井筒一族

Last-modified: 2016-10-11 (火) 22:01:20

井筒一族(イドイチゾク)
 
 
【記述1】
 
中条流から派生した古流武術を基とする武術一族。
初代当主である井筒一二三(イドヒフミ)が天正12年に中条流から井筒流として独立したのが始まりである。
当初は小太刀術を基盤とした合戦戦術を主とする流派だったとされる。
創始から以後、様々な大名のもとに指南役として各地を転々としているが、
関ヶ原の合戦に東軍、生駒一正方で参加したという記述を最後に表舞台から完全に姿を消す。
その十年後、越後国のとある山の山麓に居を構え、退魔組織に加盟し、その一員として動いているのが確認されている。
退魔組織加盟後は、金の輸入や造船業で財をなし、豊富な資金減を元手に組織内での発言力を高め、
2001年に取り潰しに合うまで、外様としては異例なほどの高い地位にあったとされる。

2001年に起きたある騒動で、当主を含む宗家一族の全員の死亡を確認。
この騒動で分家一族にも被害が出ており、勢力を急激に失う。
残った分家も本家の引き継ぎを拒否したため、同年に取り潰し。組織からも除名となる。
分家一族は山を離れそれぞれ独立。井筒は事実上の断絶となった。
 
【記述2】
 
「武」に、結は非ず。
過程にこそ、その意義はあり。
 
師は絶えず、武の「本質」というものを、自身の弟子たちに語り聞かした。
 
振るうことに意味はなし。
研鑽することに意味はあり。
殺すための武は非ず。
勝利するために武を磨く。
両手に在るは錆鉄で、
振えば己も傷つくと知れ。
刃とは己が心そのもの。
肉と心を痛めつけ、
終まで研磨に励むなれば、
それ即ち「武」そのものである。
 
初代井筒は、この師の悟りを真に理解する思慮の深さと、師の教えを守り、人との無駄な折衝を避ける聡明さを持ちあわせていたが、
同時にその武の「本質」というものに、自身とは相容れない、どうしようもない不快感を感じていた。
人の振るう力とは抑止力。
力に力で当たるのは獣の道理であり、知性を与えられた人間の理ではない。
この戦国の世に生きるものでも、快楽のために力を振るうものなどそういない。
守るため、糧のため、権力のため、領民のため、生きるため。
力を行使するためには理由がいる。道理がいる。
だが彼が望んでやまないものは、そうではない。
そこにあるのは純粋でシンプルな、どちらが上かそうじゃないか。
そうただそれだけの圧倒的な暴力。
 
――つまり彼が追い求めたものは、武としての「本質」ではなく「根源」であった。
 
 
【記述3】
 
到達点は定まったが、その理想を語るには人の身としては些か役が不足していると言わざるをえない。
かの関が原の戦を戦い、■■を目撃した初代はその考えを強くする。
蛇の道は蛇。
各所のツテを使い退魔組織に接触、加盟した初代は、元からあった商才や外交手腕を駆使し、瞬く間に組織内で地位を確立させる。
その躍進は外様としては異例なことで、内部にもそれをよく思わない勢力も存在したが、その都度何かしらの力により敵対者は振っては消えた。
彼ら一族は積極的に矢面に立ち、多くの『魔』を狩る事で『魔』への造詣やその理解を深めた。
その敵味方すらも容赦しないその様で、後に彼らを獣の一族と呼ばれるに至る。
上等、と彼らは笑う。
まさに、そうあれかし、と我らは祈ってきたのだから。
 
 
【記述4】
 
『聖杯』
関が原に舞い降りたそれを手にしたのは一体誰であったか。
彼は決して所有者でもなく、また勝利者でもなかったが、おこぼれを預かるには十分だった。
 
 
【記述5】
 
それはいうなれば『淀み』であった。
方向性を持たない力の残滓、その傍流。
見るものによって形を変え、流れを変える無意識の奔流。
ゆえにそれを形作るのは人の想いであり、願いであり、そして――
 
 
【記述6】
 
やることは定まった。後は流れるだけである。
それでもあと四世紀、いや五世紀はかかるだろう。
それでもいい。
例え自身が達せなくても、次の世代が。
もし果たされず世代が絶えたとしてもまたそれも願いの果である。
 
それが彼なりの自身の生き様に対する答えであった。
初代井筒は三百人ともなる一族に見守られ、静かに、そして安らかに息を引き取った。
享年五十六歳。
獣と呼ばれ恐れられた男としては似つかわぬ最後であった。
 
――果たして彼は彼自身否定し続けた道理の中逝ったことを、その結こそが武の本質だということをわかっていたのだろうか。
 
 
【記述7】
初代井筒は聖杯との接触により、その精神に『魔』を下ろす器となった。
彼の悲願はこの『魔』の制御とその『魔』を制す『武』の『根源』への到達である。