T-34 1941

Last-modified: 2024-05-18 (土) 12:53:48

ソ連 RankI 中戦車 T-34 1941

概要

T-34 (1940)の改良型で、長砲身になった76mm F-34砲を載せたT-34である。

車両情報(v2.25.0)

必要経費

必要小隊レベル5

車両性能

項目数値
砲塔旋回速度(°/s)25.0
俯角/仰角(°)-5/30
リロード速度(秒)
6.9
スタビライザー/維持速度(km/h)無し / -
車体装甲厚
(前/側/後)(mm)
45 / 45 / 40
砲塔装甲厚
(前/側/後)(mm)
45 / 45 / 45
重量(t)28.1
エンジン出力(hp)954
2,050rpm
最高速度(km/h)54
実測前進~後退速度(km/h)*** ~ -***
視界(%)83
乗員数(人)4

武装

名称搭載数弾薬数
主砲76 mm F-34 cannon177
主砲7.62 mm DT machine gun12898

弾薬*1

名称砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
76 mm
F-34
BR-350B(MD-5 fuse)APHEBC6.8150680939283736456
BR-350SPAPBC6.8-6801019990807163
BR-350A(MD-8 fuse)APHEBC6.3100.1665868476675952
OF-350MHE6.862168021
Sh-354TShrapnel6.285560353430262219

発煙弾

砲弾名弾種弾頭
重量
(kg)
爆薬量
(g)
初速
(m/s)
貫徹力(mm)
10m100m500m1000m1500m2000m
D-350ASmoke6.20.0506803

小隊ツリー

前車両T-34 1940
次車両T-28E

解説

T-34 1940と同口径だがより長砲身になった76mm F-34砲を載せた戦車である。

特徴

 

【火力】
T-34 1940型と同口径だが長砲身化したので貫徹力、初速ともに向上している。さらにBR-350B(MD-8)というAPHEBC弾はBR-350A(MD-5)のAPCBC弾より貫徹力が高く、おまけに炸薬があり傾斜装甲にも強いため同格なら簡単に撃破できる。

 

【防御】
主砲換装によって防盾の形状が変化しており、範囲が少しではあるが増えた。車体装甲に変化はないため相変わらず操縦手ハッチが抜かれるので引き続き注意しよう

 

【機動力】
中戦車としては平均的で加速力も悪くないく29km/hぐらいまでなら直ぐに到達する。後退速度は-8km/hと少し遅いので、飛び出し撃ちなどをする時はあまり車体を出しすぎないようにしよう。

 

【総評】
T-34 1940の火力を強化した車両。それ以外は何ら変わりはないが、重量が2トン程増加したため加速は悪くなっているが誤差程度である。格上にも問題なく対処出来る性能を有しているので同格では強車両と言えよう。

 

史実

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T-34中戦車1940年型の主砲である30.5口径76.2mm戦車砲L-11は性能不良で、また生産性にも問題を抱えていたため生産に遅延を来たし、当時工場では主砲未搭載の状態のT-34中戦車が並んでいたという。
このため1939年12月にはL-11に代わって、KV-1重戦車の主砲である39口径76.2mm戦車砲F-32をT-34中戦車に搭載することが命令された。
しかしF-32もまた生産性に問題を抱えており、ただでさえKV-1重戦車向けの需要も満たせない同砲をT-34中戦車に振り向ける余裕は無かった。
結局1940年6月、T-34中戦車へは新たに開発された41.5口径76.2mm戦車砲F-34が搭載されることになり、L-11を搭載した1940年型の生産数は453両に留まった。

新たにT-34中戦車の主砲に採用されたF-34は、ゴーリキー(現ニジニ・ノヴゴロド)の第92スターリン砲兵工場にある中央砲兵設計局(TsAKB)の、P.F.ムラヴィエフ技師をリーダーとするチームが開発したもので、L-11に比べて大幅に火力の強化が図られていた。
F-34はBR-350A APCBC-HE(風帽付被帽徹甲榴弾)を使用した場合、射距離1,000mで63mmのRHA(均質圧延装甲板)を貫徹することが可能で、ドイツ軍のIII号戦車やIV号戦車を遠距離から撃破することができた。
なおF-34はL-11に比べて砲身長が延伸された以外に、L-11で砲身の上部にあった駐退機がF-34では砲身下部に移されたため、主砲基部の駐退機カバーの形状も大きく変化している。
F-34を装備したT-34中戦車の試験は1940年11月に行われ、1941年3月半ばからKhPZでF-34搭載型T-34中戦車の生産が開始された。
主砲をL-11からF-34に換装した最初のタイプのT-34中戦車は、一般的に1941年型として分類される。
当初、T-34中戦車の砲塔は圧延鋼板の複雑な曲げ加工と溶接で組み立てられていたが、より生産性を向上させるために、ウクライナのマリウポリ冶金工場に2分割式の鋳造製砲塔の生産が1940年10月に発注され、同年中には供給が開始された。
しかし、これ以後もしばらくの間従来の溶接製砲塔の生産も継続されたため、T-34中戦車1941年型には溶接製砲塔と鋳造製砲塔の2種類の車両が存在した。
また、1940年型の後期生産車でも鋳造製砲塔の車両が見られる。
新しく導入された鋳造製砲塔は、従来の溶接製砲塔のような複雑な加工が必要無かったため生産性は向上したが、当時のソ連はまだ鋳造技術が未成熟だったため当初は不良品が多く、歩留まりが悪かったようである。
なおこの鋳造製砲塔は、その形状がロシアやウクライナでよく食べられるピロシキに似ていたため、「ピロシキ砲塔」と呼ばれていたらしい。
また1941年春頃から砲塔前部のPT-4-7ペリスコープが左側だけでなく、右側にも装備されるようになった。
その代わり砲塔ハッチ上のPTKペリスコープは廃止され、最初は開口部に蓋をして塞いでいたが、後に開口部自体が廃止された。

砲塔ハッチ上面の膨らみの形状も生産時期によって変化があり、砲塔後面の主砲交換用パネルは固定用ボルトの本数が従来の4本から6本に増やされた。
これはこの部分が防御上の弱点となっていたため、固定用ボルトの本数を増やすことで強度の向上を図ったのだが、1942年3月からはさらなる強度の向上と生産効率の向上を図るため、主砲交換用パネルの開口部が廃止された。
このため砲塔後面からの主砲交換は行えなくなったが、その代わり砲塔後方を斜めに持ち上げて、それでできた砲塔リングとの隙間から主砲の交換を行うように改められた。
これは、T-72戦車などの現用のロシア軍戦車でも用いられている主砲交換方式である。
T-34中戦車1941年型は主砲をF-34に変更し、鋳造製砲塔を搭載したタイプが最も一般的であるが、生産時期によって車体にも変化が見られる。

最も目立つのが車体前面左側の操縦手用ハッチで、1941年夏頃から従来の圧延鋼板製のハッチに代えて分厚い鋳造製のハッチが用いられるようになり、ハッチの上部左右にはペリスコープが並んで装備された。
もう1つ目立つのが牽引具の形状の変化であり、1941年秋以降の生産車では従来のシャックル掛け式から、ハンマーヘッド型の牽引フックに変更されている。
その他車体でおおよそ1941年秋以降に変更された点は、車体前面左右に設けられていた前照灯が左側のみになる、フェンダーが前方に延長される、機関室の吸気グリルが格子状になる、車体後面装甲板上の点検用ハッチが丸形になる、車体後面下端が上下が角張ったまま突き合わされた形状となる等である。
一方足周り関係では、1941年秋頃から外側のリングの形状が変更された新型起動輪が導入されている。
続いて1942年1月から、外側のゴム縁を廃止した鋼製誘導輪が導入されるようになった。
生産開始が遅れていたSTZでも1941年からT-34中戦車の生産を開始したが、当初は生産能力の不足から、KhPZから送られてきたパーツを組み立てて完成させるノックダウン生産の形を採っていた。
このため、STZで生産された初期のT-34中戦車はKhPZの生産車と同じ特徴を有していたが、次第にSTZ特有の特徴を増していくことになった。
その最大の特徴は鋼製転輪の採用で、これはSTZの地理的な問題でゴム工場から遠く離れていたため、ゴム資材が不足したことに起因する。
これを解決すべく、STZでは外側にゴム縁を持たない鋳造製の鋼製転輪が開発されたが、この鋼製転輪はゴム縁を廃止した代わりに内側にゴムを挟み込んでおり、ゴム縁付き転輪と遜色無い緩衝性能を発揮することが可能であった。
LKZが開発したKV重戦車シリーズにも鋼製転輪が採用されていたが、こちらのケースはゴムの節約が目的というよりも、大重量のKV重戦車シリーズには強度で勝る鋼製転輪の方が適していたということらしい。
なお鋼製転輪は、緩衝性能自体はゴム縁付き転輪と遜色無いが、外周の鋼製リムが直接履帯と接触するため、走行時の騒音がやや大きくなる欠点があったようである。

STZ製のT-34中戦車に鋼製転輪が装着されるようになったのは1941年10月末くらいからで、全ての転輪に対して使用された。
また同時期より起動輪、誘導輪もSTZ独自の仕様のものが用いられるようになった。
もう1つSTZ製のT-34中戦車の大きな特徴となったのが、砲塔のデザインである。
STZでは溶接製砲塔と鋳造製砲塔の両方のタイプのT-34中戦車が生産されたが、両者に共通して採り入れられたのが駐退機カバーのデザインの変更である。
STZ製T-34中戦車の駐退機カバーは下側が付き出して、尖った形状になっていたのである。
通常のT-34中戦車の駐退機カバーは前面がほぼ垂直であったため、装甲板が傾斜している他の部分に比べて防御上の弱点となっていたといわれている。

熟練したドイツ軍戦車の砲手は意図的にこの部分を狙って射撃してくるため、その対策として駐退機カバー前面に増加装甲板を装着したT-34中戦車も存在した。
おそらく、STZではこの弱点を改善するために駐退機カバー前面を傾斜装甲にしたものと推測されるが、この新型駐退機カバーの導入時期は1942年5月頃であり、1941年型でもかなり後期の車両のみの特徴である。
また前述のように、T-34中戦車の砲塔には後面に主砲交換用のパネルがボルト止めされていたが、STZで生産された溶接製砲塔では途中から後面装甲板を丸ごと1枚板とし、8本のボルトで固定するように変更された。
これは後面装甲板にパネルの開口部を設ける手間を省くためだったと思われ、STZで1941年終わりから1942年初めに生産された溶接製砲塔に見られる特徴である。
その後、1942年6月頃からは後面装甲板は完全に溶接されるようになり、砲塔後面からの主砲交換は行えなくなった。
またSTZ製の溶接製砲塔は前端のデザインにも特徴があり、1942年5月頃から砲塔前端の左右が平面に切り落とされるようになった。
STZ製のT-34中戦車は、車体についても独自の改良が採り入れられていた。
それは、車体の装甲板の接合部の形状変更である。
それまでのT-34中戦車の車体装甲板の接合は、ほぞと場所によってはピンで補強した丁寧なものであった。
それは逆にいえば時間と手間の掛かるものであり、その工程を簡略化しようというのである。
STZで採用された方法はドイツ戦車でおなじみの噛み合わせ式の接合であり、これは1941年11月より採り入れられている。
一方1941年8月からは、ゴーリキーの第112クラースノエ・ソルモヴォ造船工場もT-34中戦車の生産に参加することになったが、地理的な条件でV-2ディーゼル・エンジンが入手困難だったため代わりに、BT-7快速戦車にも使用された航空機用エンジンベースのM-17T V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力450hp)と、BT-7快速戦車用の前進3段/後進1段の変速・操向機を搭載したT-34中戦車を1941年中に173両生産している。
第112工場も当初は生産能力が不足していたためSTZと同様に、KhPZから送られてきたT-34中戦車のパーツを組み立てて完成させるノックダウン生産の形を採ったため、生産初期のT-34中戦車はエンジンと変速・操向機が異なる以外はKhPZの生産車と同じ特徴を有していたが、次第に第112工場独自の特徴を備えるようになった。
第112工場ではT-34中戦車の生産簡略化のため、鋳造製砲塔の後面にある主砲交換用パネルの開口部を廃止した。

前述のように、1942年3月から全てのT-34生産工場で鋳造製砲塔の後面パネルが廃止されているが、このアイディアを発案し最初に実施したのは第112工場である。
これにより砲塔後面から主砲の交換が行えなくなったが、第112工場ではその代替案として砲塔後方を斜めに持ち上げて、それでできた砲塔リングとの隙間から主砲の交換を行う方法を考案した。
ただし、この作業の際には気を付けないと砲塔が前方に滑り落ちてしまう恐れがあるため、それを防ぐために車体前面装甲板の上端に庇を設けて、これを砲塔滑落防止の引っ掛かりとすることが考案された。
第112工場の生産車にのみ存在するこの庇は、砲塔リングを防御する跳弾板としても役立ったので一石二鳥であり、第112工場では1942年5月頃から車体側面上端にも庇を取り付けるようになった。
一昔前は、「車体装甲板上端に砲塔リング防御用の跳弾板を取り付けているのが第112工場製T-34中戦車の大きな特徴である」と解説されることが多かったが、この庇は跳弾板よりも主砲交換時の砲塔滑落防止用の治具としての役割の方がメインであることが、近年の研究により明らかになった事実である。
また面白いのは、第112工場でもSTZと同様に車体装甲板の接合方法の簡略化に思い至ったらしく、やはり噛み合わせ式の接合方法が1941年11月頃から採り入れられた。
これは別に両工場で示し合わせて始めたわけではなく、全く偶然同時期に同じアイディアを思い付いたということである。
その他の第112工場製T-34中戦車の特徴としては、1942年冬頃から砲塔上のペリスコープカバーがキノコ型のものに変更されている。
T-34中戦車は1941年6月22日の独ソ戦(大祖国戦争)勃発までに、1940年型と1941年型合わせて1,225両が完成していた。
緒戦に投入されたT-34中戦車は、当時のドイツ軍機甲部隊の主力だったIII号戦車やIV号戦車短砲身型を凌駕する性能を備えていたものの、戦車兵の練度不足や稚拙な戦車運用によって大半が各個に撃破されてしまった。

小ネタ  

搭乗員への配慮不足

T-34は無線機が搭載されておらず、車長は手旗信号の訓練をみっちりやらされた。しかし戦闘中はそんなの出してる暇なんて無く、結局小隊長の後にグルグルついて回ることになる。これでは高度な連携プレイなど望むべくもなかった。(それに対してドイツは戦車すべてに無線機を積んでおり、車長がキューポラから顔を出さなくても安全な車内から連携をとることができていた。)車長は砲手を兼ねているから戦闘中外を見る余裕がなく、外を見るにもハッチが大きすぎるため危ない。砲弾の大部分は床下にあって取り出すのがすごく大変ながら車内はすごく狭かったそうだ。

外部リンク

 

公式Devログ

 

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*1 爆薬量はTNT換算