よくできたゲーム”と“面白いゲーム”の違いとは?――マリオの父、宮本茂氏の設計哲学

Last-modified: 2010-10-01 (金) 21:26:57

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 電機産業や自動車産業などの日本伝統の製造業が世界市場で苦戦を強いられる中、存在感を拡大させているのがゲーム産業の雄、任天堂だ。2009年3月期の売上高は1兆8386億円、株式時価総額は3兆円超と日本第9位の企業となっている(2月9日現在)。

 京都で花札やトランプを製造する一企業に過ぎなかった任天堂が飛躍を遂げる上で、キーパーソンとなったのがゲームデザイナーの宮本茂専務取締役情報開発本部長(57)だ。宮本氏はマリオシリーズやゼルダの伝説シリーズのほか、『Wii Fit』のような健康管理ソフトも開発、老若男女を問わず、世界中の人々から支持を獲得している。

 ゲームデザイナーとしての30年間の業績が評価され、第13回文化庁メディア芸術祭(主催:文化庁、国立新美術館、CG-ARTS協会)で功労賞が贈られた宮本氏。2月5日に国立新美術館で行われた受賞者シンポジウムでは、エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏(スクウェア・エニックス)が聞き役となり、宮本氏が自身のゲーム設計哲学を語った。

自分が素直に面白いと思えることをやっているだけ

河津 まず宮本さんから受賞された感想をいただければ。

宮本 これは授賞式でもお話ししたのですが、功労賞というのはだいたい年配の方がいただかれるものなのですが、僕は5年ほど前から功労賞みたいなものをちょくちょくいただくようになりました。まだ現役のつもりでいるのですが(笑)。

 ただ、授賞式の時に河津さんたち審査委員の方々が出てくるのを見ていると、僕はもう結構年上なんですね。「浜野保樹(文化庁メディア芸術祭運営委員)さんくらいしか年上の人がおられないやないか」ということで、すごく実感しています。ずっと現場で若い人たちと仕事をしているので、全然年をとったという自覚がなくて、「ちょっと嫌な響きの賞かな」と思いながらも、この業界を長い間見てきた人間として、できるだけ貢献できるように頑張りたいなと思っています。

エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏河津 宮本さんはゲーム業界では世界的に有名で、ゲームを作っている人間で宮本さんの名前を知らない人は誰もいないわけですが、ゲームをプレイされている方には意外とまだまだ名前を知られていないと思います。特に日本ではこういう分野の人間自体あまり注目されません。

 世界的に知られている人なのに、あまり国内で知られていないというのは、同じゲームを作っている人間として非常に残念です。今回を機会に名前が広まっていって、「宮本さんを目標に頑張っていこう」という若い人たちが入ってきてくれるといいなと思っています。これからの若い人たちに対して、どのようにお考えですか?

宮本 これは恥ずかしいのですが、日本では「世界で知られている」と言われていて、ドイツの街頭で「知っている日本人の名前を挙げろ」とインタビューしたら名前が出てきたとかありますが、僕は海外で普通に歩けます。ゲームショウのような特殊な場面に行くと大変ですが。

 逆に海外では「この人は日本ですごい有名なんだよ」と言われているのですが、日本でも普通に歩いています。「何かを作っている人が有名である」ということには勘違いがあるようで、山手線に乗っていると、すごい小説家の先生が前に座っていることもあると思うのですが、みんな気付きません。若いころはちょっと自分の作品が売れると、「自分も有名になりたい」といった欲があったような気もするのですが、今は「作ったものがすべて」となっていますね。

 ゲームを作ることに関しては、日本人が作るものに対して世界的な評価はすごく高いです。そのため、「どうして日本でそういうものが作られるのか」と興味を持って分析したがる人もいるのですが、僕は日本というより、また東京とか京都とかいうこととも関係なく、「基本的に個人が作っている」ということが大事かなと思っています。

 僕は別に世界を意識して作っていないんですね。「自分が面白い」というとわがままな感じになるのですが、「自分たちが素直に面白い」と思えることをコツコツやっているだけです。ただ、何十年かやってきて振り返ってみると、「東京に憧れて出て行かなくて良かったな」と何となく思いますね。「京都にいて良かったな」と。

 僕は大学のころに金沢にいたので、金沢にそのままいたら「東京に出たい」とか「大阪に出たい」と思ったかもしれないですが、京都で普通に仕事をしている間に30歳、40歳になっていて、「別に京都でやっていて何も問題はなかったやん」と思うようになりました。(京都にいても)世界中で売れますから。僕が40歳のころには自分が作る作品は海外で売る数の方が圧倒的に多くなってきていたので、「別に京都でやっていてもちっとも問題なかった」と思ったのです。

 そうすると、「どこで仕事をするか」ということよりは、「誰が作っているか」をはっきりさせて作ることが大事かなと思っています。日本の若い人たちにとって憧れって大事だと思うんですよ。東京に憧れたり、有名になりたいと思ったり、「世界に羽ばたきたい」という憧れがあったりしてもいいと思うのですが、自分の足元をちゃんと見て作るということが大事です。僕は奇をてらったり、世界のためにと思って作っていたりはしませんから。ちゃんとやっていれば、ちゃんと評価をしてくれる人たちが世界中にいると思うので、頑張ってほしいと思います。

ゲームを作るのは、漫画を描くのに近い

宮本 もともと小学校のころは人形劇の人形を作る人になりたかったので、今日も(文化庁メディア芸術祭受賞作品の)コマ撮りのアニメなんかを見るとドキドキします。中学校の時には漫画家になりたかったので、漫画家さんの原画を見てもドキドキしました。高校に入ってからは工学部に行こうと思って数IIIをとりました。でも、やっぱり美術が好きなので、美大に行こうと思った。分かりやすいですよね、「工学部に行きたくて、美大にも行きたかったら工業デザインしかない」という単純な流れで金沢美術工芸大学に行ったのです。

 金沢美術工芸大学を卒業して、アーティストとして落ちこぼれてたのですが、「何か面白いものを作りたい」とずっと思っていたので、工業デザインを専攻していたことから「遊具やおもちゃを作りたい」と思って任天堂に入りました。

 そのころ、任天堂はヘンな会社だったんですよ(笑)。トランプを作っている、カルタを作っている、花札を作っている、麻雀牌を作っている。それ以外にベビーカーを作っている、光線銃を作っている、ブロック玩具を作っている、ラジコンカーを作っている……。

 その時、僕は「任天堂はトランプでもうけて、そのもうかったお金で好きなことをさせてくれる会社ではないか」と思ったんですね、ちょっと間違って入ったのですが、入ったらトランプはそんなにもうかっていなくて、「自分たちで何かしろ」ということになりました。入社2年目くらいから『スペースインベーダー』が大ヒットしていたので、「おもちゃを作ろうと思っていたけども、ゲームでも作ってみようかな」と思って始めました。

 ゲームを作るのは、漫画を描くのに近いことなんですね。自分でコツコツ描けば後は印刷所がどんどん作ってたくさん売ってくれるということで、「これはいいじゃないか」と思ったのです。工業デザインだと、工場と交渉しながらプラスチックのモデルを作って、とすごく大変なんです。しかし、デジタルデータは漫画と同じように扱えると気付いて、「しばらくやってみよう」と思って始めました。

 ビデオゲームを作るに当たって、ディレクターという肩書きを自分に付けました。自分で絵を描いて、ゲームを考えて、3人ほどのプログラマーに作ってもらう。プログラマーもどんどんアイデアを出してくれます。

 当時は任天堂の中でゲームを作るチームがいくつかあったのですが、だいたい技術者が作るんですね。『スペースインベーダー』(タイトー、1978年)もそうなのですが、プログラムが組めないと作れない。プログラム以前にハードウェアが分からないとダメです。『スペースインベーダー』でも、部品をハンダ付けして得点の仕組みを変えていた時代です。

 それが徐々にプログラムで動くようになっていくのですが、ちょうど『ドンキーコング』(1981年)のころにゲームの基盤ができて、プログラムを変えれば動くという時代になりました。「プログラムを作ればいいんだ。技術者じゃなくてもできるんじゃないか」ということで、「じゃあ、絵を描く人が作っても悪くないんじゃないかな」ということで自分で絵を描いて始めました。

 なぜそんなチャンスがめぐってきたかというと、技術者が作っていたゲームが大量に売れ残ったんです。ちょうど任天堂が米国進出した時、米国で3000枚の基盤が売れ残っていて、「それを使って売らないとダメ」というのが僕の仕事でした。だから、世の中で言う「手を挙げる人がいない」という仕事ですね。

 でも、幸運だったのは、作った瞬間に海外で売れるということ、そして売れ残っているわけなので自由に伸び伸びとやらせてもらったということです。

 そして、自慢になるのですが(笑)、『ドンキーコング』は6万台売りました。業務用の機械なので、1台50万円とかです。今の売り上げには及ばないですが、6万台売ってほめられたかというと、ゲーム業界のバカなところで、7万台近く作ってしまったんですね(笑)。また売れ残ったというので、ほめられるよりも「次のを作ってくれ」と言われました。

 このころ僕は、若気の至りで「もう出し尽くしたからネタなんかない」とか言っていたんです。そしたら一緒にやっている友達に「そんなことないやん。『ドンキーコング』作る時にもっとスケッチあったやろ。使ってないやつを作ればいいんじゃないか」と言われて、「それもそうやな」と思って『ドンキーコングJR.』(1982年)を作りました。

『スーパーマリオブラザーズ』でファミコンが大ブレイク

宮本 それから何作か作って、それを「家庭でも遊びたい」ということでできたのがファミリーコンピュータ(ファミコン)です。ファミコンを売り出して、業務用で売っていた任天堂のゲームをファミコンに移植していく。それから、野球などのファミコン用の新しいゲームも作っていました。

 その後、ファミコンにディスクシステム(参照リンク)というものを付けることになります。(ファミコン用の)カートリッジのメモリが小さくて値段も高いので、ディスクの方がいいということです。

 そうすると、「来年からディスクで作って、カートリッジでは作らないのか」と思って、「じゃあ、カートリッジの最後の記念に何か作ろう」と思って、作り始めたのが『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)なんです。このころはまだ自分で絵を描いていて、クッパ(ボスキャラ)は新入社員に描いてもらったのですが、マリオは自分で描いていました。まあ、それで僕らはファミコンは卒業するつもりだったんです。

 でも、世の中分からないもので、それからファミコンが売れ始めました。それまでおもちゃ業界では、「年末に日本で100万個売る」というのが成功の1つの指標でした。ファミコンは『スーパーマリオブラザーズ』が出る前の3年間ほどで、毎年100万台以上を売っていましたからもう大成功している。マスコミは「そろそろファミコンは終焉か」と言っている時代です。僕らもそれに乗せられて、「ディスクシステムが出るので、そろそろファミコンは最後かな」と思っていました。

 そこで、『スーパーマリオブラザーズ』が出ると、今振り返ればそこから初めてファミコンがはやったということになります。それまではごく一部のおもちゃ好きの人が買っていた機械だったのですが、『スーパーマリオブラザーズ』が出て、初めて世の中全体がビデオゲームをするようになりました。『スペースインベーダー』以来、久しぶりにゲームをするようになった。

 このタイミングで日本では『ドラゴンクエスト』(現スクウェア・エニックスのエニックス、1986年)が発売されて、大ブレイクするわけです。ただこの時はまだ日本だけのブームなので、それから海外に出て行きました。

クリエイター30代限界説に挑戦

宮本 スーパーファミコンの『スーパーマリオワールド』(1990年)のころになると、1人で全部作るのは無理になっていて、「何本か同時に作らないとダメ」ということになってきたので、自分で“プロデューサー”と名乗るようになりました。会社の役職には部長、課長、係長しかなくて、ディレクターもプロデューサーもないので、名刺にそれを書いたら、「人事部的にこれは困ります」と怒られたりした時代があったのですが(笑)、プロデューサーとして大勢のディレクターに仕事をしてもらって全体の品質をまとめるようになりました。

 糸井重里さんと『MOTHER』(1989年)を作ったり、『ふぁみこんむかし話 新・鬼ヶ島』(1987年)というアドベンチャーゲームを作ったりしているうちに40歳になりました。クリエイター30代限界説みたいなものがあったりして、40歳でプロデューサーをやっていると、「そろそろ現場はやばいかな」「自分で全部ものを考えてまとめるという根気がなくなってるんやないか」と思うようになります。

 (ディレクターをやっていなかった期間は)30年の中ではそれほど長くないのですが、僕の中ではものすごく長い時間でした。そこで、NINTENDO64(参照リンク)というハード用のゲームを作る時、「1回ディレクターに戻ろう」と思って、頑張ってディレクターをやりました。大変でした。昼間は会社のほかの作品のプロデュースの仕事をして、夜にはディレクターとして仕様書を書いて、朝にプログラマーの席の上に置いて帰るというのを続けました。

 ただ、できたんですね。これができたことで、すごく自分の中で自信になりました。41歳の時ですが「まだまだ現役でやれるやないか」と感じた思い出の仕事です。そこで作った『スーパーマリオ64』(1996年)が世界中のゲームデザイナーにインパクトを与えて、3Dアクションの基本になったと言われます。

 『スターフォックス64』(1997年)は僕は任天堂の中にいながらナムコ(現バンダイナムコゲームス)ファンで、「ナムコに行きたかったなあ。ナムコのデザインかっこいいよな。資料を使わしてくれるしなあ」と思いながら作った作品です。

 『ギャラクシアン』(ナムコ、1979年)のようなシューティングゲームは、本当は誰でも遊べるんですね。ところが、シューティングゲームがどんどん難しいものになっていったので、「誰でも遊べる3Dシューティングゲームを作ろう」ということで『スターフォックス64』を作りました。また、石原恒和(現株式会社ポケモン社長)さんと一緒に作った『ポケットモンスター』を3Dで動かそうということで、『ポケモンスタジアム』(1998年)を作りました。

 海外で一番任天堂の評価を上げたのが、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年)だと思います。ここからどっと海外に出て行くのですが、任天堂の広報が僕をクリエイターとしてPRしてくれたりしました。海外ではそれまで、任天堂は米国や欧州の会社と思っている人が多かったんですね。ビデオゲームの代名詞として“nintendo”と言っていたりしていたのですが、「日本の会社だったのか」「日本人が作っているのか」とやっとみんなが気が付き出します。

いつまでもマリオしかやらないんですか

宮本 『スーパーマリオ64』や『ゼルダの伝説 時のオカリナ』などが3Dゲームの基本を作ったと言われます。そのころ僕は3Dの勉強をするためにPCの3Dレースゲームを見ていたのですが、自分のクルマが画面に描かれていないんですね。自分がコックピットから見ているということなので。

 僕らのゲーム感覚だと、マリオをコックピットに描かないと、そこにいるのが分からないと思うし、描くのが基本なんです。そこで描こうとすると、意外なことが分かりました。マリオを描くと、その分のポリゴン処理能力が必要になるんです。「マリオを描く分の能力を活用すれば、背景がもっと描けるんじゃないか」ということです。「そういう処理の限界に挑戦しながら、みんな作っているんだな」と思いました。

 また、それまでの3Dゲームでは、ある固定の視点からものを見ていました。僕らは演出をしたいので、そうではなく3Dゲームの中にカメラがあることにして、「そのカメラをどういう風に作るのか」ということが3Dゲームの基本になると思ったのです。映画の演出のように、プレイヤーキャラクターを客観的に見る演出がしたかったので、複数のカメラがあるということを軸に3Dゲームを作ろうと思いました。

 そこで『スーパーマリオ64』ではジュゲムというキャラクターがカメラをぶら下げている絵を作って、プレイヤーに「これからあなたはカメラを触るんですよ」ということを分かってもらい、カメラを動かしてもらう。

 それが『ゼルダの伝説 時のオカリナ』になると、剣で戦闘をする時にはカメラが背後に回りこんで、誰かにロックオンした状態でカメラが動くとか、塔を上っていくときには塔を中心にカメラがグルグル回って、どこにいてもプレイヤーキャラクターがちゃんと見えるようにするとか、複数のカメラを使うという仕組みを作ったんです。それが多分「3Dアクションゲームの基本を作った」と評価されるところだと思います。「自分がやったことがないことに入っていくのは、いろんな発見があってとても楽しいな」という時期です。

 マリオとゼルダばかりを20年近く続けていると、「いつまでもマリオしかやらないんですか」と周りから言われるので、「たまには違うキャラクターも作りたいな」ということで始めたのが『ピクミン』(2001年)です。「どうせキャラクターを作るなら、女子高生に受けたいな」と思って作りました(笑)。

 狙い通り結構受けたのですが、一番受けたのはCM用に作った音楽(『愛のうた~ピクミンのテーマ』)だと思います。その音楽がすごくかわいいので非常に評価されて、それで海外も売ろうと思ったのですが、「何か意味分かんない」という反応でした。フランス語にもして(『VOS MEILLEURS AMIS - SONG OF LOVE』)、情緒があってすごくいいのですが、フランス人も「分からない」と言いますね。海外では「すごいモンスターがアリを食べるぞ」みたいなゲームととらえられています。

 僕は3Dゲームを作りながら、「映像を見るんじゃなくて、映像に触るんだ」というテーマを『ゼルダの伝説 時のオカリナ』の時に決めていました。僕はアニメや漫画をやりたかったので『ゼルダの伝説 風のタクト』(2002年)は、「アニメの映像にも触りたい」ということで作りました。『マリオカート ダブルダッシュ!!』(2003年)はシリーズもので、新しいハードになると新作を出して2~3年経っても売れ続けるというものです。

面白いのは僕らだけと違うかな

宮本 このあたりまでが3Dゲームになった第2世代と思っているのですが、ここから僕はすごく変わります。マリオカートシリーズなどを作るとお客さんも喜んでくれるのですが、「面白いのは僕らだけと違うかな」と思ったのです。任天堂にはマリオクラブというデバッグをするところがあって、そこでデバッグをしている人たちにアンケートをとると、「ここを直したほうがいい」などと言ってくれます。しかし、そこで「パーフェクトだ」と言われても、「ゲームを遊ぶということが前提になっている人にとっては面白くても、ゲームを遊ばない人にとってはちっとも面白くないのではないか」と考え始めたのです。

 僕はチームの中で「世の中には“よくできたゲーム”と“面白いゲーム”がある」と言っています。僕らは自分たちのノウハウを突っ込めば、よくできたゲームはいつでもどんなものでも作れる。しかし、「それがお客さんにとって面白いゲームであるという保証は全然ない」ということです。だから、例えば『週刊ファミ通』のクロスレビューでゲーム評価がすごく高かったのに売れないものがあるとすると、ゲーム業界の中で生きていると「どうして?」と思うわけです。「評価が高ければ売れるんでしょ」と思っているので。社内でも「人よりよくできたゲームを作れば評価される」と思っている。

 ところが、世の中にはゲームなんてどうでもよかったりする人もたくさんいるわけなので、「やっぱりもっと面白いものを作らないといけないよね」ということに視点が移ります。原点に帰って、「インタラクティブ(双方向的)な面白さというのは何なのかな」とかいろいろ考えて、「ハード自体もそんな風に作っていかないと、これからの未来は広がっていかない」と思い始めました。

 僕は工業デザイナーなので、ファミコンのころからずっとコントローラーを作ってきたんですね。「ゼルダやマリオを遊ぶために」とか考えてコントローラーを作っていくと、どんどん複雑になってくる。3Dで遊ぶようになると、もっと複雑になっていく。そうして複雑になったコントローラーは、「分からない人にはもう触れないだろうな」と思うわけです。

 Macintoshを最初に見た時、僕は電源が切れなかった。「電源が切れないものを売っていていいのか?」と思ったのですが、ファミコンは電源スイッチとリセットボタンが付いているだけなのですばらしいと思っていました。しかし、自分たちが作っているものが、いつのまにかそういうものに近づいているということを感じていたのです。

 それで、ニンテンドーDS(以下、DS)でペン1本で遊んでみよう、「触ったら反応する」ということの面白さをみんなに感じてもらおうと思いました。その中で『脳を鍛える大人のDSトレーニング』(2005年)とか『ピクロスDS』(2007年)とか、ゲームというメディアに置き換えたほうが便利な本をゲームにしていきました。本でパズルを解いていると、鉛筆で真っ黒になって消すと汚くなりますが、デジタルだとメモしてもすぐに消せますので。

 それから触るなら犬をやろうということで『nintendogs』(2005年)を作りました。会社の中でこれを提案すると、「ああ育成ゲームね」と言われるんですね。「いや、犬と触れ合うゲームなので、育成ゲームと言わないでほしい」みたいなことを考えたりするのですが。

 『Wii Sports』(2006年)ではテニスの場合、キャラクターが勝手に走ってプレイヤーは振るだけでいいんです。フォアハンドで振るか、バックハンドで振るかを選べるだけで、つまり「テニスプレイヤーを自分で動かさなくても、テニスは本当に面白く遊べるか? 意外と遊べる」というものを作ってみました。

 一方、やっぱり昔から作り慣れたものを本当は作りたいので、『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』(2006年)を作りました。僕らの年代は鞍馬天狗が馬に乗ったりする姿を見ていて、パカパカパカパカ走るリズムが好きなので、絶対馬に乗せてやろうと思って作りました。

 『スーパーマリオ64』ではマリオを3Dにすることで、インタラクティブな魅力がすごく出たと思うんですね。当時、僕はハムスターを家の中で放し飼いにしていたのですが、縦横無尽に走り回るのがかわいくて、「それと同じようにマリオを走らしたい」とか思っていたのですが、「難しい」「3Dで酔ってしまう」とかいろんな人がいました。

 そこで、「マリオは誰でも触れるゲームにしたい」という思いがあるので、球体を使って重力の中心を1点に置いた『スーパーマリオギャラクシー』(2007年)を作りました。3Dでは走っていくと、自分がどこにいったのか分からなくて迷うんですね。また、ラジコンと一緒で手前に方向転換して走ると、左に曲がるためにどちらの方向のレバーを押したらいいのか分からなくなるということもあります。

 それが球体の上に乗っていると意外と楽なんです。球体の上をただ前に走っていても、もとのところに戻るので迷わないんです。それなら重力をもっといじってみようということで、複数の球体それぞれの中心に重力があるということにして、球体と球体の間を飛び回っていくというアクションゲームにしました。誰でも遊べるようになったのですが、「やっぱりアクションゲームって好きな人じゃないと難しい」と言われたりもします。

後編

京都で花札やトランプを製造する一企業に過ぎなかった任天堂が、世界中で愛されるゲームメーカーへと成長した。そのキーパーソンと言えるのが、宮本茂専務取締役情報開発本部長(57)。ゲームデザイナーとしての30年間の業績が評価され、第13回文化庁メディア芸術祭(主催:文化庁、国立新美術館、CG-ARTS協会)では功労賞が贈られた。

 2月5日に国立新美術館で行われた受賞者シンポジウムでは、エンターテインメント部門主査の河津秋敏氏(スクウェア・エニックス)が聞き役となり、宮本氏がゲーム設計哲学を語った。宮本氏が手がけた作品を駆け足で紹介した前編に続いて、後編では『Wii Fit』や『New スーパーマリオブラザーズ Wii』など、従来のゲームのあり方とは違った作品が開発された経緯などについて語った模様をお伝えする。

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家の中でコミュニケーションが生まれる

宮本 『Wii Fit』(2007年)になると、だんだん趣味の世界に入っていきます。「楽しいことって何かな?」と考えた時、自分が楽しいことでないと人に勧められないのですが、体重を計るのが楽しかったんですね。40歳を過ぎたあたりから水泳を始めて、自分の体が変化していくのが楽しくて、体重を計ってグラフに付けていたんです。

 “計るだけダイエット”というのはご存じですか? 要は「ダイエットを意識するだけで体は改善できる」というものです。そうやって体重計に乗っていると、家族が面白がって「お父さんが体重を計っているので、いい体重計を買ってあげよう」ということで、誕生日に100グラム単位で計れるものを買ってもらったりしました。うれしいのでそれに乗ってグラフの変化をずっと見ていると、楽しいんですね。

 それともう1つ、「同じ洗濯機で服を洗わないで」と言う娘がいるのですが、そのグラフを見て「お父さん最近頑張っているね」とか、「最近ちょっとさぼっていない?」と言ったりするんですね。「家の中でそういうコミュニケーションが生まれるということは、家庭用ゲーム機としてものすごく大事だ」と思っているので、「よく分からないけど、これを作ろう」と思いました。

 「体重計を作ろう」ということで始めたのですが、社内では「いったい何をするつもりか」とみんな困っていたと思います。「とりあえず体重計を作るので、どうしたらいいのか」と聞かれたので、「体重計を作るんだから、オムロンさんとタニタさんに聞きに行ってこい」と言いました。僕らも昔ボクシングゲームを作る時は近くのジムに遊びに行って、ゴングの音を録音させてもらって帰ってきましたし、「まず身近なところで始めたらいいのではないか」ということで、オムロンさんとタニタさんに行ってきました。

 それから、体重計は経済産業省が絡んでいるんじゃないかというので、「じゃあ、経産省にご相談に行こう」と言って、「計りを任天堂が作っていいもんなんですか」ということを素人がいっぱい聞きに行くわけです。そうしている間に何かまとまってきました。

 『Wii Fit』は発売して4年ですが、多分、世界で一番たくさん売れた体重計になりました。これ、ギネスとか言ったらダメなんですかね。2009年に新しいソフト(『Wii Fit Plus』)を出したこともあって、米国では2009年12月に200万台近く売れて今、世界販売台数は2500万台を超えたんじゃないかなという体重計です。1機種です。ちょっと誇りに思っています。

おじいちゃんは僕らのようにゲームをしない

宮本 こうして、できるだけゲームに関わる家族の人数を増やしていこうと思いました。「おじいちゃんはゲームをしない」と決めてはいけない。おじいちゃんは僕らのようにゲームをしないですが、ゲーム機の電源を触る、リモコンをちょっと触るといっただけで、おじいちゃんとしてはすごく遊んだ気分になれるかもしれない。「僕らは自分が面白いというレベルを、面白さのレベルに置いていないか?」ということです。人それぞれなんです。

 例えば、若い人も彼女が「すごーい」と言ってくれたら下手でもうれしいですよね。彼女も彼氏と一緒に遊べたら下手でも楽しいですよね。そういう視点ができてきて、WiiではMii(参照リンク)という似顔絵を作る機能を入れているのですが、これはすごく大事なんです。Wiiを子どもが買ってもらっても、お父さんやお母さんのMiiを多分作りますし、おじいちゃんやおばあちゃんがいたらそのMiiも作りますよね。

 似顔絵のソフトを作ると必ず、社内や作っているチームの中で「宮本さんは絵を描くのが好きだから作れるけど、絵を描けない人は似顔絵なんか作るのは苦痛なんですよ」とか「似ないんですよ、全然」と言われるのですが、僕がおじいちゃんの立場だったら、孫が作ってくれたら似てなくてもうれしいだろうと思うんですね。社内では「それは似てなくてもええのよ。自分で作って、家族がコミュニケートすることが大事なんだから」などと言って進めました。

 そうすると、ゲームをする人もしない人も、家族がみんなWiiの中に自分のMiiを持っているということになります。そこで、「どこかでMiiとゲーム機とをつなげていこう」ということを考えるようになって、『マリオカートWii』(2008年)ではMiiを使って遊べます。世界のランキングに入っていきたいとか、タイムレースをすると面白くないですよね。勝てない人は絶対勝てないので。でも、「ドイツの人と俺は遊んでいたみたい」とか、意外な人とつながっているというのはうれしい。

 実際のバンドでアドリブをやると緊張するので、腕がすくんでしまう。腕を振るだけならできるのに、ということでアドリブを楽しむ遊びとして作ったのが『Wii Music』(2008年)ですが、期待ほど売れませんでした。期待ほど売れなかったといっても、世界で300~400万本は売っていると思うのですが。

変わらないからいいものもある

宮本 『New スーパーマリオブラザーズ Wii』(2009年)は究極なんです。「ゲームは下手でも一緒に遊べる」という風船に入れる機能があって、風船に入っていると何もしなくてもゴールまでいける。「何もしない人がゴールに行けるゲームなんて許せない」とか言われるのですが、「いや、それがうれしい人もいるから」と言って作りました。これは2009年12月だけで世界販売本数が1000万本を超えました。ちょっとまた自慢が入っちゃいました(笑)。

河津 『スーパーマリオギャラクシー』などで3Dのマリオを出していて、その後に『New スーパーマリオブラザーズ Wii』で2Dの横スクロールタイプのマリオに戻そうと考えられたきっかけはどういうところにあるんですか?

宮本 若い人にシリーズものを作ってもらうと必ず起こるのが、前のものを変えようとするんですね。「変わらないからいいものもある」ということをいつも言うのです。「変えよう」「新しいことをやっていこう」というのは正しいエネルギーなんですね。ただ、「前のものを変えた結果が前のものを超えるか?」という視点はプロとしてはすごく大事ですよね。

 そうすると、変える時に「なぜそう作っていたのか」を知る必要はありますよね。「なぜそう作っていたのか」を知らないで変えたら、その人がなぜそう作ったのかという理由と同じことをもう1回経験するだけになって、最後はもとに戻ってくることになる。そこから学ぶということも大事なのですが。

 僕らはマリオをどんどん変えることを良しとしてきて、3Dにすることも良しとしてやってきたのですが、「3Dのマリオで、もともとのマリオが持っていた大事なものが失われていないかな」という話が出たんです。初めてマリオシリーズに触れる人に遊んでもらったら、やっぱり「最初の『スーパーマリオブラザーズ』が面白い」といまだに言うんですよね。「そうなのか? 恥ずかしくて見せられへんよな」と思うのですが、「いや、こっちの方が面白いです」と言う。

 それで、DSを作る時にもう1回原点に帰ろうとしたのです。そうして作ったら、やっぱり僕らでも楽しいと感じたところが2Dのスタートですね。ただ、今度はちょっとそこからさらに広がったんですけどね。

河津 『New スーパーマリオブラザーズ Wii』には多人数で遊ぶと、また違った面白さが出るような仕掛けが仕込まれているのですが、みんなで遊ぶということに関してどのようにお考えになったのですか?

宮本 これは30年前に戻るのですが、ファミコンを作る直前に『マリオブラザーズ』(1983年)というゲームを作ったのです。ゲームセンター用に最初は作ったのですが、2人で同時に遊ぶというゲームです。

 ゲームセンターでは、「100円玉を入れて、いかに長く遊ぶか」ということがプレイヤーの目的ですよね。そして、2人でプレイできるようにしたら、「2人で協力していかに長く遊ぶか」となるわけです。『マリオブラザーズ』は2人で協力したら、難しいステージでも進んでいけるんです。ところが、つい殺し合いをしてしまう、人の性で(笑)。すぐに終わって、また100円玉を入れてしまう。ゲームセンターの人にはすごく喜ばれました。

『マリオブラザーズ』はWiiのバーチャルコンソールのラインアップにもある(出典:任天堂)
 そういう「ついやってしまう」という面白さが忘れられなくて、マリオシリーズを作っている時は毎回、2人で遊べるような仕組みを考えるんです。ところが、処理能力などの問題でなかなかうまく作れなかったのですが、Wiiくらいになってくると「結構いけるんじゃないの?」ということになって、「やるんなら4人で遊ぼう」ということで作ってみました。

 当然、作っている最中に「こんなんじゃゲームにならない」とか、「本来のゲームはこうあるべき」といったいろんな反対意見が出てくる。それを、「いや、そうじゃなくて、初めて遊ぶ人も一緒に遊べて、上手な人も面白いと思うものを作りたい」という議論を徹底してやって、最後の方は僕が「もっと難しくしよう」と言うと、現場が「それはかわいそうだ、もっと易しくしてあげましょう」という戦いになるくらいになっていましたが。

対戦に逃げてはいけない

宮本 それから、「遊んでいる姿が楽しそう」というのがすごく大事な気がするんです。5年ほど前にGDC(Game Developers Conference)でスピーチすることがあったのですが、そのころ「これがテレビゲームだ」というイメージ写真が出てくる時に必ず、小学生の男の子が暗い部屋でテレビの前にいて、目に画面の絵が映っているみたいな写真が使われていたのが悲しかったのです。

 僕らにしたら「ゲームってそんなんじゃないでしょ」と思うのですが、「あれが世の中のゲームのイメージということを何とか払拭したい」ということで、「うちの嫁さんにゲームを遊ばそう」というプロジェクトを1人で立ち上げて、嫁さんをゲームにはめて、今ずいぶんはまりました。今は『レイトン教授』をクリアしましたけどね。最近では自分で勝手にカートリッジを変えたり、Wiiを立ち上げたり、ダウンロードしたりできるようになりました。

 ビデオゲームはインタラクティブメディアとして本当に魅力あるものなので、いろんなことに使えるし、「そんな偏見を持たないでよ」みたいなことをずっと考えています。究極的には、家族みんなでわいわい遊んで、ゲームでずっと死んでいる人も笑っている、「くそう」と言いながら笑っているという姿をすごく作りたくて、それが割とうまくできたので世界中に通じているんだと思います。

河津 『New スーパーマリオブラザーズ Wii』は画面の前で最大4人で遊ぶという形式ですが、オンラインでつないでもっと多人数で遊ぶということは考えていましたか?

宮本 大勢で遊ぶのが面白いなら、オンラインでもっと増やしてみたらもっと面白いと思います。しかし、そういうゲームを作れる人はたくさんいると思うんですね。自分の作れるものの量って決まっていますよね。だから、任天堂として(オンラインで多人数で遊ぶゲームを)作ることになったなら、「誰かが作ったらいいのに」とか思うかもしれない。それが上手な人はたくさんいるので、僕は「その場で一緒に遊ぶ人たちがコミュニケーションできるゲームを作っていこう」とずっと思ってきました。これからはちょっと分からないですが。

 もう1つは「ゲームデザイナーとして対戦に逃げてはいけない」というのがあります。対戦したら何でも面白いですよね。どんぶりとサイコロが2個あったら、もう無人島にいても大丈夫ですよね(笑)。人間って不思議なんですけどね。僕はそんなのやってないですけど、例えばサイコロを振ってゾロ目が出たら勝ちとして、100円玉を置いてサイコロ振って、次の人もまた100円玉を置いてサイコロ振って、100円玉が積み上がってきたらドキドキしますよね。

 ゲームデザインではそういうものも利用するのですが、本質的にはその人が面白いものを見つけてきて紹介するというのがゲームデザインと思っています。だから、任天堂で対戦ゲームを作る時には、「対戦したら面白いから、対戦せずに作れよ。対戦せずに作った方が、最後対戦したらすごい面白くなるから」と言います。そういう意味では、ネットワークありき、マルチプレイありきを前提にスタートするのは、ちょっと自分の逃げのような気もして微妙なところです。

ターゲットはあまり設定したことがない

河津 『New スーパーマリオブラザーズ Wii』は世界中で売れていて、昔のマリオが好きだった世代もそうではない世代もみんな熱狂的に遊んでいますが、老若男女を問わず遊べるものを作る秘けつはどこにあるんですか?

宮本 よく分からないんですよね。昔、ゼルダの伝説シリーズとかを作る時には、「差別や文化、宗教は国ごとに違うので触れない」と気にしていたのですが、あまり関係ないような気もしてきています。最近作っているものは、本当に素直に作っています。

 よく、ゲームを考える時に「ターゲットは?」とか聞かれますよね。困るんですよね。ターゲットというのはあまり設定したことがないんです。「漢字が読める人しか遊べないのでこれでいいという考えで、ルビを付けるかどうかを決める」といった場合には必要なのですが、ターゲットってあまり考えたことがなくて、「いや、多いほどいいですよ」ということなんですよね。

 確かに国民性によって相性があって、世界中で売るのは難しいというジャンルもあるとは思います。しかし、周りにあるものと比較して作るのではなく、その人の持っている魅力とか感じている面白さを何とか紹介しようということで作れば、あまりターゲットを意識しなくてもいいと思うんですよね。ただ、素直に作ろうと思うと、無理なことばかり降りかかってくるんですよね。周りから「それはおかしい」と言われたり。

 周りにあるゲームに勝つものを作るのも大変なんです。しかし、周りのゲームを超えようということにエネルギーをかけるよりは、自分独自のものを無理に何とか形にする方にエネルギーをかけようとした方が効率的なんです。そういう風に考えて作っていると結構楽しいし、その楽しい状態になるといろんな国のことを考えたりする必要もないので、「自分たちが素直に面白いと思えるか」ということだけで作りますね。

 具体的な話としては、ローカライズ※というものをしますよね。欧米で5~6カ国、東南アジアを合わせて7~8カ国のローカライズをします。そのローカライズをする人たちと20年くらい付き合いを続けてきて、ローカライズセンターみたいなものを作っています。昔は日本で作ったものを6~10カ月遅れで米国で売り、そこからまた半年遅れで欧州で売っていたのですが、今は情報の流れが速いので「世界中で同時発売してくれ」と言われるんですね。

※ローカライズ……ある国で作られたゲームをほかの国や地域で販売する時、その国の言語や法令、慣習などに合うように修正すること。
 だから、世界中で同時に売れるように開発を進めるんです。開発者が日本人なのに、よく分からない英語やフランス語から作るという仕組みを確立することはあります。『New スーパーマリオブラザーズ Wii』だと、日本の発売が一番遅いんです(発売日は北米2009年11月15日、欧州11月20日、日本12月3日)。そういうところはありますが、作る内容ということに関してはあまりターゲットを考えないですね。

河津 ありがとうございます。自分もよく(「ターゲットを考えろ」と)会社に言われるので、「宮本さんも特別に考えていないと言っているから、自分も特別に考えない」と言おうかと(笑)。

宮本 いや、考えることもあります(笑)。日本ではやっているものと組む、というのはやらないです。日本ではやっているものと組んだら、日本でしか売れません。これは単純なことですから、グローバリゼーションとは関係ない話ですね。

 だから、ちょっと生意気なのですが、昔から日本のアニメや漫画などと組んだことはほとんどないですね。好きなものがあったらたまに組むのですが、糸井重里さんと(『MOTHER』で)組む時も、“糸井重里さんというブランド”と組むのではなく、“糸井重里さんの物書きとしてのセンス”と組むと決めて、一緒に仕事をさせてもらいましたし、それは心がけていますね。(日本ではやっているものと組むと)海外に持っていく時、何の意味も持たなくなってしまい、かえってハンディキャップになったりするのでそれはしていません。

 また、(世界での売り上げは)日本が1とすると、米国が2、欧州が1です。ところが、最近それが変わってきていて日本が1、米国が2、欧州も2になりました。つまり、日本で100万本売れるなら、世界では500万本売れるということです。500万本売ってくれると、次作るのが楽になります。だから、世界で売れるようなものを作った方が圧倒的に有利なので、あえて日本に絞ったものは作らないようにしています。

 ……たまにやっていますね(小声で)。いや、あるんですよ。「これは日本だけやね」と言って作ったもののあまりにも売れているので、「世界中に持っていこうよ」ということで持っていったものがいくつかあって、意外にうまくいった時があるんです。典型はポケモンですよね。

DSで生活を便利に

河津 今後はどういうことに取り組みたいと思われていますか?

宮本 ゲームユーザーとしてはがっかりされる話かもしれないのですが、僕はここ2年くらい、“DSパブリックスペース利用”という堅苦しい名前を付けて動いています。これは、「DSをあちこちに持っていったら、ちょっと便利なことがある」というものです。直接僕が関わっているわけではないのですが、最近ではマクドナルドさんで“マックでDS”というものをやっています。

 僕が作っているものは、この間までディズニーランドの前にあるイクスピアリというショッピングモールでテスト運用していました。ショッピングモールにDSを持っていくと、地図の案内ガイドを利用できる。何もカートリッジが入っていないDSを持っていっても、ダウンロードだけで全部動くんですね。

 最近はその仕組みを美術館で使おうとしています。DSにはDS同士の通信機能があるのですが、1台で15台くらいと通信できます。だから、部屋にDSを1台置いておけば、15台のDSに簡単な音声ガイドのプログラムを送ることができるのです。DSの番号を押したらその音声ガイドがストリーミングで流れてきて、しかもちょっとした絵が付いてくるという簡単な仕組みを作りました。

 音声ガイドのある美術館がありますが、あれはなかなか借りないですよね。音声ガイドを借りない人はものすごく損していて、その分のお金で入館チケットが倍の価値になると思います。僕は「音声ガイドは来た人みんなが聞くべきじゃないか」と思っていて、多分主催者もそう思っているんじゃないですかね。ただ、音声ガイドを運用している会社はもうけたいので、(DSを使った音声ガイドを広めるために)志の高い人たちと会えればいいなと思うですが。

 これに最近、京都精華大学の先生が興味を持ってくれて、デザイン学部ビジュアルデザイン学科の卒業展で使ってくれました(参照リンク)。専用のDSを5台くらい会場に置くだけで、あとは来場者が持ってきたDSで104種類の音声ガイドが利用できるというものです。

 音声ガイドを作るには、学生さんはMP3の音声ファイルを作って、ファイルの番号をつけて、SDカードにダウンロードするだけでいいんです。後の環境は全部DS側で作っていますから。グラフィックデータと音声ファイルをみんなが持ち寄ってPCでフォルダに入れて、それをSDカードに入れてDSにさすと、それでもう自動的に配信ができるのです。ぜひ世界中の美術館に導入したいなと思いますね。

 こういう仕組みを作るのは楽しいんですね。システム系の話はどうしてもハードウェア先行で動いてしまって、気が付いたらすごく高いものになっていたり、意外なところでストレスがあって快適に使えなかったりしますよね。僕らのようにインタラクティブをずっと触っている人間は、そこに一番敏感だと思うんですね。「今のコストでできるか」「ここで何秒待たないといけないのか」「気持ちよく快適に動いているか」みたいなことにすごく敏感です。

 日本はこのインタラクティブの技術はすごいと思っていて、「そういう技術を何かもっと便利なことに使えたらいいのにな」と思うのです。ゲーム業界はそのノウハウをすごく持っているので、「それをゲームだけに使っているのはもったいない」と思い、そういうものを作ったりしています。

 それから、教室システムというものを作っています。クラスの子どもたちが全員DSを持って、先生はノートPCを持つんですね。そのノートPCと全部のDSがつながった状態になるというものです。「ボタンを押してください」と言ったら、誰が押したかノートPCで分かって、「誰が押したか見てみましょう」ということでスクリーンに映すこともできるといった仕組みがあります。DSに手書きで答えを書くこともできるので、1対1のコミュニケーションをとりながらとか、みんなの様子を正確に知りながら授業ができるのです。これは春から販売するのですが、「そういうものを積極的に使ってくれる先生がいたらいいのになあ」と思います。

河津 何かゲーム関係でやられていることがあれば、触れていただけると。

宮本 「Wiiで発売するゼルダを作っている」と言うと、ゲームショウではどわーっと盛り上がるのですが……。「もっと体感的なものを作りたい」と思ってWiiモーションプラスというリモコンを作ったので、それをプレイヤーが使って主人公に剣を振らせて戦うというように、直感的に遊べます。……そんなこと言っても面白くないですよね、「次のことは言うな」といろいろ(笑)。新しいハードの開発とかもしていますしね。

 僕は10年以上前からメディアアート展などを見に行くようになったのですが、いつもゲームショウより面白いんですよ。昔から岩井俊雄(メディアアーティスト、『TENORI-ON』の開発者)さんとかに興味は持っていますし、文化庁メディア芸術祭の展示を見ても、ゲームよりユニークなものが多いですよね。

 ただ、メディアアートの人たちって作家なので、「俺の作ったものを見ろ」という感覚でいる気がします。使ってもらうわけなので、「使う人が快適に使えるように作ってほしい」と思う一方、「そういうことをやっている人たちが、ゲームというジャンルの仕事をもっとしてほしい」と本当に思います。

 もっともっとつながっていかないといけない。メディアアート、ゲーム、漫画と分けているのではなくて、実は共通なので、「お互いに得意なところは出し合いましょうよ、という感覚で仕事ができたらな」と思っています。文化庁メディア芸術祭で4つのジャンル(アート部門、エンターテインメント部門、アニメーション部門、マンガ部門)を1つにまとめて扱ってもらえるのはすごく光栄に思っていますし、漫画家になりたくて、アニメーターになりたかった私がゲームクリエイターとして加えてもらっていることにすごく感謝しています。ほかのジャンルの方には、「ゲームはこんなものである」と思わずに、「インタラクティブの面白いものはゲーム機で作ってやればいい」と思ってゲーム業界に入ってきてもらえたらと思います。