存在しないメモスト置き場3

Last-modified: 2022-05-05 (木) 04:17:27
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存在しないメモスト置き場3冊目


暁に笑う少女.jpg

暁に笑う少女【鶴紗、璃梨、他】

暁に笑う少女【鶴紗、梨璃、他】



東京 都心部 PM 9:00


 肌が焼ける痛み。
 皮膚が裂ける痛み。
 胸骨が砕け、肋間の筋肉が断裂し、肺腑から血が噴き出すと、たちまち喉の奥は血で溢れかえり、こらえがたい吐き気を引き起こす。
 全身から送られてくるそれら苦痛のシグナルは、わたしの脳をガンガンとノックして声高に危機を叫んでいる。どうせ死にはしないのだから静かにしていて欲しいのに、痛みはドアを叩き続け、頭蓋の中で絶叫を繰り返す。

「鶴紗さん!」

 梨璃の声が耳に届いた。しかし返事をする余裕はない。たたらを踏みながら立ち上がり、CHARMを握りなおして正面に構える。流血に赤く染まった視界の中で、ラージ級の触手が鎌首をもたげ、わたしに止めを刺そうと揺れ動いている。ぼやけた視覚の濁りは晴れないが、ファンタズムという第三の目は眼前の脅威を確実に捉えていた。痛覚などよりよほど優秀なこの感覚(レアスキル)は、転じてわたしの最大の武器でもあった。ヒュージの触手がしなり、音速を超えてわたしの首を打ち据えに来る、そう視えた。

「っ」

 ティルフィングを跳ね上げる。
 わたしの首を飛ばそうとしたラージ級の触手はブレードに切り裂かれて宙を舞った。わたしは振り切ったままのCHARMを変形させ、バスターランチャーの引き金を引いた。

――ガン!

 上段に打ち込んだ砲弾はラージ級の目玉に直撃し、その巨体を大きくのけ反らせた。それを見届けてわたしは脱力し、コンクリートの上に膝を屈する。出血のせいで意識が飛びそうだった。

「鶴紗さん!」

 いつのまにか隣に来ていた梨璃がわたしを抱きとめて支えてくれた。梨璃の体はふんわりとして暖かく、ウールのようだ。梨璃の体温が伝わり、血と共に熱を失いつつあった私の体を温もりが広がっていった。

「やぁあああ!!」

 外から夢結様の咆哮が聞こえた。それに続いて強烈な破砕音に大気が震え、ラージ級の倒れる音が轟く。きっと討ち取ったのだろう。先ほど視た光景(ファンタズム)はそういう筋書きだった。手こずりはしたけれど、全員無事のまま任務を終えることができたようだ。

「……梨璃、もういい。大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです! こんなにいっぱい血が!」

 わたしの服は鮮血で染まっていた。ヒュージの触手にビリヤードの玉のように突かれて、ビルのコンクリート壁をぶち破りながら室内へ吹っ飛んだせいだ。上着もインナーも何もかも血まみれになっている。傷はもうほとんど塞がっていたけれど、血液でぐっしょりと濡れた服は肌に張り付き、べたべたとした不快感が全身に纏わりついていた。

「ほんとに大丈夫。自分で立てる」

 下半身に力を入れる。足の筋肉を収縮させて不足した血液を誤魔化す。もはや慣れたやり方だった。このまま梨璃に寄り添ってもらって、自分の血で彼女の服まで汚してしまうのは嫌だった。名残惜しいぬくもりから離れて、わたしは半ば無理やりふらふらと立ち上がる。

「駄目です! ふらついてるじゃないですか!! 休んでてください!」
「いや、ほんともう、大丈夫だって」

 今の出血が自分的にセーフなラインの失血なのは経験則でわかっているのだが、しかし、それを梨璃に納得してもらえるように説明する術をわたしは持っていなかった。結果として、肩を貸そうとしてくれる梨璃を曖昧に拒否することになる。わたしはくじけそうになる足を動かして、ゆっくりとビルの外へと歩み出た。崩れた外壁の向こうは濛々(もうもう)と土煙が立ち込めていた。晴れきらぬ粉塵の中に動かなくなったラージ級のシルエットが横たわっている。

「鶴紗さん!」
「鶴紗!」

 こちらに気付き、ヒュージの上に乗っていた夢結様と梅様が駆け寄ってきた。

「わたしは大丈夫です。制服はぼろぼろですけど」
「いえ、制服よりむしろ鶴紗さんの方がぼろぼろになっていると思うのだけれど、ほんとうに大丈夫なの?」
「お前なー! 強化リリィだからって無茶しすぎだゾ!」
「スンマセン」

 ラージ級が巧みに操る触手に阻まれてなかなか攻撃が通らなかった。それですこしだけ無茶をした結果、みんなに心配をかけてしまった。わたしの中に焦りがあったのは事実だ。ルドビコ守備範囲への派遣が始まってから連戦続きで、隊内には疲労が溜まっているのを感じていた。今日も夜更けまで戦闘になってしまい、できるだけはやく終わらせたい気持ちで思わず先走ってしまった。

「うぉ! 鶴紗がもう立っとる!」

 塵埃の中から現れたミリアムがわたしを見て驚愕の声を上げた。それに続いて二水や雨嘉、他のみんなもわらわらと集まってきた。

「もう! 鶴紗さん! 今度こそ死んだかと思いましたよ!」
「ごめん神琳」
「鶴紗……ほんとに大丈夫なの?」
「大丈夫」
「わたしも鷹の目で血の花を咲かせる鶴紗さん見ちゃって……今度こそ駄目かと思いましたぁ」
「すまん」
「リジェネレーターもそうですけれど、ファンタズムに頼りすぎではなくて? 勝ち筋が視えているのでしょうけれど、もうすこし傷つかないように戦う工夫をした方がよろしいですわよ?」
「面目ない」

 全員から言葉を頂きながらわたしはぺこぺこ謝っていった。何はともあれ、みんなに大きな怪我が無くてよかった。

「わたし……決めました」

 ふいに背後で梨璃が呟いた。振り返ると、梨璃の両目には沸々とした決意がみなぎり、責めるような目つきでわたしを見つめていた。嫌な予感がした。

「鶴紗さんは今日から怪我するの禁止です!!」

 ものすごく無茶な隊長命令が下された。



ルドビコ女学院 大浴場 PM 10:00

 疲れ果ててルドビコへ帰投したわたしたちはご飯よりもまずお風呂に入ることにした。
 汚れきった制服を脱いで専用の脱衣カゴに放り込むと、みんな湯浴み着をまとって浴場へ移動する。こびりついた土と煤と汗と血の化粧を真っ先に洗い流す。今日はわたしの汚れが特にひどく、シャワーの水は浴びた端から延々と赤黒く染まり、床に広がり続けた。

「……んー。ほんとに大丈夫なのか鶴紗? 傷が治るっていってもそんなに血がべったりだとにわかに信じられなくなるゾ」

 なかなか血が落ちないわたしを見かねてか梅様が声をかけてきた。

「まぁ、大丈夫です。正直、自分でもよくわかんないんですけどね、そこらへん。いっぱい血が出て貧血っぽくなっても、なんか、ほっとくと治っちゃうんで」

 傷が塞がるのはまだわかるが、失われた血液がどこからくるのか、自分の体ながら薄気味の悪さを感じる。

「うへぇ、髪も血まみれだなー。洗うの手伝うゾ」
「……じゃあ、お願いします」

 大人しく提案を受け入れ、頭を垂れたわたしの頭に梅様がお湯をかぶせていく。こびり付いた血が溶けて流れ、体を伝って石畳の上を広がっていく。それと一緒にむせ返るような鉄の匂いが湯気とともに立ち込める。酷い血臭だった。固まってるときはそこまで匂わないのに不思議なものだ。

「じゃあシャンプーしていくぞー」

 梅様がバラの香りがするシャンプー(ルドビコの備品)でわしゃわしゃとわたしの髪を洗い始めた。もくもくと泡立ったシャンプーは血が混じり、きれいな鮮紅色をしていた。

「あはは! 泡まで真っ赤だゾ! ……って、笑い事じゃないか」
「そうすか? リリィあるあるネタみたいな感じがしますけど」
「流石にこのレベルは滅多にないだろ。強化リリィでもそうそうないと思うゾ」
「そういえば、いままでは血で汚れすぎたときは自室で洗ってました。そうか、あんまり無いんだこういうの」
「鶴紗だとあるあるなんだなー。百合ヶ丘だと学年違うから鶴紗とお風呂する機会、あんまりなかったしな。今日はいっぱい洗ってやるゾ」
「おなしゃす」

 梅様の指使いは力強かったが気持ち良かった。一度では落ち切らないのでなんどか洗い直して貰って、わたしの清掃は完了した。

「よし! 終わったゾ! じゃあ、湯船に入るか!」
「はい」

 30人はいっしょに入れそうな大きな円形の浴槽は、そこかしこにローマだかギリシアだかのレリーフが刻まれていてルドビコらしさに溢れている。一柳隊のみんなはもう湯船に並んでつかっていた。

「あー。一日の締めは風呂に限るのう」

 普段は浴槽内を泳いだりしているミリアムもさすがに今日は疲れているのか、大人しく湯加減を楽しんでいる。他のみんなも口数は少なく、疲労を癒すための湯治にダラけて没入していた。

「……はぅ。溶けちゃいそうです、お姉様ぁ」
「あなた、今ちょっと寝てたわよ。危ないから気を付けなさい」

 学年の違う夢結様と梨璃の湯浴みももう見慣れた光景だった。梨璃が夢結様の肩に頭を預けて脱力している。

「梨璃」

 わたしは梨璃の方へ近づき話しかけた。梨璃はぼんやりとした目でわたしを見つめ返した。

「さっき言ってたことだけど、怪我するの禁止って、それはさすがに無理なんだけど」

 ラージ級を倒した現場で宣告された、梨璃からのわたしへの無茶な要求。あのときの梨璃の目がかなり本気だったので念のため、どの程度本気の発言だったのか確認をしておかなければならない。梨璃は度々わたしたちの想像を超えてくる。

「鶴紗さん……わたし、鶴紗さんが率先して怪我しに行くの、何ていうか、すごくイヤです」
「……ごめん」
「いっつもそれですよね! 謝るけど全然改善しないじゃないですか!」

 梨璃がぷりぷりと怒り始めた。今の今までうたた寝しかけていたのに、完全に覚醒させてしまったようだ。話しかけたのは藪蛇だったかもしれない。

「鶴紗さんが頑張ってくれるから、いままでどうにかなってきた、という場面は確かにあります! でも、やっぱり良くないですああいうの!」
「今日はわたしも気が焦ってた。戦闘が長引いてて早く終わらせようとしちゃったんだ」
「だからって……」
「梨璃」

 感情がぶり返してヒートアップし始めた梨璃を、隣にいた夢結様が制止した。

「梨璃、気持ちはわかるわ。死なないからといって、仲間が目の前で傷つくのを見るのは気持ちのいいものではない。でも、今日はその辺にしておいてあげて。……今日は本当にお疲れ様だったわね、鶴紗さん」
「いえ、夢結様もお疲れ様でした」
「わたしは止めを刺しただけよ。今日のMVPはあなたね」

 そもそもノインヴェルト無しでラージ級に止めを刺せるリリィは多くないので、それはそれですごい仕事なのだけれど、それを今さら指摘するのも変に思えてわたしは押し黙った。

「わたしがもっと、自分のレアスキルを扱えていればあなたにこんな負担を強いることもないのに……ごめんなさい」

 そう言って夢結様がわたしに頭を下げた。不意に思いもよらぬ方向から謝罪されたのでわたしは驚いた。

「違いますよ夢結様。わたしは負担だなんて思ってない。……今まで戦ってきて、隣にいる夢結様からたくさん学ばせてもらっています。逆にわたしは、レアスキルやブーステッドスキルに頼りすぎだと楓に怒られちゃいましたし。まぁ、その通りだなって感じもあって。なんていうか、うまく言えないけど、夢結様は悪くないです」

 すぐに真似できるようなものではないけれど、夢結様のCHARM捌きや体軸の動きからは学ぶことが多い。攻勢に出るときの夢結様の動きにはルナティックトランサー抜きでも鬼気迫るものがある。あの迫力はそう出せるものではない。

「お姉様って、結構鶴紗さんに甘いですよね」
「そ、そうかしら。そんなことは、ないと思うのだけれど」

 わたしは口を噤んだ。夢結様がわたしに甘いというより、梨璃に対して厳しいと言ったほうが適切な気がしたけれど、そんな余計な口を挟む必要はない。

「鶴紗さん。とにかく、明日はずっと見てますからね! 怪我したら、もう、すごいんだから!」
「わかった。気をつける」

 どうすごいというのか。しかし、もし出撃禁止になどと言われたら堪ったものではないので明日は慎重に戦おう。今日のわたしの負傷は、梨璃だけでなくみんなの目にも留まりすぎた。いたずらにみんなを不安にさせたいわけではない。

「……あら?」

 唐突に、夢結様がわたしの方を見ながら戸惑いの声を発した。

「鶴紗さん、あなた、まだ血が出てるの?」
「えっ?」

 夢結様がわたしの周りの湯を指差した。視線を落とすと、じんわりと周囲のお湯に朱色が広がりつつあった。血は全て洗い流したと思ったのだけれど、洗い足りないところがあったのだろうか。

「ごめんなさい。洗い足りてなかったみたいです。すぐ上がります」

 共同の湯を汚してしまうのはあまりに忍びない。わたしは慌てて湯船から上ろうと立ち上がった。が、

ーーぐらり。

 唐突に視界が白んだ。

 立ち眩みのような感覚。腹部の鈍痛。背部の軋み。
 脚の感覚が消失し、あっ、と思ったがもう遅かった。
 次の瞬間にはもう、わたしは後ろ向きに湯の中に倒れ伏していた。

「鶴紗さん?!」

 水の向こうでみんなの声が聞こえた。返事をしようとして、しかし、わたしは。
 意識はそこでぷっつりと途切れた。



ルドビコ女学院 医務室 AM 3:00

 目覚めたときにはベッドの中だった。
 室内の明かりは落ち、間接照明がカーテンで仕切られた病室をぼんやりとした光で包んでいる。わたしは重い瞼を開けてあたりを見回した。薄暗がりの中で、わたしの布団にもたれかかって寝ている梨璃の頭が見えた。

「梨璃」

 呼びかけたが返事はなかった。ぐっすり、とまで行かずとも寝入っているようだ。病室には他に人の気配はなかった。ベッドから出ようかとも思ったが、今動けばわたしの上に頭を乗せて寝ている梨璃を起こしてしまうことになる。梨璃が疲れているのは明らかだったのでそっとしておきたかった。所在なく見回すと壁のデジタル時計が午前3時を表示していた。風呂場に行ったのが夜の10時ごろだったから随分と時間が経っている。

(わたし、みんなの前で倒れたんだな)

 心地よい失神だった。湯船の温かさ、浮遊感、ソープの香り。そんな優しくて気持ちのいいものがわたしの意識を奪ったような感覚さえあった。
 しかし、事実はそうではないらしい。

「あれ、……包帯?」

 何気なく頭に手をやると、指先にバンテージが触れた。それはわたしにはそうそう縁の無い代物だった。変だなと思って自分の体をまさぐっていくと、包帯どころか額にはガーゼ、手の甲には大きな医療用の絆創膏、前腕には点滴まで繋がっていることに気づいた。すんすんとそれらの匂いを嗅ぐと消毒液の中に混じってうっすらと血の匂いがあった。なんと、傷を塞いでいるらしい。

「何か良くわからないことが起きてる……」

 迷ったが、梨璃を起こすことにした。

「梨璃。梨璃、起きてくれ」
「……ん、んん」

 ゆさゆさと梨璃の肩を揺さぶり呼びかける。安眠を妨害された梨璃はゆっくりと首を回し、起き始めた。

「……ふあぁ。…………って、鶴紗さん!?」
「おはよう? いや、こんばんはか? うーん、どっちでもいいか」
「目が覚めたんですね、良かったぁ」
「なんか、また迷惑かけてみたいだな。ごめん」
「ごめんじゃないですよ。鶴紗さん急にお風呂の中で倒れて、それで、ぶわああああって血が広がり始めて。みんなで大騒ぎして医務室に運んできたんですよ」
「……まじか」

 理由はわからないが、傷が開いてしまったらしい。リジェネレーターが機能しなくなったのだろうか。

「もしかして、わたし、死ぬ?」
「死にません!!!!」

 大声で怒られた。梨璃の怒声にびっくりしてわたしは思わず身をすくませる。

「あっ。ご、ごめんなさい! 怒鳴るつもりじゃ……うぅ、また怒っちゃったよ……」
「いや、いいよ。今日はわたしが悪い」
「鶴紗さんは悪くないです! いえ、悪いんですけど、悪くはなくて、ってそうじゃなくて、なんていうか。とにかくです! もう無茶しないでください! お願いだからやめてください!」
「わ、わかったよ。約束する。安藤鶴紗は無茶をしないと梨璃に誓います」

 度重なるストレスのせいか、梨璃が涙ぐみ始めたのでわたしは徹底的に折れることにした。

「それでだけど、わたし、今どういう状態なの? どうして包帯なんか」
「あっ。それは……」

 辿々しく梨璃が語り始めた。
 それによると、わたしがこうなったのは、どうもあのラージ級からもらった一撃が原因らしい。あのヒュージの触手には毒針がついていたようで、その直撃をもらったわたしの体内深くに、それこそ胸腔の中に毒針のカケラが残存しているそうだ。カケラからじわじわと滲み出た毒が徐々に体内に巡り、知らぬうちに強化リリィのわたしの機能を侵していき、のんびりとお風呂に浸かり始めた頃になってようやく発症、見事昏倒に至ったということらしい。

「毒針のカケラか。どうしよう。手術して取り出すのかな?」
「いえ。それはもう徐々に消え始めているそうです。ヒュージ本体が消滅して、体内の残留物も縮小傾向にあると、医務の先生が仰ってました」
「じゃあ、このまま放っておけば元通り?」
「はい。負のマギもたまってたらしいんですけど、そっちは先に医療スタッフの人が取り除いてくれました。あとは自然に回復するって、ここのベッドを貸してくれたんです」

 聞けば聞くほどわたしが気絶してる間に色々あったようで心苦しかった。明日、というよりはもうすぐ迎える朝、みんなにどういう顔で合えばいいのか。少し気が重くなる。

「鶴紗さん。気分はどうですか? 痛みとかないですか?」
「全然ない。むしろスッキリしてるぐらい」
「ほんとですか? 無理してるんじゃないですか? 嘘ついてるなら今のうちに白状したほうが身のためですよ? 本当に大丈夫なんですか?」
「……わたし、脅されてる?」

 すっかり疑心暗鬼になってしまったらしい。梨璃はわたしを訝しげに見ることをやめなかった。わたしの瞬き一つも見落とさないように、じっと監視の目を向けてくる。

「もう信用無くなっちゃってるだろうけど、大丈夫。ありがとう」
「そう言って倒れちゃったのが鶴紗さんなんですよ」
「返す言葉もない」

 ファンタズムでは直近の未来視しかできない。遅効性のヒュージの毒がどう影響するかなど、そもそも毒があるなんてことは考えもしなかった。今回は、運が良かった。毒の種類や性質によっては命を落としていたかもしれない。

「明日から、というか今日からは気をつけるよ。本当に」
「当たり前です!! あと、鶴紗さんは今日は出撃禁止です!!」

 出撃禁止を喰らってしまった。
 もはや反論の余地も術もないわたしは。わかりました。と返事をすることしかできなかった。

「そう言えば梨璃。晩ご飯は?」
「えっ」

 気になっていたことを聞いた。一柳隊は全員、戦闘が長引いたせいで夕食を頂く暇を失していた。そして帰投して真っ先にお風呂に入ったのだから、付き添っている梨璃が何も口にしていないのではないかと、心配になっていた。

「……わ、わたしは。ご飯、食べました」
「そうか、良かった」
「先に食べちゃって、ごめんなさい……」
「なに言ってるんだ。そんなこと気にするな。わたしが勝手に倒れたんだし、みんな疲れてるしお腹も空いてただろう」

 ご飯も食べずにみんなに取り囲まれている自分を想像すると、ゾッとする。頼むからわたしに構わないでくれ。もう大丈夫だからみんな休んでくれ。意識のない私がそうベッドの中で叫んでいる。悪夢のようだった。

「た、鶴紗さんはお腹空いてるんじゃないですか? 何も食べれてないですよね?」
「まぁ、それは」

 ペコペコだった。点滴されているせいか喉は乾いていないけれど、寝付けないぐらいの飢餓感が胃の奥から発せられている。

「じゃあ、ご飯食べに行きましょう! 温め直します!」
「うん。じゃあ、頼んだ」

 雑に点滴を外してベッドから出る。

「あっ!? 点滴とっちゃダメですよ鶴紗さん!?」
「いや、だって動きづらいし。もう大丈夫だから」
「もーーーー!! 勝手なことばっかり!!」

 一悶着ありつつもわたしたちは医務室の外へと忍び出た。

「わ、わたし、ちょっと大声出しすぎちゃったかも。みんな寝てるよね」
「どうせちょっとやそっとじゃ起きないよ」

 薄暗い廊下を歩いていく。今日は珍しくひっそりと静まり返っている。ルドビコの周辺は未だヒュージの出現が絶えないけれど、ラージ級という大物を討ち取って波が引いたのかもしれない。今日はルドビコの校舎もぐっすりと寝入っているようだ。

「鶴紗さん。ご飯のことなんですけど」
「うん?」

 歩きながら、梨璃はわたしが倒れた後のことを話し始めた。

「実は、最初はみんな、ご飯を食べずに残るって、医務室から動かなかったんです」

 あの狭い医務室のなかでベッドを取り囲み、眠るわたしを見守る一柳隊。ありありとその光景が思い浮かんだ。メンバーには本当に立て続けに心配ばかりかけてしまった。

「でも、医務の先生から経過を聞いた梅様が」

ーーみんな、鶴紗はもう大丈夫だ。朝までには回復する。だから、ご飯を食べに行こう。このまま全員でここに居座ってたら、起きた鶴紗が気に病むゾ。……明日も、出撃はあるんだ。

「それで、まずわたしが残って、交代でご飯を食べに行くことにしたんです」

 レギオンの継戦能力を落とす訳にはいかない。冷たいように思う提案でも、それは必要な判断だ。ヒュージは待ってなどくれない。優しさを愚かさに変えてはならない。梅様は一年上の学年で、いろんな戦場を見てきている。たった一年だけど、その違いは埋めようのない経験の差となって現れる。それは特に、皆が疲弊して判断力が落ちつつあるような場面で効いてくる。日常でも、戦場でも、梅様の優しさは適切な距離感を持っていつもわたしを見守ってくれていた。サンキュー梅様。

「わたしがレギオンリーダーなのに、周りが見えてなかったんです。梅様に嫌な提案をさせてしまったって、後から気付きました」

 そう言って、梨璃は悲しそうに目を伏せた。
 情の深さは梨璃の長所だが弱点にもなりうるものだ。1年生で隊を率いる重みをわたしは知らない。わたしの知らない視点で梨璃はものを見て、感じ、考えているはずだった。それはわたしが先走り、危険を冒して敵を仕留めにかかる場面で、どのような作用を梨璃に及ぼすのか。普段、わたしの背中を心配してくれる梨璃の眼差しにどのような思いが込められているのか、きっとわたしは理解できていない。

「梨璃は良くやってるよ」
「ううん。わたしは、もっとしっかりしなくちゃ駄目。もっと、もっと、頑張らないと」

 梨璃の情の深さは弱点になりうる。でも、やはり、それは長所なのだ。わたしは梨璃のそういうところを否定したくなかった。わたしは梨璃のそれに救われたのだから。
 わたしの臆病なパーソナルスペースを乱さないように寄り添ってくれる梅様と、我儘な人恋しさに踏み込んできてくれる梨璃。わたしが一柳隊で安心して戦い、そして無茶をしてしまう原因は、きっとこの居心地の良さにあるのだろう。わたしは、この場所を何モノにも奪わせるつもりはない。
 静々と廊下を歩き、暗い食堂の中を進んで厨房の冷蔵庫まで辿り着いた。梨璃が扉を開くと、中にはラップに包まれた洋食がトレーに乗って収まっていた。誰が書いた付箋か「たづにゃんのエサにゃん」と猫の絵を添えた紙が貼り付けられていた。

「エサってなんだエサって」
「うふふ。鶴紗さん、猫っぽいですもんね。もちろん悪い意味じゃないですよ」

 解せない。
 わたしは食堂の隅でテーブルに着き、梨璃が温め直してくれるのを待った。

「さぁ召し上がってください」
「ありがとう。いただきます」

 ほかほかのクリームシチューを啜り、パテとクリームチーズを乗せたバゲットを頬張る。舌の上で喜びが広がり、胃の中が満足感に満たされていく。空腹は最高のスパイスとは良く言ったものだが、それとは別に、ルドビコの夕飯は美味かった。

「うまい。うまい」
「ゆっくり食べてくださいね」

 無理だった。飢餓感を埋めるように次々と料理を口に放り込んでいく。メインディッシュと思われる豚肉のポワレーーカリッと焼き上がった肉汁溢れる豚肉の上に赤ワインを絡めたソースがかかっているーーは温め直しであっても全く風味も食感も損なわれていないようだった。肉を彩る野菜ーーベビーキャロットとブロッコリーーーも申し分のない仕上がりだった。……いや、美味しすぎるだろ。誰が調理してるんだ。
 それなりに量はあったけれど、ガツガツとかき込んであっという間に完食。わたしには腹八分、いや五分と言ったところだったが、普通のリリィならこれで十分な栄養が補給できるはずだ。今日はもうワガママは言うまいと大食いの自分を戒めた。

「ごちそうさまでした」

 食べ終わったわたしを梨璃がにこにこ笑顔でこっちを見つめている。何が楽しいんだろう。

「食べてるときの鶴紗さん、わたし好きだなぁ。もっといっぱい食べさせたくなっちゃう」
「そうなのか」
「オムレツぐらいなら作れるよ! 鶴紗さんまだ足りないよね!」
「いや、いいって。こんな深夜どころか明けも近いのに、もう休んでくれ梨璃」
「えー。なんだかもうすっかり目が冴えちゃったよ。食べたいなら遠慮しないでいいんだよ?」

 梨璃は厚意を示してくれるが、こんな時間まで付き合わせておいて飯まで作らせたら流石に駄目だろう。量的には物足りないところはあったけれど、料理は本当に美味しかった。

「いいよ。ありがとう」
「そう? 食べてる鶴紗さんって猫ちゃんみたいでかわいいから、気にしないでね」
「そんなに猫に似てない」
「似てるよぉ」
「似てない」

 くだらない押し問答をしながらわたしは食器をまとめて立ち上がった。洗い物ぐらいは自分でやるべきだろう。食器を片付けるため厨房に足を向ける。
 と、そこでわたしはあることを思い出してしまった。

「あっ!!」

 戦闘を早く終わらせたかった理由。
 わたしの秘密の場所。
 ルドビコに来てからできた新しい習慣。

 日課と義務と趣味が折り重なったようなその営みは、わたしの中で重要なウェイトを占めていた。急に立ち止まったわたしを不審に思った梨璃がひょこっと顔をこちらに向けてくる。

「どうしたんですか鶴紗さん?」
「……いや、なんでもない」
「なんでもなくないですよね!?」

 なんか梨璃が怒りっぽくなってる。わたしのせいだろうか。

「……そんな、話すような事でもないっていうか」
「怪しい……また誤魔化そうとしてるんですね。ダメですよ。全部話してください」
「困ったな……」

 言い淀んでいるわたしだったが、別に後ろめたいから口に出さないのではない。純粋に梨璃を巻き込んで手を煩わせるようなことではないのだ。
 しかし、今の神経過敏になっている梨璃からは逃げられそうになかった。わたしは正直に話すことにした。

「実は、ルドビコに来てからわたし、野良猫にエサやっててさ」
「野良猫?」
「うん。近くにあるビルなんだけど、わたしが行かないと、あいつ、ご飯食べれてないかもしれないんだ」
「えぇっ!?」

 百合ヶ丘は猫天国だった。しかし、東京の都心部では野良猫も珍しい。
 深刻な猫不足にストレスを感じていたわたしは、任務や休息の合間を縫って猫を探していた。そしてついに見つけたのである。

「ビルの谷間に住み着いてる子なんだけど、昔に怪我したのか後ろ足を引きずっててさ。エサもあんまり自分じゃ取れないのか痩せちゃってて、それでご飯あげるようになったんだよ」

 まぁ痩せてなくてご飯はあげていただろうけれど。ルドビコに間借りして以来、わたしのカバンの中の猫缶が行き場を失って涙を流していた。あの猫は東京防衛圏におけるわたしの最優先守護目標であり救いでもあった。

「じゃあご飯持っていってあげましょう!」
「うん。でも、わたし一人でいいよ。梨璃はもう休め。お前は今日も出撃あるだろ」
「駄目です! 今の鶴紗さんを一人にはできません! 絶対にです!」
「……はぁ、やっぱりこうなった」

 梨璃が折れそうにないのはもう十分にわかっていたのでわたしは早々に説得を諦めた。トレイの食器を手早く洗って乾燥機に突っ込む。そして足早に梨璃と共に自室へ行き、猫缶を引っ提げて明け方の街へと繰り出したのだった。



東京都心 路地裏 AM 4:30

 いつもの場所に行くと腹を空かせたアイツが寝ていた。驚かせないようにそっと近づこうとしたが、猫は鋭敏に耳を反応させて起床すると警戒もあらわにこちらを見つめてくる。

「明け方にごめんな。ご飯、食べるか?」

 猫缶を取り出したところで、猫は来訪者がわたしであることに気づいたようだ。先ほどまで逆立てていた尻尾をしならせて、トコトコと無防備に近寄ってくる。
 ……嗚呼。ど深夜に訪ねても受け入れてくれる猫。これまでのやりとりで築かれた信頼関係を象徴するようなその歩みを思うと感慨深いものがあった。

「よしよし、いっぱい食え」
「……」

 猫はよほど腹が減っていたのか鳴き声のひとつもあげずに無言で猫缶を貪り食った。無心で食事をかっこむ姿を見て、わたしは先ほどの自分の振る舞いを思い返し、なるほどこう見えていたのかと梨璃の言葉が腑に落ちた。

「うふふ。猫ちゃん可愛いですね」
「うん」

 新参者の梨璃のことは気にならないようだ。猫はわたしと梨璃にいいように撫でられている。いいように、というか無視されている気がしないでもないが。

「足、傷跡ありますね」
「事故か、ヒュージか、何かあったんだろうな」

 わたしと出会ったとき、猫は足をぴょこぴょこ不自由に動かしながら走って逃げようとした。わたしは追わずに、それを黙って見送った。それから日を改めつつ。何度か適当な距離を置いて会合を増やし、とうとう接触に至ったのだった。

「最初は全然懐いてくれなかったんだけど、梅様から学んだ戦法が役に立ったよ。今は自分から近寄ってきてくれるし、頭も撫でさせてくれる」
「仲良くなるの、苦労したんですね」
「それ以上に楽しかった。この喜びは、経験しないとわからない」

 心を開いてくれなかった野良猫が胸襟を開き、わたしという異物を受け入れてくれたとき、わたしは猫の新しい魅力を知った。見えていたはずなのに見えていなかった猫の魅力。猫が猫たる所以。それまでそっけない態度をとっていた子が足元に近寄ってきて、ぐりぐりと頭や体を擦り付けて甘えてくるようになった瞬間、自分の脳が絶叫を上げて歓喜に咽び泣くのを感じた。

「もう1缶食うか? ほら」

 丸一日近くお預けを食らっていたその子は3つの猫缶をペロリと平らげた。お腹が膨れて眠くなったのか、完食した猫はよちよちとわたしの元に寄ってきて膝の上に乗ろうとしてくる。

「もう夜明けだな」

 猫を抱き上げながら、わたしはビルの向こうを見た。夜空が白み、白日が登り始めている。

「梨璃、流石にもう休んだほうが」

 そう言いかけた時、休息を促そうとしたわたしの声を梨璃の溌剌とした嬌声がかき消した。

「鶴紗さん! 日の出を見に行きましょう!」

 梨璃の突然の提案に、わたしは目がてんになった。

「ひ、日の出?」

 どうしてそんなもの見に行く必要があるんだろう。綺麗だからだろうか。

「上に登れば見えるはずです! 行きましょう!」
「え。ちょっ」

 梨璃は人の話を聞かないきらいがある。
 困惑するわたしを置いて、ビルに外付けされた階段をさっさと登り始めてしまった。慌てて梨璃の後ろを追いかけ、猫を抱きかかえたままわたしも階段を駆け上がる。

「おい梨璃。なんで日の出なんか」
「急いで鶴紗ちゃん! 日が昇っちゃう!」
「ーー」

 ちゃんづけされた。
 なんと言えばいいのかわからず、言葉を呑み込んだままわたしは階段を上がっていった。屋上にはすぐ着いた。

「あっ! すごいよ鶴紗ちゃん! タイミングばっちり!」
「お、おお」

 たどり着くと同時、キラキラとした朝日が東京の建築群が織りなす山脈を乗り越え始めた。毎秒ごとに輝きを増す暁は神々しく、わたしが抱いていた無機物な東京感にひびを入れた。人工物に塗れた東京も今この瞬間は自然の延長線上にあり、地球という豊満な大地に築かれた小さな箱庭にすぎないことを思い知らされる。陽光の元に照らし出されている東京は、審美眼的にわたしの中に変革をもたらした。日の出はただ純粋に美しく、東京もまた美しかった。
 わたしと梨璃は並んでビルの縁に座り、昇りくる朝日を眺めた。
 しばらく沈黙が漂った。
 喉の奥から出ようとする言葉は光の中に溶けて消え、母なる太陽への畏敬だけが吐く息とともに溢れ落ち、梨璃とわたしの間を風と共に流れていった。膝の上で丸くなっていた猫は次第に強まる陽の光に目をすぼませ、やがて耐えきれなくなると膝から降り、日差しからわたしの影に隠れた。

「ねえ、鶴紗ちゃん」

 いつの間にか梨璃が立っていた。少し距離がある。

「わたし、鶴紗ちゃんがなんで無茶をして戦闘を終わらせたのかわかった」

 梨璃の声は穏やかで澄んでいた。夜明けの光を真っ直ぐに浴びるその顔は何よりも明るく、優しさを湛えた瞳は白光を反射して宝石のようにきらめいた。梨璃の目は太陽と同じようにわたしを真っ直ぐ射抜いていた。

「鶴紗ちゃんが守りたいものを、わたしも守りたい。鶴紗ちゃんが好きなもの、大事だって思うもの、全部いっしょに守りたい」
「梨璃……」
「その猫ちゃんのこと、知れてよかった」

 梨璃が猫に視線を向けた。猫はわたしに擦り寄り、何事かにゃあにゃあと鳴いている。

「だから、もう、一人でどうにかしようとしないでね? わたしだってもっと、できることがあるから。みんなでいっしょに守ろう?」
「……うん」
「約束だよ」
「約束する。わたしは、みんなといっしょに戦う」

 薄寒い朝焼けの中、猫の気まぐれのように春風が強く吹いた。風に撫でられたわたしの髪といっしょに包帯は引っ張られ、するするとほどけてビルの底に沈んでいった。

「包帯、とれちゃった」
 
 よくよく見れば、脚に巻かれていた包帯も解けてしまっている。階段を走ったせいかもしれない。

「大丈夫だよ鶴紗ちゃん。わたし、予備のを持ってきてるから」

 どれだけわたしの心配をしていたのか、梨璃は隠し持ってきていたらしい救急セットを取り出すとわたしの横で広げ始めた。

「巻き直してあげるね!」
「いや、いいよ。自分でやる」
「えー、やらせてよ。ほら、頭下げて」
「……頼むから自分でやらせてくれ」

 朝日よりも梨璃の顔が眩しかった。
 照れ臭くて、陽光を浴びるよりも顔が熱くなりそうで、わたしは梨璃から顔を逸らしながら包帯を取り上げた。

「あー! とられた!」
「自分でやるから、ほんと」

 わたしはビルの縁に座り直して包帯を巻き直し始めた。もう傷は塞がっているような気はしたけれど、そんなことはどうでもよかった。
 慣れない手つきで頭の包帯を巻いていく。

「鶴紗ちゃん、ちゃんと巻けてないよ」

 無視した。
 わたしは靴下を脱いで脚の包帯も新しいものに換えていく。ぎこちない手つきのわたしを猫が邪魔してきて、下手くそな包交は更にひどい出来栄えになる。そんな不器用なわたしの様子を梨璃が興味深げに覗き込んでくる。

「そんなにじっと見るな」
「見てないと鶴紗ちゃん、適当にやりそうだもん」
「……全く」

 梨璃は人の話を聞かないきらいがある。そのうえ頑固で、やたらと人との距離を詰めたがる。こっちが距離を取ろうとしても飼い犬みたいに戯れついて離さない。そう、わたしが猫なら梨璃は犬だ。一柳隊でアンケートを取れば全員そう答えるだろう。わたしは犬の顔をチラリと見た。

「あっ、鶴紗ちゃん笑った」
「笑ってない」

 日は地平線から浮き上がり、徐々に高さを増していく。わたしは太陽を背にして、自分の表情が梨璃に見えないように包帯を巻きなおす。もはや全快して意味をなさないこの布切れが、わたしの照れを覆い隠してくれることを願って。



暁に笑う少女【鶴紗、梨璃、他】


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ヘルヴォル「へ」Tシャツ【ヘルヴォル、一部一柳隊】

ヘルヴォル「へ」Tシャツ【ヘルヴォル、一部一柳隊】

「恋花様、瑤様!!ついに届きました!!!ヘルヴォルの『へ』Tシャツです!!!」

放課後にあたしと瑤がヘルヴォルの控室に入ると一葉がただでさえ大きい声をさらに大きくしながら、だっさいグレーのTシャツを翻していた。

「それ、どこかで聞いたことあるような気が…」

隣で瑤がつぶやく。げ、あまりのダサさに思わず声に出てたみたい。

「みてみてー、Tシャツ~」

藍もひょこっと顔を出す。その手には同じデザインのTシャツ。

~数週間前~

「皆さん、今度のライブに向けてヘルヴォルでオリジナルのTシャツを作りましょう!」
「ライブと言ったら記念Tシャツだもんね~、一葉もわかってるじゃん!」
「デザインと発注は任せてください!!」
「さっすがリーダー!」

~現在~

なんで小学生メンタルに任せちゃったんだろう。
ってか小学生でもこれはないでしょ。
一葉と藍を見るともうTシャツに着替えていた。【イラスト表示】
普段と違って髪を編みこんだりかわいいヘアピンを付けたりしている。
いやいや、なんで髪型をアレンジするおしゃれ心があるのにTシャツはそのデザインにしちゃったのよ。

「一葉…このデザイン…」
「はい!ヘルヴォルのイニシャルを前面に出したインパクト重視のデザインです!カラーリングもメンバーに合わせて5種類用意してあります!」

どうやら本気でいいデザインだと思っているみたいだ。
これが恋花様カラーのものです、そういうと一葉はだっさい黄色のTシャツを…。

「それ、さっきも聞いたよ」

瑤の声が思考に割って入ってきた。あんた私の心読んでない?

「そんなことないよ」

はいはい。
というかイニシャルにしてもひらがなって、「へ」って。いや、カタカナかな?どっちも一緒だけど。

「せめて英語で『H』とかにしなさいよ」
「恋花はえっちの方が好きなの?」

藍が誤解を招くような聞き方をする。

「その言い方止めな?」
「なんで?」
「ぐっ…」

無邪気には勝てない。
一葉と藍は二人で並んでマイクまで持って、人差し指と親指で「へ」の字を作って遊んでいる。
ライブのアンコールでお客さんの前でやるんだって。

「二人とも可愛い…」

瑤も二人を見てすっかり懐柔されしまっている。
自分も二人の中に入りたいのか、いそいそと自分のTシャツを段ボールから取り出そうとしちゃって。
かわいいのは二人であってTシャツじゃないからね?
このままじゃあたしも着る流れになっちゃう。
自称とは言えおしゃれ番長として何としても阻止しないと…!【イラスト表示終了】

「遅くなっちゃってごめんなさい」

あたしが使命感にも似た焦りを感じていると、千香瑠が入ってきた。
よし、千香瑠はヘルヴォルの保護者ポジだしきっと一葉の暴走を止めてくれるはず…!

「千香瑠、みてみて~。このTシャツ、らんと一葉の二人で考えたんだよ、えらい?」
「まあ…!藍ちゃん、立派になって…!偉いわ…!」

淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。
ママ力(ままぢから)が高すぎたか…!
すっかり子供の成長を見守る母親モードに入って、目に涙を浮かべて藍の頭をよしよししている。

「では、皆様お揃いですので全員でこれを着て写真を撮りましょう!」

ライブとグッズの宣伝に使うらしい。

「あたしも…?」
「当然です!5人そろってこそのヘルヴォルですから!!」

良いセリフだけどこんな場面で聞きたくはなかったなぁ。

「恋花、皆着てるんだから」

瑤が迫って来る。いや、あたしたちそういうのに反逆するポジションだよね?

「華麗なるエージェントもガーディアンスーツも『へ』Tシャツも、等しく新衣装だから」

…ぐすっ、衣装、ほしかったもんね。最近増えてきてるけど。
気付けば四人があたしを取り囲んでTシャツを着せようとにじり寄ってきた。

「恋花様!」「恋花」「恋花さん…?」「恋花ー」

ぐっ…ぐああぁぁ…。無理やり着せられるぅ…。あっそこはだめっ。が、があぁ…。

~~
「前言撤回、やっぱナイスデザインだったわ~」

着てみんなで写真を撮っているうちにだんだん意外と悪くないデザインに見えてきた。
だっさいって感想を翻す、なんちゃって。
やっぱりね、抜け感っていうの?モデルが良いとあえてダサくすることで親しみが出るのかな、なんて。
あたしの個人アカでもTシャツの写真あげたし。え、飯島ダサT派って言われてる、なんじゃこりゃ。まあいっか。

「いや~いろいろ言ったけどやっぱ任せてよかったわ!ありがとね!」
「っ!ありがとうございます!!」

一葉が見せてくれた達成感の笑顔も私の気分を良くしてくれた。
やっぱり頑張った後輩をねぎらうのも先輩の務めだもんね。
グッズもできたし後は練習を頑張るだけだ、なんだかわくわくしてきた。

「あ、せっかくだしさ、今アレやろうよ。決起集会でやるエイエイオー的なの!ライブに向けて頑張るぞーって!」
「いいですね!一体感が出そうです!!」
「掛け声はどうするの?」

そりゃあもうね、当然あれっしょ。あたしの態度でみんなも察してくれたみたいだ。
輪になって右手を重ねる。五人で目を見つめ合ってうなずく。

「それじゃあ行くよ、ヘルヴォル!」
「「「「「なめんなー!」」」」」

五人の声が夜のエレンスゲに響き渡った。

~後日、百合丘にて~

「うーん…『ひ』…、いえ『ラ』…?」
「どうしたの神琳?」
「ああ雨嘉さん、これを見てください、わたくしたちもライブに向けてこういったものを作ってはどうかなと思いまして」
「えっ…なにこれ…」
「どうしたー?おっ、いいシャツじゃないか!」
「えっ、梅様も…?」
「安心しろ雨嘉、梅様はあの靴下をはいてる人だぞ」
「う、うん、そうだよね、良かった…」
「デザインはわたくしがしておきますね。ご安心ください、書道のたしなみはありますので」
「え、え~…?」
「止まらないな、諦めろ」

おしまい


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フォール・ダウン・アタック【瑤、恋花、一葉、千香瑠、藍】

フォール・ダウン・アタック【瑤、恋花、一葉、千香瑠、藍】

「これは…新しい戦闘服?」

ヘルヴォルの控室で瑤は目の前にいる一葉に尋ねた。
二人の間にある机の上には白と黒を基調とした衣装が一そろい置いてあった。
布の厚みや走行パーツの大きさから察するに軽量の装備だろうか。

「ご名答です。正式名称をデモリッシャーフォームというそうで、その名の通り攻撃を重視した性能となっています」

いつもよりもそわそわした調子で答える一葉、やはり新装備に心躍っているのだろうか。

(はしゃいでる、かわいい)

特型ヒュージの出現やルドビコの崩壊により東京は未曽有の危機に瀕しており、東京圏防衛構想会議を中心として円滑な防衛を達成するための様々な取り組みがなされていた。
一葉が言うにはこのデモリッシャーフォームもその一環だという。
新戦力に心を躍らせている場合ではないのかもしれないが、一葉の様子を見るに困難な戦況における士気高揚の目的もあるのだろうか。

「それで、わざわざ私を呼んだってことは…」
「はい!これは瑤様にとのことです」

予想が当たった。しかしなぜ自分なのだろうか、ヘルヴォルの中でも攻撃的なリリィであれば藍はもちろんとして、軍師的な役割をこなすことが多いとはいえ手数重視でスピードタイプの恋花も候補に挙がるのではないだろうか。

「どうして私なの?他にも適任者はいると思うけど」
「お嫌でしたか?」

一葉は眉を下げ不安そうにこちらを見る。

「ううん、ただ戦闘スタイルで言えば藍や恋花の方が合ってるんじゃないかと思って」
「そういうことでしたか」

不満があるわけではないと知り表情を和らげる一葉。

「瑤様のおっしゃる通り、元から攻撃的なスタイルのリリィという話であればあえて瑤様にこだわることもないでしょう。しかしこの装備はそうではないリリィ、つまり普段は攻撃よりもサポートを重視するリリィによる運用を想定しているのです」
「というと?」
「東京圏では今後、突発的な特型ヒュージの出現により連続での戦闘や長期戦の増加が予想されます。その際に前衛を固定したままではどうしても負担に偏りが出てしまい、レギオンが機能しなくなる危険性があります」

なるほど、ようやく得心がいった。

「つまり、中衛や後衛のリリィが前衛にスイッチしたときに前衛並みの攻撃力を発揮できるようにするための装備ってことだね」
「はい、そのテスト運用もかねての支給だそうです」

中後衛のリリィはチャームの性能も射撃用に調整されていることが多く、近接戦闘における破壊力は前衛用のチャームに劣る。デモリッシャーフォームはそれをカバーするための装備なのだ。
瑤のクリューサオールも元々のコンセプトとしては前目に出るリリィ用の物だが、ヘルヴォル内での役割に合わせて多少チューニングを行っていた。

「エレンスゲ以外では神庭の定盛姫歌さんにも支給されているそうです」

彼女もアタッカーというよりは一歩引いて戦況をコントロールする。司令塔タイプのリリィである。
可変フォーメーションを採用しているグラン・エプレのリリィであればなおの事適任だろう。

「そういうことなんだね、ありがとう」
「いえ、こちらこそ説明不足で申し訳ありませんでした」

一葉は律儀に謝ってくる。
とそこへ恋花が入ってきた。

「おつかれー、ってなにそれ?新しい服?」

机の上の物を見て楽しそうにこちらによって来る。
エレンスゲのおしゃれ番長を自称する彼女のことである、チームメイトのファッションにも興味津々といったところだろうか。

「うん、そんなところ。新しい装備だって」
「…装備?」

瑤の返事を聞いたとたんに恋花の表情に影が宿る。
以前にもヘルヴォルに新しい戦闘用のスーツが支給されたことがあり、その時はスーツの負荷により瑤の精神が崩壊寸前まで追い詰められた。
その時のことを思い出しているようだ。

「また危ないものじゃないでしょうね?」

眉間にしわを寄せ、グレーの瞳がこちらをにらみつける。
同じ過ちを繰り返したくはないという、恐怖にも似た決意が感じられた。

「はい、これは攻撃用にマギを転化してリリィの身体能力とチャームの威力を向上させる装備なのですが、リリィの安全のためにその効果はあくまで通常のマギ運用の範囲にとどめているとのことです。もちろん防御結界は薄まりますが本人の技術と周囲のサポートで十分カバー可能かと。また…」

一葉も恋花の心配を察したのか詳しく説明をしていく。

「…と、このようにリリィの精神やマギに極度の負荷を与える設計はされていません。わかっていただけたでしょうか」

一葉が解説を終える、一通り説明を聞き終えてから恋花はようやく納得したように口を開いた。

「ふーん、まあ危険性はないんだね、じゃあいいんじゃないの?なんかかっこいいしさ!」

ぱっと表情を切り替えて肯定的な態度をとる恋花。

「それで、これは誰が着るの?」
「わたしだよ」
「おっいいじゃん、瑤なら安心だね!」
「…ありがとう、頑張るね」

恋花の言葉を聞いてようやく新しい装備を任されることへの実感が湧いてきた。
そこで恋花がふと口を開く。

「てか今気づいたんだけど、この服露出多くない?」
「そうでしょうか、確かに攻撃的な性能に合わせて動きやすい軽量な装備とは聞いていますが…」
「いやいや絶対やばいって!このシャツもノースリーブだし!うわっスカート短っ」

一葉の体に衣装を重ねてあれやこれやと感想を言っていく。

「これは確かに瑤並みにスタイルよくないと厳しいね…」
「いえ、そういう基準で選ばれたわけでは…というか私の体で評価するのはやめてください!」

照れて抵抗する一葉とそれに気をよくしてさらにエスカレートしていく恋花。
半分セクハラまがいにも思える行為であったが、お互い本気になっているわけではないようだった。

(仲いいな…)

瑤は二人の微笑ましいやり取りを見て感慨に浸る。
一葉と出会ってから恋花は変わった。
中等部時代の過ちを悔いて張り詰めていたころと違い、今の恋花は一葉の夢を支えるという形で再び理想を追いかけることができている。
瑤も再び、真の意味で恋花とともに戦うことができるようになった。
一葉との出会いは恋花にとっても瑤にとっても確実にポジティブなものであったと思う。

(…)

しかしだからこそ、瑤はざわつく感情を抑えられなかった。
恋花は確実に前に進んでいる。
これまで恋花を支えるためにそばにいたが、一葉という救いが表れた今、恋花にとって自分ははもういなくてもいい存在なのではないだろうか。
これ以上考えてはいけない、そう思い必死に心を抑えつけた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

数日後、いよいよデモリッシャーフォームが支給されてから最初の出撃の日がやってきた。
瑤たちヘルヴォルのメンバーは戦場から少し離れた地点で最終確認をしていた。

「最後にもう一度フォーメーションの確認をします。今回導入した瑤様の装備ですが、今回はフォーメーションの切り替えは行わずあくまで戦闘データのみの採取にとどめようと思います。ですので瑤様は最初から前衛でお願いします」
「うん」

一葉の指示にうなずく。
装備の試験のためだけに無理をして継続的な戦闘を行う必要はない。
要するに装備が問題なく能力を発揮することさえ確認できれば、長期戦への対応力はある程度推測できるだろうという判断だった。

「らん、今日はいちばん前で戦っちゃダメなの?」
「今日は瑤さんが新しい装備を試すから、後ろから助けてあげようましょうね」

藍が不満そうに尋ね、千香瑠がそれをなだめる。
瑤はその姿を見て少し申し訳なくなるが必要なことだからと自分を納得させる。
それにいつもと違うポジションを務めるのは藍にとっても良い経験になるだろう。

「うん、わかった…。瑤、がんばってね」
「ごめんね、藍の分まで頑張るから」

けなげに応援してくれるかわいらしい姿を思わず抱き締めそうになるのをぐっとこらえてお礼を言う。
これから戦闘が始まるのだ、気を引き締めなければいけない。

「それではヘルヴォル、出撃です!」

一葉の合図とともにフォーメーションを組み、マギで足場を作って5人そろって跳躍する。
瑤を先頭として空を切り裂く五つの影は、小規模な渡り鳥の群れのようであった。
もっともその速度は鳥のそれとは比べ物にならないものであったが。

(体が軽い)

瑤は自分の中にいつもとは違う力が満ちているのを実感していた。
薄手のシャツとスカートの他は簡易な装甲パーツのみという装備の軽さだけでは説明できない動きやすさがあった。
一葉の説明からはリリィの体への干渉は強くない印象を受けたが、予想以上の効果を感じる。
それでいて過度な興奮やその逆の極端な冷静さなどを感じることはなく、リリィの安全性を考慮しているというのも嘘や誇張ではないようだ。

「戦闘区域まで残り500!ミドル級2体を確認、瑤様、お願いします!」

一葉がヒュージまでの距離を告げる声が聞こえる。
2体のヒュージが町中を闊歩している姿が遠めに確認できた。
既に一般市民の避難が完了しているとは聞いているが、獲物を探し回る飢えた獣のようなその姿は何度見てもおぞましく、一刻も早い殲滅の意思を駆り立てる。

「了解」

瑤はクリューサオールを構える。
ヒュージの姿はまだ小さく見えるが、リリィの脚力ならものの数秒で接近できる距離である。

『戦闘開始です!』

一葉の号令とともに瑤が先陣を切る。
都合のいいことに2体は瑤たちとは逆方向に移動している途中だったようでこちらに背を向けており、まだヘルヴォルの接近には気づいていなかった。
2体のヒュージはお互いに少し距離がある位置におり、個別に撃破するのが有効だろうと考えた。

(まずはこいつから…!)

瑤は近くにいた四つ足の獣型ヒュージに近づいていく。
本来ならば機動力を奪うために足を狙うのがセオリーだが、不意打ちであったためいきなり頭を狙った。
クリューサオールの刃がヒュージの頭部に近づく。

「!」

攻撃的な装備であると聞いていたがその効果は素晴らしいものであった。
白い装甲が、熱したナイフに触れたバターのように何の抵抗もなく真っ二つに割れた。
破壊者の名にたがわぬ威力を実感する。
瑤はその勢いのままもう片方のヒュージへと近づいて行った。
レンガ造りの塔に昆虫の足を生やしたようなその造形は先ほどのヒュージよりも頑丈そうに見えた。

「はぁっ!」

アスファルトの上に靴底を滑らせるようにして一気に距離を詰め、クリューサオールを振りぬいた。
犬型がバターであったらこちらはチーズだろうか。
一体目と違いほんの少しの抵抗を感じたが戦闘の問題になるほどではない、瞬く間に二撃目三撃目を加えると幾重にも重なった装甲がばらばらに崩れ落ちる。

「GYA、GYAGA!」

攻撃は分厚い体の急所には届いていなかったようで、攻撃を受けたヒュージが獣の鳴き声にも機械の駆動音にも聞こえる音を発しながら、こちらに振り返ろうと足を動かす。

「遅い!」

露出したヒュージの体内にチャームを突き立て、水平に一回転しその体を両断する。
ヒュージの胴体が爆ぜマギの煙を一面にまき散らす。

「瑤さん、調子はどう?」

追いついた千香瑠が少し心配そうに近づいてきてこちらの様子をうかがう。
怪我の心配ではなく新しい武装による体調や精神への影響のことだろう。

「ありがとう、問題ないと思う。落ち着いてるよ」
「そう、ならよかったわ。一人で突っ込むのは少し瑤さんらしくないかなって思ったから…」

千香瑠のその言葉の裏には恋花と同じように、以前のような精神汚染が起きるのではないかというという不安が見て取れた。
安全性についての説明は聞いているはずだが、やはり心配なものは心配らしい。

「今回は私のデータを取るのが目的だから、なるべく戦闘回数をこなしたかったんだ。心配かけてごめんね」

それを聞くと千香瑠はほっと胸をなでおろした。

「皆さん、ケイヴの位置が特定できました!」

とそこへ一葉の声が響く。

「北へ1500メートル付近の工事現場付近です。すぐに向かいましょう!」
「「「了解!」」」 「りょうか~い」

一葉の号令とともに5人は再び宙をかけた。

「瑤」

移動している最中に恋花が声をかけてきた。

「恋花?」
「あんまり前のめりにならないようにね、戦闘データを取るって言ってもあくまでチーム運用の中での想定なんだから」

先ほどの単騎駆けについて言っているようだ。
瑤の負担を案じてくれているのだろう。

「うん、大丈夫。使い心地はわかったから次はちゃんと皆で戦うよ」
「よろしく!」

ウィンクで返す恋花。
口ではそう返事をしたが、瑤の胸の奥には言い表しようのない感情が溜まっていた。

「まもなくケイヴに到着します!ラージ級1体確認!確実に仕留めます!」

一葉が指示を出す。
接近するにつれヒュージの姿がはっきりと見えてくる。二足歩行のつぶれた宇宙飛行士のようなずんぐりとしたヒュージだった。
5人は敵に気づかれる前にまず背後に回った。
先ほどと同じように不意打ちで仕留められるならばそれに越したことはない。
それが不可能でも先制攻撃で大きなダメージを与えられれば戦闘の危険性は大幅に下がる。

「みんな、上から攻めよう!」

恋花の提案である。
工事用の骨組みを利用して高所を取り、死角となりやすい上から仕掛ける意図があるようだ。

「承知しました!」

一葉が同意し、残りの三人もそれに続いてうなずく。
5人はスムーズに建物を登っていく。
人間離れした動きだったが、魔力で強化されたリリィの身体能力をもってすれば造作もないことであった。
赤茶色の鉄塊の最上部に到着するとすかさず一葉から指示が出る。

「まずは四肢を削ります、千香瑠様は後方からサポートを」
「わかったわ」
「いきます、戦闘開始!」

千香瑠の返事を確認してから残りの四人で一斉に斬りかかる。

「!」

その瞬間にヒュージがこちらを振り返った。
気配を察知されたのか偶然かはわからないが、先制攻撃の前に気づかれてしまった。
目標はとっさに防御の姿勢をとる。

「くっ!」

4人の攻撃は命中こそしたが傷は浅かった。
このダメージにより多少は動きが鈍るかもしれないが、まだ油断はできなかった。

「引くよ!」

恋花が声を張り上げる。
不意打ちが失敗した以上反撃の危険性があるため、一度距離を取る。

「撃ちます!」

ヒュージへのけん制として千香瑠が後方から射撃を加える。
合図を受けて瑤達は射線を遮らならないように脇へ避ける。
千香瑠の攻撃は太い腕により防がれた、しかしダメージこそ少ないが警戒を抱かせる効果はあったようだ。

「JWAAAA…」

声にならない声でこちらを威嚇するようにうなるヒュージ。

「しゃーない、ここからは正々堂々バトルだね」
「やったー。らん、頑張るね」

皆落ち着いている、不意打ちこそ失敗したが落ち着いて戦えば正面戦闘でも大した敵ではない。

「では、行きま…」

第二波を仕掛けようとしたところで、突如として空気が震えた。
ケイヴの方から振動が伝わって来る。
そちらを見ると、宙に空いた真っ黒い空間からヒュージが飛び出して来ていた。
見たところ数十体のスモール級の中にミドル級がちらほら混じっている程度だろうか。
いつもならどうということはないが、ラージ級の相手をしながらせん滅するのは難しい数だった。

「くっ!」

一葉が悩むそぶりを見せる。
ラージ級を倒すために群れを放置すれば散らばった個体によって被害が広る恐れがあり、群れの方に向かえばラージ級に追撃される状況であった。

「…」

少し考えてから瑤は一葉に声をかける。

「一葉、こいつは私が相手をするから、四人は向こうをお願い」
「瑤!」
「ですが!」

恋花と一葉が反対する声が聞こえる、当然の反応であった。

「大丈夫、すぐに終わらせるから」

通常、ラージ級以上のヒュージとのデュエルは危険を伴うが、今の瑤には成し遂げられる確信があった。
4人も議論をする時間がないことはわかっているようで、不安そうにしながらも現れたヒュージ群れの方へと向かう。
瑤は軽く息を整えてからヒュージの方へ一気に駆け寄る。

(速攻で決める!)

「JWA!JA!」

ヒュージがこちらを向き、手から無数の光弾を放つ。
その攻撃をかわしながら、瑤は建物を足場にしてヒュージの頭のはるか上に飛び上がる。
光弾の一部が周囲の建物にあたり、崩れ砕けた鉄骨が飛び散る。
瑤はそのうちの一つに足を付け、下向きに跳んだ。
脚力と重力により、瑤の体は弾丸と化す。
ラージ級はこちらへ腕を伸ばし叩き落そうとしてくる。
瑤はそれを空中で身をひねってかわし、逆手に持ったクリューサオールでカウンターの斬撃を加える。

「はぁっ!」

伸びきった腕を真っ二つに割き、そのまま刃が胴体へ到達する。
瑤が地面へ着地すると、ラージ級の体の左肩から股にかけて亀裂が走った。
膝から崩れ落ちそうになるヒュージだったが、すんでのところで持ちこたえる。
ラージ級ともなると一撃で仕留めることはできないようだ。

「まだまだ!」

瑤はチャームを両手で握りなおしマギを集中させた。
クリューサオールが熱を帯びるのを感じる。

「やぁっ!」

そのまま下から上へと切り上げる。
ヒュージの正中線を光の線が走る。

「JA…」

その体は今度こそ完全に倒れ伏し、爆発した。

「ふぅ」

息をついてケイヴの方へ向かった4人の方を見ると、そちらもほぼ決着がついているようだった。
千香瑠の射撃で最後の一体が倒れ、藍の攻撃によりケイヴが破壊されると4人はこちらへ近づいてきた。

「瑤~!」

真っ先に恋花がこちらへぶんぶんと手を振りながら駆け寄って来る。

「超かっこよかったじゃん!」
「そ、そうかな」
「そうそう!一人でやるって聞いたときは無茶かなって思ったんだけど、やっぱり流石瑤だね!」
「…」

恋花に褒められると胸に温かいものが広がった。
少し遅れて一葉、千香瑠、藍もこちらにやって来る。

「ケイヴの破壊にも成功しましたし周囲にヒュージの姿も確認できません、お疲れさまでした!」
「みんなおつかれ。瑤、すごかったよ」
「今日はゆっくり休んでくださいね」

三人ともねぎらいの声をかけてくれる。

「ううん、みんなこそ、わたしのわがままを聞いてくれてありがとう」
「なにいってんの、瑤が今日のMVPだよ!」

仲間と互いにねぎらい合いながら瑤達はガーデンへと帰還した。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

数日経っていくつかの戦闘をこなしデータも取り終えた後、装備は構想会議の本部へと返却されることとなった。
元からデータを得るための試験運用の側面が強かったのと、急な新戦術の導入は混乱のもとになるだろうという隊長判断であった。

「はぁ…」

瑤は丁度ヘルヴォルの控室で一人の時にその連絡を受けたが、それを聞いて少し残念だという思いがあった。
使い心地は悪くなかったし、いつもと違う戦い方をする経験は今後役に立つ場面があるかもしれない、それに何よりも恋花の言葉が耳に残って離れなかった。

(超かっこよかったじゃん!)
「もう少し使っても良かったかな…」
「何を?」

振り返るとウェーブのかかった栗色の髪と灰色の瞳、見慣れた恋花の姿があった。
いつの間にか控室に入ってきていたらしい。

「恋花」
「あの装備のこと?」

恋花は会話を続けながら瑤の隣に腰掛ける。ふわりと甘くさわやかな香りが鼻をくすぐった。

「うん…」
「確かにあの時の瑤大活躍だったもんね~」
「…」

胸の奥がうずく。
あの時は、ならば普段の自分はどうなのだろう。
自分が役に立っていないと思ったことはない、レギオンに所属する以上それぞれのメンバーにそれぞれの役割があり、それを全うすることが何よりも大事なことである。
瑤にとってそれがたまたま目立つ前衛ではなかっただけのことだ。
戦術に明るい恋花がそのようなつもりで言ったわけではないことはわかっている。
だが今の瑤にその言葉は重くのしかかった。

「でもやっぱりあたしは普段の瑤の戦い方が好きかな」
「!」

やはり一葉に無理を言うことになるが引き続き使用させてもらおうか、一瞬そのようなことが思い浮かんだが恋花の言葉でその思考は止められた。

「ほら、縁の下の力持ちっていうの?瑤が後ろからサポートしてくれる方が安心感があるっていうか」
「恋花…」

そのまま言葉を続ける恋花。

「瑤ってさ、戦いの時以外でもそんな感じで静かに見守ってくれるじゃん?そういうところが魅力だと思うわけよ」
「そう…なのかな」

何となくふわふわして実感が湧かない。
自分が前に出るタイプではない自覚はあったが、そこまで評価されていたとは思わなかった。

「そうだよ。あの時だってそう、目標を見失って、かしこぶって腐ってたあたしを見捨てないでずっとそばで支えてくれたのは、瑤なんだから」

二人が一葉に出会う前のことを言っているのだろう。
その横顔は思い出を懐かしんでいるようにも過去を悔いているようにも見えた。
瑤にとってはそれは償いだった。
あの時味方をしてあげられなかったこと、過ちを分かち合えなかったことへの贖罪。
だから、恋花が感謝してくれなくてもいいと思っていた。
ただ、いつか彼女が前を向けるようになるまでそばにいて、その時が来なければ一緒に地獄に落ちるつもりだった。
そう思っていたはずが、今、認めてもらえたことがこんなにも嬉しかった。

「だからさ!」

恋花が突然瑤の頬を両手で挟み込んで90度向きを変えた。
二人の顔が向かい合い、視線が交わる。

「そんなに気にしないで、瑤は瑤らしく、ね!」

そう言ってにっと笑う恋花。笑顔が眩しかった。

「恋花には全部、バレバレだね」

同じ時間を共に過ごしたのに、親友の心の機微を自分だけが理解していると思うのは傲慢だったようだ。
きっと彼女も気づいているのだろう、今回のことも、瑤が恋花に抱いている気持ちも。
肩の力が抜けてふっと息を吐き出し、思わず笑みがこぼれる。

「あったりまえじゃん、何年一緒にいると思ってるのよ?」

恋花は少しむっとした調子で答える。

「…ぷっ」
「ふふっ」

そのまま見つめ合っていたが、二人とも同時に噴き出す。
しばらく笑っていると、一葉が控室に入ってきた。

「恋花様、瑤様、いらっしゃったのですね」
「一葉」

その顔を見ても以前のように苦しみを感じることはなかった。

「あーあ残念、二人っきりの時間だったのに邪魔されちゃった」
「えっ!?そ、それは失礼いたしました!」
「うそうそ!ほら、こっちおいで!」

冗談めかして笑う恋花につられて瑤も笑う。

(やっぱり、一葉がいてくれてよかった)

恋花が心を許せる人間が表れて、彼女を救ってくれてよかった。
一葉とともに笑う恋花が見られて喜ばしかった。
その思いに偽りはない。

(でも…)

直前の恋花の発言に対して思いをはせる。

(嘘じゃなかったらいいな…)

そんなことを思いながら、瑤は親友とともにかわいい後輩を迎えた。
胸の奥がまたチクリと痛んだが、昨日までとは違い心地よさも感じる痛みだった。

~おしまい~


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なかよしとわいらいと【千香瑠、藍】

なかよしとわいらいと【千香瑠、藍】

 冬明けの夕暮れは、赤よりむしろ菫(スミレ)がかった紫光を放ちながら、街を夜の昏さに染めていく。日没へ至るまでの十数分、その短い間だけ覗く空の表情(トワイライト)は、紫紺に彩られたヘルヴォルの隊服に重なって見えた。

「まだ寒いね」

 言葉とともに白んだ息を吐きながら、隣を歩く藍ちゃんが私を見上げてくる。暦の上では過ぎ去った冬も、街往く人々の服装や息の中にはまだその名残が息づいている。

「昨日は少し暖かかったのに、また冬に戻っちゃったみたいね」
「ねー。冬に戻っちゃった」
「帰ったら今日はあったかいシチューにしましょう」
「シチュー? うん! 千香瑠のシチュー、好き! シチュー食べたい!」

 私は冷蔵庫の中身を思い出しながら、買い物せずに余り物で作れるレシピを頭の中で組み立てていく。必要な野菜やお肉は十分残っているから、このまま真っ直ぐにエレンスゲへ帰っても困ることはない。繋いだ藍ちゃんの小さな手が、お夕飯への期待に弾み、キュッと強まったのを感じた。

「任務が早めに片付いてよかったわ。遅くなってしまうと、きちんとしたものが作れないから。今日はちゃんと作るわね」
「? 千香瑠のお料理はいつもちゃんとしてると思う」
「うふふ。そう言ってもらえて、嬉しいわ」

 今日のヘルヴォルの活動は日が高いうちに終わり、各自の予定もあって現地解散となった。一葉ちゃんは東京防衛圏構想の打ち合わせでヘルヴォル代表としてルドビコへ出向し、恋花さんは瑤さんを引っ張って趣味のフットサル仲間の元へ行った。残った私は藍ちゃんを連れて最寄りの公園まで足を運び、家族連れに混じってひとしきり遊具で遊びまわった。遊びに興じる藍ちゃんは元来の子供らしさそのままに、きらきらと輝く笑顔を見せてくれた。時間はあっと言う間に過ぎ、日が傾くのはすぐだった。

「今日、楽しかった」
「そうね。いっぱい遊べて楽しかったわ」

 私と藍ちゃんは公園を後にして、エレンスゲへの帰り道を歩いている。
 西日はビル群の稜線へ沈みつつあり、道路を流れていく車がキセノンの光を灯し始めた。街の装いも電光の演色を帯び始めている。空を見上げると、ビルに縁取られた天望は茜色から夜の闇に染まり始め、落日の傍には宵の明星が燦然と輝いている。私の視線につられて西の空を見た藍ちゃんが星を指差した。

「千香瑠。あのお星様、ぴかぴか明るいあれ、なんていうお星様?」
「あれは金星ね。一番明るいお星様で、今の時期だと最初に見えてくるから一番星ともいったりするわ」
「へぇ。じゃあ、あっちのお星様は? 反対にある、あれはなんていうお星様?」
「あれは……アークトゥルス……だったかしら。春の大三角形の一つね。これもとっても明るいお星さまで、もうすこし夜になればもっと高い位置で見えるわ」
「……高い位置? お星様って、光る場所が変わるの?」

 何でもない会話から急に理科の授業をする必要に迫られて、私は気を引き締めた。

「そうね、……こう……地球がくるくる回っているから、私たちから見たお星様もみんなくるくる回っているように見えるの。だから、少しづつ星空は回転して見えるの。とってもゆっくりとだけどね」

 私は手のひらでジェスチャーしながら、星が巡る様子を藍ちゃんに説明してみせた。

「そうなんだ……知らなかった」
「……こういうことは、エレンスゲでは習わないものね」

 藍ちゃんと会話をしているとき、彼女の生い立ちは突如として真っ黒な影を私たちの間に落としてくる。エレンスゲ女学院はリリィの養育機関であり、初等教育を行う場ではない。学院の生活に組み込まれた戦いのセンテンスに流されてしまうと、自分と藍ちゃんとの立ち位置を見失ってしまうときがある。藍ちゃんが過去にG.E.H.E.N.A.から受けた仕打ち。現在も続くG.E.H.E.N.A.の実験。それらがどのようなものなのか、私は藍ちゃんのことをほとんど知らないままだった。実験に関する情報は冷徹なヴェールに阻まれ、時折、藍ちゃんの口から溢れてくる柔らかな言葉を拾い集めて、その諸像を思い描くことしかできない。日常の中、何気ないコミュニケーションの最中に私たちと藍ちゃんとは唐突に断絶し、その隙間に埋めようのない空白が割って入ってくる。藍ちゃんとの距離を埋める方法を私たちはまだ見つけられていない。不用意な言葉で彼女を傷つけないように、注意を払うのにせいいっぱいで、ただ遠巻きに見守ることしかできないまま、私は彼女の横を歩いている。きっと私たちが手を伸ばせば、藍ちゃんは手を握り返してくれるだろう。しかし、その小さな手を掴んだ後、藍ちゃんを引っ張り上げる力を私たちは持っていないのだ。
 私は笑顔を作って私は藍ちゃんの瞳を見つめ返した。

「そうだ。今日はもうちょっと寄り道して帰ってみない?」
「もうちょっと寄り道?」

 思いつきだった。
 ほんのささやかな思い出づくり。せっかくはやく任務が終わったのだから、戦場とエレンスゲとの往復だけで一日を終えるのは勿体ない。幸いなことに、今日は公園に寄り道をする暇があったけれど、私はまだ物足りなさを感じていた。もっと、藍ちゃんの心に残るようなものを送りたかったのだ。それに、私たちと藍ちゃんとの間を埋められるものは、そうした小さな日常のピースだけなのではないかという思いが心の底にあった。いつか、この子が道に迷ってどうしようもなくなったとき、彼女を取り囲んでいるものがG.E.H.E.N.A.が作ったカーテンなどではなく、私たちと撚り合わせてきた絆なのだと思えるように、日常の中に藍ちゃんを縫い留めたかった。
 私は藍ちゃんの手を引いて三号線から脇道に入ると、最近できたという海外チェーンのカフェへと足を向けた。エレンスゲの直近に軒先を構えるそのお店は、モダンな西海岸風の意匠に誂えられており、オープンしたてということもあって活気付いていた。ウィンドウガラス越しの店内には見知ったエレンスゲの制服もいくつか見える。

「ここってコーヒー屋さん?」
「そうよ。最近できたカフェで、一度来てみたかったの」
「藍、苦いのだめだから甘いやつがいいな。クリーム乗せて、チョコも乗っけて、甘くしてくれてるの。……あっ、でも……今日、お小遣いあんまり持ってない」
「大丈夫よ、私が誘ったんだもの。私が払うから、藍ちゃんは好きなのを選んで」
「いいの? でも、こういうところのって、すごく高いよ」
「お金のことは気にしないで、私が藍ちゃんと一緒に飲みたいの。一緒に飲んでくれるかしら?」
「……うん!」

 藍ちゃんがみせた躊躇いは微笑ましい温度で私の心を温めた。ヘルヴォルでの教育の甲斐あって、藍ちゃんには一般人らしい金銭感覚が身についてきている。お小遣い制の導入は瑤さんが藍ちゃんにプレゼントしたうさぎさんのお財布がきっかけだったけれど、藍ちゃんの素直さもあってそれはうまく機能しているようで喜ばしい。
 藍ちゃんの背を優しく押しながら、並んでカフェのドアをくぐった途端、私たちは残冬の寒さから切り離されて、焙煎されたコーヒーの暖気に包まれた。息をするたびに、鼻腔の奥にまで挽きたて豆の香りが運ばれてくる。

「すごーい。めちゃくちゃコーヒーの匂いがする」
「ほんとね。すごい香り」
「でも、何だか優しい匂い。苦いのに、苦くない匂い」

 嫌がられるかもしれないと思ったけれど、藍ちゃんはカフェの匂いを気に入ってくれたようだった。私はゆるく膝を曲げ、藍ちゃんの高さに視線を合わせる。

「それじゃあ、どれにしよっか?」

 店内に飾り立てられたメニューボードを見る。コーヒーはどれもアルファベットで表記されていたが、いずれもカタカナのふりがなが振られていて藍ちゃんでも読めるようになっている。ただ、全てのメニューに写真がついているわけではなく、華のあるトッピングやプッシュしている銘柄のみにとどまっていた。

「いっぱいあるねー」

 興味深げに藍ちゃんは品書きに目を走らせていく。私も同じように見慣れないコーヒーの名前を浚って、好みに合いそうなものを探す。それぞれにはフレーバーの特徴や酸味の程度などが小さく注釈されていたりして、バラエティに富んだメニューを前につい迷ってしまう。それは藍ちゃんも同じようだった。こういった逡巡の時間も、藍ちゃんの中に思い出として残ってくれるのだろうか。このカフェの匂いがこの子の思い出を香り付け、鼻で感じる香ばしい匂いが「コーヒーは苦いだけの飲み物ではない」ことを教えてくれるのだろうか。
 いつしか私はメニューボードから目を離して、藍ちゃんの横顔を眺めていた。幼い顔つきのまま真剣にメニューを見つめる彼女の眼差しには、稚(いとけな)さとは相反した、子供のままでいられなかった険しさが滲んでいる。この子の初陣を私は知らない。ヘルヴォルが藍ちゃんを迎え入れたときにはもう、この子はリリィとして第一線を支えるだけの力を有していた。胎児の段階でヒュージ細胞を埋め込まれ、強化リリィとして生を受けた彼女だが、だからといって、初めから戦い方を知っていたはずはない。おそらくは、生まれてからの大部分の時間をヒュージとの戦闘のためにひたすら費やしてきたはずだ。それを思うたびに、私は煮えるような憤りを覚え、こうして藍ちゃんを日常の枠組みに閉じ込めてしまいたくなるのだった。

「千香瑠。藍、これにする」

 横顔がこちらを向き、私は現実に引き戻された。
 藍ちゃんが指差したのは、なんてことはないただのブレンドコーヒーだった。カフェには種々の名前を冠したブレンドコーヒーがあったけれど、彼女が選んだのは一番安価なブレンドコーヒーで、注釈も「バランスの取れたオーソドックスな味わい」とだけ記されていている。

「藍ちゃん? これはあんまり甘くないかもしれないわよ?」
「うん。でも、これがいい。あっ、でもお砂糖は入れて欲しいな」
「本当? 本当にこれでいいの? もし遠慮してるなら、気にしないで好きなのを選んでいいのよ?」
「ううん、そうじゃないの。藍、いつもは飲まないけど、今日はこれがいいって思ったの。今日は、美味しく飲める気がする」

 値段を気にして安いものを選んだのかと疑ってしまったけれど、藍ちゃんの言葉と目には偽りはなく、本心からこのブレンドコーヒーを飲みたいと言っているように思えた。ひょっとすると、少し背伸びをしてみたいのだろうか。一葉ちゃんがよくブラックのコーヒーを飲んでいるから、感化される部分があるのかもしれない。思うところはあったけれど、藍ちゃんの意思を無碍に曲げるつもりもなく、私は要望通りにただのブレンドコーヒーを注文した。私も同じものを頼んだ。

「持ち帰りでお願いします。袋は結構です」

 店内の席は埋まっている様子だったのでテイクアウトにした。コーヒーはすぐには出てこなかった。作り置きなどではなく、店の奥で一注文ごとにコーヒーを入れるスタイルらしい。手が込んでいるこういうところが、今の盛況な客足に関係しているのだろうか。
 しばらくして、二人分のコーヒーが紙コップに入って出てきた。両方ともお砂糖は入れてもらってあるけれど、私のものだけミルクとさらに砂糖を多めにしてもらってある。万が一、藍ちゃんがコーヒーを飲めなかったときに交換してあげられるように。

「外のベンチで飲みましょう」

 カップを受け取り、暖かな店内の外へ出る。日が落ちて気温は更に下がったようだ。風に首元をなぞられると、寒気を感じた体がびくりと震えた。そして店舗先のベンチに座ると、今度は跡を濁す冬の寒さがツンとお尻を冷やしてきた。

「ベンチ! 冷たい!」
「そうね。もうちょっと、くっつきましょう」

 藍ちゃんと身を寄せ合う。風の入り込む余地がないくらいに密着する。

「千香瑠ふわふわ! 冬の冷たいのは好きじゃないけど、千香瑠があったかいから、くっついてるときは好き!」

 きゃっきゃっとはしゃぎながら、藍ちゃんが体を擦り寄せてくる。私はコーヒーを落とさないように手を広げて、甘えてくる小さな体を受け止める。

「私も藍ちゃんとくっつける冬が好きよ。藍ちゃん、すごく暖かいもの」
「千香瑠はね、あったかいけど、あったかいだけじゃなくて、すっごくふわふわ。瑤もふわふわなんだけど、千香瑠はまた別のふわふわ。なんて言えばいいんだろう?」
「うふふ。藍ちゃんもとってもふわふわしてるわよ?」
「ほんとう? じゃあ、一緒かな? 一緒のふわふわ!」
「そうね。一緒のふわふわね」

 寒ければ寄り添い合えばいい。
 おしくらまんじゅうでもするみたいに、私と藍ちゃんと体をくっつけ合う。瞬間、先ほど感じていた心の距離が埋まって、私たちを隔てるものなど何もないかのように思えた。心の移り変わりは不思議なものだ。私自身、自分の心境の変化に戸惑った。藍ちゃんの真っ直ぐな親愛の表現はミルクのように溶け広がって、苦味に怯んだ私の心を優しく諭していく。
 藍ちゃんの髪が私の鼻先をくすぐってくる。ひょっとしたら、この"近さ"は錯覚にすぎないのかもしれない。それでもいまだけは、私たちを取り巻く現実を忘れ去っても構わない気がした。

「あらあら。藍ちゃん、私ももっとこのままくっついていたいけれど、そろそろコーヒーを飲まないと冷めてしまうわ」
「あっ、うん! コーヒー、飲む!」

 持っていたコーヒーの紙カップを藍ちゃんに手渡す。
 きっと、ふとした瞬間に、あの断絶は苦味を伴って蘇ってくるだろう。この子の出生にまつわる出来事を消すことなど、誰にも出来はしない。黒色に染まった水を元の透明に戻すことは不可能だ。それでも、この苦味を楽しむ方法を見つけ出せると私は信じている。過去を変えることはできなくても未来を彩ることはできるはずだ。色を変えられずとも少しの砂糖があればいい。藍ちゃんがいつか苦味を受け入れられるように。もしたとえ、耐え難い苦味に震えてしまったとしても、私たちが支えになれるように、そうありたい。
 カップの蓋を開けると、店内で嗅いだ香ばしい匂いが湯気と共に立ち上った。私と藍ちゃんは鼻を鳴らしてその匂いを楽しむ。

「なんだかいい匂いな気がする」
「うふふ。私もいい匂いだと思うわ」

 恐る恐る、藍ちゃんがコーヒーに口をつける。藍ちゃんはちびちびと、小動物を思わせる仕草で味を確かめていく。

「やっぱりちょっと苦い……」
「大丈夫? 飲めそう?」
「うん。大丈夫。今日はこれ、飲むって決めたから」

 どのような思いでそのコーヒーを選んだのか、私は彼女に聞かなかった。ただ、今まで避けてきた黒い液体と向き合う藍ちゃんを見守るに留めた。
 藍ちゃんが徐々にペースを増してコーヒーを飲み始めたのを確認し、私は自分のコーヒーに口をつけた。甘くしすぎたコーヒーはもはやカフェラテのような味わいで、わずかな苦味と心地よい甘味を伴って私の体に熱を流し込み、私に活力を注いでくれる。
 空を見上げると、トワイライトはもう過ぎ去り、すっかり夜の帳(とばり)が降りていた。星空も一等星ばかりでなく賑やかに輝き始めている。

「ふぅ」

 私は天に向かって息を白く吐き出した。春の大三角を見上げるにはまだ時間が浅い。立ち上った蒸気は名も知れぬ星座の間に溶けていき、すぐに見えなくなった。きっといまある冬の名残も数日のうちに春の中へ溶けていくだろう。残った寒さを払うように、私と藍ちゃんは熱いコーヒーを飲み干していった。

なかよしとわいらいと【千香瑠、藍】


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大切な貴女への贈り物【楓、結梨、梨璃】

大切な貴女への贈り物【楓、結梨、梨璃】


 高台から由比ヶ浜を望む形で、彼女たちの墓石は佇んでいる。

「すっかり、過ごしやすい季節になりましたわね、結梨さん」

 楓が訪れるたびに、この墓所は表情を変える。五月になると墓所の裏寂しさも、新緑を帯びた鎌倉府の眺望と滄溟たる海の色彩とに彩られて、陰りのない明るい表情を覗かせてくる。墓地の傍らにあるソメイヨシノも、今では若葉を鎧う葉桜となって、南風に吹かれるたびにさらさらと笑い声を立てている。

「来月には梨璃さんのお誕生日ですのよ、知ってました?」

 休日のまだ日も浅い時間帯、楓以外に人気はない。一人で訪れた楓も長居するつもりはなかった。ただ、梨璃へのプレゼントを思ったとき、結梨のことが頭を擡(もた)げたのだ。しばらく自室で結梨のことを考えたが、どうにもならずに墓地へ足を向けることにした。結梨の墓を訪れて、一体何があるのか。その理由は楓自身、判然としないままだった。そもそも彼女はここに埋葬されていない。あるのは「一柳 結梨」と刻まれた墓碑だけだ。あの日、結梨は海の上に散った。還ってきたのは彼女のCHARMだけだった。遺骨はなく、ここに建っているのはただの石でしかない。

「貴女なら、何を送るんでしょうね」

 畢竟、それなのだ。
 自分が梨璃に送るモノならいくらでも考えつく。しかし、結梨が梨璃の誕生を祝うとしたら、何を送ったのだろうかと、かつてのルームメイトに思いを馳せたとき、楓の思索は泥沼に嵌った。考えて答えが出るような問題ではない。楓は結梨ではないし、そんなことは楓自身がよくわかっている。それにもかかわらず、答えを求めて楓は墓所を訪れた。
 身を屈めて、結梨の墓石に手のひらを添える。
 墓石には冷たい重さがあった。この温度に触れていると、ともに夜を過ごしたルームメイトの体温を思い出し、その差に愕然とする。もう彼女は温かくはないし、触れることもできない。手のひらの感触は硬質な墓石の冷たさを伝えてくるだけで、記憶の中の結梨とはとてつもない隔たりがある。楓は小さな結梨の手のひらの感触を思い出そうとしたが、できなかった。思い出せるのはCHARMに残った結梨の手のひらの跡だ。夕暮れた浜辺に突き刺さったグングニル。黒く焼け付いたCHARMの中で、柄だけが夕陽をきらきらと反射していた。

「貴女の代わりになんてなれませんのに……」

 自分は馬鹿なことをしている。
 結梨が何を考えて、あのときヒュージに向かって行ったのか、楓はぜんぶを理解できてはいない。それは楓だけではなくて、きっとあの場にいた全員がそうなのだ。「どうして一人で向かっていったのか」彼女に問いただす機会はもう訪れない。リリィの多くは命を賭して戦う理由を持っている。しかし、結梨を奮い立たせていたもの、その行動の源泉を楓は知らない。ルームメイトとして共に過ごした結梨の心境を推し量ることすら、楓にはできなかった。結梨のことを知るにはあまりに時間が短すぎた。

「……こんな気持ちのままプレゼントを選ぶのは梨璃さんに失礼ですわね」

 憂鬱な心持ちのまま選んだプレゼントなどで相手を喜ばせられるとは、楓は思わない。
 どうして自分は今更になって結梨のことで思い悩んでいるのか。愛する梨璃への贈り物を考えていただけなのに、どうしてか結梨のことが頭から離れなくなった。既に折り合いをつけたはずの思いが楓の中でぐるぐると渦を巻き始め、何もかもを巻き込んで思考を絡め取っていってしまう。そもそもの話、自分は結梨との折り合いなどつけられていなかったのではないか。
 墓石を前にして楓はあの日のことを思い出す。
 あの日、自室に帰った楓を待ち受けていたのは、部屋に置き去りにされた結梨のわずかな私物――もうすぐ使うはずだった教科書、筆記用具、替えの制服、昨晩使ったバスタオル、枕に残った紫の抜け毛、半端に飲み残した水差しなど――だった。唐突に持ち主を失ったそれらの残留物に囲まれた部屋はひどく寂しかった。早々に片付けるなどという気も起きず、永らくそれらは触れられることなく置きっぱなしにされた。否、触れることが怖かったのだ。たとえそれが、放り出された靴下であろうが、シーツに残った一筋の皺だろうが、結梨が最後に残した痕跡を消してしまうことを、楓は先送りにせざるを得なかった。白砂に打ち寄せる白波が足跡をひと薙ぎで消してしまうようにはいかなかった。別れるための準備には楓自身も信じられないほどの覚悟と時間を要し、相部屋を一人部屋へと還元する作業は穏やかならざるものだった。
 いまにして思えば、あの時、自分が梨璃のために行った行為――損壊したクローバーの髪飾りを複製したこと――は、自分自身が結梨の喪失から目を逸らすための行為でもあったのではないか。一人部屋の寂寞に耐えるより、何かに没頭している方が気が紛れたのは事実だった。わざわざ汐里のもとを尋ねて、手ほどきを受けて複製の為にそうさく倶楽部の部屋に引きこもり作業に没頭した。全霊をかけて制作したそのレプリカは、結果から言えば梨璃を立ち直らせることに成功した。
 勿論、あれがすべてが自分の為だったとは思わない。しかし、すべてが梨璃の為だったとも、いまになっては怪しく思えてくる。懲罰房で梨璃が一人、結梨の死と向き合っていたころ、自分は髪飾りの複製に時間を費やしていた。まるで、自分はもう結梨の死を吞み込んだふうを装って。
 結梨がいなくなってすぐは、夜になると結梨の声が聴こえるような気がした。電気を消した部屋の中で、誰もいないベッドから彼女が寝息を立てているような気配を感じた。もちろん、気がしただけであって事実ではない。結梨の私物を手つかずのまま放置し、中途半端に相部屋の様相を保っていたせいかそう錯覚しただけのことだ。
 いまの楓の部屋はきれいに片付いている。余分なベッドのシーツも新しく取り換えられ、彼女の残り香を嗅ぐことはもうできない。結梨の私物は全て箱に纏めてクローゼットの奥へしまった。おそらくは、卒業までそれを出すことはないだろう。楓の部屋はすっきりと整理され、一人部屋に戻っている。そう、見かけだけは。

「そういえば、貴女の誕生日を祝う機会もありませんでしたわね」

 結梨に誕生日というものがあるのなら、浜辺で出会った日がそうなるのだろうか。しかし、それはもう、決めようのないものになってしまった。楓が数えることができるのは彼女が去った年月であり、生まれてからの年月ではない。ルームメイトの命日として刻まれていく時間を、これから先、幾度となく巡る季節とともに迎えることになる。それは楓だけでなく一柳隊の面々も同じはずで、あの日が来ればまたここでみんなと結梨に言葉をかけるのだろう。

 ふと思う。

 結梨は自分をどう思っていたのだろうかと。

「わたくしの部屋に来るのだいぶ渋っていましたけれど、最後はどうだったのかしら。住み心地は悪くなかったでしょう?」

 いつまでも医務室で寝泊りするわけにもいかないので、とうとう結梨も寮に移ることになったとき、一柳隊の中で一人部屋を持っている楓に白羽の矢が立った。当人の結梨は「梨璃と一緒の部屋がいい」と愚図っていたが、結局は梨璃に宥められて楓の部屋に移った。結梨には初日から「お腹がすいて眠れない」などと手を焼かされたが、結梨の面倒を見ることは楓の苦にはならなかった。振り返ってみると、自分はあの共同生活を楽しんでいたのではないかという気さえする。

「もし、あの日々が続いていたら……」

 続いていたら? どうだったのだろう?

 もしもに思いを巡らそうとして、しかし、楓はすっぱり想像を打ち切った。それ以上の思索はただの感傷だ。ここへ来たのは感傷に浸るためではない。
 感傷の代わりに、楓は自分がここに来た理由を思い出す。

「結梨さん。貴女なら、梨璃さんに何を送りますの?」

 答えは返ってこない。
 薫風に揺れた草木だけがくすくすと笑っていた。

◆◆◆

 日を改めた休日。
 楓は朝から都内の宝飾店を梯子していた。

「なかなか決まりませんわね」

 優柔不断ということは断じてないのだが、楓は思い悩んでいた。きたる六月の梨璃の誕生日は楓にとって重大なイベントだ。自分の誕生日の重要度が1とするなら梨璃の誕生日の重要度は100万ぐらいある。熟考するに充分な価値があった。

「先のことも考えませんと……」

 とりあえず宝飾を送ることだけは決定している。その理由は単純で、肌身離さず身に着けていられるものが装飾品だからだ。相手と自分をつなぐものが存在しているというある種の安心感を伴う幸福。win-winの関係性。以前に贈った髪飾りは梨璃も喜んでくれているし、実際毎日つけてくれてはいるのだけれども、これから先、大人になっていくのであればもっとアダルトな洗練されたデザインの装飾品の方が望ましいと楓は考えていた。梨璃がいつまでもあの――少々お子様チックな――髪飾りを付けてくれるとは限らない。乙女ならば身を包む趣味嗜好は日々移ろい洗練されていくものだ。先を見越したプレゼントを贈る必要がある。

「しかしこれまでの経験上、梨璃さんはあまり華美なものはお好みではない様子……わたくしの気持ちだけが先走りして梨璃さんの好みに合わないようなプレゼントを選ばないよう気を付けなければ」

 しかしその梨璃の好みというのがどうにも難しい。愛らしいチャーミングな梨璃と大人のアダルトな梨璃を繋ぐような宝飾、そんなデザインの一品を探し求めて都内中の宝飾店を練り歩いているが、これだ!というものが見つからない。あまりに悩んだせいか、楓自身、自分がどんなものを贈りたいのかだんだんとわからなくなりつつあった。

「何かすごく見当違いな努力をしている気分になってきましたわ……」

 この努力は実を結ぶのだろうか? 梨璃という甘い禁断の果実を口にすることはできるのだろうか?
 休日のすべてを費やすつもりで臨んだプレゼント選びだが、午前の段階で既に楓の中で拭い難い不安が募り始めていた。すなわち「梨璃にぴったりの宝飾」が見つからない可能性である。

「梨璃さんなら何でも喜んでくださるんでしょうけれど……でもっ!!」

 妥協などできない。
 梨璃さんへのプレゼントで「妥協する」ことなど絶対に許されない。
 間違いなくこれが良いという一品が見つからない限り、自分は納得できないだろう。そういう地獄めいた予感があった。

「あぁ……梨璃さん……わたくしをここまで恋煩わせるなんてなんて罪深い天使なんですのっ……!!」

 思いの丈だけがぐんぐん伸びる。大声に近い楓の独り言に、ぎょっとした顔で店員が楓の方を向くが楓は気にしない。一見すると気が散っているようだが、その目は並べて出された宝飾を食い入るように検品している。そう、検品である。どのような値段でどのような価値のある宝飾であっても、梨璃に相応しくないものは弾かねばならない。まずは検品、選択はそれからである。

「……あら?」

 ふと、一つのネックレス――プリンセスほどの長さ――が目に留まった。

「……Le trèfle à quatre feuilles(ル トレフレ アカトル フェイユ)

 四葉のクローバー。
 タグを見ると楓の母国と同じフランス産のジュエリーだった。梨璃の髪飾りと同じモチーフのそれは色合いと大きさの調律が取れており、デザインに妙があった。

「……」

 さすがに安直すぎるだろうか?
 しかし、大人の女性が身に着けていても違和感のないデザインだった。丁度、楓が求めていたものでもある。ただ、やはり同じ四葉のクローバーというのはどうにも引っかかるものがあった。

「デザインは良い。良いのですけれど」

 きらきらと照明を反射するライトグリーンのネックレスをじっと見つめる。

 一枚は希望
 一枚は信仰
 一枚は愛情
 一枚は幸運

 梨璃が身に着けているものだから四葉のクローバーの意味、その言葉はとっくに調べて知っている。そして四葉特有の言葉も。

――私のものになって。

 強すぎる言葉だろうかと躊躇しかけたが、そもそも自分が日ごろから梨璃にそう迫っていたことを思い出して「別に強い言葉でもないですわね!」と思いなおす。
 そしてしばらく手に掲げた緑の宝珠と向き合う。思い出すのは結梨のこと。
 梨璃と楓を繋ぐクローバーの髪飾りは楓にとってひとつの象徴だった。梨璃は複製された偽物の髪飾りを「嬉しい気持ちになれる」と受け入れてくれた。梨璃が言ったように、あれは絆の象徴だった。

「結局どれだけ悩んでも、渡してみなければ結果はわかりませんものね」

 このプレゼントはどんな実を結ぶだろうかと、思いを巡らせる。梨璃が喜んでくれる顔が見たい。大切な人には笑顔でいて欲しい。単なる装飾品としてではなく、梨璃の日常を四枚の葉で飾ってくれるようなプレゼントがいい。
 いつかあの髪飾りを梨璃が小箱に仕舞う日が来ても、この首飾りなら大人になった梨璃の傍にいてくれるような気がする。そしてこの四枚の葉を通して梨璃が、自分が、彼女のことを思い出せればいい。悲しい思い出としてではなく、素晴らしい出逢いだったことを。もともと、シロツメクサはそういう言葉――わたしを思って――だったはずだ。

「決めましたわ。こちらの品を下さいませ」

 誕生日のプレゼントは用意できた。
 結局、結梨なら梨璃に何をプレゼントするのかはわからないけれど、これは悪い選択ではないはずだ。もしかすると、結梨の方こそこのネックレスを欲しがるかもしれない。梨璃のことが大好きなあの子なら、梨璃と同じモチーフのものを身につけたがるはずだ。
 そう思ったとき、楓は自分の中のわだかまりの正体に気付いた。
 髪飾りを受け取った梨璃が泣きながら叫んだ言葉が蘇る。
 何もしてあげられなかった、と。 

「こちらのネックレスも一つお願いいたしますわ」

 そう言って楓はもうひとつのプレゼントを購入した。
 同じメーカーの、四葉のクローバーを模したもう一回り小さなネックレス。
 記憶に残る大切なルームメイトを思って。


大切な貴女への贈り物【楓、結梨、梨璃】