みんなの新武将/西晋・東晋/西晋末期

Last-modified: 2023-04-06 (木) 22:38:01

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



永嘉の乱

皇帝・宗室(皇室)

司馬熾(豊度)

生年登場没年死因
284299313不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1712357879学者寡欲詩想法律消沈

【シバシ(ホウド)】
西晋第3代皇帝・懐帝。司馬炎の二十五男。
最初は豫章郡王に封ぜられ、304年に皇太子となっていた甥の司馬覃が廃された事により
皇太弟となり、兄の恵帝が306年に死去した事で東海王司馬越により皇帝に擁立されて即位した。
しかし、八王の乱によって西晋の力は大きく衰退して五胡の攻撃にさらされることになり、
輔佐する司馬越とも対立した。
310年11月、司馬越が漢(のちの前趙)討伐を号して出陣すると、311年1月に苟晞に司馬越討伐の密勅を下し、
3月には公然と司馬越討伐を諸将に命じた。同月司馬越が死に、その軍勢が石勒によって壊滅すると、
天下の罪は司馬越にあるとして、(郡王から)県王に降格させた。
そして6月、劉聡率いる前趙軍によって洛陽が陥落した事により懐帝は捕えられて
漢の本拠である平陽に連行され、会稽公に封ぜられるも奴隷の扱いを受けた末に殺害された。

親愛武将:繆播、王延、苟晞、劉聡
嫌悪武将:司馬越

司馬晏(平度)

生年登場没年死因
281289311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
36123254強欲虚弱

【シバアン(ヘイド)】
西晋の皇族。呉王。司馬炎の二十三男。
風疾(リウマチ・中風)の持病があり、風采が悪く、目も不自由だった。
『晋書』では武帝の子で最も無能だったとするが、部曲(配下の兵)の李咸らを呉に送って
商権を握ろうと試み、地元民の陸雲に非難されているので、それなりの意欲はあったようである。
兄・司馬允に協力して司馬倫討伐を計画するが失敗して逮捕された。しかし、傅祗の進言で、賓徒県王への降格で済んだ。
司馬倫の死後、呉王に復帰し、上軍大将軍・開府・侍中となった。司馬乂と司馬顒の争いでは司馬乂に与した。
のち病気が悪化して、朝議に出席できなくなった。
八王の乱では粛清を免れたが、漢(のちの前趙)によって洛陽が陥落すると殺された。
三男の司馬鄴はのちの愍帝。男子は5人いたが、いずれも漢・前趙のために殺された。

司馬鄴(彦旗)

生年登場没年死因
300308318不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2924456677

【シバギョウ(ゲンキ)】
西晋第4代皇帝・愍帝。司馬晏の三男。
漢(のちの前趙)によって洛陽が陥落し、懐帝が囚われの身となると、荀藩は行台(臨時政府)を立て、司馬鄴を盟主に擁立した。
長安もまた漢の手に落ちていたが、312年に賈疋らによって奪還に成功すると長安に入城し、皇太子に立てられた。
313年、懐帝が殺されると帝位に即く。しかし、地方は異民族の手に落ちるか、司馬保・司馬睿のように半ば自立しており、
直接威令が届くのは長安周辺に過ぎなかった。
316年、漢の5度目の長安包囲で飢饉となり、ついに降伏。劉聡によって車騎将軍に任じられたが、
司馬熾同様、酒の給事などをさせられた挙げ句、劉粲の進言で殺された。
李矩らが司馬鄴の奪還を企んでおり、殺せば彼らも西晋再興の旗印がいなくなり、自滅すると考えられたからである。
司馬鄴の死をもって、西晋は完全に滅亡した。
司馬睿・司馬保は相次いで晋王を称し、司馬睿が東晋の初代皇帝となったが、晋が全国政権に返り咲くことは二度と無かった。

司馬保(景度)

生年登場没年死因
294309320不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5934656470文化悪名惰弱地勢研究1覇道

【シバボ(ケイド)】
西晋の皇族。司馬模の子。文才があり、読書や著述を好んだ。
一方で気が弱く決断力に欠け、太っており、体重800斤(約180キロ)に達していると吹聴された。
長安が漢(のちの前趙)によって陥落し、降伏した父が処刑されると、父の爵位を嗣ぎ南陽王となる。
312年、秦州(雍州西部を分割し、梁州と涼州の一部を加えた地域)刺史となり、さらに大司馬を自称した。
愍帝が即位すると大司馬の地位を追認され、さらに右丞相・大都督・陝西諸軍事に任じられ、のち相国に昇進し、
司馬睿と並ぶ最高実力者となった。
愍帝とは距離を置き、租税を送付することもなく、自己の勢力確保に注力していた。315年9月、愍帝から幾度となく救援要請があり、
裴詵の進言で、ようやく胡崧を援軍に派遣した。胡崧は劉曜を破ったが、愍帝側近の麹允・索綝と対立していたので、軍を引き上げてしまった。
316年、愍帝が漢に降伏すると、司馬保は帝位をうかがうようになった。
317年、司馬睿が晋王を称し、愍帝の処刑後に帝位に即くと、対抗して晋王を称した。
しかし前趙に対して劣勢になると、涼州刺史・張寔を頼ろうとしたが、張寔は地盤を乗っ取られることを恐れ、
護衛と称して実際には迎え入れることを拒んだ。最期は張春に殺された。
性的不能者で、子は無かったという。

親愛武将:陳安
嫌悪武将:司馬鄴、麹允、索綝

※司馬睿が生き残ったために、実質以上に貶められている節がある。

司馬楙(孔偉)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2933561516

【シバボウ(コウイ)】
西晋の皇族。司馬望の四男。
魏の時代には楽陵亭侯に封ぜられ、司馬昭の参相国軍事となる。
晋の成立後は東平王となり、外戚の楊駿が誅殺された際に楊駿に擦り寄って
いた事で処刑されかかるが、楊駿誅殺に功績があった東安公司馬繇と親しかった
事で難を逃れた。
その後は封土の東平国で蓄財に励み、八王の乱の時代には重職を歴任して最初は
司馬越と共に司馬穎と戦ったが後に司馬越や苟晞と対立、袞州刺史としては
過酷な徴発を行って郡県を疲弊させた。
司馬越の死後は中央に復帰するが、洛陽陥落にて殺害された。

親愛武将:楊駿、司馬繇
嫌悪武将:司馬越、苟晞

司馬澹(思弘)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2725493512

【シバセン(シコウ)】
西晋の皇族。司馬伷の次男。
前将軍・中護軍となるが、酒乱で嫉妬深い性格で両親に愛されていた弟の司馬繇を
憎んで伯父の汝南王司馬亮に讒言し、失脚させた。
趙王司馬倫が実権を握った時代には親交のあった郭俶・郭侃兄弟を張華の冤罪を訴えた
という理由にて殺害した。
斉王司馬冏が実権を握った際に遼東に流されたが、司馬繇の死によって朝廷に復帰して
光禄大夫・尚書・太子太傅となり武陵王に改封されるも永嘉の乱にて殺害された。

嫌悪武将:司馬繇

司馬覃

生年登場没年死因
295302308不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
159415869

【シバタン】
西晋の皇族。一時皇太子に立てられた。司馬遐の長男。司馬炎の孫。
父の死後、済河王を継いだ。
302年、皇太孫・司馬尚(司馬遹の子)が死去し、恵帝の直系は絶えた。
司馬冏は「礼に、兄弟の子は猶子(実子のようなもの)とあり、前漢の成帝や後漢の和帝も、兄弟の子に継がせました。
司馬覃は容姿もよく、早くから叡智を持ち、正室の子ですから先帝(司馬炎)の嫡流といえます」と上奏し、代わりの皇太子に立てさせた。
しかし司馬顒が実権を握ると、皇太子を廃され、司馬穎が皇太弟に立てられた。
陳眕・司馬越らは反司馬穎の兵を挙げ、司馬覃を皇太子に復位させたが、敗れて張方により再び廃された。
のち、司馬熾(懐帝)が皇太弟に立てられた。306年、恵帝が死去すると、皇后・羊献容は、司馬熾が継ぐと自分が皇太后になれないので、
司馬覃を皇帝に立てようと呼び寄せたが、病を称して引き返したので不発に終わった。
舅の周穆は諸葛玫と共に、司馬越に改めて司馬覃を即位させるよう主張したが、誅殺された。
さらに呂雍・陳顔が皇太子に立てようとしたが、計画が発覚すると二人は誅殺され、司馬覃も殺害された。

※羊献容は司馬熾から見て兄嫁に当たるため、皇太后にはなれない。皇太后は実母である必要はないが、母かそれより上の世代である必要があった。

司馬銓

生年登場没年死因
307311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1211454152

【シバセン】
西晋の皇族。皇太子。司馬遐の三男。
始め上庸王に封じられ、懐帝の即位後、豫章王となった。308年、皇太子に立てられた。
311年、匈奴の漢(前趙)により洛陽が陥落すると劉聡に捕らえられ、殺害された。

司馬範

生年登場没年死因
301311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5050433762泰然

【シバハン】
西晋の皇族。司馬瑋の子(恐らく次男)。
301年、司馬瑋が驃騎将軍を追贈されると、襄陽王に封じられ、散騎常侍となった。
304年、成都王・司馬穎討伐に加わったが、惨敗した。
310年、東海王・司馬越が石勒討伐を号して出陣すると従軍した。司馬越が死ぬと、
王衍が総大将に推されたが固辞し、司馬範もまた固辞した。
烏合の衆となった軍勢が、石勒によって壊滅すると、王衍ら多くの者は命乞いしたが、司馬範だけは落ち着き払って
「今日の事態に、いまさら言う事は無い」と弁解しなかった。石勒は司馬範を助けようか迷ったが、
孔萇に「彼らは全て晋の王公です、われらが任用はできません」と進言され、結局殺された。

一般臣下

※司馬越の側近は西晋後半を参照

王粋

生年登場没年死因
308不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6265644740

【オウスイ】
西晋の政治家・武将。王濬の孫。妻は潁川公主(司馬炎の娘)。
賈謐のサロンに出入りし、「賈謐二十四友」に数えられた。
302年、成都王・司馬穎が大将軍となり、九錫を下賜されると司馬穎への使者となり、そのまま仕えた(司馬穎は九錫のみ辞退)。
司馬穎が反司馬乂の兵を挙げると従軍するが、旧呉の陸機が都督に抜擢されたことに穏やかではいられなかった。
孫恵は察して、陸機に都督を王粋に譲るよう勧めたが、「彼は私をどっちつかずと言っているから、
譲ったところで禍になるだろう」と断った。果たして陸機は惨敗し、謀反の罪を着せられ殺された。
304年、東嬴公・司馬騰に敗れた。
司馬越に降ると魏郡太守となり、を守備した。
308年、石勒に敗れ、鄴の三台(氷井台、銅雀台、金虎台)で斬られた。

親愛武将:賈謐
嫌悪武将:陸機、陸雲

高光(宣茂)

生年登場没年死因
308自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4525708170法律監守

【コウコウ(センモ)】
西晋の政治家。陳留国圉城県の人。高柔の三男。
若くして家学を習い、刑法に通暁していた。
太子舎人に任官し、地方に出て幽州刺史、潁州太守を歴任した。司馬炎が皇帝直々に投獄した囚人用の「黄沙獄」を設置すると、
高光に管轄させ、黄沙御史に任命し、俸禄は御史中丞と同等とした。のち廷尉に昇進した。
司馬衷(恵帝)の元康年間(291-299)、尚書となった。司馬倫の皇帝簒奪に従わず、斉王・司馬冏が実権を握ると廷尉に再任され、尚書・奉車都尉となった。
司馬衷が成都王・司馬穎を討伐した際、落馬した司馬衷を手当てした功績があり、延陵県公に封じられた。朝廷の官僚達はみな、高光を法に通暁していると推薦したので、法務の官職を歴任した。
河間王・司馬顒が実権を握ると、司馬衷を長安に連行した。多くの官僚は洛陽に留まったが、高光は司馬衷に従った。
次兄の高誕は、司馬顒らと敵対する上官巳に任用されており、また気ままな性格で、高光をちっぽけな節操を守っているに過ぎないと軽蔑していた。
しかし、高光はいよいよ謹直に兄を敬った。
司馬衷の帰洛後、司馬熾(懐帝)が皇太弟に立てられると、教育係として太弟少傅に任じられ、光禄大夫を加えられた。
司馬熾が即位すると、傅祗と並んで尊重された。まもなく尚書令となり、死去した。匈奴の漢の襲来で諡号が贈られないまま、洛陽は陥落した。

路述

生年登場没年死因
308不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5055354852

【ロジュツ】
西晋の政治家。河東太守。
308年7月、劉淵が平陽に侵攻すると河東も攻撃され、力戦したが戦死した。

繆播(宣則)

生年登場没年死因
309不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2515736253

【キュウバン(センソク)】
西晋の政治家。東海郡蘭陵県の人。繆悦の子。
司馬泰に仕え、その子の司馬越にも信任された。皇太弟中庶子となり、司馬熾に付けられた。
司馬越と司馬顒が対立すると、司馬越の使者として和解を交渉し、和解に反対する張方の追い落としを図った。
司馬熾(懐帝)が即位すると、中書令に昇進し、詔の発行を一手に引き受けた。
懐帝は司馬越の専横を憎み、これを討とうとしたが、心中力不足を憎んだ。
司馬越は上洛すると、懐帝の目の前で、繆播と従弟の繆胤はじめ、懐帝の側近を十人ほど連行して殺した。

王延

生年登場没年死因
309不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
96624351

【オウエン】
西晋の外戚。散騎常侍。懐帝の舅。
懐帝は司馬越と対立し、自ら政治を執ろうと、王延・繆播・何綏・高堂沖などを機密に預からせた。
司馬越は劉輿の進言で、王延が自らを呪っていると非難し、王延らを懐帝の目の前で捕らえ、殺した。

親愛武将:司馬熾

丁紹(叔倫)

生年登場没年死因
309自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8463697672

【テイショウ(シュクリン)】
西晋の政治家。譙国の人。
おおらかで公正と評判だった。清官を歴任し、広平太守になると統治も裁判も公平で、
八王の乱のさなかに平穏を保っていたので、郡の人々は喜んで丁紹の命令に従った。
司馬穎残党の公師藩らが南陽王・司馬模の拠る臨漳を包囲すると、丁紹は軍勢を率いて司馬模を救った。
徐州刺史、さらに荊州刺史に転任することになったが、司馬模は丁紹を河北に留めたいと思い、冀州刺史に推挙して懐帝に認めさせた。
308年、苟晞に敗走した汲桑・石勒に赤橋で大勝し、石勒は劉淵の元に逃れた。
丁紹は自身の才覚を英雄にふさわしいと思い、世界を正そうと志を抱いた。一方、王浚や苟晞を軽視していた。
しかし急病に倒れ、死去した。臨終に際して「これは天が冀州を滅ぼそうとしているのだ。わが天命であるものか」と嘆いたという。

親愛武将:司馬模
嫌悪武将:王浚、苟晞

王斌

生年登場没年死因
309不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6852423446

【オウヒン】
西晋の武将・政治家。
八王の乱では成都王・司馬穎に従った。王浚・司馬騰が、司馬穎の任命した幽州刺史・和演を殺すと、
後任の幽州刺史に送り込まれたが、王浚に従った烏桓大人の羯朱に大敗。鄴は動揺し、司馬穎の配下は四散した。
司馬穎の死後は司馬越に従い、丁紹の後任の冀州刺史となり、安北将軍を兼ねた。
309年11月、石勒に敗れ、長楽郡信都県で殺害された。

袁孚

生年登場没年死因
310不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4950576956農政改修

【エンフ】
西晋の政治家。
永嘉の始め(307年)、司馬越の命令で、李矩と共に千金堨(洛陽東の堰)を再建した。
のちに兗州刺史となった。310年2月、鄄城に侵攻した石勒を迎撃したが敗れ、部下の裏切りで殺された。

王堪(世冑)

生年登場没年死因
310不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6255485266
6255485266消沈動転

【オウカン(セイチュウ)】
西晋の武将・政治家。東平郡寿張県の人。王烈の子で潘岳の従弟。車騎将軍。
司馬倫が実権を握ると左司馬となった。
309年3月、匈奴の漢の劉淵を延津で迎撃したが大敗し、死者3万を出して退却した。
9月、曹武と共に劉聡を攻撃したが、敗北して逃げ帰った。
310年4月、石勒が白馬に侵攻し、迎撃したがまたも敗れた。「国家の大将が敵を防げず、どんな面目で朝廷に戻ればいいのか」
と退却せず、石勒に殺害された。遺体を守った官僚達百人ほども、全て殺害された。

宋抽

生年登場没年死因
310不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5650464342惰弱

【ソウチュウ】
西晋の武将・政治家。
308年7月、匈奴の漢の劉淵が平陽に侵攻すると、内史の宋抽は洛陽に逃げ帰った。
漢の劉聡が黄河を渡河すると、劉暾・宋抽が迎撃したが、敗走した。
310年7月、漢の劉曜・石勒が懐県を包囲すると、征虜将軍として救援に出陣したが、劉曜に敗れて戦死した。

梁巨

生年登場没年死因
310不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5346392847惰弱

【リョウキョ】
西晋の武将。冠軍将軍。
310年7月、匈奴の漢の劉聡が河内郡を攻撃し、石勒は騎兵を率い、武徳県で梁巨と交戦した。
懐帝は援軍を送って梁巨を救おうとした。石勒は諸将に武徳を守備させ、王桑と共に、長陵で梁巨を迎撃した。
梁巨は石勒に降伏を願い出たが許されず、城壁を乗り越えて逃走したが捕らえられた。
配下の兵一万はことごとく坑(生き埋め)にして殺され、梁巨も石勒に罪を数え上げられて殺された。
晋の援軍は退却したので、河北の塢壁(砦を備えた集落)は震撼し、相次いで石勒に帰順して人質を送ったという。

※『晋書』「懐帝紀」、『十六国春秋』「後趙録」によると、この時点で死亡した将軍は宋抽で、梁巨は武徳で籠城を続けていたらしい。
しかし結局武徳も陥落しているので、梁巨が処刑されたことには変わりない。ここでは「石勒載記」の記述に従った。

崔曠

生年登場没年死因
310不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5365583836

【サイコウ】
西晋の武将・政治家。
308年、王逌が反乱を起こすと、司馬略の命令で曹攄の参軍として出陣した。
ところが崔曠は、曹攄を先鋒に出陣させ、自らは救援すると称して逃亡し、曹攄を見殺しにした。
しかし司馬略は崔曠を罪に問わず、改めて将軍・韓松を配下に付けて王逌を攻撃させ、今度は降伏させた。
のち襄城(潁川より分割)太守となった。310年10月、石勒の攻撃を受け襄城は陥落し、崔曠は殺された。

嫌悪武将:曹攄

王景

生年登場没年死因
311?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7468483441

【オウケイ】
西晋の左衛将軍。
309年、司馬越の命令で、宮中に3000人の兵で押し入り、懐帝の側近である王延・繆播らを殺した。
310年、漢(前趙)の石勒・王弥らが洛陽に攻め入ると、王衍の命令で、前将軍・曹武と共に漢軍を撃退し、補給物資を手に入れた。
その後の消息は不明。しかし、王衍に従って、石勒に殺された可能性が高い。

曹武

生年登場没年死因
311?不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7166444953

【ソウブ】
西晋の将軍・政治家。
揚州刺史となり、305年、丹陽太守・朱建を殺した。
のちに平北将軍となり、司馬越の命令で漢(前趙)と戦ったが敗れた。
前将軍に移った後、310年の洛陽防衛戦では漢軍の撃退に成功した。
その後の消息は不明。しかし、王衍に従って、石勒に殺された可能性が高い。

劉寔(子真)

生年登場没年死因
220310自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4223776861

【リュウショク(シシン)】
魏・西晋の政治家。平原郡高唐県の人。前漢の済北王・劉勃の十二世の子孫。
家は貧しかったが、勉学に励んだ。州郡の誘いに応じず、上洛して河南尹丞に任官した。のち司馬昭の参軍となった。
ある人が、鍾会鄧艾の蜀征伐の成否を劉寔に尋ねた。劉寔は「蜀を破るが、二人とも帰ってこられないだろう」と答えた。
重ねて理由を問われたが、笑って答えなかった。果たして劉寔の予想通りとなり、先見の明を称賛された。
西晋が成立すると、少府となり、尚書に転じた。また『崇譲論』で、賢者の登用を説いた。
呉征伐では、行鎮南軍司を兼任して杜預に従軍した。
子の劉夏の収賄事件に連座して失職したが、のちに皇太孫・司馬遹の師友に選ばれた。
恵帝の時代に三公を歴任。302年、引退したが、司馬乂・司馬穎らの戦闘で自宅が掠奪の被害に遭った。
懐帝が即位すると、太尉に任命された。拒否したが許されなかった。309年ようやく引退を許され、翌年死去した。

※能力は『三國志Ⅸ』参考。ただし知力は高めで、生没年は『晋書』に合わせた。

諸葛銓(徳林)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4739455247

【ショカツセン(トクリン)】
西晋の政治家。諸葛沖の子で諸葛緒の孫。妹の諸葛婉は司馬炎夫人の一人。
散騎常侍・兗州刺史を歴任した。
310年、廷尉として司馬越に従軍し、その死後、石勒の攻撃を受け、王衍らと共に殺された。

曹馥

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6149645552

【ソウフク】
魏・西晋の政治家・武将。曹洪の子。
父の死後跡を継いだ。
司馬炎の時代、豫州大中正の夏侯駿は、魯国小中正を孔毓から曹馥に交代させたが、1旬(10日)後にまた孔毓に戻させた。
傅咸は、夏侯駿を越権行為の咎で司徒・魏舒に訴えたが、夏侯駿と縁戚の魏舒は聞く耳を持たなかった。
河間王・司馬顒によって司馬衷が長安に移されると、東海王・司馬越は劉洽を左司馬とし、尚書の曹馥を軍司として挙兵した。
懐帝(司馬熾)政権では尚書右僕射となった。
311年、漢(前趙)によって洛陽が陥落すると、漢の劉曜に殺された。

※兄弟の曹震が、曹操の時代に列侯に取り立てられたという。年齢的に、曹馥は弟だろうか。

苟晞(道将)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8676826919掃討法律能吏悪名粗暴突撃斉射牽制足止罵声政令徹底覇道

【コウキ(ドウショウ)】
西晋の武将、政治家。
兵法と政事に通じ、八王の乱では司馬越、司馬冏、司馬乂、司馬虓らの元で活躍する。
汲桑、呂朗、劉根、公師藩、石勒らに勝利して威名を轟かせ、韓信や白起に比せられた。
青州刺史に任じられると、流れるように決裁を行い、私情を挟まなかった。
しかし、法に苛烈で罪人の処刑が非常に多く、民からは「屠伯」と恐怖されていた。
王弥の乱では緒戦は連勝するが、懐帝は王弥では無く、司馬越を討伐するよう密勅を下した。
その直後、王弥配下の曹嶷に攻撃され、大風に遭い大敗を喫する。
司馬越の死後に懐帝が洛陽を失陥すると、駐屯していた蒙城で石勒に敗れ殺された。

嫌悪武将:潘滔
義兄弟:司馬越
※307年12月に義兄弟となっているが、その後仲違いした。

劉暾(長升)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4844757055封殺能吏召募直情

【リュウトン(チョウショウ)】
西晋の政治家。東萊郡掖県の人。劉毅の長男。
280年、仕官して博士となった。282年、司馬攸帰藩に反対して逮捕され、免職となった。
賈南風が実権を握ると、賈謐と郭彰が権勢を振るい、「賈郭」と称された。劉暾は郭彰に屈せず、逆にやりこめた。
八王の乱で、斉王・司馬冏が実権を握ると尚書左丞、ついで御史中丞・司隷校尉となり、厳正な職務で評価された。
長沙王・司馬乂の司馬冏殺害で謀議に携わり、朱虚県公に封じられた。
河間王・司馬顒が実権を握ると、司馬顒は長安遷都を強行したが、劉暾・荀藩・周馥らは洛陽に留まり、事実上政府は分裂した。
東海王・司馬越が実権を握ると、右光禄大夫・領太子少傅・散騎常侍に昇進したが、政務から遠ざけられた。
洛陽が漢(前趙)によって陥落すると、王弥と同郷であることを理由に助命された。
劉暾は王弥に独立し、曹嶷と共同で石勒を討つよう進言した。劉暾は曹嶷への使者となったが、石勒に捕らえられて計画が発覚し、処刑された。
司隷校尉の任官と解任を繰り返し、生涯で5回司隷校尉を務めた。

親愛武将:司馬乂、羊献容
嫌悪武将:司馬越

※「召募」持ちなのは、司馬乂軍の募兵を行ったとの説から。

華軼(彦夏)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6135667877王道

【カイツ(ゲンカ)】
西晋の政治家・武将。華澹の子で華表の孫。
司馬越が兗州牧となると、留府長史に起用された。永嘉年間に、振威將軍、江州刺史を歴任。
華軼は乱世だからこそ、大義と礼法を重んじ、儒教の教えを広めるために儒林祭酒を設けるべきと建言した。
また賊討伐のため、陶侃を揚武将軍に任命して夏口に駐屯させた。華軼は江南の有力者の支持を得て、流民もまた集まってきた。
華軼は朝廷(懐帝政権)に忠実で、琅邪王・司馬睿には懐疑的だった。周囲に諫められると「私はただ詔書が見たいだけです」と答えた。
司馬睿は周訪を派遣し、華軼に当たらせた。周訪は華軼の忠義を理解していたので、遠巻きに駐屯して衝突を避けた。
洛陽が陥落すると、荀藩は行台を立て、司馬睿を盟主とした。司馬睿が人事権を行使しようとすると、華軼は拒否した。
司馬睿は王敦を都督とし、甘卓・周訪らを従軍させ華軼を討伐させた。華軼の前任者であった衛展は、華軼に礼遇されなかったことに
不満を持っていたので、寝返って華軼を奇襲し、華軼と5人の子供を殺して司馬睿の元に首を送った。
かつて華軼に恩を受けた高悝が、華軼の妻と2人の子をかくまった。東晋で大赦が行われると出頭し、赦免された。

親愛武将:司馬熾
嫌悪武将:司馬睿

※『晋書』に従うと、同時期に複数の行台が立てられていたようだ。

周馥(祖宣)

生年登場没年死因
311自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7240746970調達眼力王道

【シュウフク(ソセン)】
西晋の政治家・武将。汝南郡安成県の人。周蕤の子で周浚の従兄弟。
若くして友人の成公簡と共に名声があった。周浚の推挙で司馬炎に取り立てられ、
王渾の推薦で尚書郎に昇進した。人材の登用に努め、さらに声望を高め、徐州刺史・仮節、廷尉を歴任した。
304年、恵帝が鄴の司馬穎に囚われると、司馬穎によって河南尹代行に任じられた。
洛陽では陳眕・上官巳らが皇太子・司馬覃を奉じて司馬穎に抵抗していたが、周馥は上官巳を小物と見て従わなかった。
さらに満奮と共に上官巳の暗殺を企てたが事前に発覚し、満奮は殺され、周馥はなんとか逃げ出した。
上官巳が、司馬顒軍の張方に敗れると洛陽に呼び戻されたが、司馬顒の長安遷都には従わなかった。
司馬越政権では寿春に駐屯し、周玘らと協力して陳敏を討った。
周馥は常々、司馬越の専横を批判していた。310年、洛陽が漢(前趙)に脅かされると、周馥は懐帝を寿春に避難させるよう献策した。
司馬越は事前の相談が無かったことに大いに怒った。淮南太守の裴碩は、司馬越の密命を得たと称して周馥を討とうとしたが、返り討ちにした。
裴碩は琅邪王・司馬睿のもとに逃れた。司馬睿もまた、周馥が裏切ったと判断し、甘卓・郭逸を攻撃に差し向け、さらに孫恵も呼応した。
周馥は敗走し、新蔡王・司馬確に捕らえられ、まもなく亡くなった。

嫌悪武将:司馬越

荀藩(大堅)

生年登場没年死因
245313自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3128747665

【ジュンハン(タイケン)】
西晋の政治家。荀勗の子。
293年に黄門侍郎となり、302年には斉王司馬冏討伐の功績で西華県公となった。
懐帝の時代には司空となったが、洛陽の陥落により逃亡して弟の荀組らと共に
琅邪王司馬睿を盟主として前趙に抵抗し、さらに秦王司馬鄴を擁立して許昌に移った。
後に愍帝(司馬鄴)が長安に亡命した後は滎陽を守ったが、313年に開封で死去した。

山簡(季倫)

生年登場没年死因
253312自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5759556178酒乱

【サンカン(キリン)】
西晋の武将。竹林の七賢の一人・山濤の子。
309年に鎮南将軍として荊州に駐屯した。
永嘉の騒乱の中で現地の豪族である習氏の庭園に入り浸って酒宴に明け暮れ、
泥酔して帽子を逆に被り、馬に後ろ向きに乗るという奇行で帰ってきた事から
「山簡倒載」という故事が残った。
一方で乱の影響で楽士が逃れた際、彼らに演奏させるべきという意見に対し、乱で何も
できない自身を罪人である嘆いて断ったり、流民を保護したりもした。

張光(景武)

生年登場没年死因
259313不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8475686174

【チョウコウ(ケイブ)】
西晋の武将。
関中に赴任していた際に氐・羌族が反乱を起こし、百日余りに渡って包囲される。
百名の兵を鼓舞し度々城から出撃して破るが、衆寡敵せず敗れ援軍に助けられて長安へ帰還した。
陳敏の乱では劉弘の支援を受けてこれを平定した。
張光は司馬顒派、劉弘は司馬越派で対立関係にあったが、劉弘は張光の功績を上奏している。
梁州刺史に任じられ、漢中の地を回復して民を慰撫した。
しかし仇池に漢中を攻められ、城を半年に渡って固守するが病に倒れる。
撤退するよう進言されるが「撤退せず」と叫んで没した。

杜尹(世甫)

生年登場没年死因
311?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5427526151王道

【トイン(セイホ)】
西晋の政治家。杜預の末子。
洛陽が陥落した時、弘農太守だった。宜陽県内の一泉塢に駐屯していたが、しばしば賊の掠奪を受けた。
そこで魏該に援軍を依頼し、魏該は馬瞻に命じて三百の兵を派遣した。ところが、馬瞻は城の備えが無いと見て取ると、
夜襲して杜尹を殺し、魏該を迎え入れた。結果として、魏該が弘農を乗っ取った形となった。

晩唐の詩人・杜牧は杜尹の子孫。

傅祗(子荘)

生年登場没年死因
244312自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6533718567規律諌止慎重法律農政王道

【フシ(シソウ)】
西晋の政治家・武将。北地郡泥陽県の人。傅嘏の子。
親孝行で、早くから才能学識で名が知られていた。西晋で太子舎人に任官。母の喪が明けると、外地に出て
滎陽太守となり、鄧艾『済河論』を参考に堤防を築き、水害を解決した。兗州・豫州の住民は傅祗を讃えて石碑を築いた。
のち洛陽に戻った。楊駿が実権を握ると、褒賞をばらまいて人気取りを始めたので「帝王が崩御した時に論功を行うなど、聞いた事がありません」
と諫めたが、聞き入れられなかった。楊駿が誅殺されると、司馬繇・荀愷らが私怨で勝手な処刑を始めたので、
恵帝に「昔、曹爽配下の魯芝の忠義を、宣帝が評価して咎めなかったようにすべきです」と奏上し、聞き入れられた。
斉万年の反乱鎮圧に従軍し、八王の乱では司馬倫の皇帝即位の勧進文を書いたと疑われたが、のちに許された。
懐帝の時代になると、司徒に昇進した。傅祗は有職故実に詳しく、朝廷の制度の運用に携わった。
匈奴の漢によって洛陽が陥落すると、苟晞と共に河陰に行台(臨時政府)を設け、四方に檄を飛ばした。
傅祗は盟津の小城に駐屯し、反転攻勢に出たが、まもなく急死した。盟津は漢の攻撃を受け、陥落した。

親愛武将:鄧艾、武茂

賈疋(彦度)

生年登場没年死因
312不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7976536675勇将求心山戦親羌軽率割拠

【カヒツ(ゲンド)】
西晋の武将・政治家。武威郡姑臧県の人。賈詡の曾孫。おそらく賈穆の孫。
識見と名望があり、特に武人からは忠節を尽くされた。始め中央に出仕し、外地に出て安定太守となる。
八王の乱では恵帝を擁した司馬越に与し、弘農太守の裴廙らと共に、司馬顒配下の馬瞻を討った。
しかし雍州刺史・丁綽の讒言で、司馬模に兵を差し向けられた。
洛陽・長安が漢(のちの前趙)の手に落ちると、賈疋は氐・羌と共に漢に帰順しようとした。
しかし、索綝・麹允らの説得で晋室復興に同意すると、総大将に担ぎ上げられた。
312年、劉粲・劉曜を破って長安を奪回し、司馬鄴を迎え入れた。
司馬鄴が皇太子となると、賈疋は功績で征西大将軍となった。
しかし胡の彭夫護との戦いで、彭夫護の偽装退却に引っかかり、戦死した。

麹允

生年登場没年死因
316不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6475453358

【キクイン】
西晋の武将。
涼州金城郡の豪族出身で、最初は安夷護軍・始平太守であった。
311年に漢軍によって懐帝が捕えられて長安にて愍帝が擁立された際には
その擁立に尽力した閻鼎を失脚させて朝廷の実力者となり、雍州刺史となった。
313年に劉曜率いる漢軍を一度は撃破したが、再び劉曜が攻めてきた際には
敵の偽報に騙されて敗北し、北地郡を救援できなかった。
長安が陥落した際に捕えられ、愍帝が奴隷同然の扱いをされていると知って
泣き叫び、怒った劉曜により牢獄に入れられたがそこで自殺した。

摯虞(仲洽)

生年登場没年死因
311?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3215716755詩想法律学者寡欲太学礼教

【シグ(チュウコウ)】
西晋の学者・詩人。魏の涼州刺史であった摯模の子。
長安の出身で、皇甫謐 ・張華に学ぶ。
法律・礼法に明るく、司馬炎に太子舎人に抜擢されると、3代の皇帝に仕えた。
八王の乱で司馬顒と司馬越が長安で争ったときには流浪して飢餓に苦しんだ。
後に洛陽に戻って光禄勲を経て太常卿に至るが、劉聡が洛陽を包囲した際に清貧だった彼は食べ物を得られずに餓死した。

著作に中国最古の文学批評とされる『文章流別集』があり、他に『决疑要注』がある。

索綝(巨秀)

生年登場没年死因
316不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6381385052

【サクリン(キョシュウ)】
西晋の武将・政治家。索靖の五男。
兄の仇討ちで37人を殺して名を挙げた。河間王・司馬顒に従い、恵帝を長安に連行して遷都を強行した。
愍帝の時代になると、南陽王・司馬模の元に付けられた。新平太守、続いて安西将軍・馮翊太守として匈奴の漢の侵攻を阻んだ。
洛陽・長安が陥落し、司馬模が殺害されると、索綝は「共に死ぬよりも、生きて伍子胥とならん」と言った。
索綝・麹允らは、漢に帰順しようとした賈疋を説得し、賈疋を総大将として晋室復興の軍を起こした。
長安を奪還すると、司馬鄴(愍帝)の近臣の閻鼎を排除し、権勢を握った。愍帝の即位後、驃騎大将軍・尚書僕射・都督宮城諸軍事にまで昇進した。
漢(前趙)との戦いは一進一退だったが、次第に劣勢となった。麹允は、天水の司馬保を頼って落ち延びるよう主張したが、
索綝は司馬保に愍帝を利用されることを恐れ、反対したので実行されなかった。
愍帝が降伏を決意すると、索綝は降伏の使者を押しとどめ、自らの地位の保全を条件に、漢への帰順を持ちかけた。
漢の劉聡は使者となった索綝の子を斬り、提案を一蹴した。降伏後、平陽に連行され、不忠を理由に公開処刑された。

親愛武将:司馬模
嫌悪武将:司馬保

第五猗

生年登場没年死因
319不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
7967567781

【ダイゴイ】
西晋の政治家・将軍。
愍帝政権で侍中となった。
313年、梁州刺史の張光が陣没すると、征南大将軍・監荊梁益寧四州・荊州刺史として荊州に派遣された。
荊州で杜曾らに推戴され、娘を杜曾の兄の子に嫁がせた。
揚州に割拠する琅邪王・司馬睿と対立し、陶侃を退けた。司馬睿に与する王敦は、従弟の王廙を荊州刺史として送り込んだが、かえって撃退した。
第五猗は愍帝政権の正式な荊州刺史であり、声望も高かった。
愍帝の死後、317年に司馬睿が皇帝即位すると(東晋の元帝)、東晋は改めて第五猗・杜曾を討伐した。
319年、東晋軍の蘇温に捕らえられ、王敦の元に送られた。蘇温の上官である梁州刺史・周訪は、王敦に
「第五猗は、杜曾に脅迫され(て東晋に敵対し)たのですから、殺してはいけません」と説いた。しかし王敦は、構わず第五猗を殺した。

親愛武将:杜曾

張春

生年登場没年死因
320不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4341592711悪名

【チョウシュン】
西晋の政治家。司馬保の側近。
司馬保はもと司馬模の配下の陳安を迎え入れ、信任していた。
張春は妬み、讒言したが司馬保は耳を貸さなかった。しかし、張春は陳安に刺客を放ち、
陳安は司馬保の下から逃れる羽目になった。
司馬保が晋王を自称すると、張春は司馬保を奉じて南安に向かったが、陳安が秦州刺史を自称して
前趙に称藩していたので、再び桑城に奔った。
張春が楊韜と対立すると、司馬保に楊韜の誅殺を要求し、さらに陳安の討伐も要求したが、司馬保はいずれも従わなかった。
張春は司馬保を幽閉し、殺してしまった。宗室の司馬瞻を擁立したが、陳安に攻められ敗走し、消息不明となった。司馬瞻は劉聡に殺された。

嫌悪武将:陳安

胡崧

生年登場没年死因
318不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8275493443

【コスウ】
西晋の将軍。司馬保配下。
司馬保は愍帝政権で半ば自立しており、愍帝からの度重なる援軍要請に、かえって関係を断とうとした。
裴詵の進言で、鎮軍将軍の胡嵩を行前鋒都督(行は代行の意味)に任じて援軍の準備をさせたが、すぐには出発しなかった。
316年、ようやく出陣し、漢(前趙)の劉曜を破った。しかし、今ここで晋を救えば、愍帝側近の麴允・索綝の権勢が再び盛んになると考え、軍を引き上げてしまった。
麴允は金五百を持って胡崧に救援を請うたが、胡崧は愍帝を見殺しにした。
その後は漢(前趙)に降ったが、靳準がクーデターを起こすと、北宮純と共に晋の残党を集め、東宮(皇太子の宮殿)に立てこもった。
靳準は従弟・靳康を派兵し、胡崧らは攻め滅ぼされた。

親愛武将:司馬保
嫌悪武将:麴允、索綝

焦嵩

生年登場没年死因
320?不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6067373541

【ショウスウ】
西晋の武将。
安定の出身で安定太守となり、愍帝の長安政権においては他の関中の太守らと共に重職や
節を与えられたが、皆驕慢であった為に人心は離れていった。
長安が漢の劉曜に攻められ、麹允から援軍を求められた際、普段から麹允を見下しつつも
援軍に応じたが劉曜に敗れた。
320年までに、劉曜に滅ぼされたとみられている。

嫌悪武将:麹允

劉琨(越石)

生年登場没年死因
271318不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8571797687楽奏英名振興親鮮浪費気炎万丈奮戦激励牽制治療墨守研究王道

【リュウコン(エツセキ)】
西晋、東晋の武将。前漢の中山靖王劉勝の末裔といわれる。
八王の乱では、姉が司馬倫の子・司馬荂に嫁いだため司馬倫に与し、司馬穎に敗れた。しかし名声を理由に助命された。
その後は司馬越の元で戦功を重ね、并州刺史に任じられた。
前趙や代国に囲まれ晋陽は荒廃していたが、
民を慰撫して都市の防御を固め、晋陽を回復させた。
前趙の石勒らと攻防を繰り広げ、永嘉の乱で西晋が衰退する中で并州を堅守し続ける。
しかし石勒の埋伏の計に敗れ、段部に亡命した。
その後、東晋の元帝より太尉に任じられるが、
快く思わない王敦の謀略により、段部の内戦に巻き込まれる形で殺害された。
元帝はその死を深く悲しんだという。
容姿に秀で、文学や音律にも通じていた。「金谷(賈謐)二十四友」の一人。

親愛武将:祖逖
義兄弟:拓跋猗盧、段匹磾

※PC版では認識されない「琨」の字の代わりに「昆」を当てる。
祖逖と幼馴染で、「聞鶏起舞」の故事が紹介される際には「劉昆」と表記されることがあるため。

王衍(夷甫)

生年登場没年死因
256271311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4320925690

【オウエン(イホ)】
西晋の政治家。王乂の子。妻は郭氏。
幼少の頃からその秀才ぶりと美貌から神童と持て囃され、
王戎からも「現世に例えられる人物は存在しない」と評された。
しかし、長じるにつれ政治への関心を無くし、
老荘思想に傾倒して清談や玄学ばかりに明け暮れるようになる。
司馬乂と司馬穎が争うと、天下を二分して治めるよう仲裁したが、司馬穎は拒否した。
司馬越の幕下で位人臣を極め、司馬越が石勒討伐を号して出陣すると従軍した。
越の死後には、軍の大将となるよう推されたが断り、軍勢は指揮官不在のまま東海国(司馬越の封国)に
逃れようとしたが、石勒に大敗し、殲滅された。軍民あわせて10万以上が戦死し、生け捕られた者も全員殺された。

晋朝における名声や期待の高さとは裏腹に石勒に捕縛された後も
「命令と成り行きに従う儘に元帥の地位まで登って了った。今日の状況を挽回する計略など何も無い」
と語るなど最後まで国難に立ち向かうという意識は希薄であった。

が、処刑される直前に「ああ、我らは古人に及びもつかぬ。もし、虚無の清談にうつつを抜かさず、力を合わせて国家のために尽くしたならば、今日のような事態に陥りはしなかったであろう」と嘆いたと言う。それからわずか2ヶ月の後、西晋は滅亡する。
最高の才を持ちながら、思想に傾倒してしまった人間の哀れな最期であった。

親愛武将:何晏、阮籍、王戎、王敦、王澄、楽広、司馬越
嫌悪武将:羊祜、楊駿、司馬倫、司馬冏

王澄(平子)

生年登場没年死因
269282312不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1948844273名声人脈酒乱直情高慢

【オウチョウ(ヘイシ)】
西晋の政治家・将軍。王衍の弟。
才智に優れ、飲み込みが早かった。
若くして兄・王衍と並ぶ名声があった。庾敳は天下の人士で
「平ちゃん(王澄)が第一、子嵩(庾敳)が第二、処仲(王敦)が第三だ」と讃えた。
成都王・司馬穎に仕え、従事中郎となった。陸機兄弟の処刑を諫めたが聞き入れられなかった。しかし、
孟玖の私怨で処刑したと重ねて告発し、孟玖ものちに処刑された。
司馬穎の敗死後、東海王・司馬越に仕えた。307年、王衍の進言で、荊州刺史・持節・都督となった。
王澄は名声の一方で傍若無人な頑固者で、劉琨に「そのまま世を渡るなら、まともな死に方はできまい」と諫められた。
しかし任地では酒浸りの生活を送っていた。309年、洛陽が漢(前趙)の攻撃で危機になると援軍を送ったが、山簡が敗れると兵を退いている。
311年、杜弢が反乱を起こすと王機を討伐に派遣したが、敗れた。洛陽が陥落すると、
建業の琅邪王・司馬睿に、軍師祭酒に配置換えするとして呼び出された。その途中、豫章に駐屯していた
王敦と面会した。王澄は王敦を見下していたので、かねてから険悪な関係だった。
王敦は、王澄が杜弢と内通していると誣告した上で、路戎に命じて王澄を縊り殺させた。

親愛武将:王衍、劉琨
嫌悪武将:王敦

庾敳(子嵩)

生年登場没年死因
262311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
820704669詩想名声富豪酒乱

【ユガイ(シスウ)】
西晋の政治家・清談家。潁川郡鄢陵県の人。庾峻の三男。
度量が広く、人の悪評を気にしなかった。太っており、身長は七尺(約168㎝)に満たなかったが、腰回り十囲(約121㎝)と称された。
始め陳留相となった。老荘思想にふけり、大尉の王衍に高く評価された。仕事に興味の無いそぶりを見せ、酒浸りの生活を送った。
八王の乱では保身に努め、積極的な行動は起こさなかった。東海王・司馬越の配下となり、吏部郎に遷った。
司馬越側近の劉輿は、庾敳に千万銭を司馬越に貸すよう申し入れた。その実、ケチで有名な庾敳を陥れようとする罠だったが、
酔っ払った庾敳は即座に二千万銭を用立てると答えたため、劉輿は引き下がり、司馬越は喜んだ。
のち司馬越・王衍に従軍し、石勒によって王衍と共に殺された。
東晋の庾亮は「子嵩どのは、司馬越の配下の中でも抜きん出ていた」と讃えている。

親愛武将:阮籍、王澄、王敦、王衍

列女

郭氏

生年登場没年死因
不自然死?
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1212593532強欲癇癪

【カクシ】
王衍の妻。郭豫の娘で、郭淮の弟である郭配の孫。
気が強く欲張りで、蓄財家だった。また賈南風のいとこに当たるため(賈南風の母・郭槐は郭配の娘)、
その権勢を背景に人事に口出しした。王衍は郭氏の言動に悩まされたが、禁止することは出来なかった。
ただ、王衍と同郷で幽州刺史の李陽は洛陽の侠客で、郭氏も恐れていた。
そこで王衍は「私だけがいけないといっているのでは無い、李陽もいっている」と説教すると、少し大人しくなった。
また、道ばたの糞を召使いに拾わせ、当時14歳の王澄に諫められたことがあった。郭氏は激怒して王澄を棒叩きにしようとしたが、王澄は逃げ出した。
王衍は銭金の話題が嫌いで、口にしなかった。そこで郭氏は、召使いに命じて、王衍の寝床の周囲を銭で敷き詰めさせた。
王衍、召使いに「阿堵物(そいつ)を片付けろ」と命じ、とうとう銭と口にしなかった。
銭のことを「阿堵物」と呼ぶようになったのはこの話が由来。

王氏(恵風)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
423604457不屈

【オウシ(ケイフウ)】
王衍の次女。愍懐太子・司馬遹の妃。
郭槐(賈南風の母)は司馬遹と対立しないよう、自分の孫娘(賈午の娘)を嫁がせようとしたが、
賈南風・賈午の反対で失敗した。次に王衍の娘との婚姻話が持ち上がると、司馬遹は美人と評判の
王景風(王恵風の姉)を妃に望んだが、これも賈南風の差し金で賈謐の妻に取られてしまった。
こうして司馬遹と結婚したが、司馬遹はいつも不満を口にして、側室の蒋俊を寵愛した。
司馬遹が謀反の被疑を掛けられて皇太子を廃嫡されると、王衍は連座を恐れて王恵風を離縁させ、王恵風は号泣した。
司馬遹は冤罪を訴える手紙を王恵風に託したが、王衍は見なかったことにして、賈南風が失脚するまで隠した。
311年、匈奴の漢(前趙)の劉曜が洛陽を陥落させ、王恵風も捕らえられた。劉曜は配下の喬属に、王恵風を妻として与えた。
王恵風は剣を抜いて「私は太尉(王衍)の娘で皇太子妃です。逆賊の異民族に辱めを受けることはありません」と喬属を拒んだため、殺された。

親愛武将:司馬遹

在野

王裒(偉元)

生年登場没年死因
311不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
629623070

【オウホウ(イゲン)】
魏・西晋の人物。在野の士。城陽郡營陵県の人。王儀の子、王脩の孫。
身長八尺四寸、非凡な風貌をしていた。
252年、父が司馬昭に誅殺された。王裒は父の最期を痛ましく思い、
決して朝廷に仕えまいと決意し、都に足を向けて寝ていた。
常に父の墓守をし、学問に励みつつ自給自足の生活を送っていた。
墓に植えてあった柏の木にすがりついていつも泣いたために、木はとうとう枯れてしまった。
また、母は雷を恐れる人だった。母の死後も、雷が鳴ると王裒は母の墓に駆けつけたという。
永嘉の乱が起きると、一族は江東に避難したが、王裒は洛陽の墓を守って離れなかった。
やがて山賊が蔓延って逃げられなくなり、王裒は賊に殺された。
中国「二十四孝」の一人である。

親愛武将:王儀
嫌悪武将:司馬昭、司馬炎、司馬衷、司馬熾