淵(チョウエン)」が正しいとも(『晋書』は唐の李淵の「淵」が忌み字になっている)。
賈充の娘・賈午と韓寿との子で、当初は韓姓であったが賈充の跡を継がせる為に
祖母の郭槐の意向で賈姓を名乗った。
楊駿の誅殺後は伯母の賈皇后と共に朝廷の実権を握り、「賈謐二十四友」と呼ばれる
文学集団を形成した。
二十四友に入る潘岳や石崇はこぞって賈謐に追従し、乗車する馬車の塵まで拝んだ
事から「後塵を拝す」の故事が生まれた。
皇太子の司馬遹と対立し、賈皇后と共に司馬遹を廃嫡した末に殺害したが、司馬倫
の反乱によって殺害された。

親愛武将:賈南風
嫌悪武将:司馬遹、司馬穎

郭彰(叔武)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3521627354文化消沈浪費強欲歳出改善我道

【カクショウ(シュクブ)】
西晋の将軍・政治家。太原郡晋陽県の人。賈南風の従舅(母である郭槐の従弟)。郭淮の甥。
郭槐はわが子のように可愛がり、その夫・賈充とも親しく付き合った。
散騎常侍・尚書・衛将軍を歴任し、冠軍県侯に封建された。
賈南風が実権を握ると、郭彰もまた権勢にあずかり、自宅には賓客が列をなした。
賈謐とともに権勢を振るったために「賈郭」と称された。また、自身も「賈謐二十四友」に数えられた。
ある時武庫で失火があり、郭彰は100人を従えていたが、消火を手伝わず自分の財産の心配ばかりをした。
侍御史の劉暾が郭彰を非難すると、郭彰は「我がその気になれば、君の角など容易く折れるぞ」と脅したが、
劉暾は屈しなかった。このことがあってから、郭彰は贅沢を控え、簡素な身なりに改めたという。
その後亡くなり、烈と諡された。

親愛武将:賈充、郭槐
嫌悪武将:郭琦

※郭槐の父・郭配は郭淮の弟。
自然死である事から、賈南風が処刑される以前の死去と思われる。

王愷(君夫)

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3634594034富豪浪費癇癪軽率運搬開発我道

【オウガイ(クンフ)】
西晋の政治家。王粛の三男。
不品行だが才能はあり、外戚でもあったので高位を歴任した。細かな仕事はしなかったが、朝廷での評判はよかった。
楊駿討伐の功績で山都県公となり、龍驤将軍・驍騎将軍・散騎常侍となるが、連座して免官された。のちに後将軍に転じた。
外戚で財力もあったことから、王済・石崇と贅沢を競った。たとえば石崇が壁に胡椒を練り込むと、
王愷は壁に赤石脂(五石散の材料の一つ。含鉄アルカリ性粘土)を惜しげも無く用いた。
司馬炎は王愷を贔屓していて、立派な珊瑚礁を下賜したことがあった。王愷が石崇に見せびらかすと、
石崇は鉄棒で打ち壊し、弁償として下賜品よりさらに立派な珊瑚礁を6、7株渡したので、王愷は唖然とした。
癇癪持ちで、妓女が踊りをミスしたり、侍女のついだ酒を客が飲めないと、ただちに手討ちにした。
石崇が鴆鳥(羽根に毒を持つ鳥)の雛を入手し、王愷にプレゼントしたことがあった。鴆鳥の長江以北への持ち込みは禁じられており、
司隸校尉の傅祗は二人を糾弾したが、司馬衷(恵帝)は詔で二人を許し、雛を焼却処分にするだけで済ました。
王愷は反省することなく、死ぬまで好き勝手に振る舞った。死後、醜公と諡された。

※殺害された記述が無いことから、299年前後の自然死か。劉輿・劉琨兄弟は若い頃、王愷に殺されかけたことがあった。

親愛武将:司馬炎
嫌悪武将:劉輿、劉琨

石崇(季倫)

生年登場没年死因
249264300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5168586914徴税富豪浪費短慮癇癪運搬開発我道

【セキスウ(キリン)】
晋の政治家。石苞の末子。
幼い時から明敏かつ勇敢で知られ、
石苞は臨終の際に自分で財産を得る能力があるとして財産を分け与えなかった。
武帝司馬炎に重用され呉侵攻で功績を上げ、安陽郷侯に封じられる。
一時学問を好み官を辞するも、間も無く復職し要職を歴任したが、品行は悪く度々弾劾されている。
潘岳と共に外戚の賈謐に媚び諂って権勢を誇ったが、賈氏の失脚後に孫秀に愛妾を差し出す事を拒否し処刑された。
商人から富を巻き上げて巨大な財を得ており、
豪奢な生活を送って王愷と贅沢ぶりを競っていた程だった。

補足:石崇を処刑した孫秀は、呉から晋に亡命した孫秀とは別人。

親愛武将:司馬炎

曹嘉

生年登場没年死因
自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1733566781史官太学王道

【ソウカ】
魏の皇族、西晋の政治家。曹彪の子。
父がクーデターを企てて自害に追い込まれると、連座して庶人に落とされ、平原に流された。
254年に赦免され、常山真定王に封じられた。
西晋が成立すると、高邑公に降封された。
李重は司馬炎に上奏していった、「才能・学識は曹志・曹翕に及びませんが、純粋で清潔な心ばえは二人に勝ります。
先代の皇族を優遇する為にも、員外散騎侍郎に任命すべきと存じます」。
元康年間(291-299)、石崇と共に国子博士となった。296年、東莞太守になった。同時に、
石崇は征虜将軍となったが、二人が任地への赴任に当たって、互いに詩を交換した作品が現存している。
また、編年体の歴史書『晋紀』を編纂した。

親愛武将:曹志、石崇

夏侯駿(長容)

生年登場没年死因
223?299不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4753676543言毒功名悪名兵站改革覇道

【カコウシュン(チョウヨウ)】
魏・西晋の武将・政治家。夏侯威の長男。妻は司馬亮の娘。
魏の末期に并州刺史となった。西晋では舅に当たる汝南王・司馬亮のコネで出世し、傅咸に糾弾された。
司馬攸帰藩事件では、帰藩に反対した曹志らを、廷尉の劉頌は大不敬の罪状で公開処刑するよう主張した。
夏侯駿は「国家は諫言の臣を誅殺しようとしている」と反対し、曹志らは免職にすることで決着した。
恵帝の時代、司馬亮と衛瓘が実権を握ると、夏侯駿は少府に取り立てられた。
氐の斉万年が反乱を起こすと、梁王・司馬肜の副官として出陣し、共に周処を死に追いやった。
のちに夏侯駿は、斉万年を斬ったと朝廷に報告した。しかし、孟観が斉万年を生け捕りにしたことが明らかになると、
夏侯駿は戦功を偽った罪で誅殺された。

※弟の息子である夏侯湛の生年が243年と確定している上、父親の夏侯威の生年設定がやや遅いことから(中国語版Wikipediaによれば中国で夏侯威を201年生まれとする論文が出されたが本作ではそれより3年遅い)、夏侯駿・夏侯荘の兄弟は220年代前半の生まれということになる。なお、夏侯駿の義父で晋の八王の1人でもある司馬亮は生年は不詳だが、司馬昭(211年生まれ)のすぐ下の異母弟にあたるため、司馬亮と夏侯駿の年齢差をどれくらいつけるのか?という別の問題も浮上する。

親愛武将:司馬攸、司馬亮、魏舒
嫌悪武将:周処

夏侯荘(仲容)

生年登場没年死因
225?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4849616371政令徹底礼教

【カコウソウ(チュウヨウ)】
魏・西晋の政治家。夏侯威の次男。正妻の羊氏は羊祜?の従姉。子に夏侯湛・夏侯光姫。
淮南太守・清明亭侯となった。夏侯湛の「昆弟誥」によると、実母の薛妃に孝養を尽くし、
薛妃の死後、継母の蔡姫にもまた忠実に仕えた。さらに、蔡姫の死後、病を称して辞職して
三年の服喪をやり遂げたことを、孝心の現れとして讃えている。
※息子の夏侯湛の生年が243年と確定している上、父親の夏侯威の生年設定がやや遅く(中国語版Wikipediaによれば中国で201年生まれとする論文が出されたが本作ではそれより3年遅い)、しかも夏侯駿という兄がいるため、夏侯駿・夏侯荘の兄弟は220年代前半の生まれということになる。

夏侯湛(孝若)

生年登場没年死因
243291自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3018787382学者文化詩想名声史官太学王道

【カコウタン(コウジャク)】
晋の政治家、文学者。夏侯荘の子。曽祖父は魏の夏侯淵?
また司馬師の義理の甥で、夏侯湛の姉妹の夏侯光姫は司馬伷?の息子・司馬覲に嫁ぎ、東晋の元帝(司馬睿)を生んでいる。
晋皇族と深く関わりがあるため、晋代も権勢を誇り、晋の要職を歴任した。
文学者としては若い頃より頭角を現し、数々の詩や論文の著作がある。
後に「魏書」を著すが、陳寿の「三国志」を見て自身の「魏書」を破り捨てている。
容姿に優れ大変な美男子でもあったため潘岳と親しく、2人並ぶ姿は「連璧」と称された。

潘岳(安仁)

生年登場没年死因
247300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2114817480詩想潜在名声富豪功名縦横術覇道

【ハンガク(アンジン)】
西晋の文学者。楊肇の娘婿。彼が馬車で街を行くと、女性が競って果物を投げ入れたと言われるほどの美男子であった。
才気を好み、強烈な上昇志向の持ち主で、外戚である賈氏に取り入り重用されたが、
あまりの阿りから人々から眉を潜まれ、「後塵を拝す」の故事の生みの親にもなった。
後の八王の乱によって後ろ盾の賈氏を誅滅され、その後自身もその性格が災いして一族もろとも処刑される。
作品は『悼亡詩』を始めとする繊細かつ美しい文体が特徴で、同じ時期に活躍した詩人である
陸機と並称比較して論じられることが多い。
※個性「富豪」は果物を投げ入れた故事より(「米道」だと違う意味あいになってしまうそうなので)。

鷗陽建(堅石)

生年登場没年死因
270?300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1613705558詩想

【オウヨウケン(ケンセキ)】
西晋の文学者・思想家、政治家。石崇の甥。
代々冀州の名門だった。本質を捉えた発想の持ち主で、文才で名高く、北方の州で「渤海の赤い輝き、鷗陽堅石」と謳われた。
西晋に仕え、山陽令・尚書郎・馮翊太守を歴任する一方、賈謐二十四友の一人として多くの作品を残した。
また、王弼・荀粲らの主張に反論し、『言尽意論』(言葉で意を尽くすことが出来る論)を著した。
鷗陽建は趙王・司馬倫と不仲だった。司馬倫が実権を握ると、孫秀は石崇・鷗陽建の処刑を主張した。
これを聞いた二人は、潘岳と共に淮南王・司馬允、斉王・司馬冏と連絡を取って司馬倫・孫秀を失脚させようと試みた。
孫秀は先手を打って、詔を偽って鷗陽建らを処刑した。死に臨んで遺した『臨終詩』は、『文選』に収録されている。

親愛武将:石崇
嫌悪武将:司馬倫

解系(少連)

生年登場没年死因
300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7058676883寡欲規律鶴翼強化王道

【カイケイ(ショウレン)】
晋の軍人・政治家。
済南郡著県の出身で、清廉潔白な人物として大きな名声を博していた。
中央で散騎常侍や尚書を歴任した後に、雍州刺史・揚烈将軍・西戎校尉・仮節となる。
羌族の反乱の際に趙王司馬倫と共に討伐に従事したが、司馬倫及びその側近である
孫秀と作戦を巡って対立し、朝廷に奏上して司馬倫を召還させて孫秀の処刑を
求めたが、後に司馬倫が朝廷の実権を握った事により処刑された。

嫌悪:司馬倫、孫秀(俊忠)

解結(叔連)

生年登場没年死因
300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3632636971法律政令徹底王道

【カイケツ(シュクレン)】
晋の軍人・政治家。解系の弟。
若くして解系と名声を等しくし、黄門侍郎を始め散騎常侍、予州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。
兄と司馬倫・孫秀が対立した際、閣僚会議にて孫秀を処刑すべしと述べた事で孫秀の恨みを買い、
後に朝廷の実権を握った司馬倫・孫秀により兄と共に処刑された。

解結の娘は今まさに裴氏に嫁ぐという時で、裴氏は婚姻を認めて救おうとしたが、娘はそれを
拒否して共に連座して処刑された。これにより娘は一族の罪に連座しないという法改定がなされた。

嫌悪:司馬倫、孫秀(俊忠)

左思(泰沖)

生年登場没年死因
252?307自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1512675543詩想占術文化太学3割拠

【サシ(タイチュウ)】
西晋の詩人。
斉国臨淄の出身で、妹の左芬が入内した事により洛陽に移住した。
詩文・暦算占星に通じて三国の首都を題材にした「三都賦」を十年の歳月を
かけて完成させ、張華に激賞され皇甫謐が序文を書いた事によって評判は
都中に広まる事になり、こぞって三都賦を書写する人が続出した事から
洛陽の紙価が高まって「洛陽の紙価を高からしむ」の故事が生まれた。
朝廷では秘書郎を務めて賈謐二四友にも数えられたが、容貌に優れず吃音
であった為に交際を好まず、賈謐の死後は隠棲し、八王の乱の混乱で冀州に
移住してそこで死去した。

※字は妹の左棻墓誌より。『晋書』では「太沖」。左思は不細工だが結婚していて、子供が男子2人、女子2人いたことも墓誌で明らかになった。
娘の左芳・左媛姉妹を詠んだ「嬌女詩」が現存している。

傅咸(長虞)

生年登場没年死因
239294自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1810735847詩想諫止短慮直情

【フカン(チョウグ)】
西晋の政治家。涼州北地郡霊州県の人。傅玄の子。
父譲りの剛直な性格で、直言の士だった。西晋で太子洗馬となり、285年、冀州刺史となるが、継母の杜氏が外地に出ることを拒んだために赴任せず辞職した。
翌月、司徒左長史に任命された。豫州大中正の夏侯駿は、小中正の任免を自分で行ったので、傅咸は越権行為と主張した。
司徒の魏舒は夏侯駿の縁戚だったので、傅咸の進言を最後まで聞かなかった。傅咸は独断で司馬炎に上奏したが、
却って魏舒に越権行為として訴えられ、車騎司馬に左遷された。
恵帝が即位すると、実権を握る楊駿を厳しく批判し、恵帝に親政させるよう主張した。楊駿が誅殺されると、司馬亮が夏侯駿ら側近を
高官に取り立てたことをまた批判した。さらに司隷校尉代行となり、高光・何攀・王戎?の人事不行き届きを糾弾し、罷免を主張した。在職のまま死去した。
傅咸は詩人としても知られた。この時代は五言詩が流行だったが、傅咸は伝統ある形式の四言詩を多く残した。
代表作『黏蟬賦』『青蠅賦』『螢火賦』など。

親愛武将:楊済?
嫌悪武将:夏侯駿、司馬亮

※楊駿を厳しく批判したが、個人的に嫌ってはいない様なので嫌悪は付けず。

衛恒(巨山)

生年登場没年死因
252?291不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
125723173文化学者

【エイコウ(キョザン)】
西晋の政治家・書家。衛瓘?の子。
後漢の張芝の理論を学び、特に草書・隷書に優れた。書道の理論書『四体書勢』を著した。
斉王・司馬攸に招聘され、太子舎人、尚書郎、秘書丞、太子庶子、黄門郎を歴任した。
また、戦国時代の魏の襄王墓から発掘した竹簡『汲冢書』の解読にも加わっている。
楚王・司馬瑋が衛瓘と司馬亮の粛清を企てた際、衛瓘の元配下の栄晦が、私怨から衛瓘父子を独断で殺し、
衛恒もまた落命した。

親愛武将:束晳

束晳(広微)

生年登場没年死因
261276300自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
79814258詩想史官学者

【ソクセキ(コウビ)】
西晋の政治家・儒学者。陽平郡元城県の人。束龕の子。
若くして学問に励んだ。ある人が、曹志に「今、好学の者は誰がいるか」と尋ねたところ、曹志は「束広微は好学で飽きることなく、人の及ぶところでは無い」と評価した。
兄の束璆は石鑒?の従女(めい)を娶っていたが、離縁した。このため石鑒に恨まれ、報復に束兄弟の仕官を妨害された。
太康の始め(280年頃)、荀勗?のもとで著作郎に任官した(束璆が仕官できたのは石鑒の死後)。
同じ頃、不準が戦国時代の魏の襄王の墓を盗掘し、竹簡75篇を発掘した(汲冢書)。竹簡は既に失われた文献も含まれており、
国庫に収納され、司馬炎?の命令で、束晳・荀勗・和嶠・衛恒・傅瓚らが整理研究に当たった。竹簡は蝌蚪文字という独特の書体で、
解読は困難を極めたが、束晳が解読の中心人物となった。また、ある人が竹簡を手に入れたが、誰も読めなかったことがあった。張華?が束晳に尋ねたところ、
「これは後漢の明帝、顯節陵で発掘された策文です」と答え、果たしてその通りだったので、人々は博識に感嘆した。
のち尚書郎に昇進した。賈南風が実権を握った時代、首都近辺の農業・畜産は土地が不足しているので、辺境に移住させて開発させ、10年後に帰郷させれば一挙両得になると献策した。
司馬倫が実権を握ると、病と称して辞職した。束晳の家には、教えを請う者が後を絶たなかったが、まもなく死去した。
詩作に『補亡詩』『勧農賦』などがある。

親愛武将:衛恒

※束晳から石鑒への嫌悪無し。石鑒からの被嫌悪が適当。

華廙(長駿)

生年登場没年死因
221?295?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5154477166

【カヨク(チョウシュン)】
魏・西晋の政治家。平原郡高唐県の人。華表の長男で華歆?の孫。妻は盧氏。
舅の盧毓?は典籍に従って華廙を優遇しなかったので、任官は35歳まで遅れた。
魏では中書通事郎となった。西晋では司馬炎?に礼遇され、黄門侍郎、散騎常侍、前軍将軍、侍中、南中郎将を歴任して、都督河北諸軍事となった。
華家では食客を養っていたが、奴僕で紛れ込んだ者がいたため盧氏の婿である袁毅に調査させた。
まもなく袁毅は、高官に賄賂を贈っていた事が発覚して有罪になった。
かつて荀勗?は、自分の真ん中の子に華廙の娘を嫁がせようとしたが、華廙は断った。
荀勗は報復に、華廙も袁毅に連座させるよう主張し、父の喪中に免官・廃嫡になってしまった。
華廙は私宅で、子孫に経典を教える生活をしていた。ある時、自分で豚の防護柵を作ったが、司馬炎は理由を聞いて憐れんだという。
280年、天下統一による大赦で復権し、恵帝の代に侍中となった。しかし、実権を握る楊駿の御召に当初は応じたが、ある時勝手に帰ってしまった。
晩年は太子少傅となり、皇太子・司馬遹のよい教育係となった。しかし、韓寿が娘を華陶(華廙の孫)を嫁がせるのを
断ったために職務を妨害され、出仕しなくなった。その後まもなく病死した。享年75。
正史『三国志』管輅伝注によると、陳寿?は華廙に、管輅伝の取材をしたという。

※盧毓の晩年に任官したことから、220年過ぎの生まれか。名前は「華暠」とも。

嫌悪武将:荀勗、楊駿

華嶠(叔駿)

生年登場没年死因
293自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2618746165史官酒乱

【カキョウ(シュクシュン)】
魏・西晋の政治家、歴史家。華表の三男。
司馬昭が大将軍となると招聘され掾属とし、尚書郎に任じた。
華嶠は歴史家としての才能があったので、秘書監に転じて、散騎常侍を加えられ、中書に班同した。
後漢朝廷で編纂された『漢紀(東観漢記)』は煩雑で文体が穢れていると思い、憤って書き直したいと考えた。
また、皇后は天が皇帝に配した存在であるから、皇后の伝記は従来の外戚伝に付けるのでは無く、
皇帝の本紀に付けるべきと考え、実行に移した。
こうして『漢後書』(裴松之注では『漢書』)全97巻を編纂し、荀勗、和嶠、張華、王済はみな、
事実をありのままに記録した内容だと称賛した。『漢後書』は秘府に収納され、司馬衷の歴史教育の教材にも使われたという。
また、『漢後書』の一部として『十典』も編纂したが、未完のまま死去した。次男の華徹、三男の華暢が編纂を引き継ぎ、
著作郎の張載らの協力で、魏晋の歴史も付け加え完成させた。しかし、永嘉の乱で内容の大部分は失われた。
華嶠はまた酒好きでもあった。泥酔するまで呑むのが常だったという。

和嶠(長輿)

生年登場没年死因
292自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1932677057名声振興富豪強欲

【ワキョウ(チョウヨ)】
魏・西晋の政治家。汝南郡西平県の人。和洽の孫で和逌の子。先妻は夏侯玄?の娘、後妻は王渾?の娘。
若くして名声があり、舅の夏侯玄を尊敬していた。潁川太守として治績を挙げ、
庾顗、賈充?に評価され、司馬炎?にも重用された。中書令になると、上司(中書監)の荀勗?を嫌い、
それまで上司と馬車に同乗して出勤する習慣だったのが、別々に出勤するように変えさせた。
歯に衣着せない性格で、ある時、皇太子・司馬衷について聞かれ、荀勗が進歩を褒め称えたのに対し、
和嶠は「性質は元のままです」と答えたので、司馬炎の不興を買った。
恵帝(司馬衷)が即位すると、太子少傅・散騎常侍・光禄大夫にまでなった。また、恵帝に以前の発言を問い詰められ、
「臣は先帝にそのように申しました。その言葉が実現しなかったのは、国家にとって幸いです。臣は自分の罪から逃れる勇気はありません」と弁明した。
一方で蓄財家としても知られ、王者に擬せられるほどの莫大な財産があった。加えてドケチでもあり、杜預?は「銭癖」と評した。

親愛武将:夏侯玄、張華、任愷
嫌悪武将:荀勗

陳準(道基)

生年登場没年死因
301?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2813767648

【チンジュン(ドウキ)】
西晋の政治家。陳佐の子とも、陳泰?の子ともいう。いずれにしても陳寔の玄孫。また名は陳准とも、陳准は兄・陳訴の別名ともいわれ、ややこしい。
295年、中書令となった。『晋諸公賛』によると、国家機密に預かり、上司(中書監)の張華?に忠実に仕えた。
斉万年が反乱を起こすと、朝廷では元呉将の周処を梁王・司馬肜の援軍に向かわせることにした。陳準は反対し、次のように述べた。
「(副官の)夏侯駿も梁王も貴戚で、(既に貴族なので)手柄を立てる必要も無く、処罰の心配もしていません。
周処は呉人で(梁王に)恨まれているので、一人で行かせたら死なせることになります。孟観を起用して精兵1万で先鋒にするのが上策です。
さもなくば、梁王は周処を先鋒にしますから必ず負けます」。陳準の献策は採用されなかった。
果たして司馬肜は、周処を単身突撃させて敵に殺させたが、何の処罰も受けず、戦後更迭されたに留まった。
300年、司馬倫が実権を握った。司馬允が反司馬倫の兵を挙げると、恵帝に騶虞幡(戦闘停止の旗)を出させて、ひそかに司馬允を援護しようとしたが失敗した。
太尉に昇進したが、実権はなかった。この頃、傅祗が中書監に任命され、陳準は「傅公がいれば、何の心配も要らない」と傅祗の仕事ぶりを称賛した。
司馬倫が皇帝を簒奪すると、病と称して辞職し、まもなく死去した。南朝・陳の初代皇帝・陳霸先は、陳準の子孫であるという。

親愛武将:張華、傅祗

裴楷(叔則)

生年登場没年死因
237252291自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2013727077

【ハイカイ(シュクソク)】
魏・西晋の政治家。河東郡聞喜県の人。裴徽の子で裴秀?の従弟。妻は王渾?の娘。
清談に巧みで『老子』『易経』に通じていた。容姿が美しく、気品に溢れていたので「玉人」とあだ名された。
司馬昭?が実権を握ると、鍾会?は「裴楷は清通(筋が通って分かりやすい)、王戎?は簡要です」
と二人を推薦した。そこで二人とも(『世説新語』では裴楷だけ)司馬昭に取り立てられた。
西晋の成立時、司馬炎?が余興で晋の代数を占った結果、「一」と出たので司馬炎は不機嫌になった。
裴楷は王弼の著書から、「私はこう聞いております。天は一を得て清く、地は一を得てやすく、王侯は一を得て天下の正義であると」
と述べ、司馬炎は機嫌を直した。
次男の裴瓚は楊駿の娘を娶ったが、裴楷は楊駿を軽んじていた。楊駿が誅殺されると、裴楷も連座して捕らえられたが平然としていた。
傅祗の進言で助命されたが、免官となった。のち楚王・司馬瑋の後任の北軍中候に推されたが、司馬瑋の怒りを恐れて受けず、尚書となった。
果たして司馬瑋は司馬亮・衛瓘の殺害後、裴楷も狙ったが、王渾の家に逃げ込んで難を逃れた。
司馬瑋の誅殺後、中書令・侍中となり、張華・王戎と共に国政を担ったが、まもなく死去した。

親愛武将:王弼、王戎、楽広

裴頠(逸民)

生年登場没年死因
267275300不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4213847375名声教化学者教唆小心

【ハイギ(イツミン)】
西晋の政治家・儒学者。河東郡聞喜県の人。裴秀の次男。妻は王戎の娘。
幼くして名声があり、周弼は「武庫のように兵隊を自在に操る傑物」と評価した。
父が死去すると兄の裴濬が継いだが、裴濬も275年に死去した。その子の裴憬は幼すぎるという理由で、賈充の進言で兄の爵位を嗣いだ。
裴頠は固辞したが許されなかった。裴頠は名門出で有能だったので、トントン拍子に出世した。
恵帝が即位すると、儒学者の頂点である国子祭酒に任じられ、右軍将軍を兼任した。
賈南風・司馬瑋らが楊駿打倒の兵を挙げると協力し、城門を守る劉豫を騙して出頭させることに成功した。
賈南風が実権を握ると、実務は有能かつ庶人の出で扱いやすそうな張華?に任せようと考え、裴頠に相談した。
裴頠が賛同したので、裴頠・張華・賈模が政治の中心人物となった。侍中・尚書左僕射に昇進した。
裴頠は儒学教育に力を入れ、清談を批判する『崇有論』を著した。また、度量衡、特に医薬のそれを古代に戻すよう主張した。
賈南風と皇太子・司馬遹が対立すると、張華らと賈南風の廃立を協議したが、決心できなかった。一方で皇太子の護衛を増員した。
しかし結局、司馬遹は賈南風によって庶人に落とされた。裴頠は司馬雅らに賈南風廃立を持ちかけられたが応じず、その間に司馬遹は殺された。
司馬倫が賈南風を粛清すると、裴頠も賈南風一味として、詔を偽って殺された。かつて裴頠が司馬倫の無能さを嫌い、尚書令就任に反対した報復だった。

親愛武将:張華、賈模
嫌悪武将:何晏?阮籍?、司馬倫

劉頌(子雅)

生年登場没年死因
300自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2210758481法律能吏仁政王道経世済民

【リュウショウ(シガ)】
晋の臣。前漢の広陵王の子孫。蜀の滅亡後に司馬昭の命で現地に派遣され、飢えに苦しむ住民を救うために倉を開いたために罷免された。
後に京兆太守や河内太守、淮南相として治績を上げた。
恵帝の時代に吏部尚書などを務め、全ての役人が法のみに基づいて処罰を行うことや人事考課の明確化を図ろうとしたが、賈氏の権力を削る改革であったために挫折した。
司馬倫が九錫を授かろうとしたときに反対したため、先に殺された張華と親しかったことを理由に殺されそうになるが、世論の反感を恐れて光禄大夫に移され、間もなく病死した。

李重(茂曾)

生年登場没年死因
253300自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1924717752寡欲

【リジュウ(モソウ)】
晋の臣。江夏郡鍾武県の人。李秉(『晋書』では、唐皇室の先祖・李昞と同音なのを嫌って李景とする)の子で李通?の曾孫。
早くに父を亡くした。若くして名声があり、弱冠(二十歳前後)にして本国の中正となった。
九品官人法について、非常時の一時的な制度としつつも、定着して廃止が難しいことから、抜本的な改正が必要と献策した。
また、戦乱などで本貫(本籍地)から離れる移住者が増え、本籍地を根拠にした徴税が難しくなっていた。
そこで、移住先を新たな本籍地に移す、土断が必要と主張した。
その後は太子舎人、尚書郎、平陽太守などを歴任した。
弟の李嶷が亡くなると、李重は退職した。
司馬倫が実権を握ると、李重を相国左司馬(『晋諸公賛』では右司馬)に招聘した。
李重は病を理由に仕官を断ったが、司馬倫が強請するので、ついに死を覚悟して重病になってから拝命し、数日して死去した。
貧しく、家も狭かったので、葬儀を行う場所も無かったという。

劉卞(叔龍)

生年登場没年死因
299不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5462704963法律癇癪直情軽率

【リュウベン(シュクリュウ)】
魏・西晋の武将・政治家。東平国須昌県の人。
兵士の家に生まれ、実直で口数が少なかった。
県の小吏であった時、祖秀才という者が刺史への書簡の文面に頭を悩ませていたところ、
劉卞は数言で適切な助言を行った。秀才は県令に「劉卞はあなたの部下で最優秀でしょう。
どうして亭子(宿泊所?)に置いておくのか」と進言し、門下史に取り立てられた。
劉卞は大雑把な性格で、細かな仕事が苦手だった。県令の勧めで勉学に励み、太学で学んだ。
尚書令史を振出しに尚書郎、散騎侍郎、并州刺史などを歴任した。
さらに皇太子・司馬遹の左衛率(親衛隊長)となり、司馬遹のお気に入りになった。
賈南風と司馬遹の対立が激しくなると、劉卞は張華を密かに訪問し、賈南風を廃立するよう主張した。しかし聞き入れられなかった。
やがて賈南風のスパイに嗅ぎつけられ、軽車将軍・雍州刺史として外地に出されることになった。
劉卞は計画が漏れたことを悟り、服毒自殺した。

親愛武将:司馬遹、張華
嫌悪武将:賈南風