織田信長 おだのぶなが
生まれ
どんな人?
室町幕府を滅ぼし、天下統一を進めたが惜しくも明智光秀の謀反にあって自刃してしまった人
おいたち年表
1534年 | 1歳 | 誕生。幼名は吉法師丸または三郎 |
1546年 | 13歳 | 元服。信長と名を改める |
1551年 | 18歳 | 父・信秀没。家督を継ぐ |
1559年 | 26歳 | 岩倉城の織田信賢を破り、尾張を統一 |
1560年 | 27歳 | 桶狭間の戦いで今川義元を破る |
1562年 | 29歳 | 三河の松平元康と同盟を結ぶ |
1567年 | 34歳 | 美濃の斎藤龍興を滅ぼし、稲葉山城を岐阜城と改名する |
1568年 | 35歳 | 足利義昭を奉じて京に上洛 |
1571年 | 38歳 | 比叡山延暦寺を焼き討ちにする |
1573年 | 40歳 | 朝倉氏・浅井氏を滅ぼし、義昭を河内に追放。室町幕府滅びる |
1575年 | 42歳 | 長篠の戦いで武田勝頼を破り、越前の一向一揆を鎮圧する |
1576年 | 43歳 | 近江に安土城を築城する |
1580年 | 47歳 | 石山本願寺を攻め降伏させる |
1582年 | 49歳 | 甲斐を遠征して武田氏を滅ぼし、上洛中、本能寺で家臣・明智光秀の謀反にあい自刃 |
逸話
●赤子の頃、乳母の乳首を血が出るほど噛んでいたため、母でさえ乳を与える事が出来なかった
●父・信秀の葬式の時、祭壇に抹香を投げつけた
●地球が自転していることや地球が丸いことを理解できた。
●生涯を通して相撲好きだった。
●信長は下戸だったのでほとんどお酒を飲まない。
●上洛後は髭や眉毛を細く刈り込んで整えていた。
●側室や子供など大事な身内の名前に、『なべ』や『五徳』などの食器や炊飯道具の名前をつけていた。
●一切信仰心が無かった。(でも熱田神宮に必勝祈願には行った)
●安土城を留守にした際、次女たちが食べたみかんの皮がそのままになっているのを見て激怒し、次女たちを殺してしまった。
●上洛後に食べた京の食事は薄味すぎて口に合わなかった。
●日本人で初めて黒人(弥助)を家来にした。
●馬に乗るときは片足を馬の背に乗せる癖があった。
織田信長と関連のある人々
●父親
織田信秀
●母親
土田御前
●兄弟
織田信広
織田信勝
織田信包
織田信治
織田信時
織田信興
織田秀孝
織田秀成
織田信照
織田長益
織田長利
姉妹
お犬(佐治信方室→細川昭元室)
お市(浅井長政継室→柴田勝家室)
正室
濃姫
息子
織田信忠(嫡男)
織田信雄(次男→北畠具房養子)
織田信孝(三男→神戸具盛養子)
羽柴秀勝(四男→豊臣秀吉養子)
織田勝長(五男)
織田信秀(六男)
織田信高(七男)
織田信吉(八男)
織田信貞(九男)
織田信好(十男)
織田長次(十一男)
織田信正(庶長子)
娘
長女・・・徳姫(松平信康の妻)
次女・・・冬姫(蒲生氏郷の妻)
三女・・・秀子(筒井定次の妻)
四女・・・永姫(前田利長の妻)
五女・・・報恩院(丹羽長重の妻)
六女・・・三の丸殿(豊臣秀吉の側室・二条昭実妻)
於振・・・水野忠胤の妻・佐治一成の継室
鶴・・・中川秀政の妻
家臣
明智光秀・・・重臣
柴田勝家・・・重臣
滝川一益・・・重臣
丹羽長秀・・・重臣
豊臣秀吉・・・重臣
祐筆の人物批評
由衣・・・もし信長が今この時代に生きていたら、どのようなことをするのだろう?時代の先端を行き、人がやらないことをやるという姿勢は、現在ならどのような形になるのでしょうか。家臣の意見に耳をかさず、すべて自分の考えで生き抜いてきた信長は、ワンマンですが天才だと思います。
あいら・・・信長だいだいだいすき
祐筆
●一番手・・・藤原義信「信長の所を書いて見ました。これからも色んな人物について書いて行こうと、思います」
●二番手・・・愛 「関係のある人たちを書きました。信長関係の人たちを色々書いていきたいです」