Tier 2 ソビエト連邦 軽戦車
スペック
車体
HP | 150 |
---|---|
車体装甲厚(mm) | 35/15/25 |
最高速度(km/h) | 45 |
重量/最大積載量(t) | 6.07/6.3 |
本体価格(シルバー) | 3,300 |
修理費(シルバー) |
戦車パッケージ
パッケージ名 (必要経験値/購入シルバー) |
┏ | ━ | ━ | ━ | ━ | T-70 (1,150/39,300) | |||
T-60 (130/3,300) | ━ | 60 (310/3,320) | ┻ | T-60 M1941 (315/3,500) | ━ | T-60 M1942 (530/6,410) |
詳細
パッケージ名 | エンジン | 武装 | 履帯 | 砲塔 | 他 | ||||||||
出力 | 弾種 | 貫通力 | ダメージ | 総弾数 | 弾代 | 発射速度 照準時間 精度 | 旋回速度 | 砲塔装甲 | 旋回速度 | 視認範囲 | HP | 通信範囲 | |
T-60 | GAZ 202 | 12.7 mm DShK | T-60 | T-40 | 150 | 265 | |||||||
70 | AP | 22 | 8 | 1,000 | 1 | 78.95 1.70 0.56 | 52 | 15/15/15 | 37 | 280 | |||
60 | GAZ 202 | 23 mm PT-23TB | T-60 enhanced | T-60 | 170 | 300 | |||||||
70 | AP APCR | 28 39 | 12 12 | 630 | 3 1G | 97.96 1.70 0.55 | 55 | 25/25/25 | 38 | 300 | |||
T-60 M1941 | GAZ 202 | 20 mm TNSh | T-60 enhanced | T-60 | 170 | 300 | |||||||
70 | AP APCR | 28 39 | 10 10 | 740 | 2 1G | 113.21 1.70 0.52 | 55 | 25/25/25 | 38 | 300 | |||
T-60 M1942 | ZiS-16 | 37 mm ZiS-19 | T-60 enhanced | T-60 | 170 | 300 | |||||||
85 | AP APCR HE | 58 92 19 | 40 40 50 | 125 | 35 2G 10 | 22.22 2.50 0.38 | 55 | 25/25/25 | 38 | 300 |
解説
史実
T-60軽戦車は、ソ連の偵察用戦車で、水陸両用偵察戦車のT-40の改良型として水陸両用機能を無くし、事実上まったく別の戦車となっています。
T-60はアストロフ技師が中心となり、T-40をベースとした陸戦型T-40S(Sは陸地の意味)の試作を、1940年から開発チームを結成して進めています。
武装を37mm砲に強化する筈でしたが、生産が間に合わず20mm機関砲SchVAKを搭載したため、T-40の劣化版になってしまいました。
下部転輪は初期にはスポーク式で、中期生産車ではディスク式になり、後期にはゴム節約のためリム式鋼製になった経緯があります。
オーソドックスな軽戦車にまとめられているソ連戦車には珍しく、左右非対称な形状をしていて、砲塔を左側に、エンジンを右側に配するレイアウトになっています。
車体正面装甲に強い傾斜角が与えられていて、ドイツ戦車のように中央に独立した操縦室を持っているのが特徴となっています。
T-40より水陸両用機構をなくしたため軽くなったものの、偵察用戦車なのに同行するT-34中戦車より機動性が無いという欠点が露呈してしまいます、また、トーションバー・サスペンションのT-40のシャーシを元にしてはいるものの、履帯の狭さと低さから、沼地や雪原に弱かったこともあってT-70を開発するきっかけとなりました、後に車体は、ZiS-3師団砲を砲塔を取り去った後に、戦闘室を設けて搭載したOSU-76の改造ベースにされています、これがT-70の開発でSU-76を開発する基礎となりました。
戦闘重量6t、エンジンは液冷で出力70馬力、路上最大速度は44km/hを発揮。
最大装甲厚は20mmでしたが、後期生産の42年型は車体前面と砲塔に増加装甲が施され、なかなかの重装甲となっています。
T-60には当初から1万輌という1941年7月よりモスクワのザボド37工場に大量生産の命令が出されましたが、モスクワ前面にドイツ軍が迫る危急の時であり、疎開により遅れつつもゴーリキー市のGAZ、キーロフ市のザボド38工場、ボドルスク市のボドルスキー機械工場が加わり、4つの工場で順に量産に入り、1941年11月から1942年までに6,924両が生産されました、この生産量はT-40よりはるかに多く、2年間で222両しか完成しなかったT-40とは対照的な、驚くほどの生産力を示しています。
1941年の12月15日にモスクワでソ連軍の反撃が始まった頃、それまでに損耗していたT-34やKV-1の穴埋めとして、戦車不足を補うために1944年まで実戦投入されていましたが、ドイツ戦車にかなうはずもなく、十分な活躍ができませんでした。
しかし、疎開中の工場でT-34やKVシリーズといった強力な戦車が大量生産され数を揃えるまで、これら軽戦車は時間稼ぎの戦いを止めるわけにはいかず、レンドリースで送られてきたイギリス製戦車と共に、翌年のドイツ軍の夏季攻勢でも投入され続けたそうです。
T-60の欠点は乗員が二人しかいないため、周囲視認と装填、操縦手との連携など車長の仕事負担が多くなり、射撃がスムーズに行えなかったのが撃破され易かった原因であるといわれています。 そのためか、「二人兄弟の墓」というあだ名まで付けられていました。
味方からもその価値を疑われたT-60は、これを捕獲・調査したドイツ軍の報告でも「華奢で戦力価値なし」、「捕獲しても使い道が限られる」とされ、武装や砲塔を撤去して、大砲を牽引する装甲トラクターとして用いられました。
しかし中には、この戦車でソ連邦英雄の称号を得た者もいました。
1943年1月、第5号パショーロクの戦いで、第502重戦車大隊所属のVI号戦車ティーガー3輌を発見した戦車長ディミトリー・オサーチュク中尉と操縦士のイヴァン・マカレンコフ曹長は、これらを挑発しておびき出し、隠れていた味方の野砲陣地に近づき横腹を向けさせ、2輌を撃破させるのに成功しています。
また1942年のドイツ軍夏期攻勢(ブラウ作戦)では、T-60が車体の小ささを生かし、背の高い草の原野を抜けて密かにドイツ軍歩兵に接近、奇襲をかけて大きな損害を与えたことが記録されています。
本車をベースにカチューシャ・ロケットランチャーを搭載した自走砲型・BM-8-24が量産されますが、対空自走砲や、グライダー付き空挺戦車(アントノフ A-40)なども試作されました。
あまりの損耗率の多さにロシア人が付けた「~人兄弟の墓」というありがたくない揶揄は、アメリカからのレンドリース車両M3リー中戦車やイギリスから送られたグラントにも使われていて、こちらは7人兄弟の墓と呼ばれていました。