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正岡子規

Last-modified: 2018-02-10 (土) 22:33:47

ご存知「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」で有名な日本を代表する俳人、歌人。

黎明期の野球選手(と言っても、後述するように、正岡の時代には野球という言葉はなく、ベースボールと呼ばれていた)としても有名であり、東大予備門(のちに一高と改称)*1ベースボール部で捕手としてプレイした。ちなみに、現在の東大野球部は、野球推薦で有力選手を集める私立大学に推され気味*2だが、正岡がプレイしていた時代は、プロ野球もなければ私立大学でも慶應くらいしか強豪チームがなく、誰もが認める日本最強チームが正岡の所属する東大だったようである。

正岡は尋常ならざる野球愛*3の持ち主であり、結核で倒れるまでプレイを続けたという。
さらに、「飛球」「四球」「走者」など、現在も使われる野球用語の多くを考案し、中馬庚が日本初の野球専門書を出す前年の1896年に、新聞連載で野球のルールを詳しく解説した事でも知られる*4
その功績が認められ2002年には新世紀特別表彰で野球殿堂入りも果たした。

ベースボールを野球と和訳したという誤解 Edit

正岡子規は、「ベースボールを野球と和訳した人物」とされることがよくあるが、これは誤りである。ベースボールを野球と和訳したのは正岡子規の後輩にあたる一高ベースボール部の中馬庚

どうしてこのような誤解が生じたのかというと、実は正岡は中馬がベースボールを野球と訳す4年前に、自らの幼名である「升(のぼる)」にちなみ「野球(のぼーる)」を、雅号*5の1つ*6として用いたことがあるためである。
しかし、正岡子規は、あくまで自分の雅号を野球としていただけであり、ベースボールのことを野球と呼んだことは一度もないし、読み方も「やきゅう」ではなく「のぼーる」である。正岡自身も「ベースボールには未だに訳語がない」ということを記している。

正岡が「野球(のぼーる)」を名乗ったのは、ベースボール選手として野原でボールを追い掛けていたことが関係している可能性はある。また、中馬がベースボールを野球と和訳する際に、先輩だった正岡の雅号を参考にした可能性はある*7。したがって、「ベースボールを野球と和訳する際の参考になった人物」である可能性は否定できない。

とはいえ、あくまでその可能性があるだけであり、仮にそれが真実だったとしても和訳した本人ではなくヒントになった人物にすぎないので、「ベースボールを野球と和訳した人物」と言うのは完全な誤りなのである。

 

ちなみに、2002年から2006年までレギュラー放送されていた、フジテレビ『トリビアの泉』の中の、視聴者から寄せられた誤ったトリビア(ガセビア)を紹介するコーナー「ガセビアの沼」(2005年~2006年)の30回目の放送で、「ベースボールを野球と和訳したのは正岡子規」がガセビアとして紹介されたことがある(無論、正岡というのはガセであり、正しくは中馬である事が語られている)。そのため、この番組を見ていた世代の野球ファンにとっては、ベースボールを野球と和訳したのが正岡子規でないことは常識となっていた。

しかし、これより下の世代の新しい野球ファンへの知識の継承が十分になされておらず、2011年になんJに大量の正岡民が生まれることになってしまった。皮肉なことに、現在ではむしろ正岡民事件のおかげでニワカファンの間でもベースボールを野球と和訳したのは正岡子規でないということが常識として知れ渡っている。

関連項目 Edit



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*1 現在の東大教養学部。
*2 もっとも、勝利数が少ないのは東京六大学野球という強豪大学リーグに所属しているためであり、実は国立大学の中では常に筑波大と並んで最強クラスである。
*3 正岡の弟子の俳人・河東碧梧桐は正岡の野球愛を「変態」とまで表現している。
*4 また、1890年、一高対明治学院の試合では、観戦者のアメリカ人宣教師インブリー(明治学院)に、同じく観戦者の一高の学生が暴行して大怪我をさせ、国際問題にもなりかけたいわゆるインブリー事件が発生。このとき、同じく一高の観戦者として様子を詳述したのが正岡子規であった。
*5 今で言うペンネームのようなものである。明治5年の戸籍制度本格導入に伴って、戸籍名以外の使用を禁止された事が、知識人を中心に反感を買い、主に執筆や仕事で雅号を名乗る事が流行した。夏目漱石(本名は夏目金之助)や森鴎外(同 森林太郎)に「幕末三舟」こと勝海舟(同 勝安芳)・山岡鉄舟(同 山岡高歩)・高橋泥舟(同 高橋政晃)らは本名以上に雅号が世間に膾炙していたし、西郷隆盛は南洲の雅号も有名である。なお、ビッグウェーブに乗りたかった小物ちょっとしたスパイス程度に濫用しまくった結果、大正時代には衰退した。
*6 ちなみに、正岡は実に54個の雅号を使い分けた。
*7 中馬は正岡の後輩であるが、面識があったのかどうかについては現在のところ不明である。