注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
西晋(265~316)
魏の内部で勢力を培った河内(豫北)の名族の司馬氏が、司馬懿の孫の司馬炎に至って265年に簒奪したもの。
司馬炎(武帝)は280年に呉を滅ぼして全国再統一を果たし、田制・税制の改革整備や、
魏を反面教師とした王族の藩屏化を行なったが、名族の優遇や統一後の奢侈など、初代から退廃性が顕れていた。
嗣子の恵帝の代には元勲・賈充の娘の賈南風の専権から、軍閥化していた諸王による八王の乱を惹起し、
統一の瓦解と内地の異民族の自立が急速に進行し、氐族の李雄が成(成漢)を、南匈奴を統合した劉淵が漢(前趙)を樹立した。
政権の実質的な終焉とされる311年の洛陽陥落では殆どの宗族が匈奴に殺され、長安に成立した亡命政権も316年に滅ぼされた。
武帝晩年~恵帝即位と楊一族の台頭~賈一族の専横と破滅まで
皇帝・皇室(宗室)
司馬衷(正度)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
259 | 267 | 307 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
1 | 3 | 1 | 2 | 24 | 小心 | 惰弱 | 消沈 | 動転 | 浪費 | 方円強化 | 割拠 |
【シバチュウ(セイド)】
西晋の第2代皇帝・恵帝。一説では重度の知的障碍者とされている。
司馬炎の次男で兄の司馬軌が夭折して為に皇太子となるが、幼い頃から暗愚で父の司馬炎も廃太子を考えたが、
賈南風の機転により父から任された仕事を他者にやらせて廃嫡を回避する事に成功した。
父の死後に即位するが、その暗愚故に実権は外戚の楊駿や賈皇后に握られ、
賈皇后の失脚後は越王司馬倫に帝位の座を追われた。
司馬倫の誅殺によって復位するが、相変わらず実権は無く八王の乱による
皇族同士の争いを止められずに西晋の国力を大いに衰退させた。
親愛武将:嵇紹
嫌悪武将:司馬威
司馬柬(弘度)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
262 | 291 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
56 | 51 | 74 | 66 | 78 | 名声 | 方円強化 | 王道 |
【シバカン(コウド)】
西晋の皇族。司馬炎の三男。母は楊艶(武元皇后)。
聡明で父から寵愛されていた。
汝南王を経て南陽王・左将軍、ついで秦王に封ぜられ、兄の恵帝即位後は大将軍にまで登った。
一時は大叔父に当たる楊駿の誅殺を受けて身の保全を考慮して領国に戻ろうとしたが、
司馬亮に慰留されて恵帝を補佐した。
しかし、同年に死去して人々から死を惜しまれた。
司馬亮(子翼)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
291 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
54 | 39 | 53 | 68 | 66 | 優柔 | 政令徹底 | 覇道 |
【シバリョウ(シヨク)】
魏晋の武将、政治家。司馬懿の第4子で三男。司馬伷は同母弟。汝南王。八王の乱に関わる八王の1人。
武帝司馬炎が即位すると扶風王に封じられる。
羌族の反乱では胡烈へ救援軍を遣わすが、胡烈は戦死したため降格された。
呉の歩闡の投降を受け入れ、その後に汝南王に移封される。
司馬炎は後事を託そうと詔を出すが、
楊駿が失脚を恐れて詔を握り潰して害そうとした為洛陽を脱出した。
賈南風と協力して楊駿を誅殺し朝政を掌握するも、
賈南風が実権を握る為に司馬瑋を唆した事で捕縛・虐殺され、八王の乱が始まった。
※司馬昭と司馬伷の間の生まれなので、生年は212-226の間。
司馬瑋(彦度)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
271 | 277 | 291 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 55 | 21 | 63 | 74 | 果敢 | 輿望 | 短慮 | 直情 | 地域振興 | 我道 |
【シバイ(ゲンド)】
西晋の皇族で八王の一人。司馬炎の5男。
楚王に封じられ、兄の恵帝即位後は外戚である楊駿の誅殺に功績があり、
衛将軍となって禁軍を掌握したが朝廷の長老である司馬亮・衛瓘とは対立、
それを賈皇后に利用されて両者の殺害を行ったが、張華の進言により謀反人
とされて処刑された。
若く直情的な性格で短慮な面もあったが、民衆に多く施しを行って人気があり、
その死に涙する者は多かったとされる。
親愛武将:司馬乂
嫌悪武将:司馬亮、衛瓘
司馬晃(子明)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
296 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
67 | 55 | 76 | 69 | 74 | 寡欲 | 仁政 | 地域巡回 | 王道 |
【シバコウ(シメイ)】
西晋の皇族。司馬孚の五男。
下邳王に封ぜられ、孝友貞廉で下士に謙虚であった為に宗室から称えられた。
司馬炎の時代には長水校尉、南中郎将となった後、鎮東将軍、都督青徐二州諸軍事
となった。
恵帝の時代には車騎将軍、散騎常侍となり、楊駿が殺害された際には護軍を率いた。
後に司空となり、死後に太傅を追贈された。
司馬泰(子舒)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
299 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
48 | 45 | 73 | 77 | 82 | 節約 | 寡欲 | 歳出改善 | 王道 |
【シバタイ(シジョ)】
西晋の皇族。司馬懿の弟司馬馗の子。司馬越の父。
魏の時代には扶風太守を務め、晋の成立により隴西王に封じられた。
以後は数多くの職を歴任して司空にまで登り、司馬瑋が処刑された後は
録尚書事を経て太尉・守尚書令となり、高密王に改封された。
廉静な性格で王族の多くが奢侈の生活をする中で清貧な生活を守り続け、
同様に節制に務めた司馬晃と共に称えられた。
司馬遹(煕祖)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
278 | 290 | 300 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
46 | 33 | 62 | 64 | 68 | 徴税 | 惰弱 | 本草学 | 名利 |
【シバイツ(キソ)】
西晋第2代皇帝・恵帝(司馬衷)の長男。
幼い頃から聡明であったが、あまり学問は好まずに宮中で商売を行ったり、
菜園で育てた野菜を売って利益を得たりしていた。
また、皇太子用の手当てを多く貰って部下に与えたり、讒言をする部下に対して
絨毯に針を仕込む嫌がらせまでしていた。
皇太子となるが、実母ではない賈皇后からは嫌われて賈皇后やその一族である
賈謐と対立する様になり、賈一族の謀略によって恵帝への謀反を疑われた末に
幽閉されて後に暗殺された。
後に愍懐太子の諡を与えられる。
親愛武将:司馬炎
嫌悪武将:賈南風、賈謐
司馬肜(子徽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
27 | 31 | 35 | 48 | 31 | 慎重 | 小心 | 惰弱 | 方円強化 | 名利 |
【シバユウ(シビ)】
西晋の皇族。司馬懿の八男。
謙虚で慎ましい人柄だったが、何の才能も無かった。
西晋の成立により梁王となり、朝廷では重職を歴任した。
296年に斉万年が反乱を起こした際に征西大将軍として討伐に赴いたが、
以前に自らの不法を糾弾して怨んでいた周処が配下にいた為、周処に
対して危険な先鋒を幾度となく担わせた上に援軍を送らず戦死させた。
その後、斉万年に敗れて召喚されたが罪には問われずに大将軍となり
弟の越王司馬倫の簒奪に協力。しかし、丞相に推されると危険を察してこれを辞退し、
恵帝が復位すると一転して司馬倫の死罪を主張し、自らは地位を保つことに成功して死去した。
死後、蔡克の「国家の重鎮でありながら、災難を全て傍観して義を尽くさなかった」
という主張で、「霊」(国を乱したが滅ぼすほどでは無かった)と諡された。
しかし、司馬肜の下級官吏であった者が、不当として何度も訴えた結果、諡は「孝」に改められた。
嫌悪武将:周処
司馬允 (欽度)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
272 | 277 | 300 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
65 | 76 | 48 | 56 | 69 | 調練 | 直情 | 三令五申 | 覇道 |
【シバイン(キンド)】
西晋の皇族。司馬炎の十一男。
濮陽王を経て淮南王となり、都督揚江二州諸軍事・鎮東大將軍を経て
驃騎將軍、開府儀同三司となり、中護軍を兼任した。
また、賈南風の司馬遹廃嫡に協力し、さらに皇太弟の地位を狙ったが、これは実現しなかった。
越王司馬倫が帝位を簒奪する企みを抱いた際、警戒された司馬允は淮南の精鋭八百人
を引き連れて司馬倫を襲撃し、宮殿内にて司馬倫の兵と激戦を繰り広げた。
しかし、味方と偽って近づいてきた司馬倫側の部隊を受け入れた事で襲撃を受け死亡した。
嫌悪武将:司馬倫
司馬覲(思祖)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
256 | 290 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
58 | 50 | 55 | 58 | 61 | 虚弱 | 歳出改善 | 王道 |
【シバキン(シソ)】
西晋の皇族。司馬伷の長男。
父の後を継いで琅邪王となるが、その際に父の遺命に従って弟三人に領土を分けた。
夏侯荘の娘を娶るが、三十五歳の若さで急死して十五歳の長男の司馬睿が後を継ぐ。諡号は恭王。
この急死が結果的に司馬覲父子を八王の乱から遠ざけ、後に江東に駐屯した司馬睿が建業で東晋王朝を開くことになる。
列女
楊芷(季蘭)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
258 | 292 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 6 | 43 | 21 | 64 |
【ヨウシ(キラン)】
楊駿の娘で楊艶の又従妹。司馬炎の後任の正室。武悼皇后。
温厚な人柄で、問題行動の多い賈南風を何度も弁護していたが、かえって逆恨みされる。
また父の専横にも積極的に加担し、司馬炎の遺言を「楊駿に全権を委ねる」と書き換えている。
司馬炎の没後は賈南風との対立が激化した末に賈南風、司馬瑋のクーデターにより幽閉の末餓死する。
胡芳
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
18 | 16 | 55 | 33 | 67 |
【コホウ】
胡奮の娘。司馬炎の側室。
率直で司馬炎にも阿らない性格であったが、それが却って気に入られたのか貴嬪(側室としては最高位)に立てられている。
楊艶からは嫌われており、死に際して皇后位が胡芳に渡ることを恐れて楊芷を後任の皇后に指名している。
左棻(蘭芝)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
300 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
6 | 5 | 70 | 55 | 18 |
【サフン(ランシ)】
左思の妹。司馬炎の側室。
寒門の出身で容姿も醜かったが、その優れた文才を聞きつけた司馬炎によって後宮に招かれ、家族も洛陽に移される。
司馬炎からの寵愛を受けることはなかったが、その文才を気に入られ貴人に封ぜられている。
※『晋書』では「左芬」。「左棻」は本人の墓誌が発掘されて判明した。
賈南風
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
257 | 271 | 300 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
13 | 31 | 55 | 7 | 2 | 高慢 | 悪名 | 強欲 |
【カナンプウ】
西晋恵帝の皇后。賈皇后。賈充の娘で、子供は望めず陰険で色黒の醜女であった。
司馬炎は、皇太子の司馬衷の后として衛瓘の娘を迎えようとしたが、
賈充派の馮紞・荀勗らが賈南風を后にすべく工作をし、賈南風を勧めた。
司馬炎の崩御後に恵帝が即位し、賈南風は皇后となった。しかし女子しか生まれなかった。
恵帝が即位後、外戚の楊駿が実権を握るが、賈皇后は楊駿を排除すべく、
孟観・李肇・宦官の董猛らと共謀して政変を起こし、楊駿一党を誅殺。
その後、司馬亮と衛瓘を謀殺し、張華の進言で司馬瑋を誅殺して賈氏一族が天下を掌握した。
のち司馬冏・司馬倫らに反乱を起こされ、族滅された。
親愛武将:司馬衷、賈謐、賈午、徐義
嫌悪武将:楊駿、衛瓘、謝玖、司馬遹
謝玖
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
299 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 19 | 41 | 51 | 70 |
【シャキュウ】
西晋・恵帝の夫人。家は貧しく、父は羊の屠畜業者だった。
おしとやかな美人で、司馬炎の後宮に入り、才人の地位に就いた。
司馬衷が皇太子に立てられる時、司馬炎は謝玖に命じて性教育をさせ、司馬衷の子を身ごもった。
これが司馬遹である。謝玖は司馬炎の後宮に帰され、司馬衷が司馬遹を認知したのは数年後だった。
賈南風は嫉妬し、司馬遹が母と同室することを許さなかった。
賈南風と皇太子・司馬遹の対立が深刻になると、裴頠は賈南風の代わりに謝玖を皇后に立てようと張華・賈摸に相談したが、決心が付かなかった。
司馬遹が皇太子を廃されると、謝玖は殺された。賈南風の死後、夫人の位を追贈された。
李婉(淑文)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
20 | 27 | 77 | 64 | 80 |
【リエン(シュクブン)】
賈充の前妻。李豊の娘。
才気のある女性で、賈充に嫁いだ。
李豊が司馬師に誅殺されると連座して流罪となった。
武帝司馬炎の即位により大赦となるが、賈充は郭槐を後妻に迎えていた。
武帝は賈充に特別に正室を二人立てることを許したが、郭槐が激怒したため賈充は辞退した。
賈南風(郭槐の娘)が皇太子妃となると郭槐は盛大に着飾って李婉のもとに出向くが、
李婉が出迎えると郭槐は思わず跪拝してしまった。
このため、賈充は李婉が殺されないか怖れたという。
賈南風が廃された後、賈充の墓に合葬された。
著作に「女訓」がある。
※特技は賈充伝で性格が「妬忌」(嫉妬・猜忌)と評された郭槐を跪かせたということで。
郭槐
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
237 | 296 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
33 | 16 | 71 | 65 | 57 | 癇癪 |
【カクカイ】
賈充の後妻。宜城君。太原郡陽曲県の人。郭配の娘で、郭淮は叔父。賈南風・賈午の母。
257年、先妻と離婚した賈充に嫁いだ。
嫉妬深い性格で、長男の賈黎民が、乳母と夫の二人にあやされているのを見て、
夫の浮気を疑って乳母を殺した。賈黎民は乳母を思慕し、病気になって死んでしまった。
次男を産んだ時も、生後十ヶ月で同じように乳母を殺し、次男もまた乳母を思慕して死んだ。
こうして男子が育たなかったので、夫の遺志であるとして外孫の韓謐(賈謐)を養子とした。
異姓養子は礼教に反するとして強く非難されたが、司馬炎は賈充の功績に免じて特例で認めた。
賈南風と司馬遹の対立が表面化すると、郭槐は娘を心配して、司馬遹を実子のように可愛がるよう指導し、
嫌がる賈南風をきつく叱った。また、賈午の娘を司馬遹に嫁がせようとしたが、賈午の反対で失敗した。
死に臨んでも司馬遹を大事にして、趙粲・賈午を遠ざけるよう遺言した。
しかし郭槐の死後、賈南風はついに司馬遹を殺した。
親愛武将:司馬遹
嫌悪武将:李婉
賈午
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
260 | 300 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
6 | 9 | 34 | 51 | 42 |
【カゴ】
賈充の四女。賈南風の妹。母は郭槐。韓寿の妻で賈謐・韓慰祖の生母。
郭槐は司馬炎の皇后・楊艶の侍従に賄賂を贈り、賈午を皇太子(司馬衷)妃に売り込んだ。しかし、賈午の背が低すぎて
礼服が合わないという理由で、姉の賈南風が司馬衷に嫁いだ。
ある時、韓寿に一目惚れして、下女の手引きで密通するようになった。賈充が司馬炎から下賜されたお香を、
賈午はこっそり盗んで韓寿に贈った。お香の匂いで二人の関係は発覚したが、賈充は黙って結婚させてやった。
賈南風が実権を握ると、司馬炎の側室・趙粲と共に賈南風の側近となった。郭槐は司馬遹(司馬衷の皇太子)に
賈午の娘を嫁がせようとしたが、賈午も賈南風も反対したので失敗した。郭槐は死に臨んで賈南風に
「趙粲と賈午は必ずあなたの将来を乱すから、もう話もしないように」と遺言したが、賈南風は従わなかった。
賈南風は司馬遹の廃嫡を企て、賈午の子の韓慰祖を密かに宮中に引き取り、自分が妊娠したように見せかけて育てようとした。
司馬遹の死後、賈氏一党が誅殺されると、賈午もまた杖で打ち殺された。
親愛武将:賈南風、韓寿
嫌悪武将:司馬遹
徐義
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
221 | 298 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
15 | 33 | 69 | 66 | 45 |
【ジョギ】
城陽郡東武県の人。賈南風の乳母。
1953年に発掘された墓碑によると、戦乱で父母も兄弟も亡くし、太原徐氏に嫁いで徐烈を生んだ。
容姿は醜かったが頑健だった。一方で、努力家で婦人の美徳を備えていた。
258年、賈充の家に雇われて賈南風の乳母となった。賈南風は実母以上に徐義に懐き、
徐義は食事から添い寝まで面倒を見ていたという。
賈南風が司馬衷に嫁ぐと、徐義もお付きとして後宮に入った。賈南風が楊駿討伐を企てた時には、
楊駿の娘の楊太后と同室していた賈南風を、機転を利かせて引き離した功績で美人の位に昇進した。
297年引退し、翌年死去した。賈南風は訃報を聞いて号泣したという。
親愛武将:賈南風
厳氏(憲)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
8 | 6 | 77 | 60 | 72 |
【ゲンシ(ケン)】
杜有道の妻。杜預の叔母。
貞淑で見識を有する女性で、人物を見る鑑察眼に優れていた。
18歳で寡婦となるが、息子の杜植と娘の杜韡を育てあげた。
傅玄が杜韡を後妻にしようとすると、傅玄は何晏と対立して害されそうになっていたが、
何晏の驕慢と司馬懿の雌伏を見抜いていたためこれを受ける。
その後、司馬懿は何晏を含む曹爽一派を誅殺した。
秦州刺史だった杜預が石鍳に誣告され収監されると、一時の恥を耐えるよう励ます。
傅咸(傅玄の前妻の子)を「千里馬」と讃えて妹の娘を娶せた。
補足:傅咸は晋にて、剛直な政治家として名を上げた。
親愛武将:傅玄、傅咸、杜預
鍾氏(琰)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
11 | 8 | 75 | 64 | 74 |
【ショウシ(エン)】
王渾の妻。鍾繇の曾孫。
数歳で文才を示す聡明さで、雅で容姿も美しく、礼儀も備えていた。
娘の結婚相手に賢夫を求めており、息子の王済が著名な兵家の子を推薦したが、
その姿を見ると、才能はあるが早世すると見て結婚を許可しなかった。
数年でその人物は亡くなったため、鍾琰の観察眼が称賛された。
王湛(王渾の弟)の妻の郝氏と良い交流を持っており、「鐘夫人の礼、郝夫人の法」と讃えられていた。
梁緑珠
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
300 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
7 | 4 | 63 | 35 | 84 |
【リョウリョクジュ】
石崇の愛妾。交州合浦郡の人。
美貌でしられた歌妓で越王司馬倫の側近である孫秀は緑珠を求めたが、石崇が断った
事によって孫秀に恨まれた石崇は処刑に追い込まれる事になり、石崇を捕える兵が石崇の邸
に迫った際に楼閣から身を投じた。
※梁姓は北宋代に成立した、楽史の小説『緑珠伝』の設定。
親愛武将:石崇
在野
魯褒(元道)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
2 | 3 | 80 | 8 | 33 |
【ロホウ(ゲンドウ)】
南陽郡の人。学識があり、貧しく自給自足の生活を送った。
元康年間(291-299)、賄賂が蔓延る時勢で、現金万能主義を風刺した『銭神論』を著した。
「銭の形には乾坤の象徴がある。内側の穴は四角く、外側は丸い。
……銭は市場で使いやすく、不朽の神宝だ。銭は親愛すること兄のようで、字を孔方という。失えば貧弱になり、得れば富強になれる。
銭は翼を持たずに飛び、足が無くても走れる。
……銭があれば吉祥の邪魔になることはない。学問に励めば富貴になるとは限らないのだ。
……銭があれば徳が無くても高貴になり、権勢が無くても栄え、宦官に取り入らなくても宮廷に入ることができる。
危険を安全にでき、死を生にすることができ、貴人を賤しくすることができ、生者を殺すことができる。……」
終生仕官せず、どこで死んだかも分かっていない。
※魯褒は皮肉として『銭神論』を著したのだろうが、結果として銭の効用は実現している。
范喬(伯孫)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
221 | 298 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
10 | 9 | 67 | 49 | 75 | 地域巡回2 | 礼教 |
【ハンキョウ(ハクソン)】
陳留郡外黄県の人。范粲の長男。
2歳の時、祖父の范馨が死に際に范喬の首を撫でて言った、「お前が成人した姿を見れないことが悔やまれる」。
9歳の時に学問を志し、同輩にもくだけた言葉を使わなかった。20歳の時、蒋国明の元で学問を学んだ。
光禄大夫の李銓嘗は、前漢末の揚雄と劉向を比較し、揚雄を才覚において勝っていると論じた。
范喬は『劉楊優劣論』(現存せず)を著し、揚雄が勝っているわけでは無いと反論した。
父が狂ったフリをして言葉を発しなくなると、范喬と二人の弟は学業を捨て、人付き合いを断ち、父の世話に専念した。
かつて司隷校尉・劉毅は、范喬の登用を献策した。司馬衷(恵帝)の治世になり、王琨・張華・郗隆が次々に范喬を登用しようとしたが、
范喬はいずれも辞退した。孝廉に一度、官公庁より八度、清廉な品行を理由に二度推挙されたが、応じることは無かった。
ある冬、祭祀に猟の獲物を供えたところ、盗み出した村人がいた。范喬に盗まれたことを告げた者がいたが、偽って聞き入れなかった。
村人は恥じて獲物を返したが、范喬は村人の家に獲物を持って行き、「あなたは祭日に柴を刈り、両親と一緒に楽しもうとしただけだ。
どこが恥とするところがあるだろうか」といって渡してやった。298年、78歳で死去した。