砲撃のような勢いで巨拳が振り下ろされる。
胴を真っ二つに切断するべく出会い頭に放たれた戦斧の横一閃を避け、宙空を漂っていたアサシンをそれは捉えた。
「アサシンッ!?」
「そんな悲痛な声をあげられると己れも自信をなくすでありますな~」
せせら笑うような、気の抜けた調子の声が返ってきた。
陽気な台詞とは裏腹に、生ではなく死を刃と共に歩む者特有の冷たく凝った影が声音にこびりついている。
声の主は―――いた。あろうことか、巨躯のシャドウサーヴァントの右肩にいつの間にか直立して立っていた。
小刀を体の何処からか抜き放つと躊躇いもなく足元へずぶりと突き立てる。
深々と刺した瞬間手首で柄を捻って傷口を大きくする悪辣も決して忘れない。
シャドウサーヴァントは決して声を発さない。だが、確かに苦痛の呻き声を漏らしたのをオルナとヤヒロは聞いた。
左腕が伸びてアサシンを捕まえようとする。一本一本が巨木の枝のように太く節くれだった五指は、見た目に似合わず相当に素早い。
「…………!」
思わず息を呑む―――しかし、その影を捉えることはない。
重力の軛から開放されているかのように軽やかな身のこなしは燕の鋭さより梟の閑けさを思わせる。
迫る指からすり抜けるようにしてゆらりとアサシンが宙に弧を描いた。
ゆったりとした横軸の回転の最中、抜け目なく袖が翻り棒手裏剣が放たれる。刀身が電灯を反射する僅かな煌めきは小魚が素早く泳ぐよう。
オルナがこの刹那の中に何があったのかを知ったのはアサシンが膝を畳んで柔らかく着地した後のことだ。
急所をあえて狙わない。アサシンが眠くなるほどゆっくり落下しているのとは逆に全く視線で追えない速度で、両の膝に2本。
意思なきサーヴァントはこれを後ろに下がって回避を試みたが、そのうち1本が地を踏み切ろうとして居着いた膝に突き刺さった。
結果、ただ傷つけるだけではなく棒手裏剣は肉を貫通し、完全に片膝を破壊した。
まるで大型拳銃で撃たれたかのように肉が弾ける。かつて膝だった部分が、ささくれだった肉に変わる。
薄っぺらく頼りなさそうな手裏剣はその実、コンクリートに罅を入れて突き立つ様から察するに相当に硬く、重い。
シャドウサーヴァントの特性によるものか血は飛び散らなかったが、まるで無遠慮な大穴が空いたのは誰の目が見ても明らかだった。
「頑丈な者を仕留めるにはまず末端から……四肢を削ぐところからであります。
正中線に連なる弱点は実のところ避けやすく防ぎやすい場所でもあるでありますからな。
指先から少しずつ微塵切りにするのも良いでありますが…この程度の相手なら、ま…そこまでせずとも」
どう、と重い音を立て、体の支えを失ったシャドウサーヴァントがまだ無事な右腕と足で体を支えて倒れ伏すのを防ぐ。
その様子をアサシンが嘲った。言葉は嗜虐に満ちている様子だったが、不思議と空っぽに聞こえたのは……。
オルナに備わった天性の『音を読む力』か。
このアサシンを信用していないわけではないが、何処か自分たち人間とは別の生き物のような感覚を覚えていた。
英霊と人間、という違いではない。人間の心としての差異だ。何処かノイズを感じるのだ。
……全員で注視していた巨躯のシャドウサーヴァントの体が一回り膨れ上がるような錯覚を覚える。
健在に動く部分を用いた、死なば諸共とばかりに己の全体積を以ての突撃だ。片足だけとは思えぬほど強烈に地を踏みしめ、英霊の影は最後の突撃に奔る。
一体何がこの影法師にそうまでさせるのか。まるで部品を失った機械のようだ。例えパーツが足りなくても愚直に与えられた行動を実行し続けるのだ。
右手に手にしていた斧を振りかぶった決死の吶喊がオルナたち一行に迫り……。
そして、それを指を咥えて黙ってみているオルナではなかった。
「『───来たれ、来たれ、来たれ。契約の元に』」
既に準備は終わっていた。涼やかに弦の音が歌う。
適切な魔力、適切な音律、適切な呼吸で繰り出された魔術はシャドウサーヴァントへ絡みつく鎖と化す。
風は刃に。空気は枷に。お前が羽撃く様をこの音は認めない。
狙い過たず、一点を狙ってそれは何重にも折り重なり喰らいついた―――それも。
「『精霊たちよ、マナよ、今一度神代の姿になりて―――錨を落とせ、旅の終わりを示せ!』」
今しがたアサシンの手によって肩を砕かれた方。右腕に、だ。
自由の効かぬ腕では力任せに引き千切ることも出来ず、完全にシャドウサーヴァントの巨体がトンネルの真ん中で立ち往生する。
勢いよく突進しようとした矢先に腕を引っ張られ、大きく巨躯がよろめいた。
それは一瞬のことだったかも知れないが、しかしアサシンにとってはその一瞬で十分過ぎた。
「すまんね~、ではさらばだ。御免」
たった一本。棒手裏剣をするりと指の間に忍ばせ、鞭の先端に巻き付いたものを飛ばすかのようにしなやかな所作で腕を振った。
正確に手裏剣はシャドウサーヴァントの半開きになった口内へと飛び込む。喉の裏を容易く突き抜け、脳髄に致命的な穴を穿つ。
ぽっかりと空いた空洞は後ろの景色が見えるとまでに思うほど大きかった。
大型の拳銃で撃ったとしてもこうも鮮やかに大穴は空くまい。これも英霊なればこそか、ダガーとしては常識はずれの威力だ。
こうなっては蘇生宝具でも持たぬ限りどんな英霊でも死は免れない。ましてや、スキルや宝具といったものを封じられたシャドウサーヴァントだ。
たちどころに闇色の粒子となって消えていく。少し離れたところで呆然と立っていた黒く染まった人影もだ。
つい一呼吸前までの緊張が嘘のようにトンネル内に満ちる空恐ろしいほどの静寂が戻ってくる。
床や突き刺さっていた棒手裏剣を引き抜くと、アサシンは振り返って意地の悪い笑みを浮かべた。
「いやはや分かっていたことでありますが、マスター……実に役立たずでありますな!
オルナ殿の援護はまさに的確にして強力、仕留めるのに二手は減ったでありますよ?」
「う………………ぐ………………」
ただ構えていただけのヤヒロは苦虫を噛み潰したような顔をする。
仕方なくはある。オルナのように比較的気軽に魔術で援護できるわけでもないヤヒロは下手に前に出ず生存をこそ優先すべきだ。
それでもそのアサシンにやり込められて憤懣やるかたなし、といった憮然とした表情が純粋に可笑しくて、つい。
「………ふふ」
竪琴を仕舞いながら、オルナは密かに笑い声を上げてしまった。ふたりに見えぬよう。
---
一行は時折遭遇するシャドウサーヴァントをやり過ごしつつ、線路をひたすら辿って歩いていた。
時折無人の電車が通過するのを空きスペースに入って見送り、アサシンを先頭に油断なく進んでいく。
今のところ、オルナの感覚を以てしても何か特別な感覚を感じ取れたことはない。
ただひたすらに同じトンネルが続き、各停車駅にはその駅とよく似た、しかしところどころ違うホームがあるのみだ。
まるで梯子をよじ登るような行軍だった。変わらない景色をひたすら伝っていく我慢の道中。
単調ではあったが退屈ではなかった。なんせたびたびシャドウサーヴァントたちと遭遇しては戦闘、あるいは側溝や工事用の細道に入り隠れてやり過ごすことになる。
なるべく遭遇は避けたいというオルナとヤヒロの共通見解においてはあまり歓迎すべき退屈潰しではなかった。
そういった光景をいくつか見送ってきただろうか。
「………………」
「……どうしたの」
「……いえ、なにも」
退避スペースの物陰に隠れ、ヤヒロと小声で話し合う。
ヤヒロが小首をかしげながら前方へ向き直ったのを確認してから、そっとオルナは襟を口元に寄せて匂いを嗅いだ。
向こうでは今まさに、同士討ちを――いや、これが『聖杯戦争』であるなら真っ当なはずの、シャドウサーヴァント同士の『殺し合い』が行われていた。
一方が一方に止めを刺し勝利した、その瞬間密かに接近していたこちらのアサシンが死角――足場など無いはずの天井から急襲する。反応など出来るはずもない。
洞窟を行く者の頭上に落ちてきた毒蛇だか毒蜘蛛だかのようなものだ。アサシンというサーヴァントの持つ理不尽が此処に示された。
真上から脳天に小刀を深く突き刺されてはひとたまりもない。戦闘に勝利したはずのシャドウサーヴァントは己の死すら知覚すること無くどろりと闇に溶けていく。
まさにアサシンクラスらしい恐るべき静粛さでひとたびの狂騒の幕は閉じた。
勝ったとしても油断なく周囲の様子を伺い、危険はないと判断したアサシンが此方に戻ってくるのを見てようやくオルナとヤヒロは姿を表す。
「容易いでありますな~。さすがに少し退屈になってきたであります。
先程の大きなサーヴァントくらいの手練れであれば多少は歯ごたえもあるというものでありますが」
「おいおい、勘弁してくれよ。
なるべく危険は少ないほうがいい。この不意打ちだってお前が提案したんじゃないか」
「ま、左様であります。三騎士ならともかく、我々アサシンクラスは不意打ち上等、格下狩り上等でありました」
「…………………」
言葉を交わし合うヤヒロとアサシンを他所に、オルナはどろりと砂の城のように溶けて消える人形を見つめていた。
マスター。そう、あのシャドウサーヴァントたちのマスターなのだろう。違うのは、サーヴァントが消滅することで自動的に消えてなくなることだ。
まるでサーヴァントのようだ。サーヴァントという楔を失ったことで、この世から退去するマスターの姿。
何か背筋が冷えるものを感じる。自分たちの築いてきた秩序を冒涜されているような…。シャドウサーヴァントもだが、この地下空間における歪の象徴であった。
視線に気づいたヤヒロが口を開く。
「………あれが気になる?」
「…全く気にならないとは言えないです。彼らはどうなってしまったんでしょう」
「言ったろ。『喰われた』んだ。十中八九。もう死んでる」
少し驚いた、というのはオルナの隠しきれない感情であった。
突き放したようなヤヒロのその言葉。このダンジョンに入ってから見てきた彼の姿からは想像出来ないものだった。
まるで魔術師のように生死に関して割り切った言葉だ。正直なところ、あまり似合わないとも思う。
ただ、裏表の裏の部分…という感じはしない。表の部分だが、今まで見る機会がなかった部分。というのがオルナが感じる印象だ。
そんなオルナの様子を知ってか、付け足すようにヤヒロは言う。
「見たんだ。一度排除したはずのサーヴァントとマスターの組み合わせが再びこの地下鉄内を徘徊してるのを。
本来はマスターが先にあってサーヴァントを喚ぶところが此処では反対なんだよ。サーヴァントがまずあって、マスターをあてがう。
『聖杯戦争』を歪に再現するために。理由はまだ知らないけど。
そのためにマスターとなりうる人間を掻き集めてる。この、一日200万人以上が利用するロンドン地下鉄の一角を使ってさ。
あんな様子では、生きているかどうかという話をするなら厳しいと思う」
「………………」
つい黙ってしまった。受け取り方によっては次の言葉を催促したようであったかもしれない。
………違う。そういうことが聞きたかったわけではないのだ。
むしろ聞きたかったのは、マツミネ・ヤヒロと名乗る男の―――。
「…そりゃ俺だって、彼らが生きてるというのなら助けたいよ。その可能性があるならそうしたい。
でも、そうとは分からないなら縮こまってはいられない。半端な推論で立ち止まっていたらその間に被害者が増える。
立ち塞がるなら俺は躊躇いなく、彼らを討つ。
例えば、それで彼らがまだ持っていたかもしれない命が削られていたとして――その時は、責は背負うさ。
でも、今は少しでも早くこの異界を壊すことが―――」
一呼吸あって。
「俺の、正しいと『思う』ことなんだ。俺は『正しくありたい』」
―――まただ。またあの既視感だ。ぐるぐると独楽の上に立っているかのように目が回る。
嗚呼。あの日、あの時。あの少年が言った言葉とそっくりそのまま。
オルナのサーヴァントの宝具で集った英霊たちが一掃され、だがある一騎だけは健在で。
そしてオルナのサーヴァントを、ただの生身の人間の分際で葬り去った少年がオルナに告げた言葉に、そっくりで。
そんな少年に『絶対に生きろ』と。『それは正しいことなのだ』と。
そう、訳知り顔で…いや、いいや。自分らしくもない必死な語り口で叫んだ。強く焼き付いたその記憶が呼び起こされ―――。
だから。気配遮断のスキルも使わずに近くへ寄ってきていたアサシンに気付かなかった。
「………………すん」
「―――ひえっ!?な、なんですっ!?」
「…ははあ」
アサシンとの彼我の距離は異様に至近であった。虚のように深い闇を湛えた目がじっとオルナを見上げている。
今何をされた?匂いを嗅がれた?思わずオルナは飛び退く。今しがいた場所でアサシンがくつくつと笑っていた。
「思うに?オルナ殿…汗をかいたのを気にしていらっしゃるのでは?」
「んなっ!?」
「忍びに隠し立てが出来ると思わないで欲しいものでありますなー。
先程からしきりに気にしていたでありましょう?歩きっぱなし、走りっぱなしではさもありなんでありますが」
「……ああ。ごめん、気が付かなくて」
「―――――ッ!」
ぼんやりと口にしたヤヒロへ振り返り、きっと睨みつける。
アサシンならともかく、男性のヤヒロにそれを知られるのはさすがに恥ずかしい。気も回さずに平気で口にしたアサシンもろくなものではないが。
だが確かにアサシンの言う通り、汗臭さが身に纏わりついている気がした。実際には然程ではなかったが、そこはオルナも女だ。
更に身嗜みに関しては厳格に躾けられてきた経験がそれを大いなる恥だと強く認識させる。
本音を言えば、一刻も早く水を浴びたい。状況が状況である。我儘を口にするつもりはなかったが、それでも。
自分の頬が紅潮しているのがオルナ自身も分かる。視線を受けたヤヒロは明らかな様子で狼狽えていた。気後れした顔で一歩下がる。
「ご、ごめん。その、悪気は無かった。謝る」
「いいえ!気にしてないです!悪気が無いのも分かってるです!誰が悪いかと言えばそこのサーヴァントですから!」
「さぁて、何のことやら」
「……しかし」
まるで悪びれないアサシンへ怒りの視線を向けていたオルナの耳に、ヤヒロの呟きが届いた。
ヤヒロの腕に嵌った腕時計の液晶画面――デジタルの時計はオルナにとって親しみはなかったが――のぼんやりとした曖昧な光がヤヒロの顔を照らしている。
「そうだな。確かにこれが外ならとっくに今頃は夕食を摂って休んでいる時間だ。
俺たちもこのあたりで一休みしなきゃ持たない。俺も一日分の汗を流したいのには賛成だ。…オルナの分の着替えは…見つかるか分からないけれど。
あ、いや他意は無いぞ?こんな状況だと言うこともあまり遠慮してられないのはすまないと思うけど」
自分で言ってることを喋っている途中で反芻してかヤヒロが妙に角ばった動きで手を振って二心を否定した。まだ何も言ってないのに。
言われて気づいたが、ヤヒロの今来ている白いシャツはどこか見覚えがある。
少し眉を寄せて凝視するとすぐに分かった。プリントされた小さなログマーク。駅員が着る指定のYシャツだ。
口振りからしてこの3日間、彼はそうやって着替えを『見つけて』きたらしい。食料と同じように。
つい疑問を告げそうになり、すぐに口を噤む。そうだった、自分は魔術師であるが彼は魔術使い。それもごく初歩の魔術しか使えない"らしい"魔術使いだ。
『浄化』とは系統にもよるが、意外と加減の難しい魔術。錬金術などだと容易いが、そうでないと少し応用やコツがいる。彼が使えないのも道理だった。
「……大丈夫です。服なら私は魔術で清潔に出来ます。
それより、汗を流す場所なんてあるんですか?濡れタオルで体を拭くだけとか……そういうことならこちらも魔術で代用するです」
「皆が思うよりも駅ってのは多機能さ。なんせ利用するのは客だけじゃない。駅員や車掌たちもなんだから。
えーっと……この先は……うん、この駅ならあるはずだ」
ヤヒロは路線地図の載っている例のパンフレットを懐から取り出して広げ、現在位置を再確認する。
ようやく心身の落ち着いてきたオルナと腕組みをして静かに佇むアサシンの視線の中、顔を上げたヤヒロがかすかに微笑んだ。
「あるよ、シャワー室。湯船までは期待しないことを勧めるけど」
---
ごつん、と。
プラスチックで一体成型化されたシャワー室の壁に額を軽く打ち付ける。額の骨に伝わる衝撃と共に鈍い音が脳内に響く。
薄目を開くと流れる水のヴェールで歪んだ視界の先に面白みのない真っ白が映った。
大して特徴もない、まるでロッカールームのような小さなシャワー室。宿直の駅員が利用するものなのだろう。ある程度清潔が保たれているのが幸いだった。
一糸まとわぬ姿のオルナを頭の上から降りかかるお湯が濯いでいく。水道設備はどういう理屈か、この異界でもしっかりと機能した。
確かに魔術を使えば服は勿論、体を清めることも不可能ではない。しかし、これは気持ちの問題だ。
肌の上を流れていく温水が溜め込んだ疲弊を押し流すと同時に、凝り固まった思考を解きほぐしていく。
まるで自分は蝋人形のようだと思った。暖められればどろどろと己を損ないながら融解していく分、かえって四肢の自由が効くようになる。
「………」
臓腑に溜め込んだ重い鬱屈を吐き出すように細く長いため息をつく。張りがあり形の良い胸の双丘が呼吸に依って押し上げられ、呼吸に依って項垂れていく。
…あまりに様々なことが起こりすぎた。
依頼を前日に請け、午前中にひとまず足を運んでみるかと地下鉄へ。
乗り込んだ車両内で異界に取り込まれ。シャドウサーヴァントに襲われ。間一髪逃げ出したところで"彼"と遭遇。
あとは"彼"とひたすら線路沿いに歩き続け、途中アサシンと合流しながら……今はこんなところでシャワーを浴びている。
あまりに浮世離れした事態だったが、もともとその浮世から離れた場所を往く人生だ。
正道の魔術師の道を行く分だけオルナには異常そのものに対しては耐性があった。
異界、即ち敵の陣地に取り込まれたのだ。こういうこともあろう。
となれば。やはり心を騒がすのは"彼"のこととなる。
「………」
我ながら信じられないことをしている。
様々なものを天秤にかけた結果だったが、まさか外に男がいるのに寸鉄も身に着けないなど。
実際には予め生成した結界の中にいるため全く無防備というわけではなかった。他にもいくつか理由はある。
このまま汗も流さず休むことに耐えられなかったこと。ヤヒロと自分の魔術師としての力量差。
この状況でヤヒロが自分の信頼を損なうことに何らメリットがないこと。『…セルフギアススクロールでも綴ろうか?』と言ったヤヒロの表情。
あと、一応だがアサシンもあの戯けた口調ながらしっかり見張っていると約束した。
―――それでも普段の自分なら絶対にあり得ない行動だ。
家から外界に出てもオルナの頑迷さ、人間不信は更に増す一方だった。こうしている今も決して緊張感が薄れたわけではない。
ただ、それでも天秤を僅かに傾けさせる決め手になったのは、ここまでのヤヒロの態度だろう。
多分……自分は信じたわけではないが、多分。一般的には良い人なのだと思う。
振る舞いは至って紳士的な範疇だ。シャワーを勧めたこともオルナが女性であることに気を遣ってくれたのだろう。
魔術を扱う者として突出した才能は感じないが、こういったことに場馴れしている様子もあってそれなりに頼りになる。
時折見せる微笑みにはこちらをなるたけ安心させようとする意思が込められているような気もする。
下心は…無いのだろうか。男性の感情はよく分からない。ただ少なくともそういった露骨さは見受けられない。
不思議な青年だ。人生経験の少ないオルナにとっては初めて会うタイプの人間だった。
扉の外を想像してみる。振り返り振り返りしつつシャワー室のドアを閉めた時、ヤヒロは早速アサシンと今後について相談を始めていた。
彼が今オルナの柔肌に手をかけようと結界破りを行っている姿………あの真剣な表情からはうまく想像できなかった。
想像通りなら、今も扉の前で不意の襲撃に備えている………はず。
「……結局、彼は何者なんでしょう」
ぽつりと呟いた独り言が染みひとつない白い壁に吸い込まれていく。
ただ同姓同名にしてはあまりに出来すぎている。何らかの魔術で外見だけ急成長した、というのもあり得ないわけでもないが…。
なんとなく、あの聖杯戦争で喋った時の少年と比べると洗練されているというか。
否。逆だ。オルナは逆に考えてみた。
まず、今のヤヒロとオルナが知るヤヒロを同一人物と仮に置く。
今会っているヤヒロが本来のヤヒロであり、自分が過去に会ったヤヒロこそがイレギュラーだったのでは?
そう、例えばあの時会った少年は過去からやってきたマツミネ・ヤヒロで―――などと考え出して慌てて否定した。
魔術師ともあろうものが情けない。時間遡行など魔術ではなく魔法の領域だ。
だがしかし、あれが過去の記録の再現なのだとすればギリギリ魔法ではなく大魔術の域――十分凄まじいことだが――に留まる。
そして、オルナが参加したのはその大魔術の粋たるもの。聖杯戦争だ。
証拠すらまともにない、あくまで推測、あくまで仮定ではあるが――――
「なら――――」
「そーでありますなー、愉快な人間だとは思うでありますよ?」
ぎょっとした。帰ってくるはずのない返事が返ってきたことに。
すぐさま結界の有無を確認する。破られた痕跡―――無し。
オルナの竪琴の音色によって蜘蛛の巣のように張り巡らされた結界の渦に掠りもせず、この場に侵入した何かがすぐ側にいる。
とっさに竪琴へ手を伸ばそうとして、それを外に置いてきていることを思い出す。
魔術的なパッケージは施されているとはいえ風呂場に持ち込むのはあまり快いものではない。とはいえこの瞬間はその判断を悔やんだ。
「誰!?」
「誰って、己れ以外いないでありましょう。こうまで強固な結界、よほど殿方には踏み込まれたくないと見える。
とはいえアサシンであり忍びである己れには……ま、これこの通り」
ゆらりと。
白い壁の向こうから、黒い靄が現れた。気体や流体、そういったものと錯覚させる動きで。
「アサシン。……どうしたのです。外で何か?」
「特には。ああ、言っておきますと『この己れ』は遁術…いわゆる分身の術でありますな。
あなた方に分かりやすく言うと、霊基を分割して操作している。本体は今も扉の向こうでありますよ」
とんでもないことをさらりと言った気がするが、それが忍者のサーヴァントでは常識なのだろうか。
ともあれ扉を霊体となって透過し音もなくアサシンはやってきた。オルナの目の前で今一脱ぎ方の分かりにくい服をぽいぽいと床へ脱ぎ捨てていく。
先程男やら女やらに化けてみせたアサシンだが、そのせいか性別というものをどうも感じにくい。
普段はこうして小柄な女性の姿を取っているとはいえ、どちらの扱いをするのも憚られた。
道化めいたその口振りや口調からすると喋る人形を相手にしている気分になる。人形に性別はあっても自身との性差を感じることはないのと同じ。
…幾つかのサーヴァントと出会ってきたが。その中でも人間味を感じないという点では図抜けていた。
それが嘲りであれ、よく(嫌味な)笑みを浮かべるサーヴァントなのに、何故か。
「……何をしているです、アサシン?」
「何って、風呂場に来たらやることはひとつでありましょう。お隣失礼」
そうして2つしかブロックのないシャワールームの、オルナの入っていない片側へとアサシンが滑り込む。
今のアサシンが取っている姿は本当に小柄だ。姿だけならローティーンの少女がシャワーを利用しているだけに見えるが…。
もしかしてオルナの様子を探りに来たのだろうか。あるいはヤヒロの指示か。
どちらにせよ害意があって結界をすり抜けてきたという様子ではない。このアサシンは尻尾を振りながら噛み付いてきそうなサーヴァントではあったが、それはともかく。
あるいは本当にシャワーを浴びに来ただけなのか。少し上機嫌な調子もレバーを捻る手付きには垣間見えた…気がする。
なんせサーヴァントにとってシャワーはまるで意味がないことなのだ。霊体化と実体化を経由すれば汚れなど落ちてしまうのだから。
「長いこと水に打たれているでありますな」
「…少し考え事をしていただけです。急かすために来たなら出るです」
「んー。周囲に敵影はなし。気配もなし。今のところは問題ないでありましょう」
「そう、ですか…。…マツミネさんはなんと?」
「さて、何も。手持ちの絡繰で焚き火を生んで湯を沸かすのに集中しているようで、己れが分身をここに遣ったことも気づいていないようでありました。
あの影法師どもは相当機能を限定されているようでありまして、視覚以外の感覚には頼らない。おかげでお二方は温かい飯にありつけるでありますな~」
どうやらアサシンの言ではここにアサシンが現れたのは本人の独断に依るものであったようだ。
とはいえヤヒロですら『胡散臭い』と所感を示すサーヴァントだ。オルナにとっては当然どこまで信じたものか判断がつかなかった。
しかしそうなると尚更不可解なことになる。
止めていた体を洗う作業を再開させながらオルナは問いただした。
「……本当に何のために来たです?アサシン。
あなたであればシャワーを浴びる必要はないでしょう。僅かな手間で同じ効果を得られるはずです」
「だから先程申し上げた通りでありますよ。したいからやっているのであります。
この百地丹波という忍びはどうやら生前湯浴みを好んだ『ようでありますので』。忍びが皆任務にひたすら打ち込むものとは思わないでほしいでありますな~」
「……………?」
発言に引っかかりを覚えたが、備え付けの安物シャンプーでいそいそと髪を泡立てているアサシンを見ていると何も言えなくなる。
距離感の掴みづらいサーヴァントだ。仕事には忠実なタイプかと思いきやこうして己の享楽としか考えられない行動を取ったりもする。
ヤヒロはうまく付き合えているようだったが、もしもこのアサシンが自分のサーヴァントだとすると…あまり上手く手綱を握れる自信はない。
しばらくそうして黙っていた。シャワーが吐き出す水音だけがうら寂しく真っ白なシャワールームに響く。
ふとアサシンが口を開いたのは、オルナが己の裸身を大方洗い終えた頃だったろうか。
「それにしても―――オルナ殿は随分な怖がり屋でありますな」
「なっ………いきなり何ですか!
私は別に何にも怯えてなど……!」
「声音。視線。身振り手振り。態度。こんな厳重な結界を張ってまで備える思考。
さすがにこれで察することが出来なかったら透波失格であります。
己れやマスターの多くの言葉にいちいち『これは信頼できる言葉だろうか?相手は己を陥れようとしていないか?』と考えているの、丸わかりでありますよ」
「………………!」
「ああ、ご安心を。あの唐変木、おおっと一応ではあっても我がマスターをそんな悪しざまに言うものでは無いでありますな。
とにかくマスターには何も話してなどいないであります。くひひ、信ずるも信じないもご自由に。
これはオルナ殿に対してはあまりからかい過ぎない方がいいかもしれないでありますな~。無用の怒りを買いそうであります」
けらけらと笑う声に思わず強い視線を隣のロッカーへ送る。
申し訳程度の仕切り戸の先、流水に身を任せるアサシンの表情は髪の量が多すぎて見えない。
濡れてますます艷やかに、怪しく光るアサシンの黒髪は美しいと思うが……本人がこれではそう素直に受け取ることも出来なかった。
分かってはいたが、性格の悪いサーヴァントだ。忍びというと主に忠実、というイメージをぼんやりと持っていたが儚くもがらがらと音を立ててそれが崩れていく。
周りの人間を嘲って笑う悪癖をこのサーヴァントは持っているらしかった。……それらも含めた全てがどこか空々しく感じるのは保留としておこう。
下手に否定してはかえってアサシンの笑みを深くさせるだけか。幾らか取り繕うのを諦め、オルナは嘆息をついた。
「……別に。我が家訓というだけです。
なるたけ他人を信ずるべからず。一族以外の者は必ず我々の足元を掬おうとする、と。
でも我がオルナ家のみならず、魔術師なら大なり小なりそういうものです。
マツミネさんの言葉ではありませんけれど、疑心暗鬼が基本の因果な稼業ですから。私だけが特別なわけではないです」
少し嘘をついた。
だとしても我が家の不信ぶりは他の魔術師と比べても強烈だ。外界に出たことでオルナはそれをようやく実感した。
200年前、アメリカ西部で開催された聖杯戦争で何があったか詳しいことは知らない。
語り聞かせられたのはその聖杯戦争において、オルナと同等の才覚を持った女性が参加し文字通り全てを失って帰ってきたこと。
ともすれば根源へ到達したかも知れない彼女が残骸へと変わってしまったことで、オルナの家は人嫌いの血筋へ変わってしまった。
何度も聞かされた話だ。人間を信じるな。社会を信じるな。秩序を信じるな。幼いオルナはそれを鵜呑みに育ってきた。
それでも――――今は、その教えにも引っかかる部分はあって。
だから、それを口に出してしまったのがよりにもよってこのアサシンだったのは失敗だったかも知れない。
「ああ――――それは違う」
「え」
戯けた様子が少し鳴りを潜め、静かにアサシンが口にした言葉を聞いて直感的にオルナはぎくりと心臓の鼓動を跳ね上げた。
魔術の授業でも扱う解体用のナイフをふと思う。それを真っ直ぐに突き付けられたような。
何か。自分にとって、大事な部分を切開される。そんな悪寒が背筋を這った。
「オルナ殿の不信は"既に"そんなことに根ざしてなどいないのでは?
だいたいその教え、どうせ『一族のことは全て信じよ』と続くのでありましょう。
やったやった!我が伊賀の里でもとりあえずは似たようなこと教えるのでありますがなー!こと人の心は容易からず、と。
言い訳がましく口にするあたりもうそれ自体には疑いを持っている…あるいは、もう信じていないのでありませぬか。
オルナ殿が怯えているのは、単に自分がないだけであります。
縋るものがない。拠って立つものがない。才気だけは自他共に認めるほど満ち溢れているのに、いくら磨いても満たされない。
何故か。それ以外に何もないからでありますよ。自分を構成する要素が、何も」
「………そ、れは。そんなこと」
「こう見えて己れ、指導者でもありましたので。それなりに人を見る目はあるつもりであります。
所詮推測と言われれば?それはそうかもしれないでありますがな~」
言葉の続かないオルナへ向けてアサシンが言葉を紡ぐ。
それは外見通りの鈴が鳴るような透明感のある声だというのに……ひどく、ざらざらとして、耳障りだった。
「……ま、とはいえ。己れにそんなことを言われるのはオルナ殿にとっても心外であるやもしれないでありますな―――」
レバーを捻り、シャワーの水を止めてアサシンがこちらへ初めて振り向く。
その時何か形容し難い変化が起きた。突然目の前の人影にモザイクだかノイズだか、まるで事実が書き換わっていくのを誤魔化すような。
そんな砂を噛むような違和感と共に人影がみるみる膨らみ、形を変えて。
「きっとサーヴァントの中でも指折りに『自分がない』者が言っても説得力は確かに無いであります。
誰にでも完全に化けられるというのはつまり、心が不定形……自分の標になる自分が無いということでありますからな。
ひとつ忠告を。マスターはそういう意味では強力な自己を保有しているであります。生っちょろい、青臭い。
とても己れには甘すぎて食えたものではないでありますが、どういうわけか芯は通っている。油断すると引きずり回されるでありますよ?
では、これにて。御免」
わざとらしく白魚の指で印を切るのは、流れるような金糸の髪に均整の取れた身体。
鏡の中で毎日向き合っている細面が、ただ表情だけオルナならば絶対に浮かべない悪どい笑みを浮かべていた。
アサシンの持つ擬態能力。完全にそこにはオルナではないオルナが存在した。
直後、もうひとりのオルナが粒子を放ってその場から消失する。…本体が分身との接続を解除したらしい。
唇を噛む。アサシンのいなくなったシャワールーム。少しの間、オルナの身体を流し続けるシャワーの水音だけが室内にこだました。
---
「あ、お帰り。出来てるよ」
「……なんですそれ?」
「レトルト」
小さなシャワールームから出てきたオルナを真っ先に出迎えたのは芳しい乳製品の香りだった。
この異界に閉じ込められた時にヤヒロに振る舞われた茶以来の、人間の存在を肯定してくれる食品の匂い。
そう感じた瞬間胃が蠕動し強く空腹を覚えた。……そういえば、朝食を摂ったのを最後に何も食べていない。
空腹は最高のスパイスなどという言葉があるが、今のオルナにとってはそれは魔性の匂いだった。
ヤヒロの手元を見ると、湯煎で温めたパック状の包装を取り出して封を切っている。匂いはそこから発せられていた。
チーズリゾット。なるほど、これは一種の暴力。
あまりその手の即席食品を口にする機会のないオルナだったが、殴りつけてくるような芳香は問答無用の説得力を持っていた。
ヤヒロに近づくと封切りされたレトルト食品を包装ごと慎重に渡される。もう片方の手にはスプーンが握られていた。
「このまま食べるですかー…」
「皿の上に盛り付けて、皿を洗って…とか、そういう手間は省きたいから悪いけどこのまま」
「いえ、文句はないです。
確かに合理的な判断だと思うです」
「うん。まだ熱いから気をつけて」
渡されるままに受け取り、湯上がりで少し火照った身体ですぐ側にあった椅子に座る。どうやらヤヒロかアサシンが適当に見繕ってきたらしい。
少し目をやるとシャワールームに隣接した駅員用の宿直室が目に入る。簡易的なベッドが数台、やはり簡易的な机と椅子が一組。
今晩――陽の光が無いので時間の感覚が薄いが――は此処を利用するのだという。
アサシンの寝ずの番に加えてオルナの結界が備わることでより安全に休める、というのはヤヒロの呟いていた言葉だったが。
(男性とふたりでひとつ屋根の下に就寝、ですか……)
サーヴァントはともかく、家族以外だとそんな経験は当然ながら無い。どうやら試練の夜になりそうだ。
気を取り直して視線を手元に落とす。包装の口からはさも美味しそうに湯気が上がっていた。
匙を突っ込んで口に運んでしまいたかったが、いつもの猜疑心が首をもたげてオルナに警戒を促す。
この包装は直前まで密閉されていたが呪詛の類なら封が切られていなくてもかけられる。毒だって絶対に混ぜられないわけじゃない。このスプーンも怪しい―――
「…………………」
どうも自分にとって珍しいことを続けて行っているな、とぼんやり考えながら匙で掻き出したリゾットを口にする。
悔しいことに、リゾットの味は即席食品だというのにその辺の料理屋と比べてもなかなかの味だった。
久しぶりの温かい栄養補給に全身が賦活していく。ふう、とつい溜息をついてしまった。
……ろくに調べもせず口にしたのは、ヤヒロをいよいよ信用したからではない。
あれこれと疑心暗鬼に食品の正体を調べる姿勢をアサシンに見られて嘲笑われたくなかったのだ。
それだけはどうしても嫌だった。年頃らしい反発心と言われればそうかもしれない。
ただあの何もかも見透かした風のアサシンに「やっぱり」という顔をされるのだけは避けたかった――例えこの食品を口にしたことで死んだとしても。
その本人はというと少し離れたところで腕組みをして壁に寄りかかり立っている。
オルナの視線を感じたのか。アサシンは通路の向こうに遣っていた目を此方に戻し、黙ってへらへらと笑う。
まるで先程の一件など何でも無いことだったかのようだ。ヤヒロの態度を見るに彼もアサシンの行いに気づいていないらしい。
……面白くない。そう、面白くないというのがオルナの率直な感情だった。
どうもアサシンの手のひらの上でうまいように転がされている気がする。
僅かに怒気混じりの溜息をつき、匙を包装の中に突っ込む。ヤヒロも自分の分をもそもそとつつきだしていた。
しばらくそうして時間が過ぎる。……ちょうどお互いに食事が終わった頃だったろうか。
事態の急変を告げたのは何をするでもなく立っていたアサシンの異変からだった。
「…………」
おもむろに壁に寄りかかるのをやめ、頼りなげに灯る電灯の下で廊下の彼方へと注視する。
突然アサシンが身に纏う空気が変えたのはオルナにもヤヒロにもすぐに理解できた。
湯を沸かすのに使っていた携帯コンロをバックパックに詰め直していたヤヒロはなるたけ小さな声でアサシンに問いかける。
「敵か?」
「いや……そのものが近づいてきているわけではないでありますが。たぶんお二人にもすぐに分かるようになるでありますよ」
その時点では要領を得ない言葉だったが、確かにそれは真実だった。
鉄と鉄が軋み合うことで伝わってくる空気の振動。このロンドン地下鉄を利用しているなら誰しもが耳にするだろう、当たり前の響き。
電車がトンネル内を走ってくる音だ。それ自体は今日も何度か聞いたものだった。本数こそ少ないものの、何故か列車はこのサークル線を走り続けている。
トンネル内の退避スペース内で身を縮こまらせて通過するのをやり過ごしたものだ。ただ、今回違ったのは―――
「……停ま、る?」
「のようでありますな。減速がかかっている様子でありましたので、おや、と」
「よくないな。わざわざここに停まるということは俺たち目掛けて来たのかもしれない。
……変だな、ホームにいるならまだしもホームからは見えない駅の内部にいるってのに。今までこんなことはなかったんだが……」
ヤヒロが頭を捻ってぼやく。さすがに互いに魔の道に身を置く者同士、その間にも既に体勢は整えつつある。
オルナは竪琴を取り出し、ヤヒロはバックパックを背負い直しながら愛用の警棒に『強化』の魔術を静かに施した。
アサシンは横目でそれを伺い、首に手をやってこきりと鳴らす。指の間にはいつの間に抜いたのか、ナイフほどの長さの短刀が鈍い光を放っている。
ヤヒロの言ではあの列車は時に停車し、シャドウサーヴァントたちを吐き出していくことがあるという。
今回がそれなら油断は出来ない。ヤヒロが不思議そうにぼそぼそと呟いていたのもオルナには気になった。
「やり過ごせるか、あるいは就寝前のひと仕事となるか。ま、ひとまず様子を見てみるでありますか。準備はよろしい?」
「はい」
「ああ」
「それは重畳。では腹ごなしに参るでありますよ」
アサシンが影が滑らせて音もなく廊下を歩みだす。
まるで幽鬼のようにその歩みは掴みどころがなく、筆に黒の絵の具をつけて一文字を引いていく様を思わせた。
互いに視線を交錯させて小さく頷く。後を追ってなるたけ気配を殺しながらオルナとヤヒロは続いた。―――今宵が長い夜になるとも未だ知らず。