存在しないメモスト置き場2

Last-modified: 2022-05-05 (木) 04:11:52
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無邪気な親近感【藍、名有りモブ、他】

無邪気な親近感【藍、名有りモブ、他】



東京 新宿 AM 6:00

 手狭な立体駐車場の屋上に真紅の外套を纏ったリリィたちが集っている。
 朝日が光輝で街を染め始めたころ、トラックの一団が屋上へと侵入してきた。

「全員、トラックに乗りなさい」

 G.E.H.E.N.A.の名札をつけた研究員が少女たちにそう告げると、まばらに散っていたリリィたちはトラックに集まり、眠たげな顔つきのまま後部荷台のテントへ乗り込んでいった。彼女らの間に言葉はなく、おはようの挨拶も聞こえない。

[メモリア絵]

「……」

 1人の少女が鉄柵に身を預けながら、遠巻きにその様子を見守っていた。朝焼けの陽光を背に、まるで他人事のように、リリィたちがトラックに乗り込む様子を見つめている。
 研究員の一人がその動こうとしないリリィに気づいて声を張り上げた。

「そこ! あなたも早くトラックに乗りなさい!」

 何人かのリリィが振り返ってその少女を見た。

 やけに小柄な、しかし、やけに大きなCHARMを持ったその少女はしばらく反応しなかった。まるで研究員を焦れさせるかのようにじっと動かず、研究員など目に入っていないかのように、リリィを注視している。

「おい! 聞いているのか! 早くトラックに移動しなさい!」
「……。はーい」

 2度目の呼びかけに対してようやく少女は応答した。のっそりのっそりとだが、トラックに向かって歩き始めた。もう誰もその少女の方を向いてはいなかった。リリィたちは互いが互いに無関心で、関わり合うことを厭うような断絶した空気があり、誰かが多少輪を乱そうが気を払わない。それは、実証実験の集合場所でよくある光景だった。



伊豆半島 東海岸線 AM 8:00

 輸送トラックの車列は、海風を掻き分けながらうねる海岸線を縫うように伊豆半島を南へ進んでいた。G.E.H.E.N.A.の刻印がされたトラックの後部荷台にはリリィが乗せられており、舗装の剥がれた凹凸のあるアスファルトにガタガタと車体ごと揺さぶられながら、皆がテントの中で物憂げな表情を床に落としていた。

「ねえ」

 突如、エンジン音に支配されていた重苦しい沈黙が破られた。
 真紅の外套を纏った少女がーーといっても全員が同じ外套を纏っているがーー隣にいた少女へと話しかけたのだ。話しかけられた少女は怪訝な表情で、ほとんど不快感たっぷりに、相手の少女を見据えた。

「……何よ」
「あれ、なーに?」
「は?」
「あの、向こうに浮かんでるやつ。あれ、なに?」

 話しかけた少女は、ぶかぶかの外套の袖先からわずかに人差し指を覗かせて、荷台の背面から見える海を指差した。その先にはきらきらと暁光に輝く海面に黒いシルエットを落とす一隻の軍艦が浮かんでいた。

「何って、船でしょ」
「うん。知ってる」

 話しかけられた少女のこめかみに青筋が走った。ふざけてるのかと食ってかかりそうになったとき、無邪気な声が再び響いた。

「でも、あの船は知らない。藍の知ってる船と、違う」
「ら……、何?」
「あの船は何してる船なのかな?」

ーーなんでそんなどうでもいいことを聞いてくるの?

 喉まで出かかった言葉を少女は飲み込んだ。この時になってようやく、相手の幼さに気づいたのだ。トラックに乗り込んだときも、出発したときも、少女は周りの人間に注意を払わなかった。同乗する誰の顔も見ずに、ずっと俯いて荷台のベンチに座り、自分の隣に座ってきた少女にも目を向けなかった。すべてがどうでもよかった。実証実験で出会う人間のことなど、知る必要のないことだった。
 少女は、ランと自称した相手の少女をじっと観察した。邪気のない顔、年齢も曖昧な小さな体躯と不釣り合いに大きな外套、やけに可愛い服装、チャームさえ持っていなければこれからヒュージと戦いに赴くリリィとは思えないだろう。

「あ。知らなかったら、いい」
「っ!」

 明らかに年下のリリィに、ものを知らないと思われるのが癪だった。ほとんど反射的に少女はランに言葉を返した。

「あれは軍艦よ。小さいけど機銃みたいなのついてるでしょ。でも、戦うための船じゃないみたいね」
「軍艦なのに、戦わないの?」
「人を運んだり、海の調査したり、レーダー(?)でヒュージがいないか警戒したり、役割が色々あるんでしょ」

 ほとんど知ったかぶりだった。しかし、実のところ、その説明は大きくは外れてはいない。その軍艦は海上自衛隊の海洋調査船で、由比ヶ浜ネストの遺した痕跡、討伐されたアルトラの生態を調べて検証するために派遣されたものだった。無論、そんなことは車内の誰も知る由のないことだったが。

「そうなんだ」
「あんた、どこのリリィ? まさか中等部だったりしないわよね?」
「ちゅうとうぶって、なに?」
「……いや、いいわもう」

 あまりに幼いランの物言いに、これ以上は話しても益がないと少女は思った。どうしてランのようなリリィが実証実験に参加させられているのか、気になる部分もあったがランからまともな答えが返って来るとは思えなかった。

「ねぇ」
「……今度は何?」
「藍はね、佐々木藍っていうの。エレンスゲのヘルヴォルのリリィだよ」
「あぁ、そう」

 嫌なガーデンの嫌なレギオンの名前が出てきて少女は顔を顰(しか)めた。しかし、ヘルヴォルトは確かトップレギオンのはずで、新興のガーデンとはいえど実力は決して低くはないはずだが、まさかこのちんちくりんがトップレギオンのリリィだとは、少女にはにわかには信じられない。

「ねえ。あなたはお名前は?」
「誰でもいいでしょ」
「よくない」
「なんでよ」
「藍が自己紹介したから。だから、今度はそっちが自己紹介しなきゃ、ダメ」

 なんのルールだよ、と思ったが、あまり邪険にするのも気が引けた。ランに対してそこまでの興味はないものの、子供相手に無碍にしてやろうという気持ちがあるわけでもない。正直、どう振る舞うべきか決めあぐねていた。しかし、やはり、明らかに年下のランから指図を受けるのは少女の気に障(さわ)ることだった。

「変なルール勝手に押し付けないで。あんたが勝手に自己紹介しただけじゃない」
「あ。……うん、そうかも。うん」
「……」
「無理言ってごめんなさい」

 結局、つっけんどんに返してしまった。返してしまったが、素直すぎるランの態度にきまりの悪さを覚えて、なんだか自分の方が幼稚で大人気ないリリィであるかのような気持ちになった。

「……蘭よ」

 耐えきれず、気を紛らわすように少女は自分の名前を口にしてしまっていた。

「? なに?」
「いや、私が蘭」
「? あなたは、藍じゃないよ? 藍なのは、藍だよ?」
「そうじゃなくて、私の名前も蘭なの。ああもう、ややこしいわね」
「えっ!! あなたも名前が藍なの?! すごい! おんなじ名前! びっくり!」
「まぁ、漢字は違うかもしれないけどね」
「……漢字。藍、あんまり漢字得意じゃない」

 そうでしょうね。
 蘭は、ランのことを特別な強化リリィではないかと、アタリを付け始めていた。ランが放つ稚(いとけな)さは真っ当な教育を受けてきた者とは思えなかった。悪名高いエレンスゲならなおのこと、実証実験にランが参加させられているあたり、その可能性は高いだろうと蘭は見込んでいた。

「ランって実証実験は初めて? それとも何度もやってるの?」
「何度もやってる。藍、強いよ」
「そう」

 強いようには全く見えなかった。子供特有の見栄、そうに違いないと蘭は思った。蘭は、傷跡のないランの肢体を見てそう思った。

「強いなら、一緒に動こうか」
「一緒? ……うん! 一緒にやりたい! 藍と藍で一緒に戦う!」

 何がそんなに嬉しいんだろう。蘭は若干冷めた気持ちでランの愛くるしい笑顔を見つめた。まるで一緒に遊びにでも行くような、特別な約束が叶ったかのような明るい笑顔は棘のように蘭の胸に刺さった。蘭の胸元で、ゲヘナの刻印が疼いた。



伊豆半島 G.E.H.E.N.A.実験場 AM 11:00

 現地に着いたランと蘭は、ゲヘナ研究員から気持ち悪いぐらい良心的な配慮を受け、実証実験が昼食後に執り行われる旨を告げられた。2人は手渡された支給品のお弁当を持って敷地内の高台に移動し、ベンチに腰掛けて一緒に食べることにした。

「元々はレジャー施設だったのかしらね、ここ」

 蘭は目下に広がる廃墟と化したプールや荒れ放題のテニスコート、朽ち果てて久しい宿泊施設などの廃墟群を見下ろし、実験場の過去の姿を思い描いた。きっと在りし日には、大勢の人間がここで余暇を過ごしたのだろう。

「レジャー施設って、なに?」
「みんなで遊ぶための施設よ」
「遊園地みたいなところ?」
「うん、そんな感じ」
「でも、ここ、観覧車ないね」
「そうね。もう、ただの廃墟」

 美味しくも不味くもないお弁当を早々に平らげて、蘭は大きく溜め息を吐いた。隣ではランがちまちまとお弁当を食べ続けている。その様子は本当に小さな子供のようだった。しかし、その傍らに鎮座するCHARMは隆々とした威容を放っている。

「……あんたのチャーム、でかいね」
「藍のチャーム、おっきい?」
「うん。あんたはちっちゃいのに、チャームだけおっきい」
「……うん。たしかに、藍のチャームおっきい。でも、大丈夫だよ。藍、ちゃんとこれ使えるから」

 ランのCHARMは見たことのないCHARMだった。ひょっとするとランのためにあつらえられた特別な品なのかもしれない。

「ねえ」
「なによ」
「らんの名前って、どんな字書くの?」

 蘭は一瞬混乱したが、すぐに自分の名前の漢字を聞かれているのだと気づいた。

「花の蘭よ。草冠に門の中に東で蘭」
「難しくてよくわかんない」
「……はぁ。こうよ、こう」

 蘭はお弁当に付いていた割り箸を使って、土の上にガリガリと自分の名前を書いた。

「ほら、これで蘭って読むの」
「へぇー。藍の字と違うね」
「……あんたは、青い方の藍?」
「んー。たぶん、そう。色の名前だって、研究員の人に教えてもらった」
「……。そう」
「でも、読み方はおんなじ。らん、だね」

 そう言うと藍はくすくすと笑った。
 面白いねと笑いかけてきた藍の笑顔を見て、蘭は自分とは相容れない温度を藍が持っているのを感じた。藍の熱はきっと、私を覆う氷を溶かしてしまう。そんな気がした。



伊豆半島 G.E.H.E.N.A.実験場 PM 1:00

ーーガンガンガン!

 グングニルの砲撃がスモール級ヒュージを撃ち抜いた。
 咆哮を上げ続けるCHARMの砲身は赤く焼け付き、煌々と熱を灯し始めている。蘭は自身のCHARMの耐用限界が近いことを悟った。しかし、弾幕を張ってヒュージを迎え撃つ他にやりようがない。敵の数は多く、退路はない。囲まれないように応戦するのが手一杯の状況だった。

「藍! もっとさがって!」
「あははははは!」

 戦いが始まってから、蘭は隣にいた少女が生粋のアタッカーであることを知った。まさかルナティックトランサー持ちだとは夢にも思わなかった。
 そもそもルナティックトランサーのリリィと組んだことなどなく、どのように扱えばいいのか、どのように共闘すればいいのかさっぱりわからない。わからないまま、激戦を続け、1時間が経とうとしていた。

「でも、本当に強い」

 はじめに「一緒に戦おう」と藍に持ちかけたのは、藍が心配になったからだった。しかし、いざ戦闘が始まってみれば、むしろ自分の方が藍に守られているような気さえしてくる。それほどまでに藍は圧倒的だった。

「それそれー! あははははは!」

 突出しがちな藍が敵を惹きつけ、後方から蘭が支援砲火を浴びせかける。しかしもう蘭のマギもCHARMも持ちそうになかった。
 突破口を開く必要がある。しかし、できる確証はなかった。

「藍! あっちの建物の中に移動するよ!」
「あははは! えいっ! えいっ!」
「藍! 移動! 移動するよ!」
「はーい! あはははは!」

 恐るべきことに、藍にはまだ余力があった。消耗はしているのだろうが、少なくとも蘭の目には十分なマギとスタミナが残っているように見えた。藍が強化リリィであったとしても、下手なマギの運用をしていれば早々に疲弊しているはずで、今も元気に戦場を謳歌し続けている姿こそ佐々木藍がエースであることの証左だった。

「くっ。マジで私より戦い慣れしてるじゃん」

 廃墟となった建物への道はほとんど藍が切り開いていた。敵に囲まれかけていると認識していたのは蘭だけだったのだ。
 限界が近いのは自分自身であって、藍ではない。苦々しい事実が蘭を苛み、幼い後輩を守ってやろうなどと考えていた過去の自分を張り倒したくなっていた。

「とりゃ! えいっ!」

 うさぎが踊るように藍が跳ねる。ブレードとシューティングの両モードを巧みに切り替えながらヒュージを薙ぎ討つ姿は、もはや蘭の目には神々しくさえ映った。

「よしっ! ここなら!」

 ついに蘭は廃墟の中に転がり込み、かつての会館だった建物の入り口に陣取ってヒュージを迎撃し始めた。背面を気にする必要がなくなり格段に戦いやすくなっていた。

「マシには! なったけど!」
「そーれ! あはははは!」

 蘭のマギはいよいよ枯渇しかけていた。CHARMにマギを注ぎ込むたび、吐きそうになる。手の震えが抑えられず照準が合わなくなってきている。
 このままマギ切れを起こして昏倒しても、隣にいる藍は私を守ってくれるだろうか。
 藍は強い。しかし、気絶した人間を守りながらこの数のヒュージを捌けるかはわからない。

「ねぇ、藍。もし、私が、倒れたら……」
「あれー?」

 とうとう蘭が弱音を漏らしかけたとき、不意に頼れる相棒が気の抜けた声を発した。

「な、何?! どうしたの?!」

 藍が不調でもきたしたのかと心配になって叫んだ。もしここで藍が戦えなくなったらいよいよ生命の危機である。しかし、藍から返ってきた答えは意味不明なものだった。

「……鶴紗だ」
「は? タヅサ?」

 なんだ? 何の話をしているんだこのエース様は?
 戦闘でハイになっている蘭の頭は相方の言葉をうまく飲み込めなくなっていた。

「鶴紗ー!!」
「えっ、ちょ!?」

 蘭を置いて、何事かを叫びながら藍がヒュージの群れに突貫した。
 まずい、蘭は制止しようと声を張り上げようとして、

ーードゴォン!!

 ティルフィングのバスターランチャーにかき消された。



伊豆半島 G.E.H.E.N.A.実験場 PM 3:00

 実験場は静けさを取り戻していた。

「いやー。それにしても奇遇だったなー」
「うん。鶴紗がいたのぜんぜん気づかなかった」

 実証実験ーー何の実証なのかはついぞ知らされなかったーーが終わり、2人のランと鶴紗たちはトラックの荷台へと乗り込み、互いに肩を寄せ合って座っていた。定刻になればトラックはすぐ出発する予定だ。

「藍と鶴紗って、仲良いんだね」
「いや。腐れ縁」
「あっ、鶴紗ひどい。あんまりよくない意味でしょ、くされえんって。意味わかんないけど、わかるよ」

 安藤鶴紗。
 実証実験に参加させられているリリィーー特に強化リリィの間でーーなら彼女の名前を知らないリリィはいないだろう。G.E.H.E.N.A.生粋の強化リリィ、血煙のリリィなどと物騒な二つ名を持つ鶴紗のことを、正直、蘭はあまり快く思っていなかった。そう、つい先ほどまでは。

「それにしても、鶴紗が来てくれて助かったわ。ありがとう」

 鶴紗の参入で蘭の仕事はほとんどなくなった。藍と鶴紗が凄まじい勢いでヒュージを殲滅していったのだ。蘭はただ、息の合ったコンビネーションで戦う2人を呆然と見つめるだけで良かった。
 ゴミ片付けを早々に終えた2人の元に駆け寄って、蘭は鶴紗のことを藍から教えてもらった。

「お礼はいいよ。用事のついでだったから」
「用事?」

 鶴紗は何も言わずに藍の頭を指差した。藍はそれに気づいていない。

「まぁ、その用事ももう終わったからいいんだ。気にするな」
「?」

 藍に一体どんな用事だったのか聞こうとしたが、トラックのエンジンがけたたましく唸り、問いの言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。



都内某所 PM 6:00

 トラックが解散地点に着いたときにはもう西日が赤く空を染めていた。

「ふわぁ……」

 2人のアクビが重なる。トラックの振動が心地よい睡魔をもたらし、急停車して頭をぶつけるまでぐっすり眠りこけていたのだ。ゲヘナのトラックはリリィたちを降ろすとさっさと走り去ってしまった。お疲れ様でしたの一言ぐらいあってもいいのにと、蘭は胸にムカつきを覚えた。

「あーあ。眠いし、お腹すいた」
「藍も眠いー。お腹すいたー」

 鶴紗の姿はここにはない。
 鶴紗は途中でトラックを離脱したのだ。そう、離脱した。

『あ。私ここで降りるわ』

 三人で好きな食べ物の話をしていたときだ。
 急に話をぶった切った鶴紗は立ち上がるや否や、ピョンとトラックの荷台から飛び降りてしまったのだ。「さよなら」を言う間も無く、二人は鶴紗が消えたトラックの外をポカンと見つめることしかできなかった。
 藍に聞いた話では、鶴紗は百合ヶ丘のリリィらしい。母校の傍にきたから飛び降りたようだった。しかし、ずいぶんな別れ方である。

「はぁ、本当、疲れたわ」

 うたた寝したぐらいではマギの消耗と身体の疲労は癒えず、蘭は気怠るい体を引きずって駅に向かい始めた。

「ねえ、蘭」
「何よ」
「もうすぐ、お別れだね」
「……」

 後ろからかけられたその言葉は、嫌に鋭く蘭の胸を射抜いた。

「あんた、エレンスゲだったわよね」
「うん」
「じゃあ、駅でお別れね」

 蘭のガーデンはエレンスゲの方向とは違う。駅に着けばさよならだった。
 今日一日、たった一日一緒に行動しただけ。それなのに藍との別れは、蘭をひどく寂しい気持ちにさせていた。

「あのね、藍」
「なに」
「今日は、ありがとうね」

 それ以上の言葉は出てこなかった。寂しさ、照れ臭さ、人との関わりを絶ってきた自分、強化リリィになってからずっと俯いてきた過去、それらの悲喜交々の感情は出鱈目なジグソーパズルのように散らばって肺の奥に溜まり、形を為さなかった。

「藍も! 藍もお礼いう! ありがとうね、蘭!」
「何がよ。あんた、ほとんど私の助けいらなかったじゃない」
「ううん! 蘭といたら、楽しかった!」

ーーそんなわけないじゃない。

 蘭は初め、冷たく藍に接したことを思いだした。今になってそれは重い罪のように心にのしかかっている。

「実はね、鶴紗って、昔は今の蘭みたいだったんだって」
「……は? 急に何?」

 突然、話の方向が変わって蘭は困惑した。

「鶴紗の昔の話。鶴紗、前はずっと苦しかったって言ってた。強化リリィになって、自分が嫌いになって、消えてしまいたかったって言ってた」
「……いや。本当にそれ、何の話?」

 蘭は戸惑う一方で、藍が何か大事な話をしようとしているのを感じた。それは恐ろしい予感を孕んでいて、聞きたくない一方で聞かねばならないと言う気持ちも呼び起こされた。
 藍は幼いけれど、まっすぐな心を持っている。蘭は今日の戦闘のことを思い出す。ルナティックトランサーを発動して考えなしのように戦いながら、しかし、背後にいるリリィを守って戦うことができるこの小さな巨人は、蘭の中ではもう幼いだけの子供ではなくなっていた。それは単なる戦闘技術の話ではなく、もっと人間的な情緒の話でもあった。

「あのね。鶴紗が今日あそこにいたのは、偶然じゃなかったんだと思う。きっと、藍のこと、見にきてくれてたの」
「なんで? 鶴紗があんたを心配してやってきたってこと?」
「そう! きっとそうなんだと思う!」

 話が飛躍しているのではないか、と蘭は思う一方で、車内での鶴紗の謎めいた発言を思い出した。

『お礼はいいよ。用事のついでだったから』

 つまりそれは、そう言うことだったのだろうか。

「前もね、藍が実験に参加して、すっごく辛かったとき、鶴紗が助けに来てくれたの」
「前も?」
「うん。だから今日も、鶴紗は心配してきてくれたんだと思うの。だって、朝トラックに乗るとき、鶴紗いなかったもん。藍、みんなの中に、鶴紗いないかなーって、ずっと見てたの。でも、朝はどこにもいなかった。それでちょっとだけ藍、寂しかったの」

 そういえば、朝の集合の時に誰か、動かないリリィが怒鳴られていたことを蘭は思い出した。それはきっと藍だったのだろう。

「でもね、向こうに行ったら、鶴紗がいたから、藍、びっくりしたの。こっそりついて来てくれたんだよ。だから、ちゃんとお礼言わなくちゃって思ってたのに、今日、言えなかった」
「……まぁ、突然降りてったからね、鶴紗」
「うん。あれは、鶴紗が悪い。藍、お礼言えなかったって、後で鶴紗に電話で怒る」

 お礼を言われる一方で怒られる鶴紗を想像して蘭は破顔した。

「ふふっ。鶴紗、困りそう」
「藍、ああいうさよならはダメだと思う。ちゃんとバイバイしてお別れしたかったもん」
「そうだね。私も、鶴紗にバイバイって言いたかったかも」
「でしょ」

 もう目の前に駅が見えていた。
 新宿攻防戦の傷跡は工事のメッシュシートに覆われて見えないけれど、駅前の広場にはまだ大きな瓦礫が撤去されずに残っているところがあった。そういえば、その攻防戦に参加したというのがエレンスゲのトップレギオンだったことを蘭は思い出した。

「だからね、今、蘭が藍にありがとうって言ってくれたの、すごく嬉しいし、藍も蘭にありがとうって言いたくなったの」
「……そっか」
「やっぱり、蘭も鶴紗みたいに優しい。最初にそう思って話しかけてよかった」
「……」

 蘭は、藍と鶴紗の関係を知らない。二人の関係についてほとんど触りだけの部分しか聞けていない。トラックの中では他愛のない話ばかりで、おたがいのリリィとしての過去については話さなかった。それは鶴紗に過去を聞くことへの躊躇だけではなく、蘭自身の過去に対する忌避感や藍の得体の知れない部分に踏み込むことへの恐怖がもたらした結果だった。
 しかし、それでも、藍と鶴紗の間には、肌で感じる以上の強い繋がりが感じられた。見えないように鶴紗はそれを隠していたが、少ない口数や態度の裏側には、確かに藍に対する親愛の情があることを蘭は嗅ぎ取っていた。

「藍」
「ん?」
「ここで別れよっか」
「うん。わかった」

 見上げれば電光掲示板が電車の時刻を表示している。もう改札の前にきてしまっていた。
 ランはもう一人のランの瞳を見た。真っ直ぐに見た。もし、もう二度と会うことがなかったとしても、ランのまなざしを忘れないように。

無邪気な親近感 終わり


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一周年カウントダウンイラスト「あと9日」【神琳、雨嘉】

一周年カウントダウンイラスト「あと9日」【神琳、雨嘉】

「あれ、神琳、今日は自主練行かないんだ?」

ある休日、王雨嘉が目を覚ますと、中庭にルームメイトである郭神琳の姿があった。
まだ日が出たばかりであり、あたりには朝もやが立ち込めている。
少し離れたところにいる神琳の姿もぼんやりと色を失ったシルエットのように見え、はっきりとは確認できなかった。

世界中から集められた精鋭集団である百合ヶ丘の生徒の中でも、神琳は大変な努力家として知られており、休日であろうと朝早くから訓練場や図書館で自己研鑽に励んでいるのが常であった。
もちろん雨嘉や一柳隊のメンバーと遊ぶ予定がある時などは訓練を休むのだが、今日はそういった約束はしていなかったはずである。
彼女がこの時間に自室にいることを意外に感じ、思わず疑問が口から出てきた。
口に出してから怠惰をとがめているように聞こえてしまっただろうか、と思い恐る恐る神琳の様子をうかがったが、彼女は何やら作業に集中しているらしく、こちらの声が聞こえていないようだった。

(どうしたんだろう…)

雨嘉は大きな声を出すのが得意ではないため、制服に着替えてから声が届くようにベランダから中庭に出て、神琳の方へ近づいて行った。
百合ヶ丘は名だたるリリィを要する強豪ガーデンであると同時に、名門お嬢様学校としても知られている。
当然校則も厳しいものとなっており、寮の中庭とはいえ、だらしない恰好で外へ出ることは許されていない。
近づいてはっきりと姿が見えるようになると、彼女もきっちりと身だしなみを整えていることが確認できた。
ただ、その髪はあたりに植えられた草花と同じように、朝露に濡れキラキラと輝いていた。

「ここに通して…これでは角度が…」

無意識のうちにつぶやきが漏れていることと合わせて、かなりの長時間作業に没頭していたことがうかがえる。
こちらに背を向ける姿勢になっているため、部屋の中からでは何をしているのかはわからなかったが、座って背を丸めた姿勢と体の動きから察するに、どうも手元で何かを作っているようだ。
その意図はなかったが、ちょうど後ろからこっそり近づいてのぞき見するような位置関係になった。

(勝手に見たら怒るかな…)

雨嘉もストラップなどの小物を作ることを日々の楽しみとしていたが、製作中の作品を見られるのがあまり得意ではなかった。
見ている側にそんなつもりはないとわかってはいるのだが、言いたいことがあるのではないか、不出来な点が気になっているのではないか、といった考えがちらついて集中できなくなってしまうのだ。
そのため、神琳も手元を覗かれることを嫌がるかもしれないと思い、少し離れたところからもう一度声をかけた。

「…神琳?」

集中しているのを邪魔しては悪いからやっぱりやめておこうか、と話しかけるのを一瞬ためらいそうになったが、普段気の抜けた姿をほとんど見せない神琳をここまで惹きつけるものは何なのか気になった。
ようやく声が届いたようで、彼女はこちらを振り返り、微笑みながら挨拶を返した。

「おはようございます、雨嘉さん」

左右で色の違う、赤と金の瞳が雨嘉を見つめる。

「おはよう、何を作ってるの?」

雨嘉がそう尋ねると、神琳は体ごと振り返り手に持っていたものをこちらに見せた。

「これって…花冠?」

彼女が作っていたのは、花を編んで輪の形にした花冠であった。

「ええ、温室に植えてあった花の蕾がちょうど昨日から開いていたので、せっかくですし作ってみようかと思いまして。もちろん花は許可をとっていただいてあります」
「そうなんだ、神琳もそういうことするんだね…」

言った後で、またいつもの「癖」が出てしまったことに気づいた。

「あ…!ち、違うの…!似合わないとかじゃなくって、神琳って休みの日はよく訓練に行ってるから…!」

慌てて釈明をする。
無意識のうちにとげのある言い方をしてしまう自分を恨めしく思ったが、神琳を見てみると特に気にしていない穏やかな表情だった。

「ふふ、わかっていますよ。私も自分が普段しないようなことをしている自覚はあります」

少し申し訳なさが残ったままだったが、神琳の機嫌を損ねていないとわかりほっとした。
自分のことを口下手であると思っている雨嘉にとって、冷静にこちらの真意をくみ取ってくれる神琳の存在はありがたく、百合ヶ丘にきて彼女と出会えたことは幸運であると思っていた。

「どうして急に作ろうと思ったの?」
「それは…花があまりに美しかったから思わず、ということ理由ではいけませんか?」

いつも芯のある姿勢を崩さない神琳にしては珍しく、すこし困ったような表情で答える。
そういうことにしてください、と言っているようにも聞こえる、含みのある返答だった。
確かに美しい花ではあったが、あの神琳がそれだけの理由で訓練を休んでまで作業をするだろうか。
そう思ったが、あえて隠している理由に踏み込むこともためらわれたため、とりあえず納得しておくことにした。
花冠を作るのに後ろめたいことなどあろうはずもないし、これ以上追及する必要性も感じなかった。

「ううん、確かに、きれいな花だもんね。なんていう花なの?」

雨嘉はテラリウムを趣味としており植物の扱いにはいくらか慣れていたが、コケなどのこじんまりとしたものを主に扱っているため、温室や花壇で育てるような花にはなじみがなかった。
見たところ、神琳がもっている花冠には三種類の花が使われているようだった。
それらはすべて細かな色合いの違いはあれど、きれいな白色でまとめられていた。
そのうちの一つは雨嘉でも何となく見当がついた。

「これは薔薇…かな?」

少しクリームがかった花弁が幾重にも重なり、中心付近は球状に丸く集まり外側はドレスの裾のように広がっている。

「ええ、エーデルワイスという品種だそうです、棘は花をもらう時に取り除いていただきました」
「薔薇なのにエーデルワイスっていうんだ…なんだか不思議だね」
「ふふ、面白いですよね」

雨嘉の言葉に神琳も穏やかに答える。
あてずっぽうとはいえ予想が当たったことがうれしかったが、残りの二つについては見当がつかなかった。

「あとの二つは何て名前?」

真面目な神琳のことだ、おそらく自分がもらう花の名前くらいは調べているだろう。そう思い素直に訊ねることにした。

「こちらの花がゴヨウツツジ、別名をシロヤシオとも言います」

神琳はそういうと五枚の花弁を持つ花を指さした。

「なんでも、昔日本の偉い方が自分の娘のおしるしにされたそうです。この花の白さのように純粋な心を…」

花にまつわるエピソードを紹介していく神琳。
雨嘉が想像していたよりも熱心に花のことを調べているようだ。
その姿は、学校で初めて習ったことを両親に自慢げに教える小学生のようにも見え、微笑ましかった。

(あれ…)

うんちくを聞いている途中で、雨嘉は神琳の後ろに、彼女の手にあるものと同じような環状の物体がいくつか転がっていることに気づいた。

「神琳、その後ろにあるのって…」

その言葉を聞き神琳は少し恥ずかしそうに答えた。

「見つかってしまいましたか…ええ、いくつか試しに作ってみたのですが、どうにもうまくいかなくて…」

確かに、地面に置かれているそれらは、花の間隔が広すぎたり狭すぎたりしてバラバラなもの、茎が千切れて飛び出してしまっているもの、輪が縦長に歪んでしまっているものなどであり、雨嘉にも一目で失敗作であるとわかった。
後ろからのぞいた時にぶつぶつとつぶやいていたのは、それだけ苦戦していたということだったのか、と得心がいった。
先ほどは気づかなかったが、神琳がもっているものも花が内側を向いてしまっていて、かぶるには少し邪魔になりそうだった。

「これも何とか軌道修正を試みてはいるのですが、また作り直さなければいけないかもしれませんね。花には申し訳ないですが…」

神琳は残念そうにつぶやく。

「よ、よかったら私も手伝おうか?」

雨嘉としては神琳の意外な苦手分野を見つけて微笑ましく感じたものだが、真剣に取り組んでいる相手にとっては失礼かもしれないと思い、内心を悟られないように気を付けて発言した。
今日は用事もないし、神琳と一緒に花冠を作りながら過ごすのもいいかもしれない。
しかし、帰ってきたのは意外な返事だった。

「ありがたいのですが…申し訳ありません、これは私自身の手で作り上げたいのです」

一瞬拒絶されたのかと思い戸惑ったが、その直後に神琳からフォローが入った。

「ですが…もしよろしければ、私が作業をしている間、話し相手になっていただいてもよろしいでしょうか。一人で黙々と作るのも楽しいですが、やはり少し寂しいですし…」

どうやら理由はわからないが本当に自分の力で作りたいだけのようだ。雨嘉としても親友のお願いを断る理由はない。

「うん、じゃあ私も隣に座るね…」
「ええ、どうぞ」

そういって神琳のそばに腰を下ろした。
芝についた朝露で服が濡れないか気になったが、少しひんやりとする程度で問題はなかった。

「…」

隣に座ったはいいが、何を話そうかと迷った。
そもそも雨嘉は自分から会話を切り出すタイプではない。
二人はルームメイトであり、同じレギオンの中で苦楽を共にした仲間でもある、今更少しの沈黙で気まずくなるような間柄ではなかったが、話し相手になってほしいと言われた以上何か話題を提供すべきだろうか。
そんなことを考えていると、神琳の方が先に口を開いた。

「雨嘉さん、見てください」
「何?」

花冠に目をやると、無理に形を変えようとしたせいで茎は先ほどよりもいびつにねじれ、何度も角度を変えられた花や葉は千切れそうになり頼りなくうなだれていた。
先ほどまでの状態ならば、少し不出来ではあるものの花冠としての体裁は保っていたが、今そこにあるものは無造作にむしり取られた花の寄せ集め、とでもいうべきものだった。

「やはり私一人では難しいのかもしれません、朝令暮改で申し訳ありませんが雨嘉さんはこういった小物づくりにも慣れているでしょうし、手伝っていただいてもよろしいでしょうか」

申し訳なさそうに、そして悔しそうにお願いする神琳。
彼女の弱いところを見てしまったようで罪悪感があったが、それ以上に些細なことでも力になれるのが嬉しかった。

「うん、もちろん」

そこからは二人で一から花冠を作り始めた。
一緒に作業をするうちにわかったことだが、神琳は手先が不器用で苦戦しているわけではないようだった。
ただ、いささか細部にこだわりすぎるきらいがあり、気になった部分をどうにかしようとするうちに全体のバランスが崩れたり、不要な手を加えて花にダメージを与えてしまっているようだった。
そこで雨嘉は、まず大まかに全体を作りあげてから最低限の修正をしてみてはどうか、とアドバイスをした。
そこからの作業はスムーズなものだった。
作りたい形のイメージは幾度かの挑戦を経て決まっていたのだろう、作業の方針が決まってからは彼女の手はよどみなく動き、ものの十数分ですでに八割がた完成に近づいていた。
まだ完成してはいないが、先ほどまでとは見違える出来であることが容易に想像できた。
スムーズに編み上げられる緑の茎と、それを成す白く細い十本の指に見とれていると、それまで集中していたのか黙って作業していた神琳がおもむろに口を開いた。

「雨嘉さん、私が故郷を失っていることはご存じですよね」
「…うん」

当然である。彼女の故郷台湾がヒュージの手によって陥落していること、その時に三人の兄を喪っていることは今更確認するまでもないことだった。
しかし、神琳がそのことを自分から口に出すことは珍しかった。
神琳にとってその話題は苦い記憶であり、雨嘉相手でもあまり話すことはなかったのだ。

「それとは別に、あなたに出会う少し前、私は大きな挫折をしたことがあります」
「聞いたことはある…かも」

詳しくは知らないし自分から調べるつもりもなかったが、ニュースやうわさで耳にしたことはある。
神琳は中等部時代に百合ヶ丘予備隊の司令塔を務めていたが、その年に史上初めて中等部レギオンの格付けトップの座を逃したのだ。
それは世界に大きな衝撃を与えたようで、当時アイスランドにいた雨嘉の耳にも届いていた。
自分に厳しい彼女のことだ、相当悔しかったのだろう、今そのことを話す表情も少し愁いを帯びている。
神琳がこんな風に自分の過去を語るとは思っていなかったため、聞き手としても自然と緊張感が高まる。

「その頃の私は今よりもずっと自分勝手で、周りを顧みることをしませんでした」

いつものようによどみなく言葉を紡ぐ神琳、しかしその姿はいつもよりもずっと弱々しく感じられた。
まるで悪いことをしてしまったことを自分から謝りに来た子供のようであった。

「私が指揮をすれば世界最高の部隊になれる、私が強くなれば故郷を取り戻せる、私が、私が…そんなことばかり考えていました」

作っている途中の花冠から目を離さず、作業を続けながら語るその横顔からは、強い後悔と自責がうかがえた。
雨嘉は見てはいけないものを見ているような気がしたが、それ以上に目を離してはいけないと思った。
朋友が自ら弱みを見せているのに、自分が逃げるわけにはいかないだろう。

「自分しか見えていない人間が他人を率いるなど、ましてや一国を救うなんてできるはずもないのに…」

神琳がうつむき目を伏せる。
きれいな茶色の髪がたれ、その顔に影を落とす。
雨嘉が、その色から燃え盛る炎のようであると思っていた彼女の瞳が、この瞬間は闇の中で消え入りそうなろうそくの火のように見えた。

「独りよがりな努力はむなしいものです」

苦しそうにしながらも、語ることをやめはしない。
それは自分への戒めのようでもあり、過去を貶めることで今は違うと言い聞かせる、自罰的な慰めのようでもあった。

「自分の力で何かを成し遂げようとするあまりに、私はこれまでにいくつもの花冠をだめにしてしまいました」

神琳はそこで初めて手元から目を離し、あたりに散らばる花の残骸に目をやった。
その二色の目は、失敗作たちを通じて何か別のものを見ているようだった。

「結局のところ、私はいつまでも兄たちに褒められたい子供のままだったのでしょう」

そう言うと再び花冠の製作に戻る、どうやらもうほとんど出来上がっており、最後の細かい調整をしているようだ。

「本当に大事なことは自分の能力を示すことでも、周りに実力を認めさせることでもないとわかっていたはずなのに」

そう言うと神琳は作業の手を止めてこちらに向き直り、持っている花冠を顔の高さまで掲げてこちらに見せた。

「あなたと一緒に作ったらこんなに簡単にできてしまいました。もっと早くあなたにお願いしていれば、そもそも最初から一緒に作っていれば、この花たちも無駄にむしられ命を終えることもなかった…」
「…」

花の白と葉の緑の調和がとれた、見事な冠だった。
しかし、美しい出来栄えとは対照的に彼女の表情は深い悲しみに満ちており、その意識はせっかくの完成品ではなく地面に落ちたぼろぼろの花々に向いているようだった。
自虐的な、過去の自分を愚かであったとあざ笑うような、そんな笑顔だった。
それを見て取ると、雨嘉の口からは思わず言葉があふれ出た。

「そんなことないよ、むなしくなんかない、無駄じゃない」
「…!」

悲しみに満ちていた目が丸く開かれる。
雨嘉はその目をまっすぐに見つめ、冠を持つ彼女の手を取った。必然的に、二人で手を添えて花冠を握る形になった。
朝早くからずっと作業していたせいか、その手はひんやりと冷たかった。
棘を取り除いたとはいえ茎に細かいささくれが残っていたのか、それともずっと前から積み重ねられた彼女の苦労の証か、白く柔らかい肌の表面についたたくさんの傷の、ざらざらとした感触があった。

「一人でもずっと頑張ってきたから今の神琳がいる、だから一柳隊のみんなに出会えたんだよ」

二人が出会って間もないころ、彼女たちの隊長である一柳梨璃が神琳の勧誘に来たのは、決してメンバーが足りず、人数合わせのためなら誰でもよかったからではないだろう。
神琳の実力が確かに評価されていたために、その評判が梨璃の耳にも届くこととなったのだ。
そして、その出会いをきっかけとして雨嘉も少しづつではあるが変わっていくことができた、大切な仲間に出会うことができた。
その機会をくれた神琳に、自らの過去を否定してほしくはなかった。
この花冠もそうだ、今回うまくできたのは雨嘉のアドバイス以上に、これまでの失敗を通じて彼女自身が作り方を学んでいたからによるところが大きいだろう。

「私は、挫折を知ってそれでも立ち上がる神琳が大好き、そんな神琳に認めてもらえたから私も一柳隊に入れた…。だから、そんな風に自分を否定しないで…!」

思わず語気が強くなる。

「雨嘉さん…」

神琳がつぶやく。
思わず飛び出した言葉だったが、言いたいことが伝わっただろうか。

「ありがとうございます、おっしゃる通りですね」

その目は再び輝きを取り戻しており、いつもの自信に満ちた光を宿していた。
赤と金の炎がまっすぐにこちらを見据えていた。

「過去の私が過ちを犯したからこそ今の私がある。すべては無駄ではなかった。大切なことを思い出すことができました。」

神琳は優しく笑みを浮かべている。
親友の落ち着いた様子を見て、雨嘉も先ほどまでの興奮が薄れていくのを感じた。

「あ…!」

冷静になってから先ほどの自分の発言を振り返ると、思わずかなり大胆なことを口走っていた気がする。
顔が熱くなり、眉間にしわが寄ってしまう。

「す、好きっていうのは、そういう意味じゃなくて…!あ、そういう意味ではあるんだけど、違うというか…!」

握っていた手を放してあたふたと言い訳をするが、自分でも何を言っているのかよくわからない。
神琳はこちらを見て先ほどよりももっと目を丸くした後、楽しそうに笑った。

「ふふっ、私も好きですよ、雨嘉さん」
「えぇっ」

突然愛を告げられ、ますます顔が赤くなる。
照れるでもなく気合を入れるでもなく、当たり前のことのように神琳は好意を口にする。
いつも愛情表現がストレートな方だが、今それをされると照れが収まらなかった。

「そういえば、先ほどこれを作っている理由を聞かれましたが、あの時の答えは真実ではありませんでした」

しばらく笑っていた神琳だったが、ふとそう告げた。
雨嘉も何となく察してはいたが、あえて口に出すということは本当の理由を教えてくれる気になったのだろうか。

「いえ、きれいな花に惹かれたというのは嘘ではありません、ただ、それだけではなかったのです」

そう言うと神琳は花冠を持ったまま膝立ちになり、もともと近かった二人の距離をさらに詰めた。
距離が近すぎて、神琳の肩から上が視界から外れた
何をしているのかは見えなかったが、神琳がこれからしようとしていることが雨嘉にも分かった。

「えいっ」

無邪気な掛け声とともに、頭の上にくすぐったい感触とわずかな重みが加わった。
座りなおして全身が見えるようになった神琳は、先ほどまでと違い花冠を手にもっていなかった。
それは今、雨嘉に被せられていた。

「あなたにいつもお世話になっているお礼を言うために、贈り物をしたくて作ったんです。…よく似合っています」

雨嘉は胸に温かいものを感じた。
訓練に熱心な神琳が、休日にわざわざ時間を使って自分のためにプレゼントを作ってくれたことが嬉しかった。

「本当はサプライズにするために早起きをしましたし、見つかった後も送る相手に手伝ってもらうなんて、と思って意地を張りそうになったのですが、あなたの力を借りることで結果として良いものができました」

ありがとうございます、と神琳は言う。
先ほど伝えたように、雨嘉としてはこれは神琳自身の実力で作り上げたものだと思っているのだが、せっかくの感謝を素直に受け取ることにした。

「ううん、こちらこそありがとう」

こちらからもお礼を伝えた。
花冠だけでなく、出会ってからこれまで神琳と経験した全てに対する感謝だった。

「…ねえ雨嘉さん、花冠に込められた意味を知っていますか?」

少しの間無言で見つめ合っていたが神琳はおもむろに話題を変える。
雨嘉は首を横に振った。
子供が戯れで作る以外では特別な儀式のときに用いられる印象ではあったが、その詳しい意味については知らなかった。

「花冠の環状の構造は永遠を意味しているそうです」
「そうなんだね」

なるほど、そういわれると途切れることのないループが続くこの形は永久の象徴にふさわしいと思えた。
いずれ枯れてしまう草花に永遠の意味を与えるのは、命の終わりを惜しむ人間の性だろうか。
雨嘉が思いをはせている間に、神琳は言葉を続けた。

「私もあなたの傍に永遠にいたいのです。私に大切なものをくれたあなたをいつまでも守り続けたい。この冠を、その誓いの証とさせてください」

よろしいでしょうか、とこちらに尋ねる神琳。
そこには、きっと受け入れてくれるに違いないという確信があった。
そして、その気持ちは雨嘉も同じだった。

「うん、もちろんだよ、神琳…!」

雨嘉も神琳と出会ってから、たくさんのものを受け取ってきた。
この朋友といつまでも共にいることができるのであれば、それは願ってもないことであった。

「…」

ふと、神琳が雨嘉の頭の上の冠を見たかと思うと、何かを考えているような遠くを見つめる表情に変わった。
かと思うと、急に口元に手をやりくつくつと笑い出した。

「ど、どうしたの神琳…?」

雨嘉は突然のことに困惑しながらも訊ねる。

「くくくっ、いえ、『王』雨嘉さんの頭に冠が載っているだなんて、なんだかおもしろくって、ふふっ」

なおも笑いが止まらない様子の神琳。
雨嘉は神琳のことを理解しているという自負はあるが、彼女の笑いのセンスだけはいまだによくわからなかった。

「ふふふふふっ、あっ」

ひとしきり笑ってから、神琳は今度は何かを思いついたような声を出し、笑顔でこちらを見た。
今度は何かがおかしくて笑っている様子ではなく、静かに目を細めたいたずらっぽい笑みであった。

「雨嘉さん、手をこちらに出していただけますか?」

自身も手を上向きに差し出しながら神琳はそう聞いてきた。
雨嘉の手を自分の手のひらに重ねろということだろう。

「う、うん…」

雨嘉は直前に見えた神琳の表情が少し気になったが、彼女がこちらを害することはないとわかっていたため、緊張を抱きながらもその手の上に自分の手を重ねた。
先ほど触れた時と同じ、少しざらついた手のひらだった。
何をするのだろうと思っていると、おもむろに神琳の背が丸まり顔が下を向いた。
前髪がカーテンのようになり、神琳の顔が隠れた。

「!」

その瞬間、雨嘉の手の甲に暖かく柔らかい感覚があった。
神琳が顔を上げ、先ほどと同じ笑顔をこちらに見せた。

「『王』に捧げる忠誠のキスです、今この瞬間から私はあなたを守る盾となりましょう」
「も、もう、神琳…!からかわないで…!」

突然のことに心拍数が急上昇している。

「からかってなどいませんよ、この命に代えてもあなたを守ります」

神琳は真剣な顔になりそう言った。
元より彼女は親しい人にいたずら好きな面を見せることはあるが、嘘をつくような人間ではない。
雨嘉もそれは心得ていた。

「さあ、もういい時間です。朝食にいたしましょう」

神琳は立ち上がり雨嘉に手を差し出した。
起きた時はあたりが薄暗かったが、気付けばすっかり日が昇り暖かくなっていた。
神琳の手を取り自分も立ち上がろうとした雨嘉であったが、その前に一つだけ彼女に伝えたいことがあった。

「雨嘉さん?」

動きがない雨嘉の様子を疑問に思ったのか、神琳が不思議そうにこちらを見た。

「し、神琳!」
「はい?」

これからいうことに対する緊張のせいか、思ったよりも大きな声が出た。
不意を突かれたのか少し間の抜けた返事が聞こえた。

「命に代えても、なんて言わないで…!私も、あなたを守るから…!」
「…」

神琳は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに柔和な笑みに変わり口を開いた。

「そうですね、失礼いたしました。これからは、いえ、これからも二人で守り合っていきましょう」
「うん…!」

雨嘉は今度こそ神琳の手を取り立ち上がる。
背中を預けられる朋友に出会えたことに感謝しながら、雨嘉と神琳は歩き出した。

~~
「そういえば…」
「?」

食堂へと向かいながら神琳がつぶやいた。

「私は神琳さんを守る誓いとしてキスをしましたよね?」
「う、うん」
「雨嘉さんからは、してくださらないのですか?」
「も、もう…!」


電光石火でご到着!.jpg

電光石火でご到着!【しぇんミリ、一柳隊他】

電光石火でご到着!【しぇんミリ、一柳隊他】



ルドビコ女学院 一柳隊控室 PM 6:00

「ーーというわけで! バトルクロス実証実験の志願者を募集するわ!」

 壇上で真島百由が吠えた。
 東京圏防衛構想の隊内ミーティングでの一幕である。ルドビコ女学院から間借りした一柳隊の控室で百由が新型バトルクロスのプレゼンテーションを行ったのである。装備の名はファストブレイカー、リリィの脚部に装着し機動力を向上させる代物だった。

「ちなみにグラン・エプレからは丹波灯莉さんが名乗りをあげてくれているわ! 一柳隊からも若干名の志願者をお願い!」

 しかし、熱烈なプレゼンを行った百由に対して、一柳隊は水を打ったかのように静まり返っていた。各々は視線こそ百由に注いでいるものの口を開いたり手を上げようとする者はいない。

「あらあら~? この反応はどういう反応なのかしら? もしかしてわかりにくいところがあった? 質問があるならどんと来て頂戴!」
「いや、百由様。そうじゃなくて、いきなりそんな話されてもすぐには返答できんじゃろ」

 ミリアムが困ったように声を発した。

「そのバトルクロス、ファストブレイカーじゃったの、誰かそれを付けて戦ってみて欲しいということじゃったが」

 ミリアムは意見を募るように一柳隊の面々を見回した。みな思案しているような顔つきでミリアムを見返す。それに呼応するように奥の席に座っていた鶴紗が口を開いた。

「隊内でのポジションや役割とかあるからな。その装備、わたしはいいや。ファンタズムで十分機能してるし」
「わしは鶴紗なら結構適任だと思ったんじゃがの」
「……とりあえず、わたしは今のままでいい。悪いな」

 スピード系ファンタズムの使用者である鶴紗は辞退を申し出た。AZでありながら雨嘉などがいる後方のBZにまで気を配って戦う鶴紗は位置取りが上手い。表情からは鶴紗の思惑は読み取れないが、ひょっとすると、日ごろから他の皆が見えていない視点で戦況を俯瞰している鶴紗だからこそ、ファストブレイカーを付けることでポジショニングが崩れてしまうのを嫌ったのかもしれなかった。
 となりに座っていた梅も続いて口を開く。

「今回は梅もパスだなー。手伝ってあげたいけど、梅には縮地があるし」

 梅もまた後方にまで気を配りながら動くリリィだが、百由が示したバトルクロスは自身のレアスキルと嚙み合わないものだった。下手をすると文字通り足枷となり機動力が落ちる可能性すらあった。

「……わたしも遠慮しておくわ。万一、わたしがそれをつけたまま暴走したら止める側が大変な思いをするでしょうから」

 ごめんなさい百由、と付け加えたのは夢結だ。意見は最もなもので、暴走時の制動が困難になることを懸念しての辞退だった。

「大丈夫です! お姉様はわたしが止めます!」
「気持ちは嬉しいのだけれど、流石にあれを装備してたらさすがの梨璃も追いつけないんじゃないかしら」
「きっと追いつけるよう頑張ります!」
「……ありがとう。気持ちだけ受け取っておくわ」

 シルトの梨璃なら本当に止めてしまうのかもしれない、そうは思っても夢結はこれ以上自分が抱える不安要素を増やすわけにはいかず、辞退する意向を変えることはなかった。

「わ、わたしは乗りこなせる自信がないですぅ」
「ちっちゃ過ぎてONにした瞬間空の彼方へぶっ飛んでいきそうですものね」
「ちっちゃいのは関係ないですっ!」

 二水はバトルクロスの特性から使用を辞退した。以前、ミリアムや楓と別のバトルクロス――ブリリアントスピカ――を作成した二水だったが、今回のバトルクロスではそのコントロールに相当なセンスが必要なことを鑑みると装着する気にはなれなかった。
 種々の意見が出される中、雨嘉が神琳に顔を向けた。

「ど、どうしようか神琳」
「雨嘉さんは付けてみたいですか?」
「わ、わたし? えっと、どうだろう……後方の支援すること多いし、付けてもあんまり使わないかも」
「そうですね。BZの雨嘉さんでは使い所が難しいバトルクロスかもしれません」
「神琳は、どう? いつも大体TZだけど……」
「はい。少し悩みましたがわたくしは……」

 神琳がまっすぐに挙手した。

「百由様。わたくし、そのバトルクロス試用に志願いたします」
「お! さすが神琳さん! 助かるわ!」

 立候補を宣言した神琳に注目が集まる。みなの視線を浴びる神琳は迷いのない涼しげな表情をしていた。
 意外な立候補者に楓が声をかけた。

「神琳さん。こういうのに興味がございましたの?」
「はい。楽しそうだな、と思いまして」
「楽しそうって……あなたも結構な変人ですわね」
「え~? 楓さんがそれいいます~?」

 楓の神琳評に対して二水がうろんな目を向けて突っ込みを入れ、楓が「お黙りちびっこ」とぴしゃりと言い放つ。
 神琳は微笑みながらそんな楓の様子を見つめ、そして思っていたことを口にした。

「でも、わたくしが志願しなかったら、楓さんが志願しようと思っていたのではないですか?」
「あら。どうしてそう思いますの?」
「鶴紗さんが仰ったようにポジションと役割です。隊内で一番自由が効くのはわたくしと楓さんだと思いますので「もし神琳さんが動かないなら自分が」とお考えになっていたはずです」
「ふふ。ノーコメントですわ」

 普段なら真っ先にでも自分の意見を述べる楓は発言を保留にしていた真意をうやむやにした。

「じゃあ一柳隊のファストブレイカー被験者は郭神琳さんとぐろっぴでいいわね?」

 意見が出そろったと判断し、百由がまとめに入った。が、

「なんでわしも入っとるんじゃー?!」

 ミリアムの悲鳴が轟いた。立候補した覚えのない自分の名前が読み上げられて衝撃を受けている。

「百由様! わし立候補した覚えはないんじゃが?!」
「だって一機はもうぐろっぴ用に調整して作っちゃってるのよ。フェイズトランセンデンスを発動しても暴走しないように安全機構を備えた特別品よ。かわいいあんよに合わせてサイズも小さめに設計してあるわ」
「この前わしの股から何から足のサイズを測っておったのはそういうことじゃったのか……」
「その通り! 実はそうだったのよ!」
「そうだったのよ!ではない! 事前に一言ぐらい言ったらどうなんじゃ!」
「いやー、てっきりもう言ったつもりになってたわー。わざとじゃないのよ? 度々ごめんねー? あっはははは!!」

 快活に笑い飛ばす百由を諦めの滲んだ目でミリアムが見つめる。叫んだもののミリアムに辞退する気はないらしく、それ以上の文句は言わなかった。

「ねぇ、神琳」 

 ミーティングもお開きの空気に包まれる中、雨嘉がパートナーの神琳に呼びかけた。

「さっき、楽しそうって言ってたけど……」
「はい。ファストブレイカーは機動力の向上と空中での高速移動を実現するバトルクロス。自由に空を翔け回るというのは、楽しそうだと思いまして」
「確かに、そう考えると楽しそうかも」

 雨嘉にとって、百合ヶ丘に入学してから出会った神琳は人生における最大の友人になっていたが、いまだその嗜好は完全には読み取り切れないところがあった。この隣人は物静かにしているかと思えば唐突にひょうきんな一面を見せ始める捉えどころのない性格をしていた。
 百由が会議の締めに入った。

「ではでは、今プレゼンしたように、このファストブレイカーなら空を走れるから障害物を無視して移動できるわ! これは東京圏防衛構想では大きな利点よ! 都心部ではビルが移動や視界の妨げにもなるから、ゆくゆくはレギオン全員に装備させて機動性を生かしたレギオン単位での運用ができるかもしれない。今回の試験機にはいろいろな可能性があるのよ。二人ともぜひガンガン使ってあげて頂戴! ぶっ壊しちゃってもいいからね!」

 百由はいつになく、いや、いつものように情熱に燃えていた。マギで増強されるリリィの身体能力はマギインテンシティの低い場所では制限がかかるが、ファストブレイカーを導入することで移動の大きな助けとなり、摩天楼がひしめく東京内でのリリィの運用に新しい道を切り開く可能性があった。

「百由様。壊してもいいとは言うが、これ使ってる最中に壊れたら大変なことになりそうなんじゃが……」
「うふふ。では、ミーさんとわたくしでペアを組んで移動しましょう。わたくしのが壊れてしまったら、ミーさんが助けてくださいね」
「お。じゃあそうするかの。逆にわしのが壊れたらよろしく頼むぞ神琳」

 試験でもっとも不安な要素である機器が故障したときの取り決めについて約束を交わし合うミリアムと神琳。それを見た百由は一転して恨めしそうな表情で食いかかった。

「い・ち・お・う! 壊れないように作ってあるつもりなんだけどなー!? なんだかシルトに信用されてないみたいで悲しいなー!?」
「いまのは百由様が壊してもいいなんて言ったからじゃろ!?」

 その後、百由とミリアムと神琳はルドビコの野外訓練場でファストブレイカーの試乗を行い、翌日の出撃に備えることになった。空を駆けるバトルクロスの試乗は入念に行われ、夜遅くまで続いたのだった。



翌日
ルドビコ女学院 野外訓練場 AM 9:00

「お待たせいたしましたみなさま」
「待たせたのう」

 ルドビコの工房で最終調整を終えたバトルクロスーーファストブレイカーを装着したミリアムと神琳が一柳隊に合流した。2人は爛々と白銀に輝くバトルクロスをその両脚に纏っており、地面を歩くたびに硬質な金属の音がカシャカシャと鳴った。

「自分でいうのもなんじゃがロボットになったみたいじゃのう、これ」
「スラスターをONにせず歩くと、厚底のブーツを履いているような感覚がしますね」

 興味深げに面々が二人のバトルクロスを見つめる中、雨嘉が神琳に声をかけた。

「今日はアステリオンにしたんだね……」
「ええ。せっかくですから機動力を活かした攻撃寄りの編成にしてみようと、昨夜ミーさんとお話をしたんです」

 普段、媽祖聖札(マソレリック)を使用することが多い神琳だったが、タッグを組むミリアムと連携について意見交換をした結果、媽祖聖札ではなくもう一つ愛用しているCHARMのアステリオンを使用することに決めたのだった。3段変形機構を備えるアステリオンはレンジを選ばない攻撃が可能なCHARMであり、高速でポジションを移動する戦術を取るならば良い選択肢の一つだった。

「わたくしの場合、テスタメント使用時は防御に特化する戦略を採っていますが、昨日、訓練場で試用した感じだとこのバトルクロスなら回避型での運用も十分できると判断いたしました。媽祖聖札のコンセプトは防御重視ですからね。ファストブレイカーではアステリオンの方がいい結果を出せるはずです」
「神琳、会議の後で、夜遅くまでミリアムと訓練してたもんね」
「うふふ。あれを訓練というには、少しばかり楽しみすぎてしまったきらいがあります。わたくしが空を翔ける様を早く雨嘉さんに見ていただきたいです」

 昨晩に行った試乗訓練は大半がミリアムと神琳の鬼ごっこだった。単に鬼ごっことは言っても”空中”を駆けまわる鬼ごっこだったのだが。

「それでは梅様。お手数ですが、わたくしたちのポジションの穴埋め、よろしくお願いいたします」
「任せろ。梅の後ろは、雨嘉、よろしくナ!」
「は、はい。頑張ります!」

 フォーメーションの変更に伴い、神琳が梅にポジションの代行をお願いした。梅の仕事量は増えるが、梅の実力なら支障をきたすことはないだろうと思われた。

「それでは出撃前に最後の確認ですけれど、今日は神琳さんとミリアムさんが遊撃、つまりポジションを意識しない形で攻撃手を担う。梅様はお二人の穴埋め。指揮はわたくしに一任。ということでよろしいですわね?」

 司令塔を一任されることとなった楓が全体に聞こえるよう話を振った。

「はい。指揮役の楓さんの負担も増えてしまいますが、よろしくお願いしますね」
「頼んだのじゃ楓」
「この程度なんの事もありませんわ。存分に動き回ってくださいまし」

 ブリーフィングを終え、いよいよファストブレイカーのお披露目となる午前の哨戒が始まった。



東京 都心部 AM 11:00

「おりゃあああああ!!!!」

 雄叫びを上げながらミリアムがCHARMを振るう。神話の如くニョルニールの鉄槌を下されたヒュージの頭部が爆発飛散する。

「破っ!」

 それに連なって、アックスモードのアステリオンを振り回しながら神琳がコマのように駆け抜ける。重力を感じさせない自由な軌道は稲妻のようにマギの軌跡を描き、神琳という雷撃に打ち砕かれたヒュージが散って消えていく。

「これは楽しいですね」

 上機嫌の神琳がめずらしくCHARMフリップを行った。空中に投げたアステリオンはくるくると回転しながらシューティングモードへ形を変え、神琳の掌へと吸い込まれるように落ちた。アックスモードから一転して、神琳はヒュージの群れを弾丸で撃ち抜きはじめる。

「今日のわしは一味違うぞー-!!」
「うふふ。一味違うミーさんも素敵です」

 ファストブレイカーを付けた二人は連星となって重なり、離れ、回転し、次々とヒュージを下していった。

「おー。百由が力説するだけあって、結構早いナ」
「あの神琳さんの動き、目を回しちゃいそうですぅ」

 いま一柳隊は、哨戒中に会敵したヒュージとそのケイブの掃討を行っていた。
 開戦してすぐ、バトルクロスの有効性は誰の目にも明らかなものとして映った。ファストブレイカーは防衛圏に出現した空を飛ぶ小型のヒュージに絶大な効果を発揮していた。

「マギの消費がちと重いが、なかなか使えるのう」
「回避を意識するまでもない、という感じですね。ほとんどのヒュージはこちらの動きを捉えられないようです」
「わっははは! 入れ食いじゃの! 今日はわしらの独壇場じゃー!!!」

 ミリアムは有頂天に達していた。いまだかつてない自身の戦果にすっかり酔いしれていた。

「ミーさん! 流石に突出しすぎです! 少し後ろへ引きましょう!」

 アステリオンをシューティングモードに切り替えながら神琳が叫び、浮かれた相棒に注意を喚起した。ポジションを意識しない遊撃の立場ではあったが、隊から離れすぎると不測の事態に対応できなくなる。二人は空中を移動できるので分断されることはなさそうだが囲まれて狙い撃たれるとどうなるかわからない。何より初めての実践投入なのだから用心するに越したことはなかった。

「了解じゃ! でも昨日はできんかったことをやりたい! ゆくぞ神琳!」
「できなかったこと?」

 いったい何を?
 そう神琳が思った矢先、ミリアムが動いた。

「フェイズトランセンデンス!!」
「ミーさん!?」

 それはまさに雷光だった。
 マギの奔流、吹き荒ぶ戦斧の乱舞がヒュージの群れを駆け抜けて一瞬で遠方のケイブにまで達し、見事に破壊せしめたのだ。

「ミリアムさんすごいでずぅ!! あんな遠くのケイブまで一瞬で!!」
「ちょっ!? あのお馬鹿! 一人でどこまで行ってるんですの!」
「ぜんぜん了解してなかったなあいつ……」

 ミリアムの雷跡は一柳隊から遠く離れ、数百メートル先の高層ビルの頂上付近にまで伸びていた。
 粒の様に小さくなったミリアムがCHARMを振り上げて勝鬨を上げる。

「わーーはっはっはっはっは!! 見たか皆のもの!! これがわしの真のじつりょ

ーーボボンっ!

 フェイズトランセンデンスの負荷に耐えきれなかったのか、ミリアムのファストブレイカーが火を吹いた。美麗なバトルクロスからキラキラと金属のパーツが剥がれ落ちていく。ミリアムは欠損して幾分軽くなった自分のバトルクロスを見つめた。

ーーあ。これ、ダメなやつじゃな」

 高層からのミリアムの自由落下が始まった。

「うわあ!! なにやってんだあいつ!! 間に合うか!?」

 凶事に梅が顔色を変えて縮地を発動しようとし、

「わたくしが行きます!!」
「神琳!?」

 梅は飛び出した神琳の背を見送った。
 神琳のファストブレイカーが輝き、光のように真っ直ぐミリアムのもとへと向かう。

「ーー破っ!!」

 ファストブレイカーの駆動に合わせ、神琳はアステリオンを肩に担いでバスターを後方へと撃ち放った。アステリオンの砲撃が神琳をさらに加速させる。バスターの連撃とファストブレイカーの加速によって遠く離れたミリアムへ一気に距離を詰めていく。しかし、

ーーギィィィィ!

 ヒュージの群れが落ちゆくミリアムの体を啄もうと殺到していた。水面のエサに食らいつく稚魚のような光景だった。
 全力で駆けて神琳はミリアムの落下地点に滑り込む。
 そして直下に達すると同時、CHARMをアックスモードに持ち変えて天の害魚の群れを睨みつけた。

「お退きなさい!」

 摩天楼を突き抜けるように神琳が打ち上げられた。マギを使い切る勢いでぐんぐんと上昇し、ヒュージを叩きのめしながら昇っていく。神琳はそれまでの華麗なCHARM捌きから一転して乱雑にアステリオンを振り回す。CHARMの取り扱いに気を回す余裕はなかったし、その必要もまたなかった。爆発的な推進力がそのまま攻撃力となっているからだ。

「やぁあああああっ!!」

 鎧袖一触。
 帰還雷撃のごとく天へと爆ぜた神琳は渦を巻きながらヒュージを蹴散らし、ミリアムの元へ到着した。

「ミーさん!」
「神琳!」

 CHARMを放り捨ててミリアムを両腕で受け止めにいく神琳。無事にミリアムをフライングキャッチした神琳はゆっくりとビルの間を滑り降りていく。

「助かったぞ神琳! ありがとうじゃ!」
「もう! ありがとうじゃじゃないですよ! 突然飛び出したのでびっくりしたじゃないですか!」
「す、すまぬ……ちゃんと自分で帰るつもりだったんじゃが、まさかほんとに壊れるとは……」

 申し訳なさそうに言ったミリアムは自身のバトルクロスに目をやった。壊れないように作られたはずのミリアムのファストブレイカーは無惨に損壊し、煙を吹いている。

「なぜ壊れてしまったのかは百由様に見てもらうとしましょう」
「うぅ、ほんとにすまぬ」
「でしたら、今日はミーさんの髪を洗わせてくださいな」
「……へ? な、なんで髪なんじゃ?」
「洗ってみたかったんです、ミーさんの髪」
「ど、どうして?」
「洗ってみたいんです」
「……それは、べつにいいんじゃけども……」
「では、今夜はお風呂でよろしくお願いしますね」

 うふふふと、神琳の笑顔に得体のしれない圧を感じたミリアムだったが、断る術も理由もなく「髪の毛を洗わせる約束」が成立したのだった。

「さあ。とにかく、今はみんなのところへ戻りましょう」
「う、うむ。そうじゃな! 頼んだぞ神琳」
「はい。落ちないようにしっかりわたくしにつかまっていてください」

 小さな姫を抱えた神琳は一柳隊のもとへと自らの白馬を駆る。
 思いもよらぬ拾い物をした気分で、神琳は上機嫌になっていた。
 ファストブレイカーが吹く黄金色のマギが流星のように東京の空を流れた。 



ルドビコ女学院 一柳隊控室 PM 1:00

「壊れた原因は高速移動中のヒュージとの接触ね。スペースデブリって知ってるかしら? 小さな破片でも衛星軌道上のゴミは静止している物体に対して恐ろしいほどの相対速度を持つから衝突した場合壊滅的な被害を生むのよ。リリィが加速中に壁にぶつかったりしても大丈夫なようにバトルクロスに障壁を組み込んではいるんだけど、あの速度でのヒュージとの接触は想像以上の衝撃だったようね。マギがからむ部分だからどうしても実戦じゃないとわからないところがあって、ごめんねぐろっぴ、わたしの計算が甘かったわ。プログラムじゃなくて設計段階での速度上限を下方修正した方がよさそうね」

 一息に説明し終えた百由は無事に帰ってきたミリアムの頭をぐしゃぐしゃと撫で繰り回した。

「いや百由様。わしがフェイズトランセンデンスしなければ事故は起きておらんかったのじゃろ。わしの方こそすまぬな、せっかくのバトルクロスを壊してしまった」

 そう言って、されるがままのミリアムがしゅんと申し訳なさそうに目線を下げた。一人で突貫してしまったことを深く悔いているようだった。

「? いえ? 何を言ってるのよぐろっぴ? ほんとならフェイズトランセンデンスを使っても壊れないはずだったのよ? あんなに出力が上がってたなんて……全くもう! 成長しすぎよ! 毎週レアスキルの出力を測定して報告してもらわなきゃいけないレベルだわまったく!」
「なんか釈然とせんぞその物言い!?」

 わちゃわちゃとする二人の疑似姉妹の横で神琳は顔を綻ばせた。トラブルもあったけれど、隊内で誰一人怪我もなく無事に試験を終えられたことをみなが喜んでいた。

「神琳さんもありがとうね。うちのシルトを助けてもらっちゃって」
「うふふ。とんでもありません。それに、わたくしはたくさん楽しませていただきましたし、ミリアムさんからご褒美も頂きますからお気になさらないでください。とても素敵なバトルクロスでしたよ。さすが百由様です」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。改良品ができたらまたお願いしていいかしら?」
「ええ、こちらからもぜひお願いいたします」

 にこにこと約束を交わす二人を横目で見ながらミリアムは

(……わしはもうやめておこうかの)

と自戒の念を強めるのだった。



電光石火でご到着! 終わり


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放課後のミューズ【壱、樟美】

放課後のミューズ【壱、樟美】

 廊下には誰もいなかった。

 日没が近く、薄暗い影を落とす廊下にはピアノの音が響いている。新校舎の廊下の突き当り、最奥にある音楽室から誰かの演奏が聞こえてくる。くぐもって反響した旋律は、廊下のすみずみまでをノスタルジックに染めあげて、終末的な抒情に拍車をかけている。
 そう、放課後の音楽室。
 あの日の光景が重なって湧きあがった寂寞が、わたしの胸を締め付ける。もう恐れる必要なんてないのに、いますぐ自分の部屋に引き返してしまいたくなる。まるで裸足で砂利の上を歩くような心地だった。一歩一歩が重く、自分の体重が足の裏にのしかかると痛みを伴って歩みを遅らせる。音楽室を訪ねるだけ、ただそれだけのことなのにわたしの中の古いわたしは何事かを恐れて「止まれ」「引き返せ」と叫んでいる。

 あの日、彼女の演奏を隠れて聴いていたあの時間を思い出す。
 血を流したような黄昏がわたしといっちゃんに降り注いでいた放課後。
 仲たがいをした直後、どうにか仲直りをしようと音楽室の前まで来て、とうとう勇気を出せなかった弱いわたし。ひとり校舎の外に出て、外の窓越しにいっちゃんのピアノと歌声を盗み聴いていた卑屈なわたし。記憶を掘り起こさなくとも、わたしの心象の浅いところにいっちゃんのピアノが刻まれている。
 あの日のいっちゃんの旋律には棘があった。指弾の力みは暴力的な余韻を孕み、質量をもってわたしの心を打ち叩いた。わたしは連なって去来する音の表情の中に、わたしを叱責するいっちゃんの表情を見た。あのときのいっちゃんが何を考え、何を感じ、何を発散しようとしていたのかはもうわからない。窓の向こうの音楽室の世界をわたしはついぞ見ることができなかった。ただ事実として、彼女の演奏を変質させたのはわたしとの不和であることは明らかだった。
 中学生の終わり、すぐ傍にまで来ていながら、わたしはいっちゃんに声をかけることができず、赤く燃え上がるような夕暮れを見つめたまま、身動きできずに彼女の演奏を聴いていた。夕陽は嘘みたいに赤かった。世界中の黄昏がいっぺんにやってきて、すべての時間を終わらせてしまい、いまにも世界を閉じようとしているかのようだった。

 その日から、わたしがピアノに向かういっちゃんの姿をみることはなくなった。わたしは部屋に引きこもり、人との交わりを絶った。

――ぽろろん。ぽろろん。

 そしていま、懐かしい響きが耳に入ってきている。
 今日、わたしはあの日遠ざけた音楽室に足を向けていた。

――たららたららた。たらたらたらら。

 あの日と違うのは旋律の音色だ。棘はなく冷たさもない。暴力を感じさせないそれは軽やかに響き、少しずつわたしの心を解きほぐしていく。

――たらら。たららら。

 廊下を進み、ついにわたしは音楽室の前まで来ていた。もはやピアノの響きは力強い波濤となってわたしの体を震わせていた。
 演奏の邪魔をしてはいけない。
 そう思って、わたしはドアをノックせずにそっと引き戸を開けた。

 視線の先に、いっちゃんはいた。

 西日に照らされた音楽室で、指揮者のように体を揺らしながら指先を鍵盤の上で躍らせている彼女は、ただ学生ではなく一人の演奏者だった。もうとっくに完成されていて、手を加えるところのない芸術品の様にいっちゃんは存在していた。音の波の中にいっちゃんの歌声が乗っかって、わたしの耳を攫ってゆく。

Le ciel bleu sur nous peut s'effrondrer
青空が落ちてくるかもしれない

Et la terre peut bien s'écrouler
そして、地球は滅びるかもしれない

Peu m'importe si tu m'aimes
愛してくれてもいいじゃない

Je me fous du monde entier
世界なんてどうでもいい

Tant que l'amour inondera mes matins
わたしの朝が愛で溢れる限り

Tant que mon corps frémira sous tes mains
あなたの手でわたしの体が震える限り

Peu m'importent les grands problèmes
どうでもいい問題よ

Mon amour, puisque tu m'aimes...
わたしの愛を、あなたがわたしを愛しているから



 海の向こうの歌だった。そして距離以上に時間を隔てた歌でもあった。わたしはそれの来歴を知らないけれど、いっちゃんが「しゃんそん」と言って教えてくれた歌の中にこの曲があったのを思い出した。つい数年前のことなのに、ひどく懐かしい。ずっとずっと、音楽室で止まっていた時間がいま、ネジを巻きなおしたように動き始めるのを感じた。
 いっちゃんはわたしには気付いていない。鍵盤に向き合い、曲と対話を続けている。

――――。

 いっちゃんが口遊(くちずさ)むものならなんだって美しく聞こえる。いっちゃんの喉の奥から響いてくるものがリルケの悲歌(エレジー)でも、この世を恨む怨嗟の呪詛でも、わたしはその言葉の意味よりも、彼女の声そのものに価値を見出すだろう。黄金は輝きを失わない。いっちゃんの歌声はわたしの心の中を通り雨のように流れていく。渇いていた私の表層は慈雨に濡れて潤いを取り戻し、萎れかけていた花が葉や茎や根の全身を使って恵みの水を享受する。五感を研ぎ澄ませ、彼女の全身が発する表現を汲み上げようと、わたしは目を閉じて耳に意識の根を張る。瞼の裏で、わたしはいっちゃんを幻視する。いっちゃんはわたしには気付かない。鍵盤の世界に没頭する彼女は、まるで愛する人にすべてを捧げるように、殉教する勢いで一身に演奏を続ける。演奏中は、彼女はわたしという観客(ノイズ)に決して気付きはしないのだ。

 ピアノを弾いているいっちゃんが好きだ。
 わたしの知らない歌を歌ういっちゃんが好きだ。

 あの日の感情の残り火は、わたしの中でまだ燻っている。燃えるような黄金色の夕陽の中、喜怒哀楽の感情がぐるぐると風車の様に回転して心をかき乱す。散り散りになりそうな思いは、過去と決別できない未練たらしいわたしの残照そのものだった。
 アールヴヘイムの再編はわたしといっちゃんの関係の回帰でもあった。ほつれ、からまり、誰にもどうにもできなくなったわたしたちの糸を、天葉様たちが、回りの人たちが丁寧に解きほぐし、修復してくれた。決して、わたしの力で成った修復ではなかった。だからきっと、わたしはそんなに強くなれていないのだ。困難を自分の力で乗り越えたというような感慨は一切なく、善き友人と先輩とに恵まれた幸運に感謝することしかできなかった。

――ぽろろん。ぽろろん。ぽろん。

 演奏が終わる。
 わたしといっちゃんの関係は、すくなくとも、表面上は修正されている。お互いの心には楔が打ち付けられていてきっとまだ抜けていない。ひょっとすると、一生抱えて生きていくものなのかもしれない。それでも、いっちゃんの演奏をこうやって間近で見ることができるようになったのは、ほんとうに夢のような出来事で、幸せなことだった。

「いっちゃん」

 わたしは声を出した。
 きっと、次の瞬間には驚いたいっちゃんの顔がわたしを捉えるだろう。そしてわたしは曖昧に笑いながらいっちゃんの歌と演奏を心から称えるはずだ。少しぎこちなくても、ふたたび彼女の隣で耳をすませ、穏やかにその歌声を感受できる喜びを伝えるはずだ。わたしは弱いままだけれども、この一年でどうにかそのぐらいのことならこなせる小さな勇気を身に着けることはできた。頑張れば、あの日の放課後に置き去りにした言葉や思いも伝え合えるかもしれない。ファンタズムは役に立たない。わたしは欲しい未来を掴むために、いっちゃんに送る次の言葉を探した。



放課後のミューズ【壱、樟美】 終わり