第1章 木の日記
序章
ある日、光が降り注いだ。
それ以前の記憶はあるけれど、特別な意味はなかった。ただそこに存在し続けるだけの日々の連なりに過ぎなかったからだ。
私は自然に生き、それを当たり前のことと思っていた。ただそれだけで、記憶に残るほどの価値はなかった。
しかし、そこで「あなた」と出会った。
降り注ぐ光の中に、あなたは現れた。
これまで当たり前だった私の生活に、あなたは初めて不思議な存在となった。
だからこそ、こうして記録を残す。
あなたが色あせず、私が変わらないように。
これは、あなたと私の物語だ。
第1巻 第1章
最初は楽しかった。
いつからかはわからないが、私は自然に存在していた。はっきりと思考できるようになった頃、この世界に自分ひとりしかいないことに気づいた。
私はとても大きな木だった。何もない世界に、ただ一人そびえ立っていた。
だから私は木を生み出した。花を咲かせた。
成長した草花が野原を覆い、木々はやがて森を成した。
日々成長していく森を眺めるのは、本当に楽しいことだった。
私の意図どおりに咲き誇る色とりどりの花を見るのが嬉しかったし、まったく予想していなかった形の葉をつける木が育つのを見るのもまた楽しかった。
森は私のすべてだった。
言い換えれば、私には森しかなかった。
できることは森を育むことだけで、どれほど試しても森の外へは出られなかった。新しい命を生んだり、姿を変えたりできるのは森の中だけだった。
どんなに楽しいことでも永遠ではない。繰り返される日常はやがて退屈になり、特別なことのない暮らしはつまらなくなる。
私は次第に飽きていった。
そして、次第に森の手入れもしなくなった。
それでも植物は、自ら降り注ぐ雨や陽光を栄養にして育っていった。
手を放していて問題がないのなら、わざわざ手を加える必要はない。どうせ森を育てること以外にできることはなく、もうやり尽くしてしまったのだから、やりたいとも思わなかった。
だから、何もしなかった。
ただぼんやりと、何の考えもせずに時間だけを浪費した。
どれほど長い間そうしていたのか、思い出せない。
どうせ意味のない時間だったのだから。
第1巻 第1章
突如として轟く音とともに、光が閃いた。
いつもどおり空を見つめていたときのことだった。だが、まるで稲妻のように白い柱が地面に突き刺さった。
初めて見る光の柱に私は驚いた。同時に、ものすごい好奇心が湧いた。変わり映えのしない日々に飽き飽きしていた私にとって、その見慣れぬ光はまさに神秘そのものだった。
――シャアア――
しかし、光の柱は現れたときと同じく一瞬で消え去った。せっかくの気分だったのに、すぐにしょんぼりしてしまった。ようやくこの退屈な時間が終わるかと期待していたのに。
呆然と光の消えた場所を見つめていると、そこで何かを見つけて私はまた胸を高鳴らせた。
光の消えたその場所に、あなたが立っていた。
あの瞬間の気持ちをどう表現すればいいのだろう。
今では言葉も覚え、感情も知ったが、まだ当時の心境を適切に表す自信はない。
私は好奇心に駆られて、あなたを観察した。
その姿は本当に奇妙だった。
全体的に細長く、後ろ足だけで立っている。前脚と後脚で形が異なり、胴体も縦に長い。しかし首はそれほど長くなく、頭と胴との間隔は狭かった。
皮膚も変わっていて、顔と胴では色が違った。それが肌ではなく衣服だと知ったのは後のことだ。
ともかく、あなたは森のどの植物や動物にも似ていなかった。
「■■? ■■ ■■?」
そのとき、あなたは初めて聞く音を発した。声を出すこと自体が珍しくて、私はただひたすらあなたの一挙手一投足を見守った。
最初は現れたままの姿勢でじっと座っていた。それから立ち上がり、周囲を歩き回って木を軽く叩いたり、葉を摘んで調べたりもした。
しばらく動き回った後、また座り込んだ。飽きたのか、疲れたのかはわからない。あなたはただ座って空を見つめていた。
「■■…… ■■■■……」
再び意味不明な奇妙な声を上げた。何か意味があるのか分からず、私はさらに集中してあなたを見つめた。そのときは、あなたのすべてがただただ不思議だった。
長い間見守っているうちに、また別の感情が芽生えた。あなたと直接話してみたいと思ったのだ。
あなたの声は単なる鳴き声には感じられなかった。まるで相手に思考を伝えようとする声のようだった。私の森には今まで、そういう存在はいなかった。私だけがそうだった。
対等に会話できる存在など、これまで一度も考えたことがなかった。
「■、■■■…… ■■ ■■■……」
そのとき、あなたは自分の腹を撫でながら力ない声を漏らした。その声を聞いて、私は心を決め、勇気を振り絞って挨拶した。
「……。」
何の反応もなかった。
間違っていたのかと再度挨拶してみても無視された。何度か試みても結果は同じだった。
しばらくして私は悟った。問題はあなたではなく、私にあったのだ。
私は普段、本体である大木に宿っている。時には意識を放って精神体のまま森を巡ることもある。森の住人たちは、精神体の私を認識できなかった。あなたも同じだった。
その事実に気づいて、私はあなたに似た形で実体化した。できるだけ似た声も出せるようにした。
こうすれば、せめて挨拶くらいは通じるはずだった。
――パチン!
石を投げるのが挨拶の仕方だろうか?
投げられた石を受けて頭を手で撫でながら、私はぼんやりと見つめた。痛覚がないので痛みはなかった。ただ、起こった事態が理解できなかった。
私はただ挨拶したかっただけだ。驚かせたくなくて、見た目も似せたのに。
それなのに、石を投げられた。
その瞬間、涙が溢れ出た。悔しかった。それまでは悔しさという感情さえ知らず、涙の存在も知らなかったが、人間に似た体を得たせいか、両目から涙がこぼれた。
「……!」
私はそのまま嗚咽した。恥ずかしいとか隠そうという気持ちもなく、声を上げて泣き崩れた。
その私の様子に、あなたは大いに戸惑った。しばらくの間、逡巡した後、そっと近づいてきて言った。
「ご、ごめんね」
ただの音としてしか認識できなかったあなたの言葉が、はじめてはっきりと響いた。いつの間にか泣き止んでいた私の胸から、悔しかった感情は跡形もなく消えた。その代わりに、最初からあった旺盛な好奇心が再び湧き上がった。
あなたの言葉が何を意味するのかは分からなかったが、私は同じように繰り返した。
「ご、ごめんね?」
「うん、ごめんね」
「うん、ごめん……?」
「ごめんね」
「ごめんね? ごめん……? ね? ごめんね?」
「……うん?」
私は「ごめん」と「ごめんね」の違いがわからなかった。「ね」をどう付ければいいのか悩んだ。そんな私を不思議そうに、あなたは首をかしげた。
「ふっ! ふふふっ!」
すると、あなたは思わず短い笑い声をあげた。
手で口元を押さえ、声を潜めて笑う。その後、石が当たった私の頭をそっと撫でてくれた。不思議と暖かいぬくもりだった。
そのぬくもりと笑い声に、私は心を奪われた。
「ふふっ…… ふっ、ふふ」
私はぎこちなく空気を抜くような音を立てた。あなたの笑いを真似しているうちに、自然と楽しい気持ちになった。
私は笑った。すると、あなたも再び笑った。今度は声を押し殺した小さな笑いではなく、まるで大声で笑っているかのようにはっきりとした笑い声だった。何も分からないまま、私もつられて笑った。
森中に笑い声が満ちあふれた。
あなたとの初めての出会いは、私に「笑い」をもたらした。
――今でも、たまに投げられた石が当たった頭がうずくけれど。
第1巻 第2章
「君の名前は何?」
私は言葉をまったく知らなかった。意思疎通ができないため、あなたはたびたび歯がゆそうにして、それで私はあなたから言葉を教わった。
ごく基本的な言葉を覚えたころ、あなたはそう尋ねた。
「……?」
「な、名前。名前のことだよ」
「名前?」
それまで私は、あなたの言葉をただ真似する習慣がついていた。あなたが話すのが不思議で、とにかく後をついて真似しているうちに癖になってしまったのだ。
私が質問の意味を理解していないと思ったらしい。あなたはもう一度言った。
「ずっと“あいつ”だとか“あなた”だとか呼ぶのも不便だろう? 私の名前は“エリン”だよ」
「エリン?」
「エ・リ・ン。“えりん”じゃなくて、“あい”って読むんだ」
「え、え? “えりん”? “あい”? “い”?」
「……説明しても無駄か。まあ、どうでもいいよ。とにかく“エリン”でいいや。外国っぽくて、楽園みたいな響きで好きだし」
「エリン、エリン、エリン」
私は“エリン”をひたすら呟いた。なぜか心地よい響きだった。
「え、え、え……それで君の名前は?」
あなたは繰り返し尋ねたが、私は自分の名前の意味を知らなかった。あなたが何を求めているのかも分からず、ただ心地よい音として“エリン”を繰り返すだけだった。
「名前? エリン」
「エリンは私の名前がエリンで……まさか君、自分の名前を知らないの?」
ようやくあなたは事の重大さに気づいたらしく、眉をひそめ、額にしわを寄せた。何かが気に入らないようだった。
その反応を見て、私は何か失礼な答えをしてしまったのではないかと不安になった。また石を投げられるのではと恐れたが、あなたは突然、人差し指をぴんと立てた。
「ソ・ナ・ム」
「……?」
幸いにも、その指が私を突くことはなく、近くの木を指していた。とがった葉を持つ木だった。
あなたはもう一度言った。
「ソ・ナ・ム」
「ソナム?」
「そうだ、よくできたね」
次に、足元の花を指さした。赤やピンクを帯びた、松ぼっくりほどの花だった。
「コ・ス・モ・ス」
「コスモス」
私は意味も分からず、あなたの言葉を真似た。正しく発音するたびに、あなたは褒めてくれた。
それを数回繰り返した後、あなたはまた自分自身を指さした。
「エ・リ・ン」
「エリン!」
私はようやく、“エリン”というあなたの名前の意味を理解した。その嬉しさから思わず大声で名前を呼んだ。それを見たあなたはくすくすと笑った。
私も真似して笑おうとしたが、ふとした思いが頭をよぎり、笑いの代わりにぽかんとした声が洩れた。
「僕の名前……?」
――僕には名前がなかった。
あなたが指さした森のすべてのものには名前がついていた。なのに、私だけ名前がなかった。
私はうつむき、地面だけを見つめた。胸が重く沈んだ。そのとき、あなたの心配そうな声が耳に届いた。
「もしかして名前を知らない……いや、違うよね。これまで名前がなかったってこと?」
「……」
言葉を漏らすのが嫌で、私は小さくうなずくだけだった。認めたくはなかったが、事実には抗えなかった。
そのとき、私の目の前に突然、小枝が現れた。
「なければ私がつけてあげようか?」
小枝を手に取るように差し出し、あなたは腕を伝って私の顔を覗き込み、安心させるように穏やかに微笑んでいた。
その笑顔に、私は思わずうなずいた。
――サッサッ。
小枝が地面を走り、あなたは見慣れない何かを描きながらつぶやいた。
「よし! ならば……木だから“ライムオレンジ”? いや、ちょっと違うかな。じゃあ何がいいかな……?」
土の上に小枝で何度も線を引いては消し、ついに一つの単語が完成した。
ELDER
描かれたものが絵ではなく文字であると知ったのは後のことで、私は意味のわからないその図形をただじっと見つめた。
しかし、あなたはその文字に満足していない様子だった。
「ちょっとありきたりかな? なんだか古ぼけた感じもするし……」
そう言うと、小枝で描いた文字をなぞるように削り始め、誤って四文字目の「E」だけが消えてしまった。
ELD’R
「ん? エルド……ル? お、いい響きじゃない? “エルドル”はどう、エルドル?」
「エルドル?」
「うん、エルドル。君の名前にしよう」
ソナムやコスモス、自分自身の名前を指さしたときのように、あなたは今度は私を指していた。
「エルドル!」
私は叫んだ。あなたの名前を呼んだとき以上の大声で、自分の名前を何度も何度も叫んだ。
「エルドル! エルドル! エルドル!」
「くすくす、そんなに気に入った?」
私はまだ名前について知らないことが多い。どうしてあなたが木や花の名前を知っていたのかもわからない。水の中に住む魚がみんな「フナ」と呼ばれる理由もわからない。まったく異なる形の木に同じ名前がついているのも不思議だ。
でも、それで十分だった。
私の名前は、エルドル。
第1巻 第3章
エリンとは違い、あなた──エリンは生活に必要なものが非常に多かった。
初めてエリンを見たとき、服を肌だと勘違いした。人間は服がないと体温を保てないのだという。
それだけでは終わらなかった。寒い日には火の暖が必要だ。エネルギーを得るには食べ物と水が必要で、しかも料理は火で焼くほうが多いという。
実に不便だと思った。エリン曰く、それが人間なのだと。
いずれにせよ、エリンがこの森で暮らすには多くのものが要った。だから私はエリンを助けることができ、それがきっかけとなった出来事がある。
「わあ、■■!」
エリンは手に持っていた細い木の枝を投げつけながら大声で叫んだ。初めて聞く言葉だったせいかよく聞き取れなかったが、なぜか恐ろしい感じがして私は身をすくめた。
エリンは投げた枝を拾い上げ、にらみつけた。
「なぜ出ないんだ? 漫画ではすぐにできてたのに」
エリンはまっすぐな棒を、さらに大きな丸太にこすりつけ続けた。私は何をしているのか理解できなかったが、ただ面白そうに眺めていた。
火起こしに成功したのは三日目のことだった。
「ああああっ!!! ■■!」
しかし、火は三分後に消え去った。火を起こすや否や、にわかに雨が降り出し、火を消してしまったのだ。
エリンは今までに聞いたことのない大声で叫びながら暴れ、燃え残った丸太を豪快に蹴り飛ばし、罪のない木を拳で激しく打ちのめした。
私はその光景を見て笑っていたら、久しぶりにまた石を投げられた。
震える私を見て、エリンは笑いながら小枝を差し出した。
「エルドル」
「ん?」
「やってみて」
「え……?」
「火を起こしてみて」
「う、うん……?」
エリンと過ごすうちに私は“空気を読む”という概念を覚えた。だから、少しでも間違えれば、さっきのようにエリンの拳が飛んでくることに気づいた。
「……。」
痛みはないが、悲しさが込み上げてくる。悲しいと涙が出るのだ。
私はできるだけ丁寧な態度で小枝を受け取った。しかし、エリンのようにこすり合わせはしなかった。
エリンの目的が火を起こすことなら、私にはずっと簡単な方法があった。
私は願うだけで叶う力を持っている。
先ほどの豪雨で消えた火がよみがえれと願うと、すぐに炎が立ち上った。
「お、お? ひ、火だ! 火だよ!!」
「エルドル、すごいよ。火を作ってみせて」
「きゃあああ! エルドル、最高! ミルキーウェイ、エルドル! 最高神、エルドル! 愛してる、エルドル!」
大歓声をあげながら、エリンはぎゅっと私を抱きしめた。突然の行動に私は木のように硬直したが、エリンは構わず跳ね回りながら抱きしめ続けた。
私は木の本体としてしばらく大地に根を張ったままだった。やっとエリンが落ち着くと、こう言った。
「魔法だ! 魔法だよ、エルドル! トリックなんかじゃないよね? 映画でしか見たことなかったのに、まさか自分の目で見る日が来るなんて。これ、うまく応用すれば元の世界の物まで……」
その先は独り言のように呟かれ、よく聞き取れなかった。
それよりも、エリンはこの力を「魔法」と呼んだ。エリンの世界にも、私の使う力と同じものが存在するらしい。本当にエリンは何でも知っている。
エリンの言葉どおり、この力を「魔法」と呼ぶことにした。
エリンはさらに薪を集め、焚き火を囲んで体を温めた。炎に照らされたエリンの顔がとろけるように柔らかくなった。
「エルドル、火以外にも何か作れる?」
「他のもの?」
「うーん、つまり……」
エリンは一生懸命にいろいろ説明した。動く絵が映る四角い箱や、遠く離れても声が届く不思議な道具など――。
他にもいくつか挙げたが、大半は私には理解不能だった。必死に聞いたものの、エリンが欲しがっている道具をまったく作れなかった。
楽しそうに喋っていたエリンは、結果にがっかりした様子だった。しかしすぐに立ち直り、複雑な道具の代わりにシンプルなものを口にした。暑いときに涼しい風が吹くとか、冷たい水が出るくらいのものだ。
「エルドル、できるよね?」
エリンの役に立てることが嬉しかった。私は意気揚々と魔法を使った。
エリンの意図どおり、水と火を生み出す存在を、私は自然の力を司る精霊として創り出した。
エリンが望めばいつでも炎を灯し、水を噴き出す存在が生まれた。
「わあ~! まるでガスバーナーとウォータークーラーみたい」
エリンがそう言ったので、私が創った精霊には「ガスバーナー」と「ウォータークーラー」という名前がついた。
それだけでなく、風と大地を司る精霊も創り、それぞれ「扇風機」と「トラクター」と名付けられた。その意味はまだ私にはわからない。
この体験で私は「精霊」という概念を理解した。この話は長くなるので、詳しくは後述する。
ともかく、私は精霊だけでなく、魔法を駆使してエリンが様々な道具を作るのを手助けした。
エリンは「小屋」と呼ぶ家を壊し、切り出した木で新しい家を建てた。さらに、それぞれ形の異なる家具も作り、家の中に並べた。
住む場所が整うと、エリンはまた別の試みに挑んだ。
木の実をあれこれ摘んで料理を作ったのだ。
「エルドル、エルドル、これ食べてみて。今回は自信作だよ。前みたいに食べたら溶けちゃわないから、たぶん……」
「……。」
私は声に自信が持てなかった。
エリンは必ず自分が口にする前に、私にまず勧めた。なぜそうするのかはわからない。そもそも私は食べるという概念が馴染みがなかった。食べなくても生きるのに支障はなかったからだ。
そこで、私は紫色の料理を遠慮した。
――チリチリ!
料理がテーブルに少しこぼれたとたん、焦げる音がした。今思い返しても、断って正解だったと思う。
こうしてエリンと私は、楽しくも少しヒヤヒヤする時間を過ごした。少なくとも、私はそう感じていた。
エリンはこの森に落ちてきた当初の憂鬱な様子を見せなくなった。それでも、時折エリンが孤独を感じているのを私は感じ取っていた。
なぜかはわからなかった。
ただ、孤独を感じるエリンを、私は慰められたらと思った。
第1巻 第4章
ある日、子狼が現れた。
こんな生き物が森にいたのかと驚いていると、エリンは目を見開いて興奮しながら騒ぎ出した。
「わあ、この子、何なの? すっごく可愛い! お母さんはどこ? 一人で来ちゃったの? お母さんが来るまでお姉ちゃんと遊ぼうね? こっちおいで、よちよち!」
息つく暇もなく言葉を浴びせたのを覚えている。エリンからいろいろ言葉を教わったものの、早口すぎて聞き取れないほどだった。
子狼はエリンと私を見ると警戒しつつも、少しずつ近づいてきた。料理の匂いに惹かれたのだろうか。最近のエリンの料理は木を溶かさず、香りもいいので納得の推測だった。
この森の獣たちも、精神体の私を認識しない。同じように、私を見て反応する獣の様子は新鮮だった。
「きゃあああっ! この瞳を見て! お名前は? ねえ? お姉ちゃんにちょっと教えて?」
エリンの嬉しそうな様子に、私は少し居心地の悪さを覚えた。何かを奪われたような気がした。
エリンは子狼を撫で回し、抱きしめて遊んだ。しばらくして、手に持っていた食べ物を差し出すと、子狼はぺろりと舌を出して味見し、すぐにケホケホと吐き出した。
やはり匂いは良くなっても、危険度は相変わらずだった。
――ジャラリ!
心ゆくまで遊んでいたら、久しぶりに石を投げつけられる痛みがどんなものか思い出した。
頭を抱えた私を放置して、エリンは吐き出すように子狼に囁いた。
「パンは嫌い? 言葉が話せたらいいのに……。何が好きなのか分からないね、あははは」
乾いた笑い声をあげ、エリンは子狼をぎゅっと抱きしめた。その姿は少し切なげにも見えた。
しかし、それも束の間、まるで嘘だったかのようにエリンはすぐに活気を取り戻し、子狼と遊び続けた。私はじっとその様子を見つめた。
やはり、エリンは孤独を抱えていた。子狼と遊ぶ姿を見て、私は確信した。エリンはただ私の前では見せなかっただけだ。そのエリンを助けたいと私は思った。
どうすればいいか悩んだ末、エリンの言葉を思い出した。
――しばらく時間が経ち、エリンが疲れて休んでいる間に、子狼を連れてきた。エリンは「狼が話せたらいいのに」と言っていた。
精霊を創ったときのように精神を集中し、狼に力を注いだ。エリンのように言葉を話せる能力が宿るよう想像しながら――。
子狼は何か変な感覚を覚えたのか、固まってしまった。そして少しずつ姿を変え始めた。
長かった口吻が縮まり、短かった四肢が伸びた。胴も短くなり、前肢と後肢の形も変わった。骨格そのものが完全に変貌した。
「きぃーん?」
子狼が戸惑いの声を上げた。その声は、狼の遠吠えというより、人間が狼の声を真似たような音だった。
私はまったく予想しなかった結果に動揺した。そばにいたエリンも同じく驚いていた。
――アウ――
そのとき、大きな狼が現れた。子を探しに来た親狼のようだった。しかし、その親狼は変わり果てた子を認識できず、見つけて駆け寄った子狼に唸り声をあげ、牙をむいた。
――キャアア――
「ダメだ!」
慌てて飛び出したエリンが、子を襲おうとした親狼をかろうじて阻止した。エリンが腕を振るうと、親狼は未練も見せずに逃げ去った。
「……」
エリンは去っていく親狼を言葉なく見つめ続けた。親狼が森の奥深くに消えるまで、ずっとそのままだった。
子狼は親が消えた方角を向いて鳴いた。エリンの視線は子狼から私へと移った。
血は流れていないが、冷たく澄んだ空気が感じられた。
エリンは何も言わず、私を見つめていた。
異様なことだった。
私は石を投げられもせず、何か言われたわけでもないのに、感じ取れたのだ。
――エリンが怒っている。
おそらく、私が今まで見たこともないくらい怒っている。私は本能的に、自分の失敗だと悟った。エリンの沈黙が怖くなった。エリンが私を嫌いになってしまうのではないかと怯えた。
「僕、僕が何とかするよ、エリン! 君がここにいるから僕の力がうまく発揮できない気がするんだ。家に戻って休んでてくれれば、僕が全部解決しておくから!」
エリンは黙ったまま私を見つめ、やがて背を向けて家に戻っていった。
私はすぐに子狼を元に戻そうと魔法を使おうとしたが、一瞬思いとどまった。
――力を使ってはいけない。
そう決めて、実体化した体で森を探し回った。夜が明けるまで子狼を探したが、どれだけ探しても見つからなかった。
諦めて家に戻ったのは、夜が明けてからだった。本来ならまだ眠っている時間だったが、エリンは起きて私を待っていた。
「子狼は? どうなった? お母さんはまた見つけてくれたの?」
「……」
答えが出なかった。
子狼が逃げて見つからなかったとは、とても言えなかった。エリンに失望されるのが怖かったのだ。
私は目をぎゅっと閉じた。答えを待つエリンの視線を感じながら、かろうじて声を絞り出した。
「うん、行ったよ……」
「そう? はあ~よかった。本当に心配したんだよ。次からはそんなに力を乱用しちゃダメだよ、わかった?」
本当に私の言葉を信じているかのように、エリンは安堵の息を漏らした。その息が私の耳に届き、胸の中で石に変わった。
息苦しかったが、顔には出せなかった。本能的にそう感じたのだ。孤独を見せまいと必死なエリンを思い浮かべた。
エリンは私を心配させまいとして、そうしたのだろう。私もまた、エリンを心配させまいとあの言葉を口にしたのだから。
長い思案の末、私はかろうじて一言を呟いた。
「うん」
この言葉を、私は今も最も後悔している。


