The Trickcal/第3章-2

Last-modified: 2025-06-28 (土) 15:45:09

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2. 救援者

異邦人は、自分の名は「レイン」ではないと告げた。しかし、この荒れ果てた大地に暮らす者たちは、どうしても異邦人の本当の名を呼ぼうとはしなかった。

――結局、レインは諦めた。とはいえ、本来の名とさほどかけ離れているわけでもなく、大きな抵抗感は覚えなかった。

「ということは、お前たちは、どうして俺がここにいるのか知らないってわけか?」
「ち、違います! レイン様は私たちを救うためにこの地へおいでになったのです!」
「お前はそこへ下がっていろ」

あまりに輝く瞳で訴えてくる住人を、レインは軽く押しのけた。深いため息をついて、レインはアセリンを見る。

――初めからレインの面倒を見てくれた唯一の存在で、今はまだ言葉の通じる唯一の相手だった。

「ええ。レイン様は夢で私たちが待ち望んだ存在ですが、どうしてここに来られたのかは、わかりません」
「お前たちが言う“夢”って、具体的にはどんな内容なんだ?」
「それが……正直、よく覚えていないんです。あまりにも昔のことすぎて……」
「どれくらい昔だと言えば、覚えていられるんだ?」
「それもわかりません。昔のように昼と夜の区切りがはっきりしていれば日にちも数えられるのですが……ただ、日々が流れていくだけで。百年なのか千年なのか……まったくわからないのです」
「百年? 千年?」
「はい」

レインは首をかしげた。自分の常識では、人間がそんなに長く生きるはずがなかった。

「俺はあの……『人間』って呼ばれる存在なんだが。ひょっとして、お前たちも人間なのか?」
「ええと……違うと思います。昔は私たちを呼ぶ別の名があったようですが、今は忘れてしまって……でも、人間ではなかったと思います」
「うーん、難しいな。とにかく人間じゃない、と」

外見だけで安易には聞けなかった問いに、意外にもあっさり答えをくれた。住人たちの容姿は特殊だが、よく見るとレインと同じ“人間”が基盤だったのだ。

「それじゃあ、『古代人』とか『新世界』ってのは何を意味してるんだ? 俺のことをそう呼んでたよな」
「それは、伝説のようなものです。古代人は、昔に眠りにつき、まだ目覚められない者たちを指す言葉です。そして、新世界は……届かないほど遠い場所を指すんですよ」
「遠い場所? それってどこなんだ?」
「……それは、また後でお話します。ともかく、レイン様のような“まともな姿”の存在は、この地にはいないから、そういう伝説が生まれたんです」
「そうか? だけど、なんだか感情がこもってた気もしたぞ」

どこか腑に落ちつつも、どこか気味の悪さも感じた。レインが不審そうな表情を浮かべると、アセリンがしばらく考え込んでから答えた。

「昔は――私たちもレイン様と同じような姿をしていたんです。でも、この荒れ地が私たちを変えました。この荒れ地も本来は、緑にあふれた森だったのに」
「雨の降るときみたいに?」
「はい。雨が降るたびに芽吹く木や草が、昔の景色を思い出させてくれるんです」

アセリンは切なげに荒野を見つめ、レインもまた見渡した。そこには何もなかった。

「ここが、かつては森だったのか?」
「その通りです。そして、私たちの森には『森の神』がいたんです」
「神? お前たちを作ったとか、世界を創造したとか?」
「よくおわかりですね?」

アセリンの驚きに、レインはかすかに首をかしげる。冗談のつもりの問いに見事にあてられてしまった。

「話を戻すぞ。その神って、結局どうしたんだ?」
「ある日、突然目覚めたら、神様がいなくなっていました。神だけでなく、森も私たちの村も、すべてが消えてしまったんです。そして、今のような荒れ地に変わってしまった──」
「……っ!」

嗚咽のような叫び声が響いた。レインでもアセリンでもない。周囲の住人の一人が、感情を抑えきれずに泣き出したのだ。次々に何人かが涙を浮かべ、嗚咽を漏らす。

“ひゃあん!”

「……泣くとサンタクロースのおじいさんがプレゼントをくれないってよ」

“ひゃあん!”

──痛烈なジョークは見事に滑った。そもそもこの世界にサンタクロースはいないのだ。

レインが困惑していると、アセリンはほかの住民たちにひそかに合図を送った。すると住民たちは泣いている者をなだめつつ、遠ざかっていった。

「ありがとう」
「どういたしまして。では、話を続けましょう。森の神様は、私たちに罰を与えようとしたのではないかと思うのです」
「罰、ね?」
「こんな過酷な環境に放り出し、必死に生きることで何かを悟ってほしかったのではないでしょうか?私たちが完全に絶望しないように、たまに雨を降らせてかろうじて正気を保たせる──そんな風に」

アセリンは笑ったが、その笑顔に楽しげな色はまったくなかった。レインはその乾いた笑みに顔をしかめた。

「神様は、どうしてそんなことを?」
「よくはわかりません。記憶があまりに古くて…。ただ、私たちが何か大きな過ちを犯したのではないかと、漠然と感じています」
「誰かを殺した?あるいは戦争を起こした?一体何をしたから、こんな扱いを受けるんだ?」
「神様にもきっとご意思があったのでしょう。ともかく、私たちには古くてぼんやりした記憶しか残っていませんが、ただ一つだけ確かなことがあります」

アセリンの鋭い瞳がレインを射た。その視線が何を意味するか、レインは直感した。

「その相手って、私のこと?」
「はい。私たちは寝るときに、たまに夢を見るのです。でも、その夢は皆同じ内容でした」

──まるで自分も夢を見ているかのように、アセリンは目を閉じ、両手を合わせた。彼女の容貌は奇異に映ったが、その仕草はまったく不快ではなかった。

「夢の中で、いつも誰かを呼ぶのです。誰かを恋しがり、誰かをこちらに連れて来たいと願い、目覚めて互いに尋ね合うと、どの者も同じ答えをするのです」

アセリンの言葉に頷くように、ほかの住民たちも同じ仕草を取った。

「でも、その誰かが誰かはわからない。ただ…『レ…イン?』とだけ言ったのを覚えています。そして、その思いはとてもせつなく、ただただ寂しさの極みに満ちていました。そこへ、レイン様が現れたのです。私たちは、これは偶然ではないと感じました」

アセリンが再び目を開けると、レインと視線が交錯した。夢で切望していた救援者──ではなく、むしろ厳しい顔つきであった。

「つまり、おまえらが夢で呼び続けた相手がいて、俺が突然現れたから俺こそその相手だと?飛躍しすぎじゃないか…でも、確かに否定しきれないな」

──レインは眉をひそめた。確かに、あの凄まじい力と、人間離れした容姿は「救援者」の可能性を否定しがたい。

「それで、森の神様なんてやつはどこへ消えたんだ?」

「…大まかにはわかります。たまに、あの濃い雲が晴れる日があるのです。そのとき、遠くに巨大な木が見える。きっと神様はあの下にいらっしゃるのでしょう。私たちはそこを『新世界』と呼んでいます」

「じゃあ、どうしてそこへ行かない?おまえらが行こうとすれば殺されるとか?」

「殺すって何かはわかりませんが、そんなことはないです。私たちも最初は当然、近づいてみようとしました。でも…まったく近づけなかったのです。どんなに歩き続けても、木はずっと遠くにありました。挑戦し続けた仲間もいましたが…結局は皆、歩くのをあきらめました」

「ということは、おまえら以外にも仲間がいるってことか?」

「ええ。今ここにいるのは一部でしかありません。私たちの仲間は、さまざまな理由でこの荒野に散らばっているのです」

「なるほど」

レインは納得したように頷き、アセリンとの対峙を解いて周囲を見渡した。
──かつて写真でしか見なかった、ひび割れた大地が果てしなく広がっている。緑など一片もなく、やせ細った黄色の植生がまばらに見えるのみだった。

「おまえたちの話を簡単にまとめると…」

レインはアセリンの自嘲交じりの笑いを思い出し、ますます気分を害した。

「神様ってやつが、おまえたちをここに見捨てて、自分だけ遠くへ行ってホイホイやってるってわけだな?」

「…え?」

レインは、あまりに短絡的に要約してみせた。
──情報は大幅に省かれているものの、この荒れ果てた地で住民たちがこうして惨めに暮らしている真因が「神様」にあることだけは間違いなかった。

「で、救援者──いや、救援者だっけ?おれがその役目を担って、この地から連れ出してやればいいのか?それともあの神様ってやつに一矢報いてほしいってのか?」

「……」

過激な表現に、アセリンはぽかんと口を開けたまま動けなかった。周囲の住民たちも同様だった。

──幸いにもアセリンは理性を多少保っていた。やがて気持ちを立て直した彼女が、静かに返答した。

「そう望んでいるのかもしれません。お伝えした通り、私たちはただ漠然と救援者様を待ちながらも、具体的に何をしてほしいのかはわかっていませんから」

「まったく確信のない、夢物語みたいな期待か…まあ、そうなるかもな」

──この地の住民たちはどこか幼い印象を受けた。アセリンとの会話ではそれほど感じなかったが、他の住民と話すときはしばしば無邪気すぎると感じることがあった。年齢のせいではなく、ただこの絶望の世界に蝕まれて生気を失っているだけなのだろう。

しかし、同時に疑問も湧いた。

「だが、どうしてまだこれだけの数が生き残っている?食糧もままならず、住むに適さないはずの環境で、かなりの人数がいるようだけど?」

ほかに生き延びる方法でもあるのかと尋ねたところ、返ってきた答えには驚かされた。

「何も食べなくても、なぜか生きていられるのです」
「え?どういうこと?飢えても死なないって?」
「死ぬというのは何なのでしょうか?」
「……は?」

レインは目を丸くした──久しぶりに面食らった表情が、そのまま顔に現れた。しばらく言葉を探していた彼女は、やっと落ち着きを取り戻して訊ね直した。

「この世界には、『死』という概念自体がないのか?」
「私は知りません。他の者たちも、きっと知らないでしょう」

住民たちは頷き合った。

レインは唇を噛み締め、頭を左右に振って思考を振り払おうとした。乱れた髪を整えたものの、頭の中はぐちゃぐちゃのままだった。

彼女はアセリンに「死」とは何かを簡単に説明させ、慎重に問いかけた。

「じゃあ、さっきみたいにけんかしたりしてさ…大きなケガをしたらどうなるんだ?」

「レイン様が言った通り、死ぬことはありません。ただ…」

そこで会話はふいに途切れた。アセリンはさらに語りかけたいようだったが、口を開けずに立ち尽くしていた。それは他の住民にも伝染し、皆が言いかけては飲み込むような空気になった。

レインはそんな重苦しい沈黙が嫌だったが、彼らの悲しい過去を聞いてきた身としては沈黙を破りがたい心境にもなっていた。彼女自身、思索に耽るべき事柄が山ほどあった。