「……大したもんだな」
「…?
確かにこの音鳴りによる魔術は珍しいかもですが、でもこのくらいの結界なら弦を介さずとも基本の術ですよ?」
「いや、俺はまともに魔術を習ったわけじゃないからね」
青年の案内でレール伝いに地下鉄のトンネルを抜け、開けた場所に出た。駅のホームだ。
しかし、やはり人っ子ひとりいない。
乗客の姿も、駅員の姿も。清掃員や売店の店員、その他も。この世界最古の地下鉄、通称"ザ・チューブ"を構成する人間は、誰一人。
チューブと呼ばれる所以、管のように湾曲したトンネルの構造も普段なら愛らしいものだが、こうも光量が絞られていては巨大な生物の内蔵の中にいるようでかえって不
気味だ。
魔術師として外法を扱う身としては"不気味"とはおかしな話だが、床を靴底が打つ硬質な響きは否応にそんな気分を煽る。
薄暗いホームの片隅、魔除けの結界をオルナは張った。竪琴の弦をひとつふたつ鳴らすだけの簡素なものだが、無いよりはいい。
小鳥の囀りのような聞き慣れた竪琴のハミングと結界の内部にいる事実は、オルナの緊張を僅かでもほぐしてくれた。
溜息をつきながらホームに据え付けてあるベンチにゆっくり腰を下ろす。向かいの壁に駅名が大きな文字で記されている。
ホームの名はスローン・スクエア。ウェストミンスターから乗ってすぐに異変に巻き込まれ、こんなところまで来てしまったようだ。
オルナが周囲の検分をしている間に青年は水飲み場から水を拝借して戻ってきた。
悪癖である疑心暗鬼が心に忍び寄り、何をするつもりか注意深く観察してしまう。
標もなく、つい先導する男の背中についてきてしまったが、別に彼が味方と決まったわけでなし。
『一族以外の他人を信じるな』というのが生家の絶対の家訓だ。…そうとも。状況は全くの不透明だ。利用するだけ利用すればいい。
青年は背負っていたバックパックの口を開けて携帯コンロとキャンプクックを取り出した。
どうやら『まともに魔術を習っていない』という言葉に間違いはないらしい。
神秘に寄り添う魔術師ではなく、魔術を道具のひとつとしてしか捉えていない魔術使い。それが目の前にいる男なのだろう。
………それにしても、こんなところでキャンプ道具を背負っているのは謎だが………。
疎いオルナには仕組みも分からない機器で火をおこすとティーパックを薬缶に放り込み、茶を淹れだした。
「まずは一息つきなよ。ほら」
「…………」
「………………ああ」
差し出したマグカップが受け取られないことへ僅かに戸惑ったようだったが、すぐに青年は合点がいったと瞬きする。
少し距離を空けてオルナの隣に座ると、湯気の立ち昇る自分の分のマグカップを傾けて少し煽った。
「別に何も入っちゃ無いよ。毒物のたぐいは勿論、俺は呪詛なんて魔術使えないしね」
「ぬあ……!ち、違うです!?そういうわけじゃ」
「気にしないでいいって。魔術師は疑心暗鬼が基本の因果な稼業だってよく知ってる。
他人から渡されたものを疑うのは君がちゃんと魔術師やってる証拠だ。でもまず落ち着いたほうがいい。顔、真っ青だぜ」
図星を突かれてつい声を荒げたが、指摘されると拳を固く握りしめていたことに気付いた。
異常な状況へ突然放り込まれては仕方のないことだったが、オルナの魔術師としてのプライドが反発と同時に何を言っても傷口を広げるだけと冷静に判断する。
気恥ずかしさから僅かに頬を紅潮させながら黙って差し出されたマグカップの柄を握った。
恐る恐るマグカップの中身を舌先だけで舐める。まあ、およそティーパックらしいチープな味がした。
生まれてこの方、一級品ばかり嗜んできた舌にはちょっと物足りない。ともあれ青年の言う通り邪なものは含まれていないようだ。
それに温かいものを嚥下した事実はオルナに安堵の溜息を吐かせるには十分なものだった。
ちびちびとマグカップに口をつけながら改めて隣に座る青年を観察する。
やはり、よく似ている。
いつかの聖杯戦争。只人の身にありながらオルナのサーヴァントを砕き、こちらに背を向けて「正しくありたい」と叫んだ少年に、とても。
ただあの時の少年だとするならば、その横顔には年月と経験を重ねた趣がある。20代だろうか、この状況にありながら落ち着いた精悍な顔つきだった。
あの戦いから経た時間を考えれば同一人物とは考えにくい。彼の兄、と言われれば納得できるだろう。
それに……あの時確かにケルズ・ダウル・オルナの名を告げたことをこの青年は覚えていない。ただ「どこかで会ったことがないか」、とだけ。
(ご兄弟がいらっしゃったです…?)
同じ人間だったとするなら、あんなことがあったのにまるで覚えている様子もないのは少し腹立たしい。
きっと他人の空似というものだろう。あまり魔術師らしくない言い回しだが、世界には自分とそっくりな他人が3人はいるという。
と、こっそりと伺っていたオルナの視線に青年が気付いた。
「当たり前だけど、何か聞きたそうな顔だね」
「な、な、なんでもないですっ!よく似ているなとかそんなことはっ!」
「え、何の話」
「―――ッ、なんでもないんですっ!
そうでした、あなたにはいろいろ聞かなきゃいけないことがあるですっ!
知ってることは全部教えてください!この状況!あのサーヴァント!そして……『聖杯戦争』!」
「だよな。俺には説明責任がある」
……青年が令呪の刻まれた右手でマグカップをベンチに置いた。
そう、令呪をこの青年は宿している。つまり、サーヴァントを従えている可能性が大ということ。
その気になればオルナへサーヴァントをけしかけることも出来る。仮に戦うとするならオルナにとっては不利な状況だ。
この竪琴の音色はサーヴァントをすら貫きうるとはいえ、まともにやりあって勝てるかというと別の話である。
下手な渋り方をするなら、サーヴァントの気配が無い今のうちに先手必勝。竪琴の音で拘束なり暗示をかけてしまうなりしたほうがいい。
この程度の魔術使いならば拒絶もおそらく困難だろう。魔術師ですら危ういほどなのだ。それだけオルナの才覚と竪琴の持つ力は突出していた。
だが、オルナの心配は杞憂に終わる。青年は至極当然とばかりに、つらつらと説明を始めたのだ。
「とりあえず、ここが異界化しているのには気付いているよな」
「………………」
こくりと頷き肯定を示す。
あまりに鮮やかだった。車両に乗り込み、発車してしばらく。
異変の気配を探りながら窓から見えるトンネルの暗闇を見つめてまばたきした瞬間、既に異界へと取り込まれていた。
周囲にあれだけひしめいていた乗客は誰もいない。あらゆるざわめきが失せ、残ったのは空恐ろしいほどに走行音だけ響く世界。
―――――そして、すぐさまにあの『サーヴァント』が現れたのだ。
「ここは人食いの地下鉄線と化している。誰がこんな趣味の悪いことをしているかまでは知らないけどさ。
推測だけれど、たぶん聖杯戦争におけるマスター適正のある人間を取り込んでいるんだ。俺がそうだし、君もそう。
ふと気付いた時には誰もいない列車の中にいて、あのサーヴァントが襲ってくる。
シャドウサーヴァントとでも言うかな、意思を持たない英霊の影だ。彼らはマスターを求めているんだ」
「マスターを……?どういうことです?」
「アイツらに襲われ、食われた人間はそのサーヴァントのマスターになる。アイツら同様、意思を持たない影みたいになってね。
此処に滞在していればすぐに拝むことになると思う。動いているものならサーヴァント共々になんでも襲ってくる。
調査を初めて、いや正確に言うべきだな。此処に取り込まれて俺は3日目だけど、取り込まれた人を助けられたのは……君が初めてだ。
尤も俺は君が外に飛び出したのを受け止めただけだけれどさ。よくアイツから逃げ切ったな、君」
淡々と青年は語るが、眉間に皺が寄っている。青年の感じた苦渋がそこに縦の線を刻んでいた。
「多分この地下鉄の環状構造が利用されて、ひとつの巨大な魔術陣になってるんだ。
何らかの目的のためにこの地下世界で虚ろな聖杯戦争が続いている。取り込んだ人間から意思を剥奪し、サーヴァントをあてがって。
こうなってしまってはミイラ取りがミイラになったようなものだけれど、俺は……これを終わらせに来た。
だけどまだ手掛かりも掴めていなくて……ごめん、君を今すぐ外に出してあげることは」
「そ………それなら!」
男の言葉に薄れかかっていた当初の目的をオルナは思い出した。
"地下鉄で人間が神隠しに遭う被害が出ているが、どうやら魔術の痕跡がある。調査を要請する"と己は時計塔に依頼を託されたのだ。
畳み掛けるように起こったいくつもの出来事を前にして茫然となっていたが、ようやく本来の立場に戻ってきた。
誇り高きオガム魔術の名門オルナ家の次期当主として家名は汚せない。例えこれが、本来想定していたものより遥かに危険な事態に変化したとしても。
「それなら、私も同じですっ!時計塔の膝元でこんな狼藉を看過するわけにはいきません!
これは元々私が受けていた依頼です!あなたひとりに解決されるわけにはいかないですっ!」
「……………そうか、そうだな。
何の力もない人間があんな出鱈目な逃げ方は出来ない。今時計塔って言ってたけど、君は時計塔から送り込まれた腕利きってわけだ」
「―――――それは」
「心強い。正直、俺と俺のサーヴァントだけじゃ出来ることが限られていて心細かったんだ。
その竪琴、よっぽど強力な魔術礼装なんだろ?俺は詳しいことは分からないけれど、君が解決に協力してくれるのはありがたい。
ほら。俺はこんなふうに結界ひとつ張れない有様だから」
「…………っ」
まるでオルナが味方になるのが規定事項のように青年は嬉しそうに微笑んでいる。
少し、心が揺れた。無防備なほどにまっすぐな誠意と好意、無遠慮なほどの信頼感。どれもオルナが慣れないものだ。
生まれた時より塗り固められてきた、凍えきった人間不信の芯に届くほどではなかったにしても。その穏やかな温度が損なわれるわけではない。
頑なさや疑念があっという間に塗りつぶしていったが、そこには確かな温もりがあった。
……気のせいだ。人間とは信じがたいもの。自分の世界より他にあるものは常に裏切りの刃を背中に隠し持っている。
この男とて微笑みの下に、言葉の裏に、差し向けた感情の奥に、あらゆる冷徹を隠していたとしても不思議ではないのだ。
だが、冷静に考えれば提案自体は決して悪いものではない。
現状お互いに叛意を抱くことにメリットは無いし、協調出来るならこの男の言い分が正しければサーヴァントの戦力を得ることが出来る。
それに、3日間この地下トンネルに滞在しているというのは彼だって何の力もないということはないだろう。
………一瞬、いつかの聖杯戦争において自分のサーヴァントが青年とよく似た少年によって打倒された瞬間を思い出した。
「い……いいですよ。
猫の手も借りたい状況なのは確かです。今だけあなたに協力してあげるです」
「はは、俺は猫かよ」
「それで、あなたのサーヴァントと………その令呪は」
「令呪はね……まぁ、ちょっとばかり細工をした。こちらも黙ってやられるばかりじゃない。
だけどサーヴァントは今のところここに来てから得たふたつの幸運のうちのひとつだ。
はぐれのサーヴァントがひとりいたのさ。今は偵察に出てもらっているけれど、そろそろ返ってくる頃じゃないかな……」
「……ちなみにもうひとつの幸運というのは」
「君に会えたこと」
閉口するオルナをよそに、ホームから続いているトンネルの奥へ青年は視線をやる。まだ彼が言うような霊基が現れる気配はない。
床に膝を付き茶を淹れるのに使った道具を手早く片付けながら、「そろそろ移動しよう」とオルナに告げた。
「どうしてですか?今もこうして結界を張ってるですのに」
「本当はホームは少し危険なんだ。本数は少ないけれど普通に電車は走ってるからな。
意思を奪われたマスターとサーヴァント……便宜上シャドウと呼ぶけど、アイツらも足に使ってくる。
まともな意思がないとはいえ戦力は本物だ。早いこと俺のサーヴァント……アサシンと合流したい。こちらからも出向こう。
魔術師なら陣地になる工房が欲しいところだろうけど我慢してくれ」
既にバックパックを背負い直して歩き出す準備を整えていた。
男の言が本当なら確かにそれは危険だ。ばったりと鉢合わせたなら低級の魔性ならともかくサーヴァントを相手に誤魔化せるものではない。
渋々オルナも竪琴を仕舞い込んで立ち上がる。少し休憩を取れたことで全速力で走ったり線路上を歩き通しだったりと酷使していた足も軽くなった。
レールの上へ降りようとした青年がふと立ち止まり振り返る。怪訝な顔をしたオルナへ少し考える素振りを取ってから口を開いた。
「そういえば聞くのを忘れてた……。
……えーと。…………なんて呼べばいい?」
目眩がするような既視感だった。
「…オルナ。
ケルズはかわいくないから好きじゃあない」
「分かった。俺は――――」
またあのむず痒くなる微笑みと一緒に、青年は握手を求めて手を差し伸べた。
「――――マツミネ・ヤヒロ。好きなふうに呼んでくれ」