素晴らしきリリィたちの尊い触れ合いについて考えるだけで「」岐はもう……
◆注意書き◆ 結梨ちゃん生存ifのかえゆりですわ 結梨ちゃん事件の直後くらいの時系列を想定していますわ
「おはよー,楓」
ある休日,楓・J・ヌーベルがベッドの上で目覚めると目の前に一柳結梨の顔があった.
無邪気な笑顔で挨拶する結梨とは対照的に,楓は混乱を隠し切れなかった.
楓と結梨は百合ヶ丘女学院で同室に住む関係であった.
結梨はリリィとして人工的に生み出され,生まれた研究施設の崩壊により浜辺に流れ着いたところを楓の所属する百合ヶ丘女学院に保護される形で入学したリリィである.
その過程で,結梨を「作った」企業であるGEHENAの介入やギガント級ヒュージとの決戦など様々な事件があったのだが,それらもひと段落しており,リリィとしての日常が戻りはじめていると楓は感じていた.
今日はそんな激動の中心であり,二人が所属するレギオンでもある一柳隊が非番の日であった.
普段は休日とあらば隊長の一柳梨璃のもとへ駆けつけ,存分にセクハラ…もといスキンシップを楽しむ楓であったが,結梨をかばうために命令違反を犯した梨璃が名目だけとはいえ謹慎処分中であったことや,今回の件で疲労がたまっていたこともあり,今日は自室でゆっくりと休むつもりでいた.
結梨もギガント級ヒュージとの戦いにおいてレアスキルの複数同時使用という無茶をしており,医務室で経過観察のため入院することになっていたため,行儀は悪いが一人きりで思う存分朝寝を堪能するつもりだったのだ.
なんにせよ楓は今日ここに結梨がいるとは思っていなかったため,予想外の展開に驚きの余り飛び起きた.
「あなた,医務室にいるはずじゃありませんの!?まさか脱走を…!」
「今朝検査して,もう大丈夫って言われたからさっき帰ってきたの」
「え?」
時計を見ると,すでに10時に近くなっていた.
なるほど,てっきり数日間入院して精密検査をするものと思い込んでいたが,昨日の時点で問題がなければ今日は数時間の簡単な検査で済ませて退院の許可が出るということもありえなくはない.
「はぁ,異常はなかったんですのね.それは何よりですわ」
素直に無事を祝った.何しろ結梨はヒュージをもとにした人造リリィである.
遺伝子的にヒトであると証明されたとはいえ,マギの消耗が健康にどれほどの影響を及ぼすか不安でないと言えば嘘になった.
しかし百合ヶ丘の校医のお墨付きとなった今,本当に問題ないのだろう.
「…それはいいとして,その恰好は何ですの?」
結梨と添い寝をしていたという衝撃で意識から外れていたが,よくよく見ると結梨が状況にそぐわない恰好をしていることに気づいた.
「えへへ,戦技競技会の時の服だよ,かわいいでしょ」
結梨も上半身を起こし,楓が全身を見られるように布団をまくった.
頭にはリボン,ノースリーブにセーラー襟で腹部が露出する短い丈の上衣,プリーツのあるミニスカート,ニーハイソックス….
白,ピンク,水色にカラーリングがまとめられたそれらは,紛れもなくチアリーディングの衣装であった.
結梨が百合ヶ丘に来たばかりの時に開かれた戦技競技会において,夢結の応援をする際に結梨がその衣装で全校の注目を集めていたことは楓も記憶していた.
「それは見ればわかりますわ.わたくしが聞きたいのはなぜそれを着てわたくしのベッドにもぐりこんでいるのか,ということですわ」
楓と結梨は同室であったが,寝るときは別々のベッドを使うことにしていた.
出合ったばかりの頃は精神的に幼い面が見られた結梨であったがその成長は目覚ましく,生まれて半年にも満たないにかかわらず,今では16歳の楓たちと何ら変わらぬように生活ができている.
寝る時や食事の時に誰かがずっとそばにいなければならない段階はとうに過ぎていた.
楓は同じベッドに入って寝物語や子守歌を聞かせていた事を思い出し,寂しいような離れがたいようななんとも複雑な気持ちになることもあったが,基本的には喜ばしいことであると思っていた.
それがなぜ急にまた同じベッドで寝ているのだろう,しかもおよそ睡眠にふさわしくない服装で….
そう思って楓は尋ねた.
「嫌だった?」
結梨は少し不安そうに,上目遣いでこちらを見つめてきた.
この目つきはまずい.楓はこういう小動物のようなかわいらしい表情に弱かった.何となく保護欲というか母性というか,そういったものが刺激されてしまい,つい甘やかしたくなるのだ.
以前もこの顔で見つめられて深夜にラムネ菓子を買い与えてしまうことがあった.
「い,いえ,そのようなことはないんですのよ,ただ何かあったのか不思議に思っただけですわ,だからそんな顔はおよしになって」
結梨の頭をなでながら優しく声をかける.
もちろん人のベッドに勝手に入り込むなど淑女としてはあるまじき行為であり,結梨のためにもきちんとたしなめなければならないことはわかっている.
甘えれば許してくれるなどと思われては教育にもよくないのだが,どうしても態度が柔らかくなってしまう.
「あの時,みんなが結梨のことかわいいって褒めてくれたでしょ.だからこれを着たら楓にもかわいいって言ってもらえると思ったの」
「なるほど,ではわざわざベッドにもぐりこんだ理由は?」
「ん-と…わかんない!」
「はぁ?そんなことが…」
「なんでかわかんないけど,楓の寝顔を見てたらすごく懐かしくて寂しい感じがして,結梨もそばで寝たくなっちゃったの.ねえ,結梨かわいい?」
なるほど,おそらく数日の間にいろいろなことがありすぎて無意識のうちにストレスが溜まっていたのだろう.それを解消するために誰かに褒められたり,添い寝したりといったスキンシップを取ろうとしているのだ.
結梨の持つ子供っぽい雰囲気と合わさってかわいらしい要求に感じられるが,戦場に立つリリィの心のケアは大切なことである.
リリィの先輩としてしっかりと導いてやらねばならないと思った.それに,同室で頼みやすいポジションにいるとはいえ,その相手として梨璃や夢結ではなく自分を選んでくれたことが嬉しかった.
「そうでしたのね,ふふ…とてもかわいいですわよ」
結梨を気遣ってではなく,本心からそう思っていた.
結梨は入学当初から,人造リリィであることもだがその整った容姿も注目されていた.
さらさらとして絹糸のような薄紫色の髪,キラキラと輝く大きな丸い目は人目を惹き,白く透き通った肌はどこか儚い美しさを感じさせた.そして何よりも,そのあどけなく無垢な表情は見るものを癒し,心に温かい光をもたらした.
その結梨が丁寧に髪を整え,華やかな衣装を身に着けているのである.楓でなくとも同じ回答をしただろう.
「ほんと?!」
どこか憂いをまとっていた表情がぱぁっと明るくなった.やはりこの子には無邪気な笑顔がよく似合う.
「えへへ…なんだかくすぐったいな」
今度はほほを染め照れ笑いを浮かべる.ころころと変わる表情は見ていて飽きない.
やはり彼女の素直で純粋な姿には人を惹きつける魅力がある.
「ねえ,もう一回言って?」
「ええ,とっても愛らしくって素敵ですわ」
気付けば楓自身も笑顔になっていた.結梨自身への素直な愛情に加え,結梨が無事に自分たちのもとに帰ってきてくれた安堵も混じった笑顔だった.
楓は,これからもこんな風に穏やかな日々を過ごしていきたいと思った.
そこには結梨がいて,楓がいて,梨璃をはじめとした一柳隊のメンバーもいて….にぎやかで幸せな日々がずっと続けばいいと願わずにはいられなかった.
「やったぁ!楓大好き!」
突然結梨がぎゅっと抱き着いてきた.
「ゆ,結梨さん!?何をしていますの!?」
起きるまでは添い寝をしており,目覚めた後も二人ともベッドの上にいたため,もとから距離は近かったのだが,直接体が接触するとやはり動揺を隠せなかった.
結梨の髪から漂う甘い香りが鼻をくすぐる.医務室で使用されているシャンプーのものだろうか,それは大浴場に置かれているものとも,楓の部屋で普段使用しているものとも違う香りだった.
「私,昨日本で読んだんだ,好きな人にはこうやって大好きって気持ちを伝えるんだよ?ぎゅーっ」
そういうと結梨はますます体を密着させてきた.
百合ヶ丘は少女の園であり,当然リリィ同士のコミュニケーションに関する情報も売店の書籍などで手に入れやすい環境ではある.
しかし,医務室にまでそのようなものを置くのはいかがなものか,と思った.
二人とも薄着であるせいか,結梨の体温と柔らかさが布越しに伝わってきた.
楓には梨璃に対して過剰なスキンシップを取る癖があったが,自分がされる側に回ると意外なほどに弱かった.
結梨は楓よりもいくらか体温が高いようだ.いつもならそんなところまで子供っぽいのですね,などと軽口をたたくこともできただろうが,突然距離を詰められたせいでそんな余裕もなくなっていた.
このまま抱き着かれていては落ち着かないが,好意からの行動であるため突き放すのも悪いしどうしたものか,と,司令塔を務めている時よりもずっと鈍った思考を巡らせていると,結梨が口を開いた.
「楓はいつも結梨の髪とかしてくれるし,お菓子もくれるし,たまに怒るけど結梨の大切な人だよ.いつもありがとう,これからもよろしくね」
「結梨さん…」
突然のハグに戸惑っていた楓だったが,結梨の言葉を聞いて少し落ち着くことができた.
楓が結梨を大事に思っているのと同様に,結梨もまた楓のことを愛してくれているのだ.もちろん楓だけでなく,一柳隊のメンバー全員に同じような気持ちを抱いているのだろう.
その思いを伝えようと,一生懸命本を読んで勉強して,ここまでしてくれた.その気持ちをきちんと受け止めてあげたかった.
「ありがとうございます結梨さん,あなたの思いがよく伝わってきますわ」
こちらからも結梨の体に腕を回し,抱き返した.
結梨の体の細く柔らかい感触,ぬくもり,におい,そのすべてが愛しく感じられ,守ってあげたいと思った.
「うふふ,楓にぎゅっとされるとあったかくって気持ちいいな…」
「もう,甘えん坊さんなのは今日だけですわよ?」
口ではそういいつつも,結梨にお願いされたら自分はまた結梨を甘やかしてしまうのだろうとわかっていた.
それでもいいではないか,この愛しい娘の笑顔が見られるなら.
~~
「ねえ,楓も結梨のこと好き?」
しばらく抱き合っていると,結梨がふと訊ねてきた.
そういえば結梨の気持ちは聞き届けたがこちらからは言葉で伝えていなかった.今更疑うべくもないことだが,やはり口に出して伝えてほしいのだろう.
いじらしさを感じながら楓は答えた.
「ええ,結梨さんは私の大切なルームメイトで,かけがえのない仲間です,もちろん愛していますわ」
結梨の目をまっすぐ見つめてそう答えた.
「ちゅっ」
一瞬,何が起こったのかわからなかった.
結梨を見ると,頬が先ほどと比べてうっすらとピンクに染まり,目がキラキラとうるんでいる.
密着した体からとくんとくんと結梨の心臓の鼓動が伝わって来る.
返事をした直後に結梨の顔がこちらに近づいてきた.唇には柔らかい感触とわずかな潤いが残っている.
楓はようやく結梨が自分に対して何をしたのか理解した.
「な,ななななな何を」
「昨日読んだ本には続きがあってね,好きな人同士はこうやって口と口をくっつけるんだって.キスっていうんだよ?」
どう考えても医務室に置いておくような本ではない.後で抗議の連絡をする必要があるようだ.
「モテモテじゃん一葉~っ」
授業が終わりレギオンの控室へ向かう途中で、あたし、飯島恋花は相澤一葉に後ろから近づき、からかうように声をかけた。
「恋花様!?」
一葉は驚いたようにこちらを振り返り、少し慌てたそぶりを見せる。
その腕には色とりどりのラッピングを施されたチョコレート達が誇らしげに抱きかかえられていた。
そう、今日はバレンタインデー。思い人へ愛を伝える日だ。
季節の行事などとは無縁なここ、エレンスゲ女学園でも、思春期の盛り上がりを完全に抑えつけることはできない。
「れ、恋花様、いつから…?」
突然の登場に動揺を隠せない様子の一葉。
その態度がますますあたしのいたずら心を煽った。
「そりゃもう、可愛いお嬢様方に言い寄られてたじたじな姿をじっくりと拝見させていただきましたよ?」
「なっ…!」
はっきり言って一葉はモテる。
目の前の少女は一年生ながらエレンスゲの序列一位に選ばれていて、トップレギオンであるヘルヴォルの隊長を務めている。
それだけでも注目を集めるっていうのに、このロマンチストは学園の方針に真っ向から反抗して、誰も犠牲にならない戦いなんて理想論を目指して突っ走っているのだ。
学園の少女たちには、一葉の姿が悪しき王国に反旗を翻す革命の王子のように映るんだろう。
見た目だって悪くない。短く切りそろえられた青い髪にきりっとした顔立ち、堂々とした立ち姿に心を乱される生徒は少なくないはずだ。
直接見たのはこれが初めてだけど、ここに来るまでにすれ違った生徒たちの浮かれた会話の中でも、何度か一葉の名を耳にすることがあった。
腕に抱えている分だけじゃなく、鞄の中にも恋心の結晶がはちきれんばかりに詰まっていることはやすやすと想像できる。
「やっぱり序列一位ともなると違うねぇ」
あたしだって交友関係が広い自覚はあるけど、クラスのみんなで配り合うような、いわゆる義理チョコや友チョコを合わせてもここまで多くはないだろう。
一葉がそんなことを積極的にするタイプには思えないし、おそらく一方的に好意を受け取るだけでこの数だ。末恐ろしい。
「ち、違うんです」
「何が違うっていうのよ?」
なぜか言い訳を始める一葉。私に向けられたその申し訳なさそうな表情が妙に心地よかった。
「彼女たちとは、以前に共闘したことがありまして、きっとそのお礼なんです」
聞けば、少し前の出撃の際に指揮を執った部隊にいたマディックなのだという。
エレンスゲにおいて、戦場で使い捨てのコマのように扱われがちなマディックからすれば、自分たちの命も平等に守ろうとする一葉は感謝や尊敬の対象となってもおかしくないだろう。
それらしい理由だと思う。だけど、あたしの目にはそんな風には見えなかった。
「いやいや、それだけの理由で渡すならあんなに顔真っ赤にしないっしょ。」
「しかし…」
「こういうのに慣れないのはわかるけど、気持ちはまっすぐ受け止めてあげないとかえって失礼だよ?」
叱るようなトーンになってしまったけれど、本心からの言葉だった。
無意識なのかどうかはわからないけど、一葉は妙に自己評価が低いところがあるから、こういうことはちゃんと言ってあげないと気づかないんだよね。
「っ!」
一葉の眉間にしわが寄り、苦しそうな声が漏れる。
少しきつい言い方をしてしまったかもしれない。そう思ってフォローしようと口を開いた。
「あー…、ごめん、ちょっと言い過ぎたかも、まあせっかくのイベントなんだし、一葉も楽しも?」
「すみません、恋花様…!」
一葉はそういうと突然私に背を向け、だっと駆け出した。
「え!?ちょっと!」
角の向こうへ姿が消えていく。あたしの声も聞こえていないのか、呼びかけはむなしくこだました。
~~
「まーじありえないんだけど!」
それから少しして、ヘルヴォルの控室であたしは親友の初鹿野瑤とお茶を飲んでいた。
お茶菓子は、二人がもらったチョコだ。
同じレギオンメンバーの藍と千香瑠はまだ来ていなかったので、二人きりで思い切り話せる。
「確かにいきなり説教みたいなこと言って悪かったかな?とは思ってるよ!?でも逃げることないじゃん!」
「うん…」
瑤は意見を述べるでもなく、私の愚痴をじっと聞いてくれている。
こういう時に彼女の寡黙なやさしさがありがたかった。
あたしだって本当は一葉の悪口を言いたいわけじゃないし、わがままかもしれないが文句に対して下手に同調や反発をされるのは嫌だった。
ただ、バレンタインデーという特別な日なのに一緒にいられないことに対するもやもやを、どこかに吐き出したかった。
ちなみに、瑤もかなりモテる方だ。背が高いし、無口で目つきも鋭いのでクールな印象を与えるのだろう。
だからこそ、同じく女子から人気のある一葉の気持ちもわかって、責めないでいてくれるのかもしれない。
付き合いの長いあたしからしてみれば、瑤もかわいい物が好きな普通の女の子なんだけどね。
「せっかく準備したのに…」
ぼそりとつぶやくと瑤がかすかに眉を動かして反応する。
「恋花も作ってきたんだ、チョコ」
「…だって、バレンタインじゃん、年に一度の…」
あたしだって乙女だ。何日か前から練習して、見栄えの良いチョコの作り方を研究していた。
それとなく一葉の食事を観察して、コーヒーがブラックだからチョコも甘すぎないのがいいかな、あたしは甘い方が好きなんだけど、なんて考えたりして。
今日だってホントは朝からそわそわして落ち着かなかったし、一葉に話しかける時も、どうやって渡す流れにもっていこうかな、なんて考えていた。
そのすべてが空回りに終わったことを自覚して、どっと疲労が押し寄せてきた。
「はぁ~」
だらしなく机に突っ伏してため息を漏らす。
「恋花、行儀悪い」
瑤にたしなめられるが、姿勢を正す気力もなかった。
「いーのいーの、どーせバレンタインだってのにロマンチックなこともなんにもないような人生なんだから」
ふざけた口調を装おうとしたが、どうしても声が震えてしまう。腕に押し付けた目から涙がにじんでいるのがわかる。
瑤も気づいているだろうが、私の気持ちを察してくれたのか、それ以上は何も言わないでいてくれた。
(気持ちはまっすぐ受け止めてあげないとかえって失礼だよ?)
自分の言葉が今さらになって刺さる。手遅れの後悔が押し寄せてくる。
照れ隠しと嫉妬のせいで、からかい半分に話しかけてしまった、大人ぶった忠告なんてしなければよかった、思いをストレートに伝えておくべきだった。
そんなことを考えていると、控室のドアが開く音が聞こえた。
「っ!」
一葉が帰ってきてくれたんじゃないか。そんな都合のいい期待とともに顔をあげる。
「恋花さん?どうしたの?」
「恋花寝てたの?」
部屋に入ってきたのは千香瑠と藍だった。
少し落胆したけれど、表情に出すのは悪いと思って慌てて表情と声色を取り繕った。
「もー、二人とも来るの遅すぎ!待ちくたびれて眠くなっちゃったじゃん!」
待ち合わせをしていたわけでもないのに、大げさに怒ったふりをしておどける。
「ごめんなさい、今日はチョコケーキを作ろうと思って、藍ちゃんと材料を買いに行っていたの」
「らん、ケーキ好きー」
二人が手に持ったレジ袋を掲げる。それを見るとなんだか気が楽になった。
そうだよ、二人きりの特別な日にはできなくても、みんなで過ごした楽しい日にはできるんだ。
それにこのままずっとつぶれているよりも、手を動かしてみんなとケーキを作った方がずっといい。
もしかしたら作業している間に一葉も戻ってくるかもしれないし。
「おっいいじゃん!私たちも手伝うおう!ほら、瑤!」
「そうだね、恋花」
瑤も私の方を見て安堵したような笑みを浮かべる、心配かけてごめんね。
「そういえば一葉ちゃんはいないの?」
材料を取り出しながら千香瑠が訊ねてきた。胸がチクリと痛むけど、さっきほどひどくはない。
「廊下で会ったんだけど、急にどっか行っちゃった。教導官の呼び出しとかあったのかも」
「そう…せっかくの日なのに残念…」
少しの嘘を混ぜて答えると、千香瑠が悲しそうに目を伏せる。千香瑠には悪いけれど、悲しんでいるのがあたしだけではないことを知って、少し落ち着くことができた。
「大丈夫だよ千香瑠、一葉がいないなら、らんが二人分食べるから!」
千香瑠の浮かない表情を見て、藍も自分なりに励まそうとしているみたいだ。
「そんなこといって、自分がたくさん食べたいだけじゃないの~?」
「そんなことないもん!食いしん坊なのは恋花!」
「怒った藍もかわいい…」
藍をからかうと、いつものようにかわいい反応が返ってくる。それを見て瑤が幸せそうにつぶやく。
ケーキを作りながら普段通りの日常を味わううちに、胸の痛みもすこしづつ薄れていった。
~~
「ごちそうさま~」
「それじゃあ片付けましょうか」
「ほら、藍、食べ終わったら歯磨きしようね」
作ったケーキを食べ終わるころには、あたりはすっかり暗くなっていた。
結局一葉は戻ってこなかったな。でもしょうがないよね、一葉の分のケーキは残してるし、チョコはそれと一緒に明日渡せばいい。その時に今日のことも謝ろう。
そんなことを考えていると、突如ウイーンと音を立てて、扉が開いた。
扉の向こうの姿が徐々に明らかになる。短く切りそろえられた青い髪にきりっとした顔立ち、堂々とした立ち姿。今度こそ一葉だった。
「恋花様!」
「え、あたし!?」
急に名前を呼ばれて驚いた。
一葉はまっすぐこちらを見つめて歩み寄ってきた。そのまま腕をつかまれる。
「すみません、二人きりで話したいです!」
「えっちょっと!」
有無を言わさず部屋の外へ連れ出されてしまう。そのまま校舎の裏まで連れて来られた。強引だけど、乱暴ではなかった。
「ちょっと!遅れてきたうえにここまで引っ張ってきてどういうつもり!?」
ようやく手を放してもらえたけれど、唐突な行動に少し怒りがわいた。さっきまで謝ろうと思っていたのに、またチャンスを逃そうとしている。
そのことに胸の痛みが再び強まるを感じたけれど、次の瞬間それは吹き飛んだ。
和葉の手があたしの両肩を抑えつけたのだ。ちょっと、顔近いって!
「恋花様、先ほどは申し訳ありませんでした!それと、ありがとうございます!」
「はぁ!?」
思わず間抜けな声が出た。この隊長は急に何を言ってるんだろう。
「す、すみません。急にいなくなったことへの謝罪と、大切なことを教えてくれた感謝です」
一葉はあたしの反応を見て、慌てて補足説明をする。
「あの後、チョコをくれた皆さんのもとへお礼をしに行っていたんです、勇気を出して思いを伝えてくれてありがとう、先ほどはちゃんと答えてあげられなくて申し訳ありません、と」
「…」
「恋花様が教えてくれなければ、彼女たちの気持ちを受け止められなかった、きちんと答えてあげられなかった、それを指摘してくださったことにお礼を言いたくて…」
一葉は真剣な顔で説明を続けている。その必死な困り顔を見ると、なんだか笑えてきた。
「ぷっ」
「恋花様?」
「あっははは!わざわざ一人一人にお礼を!?この時間まで!?さすが我らが熱血隊長だわ~!あはははは!」
他人の言うことを真に受けて、全力で応えようとする。どこまでもまっすぐで憎めない。
それは紛れもなく、闇に沈みかけていた私を救ってくれた、あの甘ったれで純粋な相澤一葉だった。
この時間まで一葉がいなかったのは私を避けてのことではなかった。そう思うと羽が生えたように心が軽くなった。
「ふぅ」
ひとしきり笑った後、ようやく落ち着くことができた。
「それで?それだけのためにわざわざここまで連れてきたの?」
それならレギオン室で事足りるだろう。
「いえ、まだやり残したことがあります」
あたしの肩を握る手に力が入る。いつものはきはきした物言いがまるで見えない。
何かを言いあぐねているようだ。
「…れ、恋花様、好きです」
「え?」
ようやく開いた口から出てきた言葉は予想外のものだった。
「いつも明るく心に光を与えてくれる、道を誤りそうなときは正してくれる、そんなあなたを愛しています」
今度は肩を握るどころか、全身が抱き締められてしまった。
夜中まで駆けまわっていた熱が冷めていないのか、それとも告白の緊張によるものなのか、服の上からでも一葉の熱い鼓動が感じられた。
「もし許されるのならば、ずっとあなたと一緒にいたい、ともに理想を追いかけたい」
「これが私の偽りのない、まっすぐな気持ちです、受け入れていただけますか?」
かすかな熱を残して、あたしの体を抱きしめる手が離れる。青い瞳が不安そうに私を見つめている。
言葉で返事をする代わりに、今日一日肌身離さず持っていたものを差し出した。
「ん」
「これは…」
いざ渡そうとするとやっぱり恥ずかしい。でも、一葉がそうしてくれたように、あたしも一葉の気持ちに応えたかった。
「これ、本命だから…あたしも、一葉となら…」
「恋花様…!」
一葉の顔に光が宿る。
「今、食べてもらっていい?」
今日この時のために用意したんだ。特別な日が終わらないうちに味わってほしかった。
「もちろんです!」
一葉は私から包みを受け取ると、包装を丁寧に開け、箱の中のチョコレートを口に入れた。
「甘すぎなくておいしいです、わざわざ私のために…?」
「当たり前じゃん、恋する乙女なめんなー!、なんてね?」
そこで、おいしそうにチョコを食べる一葉を見て、ある考えが頭に浮かんだ。
今日はバレンタインデー。思い人へ愛を伝える日。これくらいのわがままは許してもらえるだろう。
「ねえ、一葉」
「はい、何でしょう?」
「あたしにも、ちょうだい?」
「…!」
言わんとしていることを察したのか、一葉の頬が朱に染まった。
頬に一葉の手の冷たいさが伝わって来る。深い青色が少しづつ近づいてくる。
一葉が好きな、ビターチョコレートの味がした.
来年はもう少し甘いものにしてもいいかもね、なんて思った.
腹切りやぐら【月詩、茜】 ※若干のホラー表現がありますわ。
鎌倉東部 山中
――ざぁ。ざぁ。
雨が降っている。
その日はアールヴヘイム全員で、朝から野外演習を行っていた。
百合ヶ丘の東にある小高い山々、もはやリリィとヒュージ以外に誰も足を運ぶことのなくなった場所で、わたしたちは2~3人の組となって別れ、山林を占領するメカヒュージの一団の掃討訓練を行っていた。島国の日本は国土の2/3が森林に覆われており、北欧の国々に比肩する森林国家でもある。事実、今まで行ってきた陥落地域への外征では、山中や森林で戦闘を展開することなども珍しくなかった。由比ヶ浜ネストが討滅されたいま、百合ヶ丘の旗艦レギオンであるアールヴヘイムもその在り方を変えつつあった。つまりは、ホームグラウンドを離れた他所での戦闘を想定した訓練に重点が置かれるようになってきたのだ。
「それでも、まさか夜通しとは思わなかったわ……」
夜の山は真っ暗だった。
わたしと月詩は、山中で発見した窪み――山肌に空いた小さな洞窟――の中で、夜を明かすことになった。訓練は1泊2日の予定だったが、テントもなく、山中でそれぞれが工夫して寝床を確保しなければならない。雨風を凌ぐ場所は各自で探すことになっていた。春とはいえ雨は冷たく、しかも山の中である。もしこれが普通の人間なら屈強な軍人であろうとも狂気の沙汰だが、わたしたちはリリィであり、制服さえ着ていれば防寒の耐性は十分すぎるほどにあった。リリィだからこその軽装訓練とも言えた。
もちろん、万が一に備えて事故が起きないように通信機は持たされているものの、慣れない環境下での訓練でわたしはいささか不安を募らせていた。
「ぜんっぜん雨やまないねー」
「そうね。せめて、晴れてくれればいいのだけれど……」
暮れ方に降り出した雨はだんだんと勢いを増していき、日が落ちる頃には春雷を伴う惨雨となった。わたしの場合は、シルトの月詩が雨宿りできるこの場所を見つけてくれたけれど、他のメンバーたちはどうしているのだろう。この夜の闇と激しい雨の中で、それも山の中で眠れる場所など見つけられただろうか。
「みんな、大丈夫かしら……」
「きっと大丈夫だよ! どっかで休んでると思う!」
月詩はケロッとしている。空元気、というよりもアールヴヘイムのみんなを信頼しているから心配していないという感じだ。百合ヶ丘の旗艦レギオンの看板は伊達ではない。百合ヶ丘の制服には多くの機能が備わっているし、マギが枯渇したりでもしないかぎり、低体温症になったりするようなことはない。それでもわたしの心が落ち着かないのは、わたしの心がこの深い夜の闇と得体の知れない山林の静けさに吞み込まれてしまったからかもしれない。
闇夜の中で小さな穴倉(あなぐら)を見つけ出した月詩には感謝している。しかし、わた
しはこの穴で夜を明かすことに少なからぬ忌避感を抱き始めていた。その理由は、
「……」
わたしの視線の先、穴倉の最奥にそれはあった。そこには朽ち果てた木の板が何本も転がっている。長年野ざらしされていたそれは泥土を纏って地面と同化し、ほとんど存在感を失っている。しかし、その独特の形状が板の正体をはっきりと示していた。あれは、卒塔婆だ。
「あかねぇ、どうしたの? なんだか、ちょっと元気ない? も、もしかしてどこか悪いとかっ?!」
「いいえ、大丈夫よ。ただ、ちょっとだけ、ここの雰囲気が、薄気味悪くて……」
「気味が悪い?」
「……ほら、あそこに……」
わたしの視線につられて月詩も穴の奥へと目をやる。そして、ひょいとライトの光を月詩が闇の奥へと直接当てると、それはあらわになった。奥には十数本近い卒塔婆が散らばっていた。
「あれー? あかねぇ、これってお墓にあるやつだよね?」
「ええ、そうね……」
「なんでここにあるんだろう? ……んん??」
恐れを知らない月詩は奥へと歩いていき、なんと卒塔婆を拾い上げてその表面をまじまじと見つめ始めた。わたしのシルトは、こういう豪胆なところがある。
「つ、月詩。あんまり、そういうの、触らない方が……」
「う~~ん。読めないや! あかねぇはこれ読める?」
「えっ。よ、読めない。読めないわ! 読めないから持ってこなくていいのよ月詩! それはもう、そっちに戻しておきましょう!」
「? はーい」
卒塔婆を持ってこようとした月詩を制止し、わたしは卒塔婆をもとの位置へと戻させた。
「なんで卒塔婆があるんだろうね? ここ、お墓なのかなー?」
「えっ!?」
月詩がぽつりと言ったその一言で、ぞっと身の毛が逆立った。ここが……お墓?
「だってさー、あれってお墓に置くものなんでしょ? じゃあここもお墓なんじゃないのかな?」
「そ、そんな、こと、ないと思うけれど……」
「ひょっとしてここって、入っちゃいけない場所だったのかな?!」
「……わからないわ。どうなのかしら……」
「お墓がないか調べてみる!」
そう言うや否や、月詩は穴の中をあちこちライトで照らして、墓石なるものを探し始めた。わたしは、墓石が出てこないことを全力で神様にお祈りし始めた。
「あかねぇあかねぇ!」
「ど、どうしたの?」
「これ、このライトってさ、マギをぎゅー-って入れたらもっとビカーーって光らないかな?」
「……。壊れちゃうと大変だからやめておきましょうね……」
「はーい」
百合ヶ丘で支給されたライトは電池でもマギでも点灯する特別製の一品だった。仕組みはわからないけれど、残量をほぼ気にせず使うことができるこのライトは臆病なわたしにとってCHARMに匹敵する心の拠り所となっていた。
そのとき、空が一瞬白く発光した。遠雷だ。
「あっ、いま空光った!」
「ええ、雷ね。ときどき光っているけれど、音は聞こえないわね……」
耳に入るのは雨粒の音ばかりだった。遥か天蓋からは、激しい雨が林冠をひっきりなしに打ち叩き、波濤のような音が轟いている。木々が鎧った葉が雨の受け皿となり、溢れた器からぱたぱたと雨粒が滴り落ちて、地表を覆う林床を不規則に踏み鳴らす。聞こえてくる雨音は立体的に宵闇の中へと溶け込み、聴く者の遠近を曖昧にしていく。今にも雨足に混じって、得体の知れないものの足音や息遣いが聞こえてくるような、異様な緊張を孕んでいた。
そして時折、空を駆ける雷光は、頭上に広がる木々の影を浮き彫りにして、不気味な影絵を作ってわたしたちを取り囲む。雷の音こそ届かないけれども、そのおどろおどろしい白黒の描画はわたしを臆病にさせるには充分だった。
「雷、こっちに来ないかなー」
「……月詩、雷好きなの?」
「えっ。……ううん、好きっていうか、なんとなく! せっかくあかねぇとこんなシチュエーションなんだから、もっとホラーっぽい状況になって欲しいなー!って思っちゃったの!」
「ホラーっぽい状況……」
ぜんぜんなって欲しくない……
「夜の山の中で、しかも雨と雷だよ! これはもう、出るよね!」
「で、出るってなに……?」
「そりゃもうすんごい幽霊とかお化けとか! だってここ、卒塔婆があんなにあるんだもん! きっとこの洞穴、なにかが棲みついてる洞穴なんだよ!」
怪談やホラー好きの月詩は目を爛々と輝かせている。わたしは震えている足を悟られないように、疲れて座り込んだふうを装い、身近にあった石に腰を下ろした。
「月詩、まぁ、楽しむのは良いのだけれど、これもやっぱり訓練だから。そろそろご飯を食べて休みましょう……」
「おー! ご飯食べたい! あれだよね、今日持たされたあの丸いかんかんのやつ!」
「でも、その前に火を起こしたいんだけれど、月詩のCHARMはレーザーが使えたわよね?」
「レーザー? うん」
わたしは自分のCHARMで地面に浅く穴を掘り、そこへ木片――断じて卒塔婆ではないことを再三確認した純然たる木片――を投じた。そして、月詩にクリューサーオールをレーザーモードへ切り替えさせ、木片に照射させて火を起こさせる。
「なるほどー。CHARMのレーザーで火を付ければいいのかー」
「レーザーが装備されてないと使えない方法ね。月詩がいてくれてよかったわ。うふふ……」
「えへへ~。どういたしまして~!」
起こした火が絶えないように、わたしは雨に濡れていない木片や落ち葉を集めて火の中へと投じていく。小さな焚き火だけれど、ほんのりと温かい。
「なんだかキャンプみたいだね!」
月詩は無邪気な笑顔で火が育つさまを眺めている。こういう場面で、シルトの笑顔に救われていることをわたしは自覚する。薪の明かりよりも月詩の存在がわたしにとっては熱であり、明かりでもあるのだと。
制服を着こんだリリィにとって、ほとんど意味のない焚き火ではあったが、柔らかな火とシルトの笑顔はわたしの心細さを紛らわしてくれた。
「それじゃあ、ご飯食べましょうか」
「いえーい! いただきまーす!」
訓練前に持たされた食事は缶詰だった。缶の上部に使い捨てのスプーンが付いており食器を必要としないデザインになっている。肝心の缶の中身はというと、トマトスープだった。
「スープがちゅめたい~!」
「そうね、温められればいいんだけど……
「焚き火であっためよっか!?」
「缶が壊れてしまうかもしれないわ。この入れ物、熱にはそんなに強くなさそうだから、残念だけどこのまま食べましょう」
「はーい!」
冷たいトマトスープをすすりながら、わたしたちは休息を取る。冷えた夕食を喉へと流し込む一方で、口の外へ出てくるのは今日の訓練のことや明日のこと、はたまた百合ヶ丘の日常など。とりとめのない月詩との会話はささやかな食卓を彩ってくれる。月詩が言ったように、わたしは一瞬だけ本当にキャンプに来ているような気持ちにさえなった。この土の上で寝ることを思うと気が重かったけれど、月詩といっしょならきっと大丈夫。卒塔婆なんてもう、気にしない。シルトと話をしているうちに、わたしは前向きな気持ちになっていった。
「……ん?」
ふいに、月詩が口に運ぶスプーンの動きを止め、わたしのほうを凝視してきた。
「どうしたの月詩」
「……あかねぇ、それって」
「? なにかしら?」
月詩がわたしの足を、いや、わたしが腰を下ろしている石を指さした。
「あかねぇが座ってるそれ、お墓の石じゃない?」
――。
――――。
――――!!?!?!?!?
声も、出なかった。
わたしはよろよろと腰をあげ、座っていた石から離れた。震えのあまり、持っていた缶の淵からスープがぼたぼたと滴り落ちて、焚き火の上でじゅっと音を立てた。
「やっぱり! これお墓の石の頭じゃないかな!? きっと下の部分が埋まっちゃってるんだ!」
墓石というものがこんなに小さいはずがないという先入観が確かにあった。そして、軽率にその石の上へと腰を下ろした自分は愚かだった。
「よーし! じゃあ引っ張り出すよー!」
声を張り上げた月詩はスープを一気に飲み干すと、腰を深く落として石を両手で鷲掴みにした。そしてそのまま、マギを漲らせて埋没していた石を野菜のように引っこ抜いた。
結論から言うと、それは墓石だった。
腐葉土を巻きあげながら土中から現れたその石の正体を認めたとき、わたしは悲鳴すら上げることもできなかった。ただただ、腰を抜かして地面にへたりこんでいた。わたしが先ほどまで椅子として使っていたその石は、風月がその表面を洗い削り、その一方で苔が覆い、もはや墓石とは判別のつかなくなった成れの果てだった。
「やっぱりお墓の石だー! うわー、土の中に埋まっちゃってたんだねー」
「――――」
四角く削られた石柱、墓石独特のシルエットのそれ。
わたしは、呆然と月詩が引き抜いたぼろぼろの墓石を見ていた。
「でもこれ、なんて書いてるんだろう? 誰のお墓なのかなー? 古い人のだよね?」
「――――」
言葉が……出てこない。
……何? ……どうして? わたしは何で……あれの上に座ってしまったの? ……どうして? ……なんで?
「んん? ……あれ? これ、墓石じゃない?」
「――えっ」
月詩がおかしなことを言い出した。
どうみてもそれは墓石にしか見えない造形をしている。穴の奥にあった卒塔婆のことといい、いま掘り返したその四角い石柱が墓石でないならばいったい何だと言うのか?
「あかねぇ、これって、人の名前じゃないよね?」
そう言って、月詩はくるりと石を回してその一側面をわたしに見せてきた。
その側面にはこう書いてある。
――腹切りやぐら
「腹切り……やぐら」
「うーん。わたし、なんか聞いたことある気がするんだよね、腹切りやぐらって。あかねぇは知らない?」
「しら、知らない、わ」
「うーん。なんだっけー……」
月詩は墓石のようなそれを穴の壁に立てかけた。
おそらく、その石は途中で折れてしまっている。下の断面がいびつで平らでないことから、もともとは身の丈ほどもある石柱だったことが推察される。つまり、あれは墓石ではなく、この場所を示す看板のようなものだったのだろう。
腹切りなどという名前から察するに、凄惨な由来を持つ霊場なのか。そもそも、"やぐら"とは確か、岸壁を掘りぬいた納骨堂のことを指すのではなかったか。
「あっ!! 思い出した!!」
「なっ、なに?!」
どんな楽しいことを思い出したというのか。月詩の顔がぱっと花咲き、喜色満面に染まった。聞きたくない。やめて。言わないで。
「腹切りやぐらって、あれだよ! 800人だかが自殺したところ!」
「…………800人が自殺」
「そう! 鎌倉時代だかなんだかに、貴族が追い詰められてみーんなお腹を切って火に飛び込んで死んじゃったんだって! で、あんまりにも怨念が強いからっていうんで、立ち入り禁止になって、ずっとお寺が供養し続けてたっていう旧鎌倉の心霊スポットだよ! うわぁ、なんでわたし忘れちゃってたんだろう? 訓練で頭いっぱいなっちゃってたのかなー?」
「怨念……立ち入り禁止……心霊スポット……」
「? あかねぇ……? さっきからどうしたの? なんか変だよ?」
「……」
「あかねぇ??」
「おやすみなさい」
「えっ」
――こてん。
わたしはその場で横になり目をつむった。
唐突にもほどがあるが、どうしようもない。もう何も聞こえない。わからない。知らない。知りたくない。
急におやすみ宣言をして寝始めたわたしに月詩が話しかけてくる。でももうわたしは目をあけられない。怖い。怖すぎる。夜の闇の中に見てはいけないものが映りそうで目をあけられない。雷光が作るシルエットの中に見ない方がいいものが見える気がして目をあけられない。いま目をあけたらきっと涙が零れ落ちてしまうから目をあけられない。
こんなところには居たくない。居たくないのに、いまさら夜の山の中を歩く勇気などわたしにはない。ないのだ。
「あかねぇ? どしたの? もしかして疲れてる?」
「うん。わたし、疲れちゃったみたいなの。だからね、もう寝ましょう月詩」
「そ、そっか。ごめんね。あかねぇの様子、なんか変だなってずっと思ってたんだけど、そっか、疲れてたんだ」
「いいの。月詩はなにも悪くないわ。だから、一緒に寝ましょう。こっちにきて、こっち、もっと、もっとこっちにくるの」
「う、うん」
月詩の体温がわたしに寄り添う。焚き火よりもなお温かいその温度はわたしの崩壊しかけた精神の最後の縁(よすが)なのかもしれない。最悪の場所で夜を明かすことになってしまった。わたしは過呼吸になりそうな息を押しとどめ、隣に寝ころんだ月詩にぴったりとくっついて安寧を得ようと足掻いた。
「あかねぇ……あったかい……」
「月詩の方が暖かいわ」
「ねぇ、あかねぇ」
「なぁに」
「ぎゅってしていい?」
「ええ、もちろんよ」
「えへへ~~。ぎゅ~~」
「……」
「……あかねぇ、震えてる?」
「なんだか寒いみたい」
「じゃあ、もっとぎゅーってしてあげる!」
「うん。ありがとう、月詩」
――ざぁ。ざぁ。
雨音と月詩の息遣い。
蝸牛をくすぐるそれは、所違えば極上のリラクゼーションとなっただろう。
しかし、限界まで張り詰めたわたしの心は悲鳴を上げている。神経の糸は伸びきっていて、もうあとほんの少しでも負荷がかかれば引き千切れてしまうだろう。いまのわたしの自我は、月詩の守護天使(シュッツエンゲル)であるという自負によってのみ繋ぎ止められていた。もしも、隣にいたのが天葉や依奈だったなら、わたしはみっともなく泣きながら縋っていたかもしれない。
――ざぁ。ざぁ。
雨が降っている。
きっともう、今夜は眠れない。
わたしは腕の中ですやすやと寝息を立て始めた無邪気なシルトをうらめしく思いながら、夜明けまでのあまりに長い時間について思いを馳せ巡らせ始めていた。
腹切りやぐら【月詩、茜】 終わり
作家会議に寄稿した掌編3つですわ!
歯【藍を拷問する。】
「口の中に注射!?」
歯科医院での一幕である。
虫歯の治療について女医から説明を受けていた藍が悲鳴を上げた。
「藍、もう虫歯治らなくていい」
「そんなわけにはいかないでしょ」
付き添いの一葉が怯え切った藍を窘める。藍はそもそも注射が嫌いだったから、こういう拒否反応が出ることは一葉もおおよそ見当がついていた。
「口に注射なんてひどい。無理だよそんなの。おかしいよ」
「注射って言っても、針は細いし、痛くしないための注射だからね。それに、いま治療しないともっと痛くなっちゃうよ?」
「お口に注射されるよりいいもん」
「よくないの。藍、歯磨きちゃんとできてなかったんでしょ? 歯ブラシの消耗具合でわかるんだからねそういうの」
藍がきちんと生活を送れているか監督するのは一葉の役割でもあった。一葉は私物の節々から藍の様子を正確に把握していた。
「でも、歯に注射は嫌!」
「……仕方ないなぁ。じゃあ、未来永劫たい焼き禁止ね」
「みらいえいごう?!」
驚愕に目を見開く藍。対する一葉の顔は至って真面目だった。
「……一葉は藍のこと、嫌いなの?」
「嫌いな相手ならここまで心配してない。ほら、手、握っててあげるから。頑張って治療受けよ?」
「手握っててくれても怖いもん。口の中に注射なんて、絶対死んじゃう」
「死なないから。治療が終わったらたい焼き買ってあげるから、ね?」
「たい焼きを出せば藍が何でもいうこと聞くと思ったら大間違いだよ。藍、そんなやすいおんなじゃないもん」
「どこでそんなセリフ覚えてきたの?」
「とにかく口に注射はやだ! 絶対やだ!」
「あー、もう。困ったなぁ」
結局、藍を説得するために千香瑠様を呼び出して、種々の餌ーーご褒美ーーを提示することで何とか治療の同意を取り付けた。ただ、いざ取り出された注射器の禍々しさを目の当たりにした藍が「嘘吐き! こんなにおっきいなんて聞いてない!」などと騒ぎ出したのはまた別の話。
キス【おやすみの挨拶】
正直にいえば、少しだけ迷いがあった。しかし結局、結梨は”する”ことにした。
「おやすみ、楓」
そう言って、儀式めいた仕草で、結梨は百合ヶ丘の至宝にそっと口付けた。梨璃と交わし合っていたように、楓の頬へおやすみの挨拶をしたのだ。梨璃以外の人間にそうしたのは初めてだったけれど、楓は自分のために部屋を分けてくれたのだし、お腹が空いた結梨のためにお菓子ーー前に梨璃が買ってきてくれたのと同じラムネというお菓子ーーも買ってきてくれたのだから、そうするべきだと思ったのだ。
ただ、結梨に頬キスされた楓は「ひゅっ」っと息を漏らして固まってしまった。
「楓、どうしたの? 変な顔」
結梨はおやすみの挨拶を返してくれない楓をじっと見つめる。口をぽかんと開けていた楓は石臼のような鈍重さで結梨の方へギギギと顔を向けた。
「どどどどどうもこうもないですわ!! あなたまさか、梨璃さんとも同じことを!?」
「?」
楓が何を言っているのかわからなかった。わからなかったけれど、きっと自分はおかしなことをしたのだと、何となくそう感じた。
「おやすみのこと? 楓はおやすみなさいしないの?」
「そ、その反応……毎夜毎夜、梨璃さんとチュッチュッしていたようですわね!!」
「チュッチュ? これのこと?」
おやすみの挨拶のことかな。
そう思って、確かめるように、結梨は再び楓の頬にキスをした。
「!?!?!」
結梨の鼻先を楓の髪がくすぐってくる。すると、知らない匂いが結梨の鼻を優しく刺激した。みんなとは違う、ふんわりとした甘い果実の匂い、楓のシャンプーの匂い。
「楓、髪の毛、いい匂い」
嗅ぎ心地の良い知らない匂いが気になって、結梨はすんすんと楓の首元に顔を埋める。一拍遅れて、楓の絶叫が部屋にこだました。
料理【メシマズレギオン】
「全員が同じ料理を作って採点し合い、おいしくなかった方のレギオンが優勝ですって?」
「はい」
「言語道断ですわ! 食で遊ぶなどもってのほか。わたくしは不参加を表明いたしますわ!」
「やっぱり作れないんですね^^;」
「作れないなどとは言っておりませんわ!」
「じゃあ作れるんですか?」
「くっ……ちびっこのくせにちょこざいな!」
「楓さんが棄権するとなると、自動的に一柳隊が優勝ですね」
「ちょっとお待ちになって?! どういうことですの?! アールヴヘイムのみなさんは全員参加するというんですの?! この不毛な争いに?!」
「はい。あちらは全員参加予定ですよ。うちもゴネてるのは楓さんだけです」
「ゴネてなどいませんわ! ……っっ! 謀りましたわねっ……ちびっこ!!」
「謀ってないです」
「ど、どうして……どうしてこんなことになってしまったんですの……」
「昨晩のお風呂タイムに、楓さんがアールヴヘイムのみなさんと料理で張り合おうとした結果ですよね」
「まさか全面戦争になるとは……くっ! こうなったら引くわけにはいきませんわ! 総力戦ですわよ!」
「大変なことになっちゃいましたね~^^;」
結果はというと、夢結様と楓さんとミリアムさんと鶴紗さんのアーティスティックな調理が功を奏して一柳隊がアールヴヘイムに圧勝。無事、第一回百合ヶ丘女学院メシマズレギオンのトロフィーをゲットし、隊室に飾られることとなりました。
「お姉様、お菓子を作ってきました!」
ニコニコと嬉しそうにしながら、梨璃が手作りのお菓子を作ってきてくれた。
樟美さんからチョコレートの作り方を教わってから、梨璃はこうしてお菓子を持ってくることが多くなった。
そんなシルトの可愛らしい姿に自然と笑顔が浮かんだ。
「今日は何を作ってくれたのかしら?」
「今日はクッキーです! お姉様、どうぞ!」
「いただくわね。…とてもおいしいわ、梨璃。私のために作ってくれてありがとう」
サクサクとした食感に甘い味。自分のために作ってくれたこともあって、いつもよりおいしく感じた。
「お口にあってよかったです!」
次の日
「お姉様! 今日はチョコブラウニーを作りました!」
また次の日
「今日はパウンドケーキです!」
「お姉様、今日はマカロンです!かわいくできました!」
「今日はマフィンですよー!」
「生チョコです」
「ドーナツです! 丸いから0カロリーらしいですよ」
「今日はチョコタルトです」
今日も今日とて私は梨璃のお菓子を食べる。しかし、口を開けると歯がズキッと痛んで反射的に口を閉じてしまった。
「お姉様、どうしたんですか?」
「ちょっとお腹が痛くて食べれそうにないわ。せっかく作ってくれたのにごめんなさい」
「そうだったんですね、じゃあ残りは楓さん達に渡すことにします。今日は休んで、早く良くなってくださいね!」
「えぇ、そうすることにするわ」
チョコタルトが並んだ皿を持って楓さん達の元へ向かう梨璃。私はその姿を見送りながらズキズキと痛む歯をどうしようかと考えていた。
すると扉が開き、梅が部屋の中に入ってくる。
「夢結、お前……」
「別に歯が痛いだけで、虫歯じゃないわ」
「まだ何も言ってないゾ」
「…………」
「毎日甘いもの食ってたら、そりゃ虫歯になるだろうナ。梨璃に虫歯だと知られたくないから嘘をついたんだロ?…歯医者行け、ナ?」
「もちろんそのつもりよ」
私は歯医者を予約した。
週末になり、私はズキズキとした鈍い痛みに耐えながら予約の時間に間に合うよう歯医者に向かう。『ごぜん歯科』それが私の予約した歯医者の名前だ。腕のいい医者がいると評判の歯医者で、梅に勧められたところだ。
人気の歯医者だそうで、歯が痛むようになった日から5日経つ週末の今日に予約がとれたのだ。
「予約の白井様ですね。こちらにどうぞ」
治療室に案内されて、歯科診察用チェアユニットに座る。うがい薬で口をゆすいだ後横たわる。
「担当させていただきます、白井咲朱です」
「助手の戸田・エウラリア・琴陽です」
「……貴方達、何でここに?」
そこにいたのは、白衣に身を包んだ白井咲朱と戸田・エウラリア・琴陽がいた。
「夢結さんは虫歯の治療とのことでしたね」
「どうして虫歯になったのかしら」
「梨璃の手作りお菓子なんて残せる訳ないじゃない…!」
「妹の手作り料理なら、虫歯になるまで食べてもいいっていうの!?」
「いいの! いいのよ! おいしかったんですものね!」
「タオルをかけますね」
「…………あっはい」
口元だけ残して顔全体がタオルに覆われる。視界が暗くなり、カチャカチャと器具を用意する音が聞こえる。
「口を開けてくださいね」
お姉様の指示に従い、口を大きく開いた。口の中を覗き込んだお姉様の顔が近づき、吐息がかかるほど近くに感じる。
するとシュィイイイインという音が鳴り始めた。
「麻酔をかけてますが、痛いと思ったら手を挙げてくださいね」
何も見えない暗闇の中、視界以外の感覚が鋭くなる。虫歯を削る機械が近づいてくる気配がする。
「まだ当たってすらいませんよ!? 御前、夢結さんの髪が白くなってます!」
「いいの! いいのよ! 怖いものね! 歯医者に行くって聞くたびに泣いていた貴方を思い出すわ…」
お姉様の声を聞きながら、私はギュッと目を閉じた。機械の振動が歯に当たり、ガリガリと虫歯が削られていく。歯医者が苦手な理由がこれだった。削っている時の振動が恐怖心を煽ってくるのだ。
結局、琴陽さんに押さえつけられた状態で、私の虫歯の治療は終了した。歯の痛みも治まり元の日常に戻ることができたが、しばらく梨璃のお菓子は控えようと心に誓った。
佐々木藍が、寝ることを何よりの娯楽とする彼女にしては珍しく深夜に目を覚ましたのは、一日中ヒュージへの対処にあたっていた日の夜であった。
「……おなかすいた」
腹部に居座るどんよりとした不快感が、その理由をいやおうなしに教えてくれる。思えば、今日とった食事らしい食事は出撃前に取った朝食だけであり、昼は簡易な携帯食料で済ませたうえに、夕食に至っては疲労のせいか何も口にしないままベッドで眠りこけていた。
ベッドから抜け出し手探りで部屋の明かりをつける。そのまま何か食べるものがないか探すが、あいにくなことに今日は常備しているお菓子の類を切らしているようであった。
「むー、ない」
考えてみれば、最近は食事も間食もヘルヴォルのメンバーと一緒に取ることが多く、自室で何かを食べるということはしばらくなかった。それゆえに部屋の中に何もなくても気にならなかったのだろう。
むしろみんなと分け合うという目的の元、藍自身が甘味を持ち出すこともままあった。それはとても幸せな時間であり、自分が食べる分が少なくなることなど些細なことに感じられた。
しかし今この瞬間に限り、それは何としても捨て置けない問題として立ちはだかった。
(レギオン室になら、なにかあるかも)
ヘルヴォルの控室は日ごろから作戦会議や出撃の準備をするための場としてのみならず、隊員の団らんの場としても使用されており、千香瑠が冷蔵庫から食材を取り出したり恋花が棚に軽食類をしまい込んでいたりする場面が記憶に残っていた。
もちろん彼女らの私物を勝手に持ち出すつもりはなかったが、メンバー共有のお茶菓子などを少しいただく程度ならば問題ないだろうと考え、藍の足は自然と個室の出口へと向かっていた。
CHARMメーカーを母体とするだけあって、潤沢な資金に支えられたエレンスゲの設備はその苛烈な校風に反して快適なものとなっている。寝室のドアも、軽く力を加えるだけで音もなくスムーズに開いた。これなら周りのリリィを起こしてしまう心配はないだろう。
(……?)
そこでふと、藍はこの孤独と静寂に満ちた水面に波紋が広がるのを感じた。いつも授業が終わった後に向かう場所、ヘルヴォルの隊室の方面からこそこそと人の話すような声が聞こえる。
「……ン……」
「ひ……」
こんな時間だというのにどうやら複数人で会話をしているらしい。藍は以前一葉や恋花がレギオン室への侵入者について話していたことを思い出していた。
その一件については疑わしい人物はいたものの結局犯人は明らかになっておらず、事件そのものは終息を見せたがいまいち消化不良感のぬぐえない結末のままであった。
(どろぼうだったら、藍がつかまえなきゃ)
警戒を強めながら控室へと近づいていく。この中から声がすることはもはや疑いようもなかった。はやる鼓動を抑えながらドアノブに手をかけた時、藍はそれらの声が見知った人物の物であることに気づいた。
「しっかし瑤と二人きりでなんて久しぶりねー」
「最近はヘルヴォルのみんなと一緒のことが多かったもんね」
「瑤?恋花?」
ドアを開けて二人の名前を呼ぶ。二人は一瞬ぎょっとした顔をしてこちらを振り返ったが、声の主が藍であることを確認するとすぐに安堵の色を見せた。
「げ!……って藍かぁ、よかった~」
「……教導官か一葉だったら危なかったね」
不審者の類ではなかったことに安心したが、この時間に二人がここにいることが気にかかった。
「瑤、恋花、何でここにいるの?悪いことしようとしてたの?」
藍は二人の態度から何かやましいことをしようとしているのではないかと思った。
「いやいやそんなわけないじゃん、ちょっとご飯食べに行くだけだって。……まあ、悪いことってんならこの時間にうろついてること自体がそうかもしれないけど、それはあんたもだし」
恋花が藍の疑問を否定する。
「ご飯?」
「うん、藍はどうしてここに来たの?」
今度は瑤から藍へと質問がなされた。瑤が膝をついてしゃがんだことで二人の目線が同じ高さになる。
「んーと、お腹すいたから、おかしを取りにきたの」
「部屋には置いてなかったの?」
「うん、うっかりして買ってなかった」
それを聞くと瑤と恋花は二人で顔を見合わせふっと微笑みをこぼした。
「じゃあさ、あたしたちと一緒に食べに行こうよ!」
「いいの?でーとの邪魔にならない?」
藍としては単に二人で行く予定だったのに迷惑ではないか、といった程度の問いかけのつもりであったのだが、二人は予想外に動揺を見せた。
「!?い、いやいやいや!だからただの食事だから!そういうのじゃないって!」
「……」
恋花は顔を真っ赤にして先ほどよりも激しく否定をし、瑤は気まずそうに押し黙っている。
「?」
二人の様子がおかしい理由はわからなかったが、いずれにせよ二人についていくことに問題はないという意味合いの返事であったため、安心して最後の確認をする。
「じゃあ藍も行っていい?」
「あったり前じゃん!」
気を取り直したのか、恋花がいつも通りの明るい笑みを浮かべて了承する。
その表情を見ていると藍の心にも明かりが灯るようであった。
「やったー」
「じゃあ着替えてきてね、ここで待ってるから!」
言われるまでは気にしていなかったが、藍はパジャマ姿のままであるのに対して二人はすでにしっかりと制服に身を包んでいた。おそらく準備を済ませて出かける直前であったのだろう。
「うん、まっててね」
「手伝おうか?」
「だいじょうぶ、一人でできるよ」
「そう……」
どことなく残念そうに眉を下げながら、瑤は藍を送り出してくれた。
「ごはん、ごはん」
周囲のリリィの睡眠を妨げないよう、また口うるさい意地悪な教導官に気づかれぬよう、口の中だけに響く小さな声で呟きながら藍は自室へと戻った。
手早くパジャマを脱ぎ捨ててクローゼットにかけてあった制服を手に取り、自分の腕よりも長い袖に手を通す。以前は一葉に手伝ってもらいながら行っていた作業も、毎日幾度となく繰り返したことで一人でスムーズに完了させられるようになっていた。
「おまたせ~」
「おっ来た来た~」
控室へ戻ると二人がこちらを向き笑顔を見せた。
「じゃあ行こうか」
瑤の言葉を合図として三人はエレンスゲを出て夜の町へと繰り出した。
~~
「恋花ー」
「なに?」
道すがら、藍は恋花に尋ねた。
「今日は何食べに行くの?」
考えてみれば二つ返事で誘いに乗ったはいいが、何を食べに行くのか確認をしていなかった。
「ふっふっふ……ラーメン!」
恋花は自慢げに返事をする。
「なんだ、ラーメンか」
別にラーメンが嫌なわけではないが、深夜という特別な時間帯に普通の回答が返ってきたため、思わず率直な感想が漏れる。
「がっかりしなくてもいいじゃん!」
「だって恋花いつもラーメンたべてるもん」
むきになる恋花に対して反論すると一瞬言葉に詰まった後さらに言い返してくる。
「いや、今から行くのはいつもとは違うところだから。いつもはG系とかがメインだけど今日は博多とんこつだから」
「ラーメンはラーメンだよ?」
何やら聞きなれない単語を連発する恋花だったが、そこへ瑤の制止が入る。
「恋花、そのあたりの違いはまだわからないと思う」
「むっ……。まぁ、お子様には早かったかな?」
今度は藍がむっとする番だった。しかし実際に違いがわからないのだから反論のしようがない。それを察したのか恋花が自分でフォローを入れてきた。
「まあ食べればわかるって!それに夜中に食べるラーメンっておいしいのよ?」
「ふ~ん」
そんな風にいつも通りのやり取りをしながら歩いているうちに、二人がある店の前で立ち止まった。
「着いたね」
店の前には獣のような妙な生臭さが立ち込めており、藍は思わず鼻を抑えた。
「うっ、くさーい……本当においしいの?」
それを聞いて恋花が困ったような表情で答える。
「あー、初めてだとそうなるよねー。まあ大丈夫よ、すぐ慣れるから。あとお店の中でそれやっちゃだめよ?」
そう言って瑤とともに店の方へと進んでいく。これが恋花だけであれば彼女の偏食によるものと考えて付いていかない選択肢もとれたのだが、瑤も特に抵抗する様子もなく店へ入ろうとしていたため、藍は二人を信じてみることにした。
「いらっしゃいませー」
店に入ると軽快な鈴の音とともに店員の歓迎の声が響き渡った。
店内はそこまで混みあっておらず、いくつかのボタンが付いた見慣れない機械と小さなテーブル、そしてカウンターがあり店のスタッフはそカウンターの奥で作業をしているようだった。
瑤はその機械の方へ歩み寄り藍の方を向く。
「まずはここで食券を買って店員さんに渡すんだよ」
券売機というらしい。お金を入れてからほしい商品名が書かれたボタンを押すと券が排出され、それを店員に渡すことで注文をするのだという。
「ふーん、そうなんだ」
藍が財布を取り出そうとすると、瑤がそれを制止した。
「いいよ、私たちが出す」
「でも……」
以前の藍であれば何もためらうことなく素直に二人の言うことを聞いていただろう。しかし今の藍は千香瑠やほかでも無い瑤自身の教育の成果によりお金の大切を知っており、だからこそ食事代を一方的に負担させることに申し訳なさを感じた。
うさぎを模した財布をぎゅっと握って考え込む藍を見てその葛藤を感じ取ったのか、瑤が藍にやさしく話しかける。
「今日は特別だから、ね?」
「あたしらが誘ったんだから気にしなくていいの!黙っておごられときな~」
恋花もそれに続いて気前のいいセリフを言いながら券売機にお札を挿入する。
「…それなら、ありがとう」
彼女らの笑顔に押され、少し考えた後藍も半ば不本意ながら承諾する。
「うーん…どれにしよう」
好意を素直に受け取ることにしたものの、普段千香瑠の作る料理を主食としている藍は当然ラーメンを注文した経験もないため、いざ券売機を前にすると何を買えばいいのか決めかねてしまった。
「迷ったらこれにしとけば間違いないよ」
迷っていると恋花が券売機の左上のボタンを指さして助け舟を出してくれた。見てみるとボタンの隅に手書きのシールが貼ってあり、そこには「おすすめ」と書かれてあった。
「じゃあそれにする~」
迷わずそれに従う。ボタンを押すと機械の下側のへこみの部分から機械音とともに小さな券が出てくる。それを手に入れた藍は後ろの二人のために横にずれてスペースを開けてあげた。
「はい、どーぞ」
「ありがとね~」
恋花は券売機に近づくと慣れた手つきでいくつかのボタンを連続で押していく。あらかじめ何を頼むか決めてあったようだ。
「おすすめにしないの?」
「ふふふ、あたしくらいのプロになると自分でカスタマイズする方が満足できるのよ」
そういいながら排出された数枚の小さな紙をまとめて取り出す恋花。それに続いて瑤も券売機を操作する。
「瑤はどうするの?」
「私は久しぶりだからこれでいいかな」
瑤は恋花と違いあまりたくさん注文するつもりはないようで、メインのラーメンのボタンを押すだけであった。
食券を買い終わりカウンター席に着く。瑤と恋花の間に藍が挟まる形になった。瑤と恋花が店員に食券を渡したため、藍もそれに倣う。
「バリカタで!」
「あ、私もバリカタで」
食券を手渡しする際に、謎の単語が二人の口から放たれる。
「ばりかたってなに?」
「面の硬さのことだよ、バリカタって注文したらあまり茹でていない硬めの麺が出てくるの」
「らんも同じのにしようかな」
何となく二人に合わせたくなり、藍はそう口にする。
「あ~、お腹壊すから最初は普通にしときな?」
「うん、何回か食べて慣れてからがいいと思う」
しかしその試みは二人に止められてしまい、結局藍だけ普通で注文することになった。なんでもあまり茹でられていない麺はその分生の小麦粉に近いため消化に悪いのだという。
「…何でそんなものたのんだの?」
率直な疑問が口を突いて出る。それを聞いた二人は顔を見合わせて笑った。
「ん~、ちょっと出てくるまでの時間が早くなるってのはあるけどそれよりも…」
「なんというか、癖になるよね」
よくわからないが二人だけに通じ合うものがあるのだろう。瑤と恋花は藍を間に挟んで楽しそうなやりとりをする。
(ふたりともなんだかいつもとちがうな)
藍は一人だけ仲間に入れていないような感覚を覚え少し寂しくなったが、それと同時に二人の普段と違う雰囲気を感じ取った。
いつもおどけたりはしゃいだりしている印象の強い恋花は、瑤と話している瞬間だけは少し落ち着いた様子を見せており、逆にいつも物静かな瑤が恋花と話す時は表情をほころばせている。
「お待ちどおさまです、お先にバリカタふたつ、フツウのもすぐにお持ちします」
藍のとりとめのない思考はカウンターの向こうからやってきた店員の声によって中断を迎えた。二人の注文した分が先に届いたようだ。
上にいろいろなものがのった豪華な方が恋花、シンプルな見た目の方が瑤の物だろうか。
「きたきた~。んー、でも…瑤?」
恋花が瑤の方に視線を向ける。それに対して瑤は軽く頷き、恋花ではなく藍の方へと声をかけた。
「藍の分も来てから、みんなでいただきますしようか」
「そうね、まあ伸びる前に来るっしょ」
瑤の提案に恋花も賛同の姿勢を見せる。彼女らの気遣いを感じられたおかげか、藍が先ほどまで感じていたほんの少しの疎外感は次第に薄れていった。
「お待たせいたしました~フツウでーす」
一分と待たずに藍の分もやってきた。
「おお~」
自分の目の前に置かれてはじめて気づいたことだが、ラーメンは視覚的にも嗅覚的にも強い誘惑をもたらすものであった。
その香りの中には藍が店外で鼻をふさぐ原因となった成分も含まれていたのだが、空腹の少女がそれに気づくことはなかった。
改めてラーメンの魅力を目の当たりにしたことで、藍は今更ながら両隣の仲間に対して、ほんの数十秒とはいえお預けさせることになったことに罪悪感を感じた。
「瑤、恋花、またせちゃってごめんね」
「いいってことよ、気にしない気にしない!」
「うん、一緒に食べる方がおいしいっていう私たちの判断だから」
そういって二人は卓上の割りばしを手に取り手を合わせる。藍も一拍遅れて二人に続いた。
「それじゃあ、いただきまーす!」
「いただきます」「いただきま~す」
三人は一斉にそれぞれに与えられたものへと箸を伸ばした。
「く~っ!背徳の味!」
最初の一口を食べてから恋花が満足げな声を発する。
「はいとく?恋花がいまたべてるのはいとくっていうの?」
今日何度目だろうか、またしても恋花の口から馴染みのない単語が出てきた。
味というからにはラーメンの上に載ったトッピングの中に「はいとく」が含まれていたのだろうか、そう思い藍は尋ねる。
「あんたなかなか詩的な表現するわね…。まあ背徳を食べてると言っても過言ではないかな?背徳ってのはいけないことしてる時のドキドキのこと。夜中に学校抜け出してラーメンなんて特別感あるでしょ?」
どうやら藍の予想は外れたようだった。学園を出る前の悪いことをするつもりはないという発言とは矛盾した内容を楽しそうに語りながら恋花はなおも箸を動かす。藍を挟んで反対方向にいる瑤もうんうんと頷いている。
「いけないこと?らん悪いことしてるの?恋花と瑤も?」
「そうそう、だからこれは三人の秘密。一葉と千香瑠が聞いたら怒るから内緒ね」
「ひみつ…」
三人の秘密、その言葉を聞いて藍はお腹の奥に温かいものを感じた。それが今食べているラーメンの温度に由来するものでないことは藍にも分かった。
「ふふ、はいとくっておいしいね」
「でしょ?あ、でも人に迷惑かけたりあんまり無茶したりするのはだめだからね。その判断がつくまでは一人でやっちゃだめよ?あたしたちにちゃんと確認すること」
はいとくの味にも一定のルールがある。そう言うと恋花はまた幸せそうな顔でラーメンをすする作業に戻った。
「らん、たまに夜におやつ食べたくなるの。でも一葉も千香瑠もだめだよって。恋花と瑤はいっしょに食べてくれる?」
「そういうのなら大歓迎よ!ね、瑤!」
「うん、三人でパーティーだね」
「わーい、パーティーたのしみ~」
そんなことを話した後、しばらく無言でラーメンをすする時間が続いた。
そのうち、おもむろに恋花が口を開いた。
「あたしと瑤ね、昔はいつもこうやって二人でラーメン食べに来てたのよ。任務が上手くいった日も、へまして落ち込んだ時も」
「そうだったね」
唐突に出てきた話題であったが瑤もそれに乗る。二人の声は先ほどまでよりもずっと優しく、脆く頼りない何かにそっと触れるような声色であった。
「むかしっていつ?」
「中等部の予備隊時代、一葉や藍と出会うずっと前だね」
瑤が答える。その横顔は机の上を向いていたが、藍にとっては何となく遠くを見ているように感じられた。
「いつもあたしから誘ってたんだけど、一回だけ瑤から誘ってくれたことがあってね」
「それって……ああ、あの時の」
恋花が少し照れくさそうに眉を下げながら言葉をつないでいく。普段藍をからかう少し意地悪な彼女とは別人のように見えた。
「あたしが一回部隊の先輩とすごい大げんかして、もうエレンスゲなんか辞めてやるーって部屋にこもってたの。今思い返せばすごくしょうもない理由だったんだけど、あの時は本気だったな~」
「あの時はすごかったね」
藍にとって、恋花がそのような喧嘩をしたことがあるというのは意外であった。基本的にはヘルヴォルの中では恋花は藍をからかうなどして怒らせる側であり、逆に怒って部屋にこもる恋花というのは想像しにくかった。またその規模もその日の内、長くても一晩で解消するような些細なものであり、藍は恋花に対して怒りを抱くことはあっても脱退まで考えたことはなかった。
「でね、部屋で一人で泣いてたら瑤が来て『ラーメン食べに行こう』って連れ出してくれたの」
なおも恋花は言葉を紡いでいく。よどみないながらもいつものおしゃべりな彼女とは違う雰囲気の語り口に、藍の意識も自然とそちらへと向いた。
「瑤の前でかっこ悪い顔したくないって思って我慢してたはずなのに、愚痴言いながら一緒に食べてるうちに泣いちゃってさ、それでも瑤はうん、うん、ってずっとあたしの話聞いてくれて」
「あのままだと本当に辞めちゃいそうだったから」
これもまた意外であった。瑤はいつもメンバーのことを静かに見守ってくれ、その優しさを感じることは多々あったが、直接誰かを励ましたりといったことをするイメージは藍の中にはあまりなかった。
「それで瑤と一緒ならまた頑張ろうって思えたんだ。瑤に感謝しなよ?あの時瑤がいなかったらあたし今ここにいなかったかもしんないんだから」
「そんな、おおげさだよ。私は一緒にご飯を食べただけで、立ち直ったのは恋花自身」
今度は瑤が恥ずかしそうにしている。くすぐったそうなそぶりではあるが、居心地が悪いと感じている様子ではなかった。
「なんか恋花、いまとちがうね、おこったりないたりして」
それまで黙って二人の会話を聞いて居た藍であったが、話がひと段落したのを見て取ると感想を口にする。
「そうだね、恋花は今よりもずっとギラギラしてて……。そうだね、今の一葉みたいだった」
「ぐふっ」
瑤の言葉を聞いて恋花がせき込み、口に含んでいた麺の一部が飛び出す。
「恋花が一葉みたいだったの?」
「ふふっ、想像できないよね」
瑤が目を細めて藍に同意する。
「いろいろあって変わらざるを得なくなっちゃったから…」
先ほどまでとは違い今度は少し寂しそうに語る。
「でも今の恋花もあのころと変わらない、熱いままだよ。ただそれを内に秘めてるだけ。少し前までは無理して押さえつけていたからだけれど、今は代わりに表に出してくれる人ができたから」
それが誰のことを指しているのは藍にも何となく察することができた。
「それって一葉のこと?」
「うん」
うなずく瑤、そこへ恋花が割り込んでくる。
「ちょ、ちょっとストップ!そこまで!」
振り返ると先ほどまでゲホゲホとむせていた恋花が顔を真っ赤にして慌てた表情で叫んでいる。
「なんか恥ずかしいから!これ以上はやめて!」
「自分から話し始めたのに」
「人の口から言われると予想以上に心に来るの!」
必死になって説得する恋花に対して瑤が残念そうにする。藍としても昔の恋花について興味を惹かれた。
「え~、らんも恋花のはなし、もっとききたいな」
「ちょっと!」
「ふふ、じゃあまた恋花がいない時にね」
瑤がいたずらっぽい笑顔を浮かべて藍をなだめる。
そうこうするうちに三人ともラーメンを食べ終えてしまった。
「お、みんな食べ終わった?」
「うん。じゃあそろそろ出ようか」
「ごちそうさまでしたー!」
「ごちそうさまでした」「ごちそうさま~」
食べ始めた時と同じように三人でそろって挨拶をしてから、三人で帰路に就いた。
~~
「ねーねー」
「?」
帰り道で藍は先ほどの話を思い出していた。
「恋花はむかし一葉みたいだったんでしょ?じゃあ一葉もいつか恋花みたいになっちゃうの?」
藍は恋花のことが嫌いなわけではないが、今の一葉が好きであったし、表面上だけだとしてもそれが変わってしまうのは寂しかった。それに先ほどの瑤の表情から察するにその変化の過程は決して好ましいものではなさそうであったため、なおさら不安がかきたてられた。
「どういう意味よ!…ってまあ、そうなっちゃったら悲しいか」
もしかしたら恋花は怒るかもしれないと予想していたが、思ったよりも真剣な声色の返事が返ってくる。
「でも大丈夫よ、あたしたちがいるんだから!」
「うん、そうだね。一葉があのままでいられるように、私達が支える」
そう言う彼女たちの顔を見ていると藍の不安は消えていった。
「ふふ、よかった~」
「あんたも一緒に頑張るのよ?」
「うん!」
藍は右手を恋花、左手を瑤とつないだまま、温かい気持ちにつつまれながら学園までの道のりを歩いた。
【おしまい】
月に隠れて【樟美、壱】
「じゃあ、おやすみ樟美」
「おやすみ、いっちゃん」
いっちゃんは灯りを消灯時間きっかりに消す。部屋は途端に暗くなり、唯一の光源は飾り格子の付いた縦長窓から差し込む月明かりだけとなる。目が順応するまではしばらくかかるから、わたしはベッドで横になって、対面に居るはずのいっちゃんを見つめる。机を二つ挟んだ距離の向こうにいっちゃんのベッドがある。いまは暗闇に紛れてシルエットさえ見えないけれど、時間が経てば柔らかな月明かりのなかにいっちゃんの姿をとらえることができるようになる。わずかな明暗を感じ取ることに努めながら、横たわるいっちゃんの影絵を求めて目が慣れるのを待つ。
「樟美、また見てるでしょ」
「うん」
おやすみと言ったけど、それは形骸化したあいさつに過ぎない。
ぼんやりとした暗闇でいっちゃんとのお話がはじまる。休日の前の晩はいつもこうだ。夜更かししても支障のない夜にするナイショの話。事前に取り決めた約束をすることもあれば、何も言わなくても自然とお話が始まるときもある。今夜は後者だった。
「わたしがそっち行こうか?」
「ううん。今日は、わたしがそっちに行く」
「そ」
わたしはいっちゃんと一緒のベッドに入ってこそこそお話するのが好きだ。そのときの気分で、わたしはいっちゃんのベッドに入ったり、逆にいっちゃんにわたしのベッドへ来てもらったりする。決まりはない。でも、今日はなんとなくわたしがいっちゃんのベッドに行きたかった。
同じこしょこしょ話でも、自分のベッドでするのといっちゃんのベッドでするのとでは雰囲気が違う。気持ちが変わる。いっちゃんのベッドは明るくて、楽しい匂いでわたしを包み込んでくれる。いっちゃんのベッドにはわたしを甘やかす魔法がかかっているのだ。つまり今日は、いっちゃんに甘えたかった。
でも、すぐには行かない。距離を空けたまま、いっちゃんとお話をする。暗闇に目が慣れるように、いっちゃんと歩調を合わせてからいっちゃんの布団に入るのだ。
「ねぇ」
わたしは薄暗闇に向かって呼びかける。目はまだ慣れていない。
「なに?」
「いっちゃんは、シルトって、持つ?」
「シルト?」
「うん、シルト」
「それって、2年生になったらってこと?」
「うん」
「考えたことないわ。いや、考えたことはあるけど、真面目にってわけじゃなくて。うーん。いや、やっぱり、考えたことないわ」
「だよね」
「どうしたの急に? シルト欲しいの?」
「そういうわけじゃないんだけど、天葉様を見てたら、わたしもいつか、誰かのシュッツエンゲルになったりするのかな……って思って」
シュッツエンゲルの契り。
上級生の多くはそれを結ぶようになる。2年生はそれほどでもないけれど、3年生になるとその傾向は強い。それはひょっとすると、寂しさや心細さからくるものなのかもしれないと、わたしは思っていた。
「樟美はどんな子にシルトになって欲しい?」
「どんな子……」
ぜんぜん、イメージが湧かない。わたしのシルト。そもそもわたしなんかに、シルトを導くことができるのかという大いなる疑問がある。他人を導いている自分という姿がぜんぜん見えない。
「わたし、シュッツエンゲルになる自信、ない」
「天葉様のシルトなのに?」
「うぅ」
「ごめんごめん。でもさ、自信なんかなくても樟美はきっと誰かのシュッツエンゲルなるよ」
「どうして?」
「樟美は優しいから。慕ってくれる子、これからたくさんできると思うよ」
「そうかな」
「そうだよ」
いっちゃんがどんな表情をしているのかは見えない。
でもその声音は優しかった。いっちゃんがわたしをどういうふうに見ているのか、なんとなく伝わってきた。でも、わたしが自認する自身の実像といっちゃんが捉えているわたしの実像とにはかなり隔たりがある。わたしは優しいというよりも臆病なのだ。
「いっちゃんはさ」
「うん?」
「依奈様と、するの?」
この質問をするのは何度目だろう。
毎日している、というわけではないけれど1回や2回で済んでいるものでもない。時折、思い出したようにわたしはこの質問をいっちゃんに投げかける。返答はいつもはぐらかされるけれど、その時のいっちゃんの気分や調子が口をついて出る言葉に反映される。
これはわたしの勝手な意見だけれど、いっちゃんは依奈様にどう接すれば良いのか決めあぐねている節がある。
「うーん……」
いっちゃんが言葉に詰まるのも、濁るのも、気持ちの整理がついていないことが原因のように見える。ルームメイトなのをいいことにいっちゃんに繰り返し問いただした末、わたしはそう結論づけた。
もともと、いっちゃんは他人を引っ張っていく気質の人間であり、誰かの下について教えを請いながら切磋琢磨するような生き方はしていない。そのせいかいっちゃんはシュッツエンゲル制度について、擬似的にとはいえ誰かの妹になる、ということに躊躇いというか戸惑いというか、そういった逡巡する気持ちが滲んでいるようにみえる。
「たぶん、いっちゃんが依奈様のシュッツエンゲルになっても、依奈様との関係そのものは変わらないと思うよ」
「そう?」
「親密になる、という変化はあるけど、特別に何かするようになるわけじゃないから……」
妹として姉に甘え、守られ、指導を賜る。でも、わたしと天葉様は直前までにそういった関係を築いていた。わたし自身の体験に基づけば、いっちゃんと依奈様も、なんというか、すごく自然な形でシュッツエンゲルの契りに至るというような印象があった。少なくとも、いっちゃんと依奈様の間にはもう契りに相当する関係ができあがっているように見えた。
「なんていうか、わたしと天葉様も、シュッツエンゲル以前と以後で、関係がそこまで変化したっていう感じはしないんだ。変わったのはむしろ、まわりからの認識かなって、思うの」
「まわりからの認識ね……まぁ確かに樟美と天葉様の関係の深さで言えば外側からみても変化がわからないところあるかもね。関係っていうか、そもそも契りを交わすまでの間に樟美と天葉様ってべったりイチャイチャになってたもんね」
「イチャイチャって、も、もう!」
いっちゃんはくすくすと笑い声を漏らした。
「いや、あれはイチャイチャだったよ。今もだけど」
「そ、それは、否定、しないけど」
「ふふ。しないんだ」
暗闇の向こうでいっちゃんが肩を揺らして笑うのが見える。そろそろ、目もこの闇に慣れてきたようだ。
「樟美。そろそろこっち来なよ」
「あ、うん」
思い出したようにいっちゃんがわたしを招いた。
自分からいっちゃんのベッドに行くといっておきながら、たいてい、いっちゃんからベッドに誘われることがほとんどだ。わたしは誘ってもらえるのが嬉しい。いっちゃんも、わたしが誘ってもらえることを嬉しがっているのを知っている。だから、いつもわたしはいっちゃんに甘えて、お招きされるのを待つのだった。
わたしはベッドからそっと抜け出して、机二つ分の距離をそろそろと移動する。足音を立てないように、消灯後の見回りに気づかれないように、そっといっちゃんのベッドに潜り込む。
「お邪魔するね」
「はい、どうぞ」
いっちゃんが布団を広げてわたしを迎え入れてくれる。布団はいっちゃんの体温と同じでぽかぽかしていた。一緒の布団に入ると、いっちゃんそのものに包まれるような感じがする。
「もしさ、わたしと樟美がさ、学年が違ってたら、シュッツエンゲルになってたかな?」
「ふぇっ?!」
布団に入ってすぐ、いっちゃんがとんでもないことを言い出した。
「急に何言い出すのいっちゃん?」
「だって、こんなに一緒に話してるじゃない」
「だからって、ちょっと、びっくりしちゃうよそんな質問」
「……嫌?」
「嫌じゃない。けど……」
「けど?」
「天葉姉様がいるから、わたし……」
「じゃあ天葉様がいないと仮定してみて」
「その仮定は容認できません!」
「仮定でもダメなの?」
「ダメ。ダメです。天葉姉様は居ます」
「そっか。じゃあきびしいわね……」
苦笑するいっちゃんがわたしの頭を撫でた。
いっちゃんはときどき、わたしを年下か妹か、そんなふうに扱う。嫌な感じはしなくて、むしろ心地がいい。いっちゃん言うように、わたしが一学年下だったら、いっちゃんとシュッツエンゲルの契りを結ぶこともあったのだろうか?
「いっちゃんはわたしより、依奈様とのこと考えたほうがいいと思う」
「今日はやけに喰いついてくるわね、樟美」
「このまま放っておいたら、いっちゃん、そのまま2年生になっちゃう気がしてきたの。いますぐじゃなくても、依奈様のシルト、はやく予約した方がいいと思う」
「予約って」
「とられちゃうかもしれないよ? 依奈様、人気あるもん」
「……人気は、あるけど」
いっちゃんが言葉につまった。
わたしが言うのもなんだけど、いっちゃんはこういう、契りを交わすだとか、そういうことに奥手なタイプだと思う。誰かに背中を押してもらったり、相手から手を差し出されないと動かない気がする。
「急かしちゃってごめんね。でも、いっちゃん、もう一年生も終わっちゃうよ」
「……」
「わたし、いっちゃんに後悔して欲しくない」
「樟美……」
踏み込みすぎている。
シュッツエンゲルの契りは急かされてするようなものではないし、わたしはいっちゃんを困らせたいわけではない。
わたしはすこし話の方向を逸らすことにした。
「もし不安だったら、わたしと練習してみる?」
「練習?」
「そう。シュッツエンゲルの練習」
「……なにするのそれ? なんか、あんまり気乗りがしないんだけど」
「わたしたちふたりは、シュッツエンゲルの契約を結びます」
「始まった?!」
強引に始めてみた。
「これからは、幸せなときも、困難なときも」
「く、樟美?」
「幸せなときも、困難なときも」
「樟美さん?」
「幸せなときも、困難なときも」
「……す、健やかなるときも、病めるときも」
「いっちゃん、誓いの言葉おぼえてるんだ」
「急に素に戻らないでくれる?!」
「じゃあ続きはいっしょに、ね」
「あ、うん」
百合ヶ丘の生徒なら誰しもが契りの言葉を目にしたことがある。耳にする機会だってある。でも、それを完璧に諳んじることができるのは、その準備のために覚えた生徒だけだろう。
だからもう、いっちゃんに必要なのは度胸なのだきっと。
「お互いを尊重し」
「お互いを尊重し」
「慈しみ」
「慈しみ」
「「支えあうことを誓います」」
暗闇の中で、わたしたちは契りを交わした。
練習なのに、それはどきどきと胸を高鳴らせて、わたしの頬を熱してきた。
「ふふ、わたしと契っちゃったね、いっちゃん」
「れ、練習! これは練習だから!」
「そうだね。これは練習。だから」
わたしはいっちゃんに顔を近づける。
この距離なら暗闇でもよく見える。いっちゃんのきれいな瞳、ながいまつ毛、整った鼻筋。いっちゃんは美人だ。
「え。樟美……?」
「いっちゃん」
わたしといっちゃんの鼻先が触れ合う。
こんなに近い距離で、他人と見つめ合うことはしない。この近さで見つめ合うとしたら、それはもう他人ではなくパートナーだ。
わたしは目を瞑ってみた。何かが起こるのを期待して。
「――」
いっちゃんの吐息が震える。
まだ何も起こらない。
「く、樟美」
月明かりは届かない。
わたしたちの秘め事を知るのは暗闇だけだ。
いっちゃんの吐息が近づいてくる。わたしはそれをただ受け入れる。
いっちゃんの手が、わたしの肩を掴んだ。わたしのくちびるに柔らかなものが触れた。臆病に押し付けられたそれは、クリームみたいにやわらかくて、甘かった。
月に隠れて【樟美、壱】終わり