注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願します。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
どうしても能力値を変更したい、記載された能力値をそのまま新武将で登録することに抵抗のある方は、
お手持ちの三國志11、または三國志11PKで、能力値を変更してから新武将登録することをおススメします。
もう一度言いますが新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
能力値の変更、人物やページの削除、能力値の議論など、荒れるような行為は絶対に慎んでください。
ここはあなただけのページではありません。
特技が複数ついている人物もいますが、複数つけるか、1つを選ぶかもお好みで。
各人物のアイテムもお好みでお願いします。持たせ方はこちら特に武勇に優れる「偉人」「猛将」などの
個人武勇を反映再現する場合、武力数値を上下するよりも一騎打ち性能をピンポイントで強化することができるので、非常に有用。
武力=一騎打ちの強さ、だけではないという点にも留意したい。アイテム効果はこちら。能力効果はこちら
欧州
欧州とは、地球上の七つの大州の一つで、主にユーラシア大陸の北西部を指す。
ヨーロッパ、西洋とも表記され、現代でもイギリス・フランス・ドイツ・ロシア等
様々な国家がこの地域に割拠している。その歴史は古く、民族移動、宗教改革、都市国家と
激動を繰り返し、絶対王政や市民革命を経て、現代に続いている。
所属国家、地方とその歴史の詳細についてはこちら
漢字表記
三国志11は無印PK問わず、姓名にそれぞれ2文字までしか表記できない。
そのため、カタカナ表記の偉人は、そのままだと三国志11に登録することができない事が多い。
しかし、漢字・中国語表記をすることで、文字数を減らし、登録することができるようになる。
よって、当項目では武将や偉人を投稿する場合、漢字表記もそれとわかるよう併記することが望まれる。
例:アインシュタイン(愛因斯坦) ニュートン(牛董)など
古代・それ以前( ~ 西ローマ帝国の滅亡)
アレクサンドロス3世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
100 | 100 | 83 | 67 | 100 | 覇王・強行・強運 | S | S | S | S | A | B | B.C.356 | B.C.323 | 剛胆 |
【アレクサンドロスサンセイ】
古代ギリシャの王、マケドニア王。アレキサンダー大王、アレキサンダー3世とも。「亜歴山」または「歴山大王」
ピリッポス2世の子として生まれ、父王が暗殺されると王位を継承し、
ギリシャの都市国家を制圧した。その後は圧倒的な強さをもって、度重なる遠征と併合を行い、
わずか30歳にしてインド・マケドニア・エジプトに跨る大帝国を築き上げた。
しかしアラビア遠征の直前に齢33歳にして急死。「最強の者が帝国を継承せよ」と言う
遺言を残したと言われている。彼の遺産は3王朝の祖となり、ハンニバル、カエサル、
ナポレオンと言った数多くの偉人からも崇拝された。
※その他候補となった特技:洞察・威風・急襲・猛者・駆逐
ハンニバル・バルカ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
99 | 95 | 80 | 89 | 90 | 神将・掎角・心攻 | S | S | S | A | B | C | B.C.247 | B.C.182 | 剛胆 |
【ハンニバル・バルカ】
古代カルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争におけるカルタゴの英雄にしてローマ最大の敵。「汉尼拔」
軍の司令官に就任するやアルプス山脈を越えてイタリアに到着し、ローマの大軍に対し
連戦連勝を重ねた。カンナエの戦いではローマ指導者層を多く討ち取る大勝をあげ、
ローマ帝国から畏怖された。しかしハンニバルの怒涛の進撃を恐れたローマ軍は
物量作戦を展開し、物資に窮するハンニバルを抑えつけて徐々に戦力を回復。
事態を打開すべくハンニバルも奮戦するもザマの戦いでスキピオに敗れ、勢力回復には至らなかった。
戦後はカルタゴ再建に勤しみ成果を上げるも、反対派の策略で国を追われ、最期はビテュニア王国で自害した。
※その他候補となった特技:踏破
ゲロン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 94 | 75 | 63 | 78 | 疾走・猛者・急襲 | S | B | A | S | C | C | B.C.540? | B.C.478 |
【ゲロン】
紀元前5世紀のシュラクサイの僭主。「加永」。
若い頃から恐るべき戦士との評判を得ており、騎兵隊の司令官として何度も活躍する。
僭主ヒポクラテスの死後、彼の子息を支えることを目的にその領土を引き継ぎ僭主となる。
紀元前480年にカルタゴ連合軍30万人がヒメラに進軍すると、同盟関係にあったテロンの要請を受け出撃、兵の半数を失うほどの大損害を与え撤退させる。
シュラクサイ領内においては金持ちを移住させ富を増やし、劇場を作り文化を発展させた。
高貴な家の出であり下層階級の人間を気にかけなかったとされるが、シュラクサイの平和を長年に渡って維持したことによって市民からの人気は高かった。
キモン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 37 | 91 | 76 | 85 | 火神・推進・連戦 | A | C | S | C | A | S | B.C.510 | B.C.450 |
【キモン】
アテナイの政治家、武将。「客蒙」。
紀元前477年に将軍に任命され、デロス同盟の殆どの作戦を主導し活躍する。
475年にはエイオンを包囲し陥落させ、スキュロス島を攻略し反抗的な態度を取るドロペス人を追い出す。
エウリュメドン川の戦いで数の勝るアケメネス朝軍に対し大勝し、アケメネス朝との戦争終結の決定打を作る。
一度は政治的信用を失い追放されるが第一次ペロポネソス戦争を機にアテナイに復帰する。
450年にキュプロス遠征を提案し、自ら200隻の艦隊を率いキュプロスの大部分を制圧しキティオンを包囲したが、その最中に病没した。
クィントゥス・ファビウス・マクシムス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
77 | 46 | 93 | 89 | 78 | 看破・鉄壁・洞察 | B | A | A | B | C | C | B.C.275 | B.C.203 | 冷静 |
【クィントゥス・ファビウス・マクシムス】
古代共和政ローマの政治家、将軍。「费边·马克西姆斯」。
名門のファビウス家に生まれ、早くから政治家として活躍、執政官やケンソルを務めた。
トラシメヌス湖畔の戦いでハンニバル率いるカルタゴ軍にローマ軍が大敗すると、元老院から独裁官に任命された。
ハンニバルとの戦いでは正面から戦わず、焦土戦術を用い敵の消耗を狙う「ファビアン戦略」で対抗しようとする。
当初はその戦略を「クンクタートル」と批判されたが、彼の目論見通りハンニバルは次第に弱体化し撤退した。
スキピオ・アフリカヌスの遠征には反対し、結果を見ることなく病没。「ローマの盾」と称された。
スキピオ・アフリカヌス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
98 | 80 | 95 | 61 | 93 | 藤甲・掎角・鉄壁 | S | S | B | S | B | C | B.C.236 | B.C.183 | 冷静 |
【スキピオ・アフリカヌス】
古代共和政ローマの軍人。第二次ポエニ戦争におけるローマ救国の英雄にしてハンニバルの宿敵。「小西庇阿」
名門執政官スキピオ家に生まれ、父や伯父に従い第二次ポエニ戦争に従軍。
父や伯父の戦死後に持ち前の才覚と話術で元老院を説得し、指揮官に就任した。
以後、ハンニバルの戦術を徹底研究しつつ、周辺諸国との交渉や同盟で圧力をかけた。
また、市民から義勇兵を募りつつヒスパニア、アフリカ遠征を行い連戦連勝、カルタゴを孤立させた。
ハンニバルからも一目置かれ休戦交渉もなされるが、カルタゴ上層部の判断で反故され、
ザマの戦いでついにハンニバルを破り、ローマの優勢を決定づけた。
終戦後は救国の英雄としてローマ中の歓喜を受けたが、隠棲を決め込んだ。
のち、政敵の工作によって弾劾を受け、以降ローマへは戻らなかったという。
※その他候補となった特技:論客
ティトゥス・クインティウス・フラミニヌス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
93 | 87 | 84 | 72 | 83 | 精妙・機略・名声 | S | A | A | S | C | C | B.C.228 | B.C.174 |
【ティトゥス・クインティウス・フラミニヌス】
共和政ローマの軍人、政治家。「提图斯·昆克修斯·弗拉米尼努斯」。
トリブヌス・ミリトゥム(高級将校)として名を現し、紀元前198年に若くして執政官に就任する。
主に将軍として活躍し、第二次マケドニア戦争に参加した際はアオウスの戦いでマケドニア王ピリッポス5世を破る。
翌年には再びピリッポス5世とスコトゥサ付近で戦い、僅かな損害で大勝する。
ナビス戦争でもローマ軍の代表として勝利し、紀元前191年には領土干渉の約束を破ったセレウコス朝軍をテルモピュライの戦いで破った。
ギリシア人の解放者として絶大な人望を持っていたと言われる。
ガイウス・ユリウス・カエサル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
99 | 93 | 97 | 95 | 96 | 覇王・神算・百出 | S | A | S | A | S | A | B.C.102 | B.C.44 | 剛胆 | 維持・長or開眼(元の能力値より上がるため、その場合各自能力調整で) |
【ガイウス・ユリウス・カエサル】
古代ローマの政治家、軍人。「尤利烏斯凱撒」または「凱撒」
若年の頃から神祇官を務めるが、スッラに疎まれ命の危機にさらされ亡命。
スッラの没後はその政治力と智謀を生かし最高神祇官に当選し三頭政治の中核を成した。
その後ガリアへの遠征をおこない、8年をかけてこれを併合する。
その後ローマの内戦を経て、北アフリカ、エジプト、ヒスパニアに遠征を行い
終身独裁官に就任。負けを負けとも思わせず、優れた戦略眼とそれを補う政治力で
莫大な権力を堅持したが、反対派の元老院と対立、暗殺された。彼の遺産はアウグストゥスによって
形作られ、帝政ローマの祖となった。
※その他候補となった特技:強運・虚実・強行・明鏡・威風
アウグストゥス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
76 | 58 | 100 | 100 | 100 | 洞察・仁政・築城 | A | A | B | B | B | A | B.C.63 | 14 | アグリッパ | 小心 | 維持・長or晩成・短(武力) |
【アウグストゥス】
ローマ帝国の初代皇帝。カエサルの姪の子。ガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスとも。「屋大维」。
若干18歳でカエサルの後継者に指名され、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名乗り
カエサル配下から支持を集めた。アントニウス、ポンペイウス、レピドゥスなどの政敵を次々と排除し、
元老院にはアメと鞭を用いて、ローマの覇権を握ることに成功。アントニウスを破った
アクティウムの海戦後は、カエサルの構想を引き継ぎつつ、元老院との折り合いを図り、
ついにインペラトルの称号を得、ローマ帝国の初代皇帝となってパクス・ロマーナを実現した。
生来虚弱であり軍事に疎く、軍事全般は腹心かつ盟友のアグリッパに一任していたと言われている。
アグリッパ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
89 | 82 | 55 | 70 | 74 | 鉄壁・護衛・補佐 | A | S | S | B | A | S | B.C.63 | B.C.12 | アウグストゥス | 剛胆 | 維持・長 |
【アグリッパ】
古代ローマの軍人。アウグストゥスの学友のち腹心。「マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ」「阿格里帕」
若年の頃からカエサルに仕え、カエサルの計らいでアウグストゥスと昵懇になる。
カエサルの暗殺後はアウグストゥスの腹心の1人として活躍。特に軍事に疎いアウグストゥスを支え、
実質司令官として多くの戦争で指揮を取り、勝利を導いてアウグストゥスの躍進に貢献した。
ローマの帝政樹立前後から政局にも参加。アウグストゥスは壮健な彼とその一族に期待し、
後継者にと考えていたが、彼に先んじて逝去。一族も早逝が多く、その後の帝政後継に大きな影響を残した。
イエス・キリスト
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
50 | 41 | 100 | 25 | 100 | 強運・解毒・鬼門 | C | C | C | C | C | C | B.C.2? | 33? | 冷静 | 維持・長or開眼 |
【イエス・キリスト】
古代ガラリヤの人物。「ナザレのイエス」とも。「耶稣基督」
「神の子」として活動し、様々な奇蹟を起こし、人々を病から救った。
多くの弟子たちが集まり、あらゆる人々に分け隔てなく接したため、
多くの人々の敬愛を集めた。弟子達と活動を続けたが、特に権勢を欲しいままにする
既得権益者を大きく批判したため、ローマ帝国に訴えられ、政治犯として
エルサレムで処刑された。しかし3日後に生き返り、弟子達と40日間過ごした後天へ昇ったと言われている。
※その他候補となった特技:仁政・火神・妖術・眼力・論客・明鏡・洞察・神算・百出・名声
ブーディカ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 |
11 | 80 | 74 | 65 | 84 | 怒髪・名声・不屈 | B | C | C | B | C | C | ? | 60? | ネロ | 猪突or冷静 |
【ブーディカ】
古代イギリスのケルト人イケニ族の女王。「布狄卡」。
イケニ族の王であるプラスダクスを夫に持ち、ローマ帝国と同盟を結んでいたが、
夫の死後、ローマの法に基づき国は処分され、自らも鞭打ちを食らい娘も手厳しい処遇を受けたことに激怒。
ローマ帝国からの離反を唱え、大規模な反乱を起こした。近隣の諸部族も扇動し、
ローマの植民地とされていた諸都市を徹底的に蹂躙し、鎮圧に向かったローマ軍を撃退している。
皇帝ネロによもやと言わせたが、装備や練度に勝るローマ軍の勢いは衰えず、
ワトリング街道の戦いで圧倒的兵力差を覆されて大敗。その後、自殺したとも、病死したとも言われている。
トラヤヌス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
99 | 98 | 95 | 98 | 100 | 覇王・仁政・洞察 | S | B | S | S | A | B | 53 | 117 | 冷静 | 維持・長 |
【トラヤヌス】
古代ローマ帝国の皇帝。「五賢帝」の一人。属州初の皇帝でもある。「图拉真」
父がシリア総督であった際、その幕僚として従軍。反乱鎮圧などで功績をあげ、
ドミディアヌス帝からゲルマニアの司令官、総督に任命される。その後、従甥であった
ハドリアヌスの協力もあり帝国内で地位を高め、98年皇帝に即位する。穏当かつ硬軟交えた
政治体制を築いて福祉政策を進める一方、ダキア戦争、ナバテア併合、パルティア戦争で
華々しい戦果をあげ、ローマ帝国最盛期を築く。皇帝でありながら常に最前線で戦い続け、
数々の業績を成したことから「Optimus Princeps(最良の元首)」の称号を持つ。
※ 117年に死没し、後任にはハドリアヌスがついた。トラヤヌス千慮の一失はハドリアヌスによって対処され、ローマ帝国全盛期の礎となった。
ハドリアヌス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
94 | 81 | 99 | 100 | 63 | 運搬・威圧・築城 | A | B | S | A | A | B | 76 | 138 | 冷静 | 維持・長 |
【ハドリアヌス】
古代ローマ帝国の皇帝。「五賢帝」の一人。「哈德良」
トラヤヌス帝の従甥として、彼の治世を支える。101年に彼の秘書として抜擢され、
第二次ダキア戦争に従軍して軍功を上げ、戦後執政官に推薦される。
パルティア戦役では司令官、シリア総督として主に後方の兵站補給を担当。トラヤヌス帝が
病没すると、皇后プロティナの支持から皇帝に即位する。皇帝即位後はローマ帝国の
再構成に腐心し、ユダヤ反乱の鎮圧、公共事業の推進に加え、僻地に長城を築いて帝国防衛網を構築した。
138年死去。元老院や同時代人の支持は薄かったが、その治世は初代アウグストゥスに比肩するとしばしば言われる。
アッティラ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
76 | 95 | 72 | 88 | 81 | 強奪・急襲・白馬 | B | B | S | S | A | C | 406? | 453 | 猪突 | 維持・長 |
【アッティラ】
古代フン族とその諸侯の王。「阿提拉」。騎馬弓射に優れたアジア系の民族だが、
ヨーロッパに割拠して勢力を伸ばした。434年に先代王の死去に伴い即位し、
東西ローマや北イタリアなど周辺諸国と戦争を幾度も行い、金品や捕虜を強奪して悩ませた。
サーサーン朝との戦いに敗退してからは、ヨーロッパでの侵略をたびたび起こし、
443年には西ローマ、東ローマの連合軍と戦い勝利、多額の賠償金をせしめた。443年、447年にも
侵略を起こし、しばしば戦果を上げたが、451年のガリア遠征とカタラウヌムの戦いで
東ローマの将軍であったアエティウスに敗北。453年、自身の婚礼直後に急死。
多額の金品を損ない、多くの人命が失われたことから、ヨーロッパでは「神の災い」「神の鞭」と呼んで恐れられた。
※その他候補となった特技:騎神・射手・強行・覇王・駆逐
ペラーヨ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 82 | 75 | 63 | 85 | 不屈・論客・遁走 | B | S | A | B | C | C | 685? | 737 |
【ペラーヨ】
西ゴート王国の貴族。「佩拉約」。
西ゴート王国がウマイヤ朝に滅ぼされると、独自に抵抗運動を始める。
その後キリスト教国としてのアストゥリアス王国を建国し、ウマイヤ朝と戦う。
722年、本格的に攻勢を見せたウマイヤ朝が攻めてくるが、これに対しペラーヨは300の兵で数倍の兵を擁するウマイヤ朝軍をコバトンガで破る。再びの攻撃も撃退する。
後世にレコンキスタの先駆けとしてヨーロッパ諸国で讃えられている。
中世( ~宗教改革、諸説あり)
ベリサリウス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
100 | 99 | 85 | 1 | 37 | 飛将・洞察・藤甲 | A | S | S | S | B | C | 505 | 565 | 剛胆 | 維持・長 |
【ベリサリウス】
東ローマ帝国の将軍。もとは農民の出身。「贝利撒留」とも。
ペルシア防衛戦でユスティニアヌス1世に推挙され、首都の司令官に抜擢される。
以後、東ローマ帝国の将軍として数々の合戦に参加し、連戦連勝。時には10倍の兵力を破ることもあった。
だが、その類まれな軍事手腕と冷静な判断力を皇帝から危険視され、出世と暗転を繰り返した。
また、東ローマ帝国が窮地に陥るたびに皇帝から懇願されたが、それを快諾して連戦連勝しては、また冷遇されるという
不遇な人生であった。晩年は隠棲したとも、落ちぶれたとも言われているが、後世「東ローマ帝国最高の将軍」
「大スキピオの再来」とされ、ナポレオンなどの戦術家に大きな影響を与えた。
ヨルダネス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
14 | 11 | 80 | 65 | 68 | 威圧・指導・能吏 | C | C | C | C | C | C | ? | ? |
【ヨルダネス】
6世紀頃のビザンチンの歴史家。「约达尼斯」。
アラニ人、ゴート人の族長の秘書を務め、その後修道士となる。
主にゴート人などビザンチンの諸民族についての記述を行い、同時代を知ることのできる一級資料を複数著している。
主著に「ゲティカ」、「ロマーナ」他。
カール1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
89 | 93 | 82 | 81 | 98 | 覇王・踏破・仁政 | S | A | S | S | B | B | 742 | 814 | 剛胆 | 維持・長 |
【カールイッセイ】
中世フランク王国の国王。「カール大帝」とも言われる。「查理」。
王国を分割相続するが、弟の死後に単独で統治を開始。その後、現イタリア、ドイツ付近に侵略を開始し、
ヨーロッパの大部分を手中に収め、ローマ皇帝として戴冠を受けた。
多くの征服事業と内政事業を手がけたが、生涯それが完遂することはなく、死後一族の分裂によって
王国は衰退したものの、現在のヨーロッパの祖となったことから「ヨーロッパの父」とも呼ばれている。
ヨハネス・クルクアス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 92 | 75 | 42 | 70 | 勇将・飛将・連戦 | S | B | A | S | C | A | ? | ? |
【ヨハネス・クルクアス】
東ローマ帝国の将軍。「约翰内斯·库尔库斯」。
ギリシアに生まれ、皇帝ロマヌス1世に仕え将軍となる。
激闘を極めていたイスラム帝国との最前線に赴き、多くの主要都市を奪還する。
941年にはコンスタンティノープルに来襲したキエフ大公国軍を海戦で破る。
944年に一度追放されるがすぐに復帰する。946年の記録を最後に歴史から姿を消した。
エル・シッド
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
90 | 94 | 76 | 26 | 88 | 勇将・猛者・強行 | S | A | B | A | B | C | 1045? | 1099 | 剛胆 |
【エル・シッド】
カステーリャ王国の貴族、武将。「熙德」。
サンチョ2世の小姓として仕え、彼が国王となった後はその下で数々の戦いに従軍し活躍する。
サンチョ2世が暗殺されるとアルフォンソ6世に仕え、数々の武勲を挙げるが2度の追放を受けている。
1090年に1度目の追放後に身を寄せたサラゴサに赴き、バルセロナ伯べレンゲと戦いこれを捕虜にする活躍を見せる。
その後バレンシアを数年かけて攻略し、一国の主となることに成功する。
しかし力を強めていたイスラム王朝のムラビト朝の攻勢を受け、良く防戦したが1099年に病没。
死後レコンキスタの英雄として神格化され、「わがシッドの歌」でその活躍を詠われる。
エンリコ・ダンドロ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
78 | 55 | 95 | 76 | 74 | 深謀・洞察・指導 | A | B | A | C | B | B | 1107? | 1205 | 冷静 | 晩成・長 |
【エンリコ・ダンドロ】
ヴェネツィア共和国のドージェ(元首)。「恩里科·丹多洛」。
1192年に第40代元首のオリオ・マストロピエノが没したため、その智謀を買われ80歳を越す高齢で元首に選ばれる。
第4回十字軍が結成された際、彼らが資金が不足していることを利用し資金提供をする代わりに敵対していたザラ市を攻撃するよう仕向ける。
東ローマ皇帝を追放し、イサキオス2世アンゲロスを復位させる。彼が殺されると、その張本人であるアレクシオス5世を討ち東ローマ帝国を滅ぼす。
その直後ラテン帝国を築き、イオニア海沿岸一帯の旧東ローマ帝国領を併合し、地中海の制圧権を掌握した。
ジョン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
12 | 7 | 55 | 21 | 2 | 遁走・強運・論客 | C | C | C | C | C | C | 1167 | 1216 | 小心 |
【ジョン】
中世イングランド王。兄に獅子心王と呼ばれるリチャード1世がいる。「约翰」、ジョン欠地王、失地王とも。
父王であるヘンリー2世から土地を貰えなかったことが原因とされ、後に父王が憐れんでアイルランドを分与するも
統治することができずに逃げ帰っている。やがて兄と父が対立すると最初は父の肩を持つが、
リチャード1世の形勢優位となるや、一転兄の肩を持った。また皇帝となった兄の戦争従軍中、
フランス国王に唆されてリチャード1世に反旗を翻そうとしたが、周囲の支持を得られず兄に服従している。
兄が不慮の死を遂げると、イングランド王として戴冠するが、フランス国王と対立して大陸領土を失陥した。
その後、領地奪回を試み軍備を整えるが、かえって庶民の不満を招き、命運をかけた大陸領土奪回が
失敗に終わると、諸侯や庶民から内乱を起こされ、マグナ・カルタを認めさせられた。祖国イギリスでは歴代最悪の王と言われている。
※その他候補となった特技:富豪・造船・強行
バヤズィト1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
94 | 90 | 92 | 89 | 93 | 飛将・名声・強行 | S | S | S | A | S | S | 1360 | 1403 | 剛胆 | 早熟・短 |
【バヤズィトイッセイ】
オスマン帝国第4代皇帝。「巴耶济德一世」。生涯を軍事遠征に費やし、「雷帝」「雷光」とも呼ばれた。
父親であるムラト1世の暗殺を機に即位し、反対勢力を次々と討伐、粛清しながら勢力を拡大。
その後、東ローマ帝国を影響下に置き、これに反対する十字軍とヨーロッパ諸国の連合部隊と戦い勝利を収めている。
多くの領地を征服し、のちに世界最強の一角と言われるオスマン帝国の軍備の礎を築いたが、
東方から勢力を伸ばすティムールと対立し、アンカラの戦いで激突するも敗北。
捕虜になった数年後に死去した。自害とも、病死とも言う。一説には隻眼だったと言われている。
エドワード黒太子
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
85 | 92 | 74 | 45 | 66 | 弓神・捕縛・急襲 | A | A | S | S | B | C | 1330 | 1376 | 剛胆 | 維持・長 |
【エドワードコクタイシ】
中世イングランドの王族。「エドワード・オブ・ウッドストック」「エドゥアール4世」「黑太子爱德华」などとも。
エドワード3世の長男として生誕、1343年から王太子を努め、1346年からフランスとの百年戦争に従事。
百年戦争ではイングランドの精強な弓兵を中心に指揮し連戦連勝を重ね、
1356年のポワティエの戦いでフランス王を捕虜にする大戦果をあげ、イングランド優位を決定的なものとする。
その後、1360年からは攻め取ったフランス南部の支配を任され、以後もフランス軍を苦しめた。
だが、この頃から病気がちになり、反イングランド運動も激化。生涯のほぼ全てを戦陣で過ごすが病には勝てず、まもなく死去。
ベルトラン・デュ・ゲクラン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
87 | 76 | 83 | 52 | 84 | 強運・火攻・急襲 | A | B | B | S | A | B | 1320 | 1380 | 剛胆 | 維持・長 |
【ベルトラン・デュ・ゲクラン】
中世フランス王国の軍人。フランス救国の英雄と言われる。「贝特朗·杜·盖克兰」。
ブルターニュ地方で生誕し、若い頃は乱暴者で「鎧を着た豚」と呼ばれた。
ブルターニュ継承戦争に参戦後、フランス王に仕え百年戦争に従軍。
イングランド軍と何度も戦火を交え、フランスの領土防衛に貢献した。
何度も捕虜になるがその度に身代金で解放されるなど国王の信任も厚く、
エドワード黒太子とも数々の戦地で争った。1380年に死去、その後彼の活躍もあり百年戦争は一時休戦となった。
フニャディ・ヤーノシュ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 |
93 | 86 | 84 | 81 | 89 | 不屈・勇将・名声 | A | S | B | S | S | C | 1387 | 1456 | 剛胆 |
【フニャディ・ヤーノシュ】
ハンガリーの軍人、政治家。「匈雅提·亚诺什」。ルーマニアの出身。
貴族の出身であり、若い頃から前線で戦い信望を集め、侯の地位を与えられる。
やがてオスマン帝国に対する防衛を任され、帝国軍の侵攻に対しては連戦連勝を重ねた。
その後はオスマン帝国への遠征を行ったが不振に終わる。またヴァルナの戦いで主君のウラースロー1世を死なせてしまい敗北する。
王の死後は摂政に就任し、ベオグラードの戦いでオスマン軍に勝利した後病没。
ハンガリー国内では対オスマン帝国の英雄とされている。
キニジ・パール
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
82 | 97 | 54 | 57 | 81 | 槍神・鉄壁・猛者 | S | S | B | A | C | C | 1431? | 1494 |
【キニジ・パール】
ハンガリーの武将。「金吉珍珠」。
マーチャーシュ1世が水車小屋で休んでいるとき、大きな岩を盆代わりにして水を差し出し、これが縁となって彼に仕えたという伝説がある。
二つの大剣を自在に扱う豪傑として知られ、1479年に他民族を加えた混成軍を率いてステファン・バートリの下でオスマン・ワラキア連合軍と戦う。
兵数では不利であったが、巧みな用兵でこれを撃破する。またその後の度重なる遠征軍も全て破った。
ウラースロー2世の代にはマーチャーシュ王の死後に野盗化した直属軍「黒き軍」を討伐した。
晩年は地方官吏として働き、1494年死没。
ハンガリーの歴史の中では最も有名な軍事指導者の一人である。
ジャンヌ・ダルク
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
82 | 56 | 58 | 17 | 97 | 鬼門・不屈・昂揚 | A | A | B | A | C | C | 1412 | 1431 | 剛胆 | 早熟・短 |
【ジャンヌ・ダルク】
中世フランス王国の軍人。「オルレアンの乙女」と呼ばれた。「聖女貞德」
貧しい農夫の娘に生まれたが、神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍。
彼女が従軍するや否やフランス軍は勝利を重ね、また彼女自身もオルレアンで
劇的な勝利を挙げたことから彼女の人望は一気に高まった。
しかし休戦協定や泥沼化する戦局の混乱に呑まれ、コンピエーニュの戦いで捕縛された。
身柄はイングランドに引き渡され、異端審問の後火刑を受けて刑死した。
神の幻視や啓示の詳細や、死後の名誉回復も含め、今なお謎の多い人物として伝えられる。
メフメト2世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
80 | 68 | 91 | 92 | 全盛期 99 晩年 61 | 名声・富豪・威圧 | S | S | S | A | S | A | 1432 | 1481 | 剛胆 | 維持・長 |
【メフメトニセイ】
オスマン帝国第7代皇帝。「メフメト」「穆罕默德」とも言われる。
生涯のうち実に30年近くを征服に費やし、「征服の父」と呼ばれた。
東ローマ帝国をはじめ、トレビゾンド帝国やアルバニアなど周辺諸国を屈強なオスマン兵を駆って併合。
オスマン帝国を世界的な大帝国へと押し上げ、対立するヨーロッパ諸国を恐怖のどん底に陥れた。
莫大な征服事業と各地の整備をすすめオスマン帝国全盛期の原初を築いたと言われるが、
征服事業からくる財政難や、征服中の敗戦、人種重用などから徐々に反対派閥を増やし、
死後即位した息子によって彼の方針の大部分は否定された。
チェーザレ・ボルジア
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
89 | 94 | 98 | 83 | 1 | 虚実・威圧・疾走 | A | B | A | S | B | B | 1475 | 1507 | 冷静 | 早熟・短 |
【チェーザレ・ボルジア】
中世イタリアの軍人、政治家。「ヴァレンティーノ公」、「セサル・ボルヒア」とも言われる。「切萨雷·博吉亚」
ロドリーゴ・ボルジアの庶子として生まれ、若年期から武芸と知恵に長けていたという。
8歳で教皇庁書記長に就任したのを発端として、その後17歳でバレンシア大司教に就任。
父アレクサンデル6世の力もあり、事実上の後継者としての地位を得た。
しかし他の兄弟が死ぬとその地位を返上し、フランス王家と養子縁組を行ってヴァランスを治め、
ヴァランス公爵と呼ばれるようになった。以後、確たる基盤を軸にイタリアでの多くの戦争に参戦。
諸都市を次々と攻略してフィレンツェ共和国、サンマリノ共和国を傘下に入れた。また味方傭兵として戦った
ウルビーノ共和国も完全に支配下に入れている。だが部下に反乱を起こされ、鎮圧後に原因不明の病を
得たころから徐々に衰退。父の死後に教皇へ即位したユリウス2世によって完全に失脚させられた。のち義兄のもとへ
亡命するが、スペインとの戦いで戦死。中世ローマ最大の破壊者とされる一方、マキャヴェッリの「君主論」では理想的な君主とされた。
カテリーナ・スフォルツァ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
57 | 69 | 64 | 16 | 4 | 威圧・怒髪・親蛮 | C | B | B | C | C | C | 1463 | 1509 | 猪突 | 維持・短 |
【カテリーナ・スフォルツァ】
中世イタリアの女傑。「卡特琳娜」「斯福爾札」
スフォルツア家で生まれ、11歳でジローラモ伯爵と結婚。子をもうけるが
ジローラモはローマへ対して反乱を起こしたのち、1488年に反乱を起こされ暗殺された。
その際自ら反乱軍に屈することなく援軍が来るまで抗戦し、反乱鎮圧に成功している。
以後、女性領主として旧ジローラモ領を支配し、のちに2人の男性と再婚した。
だが、最終的にチェーザレ・ボルジアの侵攻軍に敗れ、修道院に入れられた。
烈女として有名で、領民はおろか一族からも恐怖されたと言われている。
ロクセラーナ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
3 | 6 | 86 | 42 | 88 | 傾国・妖術・強運 | C | C | C | C | C | C | 1506 | 1558 | 冷静 | 維持・長 |
【ロクセラーナ】
オスマン帝国第10代皇帝であったスレイマン1世の后。「ヒュッレム」「ハルサク」「许蕾姆苏丹」とも。
出身はポーランドの司祭の出とも、ロシアの出とも言われており、当初は「アレクサンドラ・リソフスカ」と名乗っていたという。
タタール人によって捕らえられ、女性の奴隷としてイスタンブールで売り出されていたところを、
オスマン帝国の大宰相であったイブラヒムの手で購入され、スレイマン1世へと献上された。
その後、スレイマン1世の寵愛を受ける傍ら、宮中で謀略を駆使して他の側室たちを皇帝から遠ざけるように差配。
またオスマン帝国の慣習を破って后となった後に5人の男子を産み、自らの子を皇帝の座につけるべく暗躍したと言われている。
晩年は娘を大宰相に嫁がせるなど莫大な権力を保持しており、のちの女人天下の基礎を築いた。
後世の英語圏では、彼女を「悪女」「魔女」の代名詞的存在として扱ったと言われる。
近世( ~フランス革命、諸説あり)
※フランス革命・ナポレオン戦争も参照
ウィリアム・アダムス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
60 | 83 | 65 | 21 | 81 | 造船・発明・操舵 | C | C | A | C | C | S | 1564 | 1620 | 剛胆 | 維持・長 |
【ウィリアム・アダムス】
近世イギリス海軍の軍人。和名「三浦按針」として有名。
若年の頃からイギリス海軍に所属し、アルマダの海戦に従軍してスペイン艦隊と戦った。
のち、ロッテルダムからの航海艦隊に志願し、極東への航海を目指したが失敗。日本豊前に漂着し
太田一吉に捕縛された。その後、当時豊臣政権の五大老であった徳川家康のもとへ引き渡されたが、
家康は彼らの言い分を聞き釈放。以後自分の手元において重用した。アダムスも日本で家族を作り、
造船や外国使者との交渉を任されている。何度か帰国を考えたこともあったが時期を逸してしまい、
そのまま日本で没した。死後は日本でもうけた息子がその後を継いだ。
ヤン・カロル・ホトキェヴィチ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 87 | 83 | 76 | 81 | 連戦・勇将・騎将 | S | A | S | A | C | C | 1560 | 1621 |
【ヤン・カロル・ホトキェヴィチ】
ポーランド・リトアニア共和国の軍人。「扬·卡罗尔·霍德凯维奇」。
インゴルシュタット大学に留学し、帰国してすぐ部隊長としてコサック鎮圧に参戦し経験を積む。
モルダヴィア・マグナート戦争で活躍し、1600年にヘトマンに任じられリトアニア軍のナンバー2となる。
翌年のスウェーデン・ポーランド戦争では連戦連勝を重ね、1605年のキルホルムの戦いでは3倍のスウェーデン軍に完勝し名声を不動のものにする。
その後もスウェーデン軍を破り続け、ロシア・ポーランド戦争でも勝ち続けるが戦略的に良い結果は得られなかった。
1621年にオスマン・トルコ軍20万が襲来し、ホトキェヴィチはホトィン要塞に籠城し1ヶ月に渡り耐え続けるが病没する。
マウリッツ・ファン・ナッサウ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
100 | 87 | 85 | 63 | 58 | 工神・発明・攻城 | C | C | S | S | S | A | 1567 | 1625 | 剛胆 | 維持・長 |
【マウリッツ・ファン・ナッサウ】
近世オランダの軍人。オランダ総督、オラニエ公。「的面包车拿骚」
1567年にドイツで生まれ、父が暗殺されると1584年にゼーランド州総督となり、
そのままオランダを率いる立場についた。スペイン国王であるフェリペ2世がフランスとの
戦闘に入ると、スペインに宣戦布告してオランダ領回復を掲げて決起。快進撃を続けてオランダ領の
地位を固めた。その後はローマ戦史による戦術考案を重ね、独自の教練を重ねて軍事改革を成功させて
近代的軍隊を創設。スペインとの八十年戦争を優位に進めるが、決着を見ることなく1625年病死。
※ 軍事革命の祖とも言われ、三兵戦術の基礎を築いた。彼の考案した教練はヨーロッパ各国に伝播する。特に兵士の軍事行動をマニュアル化した方法は現代にも生かされている。
※その他候補となった特技:強行
アンブロジオ・スピノラ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 86 | 93 | 55 | 82 | C | C | S | A | S | A | 攻城・連戦・富豪 | 1569 | 1630 |
【アンブロジオ・スピノラ】
近世スペインの軍人。「安柏吉奧·斯皮諾拉」。
銀行家の出身だが、1602年にスペインの傭兵としてフランドルへ向かう。
翌年オーステンデ包囲戦の指揮を任され、その翌年にこれを陥落させる。
その後はフェリペ三世の下フランドルを転戦し、マウリッツ・フォン・ナッサウとも互角の攻防を繰り広げる。
三十年戦争ではライン峡谷を占領する大功を挙げ、プレダ攻城戦で名を轟かす。
しかしスペイン内の政争等で次第に立場が不利になり、全ての財産を失い失意の内に没した。
ヨーロッパ中にその名を轟かせた攻城戦の名人として知られる。
グスタフ・アドルフ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
91 | 78 | 96 | 95 | 97 | 眼力・築城・名声 | B | B | A | S | C | S | 1594 | 1632 | 剛胆 | 維持・短 |
【グスタフ・アドルフ】
スウェーデン王国ヴァーサ朝の王。「北方の獅子」と呼ばれた。グスタフ2世アドルフ、「古斯塔夫二世」「阿道夫」。
9歳から公務につき、父の死によって17歳で即位した。バルト海の制海権を巡り、諸外国と争う。
当初は外交戦略と軍事改革で優勢を進めるも、ポーランドの最高司令官であったスタニスワフに幾度となく苦戦。
惨敗を繰り返しあわや命を落とすところを九死に一生を得ている。それでも兵力差をなんとか覆し、
当初よりの外交戦略で敵を抱き込み、譲歩させることに成功。その後三十年戦争に介入、
神聖ローマ帝国と戦い優勢に進めるが、リュッツェンの戦いで戦死した。強度の近眼が災いしたという。
生前施した様々な制度改革はスウェーデン王国の礎となり、スウェーデン隆盛の祖となった。
ジョージ・マンク
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 83 | 75 | 68 | 70 | 推進・水将・護衛 | B | C | A | S | A | S | 1608 | 1670 |
【ジョージ・マンク】
近世イギリスの軍人。「乔治·曼克」。初代アルベマール公爵。
スペインのカディス遠征で初陣を飾り、八十年戦争では若くしてその統率力を賞賛される。1637年のブレダ包囲戦でも活躍した。
イングランドで相次ぐ反乱鎮圧に従事し、清教徒革命では最初王党派だったが後に議会派に鞍替えする。
その後王に代わり権力を握ったクロムウェルに従い、ダンバーの戦いやで力戦する。
第一次英蘭戦争では重傷を負ったロバート・ブレイクに代わり司令官を務め、名将トロンプをガッバード海戦とスヘフェニンゲン海戦で破り戦死させる。
戦後は王政復古に尽力し、その後もオランダとの戦線に立ち続け1670年病没。
テュレンヌ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
100 | 88 | 65 | 47 | 99 | 洞察・強行・急襲 | S | B | S | S | C | B | 1611 | 1675 | 剛胆 | 晩成・長or開眼 |
【テュレンヌ】
フランス王国の将軍、元帥。フランス史上6人しかいない大元帥の1人。「蒂雷纳」。
貴族の子として生まれたが、生来虚弱体質であった。父の死後奮起して根治し、以後
軍隊で活躍する。はじめオランダ軍に入り、マウリッツの指揮下で戦争を学んだが、
母の懇願によりフランス軍に入り、ルイ13世、ルイ14世に仕える。三十年戦争に従軍して
ネーデルランド、イタリアで功績を立て、様々な司令官から戦争を学んだ。のち
アンギャン公の指揮下に入り、彼が病によって離脱した後は司令官としてバイエルンを駆逐、勝利を収める。
フロンドの乱の後、スペイン戦役では王家と対立したそのアンギャン公と戦い戦局を優位に進め、
フランスのヨーロッパにおける覇権を確立した。オランダ侵略戦争でもオーストリア、スペイン、
ローマ帝国相手に優勢であったが、ザスバッハの戦いで流れ弾にあたり戦死。
※ 全名「テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ」。その死はフランス全土を嘆き悲しませたと言われる。ナポレオンをはじめ後世多くの人間の理想とされ、フランス革命の際も彼の墓にだけは敬意を払った。
ルイ2世・ド・ブルボン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
89 | 99 | 62 | 57 | 98 | 覇王・名声・威風 | A | B | S | S | A | B | 1621 | 1686 | 剛胆 | 早熟・長or維持・長 |
【ルイニセイ・ド・ブルボン】
フランス王国の王族、将軍。コンデ公、アンギャン公、モンモランシー公。「路易ニ」
19歳で軍隊に身を投じ、天才的な軍略と破天荒な勇猛さでフランス中の尊崇を集める。
22歳の時にロクロワの戦いで劣勢の中スペイン軍を跳ね返し、この時右翼の指揮を取って敵を
敗走させた後、中央突貫して反対側の敵に挑みかかり、これも敗走させ中央の軍も降伏させたと言われている。
その後はドイツ、バイエルン方面の司令官として連戦連勝を飾り、三十年戦争におけるフランス勝利を決定づける。
しかし、その類稀な名声を危険視され、ルイ13世死後、即位したルイ14世の側近と対立。フロンドの乱を起こして
フランスを内乱に陥れるが、かつての部下テュレンヌに阻まれた。その後客将としてスペインに入り、フランススペイン戦争で
またもテュレンヌと戦う。獅子奮迅の活躍を見せるが、戦略的に友軍のスペイン軍が劣勢となり、最終的に自身もテュレンヌ率いるフランス・イングランド連合軍に敗れる。
ピレネー条約で許されフランス軍に帰参し、オランダ侵略戦争にも従軍。テュレンヌ戦死後の軍をまとめ犠牲を最小限に抑えたが、同年隠棲した。
※ 出自や軍歴から、フランス屈指の人気を誇った。同僚でもありライバルでもあるテュレンヌ子爵とは、その対照的さでしばしば話題となる。
ルイ14世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
67 | 42 | 69 | 81 | 75 | 威圧・眼力・名声 | C | C | B | C | B | B | 1638 | 1715 | 剛胆 | 早熟・短 |
【ルイジュウヨンセイ】
フランス王国ブルボン朝の王。「路易十四」。「太陽王」の異名を取る。
父王の死後5歳で国王となる。宰相マゼラン、ティレンヌ子爵、コンデ公ルイ2世ら優秀な人材に支えられ、
マゼランの死後1661年に親政を実施。「盟主政策」と呼ばれるフランス中心のヨーロッパ体制構築を掲げ、
ネーデルランドやスペインなど他国への侵略戦争を実行。これに勝利して国際的威信を高め、同時にストラスブールを占領した。
1680年には多額の資金を投入してヴェルサイユ宮殿を造営し、王権神授説を標榜して絶対主義を推し進めるなど
国王専制体制を極め、王朝最盛期を謳歌した。しかし晩年はスペイン継承戦争や大同盟戦争の泥沼化による
莫大な戦費投入で財政破綻寸前まで落ち込み、重税を課してフランス国民を苦しめたという。
※ その治世における負の遺産はフランス革命の遠因となった。葬儀の際、国民はこぞって罵声を投げかけたと伝わっている。革命後にルイ14世は暴君の象徴とされたが、一方その治世を「大世紀」と讃える思想家もいるなど、毀誉褒貶が激しい。
アイザック・ニュートン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
12 | 4 | 100 | 100 | 53 | 神算・発明・洞察 | C | C | C | C | C | C | 1643 | 1727 | 冷静 | 維持・長 |
【アイザック・ニュートン】
イギリスの天文学者、自然哲学者、物理学者、数学者。「艾萨克·牛顿」。
イングランドの一寒村に生まれ、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで学ぶ。
1665年から1666年の間ペストの流行から逃れるために18ヵ月間の休暇を取る。
休暇の間に万有引力や微分積分の着想を得、この休暇間は「創造的休暇」と呼ばれる。
その後はケンブリッジ大学の教授となり、様々な業績を残し自然哲学者として初の「ナイト」の称号を得た。
※彼の業績は多方面に渡り、後世に近代科学の礎を作ったと評される。天体物理学者のマイケル・ハートは彼の歴史への影響力をムハンマドやキリスト、ブッダに並ぶと評した。
ゴットフリート・ライプニッツ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 40 | 99 | 84 | 100 | 神算 | C | C | C | C | C | C | 1646 | 1716 |
【ゴットフリート・ライプニッツ】
ライプニッツは多種多様な分野で多大な功績を残したため万能の人とも呼ばれる。
また彼が発見・発明したものとは別に特出させるべき功績がある。
それは17世紀当時の細分化されたあらゆる学問を一度統一し体系化させたことにある。
法学・政治学・歴史学・神学・哲学・数学・経済学・自然哲学・物理学・論理学等などあらゆる分野にわたり、
さらにその後法典改革、モナド論を唱え、微積分法、画期的だった数々の数学記号の考案、論理計算の創始、
さらにベルリン科学アカデミーを創設するなど後に与えた影響は計り知れない。
カール12世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
95 | 99 | 68 | 52 | 93 | 覇王・洞察・仁政 | A | B | S | S | A | B | 1682 | 1718 | 冷静or剛胆 | 維持・長 |
【カールジュウニセイ】
スウェーデン王国プファルツ朝の王。「北方のアレクサンドロス」、日本では「北方の流星王」と呼ばれる。「卡尔十二」。
幼少期から剛毅な性格として知られ、11歳で「熊殺し」の異名をとった。父王の死後15歳で家督を継ぎ、
イギリス・オランダの後援を得て大北方戦争を起こした。数倍以上の北方同盟軍に対して連戦連勝を
重ね、多くの諸国を下した。またロシアに対してもナルヴァの戦いでピョートル大帝率いるロシア軍を破った。
しかし、大規模な軍制改革を敷いたロシアを封殺することができず、ロシア遠征では焦土作戦と冬将軍で疲弊した。
その後、ポルタヴァの戦いでは負傷のため指揮を取ることができず、ピョートル大帝の采配に敗れて敗走した。
以後はオスマン帝国やイギリスを味方に引き込み、外交交渉を視野に入れつつ戦争継続を実行したが、1718年行軍中に狙撃され戦死。
補足:圧倒的なカリスマ性を持ち、圧倒的劣勢であっても民の忠誠心は高く神がかり的な采配を見せた。彼の死によってスウェーデン帝国は以後没落の一途をたどる。
のちにフランス皇帝ナポレオンがロシア戦役で敗れた際「彼と同じ道を辿りたくない」と漏らしている。
ピョートル1世
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
83 | 97 | 81 | 100 | 89 | 覇王・名声・徴税 | B | B | S | S | S | S | 1672 | 1725 | 剛胆 | 維持・長or早熟・長 |
【ピョートルイッセイ】
ロシア帝国の初代皇帝。ロシア近代化の祖と言われる。「ピョートル大帝」「彼得大帝」。
父や異母兄の死後、総主教に擁立されて即位するが、実権は母が握っていた。母の死後親政を行い、
大規模な海軍創設と軍事改革を行う。大北方戦争では当初カール12世に敗れるも、スウェーデンが
他国の戦争に忙殺されている間に大規模な軍備増強と徴兵制を導入し、西欧式の訓練や連隊を導入。
一方で行政改革や官営工場増設も数多く行い、その度に起きる反乱も常時鎮圧してロシアを西欧列強へと導いた。
その後は圧倒的な物量と西欧列強に対抗できる軍事力を武器に勢力を一気に拡大、数多くの領土を支配下に入れた。
新都への遷都も行ったが、晩年は後継者問題などに悩まされ、1725年に病没。
※その他候補となった特技:徴収・威圧・強行・発明・造船
アン・ボニー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
33 | 86 | 21 | 19 | 88 | 射手・推進・怒髪 | C | C | A | C | C | S | 1700 | 1782? | メアリ・リード | 剛胆 | 維持・長 |
【アン・ボニー】
近世ヨーロッパの女性。アイルランド出身。女海賊として名高い。「安妮·伯妮」。
アイルランドの弁護士の子として生まれる。母は妾で、不義密通の関係であったため、
父親は彼女と彼女の母を連れてアメリカに移り住んだと言われている。
生来気が強かった彼女は、父の元を飛び出して海賊となり、各地の海賊のもとを巡った末に
ジョン・ラカムと出会い、子を授かった。その後メアリ・リードらと出会い仲を深めるが、
イギリス海軍に捕捉され、抵抗するも衆寡敵せず捕えられた。妊娠中であったため、
他の海賊達とは異なり死刑は延期されたが、その後の消息はわかっていない。
メアリ・リード
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
31 | 86 | 25 | 17 | 88 | 猛者・操舵・不屈 | A | C | C | C | C | S | 1685? | 1721 | アン・ボニー | 剛胆 | 維持・長 |
【メアリ・リード】
近世ヨーロッパの女性。イギリス、ロンドンの出身。女海賊として名高い。「瑪莉·瑞德」
ロンドン周辺の船乗りの子として生まれる。当初は一般家庭で育ったが、
夫や近親者と早くに死別、別離し、西インド諸島に向けての帆船に乗船していたところを
ジョン・ラカムらに襲撃され、そのままなし崩し的に一味となる。当初は男装しており、
女性であることを隠していたが、アン・ボニーとの仲から女性であることを打ち明け、船員と結婚もしている。
イギリス海軍に捕捉された際はボニーと2人で獅子奮迅の働きを見せたが捕えられた。妊娠中であったため、
他の海賊達とは異なり死刑は延期されたが、翌年春に熱病で獄死。
レオンハルト・オイラー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
60 | 31 | 100 | 75 | 100 | 神算 | C | C | C | C | C | C | 1703 | 1783 |
【レオンハルト・オイラー】
ジョゼフ=ルイ・ラグランジュと並ぶ18世紀最高の数学者、物理学者、天文学者。
当時親はオイラーを牧師にさせたいと考えていたが、14歳の時にヨハン・ベルヌーイの講義を見たことで数学に魅了され数学の道に歩むことになった。
その後オイラーは熱心に数学を学ぶが勉強のしすぎにより1738年に右目を失明するなど大変だった。
だがオイラーはその後、人類史上最も多くのことを発見し、その後の科学の歴史に甚大な影十分な業績を示している。
エミリー・デュ・シャトレ
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
2 | 10 | 100 | 17 | 90 | 指導・論客・楽奏 | C | C | C | C | C | C | 1706 | 1749 | 冷静 | 維持・長 |
【エミリー・デュ・シャトレ】
近世フランスの女性物理学者、数学者。女性科学者のさきがけとも言われる。「沙特萊」
ルイ・ニコラ・ル・トノリエ・ド・ブルトゥイユの娘として生誕。若年の頃より語学堪能で、また活動的でもあった。
政略結婚でシャトレ公爵の夫人となり、子供を産んだが、別居生活をきりだして貴族社会に身を置いた。
その後は多くの男性を愛人にする傍ら、ニュートン理論や幾何学の勉学に励み、
ニュートンの著書「自然哲学の数学的諸原理」を翻訳した。またエネルギー保存の法則の
さきがけとなる見解を打ち出し、表式を生み出した。のち4人目の愛人と出合った後に子を身ごもり、出産直後しばらくして亡くなった。
フリードリヒ大王
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 嫌悪 | 性格 | 素質 |
90 | 81 | 99 | 95 | 98 | 強運・楽奏・論客 | B | S | S | A | B | B | 1712 | 1786 | ブリュッヘル | 冷静 | 維持・長 |
【フリードリヒダイオウ】
近世プロイセンの王。フリードリヒ2世、「腓特烈」。
武人肌の父王フリードリヒ1世と芸術肌の母ゾフィー妃の間に生まれた。
いささかの不和もあったが、父王が死去すると後継者として王に即位する。
オーストリア継承戦争ではヨーロッパ大国相手に抜群の戦果をあげ、プロイセンを強国へと押し上げた。
のち、継承戦争で対立したマリア・テレジアやロシア・フランス、そしてスウェーデンを加えた
七年戦争が開始されると、圧倒的不利の状況の中奮戦し続け、戦争と外交で状況を覆し、
オーストリア及び反プロイセン軍から大勝する。晩年は犬を愛し、飼い犬とともに暮らした。
ジャガイモの栽培から哲学の研究まで行い、現代ドイツの祖として讃えられている。
※その他候補となった特技:遁走
カール・フリードリヒ・ガウス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
22 | 14 | 100 | 78 | 100 | 神算・発明・指導 | C | C | C | C | C | C | 1777 | 1855 |
【カール・フリードリヒ・ガウス】
ドイツの数学者、天文学者、物理学者。「卡爾·弗里德里希·高斯」
子供の頃から神童ぶりを発揮し、ゲッティンゲン大学に進む。
数学においては正十七角形の作図方法を発見し、素数の定理を発見する。
物理学においては電磁気学について多くの貢献を行い、電信装置を開発した。
彼の名にちなんだ定理や法則は非常に多く、19世紀最大の数学者と呼ばれる。1855年病没。
オリバー・クロムウェル
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 89 | 91 | 84 | 91 | 虚実 | S | A | S | S | A | S | 1777 | 1855 |
【オリバー・クロムウェル】
オリバー・クロムウェルは、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。
清教徒革命(イングランド内戦)では鉄騎隊を指揮してエッジヒルの戦いやマーストン・ムーアの戦いで活躍し、ニューモデル軍(新模範軍)の副司令官となる。ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。護国卿時代には独裁体制をしいた。 アイスランドとスコットランドを併合した。
近代( ~ドイツ再統一、諸説あり)
カール・マルクス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
22 | 8 | 100 | 86 | 34 | 仁政・風水・屯田 | C | C | C | C | C | C | 1818 | 1883 | エンゲルス | 冷静 | 維持・長 |
【カール・マルクス】
プロイセン出身の哲学者、経済学者。思想家でもある。「卡尔·马克思」。
もとは大学教授や新聞社で勤務していたが、プロイセンからの亡命前後から思想・哲学・経済研究に明け暮れた。
後に生涯の友と言われるエンゲルスと交流を持ち、ヘーゲル哲学を研究し続けて
「経済学批判」、「資本論」を著す。のちに自らの思想を創りだしてマルクス主義と呼ばれる
社会主義、共産主義の源流を生み出した。死後社会主義、共産主義各国から神のように崇められたが、
生前はルイ・ナポレオンへの批判やビスマルク派との抗争などもあり、エンゲルスの支援に頼るほどの不遇であった。
フリードリヒ・エンゲルス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 親愛 | 性格 | 素質 |
78 | 36 | 85 | 100 | 88 | 富豪・米道・論客 | C | C | C | C | C | C | 1820 | 1895 | マルクス | 冷静 | 維持・長 |
【フリードリヒ・エンゲルス】
ドイツ出身の思想家、実業家。軍事研究家でもある。「弗里德里希·恩格斯」
工場を経営するかたわら、マルクスを始めとする経済学者らとの交流を深めた。
弁舌家、軍事研究家としても知られ、マンチェスターの将軍と言われるほど軍事研究で
高い評価も受けていたと言われる。マルクスの生活を支援しつつ、自らも「国民経済学批判大綱」を発表。
マルクスの死後はその遺産である著書を完成させるべく奔走、「資本論」を編集して世に送り出した。
カール・マルクスを公私共に支え、その快活な人柄は後世へ社会主義を広める要因ともなった。
マックス・ヴェーバー
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
7 | 4 | 98 | 100 | 78 | 風水・仁政・威圧 | C | C | C | C | C | C | 1864 | 1920 | 冷静 | 維持・長 |
【マックス・ヴェーバー】
ドイツの社会学者、経済学者。宗教にも明るい。「马克斯·韦伯」
政治家の子供として生まれ、12歳の時に『君主論』を読み解き、15歳で民族史の論文を手掛ける。
その後ベルリン大学などで勉学に励み、30歳にして大学の経済学正教授として招聘された。
古代ユダヤ教にはじまり、仏教、ヒンドゥー教、儒教などを研究する傍ら、
資本主義や支配の三類型などを定義し、「合理主義」の概念を生み出した。
カール・マルクスと並ぶ社会学の黎明期を作った人物として名高い。
アーネスト・ラザフォード
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
12 | 10 | 99 | 86 | 91 | 発明・指導・仁政 | C | C | C | C | C | C | 1871 | 1937 | 冷静 | 維持・長 |
【アーネスト・ラザフォード】
イギリスの物理学者、化学者。ニュージーランド出身。「欧内斯特·卢瑟福」。
ニュージーランド大学に入学した後、ケンブリッジ大学に研究奨学生として入学する。
1898年にウランからα線とβ線が出ていることを発見し、その翌年にはα線とβ線の分離に成功する。
ポール・ヴィラールの発見した「透過性が高く電荷を持たない放射線」が電磁波であることを証明し、γ線と名付けた。
1908年には「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノーベル化学賞を受賞した。
1911年に原子核を発見し、1919年に原子核の人工変換に成功した。1937年死没。温厚な人柄で知られた。
ジョン・フォン・ノイマン
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
62 | 45 | 100 | 54 | 100 | 神算 | C | C | C | C | A | C | 1903 | 1957 |
【ジョン・フォン・ノイマン】
20世紀科学史における最重要人物の一人。
数学・物理学・工学・経済学・計算機科学・気象学・心理学・政治学に甚大な影響を与えた。
第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる。彼の功績は計り知れない。
特に科学・数学の分野で彼が発見し組み立てた数多の理論は現在の科学の基礎となっている。
また古の例と比べてみても異常なほどの計算能力を持ち、その計算能力の凄まじさを物語った逸話や噂が大量にある。
ダイアナ・フランセス
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 | 性格 | 素質 |
17 | 22 | 59 | 66 | 98 | 仁政・風水・楽奏 | C | C | C | C | C | C | 1961 | 1997 | 剛胆 | 維持・長 |
【ダイアナ・フランセス】
イギリスの名門令嬢。のちイギリス王妃。「戴安娜」。
スペンサー伯爵家の娘として生まれ、幼い頃から活発であったという。
その後1981年にイギリス皇太子であったチャールズと結婚し2人の息子をもうける。
しかし価値観のすれ違いから1995年に別居、翌年に離婚した。離婚後は慈善活動に
力を注いでいたが、1997年に交通事故で世を去った。自由を愛したその独特の振る舞いは
祖国イギリスのみならず、世界中でダイアナフィーバーを巻き起こしたとされる。