みんなの新武将/西晋・東晋/西晋後半

Last-modified: 2023-04-06 (木) 22:55:30

注意点

基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。

また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。

変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です

なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします

・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)


なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります



八王の乱

西晋後半(八王の乱)及び西晋後半(八王軍閥) を参照

その他の朝臣

郗隆(弘始)

生年登場没年死因
301不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5040406767振興優柔

【チリュウ(コウシ)】
西晋の政治家。後漢の郗慮の曾孫。東晋に仕えた郗鑒は甥(兄の子)。
「匪躬之節」(損得を考えず国家に尽くす)があると評された。
何度か職を罷免された事があったが、東郡太守となった。
幼少より趙王・司馬倫と親しく、司馬倫が実権を握ると散騎常侍となり、皇帝を簒奪すると揚州刺史となった。
斉王・司馬冏が反司馬倫の兵を挙げると、州の軍人たちは呼応を主張した。しかし郗隆は、同じく司馬倫に取り立てられた
郗鑒や、在京する親族を心配して決心が付かなかった。
趙誘・虞潭・白隆が重ねて司馬冏に味方するよう主張すると、郗隆は「我は二帝に恩を受けた身。どちらにも偏らず、州を守りたいと思う」
と述べ、決断を先送りしようとした。寧遠将軍の王邃は憤怒し、郗隆を襲撃して子供ともども殺し、首は司馬冏に献上された。
人びとはその死を嘆いたという。

親愛武将:司馬倫

※郗鑒は病を称して司馬倫の元を離れ、連座を免れた。

何劭(敬祖)

生年登場没年死因
236301自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
2219734880人脈浪費高慢

【カショウ(ケイソ)】
西晋の政治家。何曾?の子。
司馬炎?と同い年で仲がよかった。容貌が立派だったので、遠国からの朝貢の使者が来ると、司馬炎は何劭を代役に立てた。
袁毅の疑獄事件が発覚すると、何劭も賄賂を受けていたと糾弾されたが、司馬炎は「袁家と何家は代々の付き合いがあり、
交際費の範囲内だ」と不問に付した。
司馬衷が即位すると太子太師として皇太子・司馬遹の教育係となり、司馬瑋らの粛清後は都督・豫州諸軍事として許昌に駐屯した。
のちに洛陽に戻り、司徒に昇進した。司馬倫政権では太宰となった。
しかし政争を避け、権力を求めなかったので、司馬倫・司馬冏・司馬穎・司馬顒のそれぞれと交際しつつも、天寿を全うすることができた。
同郷の王詮は、実績の少なさを「夏侯駿と博士(曹志)に(司馬攸帰藩事件で)諌授したことが伝記に載るだけだ」と批判した。
何劭は博学で、特に近代史(秦・漢以降)に詳しかった。また、父譲りの贅沢家で、食事は四海の珍味を求め、1日2万銭まで掛けた。
著書『荀粲伝』『王弼伝』など。なお、子孫は永嘉の乱で滅亡した。

親愛武将:司馬炎

閻纘(続伯)

生年登場没年死因
243?301?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3734766765史官猪突直情

【エンサン(ショクハク)】
西晋の政治家・歴史家。巴西郡安漢県の人。閻圃?の孫で閻璞の子。
はじめ揚州新安郡に住み、英雄豪傑と好んで交遊した。継母に父の財産を盗んだと誣告され世間の不興を買い、
郷品(九品官人法で決められた評価)を剥奪され、十数年就職できなかった。しかし継母を恨むことはなかった。
継母と和解後、本貫の地で改めて郷品を得た。楊駿に招聘され出仕したが、楊駿が誅殺されすぐに辞職した。
閻纘と潘岳ら、楊駿の故吏で遺体を葬ることになったが、司馬澹に殺すと脅され、他の者は逃亡し、閻纘一人で墓の建立まで行った。
閻纘は歴史家としての才能があり、鄒湛は佐著作郎に推挙したが、貴戚に人気のポストだったので華嶠に断られた。
のち河間王・司馬顒に再仕官し、西戎司馬となった。皇太子・司馬遹が廃立されると、(恐らく司馬顒の黙認で)廃立を諫める上書を行った。しかし採用されなかった。
張華?が司馬倫に殺されると、遺体に向かって慟哭していった、「早く辞職するよう勧めていたのに、君が従わないからこんなことになってしまった。これも天命か!」。
司馬遹の遺児の司馬臧が皇太孫に立てられると再び上書し、皇太孫をしっかり養育し、賈謐二十四友で処罰されなかった者は全員免職すべきと主張した。
漢中太守に任命された。司馬倫が自害させられた時、閻纘は洛陽におり、司馬倫の冢を車で轢いた。再び漢中に戻り、在職のまま死去した。

親愛武将:陳寿?、張華、劉寔、楊駿
嫌悪武将:賈謐、潘岳、陸機、司馬倫

※閻璞は『晋書』で呉の牂柯太守とあるが、牂牁郡は益州であるため、誤字説もある。また、蜀の滅亡後に呉と魏(晋)が益州を争った時期の可能性も考えられる。
陳寿が親愛なのは、巴西郡で閻纘に郷品を与えたのは陳寿とみられることから。
また『三国志』管輅伝注によると、閻纘は管輅の事績を取材しており、劉寔や前長広太守・陳承祐(陳寿のこと)からも話を聞いたという。

杜錫(世嘏)

生年登場没年死因
255?302?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3131686170諌止

【トシャク(セイカ)】
西晋の政治家。読みはトセキとも。杜預?の子。
若くして名声があった。長沙王・司馬乂の文学掾として起家し、昇進して太子中庶子となった。
皇太子・司馬遹をしばしば諫めたが、司馬遹は反発して、杜錫の敷物に針を仕込んだ。
後日、司馬遹が悪戯の成果を聞き出そうとすると、「酔っていたので分かりません」と答えた。
司馬遹は嵩に掛かって「君は喜んで人を責めるのに、自分で失敗しているじゃ無いか」と非難した。
司馬倫が簒奪すると、側近の孫秀に交際を求められたが拒んだ。孫秀は恨んだが、杜錫の盛名を憚って手出しはしなかった。
司馬倫の死後、尚書吏部郎・城陽太守に任じられたが受けず、尚書左丞に昇進した。48歳で死去した。

謝衡(徳平)

生年登場没年死因
302?自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1415756065礼教

【シャコウ(トクヘイ)】
西晋の政治家・儒学者。国子祭酒。陳国陽夏県の人。魏に仕えた謝纘の子。子に謝鯤・謝裒・謝広。
学問に励み、博学だった。理想の儒学者「儒素」と評された。
東平国相の王昌は、父の王毖が長沙の出身で、上洛している間に呉が離反したため戻れなくなり、再婚した。
王昌は再婚した妻(曹彰の娘)との子だったが、長沙に残して来た先妻の為に喪に服すべきかとお伺いを立てた。
朝廷で議論となり、謝衡は「王毖は二人の妻があったが、事情があってのことで不道徳ではない。喪に服しても差し支えないのでは」と意見した。
結局、「王昌は先妻の喪に服する必要なし」と裁定が下った。
302年、皇太孫の司馬尚が死去した。恵帝が喪服を着るべきか議論になり、「諸侯の太子は、皇太子と尊卑に差があります。
喪服は嫡子の喪に服するために着るものですから、その必要はありません」と意見した。
その後まもなくして、死去したとみられる。

※陽夏謝氏は東晋に渡った子の代より栄え、謝安などを輩出した。

楽広(彦輔)

生年登場没年死因
241?303自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
517755278名声人脈論客

【ガクコウ(ゲンホ)】
西晋の政治家。南陽郡淯陽県の人。楽方の子。成都王・司馬穎は娘婿。
楽方は征西将軍・夏侯玄の配下だった。楽広が8歳の時、夏侯玄が楽方に言った、
「楽広の姿は清く透き通っているかのようだ。卿の家は貧しいが、学問に専念させれば一門を繁栄させられるだろう」。
まもなく父を亡くし、貧しい生活を送り、山陽に仮住まいを設けた。
清談に巧みで、裴楷・衛瓘に感嘆された。荊州刺史・王戎によって秀才に推挙され、
裴楷も賈充に推薦したので、太子舎人に取り立てられた。太子中庶子、侍中、河南尹を歴任。
司馬遹が皇太子を廃されると、恵帝は群臣に見送りを禁じたが、禁を破る者が続出した。
司隷校尉の満奮は、違反者を逮捕して河南尹の楽広に送致したが、楽広は独断で釈放した。
しかし賈謐は、違反者を厳罰に処せば、かえって司馬遹の徳の高さを証明してしまうことを恐れ、楽広らを不問に付した。
八王の乱の中、王戎によって尚書令に昇進した。しかし、司馬乂と司馬穎が敵対すると、
司馬乂は楽広の裏切りを疑った。楽広は「広がどうして、5人の息子と(司馬穎に嫁いだ)1人の娘を比べられましょうか」
と弁明したが、疑いは晴れず、憂悶のうちに死んだ。

河南尹であった時、親友がぱったりと官舎に来なくなったことがあった。楽広が理由を聞くと、
「酒の盃に蛇が見え、それから具合が悪くなって寝込んでしまった」といわれた。楽広が官舎を調べると、
壁に掛けた弓に蛇の絵が描かれていた。そこで親友を再度招き、酒を振る舞った上で理由を説明すると、
親友の病気はすっかり治ったという。これが「杯中の蛇影」である。

親愛武将:夏侯玄、衛瓘、王戎、裴楷、潘岳、王衍

※夏侯玄が征西将軍だったのは249年までなので、そこから生年を推測できる。あるいは、父は司馬師に誅殺されたか。
また、『世説新語』では司馬乂の疑いが晴れたことになっている。どちらが事実に近いのかは不明。ただ、尚書令に在職のまま死去しているので、少なくとも表だった処分は行われなかった。

嵇紹(延祖)

生年登場没年死因
253267304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
4814707582

【ケイショウ(エンソ)】
西晋の政治家。竹林の七賢・嵇康?の子。
父が司馬昭に処刑された事から晋に仕えるべきか悩んだが、山濤の励ましで出仕した。
趙王・司馬倫が簒奪すると侍中に進み、恵帝復位後も引き続き侍中を務めた。
恵帝が成都王・司馬穎の討伐軍を挙げるとこれに従軍したが、蕩陰で敗北。
護衛が逃げる中、ただ独り傍を離れず恵帝を庇って戦死した。
このとき恵帝の衣服に嵇紹の血が付いたが、側近がこの衣服を洗おうとすると、
恵帝は「これは嵇侍中の血である。消してはならない」と止めさせたという。

親愛武将:司馬衷

満奮(武秋)

生年登場没年死因
304不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
3040606541

【マンフン(ブシュウ)】
西晋の政治家。山陽郡昌邑県の人。満炳の子、満寵?の孫。
身長八尺で、風采は祖父に似てりっぱだった。人格者として知られ、才能学識で評価された。
司馬炎の身近に仕え、冀州刺史・尚書令・司隷校尉を歴任した。
299年12月、司馬遹が皇太子を廃され、金墉城に幽閉されることが決まると、恵帝は詔で見送りを禁じた。
しかし違反者が続出したので、司隷校尉の満奮は違反者を逮捕し、河南尹の楽広に送致したが、楽広は独断で釈放した。
司馬倫政権で尚書令となり、恵帝に禅譲を迫る使者の正使となった。
陳眕・上官巳が洛陽の実権を握ると、上官巳の軍勢が掠奪を繰り返したため、満奮は周馥と共謀して上官巳を討とうとした。
しかし、事前に発覚して満奮は殺され、周馥は出奔した。

『世説新語』によると、満奮は風が苦手だった。宮中で、ガラスの天窓から風が吹き込まないか畏れるので、
司馬炎にからかわれると、「臣が風を畏れるのは、呉の水牛が、(太陽が苦手なせいで)月が出ても喘ぐようなものです」といったという。
「呉牛喘月」の謂れである。

宗岱

生年登場没年死因
303自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
6163735969

【ソウタイ】
西晋の政治家。宋岱とも。
襄陽太守として、司馬倫に与した孫旂を誅殺した。
のち荊州刺史となった。
303年、李特征伐の援軍として建平太守・孫阜と共に出陣し、益州刺史・羅尚を救った。
援軍で勢いづいた羅尚は李特を斬ったが、李特の子の李雄は孫阜に逆襲して大勝した。
それからまもなくして、宗岱は墊江で死去し、荊州軍は撤退した。

劉弘(和季)

生年登場没年死因
236255306自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
8064818685使役振興柱石仁政慈悲斉射激励牽制鉄壁鎮静経世済民王道

【リュウコウ(カキ)】
西晋の武将。魏の政治家・劉靖?の子。
武帝司馬炎と幼なじみで、昇進を重ねて幽州の軍事となる。
荊州で張昌が乱を起こすと荊州刺史となり、陶侃を遣わして乱を鎮圧し荊州を平定した。
疲弊した荊州に人材を配置し、領民には農耕と養蚕を奨励し賦役を省いたため非常に慕われた。
揚州で陳敏が反乱を起こすと、州境に陶侃を遣わしてこれを鎮圧させている。
八王の乱で国内が騒然とする中で荊州を良く治めたが、劉弘が病没すると再び乱が生じるようになった。

親愛武将:司馬炎、羊祜

劉秋

生年登場没年死因
307不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
1115403565

【リュウシュウ】
後漢の正嫡を嗣ぐ山陽公4代目。劉瑾の子で、献帝の玄孫。
289年、父の跡を継ぎ山陽公となった。307年、平原郡にいた劉秋は、汲桑の軍勢によって殺害された。
跡継ぎは無く、山陽公は廃止された。

336年、東晋の成帝(司馬衍)は山陽公を再興するために子孫を捜索するよう詔したが、見つかることは無かった。

温羨(長卿)

生年登場没年死因
307自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5432636968

【オンセン(チョウケイ)】
西晋の政治家・武将。太原郡祁県の人。温恭の子、温恢の孫。
温羨と兄弟6人は若くして名を知られ、「六龍」と号された。
斉王・司馬攸に辟召され、司馬衷(恵帝)の即位後に豫州刺史となり、
都に戻り列曹尚書にまで昇進した。八王の乱で斉王・司馬冏が実権を握ると、温羨が父の故吏であることから一際大事にされ、
吏部尚書に昇進した。司馬冏が、趙王・司馬倫に殺された張華の名誉回復を建議すると、温羨は率先して賛成の論陣を張った。
結果として、張華は名誉回復された。
のち司馬衷が成都王・司馬穎討伐の兵を起こすと、戦功で大陵県公に封じられた。
冀州刺史・後将軍となるが、范陽王・司馬虓が許昌を劉喬に奪われると、司馬虓は勝手に冀州に陣取ろうとした。
劉琨の説得で、冀州刺史の地位を譲り洛陽に戻った。河間王・司馬顒による長安遷都には従わず、
司馬熾(懐帝)が即位すると、左光禄大夫、開府となり、司徒を兼任した。識者に「出世が早い」と評されたが、まもなく死去した。

曹攄(顔遠)

生年登場没年死因
308不自然死
統率武力知力政治魅力個性戦法政策主義
5456647563

【ソウチョ(ガンエン)】
西晋の政治家・武将。曹興の子で曹休の曾孫。
文学の才能に秀でて司馬炎から愛され、洛陽県令・襄陽太守等を歴任して業績を挙げた。
八王の乱では斉王司馬冏に記室督として仕え、司馬冏の死後は司馬乂の配下となり
驃騎司馬に任じられた。
その後は襄陽太守・征南司馬となるが、賊の王逌の鎮圧の際に戦死した。

在野