みんなの新武将/西晋・東晋/八王の乱

Last-modified: 2023-04-06 (木) 22:53:40

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です。

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



八王の乱

八王

司馬亮(子翼)

西晋中期を参照

司馬瑋(彦度)

西晋中期を参照

司馬倫(子彝)

生年登場没年死因
240?263301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
263451211

【シバリン(シイ)】
晋の八王の一人。司馬懿?の九男。
司馬懿の晩年の愛人である柏夫人を母とし甘やかされて育った為に、成人しても文盲であった。
晋の成立の際に琅邪王となり、277年に越王となった。
恵帝の時代になると朝廷の実権を握った賈南風に接近して地位を高める事になるが、
後に賈南風を見限って300年に斉王司馬冏らと共に賈南風ら賈一族を粛清して朝廷の
実権を掌握し、翌年正月には恵帝を廃位して自らが皇帝となるが、司馬冏ら多くの
皇族らの反発を招いて殺害された。
死後、すべての爵位を剥奪されたため、彼を指す時は「趙庶人」と呼ばれた。

文盲が為に、側近である孫秀の言いなりであったとされる。

親愛武将:孫秀(俊忠)
嫌悪武将:解系、解結、張華?、裴頠

司馬冏(景治)

生年登場没年死因
302不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7174624642

【シバケイ(ケイチ)】
西晋の皇族。八王の一人。斉王司馬攸の次男。
父の跡を継いで斉王となり、300年には司馬倫と共に賈一族らの一派を滅ぼして
張華や裴頠らをも殺害した。
司馬倫の帝位簒奪後は司馬倫と対立して他の王と共に挙兵して司馬倫を滅ぼし、
自らは大司馬として朝廷の実力者になったが、独断専行であった為に他の王からの
反発を招いて司馬乂・司馬穎・司馬顒らにより殺害された。

親愛武将:葛旟
嫌悪武将:司馬乂、司馬穎、司馬顒、司馬蕤
※他の「八王」を嫌悪していたかどうかは疑問がある。

司馬乂(士度)

生年登場没年死因
277289304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8591827588勇将求心不屈堅牢直情墨守研究王道

【シバガイ(シド)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の6男。
長沙王に封じられて同母兄である司馬瑋と共に大叔父の司馬亮を殺害したが、
兄の処刑によって常山王に格下げされた。
司馬倫が恵帝を廃した際は他の王と共に司馬倫打倒に活躍して長沙王に復帰し、
次いで司馬倫の代わりに朝廷の実力者となった司馬冏を殺害した。
その後は恵帝を奉じて司馬穎・司馬顒を立てつつ政治を行ったが、司馬顒の配下・李含誅殺を口実に
司馬顒が挙兵し、司馬穎も同調した。司馬乂は洛陽に籠城して争ったが、最後は
司馬越に捕えられて金墉城に幽閉された末に焼き殺された。

親愛武将:司馬瑋
嫌悪武将:司馬倫・司馬冏・司馬越
※司馬乂が司馬穎・司馬顒を嫌った様子は無い(被嫌悪には当てはまる)。

司馬穎(章度)

生年登場没年死因
279289306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5854354446
625492580地利浪費粗忽軽率

【シバエイ(ショウド)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬炎の16男。
美形だが頭が悪く、読み書きもできなかった。一方で人情に厚かった。
成都王に封ぜられて八王の乱においては大叔父の司馬倫や異母兄の司馬乂らと
争う事になり、一時は皇太弟となるが304年に王浚・司馬騰らに敗れて皇太弟
の地位を失い、その後に復権を図るも東海王・司馬越に敗れて司馬虓に軟禁された。
司馬虓の死後、劉輿に二人の子ともども殺害された。他に10歳ほどの子がいたが、これも司馬越に殺害された。

匈奴の劉淵は配下であったが、幽州都督王浚に対抗させる為に帰郷させる事に
なり、これが後の匈奴の中原進出のきっかけとなった。

親愛武将:司馬顒、廬志
嫌悪武将:司馬倫、司馬冏、司馬乂、司馬越、賈謐

司馬顒(文載)

生年登場没年死因
274306不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6355485637

【シバギョウ(ブンサイ)】
西晋の皇族。八王の一人。司馬孚の孫。
276年に父の司馬瑰の跡を継いで太原王となるが、翌年に河間王に封ぜられた。
八王の乱では、当初は司馬倫に味方するが、途中で寝返って司馬倫の殺害に他の王と共に加担した。
次の実力者である斉王・司馬冏を他の王と共に滅ぼし、
その次は配下の李含が殺されたことを口実に司馬乂を滅ぼした。
しかし、最後に対立した司馬越に敗れて殺害された。

親愛武将:司馬穎
嫌悪武将:司馬冏・司馬乂・司馬越

※司馬倫の劣勢を見て寝返っただけなので、司馬倫への嫌悪はないと考える。

司馬越(元超)

生年登場没年死因
311自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7463727670

【シバエツ(ゲンチョウ)】
西晋の武将、政治家。東海王。八王の乱に関わった八王の一人。
楊駿誅殺に関わった功績で東海王となる。
司馬乂、司馬穎、司馬顒の三王が権力を争い仲間割れを起こすと、当初は司馬乂に従って洛陽に籠城したが、
戦況が不利とみて司馬乂を捕縛し、身柄を司馬顒配下の張方に引き渡した。
しかし恵帝を擁する司馬穎と対立し敗北、東海で再起を図った。
その後、恵帝を奉じて洛陽に入城し、司馬穎と司馬顒を誅殺して八王の乱を終結させた。
恵帝死後に懐帝を擁立するが、懐帝と対立する。
并州の劉琨は、劉淵の漢を挟み撃ちにしようと提案したが、懐帝に背後を衝かれることを恐れて決行できなかった。
310年、石勒討伐を号して出陣した。翌年、討伐の密詔を受けた苟晞に相対する中で病に倒れ、憂死した。
死後、司馬越の葬列を石勒が襲撃し、一族郎党は全て殺害された。

親愛武将:司馬睿、王承
義兄弟:苟晞
※最期の進軍のコースから、石勒討伐が目的では無く、建業の司馬睿の元に逃れる目的だったという説もある。
苟晞とは307年12月に義兄弟となっているが、その後仲違いした。

八王以外の皇族

司馬荂

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2245402127

【シバフ】
司馬倫の嫡男。弟に司馬馥・司馬虔・司馬詡。
浅薄で下品だったという。司馬倫が皇帝を簒奪すると、皇太子になった。
張林と孫秀が仲間割れすると、張林は司馬荂に孫秀を殺すよう頼んだが、司馬荂は即座に父に通報したため、張林が誅殺された。
父が自害させられると、司馬荂ら4人の息子もまた誅殺された。

司馬威(景耀)

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1448613324

【シバイ(ケイヨウ)】
西晋の義陽王。司馬洪の子で司馬望?の孫。幼名は阿皮。
凶暴で素行が悪かったという。はじめ河間王、ついで章武王に封じられた。
義陽王に封じられていた従兄弟の司馬奇が、罪を犯し王位を没収されると、代わって義陽王に封じられた。
301年、司馬倫の帝位簒奪に加担し、恵帝に禅詔を書くように迫った。さらに、宦官の駱休とともに皇帝の印綬を奪い取った。
司馬倫政権では中書令となった。三王(司馬冏・司馬穎・司馬顒)が挙兵し、司馬倫が劣勢になると、
孫秀に善後策の協議を勧めた。四品官以下の子弟の15歳以上の男子を総動員しようとしたが、孫秀を殺して投降しようとする動きが起きると、
司馬威は私宅に逃げ帰った。しかし、恵帝が復位し、司馬倫が自害させられると、恵帝は「阿皮は我の指をねじって爾綬を奪い取った。殺さずにはいられるか」
と司馬威の処刑を命じ、かくして誅殺された。

司馬蕤(景回)

生年登場没年死因
302?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2942283331酒乱癇癪

【シバズイ(ケイカイ)】
西晋の遼東王、のち東萊王。司馬攸の長男で、司馬冏の庶兄。
元康年間(291-299)、步兵校尉、屯騎校尉を歴任した。
強暴かつ酒乱であり、司馬冏をしばしば侮辱したが、司馬冏は兄を立てて大目に見ていた。
司馬冏が反司馬倫の挙兵をすると、司馬蕤と弟の司馬寔は連座して処刑されそうになった。
祖納が上疏して「罪は他人には及びません」と命乞いをした。やがて司馬倫一党が敗死し、司馬蕤兄弟は処刑を免れた。
司馬冏が実権を握ると、散騎常侍・大将軍・領後軍・侍中・特進となり、食邑を二万戸加増された。
しかし司馬蕤が開府を要求すると、「武帝の子の呉王(司馬晏)と豫章王(司馬熾)が未開府だから、(序列としては)その後にして欲しい」と断られた。
司馬蕤は恨み、王輿と結託して司馬冏の殺害を企てた。陰謀は事前に発覚し、王輿は誅殺され、司馬蕤は微陽侯に降封され上庸?に移らされた。
そして、司馬冏の意を受けた上庸内史・陳鍾に殺された。

嫌悪武将:司馬冏

司馬彪(紹統)

生年登場没年死因
246?262306自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1511724755史官軽率

【シバヒョウ(ショウトウ)】
魏・西晋の政治家・歴史家。司馬睦の子。
学問に熱心だったが、好色で不品行であったため廃嫡され、名目上は司馬敏(司馬懿?の弟)の跡継ぎとされた。
魏の末期に騎都尉となり、西晋では秘書郎、散騎侍郎を歴任した。司馬炎が南郊を祀る際には、司馬彪が上奏して内容を定めた。
著書に後漢末の群雄を書いた『九州春秋』、後漢の紀伝体の歴史書『続漢書』などがある。
かつて譙周?は、『史記』が雑多な思想を取り入れ、儒教的に正しくないと考え、司馬遷の誤りを正した『古史考』を編纂した。
汲冢書が発掘されると、司馬彪はこれを元に『古史考』の122の記事の批判・検討を行い、世に流通した。
著作の多くは失われたが、范曄『後漢書』の「志」(分野ごとの歴史やデータベース)部分が未完であったため、
『続漢書』の「志」部分が代用として現存している。恵帝の末年に、60余歳で死去した。

司馬繇(思玄)

生年登場没年死因
304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6158676064

【シバヨウ(シゲン)】
西晋の皇族。司馬伷?の三男。
博学多才かつ剛毅果断で、親に対する孝徳もあった。
散騎常侍を務めて外戚の楊駿の誅殺に大いに功績があって東安王・侍中・典軍大将軍
となり、これによって楊駿一派誅殺の権限を握ったが、この時に文鴦?を外祖父である諸葛誕
がかつて殺害した文欽の子という事で危惧し、自らの独断で無実の罪で殺害した。
これによって司馬繇を憎んでいた兄の司馬澹に讒言されて帯方郡に流された。
後に復帰するが、八王の乱の際に成都王司馬穎に対して恵帝に降伏すべきと説いた
事で司馬穎の怒りを買い、殺害された。

嫌悪武将:司馬澹、文鴦、楊駿

司馬歆(弘舒)

生年登場没年死因
289303不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6764431952

【シバキン(コウジョ)】
西晋の皇族。司馬駿の次男。
新野県公となり、母が死去した際に喪中は儀礼以上の行いをした事で孝行ある人物
と評価された。
越王司馬倫に対して斉王司馬冏らが挙兵した際には司馬冏側に味方して新野郡王
となり、司馬冏の失脚後は司馬穎と手を結んだ。
領内では過酷な政治を行った為に異民族からは恨まれ、張昌の反乱が起きた際には
張昌への出兵を要請するも司馬穎と対立していた長沙王司馬乂に拒否され、最後は
張昌軍に敗れて殺害された。

司馬虓(武会)

生年登場没年死因
270306自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5753766764

【シバコウ(ブカイ)】
西晋の皇族。司馬懿の四弟・司馬馗の孫、范陽王・司馬綏の子で司馬越の従兄弟。
若い頃から文才を評価されて散騎常侍、尚書を経て都督豫州諸軍事となり、許昌を守った。
八王の乱においては当初は司馬顒・司馬穎に味方したが、304年に司馬穎が幽州刺史・王浚
に敗れた後は司馬穎の皇太弟廃位を上表した。
以後は司馬顒・司馬穎と敵対して東海王司馬越と手を結び、冀州刺史となって司馬顒・司馬穎
の派閥に属していた劉喬を撃破した。
その後は司徒となるが306年に急死した。

司馬毗

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4339465656

【シバヒ】
西晋の皇族。鎮軍将軍。司馬越の嫡男。
司馬越は司馬毗の将来を心配していたようで、王承・趙穆・鄧攸の3人を師匠とするよう書き残している。
父の出陣後も洛陽に留まっていたが、311年、父の憤死を聞き何倫・李惲と共に洛陽を脱出し、司馬越の率いていた軍に合流した。
しかし、石勒の攻撃を受け一網打尽にされた。司馬毗以下48人の皇族は、石勒に皆殺しにされた。

司馬騰(元邁)

生年登場没年死因
307不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7167526033

【シバトウ(ゲングウ)】
西晋の皇族。司馬懿の弟の子である高密王司馬泰の子で、東海王司馬越の弟。
南陽郡・魏郡太守を務めた後に并州刺史となり、奴隷狩りを行ってその際に
当時流浪していた石勒も奴隷として売り飛ばされた。
八王の乱では兄の司馬越に協力し、司馬越が勝利したの後は車騎将軍・都督鄴城守諸軍事
として劉淵らと争ったが、挙兵した司馬穎の旧臣らによって敗れ殺害された。
吝嗇な性格で部下からの人望は薄かったとされる。

司馬模(元表)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6355485637

【シバモ(ゲンヒョウ)】
西晋の皇族。東海王司馬越・新蔡王司馬騰の弟。
若い頃は琅琊王司馬睿や范陽王司馬虓と共に文才を評価された。
八王の乱では兄の司馬越に従って鄴を守り、その後は
征西大将軍・都督秦雍梁益諸軍事として関中方面を守ったが、
永嘉の乱にて劉聡に転じた部下の趙染に敗れて殺害された。

司馬幹or司馬榦(子良)

生年登場没年死因
232311自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
86772576寡欲眼力

(別案)

統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3412736281

【シバカン(シリョウ)】
西晋の皇族。司馬懿の七男。生母は司馬懿の正妻、張春華。
魏の時代には安陽亭侯に封じられ、撫軍中郎将となった。
晋の成立によって平原王に封じられ、1万1300戸の食邑、鼓吹と馬2匹を下賜され、侍中の服を加えられた。
司馬炎は一族の諸王を封国に赴かせたが、司馬幹には重い病気があって精神が正常ではなく、性格は極めて純粋で欲が少なかったので、特詔によって都に留めた。
朝廷内では三公に次ぐ序列で重職を歴任し、
290年に恵帝が即位すると、更に左光禄大夫に昇進し、剣履上殿と入朝不趨を許された。
政務は自ら執り行わなかったが人事異動においては必ず才能で選んでいた。
斉王司馬冏(司馬攸の息子)には期待をしており、それゆえに諌める事もあったが、
彼が司馬倫誅殺を共に謀った常山王司馬乂・成都王司馬穎・河間王司馬顒に誅殺されるに及んで、司馬幹は慟哭して側近に言った。
「宗室は日に衰退していて、この子(司馬冏)がもっとも良かったのに、殺されたとなると、今後の行く末は危うい!」
こうして、一族同士の骨肉の争い(八王の乱)が続き、晋王朝は弱体化してしまう。

親愛武将:司馬冏
※「榦」は幹の異体字。