T-34 1942

Last-modified: 2024-05-18 (土) 12:46:35

ソ連 RankII 中戦車 T-34 1942

概要

通称「ミッキーマウス砲塔」を備えたT-34。ハハッ!

車両情報(v2.25.0)

必要経費

必要小隊レベル0
車両購入費(SL)****

車両性能

項目数値
砲塔旋回速度(°/s)25.0
俯角/仰角(°)-5/30
リロード速度(秒)
6.9
スタビライザー/維持速度(km/h)無し / -
車体装甲厚
(前/側/後)(mm)
45 / 45 / 40
砲塔装甲厚
(前/側/後)(mm)
53 / 53 / 53
重量(t)30.0
エンジン出力(hp)858
2,050rpm
最高速度(km/h)54
実測前進~後退速度(km/h)*** ~ -***
視界(%)83
乗員数(人)4

武装

名称搭載数弾薬数
主砲76 mm F-34 cannon177
主砲7.62 mm DT machine gun12898

弾薬*1

名称砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
76 mm
F-34
BR-350B(MD-5 fuse)APHEBC6.80.098680939283736456
BR-350SPAPBC6.8-6801019990807163
BR-350A(MD-8 fuse)APHEBC6.30.150665868476675952
BR-350PAPCR3.0-95013513092603926
OF-350MHE6.80.62168021

発煙弾

砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
D-350ASmoke6.20.0506803

小隊ツリー

前車両-
次車両T-34E STZ

解説

特徴

 

【火力】
T-34 1941型から1ランク上がったことにより周りに硬い車両が増えたが新たに最大貫徹力135mmのAPCRが使えるようなった。しかしAPCRは加害力と傾斜装甲に弱く距離減衰が激しいためAPHEBCでは抜けない車両用に数発持っていくとよいだろう。

 

【防御】
砲塔装甲を大型化して装甲が強化された。砲塔正面の殆どが防盾化されておりその部分は硬いがその端は対空砲にすら貫徹されるため注意しよう。あとは砲塔上にハッチが2つ付いておりそれが開いたときの見た目から「ミッキーマウス砲塔」又は「ナット形」と呼ばれている。しかしWTMでは撃破時のみでしかその姿を見ることができない。操縦手ハッチは抜かれるので引き続き注意しよう

 

【機動力】
T-34 1941と同じく加速力も悪くはなく29km/hぐらいまでなら直ぐに到達する。後退速度は-8km/hと少し遅いので、飛び出し撃ちなどをする時はあまり車体を出しすぎないようにしよう。

 

【総評】
ミッキーマウス型T-34。1941年型より砲塔装甲を強化した車両。それ以外は何ら変わりはないが、重量が2トン程増加したため加速は悪くなっているが誤差程度である。格上相手には少々厳しい時もあるが味方と連携すれば問題なく対処出来る性能を有しているので引き続き同格では強車両と言えよう。

 

史実

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独ソ戦の緒戦でソ連軍は敗北を重ね、ドイツ軍はソ連領内深くに侵攻した。
このためソ連は、西部にあった戦車工場のウラル山脈以東への疎開を進めた。
第183ハリコフ機関車工場も1941年10月にウラル地方のニジニ・タギルに疎開し、同地にあったウラル貨車工場(UVZ)と統合されて、ハリコフ機関車工場(KhPZ)からウラル戦車工場(UTZ)に改称された。
UTZでは1941年12月からT-34中戦車の生産を再開したが、ソ連軍当局は不足する戦車戦力を一刻も早く整備するために、UTZに対してT-34中戦車の生産性の向上に重点を置いた改良を図ることを命じた。
これに応じてUTZで開発されたのが一般的にT-34中戦車1942年型と呼ばれるタイプで、生産性を向上させるために各部の省略と簡素化が図られていた。

1942年型の最大の特徴は、生産性と乗員の作業効率の向上を目的として、より単純な形状で大柄な新型砲塔が採用された点である。
従来のT-34中戦車の砲塔は小柄過ぎて乗員の戦闘動作がやり難い上、砲塔上面に設けられていたハッチが大型の1枚開き式で、外部を視察するのに不便なことも戦車兵たちに不評であった。

1942年型では、UTZの第520設計局が開発した大柄で背の高い新型砲塔が導入され、砲塔内スペースの増加により乗員の作業効率が向上した。
砲塔上面のハッチも、車長用と砲手用にそれぞれ独立した小型円形ハッチが設けられ、外部視察がやり易くなった。
この新型砲塔は周囲が傾斜面で構成された鋳造製で、生産性の向上のために砲耳が前方に外付けされていた。
なおこの砲塔は上から見ると六角形の形状をしていたため、「六角型砲塔」または「ナット砲塔」などと呼ばれた。
第520設計局では六角型砲塔の設計を1942年春にまとめ、ソ連軍当局は同年5月に全てのT-34生産工場に対して、7月までに六角型砲塔に生産を切り替えるよう指示を出したが、実際には各工場で切り替え時期にばらつきが生じ、それ以降も従来のピロシキ砲塔を搭載したT-34中戦車の生産を続けた工場もあった。
六角型砲塔の開発元であるUTZでは逸早く六角型砲塔への生産切り替えを進め、1942年春から六角型砲塔T-34中戦車の生産を開始した。
ただしUTZでは当初、六角型砲塔を砂型による鋳造で生産したため生産数が少なく、UTZが本格的に六角型砲塔T-34の生産を行うようになったのは、金属鋳型を使用した生産が開始された夏以降となった。

UTZ製T-34中戦車の六角型砲塔は、いわゆる「ハードエッジ砲塔」と呼ばれる砲塔前端下部が鋭く尖ったタイプが主であった。
一方、KhPZが疎開した後にT-34中戦車の主力生産工場となったスターリングラードのSTZでは、ドイツ軍のソ連侵攻開始後の1941年8月頃から工場をフル稼働させてT-34中戦車1941年型の生産を行い、1941年中に1,256両、1942年中に2,684両の1941年型を完成させた。

1942年6月にはスターリングラード攻防戦が開始されたため、STZでは六角型砲塔の1942年型への生産切り替えは行われず、1941年型の生産を続行した。
そして、同年10月のドイツ軍によるSTZへの総攻撃で工場施設が破壊し尽くされたため、STZにおけるT-34中戦車の生産は途絶えることになった。
また、疎開したKhPZに代わる形でT-34中戦車の生産に加わることになったゴーリキーの第112工場は、前述のように1941年8月からT-34中戦車1941年型の生産を開始したが、1942年5月に六角型砲塔の1942年型への生産切り替えが通達された後も延々と1941年型の生産を続けた。
第112工場で六角型砲塔を備えるT-34中戦車の生産が開始されたのは1943年の後半になってからであり、すでに新型車長用キューポラを備えたT-34中戦車1943年型が登場した時期であった。
このため第112工場では1942年型の生産は行われず、1941年型からいきなり1943年型に生産が切り換えられたのではないかという説も存在する。
ただし六角型砲塔の導入こそ大幅に遅れたものの、第112工場で生産されたT-34中戦車にはそれ以外の1942年型の改修点は採り入れられていた。
一方、西シベリアの第174オムスク・レーニン工場(OLZ)も、1942年からT-34中戦車の生産に参加することになった。
OLZは元々、レニングラードでT-26軽戦車シリーズの生産を行っていた第174K.E.ヴォロシーロフ工場を母体としている。

第174工場は侵攻してくるドイツ軍から逃れるため、1941年に一旦チカロフ(現オレンブルク)に疎開したが、1942年により東方のオムスクに再疎開し、工場名を「オムスク・レーニン工場」に改めた。
OLZでは1942年8月から六角型砲塔を持つT-34中戦車1942年型の生産に移行したが、OLZ製T-34中戦車に搭載された六角型砲塔の多くは、スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)のウラル重機械工場(UZTM)で製造された、いわゆる「ソフトエッジ砲塔」と呼ばれる砲塔前端下部が丸まったタイプであった。
またチェリャビンスク・キーロフ工場(ChKZ)も、1942年8月からT-34中戦車の生産に参加することになった。
ChKZは元々、レニングラードでKV-1、KV-2重戦車の開発・生産に携わっていた第100キーロフ工場(LKZ)を母体としており、疎開後もKV-1重戦車の生産を続行していたが、ソ連軍当局は主力戦車であるT-34中戦車の生産を最優先に考えていたため、ChKZも無理やりT-34中戦車の生産に参加させられたのである。
ChKZはT-34中戦車の生産参入時期が遅かったため、同工場では最初から六角型砲塔を備える1942年型の生産を行った。
ChKZで生産されたT-34中戦車1942年型に搭載された六角型砲塔は、前述のソフトエッジ砲塔が中心であったが、UZTMで製造されたプレス製砲塔を搭載した車両も多く存在した。
UZTMでは以前から砲塔などT-34中戦車のコンポーネントの生産を行っていたが、1942年9月からはT-34中戦車自体の生産も担当することになった。
しかし鋳造製砲塔の生産余力は無かったため、目を付けたのが同工場で使い道も無く遊んでいた10,000tの巨大プレス機であった。
この巨大プレス機を用いて圧延防弾鋼板の一枚板を押し出し加工して砲塔を生産すれば、鋳造製砲塔よりもさらに生産性を高めることができた。
また圧延装甲は鋳造装甲に比べて靭性が高く防御力に優れるため、生産性の高さ以外にもプレス製砲塔はメリットがあった。

UZTMでは1942年10月からプレス製砲塔の生産を開始し、前述のようにChKZ製のT-34中戦車にもUZTMのプレス製砲塔が搭載された。
というか、UZTM製のT-34中戦車よりもChKZ製のT-34中戦車の方が、プレス製砲塔を搭載した車両が多かったといわれる。
またT-34中戦車1942年型は砲塔だけでなく、車体にも各種の変更点が盛り込まれている。
ソ連戦車といえば車体、砲塔にしがみ付いて随伴する歩兵(タンクデサント)が有名だが、そのための手摺りがT-34中戦車の車体、砲塔の周囲に装備されるようになったのは1942年秋頃からである。
手摺りの取り付け位置や形状には生産工場や生産時期によって差異が見られ、繋がった柵型になっている手摺りと独立したU字型になっている手摺りの2種類が存在した。
また、T-34中戦車は車体前方機関銃のマウント部が防御上の弱点となっていたため、1942年秋以降からさらに外側に被せるような外装式防盾が装備されるようになった。
同様に1942年秋頃から、車体前面左側の操縦手用ハッチの開口部のすぐ下に跳弾板が取り付けられるようになった。

従来は基部がリベット止めされていた車体前面のハンマーヘッド型の牽引フックは、1942年夏頃から溶接されるようになった。
なお、T-34中戦車はそれまで車体前面左側に前照灯が装備されていたが、1942年春頃から前照灯の位置が左側面前方に変更されている。
その時期から考えて、前照灯の位置を変更したタイプの1941年型も相当数生産されたはずである。
また1942年秋頃より、T-34中戦車の車体後部左右に角形の増加燃料タンクが装備されるようになり、航続距離の延伸が図られている。
一方走行装置関係では、生産工場や生産時期によって転輪の形状にバリエーションが見られるようになった。
従来と同じくゴム縁付きプレス製のディッシュ型転輪の使用が続けられるが、中心部の補強板が省略されるようになった。
また並行してディッシュ型でなく放射状に6本のリブが走った、いわゆる「蜘蛛の巣型」と呼ばれるゴム縁付き鋳造製転輪も用いられるようになった。
この蜘蛛の巣型転輪にもバリエーションがあり、途中から12個の肉抜き穴が開けられるようになり、リブの形状も変化した。
そして、かつてSTZ製のT-34中戦車に装着されていたのと同様の、ゴムを内蔵した鋼製転輪も再び用いられるようになるが、STZ製のものとは形状が異なっている。
ゴム縁付き転輪と鋼製転輪は混成して使用されることも多く、その場合前後の2個がゴム縁付きで、真ん中3個が鋼製転輪というパターンが多い。
これは、前述のように鋼製転輪の方がゴム縁付き転輪より強度が高いため、より重量負担の大きい車体中央部を鋼製転輪で支えようという意図からである。
なおゴム供給状況の改善ということか、戦争後半に向かうに従いT-34中戦車の鋼製転輪使用は減っていった。
一方、KV重戦車シリーズやIS重戦車シリーズは一貫して鋼製転輪を使用し続けたが、これは重戦車には強度の高い鋼製転輪の方が適していたためである。

T-34中戦車1942年型は、主砲の76.2mm戦車砲F-34も生産性の向上を図って第92砲兵工場の手で改設計が行われており、従来は861個必要であったパーツを614個で構成できるようになった。
前述のように1942年に入ってOLZ、ChKZ、UZTMなど多くの戦車工場がT-34中戦車の生産に新規参入し、T-34中戦車自体も改設計によって生産性が大きく向上したため生産数が飛躍的に増加した。
この結果、1942年のT-34中戦車の総生産数は前年の4倍以上の12,527両に達している。

小ネタ  

搭乗員への配慮不足

外部リンク

 

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*1 爆薬量はTNT換算