「」岐の妄想記Ⅴ

Last-modified: 2022-09-29 (木) 16:28:00

素晴らしきリリィたちの尊い触れ合いについて考えるだけで「」岐はもう……

ルームメイトの手引き【祀、夢結、聖】

ルームメイトの手引き【祀、夢結、聖】
※作家会議のお題「引っ越し」で書いたもののお出ししなかったやつですわ。

ラストバレット未登場のリリィ:
①谷口聖(たにぐちひじり)
 夢結様と同じ2年生。1年生時の夢結様のルームメイトで六角汐里さんのシュッツエンゲル。
②明石愛華(あかしあいか)
 聖さんの相棒。初代アールヴヘイムのAZ3トップの一角。ある戦闘で行方不明となる。

☆☆☆☆

「また雨」

 放課後、生徒会へ寄せられた予算申請書の束をめくっていたところ、夕立が窓をたたきはじめた。
 急ぎの書類ではなかったがさっさと片付けておこうと残務にいそしみ、生徒会室にはもう私しか残っていない。 
 眺めるうちに窓ガラスを伝う雫が一つまた一つと増えてゆく。

「荒れなければいいけれど」

 暦の上ではとうに梅雨は明けているのに雨脚はひっきりなしに鎌倉を踏みつけてゆく。
 机から身を乗り出して窓の向こうを見上げると乱雲の遠いところで稲光りが見えた。
 しかし遠雷の煌めきは見えても、その轟きまでは響いてこない。
 聞こえるのは雨が葉や窓を打鍵する音ばかりだ。
 雨はみるみるうちに勢いを増し、雨音のテンポは際限なくあがりつづける。

「しばらく止みそうにないわね」

 窓外に広がる鎌倉の遠景は白く煙り、白雨が相模湾の洋上までヴェールをかぶせるように覆ってゆく。
 空模様を見るかぎり通り雨などではない。
 雨水で歪んだガラスの向こうに、野外演習を中止した生徒たちがぽつぽつと校舎へ引き返してきているのが見えた。
 通常は雨が降ったぐらいで訓練を中止したりはしないが、雨量や雷によっては取り止める場合がある。
 判断は隊長に一任されるが、いまの天候では中止か続行か、ベテランのリリィでも意見がわかれるところだろう。
 実際、校舎へと戻るリリィとは反対に、幾人か校舎から旧市街へとくりだしてゆく姿も見える。
 雨天では当然、怪我などのトラブルが増える傾向にある。
 みんな無事に戻ってきてくれることを祈った。

「……夢結」

 そういえば今朝、今日は野外演習を行うのだと夢結が言っていたのを思い出した。
 一柳隊はまだ訓練を続けているのだろうか。
 きっと夢結ならこの天候でも訓練を続けるだろう、隊長である梨璃さんもそういう性質に思える。

「――」

 そのときだった。
 雨に濡れる夢結の姿を思った私の脳裏に忽然と昔の記憶が蘇ってきた。
 高等科1年生の冬。
 英霊墓地に一人で佇む少女の背中。
 雨のように泣いていた彼女。
 私と夢結がルームメイトになるきっかけの出来事。

☆☆☆☆

 もちろん夢結のことは以前から知っていた。
 ただ、意識するようになったのは甲州撤退戦の後、彼女がシュッツエンゲルを亡くしたという話を聞いたとき。
 当時、帰還直後の夢結は見るに耐えない状態だった。
 白井夢結がシュッツエンゲルである川添美鈴様を亡くしたという話には、夢結が誤ってシュッツエンゲルを殺してしまったのではないかという噂もついていたのだ。
 同情が向けられる一方で、夢結には猜疑の目も確かに注がれていた。
 結論から言えば、美鈴様死亡時の状況は不明のままで真相はわからない。
 夢結が殺したという確たる証拠もなく、現場の混乱のためか美鈴様の遺体も回収されずに行方不明のままだったことや、夢結自身の記憶も判然としないこともあり、夢結に処分が科せられるようなことはなかった。
 ただ粛々と遺体の無い葬儀が執り行われた。

「きっと私が殺したのよ」

 真新しい墓碑の前、くずおれた夢結が絞り出した悲鳴を、当時の生徒はみんな聞いている。
 誰が罰を下さずとも、責めずとも、夢結自身は自分を疑い、許すことができなかったのだ。
 夢結は葬儀にこそ並んだものの授業に出られるような状態ではなかった。
 ともするとこのまま休学するか、あるいは百合ヶ丘を去るかと思われた。
 しかし、どちらに転ぶこともなく、夢結はアールヴヘイムに復帰して授業にも出席するようになる。
 心神喪失にあった彼女を部屋から連れ出すことに成功したのは当時のルームメイトである谷口聖さんの働きだ。
 聖さんは初代アールヴヘイムのメンバーでもあり、夢結に一番寄り添っていた人物のひとりだったと思う。
 けれど、授業に顔を出すようになった夢結は、表情というものを失っていた。
 泣きもせず笑いもしないとはこのことか。
 日常の営みに戻ってきた彼女は、しかし、誰から見ても完全に心を閉ざしていた。

「夢結さん、またよろしくね」

 久しぶりに顔を合わせたその日、私は、ほとんど当たり障りのない言葉をかけることしかできなかった。
 シュッツエンゲルを亡くした夢結。
 彼女が抱える痛みをすこしでも共有できればと思った。
 しかし、実際は前述の通り、夢結を前にすると適切な言葉は見つからず、曖昧な挨拶を交わすだけにとどまった。

「心配をおかけしました。でも、もう大丈夫です」

 視線を合わせず、抑揚のない声で夢結は言った。
 自分を心配する必要はないのだと、こちらの意図を拒絶するような言い切りよう。
 いや、それは明確に拒絶だったのだ。
 きっと何人もが夢結に憐れみを向けていた。
 夢結はそれをよしとせず、かけられる言葉を固辞し、差し伸ばされる手も取ることはなかった。
 その頑なさは、立ち直ることを諦めたようにすらみえた。
 日常に関する必要最低限の営みだけをこなして、夢結はそれ以上を行わない。
 まるでリリィという機械になろうとしているかのようだった。
 そして時間が過ぎてゆく。
 ヒュージは待ってくれない。
 由比ヶ浜ネスト。
 大磯海底谷ネスト。
 甲州から越境するヒュージ。
 死を撒き散らす災厄はどこからでも現れる。
 アールヴヘイムに戻った夢結は戦いに没頭し、ヒュージを殲滅していった。
 気付けば私たちは中等部を卒業して、高等科へ進学していた。
 さらに晩春になるとアールヴヘイムが解散し、メンバーはそれぞれの道を歩み始めたが、夢結はどのレギオンにも属さずにソロのリリィとして活動するようになった。
 夢結を引き込もうとするレギオンはあったが、結局、誰も夢結の心を動かすことはできなかったのだ。
 自ら孤立してゆく夢結をなんとか繋ぎ止めようとして、梅さんや聖さんが必死に足掻いていたのを覚えている。
 私は夢結と同じ櫻組だったけれど、いまのような近さはなく、友人ともクラスメイトともとれる距離でしかなかった。
 少なくともルームメイトになるような関係ではなかったはずだ。
 そんな私たちを決定的に変えたのは嬉詩(うた)の死なのだろう。

 山田嬉詩。

 嬉詩は私のいっこ下の幼馴染で、百合ヶ丘の高等科に来たら契りを交わす約束をしていた。
 しかしその約束は大磯ネストのヒュージが溢れたその日、叶わなくなった。
 押し寄せるヒュージから住民を逃がすために嬉詩は武器を持たないまま戦ったのだ。
 リリィである以上はお互いに戦死する覚悟はしていたはずだったが、私はどうしても嬉詩が死んだあの状況に納得することができなかった。
 大磯ネストは百合ヶ丘が抑える所轄だったにも関わらず、CHARMを持たない中等科の生徒が動かざるを得なかった状況を思うとやりきれない。
 高等科のリリィが外征に出払わずもっと残っていれば、あんなことにはなっていなかったのではないか。
 墓石の前に立つたびに、嬉詩の死は防ぎえたのではないかという疑念と哀傷に胸を焼かれる。
 嬉詩を失ったあとの私にはもはや夢結のことを考える余裕は残っていなかった。
 だが、皮肉にもそこに私と夢結の接点が生まれることになる。
 私と夢結とが交差しうる唯一の接点。
 過去に向き合うための場所。
 百合ヶ丘の英霊墓地。

☆☆☆☆

 その日の朝は晴れていた。
 年の暮れ、私は休日の朝を嬉詩の墓掃除に当てており、英霊墓地へと足を向けていた。
 墓所は見晴らしの良い鎌倉の山頂にあり、切り立った崖の上からは旧鎌倉市を含む相模湾を一望できる。
 本来ならば悠々たる蒼海が視界いっぱいに広がり、ちょっとした景勝となるのだろう。
 しかし、遼海を眺望したとき、まっさきに見えるのはただの海ではなく海面から昇り立つ雲がとぐろを巻いている姿だ。
 天を衝いて立つヒュージネストの威容がそこにはある。
 鎌倉府・柒号・S級・由比ヶ浜ネスト。
 死者に安らぎを与えるための景色すらヒュージに脅かされている現実が、趣味の悪いモニュメントとしてカタチを成しているかのようだった。
 墓碑を参拝するたび、私たちは否応なく暗雲を纏うヒュージネストにも向かい合うことになる。
 由比ヶ浜ネストのさらに西には、相模トラフ北端に巣食う大磯海底谷ネストが存在しているが、視界は由比ヶ浜ネストが発する雲海に遮られて普段は見えない。
 私の本懐は由比ヶ浜ネストではなく大磯ネストの討滅にあったが、ヒュージの巣を前に抱く感情に違いなどない。
 できることならば防衛ではなく私たちはあのネストへ侵攻すべきなのだ。

「嬉詩……」

 墓所の一角で、嬉詩と向かい合う。
 借りてきた水桶から柄杓を使って石碑を洗い流し、水の滴る墓石の表面をタオルで拭ってゆく。
 ここの墓はすべて学園が管理しているため定期清掃が入っている。だから汚れなど軽微なものだったが自分でやらずにはいられなかった。私が嬉詩にできることはもうこれぐらいしかないのだ。
 しかし、どんなに丁寧にやっても掃除にたいした時間は掛からない。
 嬉詩を拭き終えた私はそのまま墓石の前に佇んでいた。

「……」

 冥福を祈るでもなく、いままでのこと、これからのこと、リリィとして自分がやるべきことに思い馳せる。
 墓所は静かで、冬の冷たい風が耳を撫でてゆく音が聞こえるぐらいだ。
 どれぐらいそうしていたのか、ふいに背後でクシャリと枯葉が踏まれる音がした。
 振り向くと墓所の入口に誰かの姿がある。
 夢結だ。

「夢結さん……?」

 向こうも私に気付いたようだ。
 私と視線があった夢結は足を止め、さっと顔を背けた。

(どうしてここに……)

 そんな馬鹿な疑問が浮かび、すぐに美鈴様のことを思い出した。
 そうだ。ここにはあるのは嬉詩のお墓だけじゃない。
 そんなことも失念していた自分の余裕のなさに小さな驚きを覚え、夢結に話しかけるべく歩み始めた。
 夢結は墓所の入口に立ち止まったまま動かなかった。

「ごきげんよう、夢結さん」
「……ごきげんよう」
「あなたも、よく来るの?」
「……」
「私は掃除をしにきたの。なんだか、自分でやらないと気が済まなくて」
「……そう」

 夢結は話をしたくない。
 この場所では、きっと。
 ここは美鈴様に近すぎる。

「もう行くわ。またね」
「……ええ」

 シュッツエンゲル(美鈴様)を失った夢結。
 シルト(嬉詩)を失った私。
 似たような境遇だったが、かけるべき言葉はやはり見つからず、私はそのまま墓所を背に山を下りはじめた。
 途中で振り返ったが、夢結の姿はもう入り口にはなかった。
 道すがら、掃除用具を墓所の管理所に返したところで雨が降り始めた。
 ぽつぽつ、ぽつぽつと、ゆっくりとだが冷たい雫が徐々に勢いを増してきていた。

(きっとこのまま帰ったら濡れちゃうわね)

 管理所から百合ヶ丘まではすこし距離がある。
 季節はすっかり冬であり、冷雨に体を濡らせば風邪を引いたりするかもしれない。
 ここの電話を借りて寮の友人に傘を持ってきてもらうように頼むしかなさそうだ。
 それにしても、傘を持ってこなかったのはうかつだった。
 どうも最近、いや、嬉詩がいなくなってから私は注意散漫になっている。
 朝に天気予報をチェックしていればこんなことにはならなかったはずだ。

(夢結もすぐ降りてくるかしら)

 英霊墓地に雨宿りをするような場所はない。
 雨に気付けばきっと夢結も降りてくるだろう。
 さっき、夢結は傘を持っていなかった。

「すみません。傘をお借りできますか?」

 事情を説明して墓所の管理人に傘を借りる。
 雨足はだんだんと強まっている。夢結を迎えに行ったほうがいいと思った。
 おりてくる夢結と合流してこの管理所まで避難し、友人に寮から傘を持ってきてもらえばいい。夢結のルームメイトの聖さんならすぐに来てくれるだろう。
 私は管理所を出て、墓所に延びる山道をまた登り始めた。

(本格的に降ってきたわね)

 曇天から落ちる雨粒がざぁざぁと音を立てている。
 夢結は大丈夫だろうか。
 私は小走りで舗装された道をのぼってゆく。

(……おかしい。まだ夢結と出会わない)

 私はもう墓所のすぐ傍までのぼってしまっていた。
 夢結がおりてきているのならもう出会っていなければ変だ。
 一本道だから入れ違いになるはずはない。
 ひょっとして上で雨宿りでもしているのだろうか。
 しかし、墓所にはそんな場所はなかったはずだ。
 山肌にある木々の下にでも隠れたのか。

「まさか」

 嫌な予感がした。
 私は走った。
 そして墓所の入口を通り抜けたところでようやく夢結の背中を見つけた。

「夢結さん!!」

 夢結は立っていた。
 冷雨に打たれながら、墓石の前に佇んでいる。

「何をしているの!?」

 そう叫ぶ私の息は白い。
 いまの気温は何度だろうか。
 このままいたら風邪どころか低体温症になってもおかしくはない。
 私は夢結へ駆け寄り、傘の中に入れた。

「雨が降ってるのにどうして」
「わたしに構わないで!!」

 怒鳴りながら夢結が一歩離れた。
 雨の中に戻った夢結は俯いたまま動かない。

「何を言ってるのよ。そんな状態で放ってなんて置けないわ」
「……いいのよ」
「よくないでしょう」
「平気よ」
「平気じゃないでしょう!?」

 私を拒絶する夢結の肩は震えていた。
 俯いた横顔に覗くその唇は寒さのために青白く血色を失っている。
 このままではいけない。

「……いっしょに戻りましょう。そのままじゃ風邪をひいてしまうわ」
「放っておいて。どうせ雨なんかじゃ死にはしないわ」
「死にはって……」

 こんなに自棄になっている夢結を見るのは初めてだった。
 美鈴様の死からもう一年以上経っている。
 もちろん夢結が完全に元に戻ったなどとは思っていなかったが、いくらかは立ち直っているはずだと心のどこかで決めつけていた。
 しかし、いま目の前にいる夢結はあの頃の、甲州から帰還した直後の彼女と変わりがないように見えた。
 この子の時間はあの日からずっと止まったままだったのだろうか。

「こんな雨の中にいたらダメよ。わかってるでしょう?」
「……」

 私は一歩近づいて夢結の頭上に傘を掲げた。
 ゆっくりと手を伸ばして、夢結の肩に手を添える。
 震えている。

「あなたが風邪を引いたらルームメイトの聖さんも心配するわ」 
「……聖」

 聖さんの名前に反応した夢結は、俯いたままだったが私の方を向いてくれた。

「寮へ戻りましょう? ね?」
「私は……戻れない」
「戻れない? どうして?」
「私は、あの子の傍に、いるべきじゃない」

 夢結が何を言っているのかわからなかった。
 いるべきじゃないとは、どういう意味なのか。
 聖さんと何かあったのか。
 考えを巡らしたが思い当たることは何もない。

「聖さんはそんなこと思ってないと思うわ。ルームメイトでしょう?」
「私はルームメイトにふさわしくない」
「……どうしてそう思うの?」
「……」

 夢結が顔をあげた。
 視線が合う。
 雨水を吸った夢結の前髪はべっとりと額に張り付き、その下にある柳眉は悲痛に歪んでいた。
 しばらく、私と夢結はそのまま見つめ合ったが、不意に夢結が視線を横へと向けた。
 それはいつものような他人の目から逃げる素振りではなく、何かを示すような視線の動き。
 私が夢結の目の先を追うと、墓石があった。
 墓碑銘は川添美鈴……ではない。
 別人の名前だ。
 私はそこでようやく、夢結が佇んでいたのが美鈴様の墓の前では無かったことに気がついた。

「このお墓は……」
「……椿組の子」

 椿組。
 聖さん。
 何かが繋がった。

「聖が傷ついていても、私は何もできない……」

 雫が夢結の頬を流れてゆく。

「クラスメイトが死んで……愛華さんがいなくなって……聖が傷ついていても……私は自分のことばかりで彼女になにもしてあげられない……」

 今年の話だ。
 大規模なヒュージとの交戦があり、1年椿組の生徒のほとんどが戦死し、聖さんの相棒である明石愛華(あかしあいか)さんも行方不明になってしまった。
 一度にあまりに多くを失った聖さんは心神喪失となった。
 このとき、聖さんを支えたのは同じ椿組の梅だ。
 動けない聖さんの代わりに梅がクラスメイト達の遺品を回収したのだと、そう聞いている。

「あの子が私にかけてくれている優しさを、私は返せない……私はあの子のルームメイトでいるべきじゃない……」

 衝撃を受けた。
 私が持っている夢結のイメージは中等部のときのものだった。
 当時の夢結は可憐で、それこそ白百合のようなリリィだった。
 美鈴様の庇護のもとにあったことも、そのたおやかな佇まいに影響していたかもしれない。
 そのためにずっと、私は夢結に弱いイメージを、守られる側の者だという印象を抱いていた。
 無論それは戦闘力としての意味ではない。
 硝子細工じみた繊細さを夢結はまとっていた。

「聖だけじゃないわ……梅もそうよ……他のみんなからだって、私は貰うばかりで……そのくせなにも変われていない」

 私は夢結のことを、美鈴様を亡くして周りのことがなにも見えなくなっているのだと、そんなふうに感じていた。
 しかしどうだろう。
 夢結が周りを遠ざけるのは周りのことを見ているからこそではないのか。
 彼女が他人を拒絶して一人で居続けることについて、私は夢結の思惑に考えを巡らせたことはなかった。
 ルナティックトランサーのことは抜きにしても、夢結がひとりで戦うのは傷ついて塞ぎ込んでいるせいなのだと、そう見做してはいなかったか。

「夢結さん。返せないことで苦しむのはやめましょう。聖さんたちはそんなつもりであなたの傍にいるわけじゃないはずよ」
「だとしても、私は、私を許せない」

 もし、自分が嬉詩を殺してしまったとしたら、私は自分を許せるだろうか。立ち直れているだろうか。
 自分のCHARMが嬉詩の体を貫く瞬間を想像する。
 ……無理だ。
 自分を許すどころか立ち直ることもできないだろう。
 CHARMを握ることすらできなくなり、百合ヶ丘を去っているかもしれない。
 しかし、目の前の夢結は戦い続けている。
 レアスキルこそ使わなくなったものの、戦場から逃げ出すことなくリリィとしての役目を全うするために足掻き続けている。
 この子は、悲しみや苦しみに打ちのめされているだけの少女ではない。
 それが、どれほどいびつで不器用な向き合い方だとしても、夢結は痛みを抱えながら戦い続ける意志だけは絶やさなかった。

 場違いかもしれないが、私はこのとき、冷雨に濡れた夢結を美しいと思った。

 夢結が欲している言葉はなんだろうか。
 私が伝えたい思いはなんだろうか。
 いくつもの言葉が私の脳裏で渦を巻き、絡まって、浮かぶことなく底へと沈んでいった。
 紡ぎ出そうとした思いは、明瞭な形を成さずに心の澱として堆積し、私の中にとどまった。
 私は何も言えないまま馬鹿みたいに夢結を見つめていた。
 どのくらい経っただろう。
 閑と、夢結の震えが止まった。

「……ごめんなさい。こんなことを言われても、困るわよね」
「そんな」
「取り乱したわ。いまのは忘れてちょうだい」

 夢結が私に顔を向けた。
 もう彼女の悲しみも苦しみも、奥へ隠れて見えなくなっていた。
 照れ隠しでもするように夢結が視線を背ける。

「ごめんなさい。祀さんのいう通り、ここにいても風邪を引くだけね……いっしょにおりるわ」

 行きましょうと言って、夢結が歩き始める。
 私は追いかけて、横に並んで傘を差しながら、夢結に何か言おうとして、やはり、かけるべき言葉が見つからなかった。
 大事な言葉は私の中から出てこない。
 口をついて出るのは当たり障りのないものだけだ。

「……私のことは祀でいいわよ。夢結」
「……そう」

 雨の中を歩いた。
 私たちの他には誰もいない。
 雨に遮断された世界で私たちは二人きりだった。

「謝るぐらいなら、私の愚痴も聞いてくれる? 夢結」
「……?」

 私はなぜそうしようと思ったのだろう。
 夢結が私に弱みを晒したからだろうか。
 それに応えたくなったのだろうか。
 導かれるように、話すというよりはただの独り言のように、私は言葉を紡ぎ始めた。
 山をくだりながら、私は嬉詩のことを話す。
 幼稚園のこと。
 小学校のこと。
 リリィになるつもりなどなかった頃の私と嬉詩のこと。
 嬉詩より先に百合ヶ丘の中等科へ編入となったこと。
 シュッツエンゲルの契りについて知り、嬉詩と将来を誓ったこと。
 そして大磯海底谷ネストの襲撃。
 嬉詩が戦死した状況。
 ただただ一方的に語り続けた。
 夢結は相槌を返したり、返さなかったりした。
 その距離感が心地よかった。
 訥々(とつとつ)と喋る私と静かにそれに耳を傾けてくれる夢結。
 気づけば私の口は止まらなくなり、溜まっていた思いと悲喜交々がぼろぼろと口からこぼれ落ちていった。
 喋るうちに、私の中で感情が破裂した。
 足が止まる。

「祀……?」

 立ち止まった私を夢結が見た。
 傘が落ちる。
 指に力が入らない。
 手が震えて持っていられない。

「私……嬉詩に……死んでほしくなかった……」

 何もかもを吐き出した私は泣いていた。
 このとき、自分がどんな顔をしていたのかはわからない。
 急な私の変化に戸惑い、目を見開いた夢結の表情だけは覚えている。

「私は……」

 なぜ夢結にこんなことを話したのだろう。
 周りに誰もいなかったからだろうか。
 夢結と私の相似(アナロジー)のせいだろうか。
 何かの引力が働いて私の思いが外に引きずり出された。
 立っていられなくなり、私は膝をついてくずれ落ちる。
 私の全部をぶつけられて硬直した夢結の裾に縋る。

「生きててほしかった……嬉詩に生きててほしかったの……!」

 みっともなく泣きじゃくった。
 夢結を慰めようと思っていたのにてんで逆のことをしている。
 支離滅裂もいいところだ。
 私の胸の奥に溜まっていたものは夢結への優しい言葉などではなく、自分で抱え込もうとして処理できずに溜まった嬉詩への哀惜だった。
 喉の奥から血を吐き出すように、熱を持った嗚咽がとめどなくあふれ出てくる。
 夢結が傘を拾い上げて、私の頭上に差したのがわかった。

「……」

 夢結は喋らなかった。
 元々が口下手だったし、私がパニックを起こしたせいで余計に言葉が出なくなったのだろう。
 彼女は傘を持ったまま膝をつき、私の肩を恐る恐る抱きしめた。
 抱きしめる、というよりは触れる程度の臆病な抱擁。
 それでも、冷えきっているはずの夢結の体温がじんわりと伝わってきて、温かかった。
 
「うあぁぁ」

 私が泣き止むまでしばらく時間がかかった。
 その間、夢結はずっと寄り添い、臆病な抱擁を続けてくれた。
 やがて泣き止んだ私は夢結と並んで山を降り始める。
 はじめと違い、夢結が傘を持ってくれた。

「ごめんなさい。私の方こそ取り乱してしまったわね」
「……いえ」
「……ねぇ。手、繋いでいい?」
「……」

 何も言わず夢結は手を繋いでくれた。
 私たちはおなじ傘の下を並んで歩いた。
 お互いに会話はなかったが、そんなことは気にならなかった。
 感情をぶつけあった私たちにはもう、語り合うようなモノは残っていなかったのだ。

☆☆☆☆

 それから夢結と過ごす時間が増えていった。
 あの日のことについてはお互いに何も話さなかったし、嬉詩や美鈴様のことについても語ることはなかった。
 会話が弾むというようなこともなく、夢結は相変わらず不器用なまま口数が少なかった。
 けれど、以前とは違った緩やかな繋がりを私は感じていた。
 雨が降ってきて、たまたま傍にいたから同じ傘の下で話をする、そんな繋がり。

「夢結。私のレギオンには本当に入らないの?」
「ええ」

 私のレギオン(エイル)に誘ってみたりもしたが素気無く断られた。
 距離は近くなった気がするが、決定的に何かが変わったというわけではない。
 夢結にはまだ時間が必要なのだろう。あるいは、時間ではないもっと別の変化が。
 それでも私と夢結の間には、他の人たちとは違う空気があった。
 傷ついた者同士が醸す弱々しい対称性(シンメトリー)。
 
「もうすぐ2年生ね」
「……そうね」
「やっぱり、聖さんとルームメイトを続けるの?」
「……」

 夢結は答えてくれなかった。
 曖昧に視線を逸らしたまま黙ってしまう。
 あの日、夢結が吐露した思いは変わっていないのか、それとも。

「ねぇ、もし、よかったら……」

 私はルームメイトになる提案をした。
 夢結はしばらく黙っていたが「考えておく」と短く返答した。
 私はそれに手応えを感じた。
 きっと日を置いて同じことを訊ねれば、夢結は断らない。
 なんとなくそんな確信があった。
 私と夢結は仲良くなって日は浅いが、他の人たちとは違った通じ合うものが確かにある。
 ただ、夢結からルームメイトの了承を得るその前に、私にはやるべきことがある。
 私は夢結が不在のときを狙って、夢結の部屋を訪ねた。
 つまりは、谷口聖さんのところに。

「聖さん。すこし時間もらえるかしら」
「ええ。いいですよ」

 事前に約束を取り付けていたわけでもないのに、部屋にいた聖さんは心よく私を招き入れてくれた。

「頼み事をしたい、というふうな顔ですね」
「! 私、そんな顔してた?」
「どうでしょう? なんとなくそんな気がした、という感じです」

 百合ヶ丘で聖さんほど交友が広いリリィはいないのではないだろうか。
 もちろんそれに呼応するように聖さんは人の観察眼に長けている。
 部屋を訪れた私がなにか抱えていることに気づいたようだ。

「ええ、そうよ。あなたに頼みがあるの。とは言っても、聖さんの了解を得られても叶うかどうかはわからない案件なのだけれど」
「はぁ、どういったご用件でしょうか」
「……そうね。なんと言えばいいのか」

 いきなり、ルームメイトを譲ってほしい、と直球では言えない。
 そもそも私は聖さんと夢結の関係を深く知らない。
 夢結に聖さんとの関係を聞いてもろくに答えてはくれないのはわかっているし、あの日のこともあって訊くこと自体が憚られた。
 まずは聖さんからみた夢結のことを知りたい。

「ねぇ聖さん。最近、夢結とはどんな調子?」
「夢結さんと、ですか?」

 聖さんは意外な質問をされた、という顔をする。
 目を上の方へやり、考えるふうな様子で聖さんは口を開いた。

「それは軽い意味で聞いているのではない、のですね」
「ええ」
「そうですね……夢結さんはまだ悲しみの底にいます。夢結さんのほうから話しかけてもらえることはほとんどないですね。情けない話ですが、ルームメイトとして力になれている気はしません」
「……そう」

 その光景は容易に思い浮かべられた。
 夢結は聖さんに罪悪感のようなものを感じている。そのせいで距離がある。

「聖さんは夢結とずっとルームメイトだったのよね? 2年生でも夢結とルームメイトを続ける予定なの?」
「……それは」
「急にこんなことを聞いてごめんなさい」
「いえ、構いません。でも、どうして?」

 聖さんの質問は当然の疑問だ。
 私が夢結と親しくなったのは最近のことで、聖さんの目から見ても単なる同学年のリリィ同士以上の関係には見えないだろう。
 そんな私がなぜ夢結のことについて聞いてくるのか不思議なはず。
 私はいくばくか躊躇して、思いを口にした。

「私ね。夢結をルームメイトに誘ってみようと思うの」
「……なるほど。そういうわけでしたか」

 聖さんは少し驚いた様子だったが、表情は大きく変わったりはしなかった。
 無論それは表情だけの話であり、その裏にある心情は私には読みようがない。

「聖さん。あなたはずっと夢結のルームメイトなのよね。だから、なんというか、前もって話がしておきたくて……」
「事情はわかりました。そういうことなら私に気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ。もし協力が必要であれば、私からも夢結さんにお話いたします」

 聖さんの申し出に今度は私の方が驚いた。
 協力しますなどと、言ってもらえるとは思ってもいなかったからだ。

「えっと。……いいの? 私が夢結をルームメイトに誘っても?」
「はい」
「……意外ね。もうすこし渋られると思っていたわ」
「そう、ですね。1年前なら、渋っていたと思います。私こそが夢結さんのルームメイトであると、そう強く主張したかもしれません」
「じゃあ、どうして」

 聖さんはすこし目を伏せた。
 なにか逡巡する気配があったが、再び視線を上げて私を見つめ返し、はっきりと宣言した。

「私は、2年生になったら汐里をシルトに迎え入れようと思っています」
「……六角汐里さん」

 噂は聞いている。
 聖さんのシルト候補。
 甲斐聖山から戻ってきた中等部3年のリリィ。
 もちろん二人の詳しい関係までは知らないけれど、仲の良さぐらいは誰もが知っている。

「はい、しおりn……コホン。汐里もすでに受け入れてくれていますから、学年が上がったら即日に契りを交わすつもりです。でもそうなると、シュッツエンゲルを亡くした夢結さんの傍に私がいていいのか、わからなくなってきたんです。……すみません。この話は、嬉詩さんのことを思い出させてしまいますよね」
「……いいのよ。気にしないで」

 聖さんの状況は、妹を待つ姉の状況。かつての私と同じ状況だ。
 いや、私が失った状況か。

「私の懸念は、いまのような空気を生み出してしまうかもしれない、ということにもあるんです」
「いまのような?」
「はい。いま祀さんにさせてしまったように、私が夢結さんとルームメイトでいることで、夢結さんにシュッツエンゲルのことを余計に想起させてしまうのではないかと」
「――それは」

 ない、とは言い切れない。
 ルームメイトが契りを交わせば、なにかしらシュッツエンゲルとシルトの関係を目にすることになる。
 直接ではないにしても、ルームメイトならその気配はかならず伝わる。
 百合ヶ丘にいる以上は、擬似姉妹契約のことを目にしないわけにはいかないが、ルームメイトというのは日常のプライベートに近い存在だ。
 それが夢結にどう影響するのかはわからないけれど、聖さんのいう懸念をまったく杞憂だということもできない。

「つまり聖さんは、他の人にルームメイトを代わってもらうことを考えていた、ということ?」
「当たらずとも遠からず、ですね。……ルームメイトは、他人に託すようなものではありません。私の方から他の方へ依頼しようとは考えてはいませんでした。でもそう思う一方で、私では夢結さんのパートナーには不十分なのだと、そういう思いが強まってきていました。つまり、どうすればいいのか悩んでいたところです」

 自分では夢結のパートナーに不十分だと、聖さんはそう言った。
 その言葉にはひどく違和感がある。
 聖さんは夢結を気にかけ、尽くしているはずだ。
 少なくとも私などよりよほど寄り添ってきているのは間違いない。
 私は夢結と聖さんとの間に、なにかすれ違いが起きているのを感じた。

「聖さんがパートナーとして不十分だなんて、そんなふうには思えないけれど」
「……ありがとうございます。しかし、私は結果として夢結さんのルームメイト足り得ていません」

 聖さんの言葉の根拠が私にはわからない。なにも見えない。
 むしろ、パートナー足り得ないと、そう言ったのは夢結の方だったのだ。
 聖さんからもらってばかりでなにも返せないと泣いていたのは夢結だ。

「聖さんがどうしてそう思うのかわからないわ。どういうことなの?」
「そうですね……私は中等部からずっと、アールヴヘイムでも、夢結さんとは一緒でした。ひょっとしたら百合ヶ丘で私ほど夢結さんと多くの時間を共有したリリィはいないかもしれません。あの美鈴様を除けば」
「……」
「甲州撤退戦後、高等科へ進学して、夢結さんと同室になったとき、あのときは少なからず自信がありました。ルームメイトとして夢結さんを支え、励まし、また笑顔にさせる自信が。でも、それは自信ではなく自惚れでした」

 聖さんの表情に哀しみの色が差した。

「……もうそろそろ1年です。ルームメイトになって、1年ありました。でも、結果は祀さんも知っての通りです。私は夢結さんの力にはなれなかった」
「それは……夢結の傷が癒えないのは聖さんの責任じゃないでしょう」
「そうですね。でも、私はなんの助けにもなれていません。夢結さんの居場所を、アールヴヘイムを繋ぐことも、新しいレギオンに入れることにすら失敗しました」
「……」

 私は聖さんの努力を知らない。
 どれだけの思い遣りを夢結に注いできたのか、実際にすべてを見てきたわけではない。
 しかしそれでも、ルームメイトとして夢結に寄り添う彼女の親愛が足りていなかったなどとは思えない。

「心にできた傷を癒すことは、そう簡単なことじゃないはずよ。聖さんだってわかってるでしょう? そのことで自分を責める必要はないわ」
「……そうですね。人の心を癒すことほど難しいことはないと、私もそう思います。アールヴヘイムは優れたレギオンで、みな優秀なリリィでしたが、でも、誰も夢結さんを立ち直らせることはできませんでした」

 谷口聖。
 吉村・Thi・梅。
 番匠谷依奈。
 竹腰千華。
 夢結をどうにかしたいと思っていた他のアールヴヘイムのメンバーたち。
 しかし、アールヴヘイムそのものが問題を抱えすぎていた。

「自分の話ばかりでごめんなさい。祀さんの理由を聞くのが遅れてしまいましたね。今度は私に聞かせてください祀さん。あなたはどうして夢結さんのルームメイトになりたいと思ったのですか?」
「私は……」

 自分の理由を問われて、私は英霊墓地であったことを話した。
 嬉詩のこと。
 美鈴様のこと。
 雨の中で夢結が漏らした言葉と思い。
 それ以来、徐々に夢結と過ごす時間が増えていったのだと。

「そんなことが、あったんですね。最近、夢結さんとよく話しているとは思っていましたが……そう、そんなことが」

 恥ずかしかったので自分が大泣きして夢結に縋りついたことだけは言わなかった。

「私も夢結さんが墓地へ通っているのは知っていましたが、私はそれに寄り添ったことがありません。隣に立つよりは、離れて見守っていた方がいいような気がしていたんです。でも、祀さんの話を聞くと、私は間違っていたのかもしれませんね」
「間違いだなんて、そんなことはないわ。私だってあの日、あの場にいたのは偶然だったんですから」
「いいえ。私ではその偶然さえ起こりようがなかったんです。私が墓地へ参るときは、必ず、夢結さんとは一緒にならないようにしていましたから」
「聖さん……」
「距離を空けすぎていたんでしょうかね……難しいですね。本当に」

 ふふふと、聖さんは寂しそうに笑った。

「やっぱり私より、祀さんのほうが夢結さんのルームメイトには合っているのかもしれません」
「合っている?」
「気を悪くしたらごめんなさい。でも、私よりもあなたの方が夢結さんには寄り添えるのかもしれないと思いました。いまの話を聞いていてもそうです。たとえ同じ時と場所で、私が夢結さんの傍にいたとしても、祀さんのようにはいかなかったと思います」

 そう……なのだろうか。
 聖さんと夢結の会話をみていても、私と夢結との会話に違いは感じられない。
 そもそも聖さんからみた「私」はどんな人間に見えているのだろうか。
 夢結のルームメイトを任せてもいいと、そう思ってもらえるぐらいには認めてもらえている、ということだろうか。

「祀さん。夢結さんとルームメイトになりたいというお話し、了解しました」
「本当にいいの?」
「はい。祀さんになら、ぜひ」

 聖さんが改まって姿勢を正した。
 つと、その目に力が宿り、真剣味を増した。

「さしあたって、私から祀さんにお聞きしたいことがあります」
「私に? なにかしら?」

 覚悟の程を問われるのだと、そう思った。
 だが、聖さんの口から出てきたのはそうではなく、思いがけない問いかけだった。

「祀さんは、夢結さんのお姉様のことはご存じですか?」
「美鈴様のことは、正直、そこまで詳しくはないわ。でも、できるかぎり調べようと思ってる」
「いいえ、美鈴様のことではありません。ごめんなさい、言い方が紛らわしかったですね」

 ?
 聖さんがなにを言っているのかわからない。

「これは本来なら私の口から伝えるべき事柄ではないのですが、中等部編入の祀さんには知りようのないことかもしれませんから。夢結さん、ごめんなさい」
「どういうこと?」
「実は、夢結さんがお姉様を失ったのは美鈴様が初めてではないのです」
「美鈴様が初めてではない……? それは一体……」
「夢結さんには歳の離れたお姉様がいらっしゃいました。血の繋がった実姉です。百合ヶ丘のリリィであり、天才だったと聞いています。でも……」

 教導官として赴任する直前に戦死したのだと、聖さんは語った。

「直後の夢結さんは悲しみに暮れていました。幼かったせいもあったでしょう、美鈴様を失った直後と同じかそれよりもひどい状態でした。何も手がつかないほどに打ちひしがれていた。そんなときです。夢結さんは、美鈴様と出会いました。そして元気になっていったんです。それは……いま思うと奇跡のようなことです。誰にもできなかったことを美鈴様はしました」
「……知らなかった」

 よほど昔の話なのだろう。
 私が出会った頃にはもう夢結はすでに美鈴様と仲睦まじくなっていた。
 私の記憶のはじめにある夢結の表情は笑顔なのだ。

「実姉を失いながらも立ち直った夢結さんは、しかし、美鈴様をも失いました。ご存知かもしれませんが、アールヴヘイムの解散には美鈴様の死が影響しています」
「……噂程度に聞いているわ」

 当時、表向きのアールヴヘイムは華々しい戦果が謳われていたが、その一方でメンバー間で思想が分かれ、戦功を重ねるほどにそれは広がっていき、やがて限界に達したのだと聞いていた。
 甲州撤退戦での川添美鈴様の戦死。
 あのとき撤退ではなく進撃していれば陥落を防ぎ得たとの事後分析。
 もともと癖の強いメンバーだったから、解散は必然だったのかもしれない。

「ルームメイトを辞めたからといって、夢結さんを一人にしようとは思っていません。道は違えましたが、アールヴヘイムのメンバーも気持ちは同じはずです。力になれることがあったら言ってください。協力を惜しむようなことは絶対にしません」

 私の両手を聖さんが握った。
 指先にこもった力強い熱が伝わってくる。
 聖さんが私に頭を下げた。

「祀さん、夢結さんのルームメイト、よろしくお願いいたします」
「ちょ、頭をあげてください聖さん! 情けない話だけれど、私だって、とても任せてくれとは言えないわ!」
「えっ。任せられないのですか?」
「……。いえ。任せてもらうわ」
「うふふふ、では改めて、よろしくお願いいたします」
「……責任重大ね」
「ええ、重大です」

 顔をあげた聖さんはにこにこしていた。
 にこにこしていたが、圧のある笑顔だった。

☆☆☆☆☆

「荷物はこれで全部?」
「ええ。これで全部」

 2年生にあがるにあたり、私たちは旧館へ移り住むことになった。
 大した量はなかったが、お互いの荷物を協力して運び、私たちは引っ越しを終えた。
 夢結と私は、ルームメイトになった。

「見て、夢結。桜が見えるわ」
「……染井吉野」

 英霊墓地の染井吉野が窓から覗いている。
 もうすぐ4月になる。
 私たちの新しい学年が始まる。
 嬉詩。
 美鈴様。
 椿組の戦友たち。
 彼女たちはあの場所から私たちを見守っていてくれるのだろうか。
 窓を開けると暖かな風が吹き込んできた。
 それはどこか、桜の匂いがするような気がした。

ルームメイトの手引き【祀、夢結、聖】
終わり

すずみぶね【梅、夢結、他】

すずみぶね【梅、夢結、他】

 昏れかかった隅田川を数隻の舟が下ってゆく。
 こじんまりとした屋形船(やかたぶね)に乗り合わせているのは9人の少女たちで、みな華やいだ浴衣に袖を通している。屋形の軒先には赤提灯がぽつぽつと吊るされており、ぼんやりとした灯りのもとで歓談に興じる少女たちの姿が照らされていた。

「二水ちゃん、写真撮って撮って!」
「はぁい! 任せてください!」

 ぱしゃり。
 梨璃に請われて二水がシャッターを切った。
 被写体は座敷に正座した梨璃と夢結がコップのジュースで乾杯している姿だ。
 舟に乗る前から今に至るまで、誰に請われるまでもなく二水は写真を撮りまくっていた。

「二水さん、他人の写真もいいと思うけれど、すこしくらい自分の写真も撮ったらどうかしら?」

 フラッシュを焚かれるがままだった夢結が、苦笑しながら二水へと声をかけた。
 二水は仲間をファインダーに収めることに夢中になるあまり、「自分が被写体となる」という考えを忘失しているように見えた。
 本人が楽しいのなら、と思って口出しを控えていた夢結だったが、冷めることのない二水の熱狂ぶりには見兼ねるものがあった。

「えっ! わ、わたしの写真ですか?」
「! そうだよ二水ちゃん、みんなの写真撮ってばかりで自分の撮ってないよ! 自然体すぎて気づかなかった。今度はみんなに二水ちゃんを撮ってもらおうよ!」
「え、で、でもわたしなんかより……みなさんのお姿を」
「そんなのダメだよ! 一緒に撮ってもらお! わたしも二水ちゃんと一緒の写真欲しいもん! ね!」
「は、はい!」
「じゃあ、まず、わたしがあなたたちを撮るわ。二水さん、梨璃、横に並んで」

 二水から夢結へとカメラが手渡される。
 梨璃は二水と腕を絡ませて、頬を擦り付け合うほどくっついてピースする。
 戸惑い気味だった二水も頬を赤らめながら梨璃と同じようにピースした。

(可愛らしい後輩たちね……)

 掛け声とともに夢結はシャッターを切った。
 水色を基調にした浴衣の二水と淡い桜色の浴衣で着飾った梨璃。
 シルトであることを抜きにしても、楽しそうな笑顔を並べる後輩二人には夢結の頬も自然と緩む。
 特に、梨璃の笑顔を見ると、夢結の心には愛おしさが湧いてくる。
 以前まで、このように暖かな気持ちが自分の中に残っているなどとは、考えもしていなかった。

「梨璃。二水さんの写真、もっと撮ってきてあげなさい」
「はい! 行ってきます!」
「はわわ……では、おおお願いしますぅ」

 夢結に促された梨璃は二水を連れて座敷の奥、船首の方へと離れてゆく。
 まもなく、同じ1年生組の生徒に囲まれた二水が写真を撮られ始める。
 きゃあきゃあとふざけ合う1年生たちを見て、夢結は知らず微笑んでいた。

「ずいぶんと優しい笑顔じゃないか」
「……梅」

 声をかけられた夢結が見上げると向日葵の浴衣を着た梅が立っていた。

「今の笑顔は姉というよりも、子を見守る母の笑顔だったな」
「子供を産んだ覚えはありません」
「それぐらい優しい笑みだったよ、本当に」

 言いながら梅は夢結の隣に腰を下ろした。

「夢結も羽の伸ばし方がわかってきたか」
「その言い方だと、まるで今までわかってなかったみたいじゃない」
「わかってなかっただろ」
「……認め難い事実ね」

 ふいと梅から顔を背けて夢結は苦々しい顔でコップに口をつけた。

「納涼祭、無事に開けてよかったな」
「ええ、そうね。ここのところ、出撃続きだったもの」

 一柳隊が納涼祭に涼み舟を選んだのは、ほんのなりゆきだった。
 他にも案は出ていたのだが、日本文化に馴染みの薄い隊員がそれなりにいたこともあって、涼み舟という日本らしい催しに関心が集まったのだ。

「それにしても……夢結はほんとに和服が似合うな」
「急になによ?」
「所作がさ、浮世離れしてる感じなんだよな。やっぱり長い黒髪が雰囲気出してるのかな」

 腕を組んだ梅はしげしげと眺めつつ浴衣姿の夢結を評する。

「もう。褒めても何も出ないわよ」
「褒めたいから褒めてるんだゾ」
「じゃあわたしもそうさせてもらうわ。……梅もその浴衣、よく似合っているわ。素敵な、明るい、梅らしい衣装ね、綺麗よ」
「お? 夢結はお世辞も言えるようになったのか」
「お世辞じゃないわ。本心で褒めてるのよ」
「あははは! うん、わかってるけど。なんか恥ずかしいな」

 めずらしく夢結に真正面から褒められて、恥ずかしそうな様子で梅は頬をぽりぽりとかいた。

「ま、今日の浴衣は夢結が着付けてくれたからな。それで梅が綺麗になったんじゃないか?」

 梅が着ている向日葵柄の浴衣は夢結に着付けてもらったものだ。
 というのも、梅が日本に来たのは中等科のときだったので、ほとんど和服には心得がない。
 涼み舟に乗るなら浴衣で着飾ろうという話になって、梅は夢結を頼ったのだった。

「わたしは帯を締めただけよ。それに、着付けが得意なわけでもないわ」
「梅はそうは思わないぞ。それに、髪も結ってくれたじゃないか。これ、ありがとな」

 梅がはにかんだ笑顔で自分のおさげに手をやった。
 浴衣を着付けるついでに、夢結が梅の髪をおさげに結ったのだ。

「それこそ、おさげなんて難しいものでもないでしょうに」
「いいんだよ。……梅が嬉しかったんだから」
「そのぐらいで喜んで貰えるなら、またしてあげるわよ」
「うん。じゃ、またよろしく頼もうかな」

 二人して笑い合い、少し料理に手をつける。
 お造りや天ぷらが小さな長テーブルに所狭しに並べられているが、1年生は食事もそこそこにお喋りする方が楽しい様子だ。
 本来なら食べながら喋るというのは不作法だけれども、慰労を兼ねた納涼祭ということもあり、今日ばかりは固いことを言うのはやめようと夢結は腹を決めていた。

「外はすっかり暗くなってきたわね」

 夜空へと変わりつつある茜空を見つめながら夢結が言った。
 川岸の土手の向こうは、紫がかった薄明の空に滲んでいた。

「星もちらほら見えてきたな。晴れててよかった」
「ええ、そうね」

 舟の小縁に背を預けて、ちょいと頭を外へ反らせると夜空を見上げることができた。
 のんびりと、川を下る舟のように時間が過ぎてゆく。

「風、涼しいな」
「……そうね」
「水のせせらぎを聞いてると、眠くなってきそうだ」
「ええ」
「まんまるの月も綺麗だな」
「ええ、そうね」
「……"ええ"と"そうね"ばっかりだな、夢結」
「だ、だって。他になんて言えばいいのかわからないのよ」

 相槌にダメ出しをされた夢結がばつが悪そうに顔をそむける。

「じゃあさ、次は夢結が喋ってよ。梅が相槌返すから」
「えっ。……わかったわ」

 突然の提案に夢結は戸惑ったが、断るのはなんだが負けた気がして癪なので咄嗟に受けた。
 しかし、言葉は容易には出てこなかった。

「……」
「……」
「……」
「……」
「……月、本当に綺麗ね」
「それもう言ったやつじゃん!」

 梅がお腹を抱えて笑った。

「しょ、しょうがないじゃない。思い浮かばなかったのよ」
「あははは! だ、だからって、お前、まったく同じこと言うとか、ぷっくくく」

 あまりにも梅がけらけらと笑うので、恥ずかしくなり夢結の頬が朱に染まった。

「ほらほら、もっと他にあるだろ? 例えば……かわいい後輩のこととか」
「……後輩のこと」

 二人の視線がはしゃいでいる一年生組に向けられた。
 みな、代わる代わるくっつきあって二水と写真を撮っている。
 その色彩に富んだ浴衣姿は、ゆれる花束のように色めいて見えた。

「あの子たち、すごく楽しそうね」
「混ざりにいこうか?」
「いえ、今は眺めていたいわ」
「そっか」
「梅は混ざりに行かないの?」
「んー、梅も後でいっかな」

 どれだけ親しくなろうと、上級生と下級生の隔たりというものはある。
 夢結も梅も、今は後輩たちの仲睦まじい思い出づくりを輪の外から見守りたい気分だった。

「……一柳隊。良いレギオンになったわね」
「梨璃が集めたメンバーだからな」
「思えば、あの子にはずいぶん意地悪な真似をしてしまったわ」
「へ?」
「……はじめは、突き放すつもりでレギオンを作らせたから。どうせ失敗するに違いないって、そう思って」

 言って夢結は4月に思いを馳せる。
 梨璃とシュッツエンゲルの契りを交わして間も無く、梨璃を後悔させるために課した難題のはずだったレギオン作り。
 補欠合格で入ってきた下級生にできるはずもないと、たかを括っていた。

「なのにどんどん人が集まったもんなー。とんとん拍子で人が増えるたびに夢結が落ち着きなくなっていくの、面白かったぞ」
「自業自得ね、まったく。……不誠実なことをしたわ」

 梨璃たちを見つめる夢結の双眸に影がさした。
 夢結の魂胆を知らずに、梨璃は夢結のためにレギオンのメンバーを集めてみせた。今更になってそこに罪悪感を感じてしまう。このレギオンの、一柳隊の恩恵をいちばん受けているのは自分なのに。そんな思いが錨となって夢結の心胆に根を下ろし、後ろ暗さが拭えないでいる。

「梅も、よく一柳隊に入ってくれたわね」
「はじめは断ってたんだけど、結局は梨璃の思いに負けちゃったな。これでも、けっこー渋ってたんぞ、梅」
「梅と鶴紗さんが最後だったものね。鶴紗さんをレギオンに引き込んだことも、すごいことなのよね、きっと」
「ある意味、夢結よりも鶴紗を誘う方が難しかったかもな。……でも、なんとかなった。梨璃様様だよ」

 梅の声には感嘆の響きがあった。梨璃の笑顔を見つめるそのまなざしは、憧れに似た愁色を帯ている。
 遠い水平線を眇(すが)めるような梅の横顔に、夢結はふと小さな疑問を抱いた。

「……梅。ひょっとして、鶴紗さんの心が固まるまで待っていたの?」
「え」

 夢結の問いかけに梅が目を丸くして向きなおった。

「あのときは気づかなかったけれど、4月からずっと、あなたは鶴紗さんに寄り添っていたように思うわ。レギオンに加入しなかったのは鶴紗さんのこともあったからではないの?」
「……んー。お前、他人同士のことはそれなりに見てるんだな」
「もう、茶化さないでちょうだい。どうなの?」

 はぐらかそうとする梅の態度に夢結が詰め寄った。
 まいったなと梅は嘯きながらも、夢結の眼力に気圧されて訥々と語り始めた。

「なんていうか、そんなに深い意味はないんだよ。梅はただ、鶴紗とお昼寝したり、猫を追いかけたりしてただけだ。鶴紗をレギオンに引き込んだのはやっぱり梨璃なんだよ。梨璃じゃなきゃダメだったんだろうって、そう思う」
「確かに梨璃はよく鶴紗さんに声をかけていたけれど……」

 当時の夢結は、鶴紗と梨璃が仲良しだと認識していたがそれは鶴紗自身の口から否定されている。ただのクラスメイトだと鶴紗は夢結にそう言ったのだ。
 無論、それは不器用な鶴紗の照れ隠しだったのかもしれないが、夢結には判断がつかない。

「ほら、中等部の頃、鶴紗も同じ学舎だっただろ。夢結にシュッツエンゲルの契りを結ばせた梨璃に、心を動かされるものがあったんじゃないか? ……なんていうか、あの頃の夢結を、鶴紗も見てるはずだから」
「あの頃のわたし、ね」

 何もかもと距離を置き、遠ざけていた夢結。
 ヒュージを狩ることに没頭して逃げていた過去の自分。
 その在り方は鶴紗の生き方と似通ったところがあった。
 そんな夢結をレギオンへと引き込もうと四苦八苦する梨璃の姿に、鶴紗の心を打つものがあったのだろうか。
 しかし、夢結は鶴紗のことをよく知らない。
 彼女がどんな視線を自分に注いでいたのか、そもそも本当に自分を見ていたのかどうかすらわからない。
 後輩の視線を気にするような余裕は過去の夢結にはなかった。

「なんにせよ、梨璃が百合ヶ丘に来てくれて、本当によかったよ」

 話を締めようと梅がまとめに入った。
 理由はわからないが、夢結には梅がこの話を避けているように感じられた。
 その拍子に夢結は、自分が鶴紗と梅のことについて、二人の間柄をほとんど何も知らないことに気づいた。

「梨璃を褒めてくれるのは嬉しいけれど、でも、梅がいなかったら鶴紗さんは一柳隊に入っていないかもしれないわよ」
「んー。どうだかなー」
「声をかけたのは梨璃でも、隣に立って彼女の手を引いたのはあなたでしょう? わたしだって……あなたがいなかったらどうなっているか。鶴紗さんだってわたしと同じぐらいあなたに感謝しているんじゃないかしら」
「あはは。じゃあ、そういうことにしとくか」
「世辞で言っているわけじゃないのよ?」
「わ、わかったってば」

 そう言って、めずらしく梅がそっぽを向いた。
 百合ヶ丘中等部編入組であることを自慢したりする一方で、急に恥ずかしがりな面をみせることが梅にはある。
 夢結には梅の恥ずかしがる理由もその境界もわからない。
 しかし、梅が自分に施してくれた優しさや、他者を思い遣る気持ちは尊いものだと思っているし、尊敬もしている。だからこそ、うまく伝えられなくとも感謝の意を伝えたい。こういうときでないと、日常の中ではあまり気恥ずかしくて、言えなくなりそうだから。

「すこし前までは、こんなふうに穏やかな時間が過ごせるようになるとは思ってもいなかったわ。こうしていると、あの頃の小さな自分が、どんどん遠くに離れていくのを感じるの。梨璃やあなたといっしょにいると特にそう。……こんな面倒なわたしを気に掛け続けてくれていたのよね、あなたは。ありがとう」
「おぉう……なんだよ。今日はやけにしおらしいじゃないか」
「いいじゃない。友人へ感謝の気持ちを伝えるのは別に悪いことじゃないでしょう」
「ははは。今日はもうお腹いっぱいだぞ」
「食べられるうちに食べておきなさい」

 目を合わせて二人は微笑み合う。
 それからしばらく、言葉は絶えて、しずかに後輩たちの姿を眺めた。
 1年生はまだきゃあきゃあ騒ぎながら、二水を中心にして入れ替わり立ち替わり写真を取り合っている。
 いま、共に過ごすこの一瞬一瞬が、あの子たちの宝になるように祈った。

「なんか、思いがけずしんみりしちゃったな」
「そうね……」
「……」
「……」
「えいっ」
「ひぅっ?!」

 突然、梅が暴挙に出た。
 夢結の背中に、コップの氷を放り込んだのである。

「あああぁああ!!!! な、何をするの!?!?」
「あっははは!」

 大声を出しながら夢結が立ち上がって身をよじる。
 しかし帯があるのだから氷はでてこない。背中の途中でつっかえて、じくじくと冷たい温度で背中を引っ掻いてくる。

「お姉様!? どうかしたんですか?!」

 悲鳴をあげた夢結を心配して梨璃たちが駆け寄ってきた。
 梅は横で笑い転げている。

「ぐっ! せっ、背中に氷が!」
「えぇっ!?」

 状況が見えず、梨璃が驚きの声をあげる。

「梅様、何やってんすか」

 訊ねるまでもなく梅が犯人であることを悟った鶴紗が梅へ呆れたように視線を投げる。
 梅は飄々として鶴紗を見返し、氷を頬張るとがりがり噛み砕きながら答えた。

「なんかしんみりちゃったから、景気付けに入れてみた」
「理由になってないわよ!!」

 夢結が叫んだ。

「まったく何やってんだか……大丈夫ですか夢結様? あ、動かないでください、氷取りますから、ほら」
「うっ、ぐっ。……ありがとう鶴紗さん」
「いえ、気になさらないでください」

 夢結がしゃがみ、鶴紗がそっとその背中に手を入れて中をさぐりはじめる。
 夢結はぴったりと着こなしているので少し窮屈そうだった。

「なー鶴紗。前から思ってたけどお前、夢結に対してやたら腰低くないか? 梅に対する態度と違いすぎるゾ。梅のことももっと敬って良いんだぞ?」
「そんなこと言われても……梅様はこういうことちょくちょくするじゃないですか。まぁ敬ってるのは敬ってますって」
「そうかぁ?」
「そうですそうです。あ、取れましたよ夢結様」
「ふーん……」

 鶴紗は梅に背中を向けている。
 無防備なその背に梅の視線が注がれる。

「えいっ」
「んにゃぁああ!?」

 梅が鶴紗の背中に氷を放り込んだ。

「何するんだ先輩!?」
「あははは! ほら、涼しくなっただろ?」

 梅は楽しそうにけたけた笑った。

「た、鶴紗さん! いまとってあげるね」
「うぅ……冷たい……」

 ちぢこまって、今度は鶴紗がしゃがみ込み、梨璃に氷を取ってもらいはじめた。

「まぁまぁ、無礼講ってことで。な?」
「それは先輩が後輩にする悪戯に言う言葉じゃない!」
「あれ? そうだったか?」

 すっとぼける梅。
 その背後にゆらりと幽鬼が立ち上がった。

「……それで、梅。覚悟はいいわね?」
「お」

 座った梅が顔をのけぞらせるとコップを手に持った夢結と目があった。
 そしてそれを挟むようにして、氷を取ってもらった鶴紗が立ち塞がる。

「涼しかったんで、お返しにたっぷり涼ませてあげますよ先輩」

 仄暗い復讐心に二人の表情は染まっていた。
 梅はたじろいで首をすくめる。

「いやぁ、梅は遠慮しとこうかなーって」
「「逃さないわよ/ですよ」」

 瞬間、二人が梅につかみかかった。
 しかし、縮地が発動する。
 梅の姿が消える。

「あっ!」

 悲鳴をあげたのは、梅だった。

「き、汚いぞ鶴紗! お前いまファンタズム使っただろ?!」
「縮地使った先輩に言われたくないです!」

 行動を先読みした鶴紗ががっしりと梅の二の腕を捕まえていた。
 逃げ損ねた梅がバランスを崩して座敷に倒れ込む。

「さぁ、たっぷり涼むといいわ」
「これもわたしからの感謝の気持ちです先輩」

 二人にのしかかられ、身動きのできなくなった梅が叫ぶ。

「ま、待て! 梅はそんなにたくさん入れてないだろ?!」

 夢結と鶴紗はコップごと氷を流し込もうとしていた。
 もう止まる気配はない。

「倍返しよ」
「倍返しです」
「んああああああ!!」

 じゃらじゃらと氷を注がれて梅が暴れる。

「お姉様、それはちょっとやりすぎなんじゃ……」
「シャッターチャンスです!」
「盛り上がってきたのう!」
「ふ、舟がすっごい揺れてる」
「うふふ、今日は先輩方も元気いっぱいですね」
「梨璃さん! わたくしの背に梨璃さんの氷を入れてくださいまし!」

 ゆらゆらと横揺れを起こしながら、一柳隊のすずみぶねは隅田川を下ってゆく。
 そよ吹く夏風に赤提灯とリリィの嬌声が揺れて流れる。
 納涼祭はまだまだ始まったばかり。

すずみぶね【梅、夢結、他】
おわり

夢の中で【梨璃、結梨、美鈴】

「梨璃ー!そろそろ行くから起きろ!」
 聞き覚えのある懐かしい声に急かされて、私は目を開けた。まず目に入ったのは赤みの強いピンクの瞳。覗き込まれてたみたい。浅紫色の髪を両サイドで三つ編みにしている彼女は私の手を取り引っ張った。
「……結梨ちゃん?どうして──」
「梨璃、やっと起きたんだね。混乱しているだろうけど、もう時間がないからこの舟に乗ってくれるかな」
 また別の声がして後ろを振り返る。そこには一度お姉様から見せてもらった写真に映っていた川添美鈴様がいた。小舟の上に立ち櫂を持ってこちらに向かって手招きをしている。
「み、美鈴様!? えっ!? どうして!?」
 死んだはずの二人に会って、混乱する私を安心させるように美鈴様は笑顔になって優しい声色で語りかけてくる。
「大丈夫、君は死んでないよ。僕が保証する。……それと、僕のことは美鈴お姉様って呼んでほしいな。夢結の妹である君は僕の妹でもあるからね」
「分かりました。……美鈴お姉様!」
「美鈴ー、わたしはー?」
「もちろん結梨も僕の妹さ。妹が3人もできるなんて僕は幸せ者だね」

 小舟に乗った私たちは、櫂を使って舟を漕いでいた。私は船の前のほうで、美鈴お姉様と結梨ちゃんは後ろのほうで櫂を動かしている。水をかき分けるのがこんなに大変だったなんて思いもしなかった。状況に流されて、どこに行くかまだ聞いていなかったことを思い出した私は後ろの二人に声をかけた。
「どこに向かっているんですか?」
「遊園地ー!」
「遊園地!? 私お金持ってないです。……どうしよう」
「梨璃、今から行くところは無料だから安心していいよ。リリィフェスティバル中だったかな? リリィは無料なんだよ」
「そうなんですね。よかったぁ~」

 一時間ほど漕いでいると、煌びやかな光を放つ遊園地に辿り着く。看板には百合ヶ丘遊園地の文字。アーチ状になっている入り口にはリリィフェスティバル開催中と書かれていた。
「ついたー!梨璃、美鈴、ジェットコースター乗ろう!」
 結梨ちゃんは勢いよく立ち上がると大きく腕を振り上げて、目的地へと辿り着いたことを喜びを表していた。
「結梨ちゃんは元気だね…。私は疲れちゃった」
「流石に僕も疲れたよ…。まずは腹ごしらえでもしよう」
 遊園地の中にあったハンバーガー屋さんに入り、私と結梨ちゃんはチリチーズバーガーを美鈴お姉様はアボガドチーズバーガーを注文した。チリチーズバーガーは、チリソースのスパイシーな刺激とチーズのまろやかさ、牛肉の旨味が合わさってとてもおいしかった。結梨ちゃんはまだ足りなかったみたいで、肉で肉を挟んだクレイジーバーガーも食べていた。これには私も美鈴お姉様もびっくり。まさかそんなハンバーガーがあるなんて…。ハンバーガーを食べてお腹いっぱいになった私たちは、隣のゲームセンターで遊ぶことにしました。チャーミーのぬいぐるみクレーンゲームやレースゲーム、エアホッケーなどの対戦ゲームなどがありました。
 「美鈴、もぐら叩きやろう」
 そう言って結梨ちゃんが指さしたのは、もぐら叩きのもぐらがヒュージになっているものでした。叩くと『ぴゅい~』と鳴いてとてもかわいらしいんですよね。……ただ、私の声に似ている気がするのは気のせいかな? 勝負は結梨ちゃんの勝利でたくさんのヒュージが『ぴゅぴゅぴゅ~』『ぴゅっぴゅ!』と鳴きながらぼこぼこに叩かれていました。その後は結梨ちゃんが乗りたがっていたジェットコースターに3回も乗ったり、お化け屋敷に入ったり、観覧車に揺られたりと遊園地を楽しみました。

 楽しかった遊園地をあとにして、私たちは船を漕いで元いた場所へと進んでいました。
「今日は楽しかったかい?」
と、美鈴お姉様に問いかけられた私はにっこりと笑いながら、こくりとうなずいた。
「はい、とっても楽しかったです!」
「結梨も楽しかった!」
「それならよかった。いつか夢結も……いや、君が作ったレギオンの皆で遊びにおいで。……おや、なんだか眠そうだね」
「はい、急に眠気が……ふわぁ」
「そのまま眠っていいよ。君のことは僕と結梨が必ず夢結たちのところへ連れて行くから」
「まかせろー」
急激な眠気に耐えられずに、眠りに落ちる私の瞳が閉じるその時まで結梨ちゃんと美鈴お姉様は見守ってくれていた。

「梨璃。梨璃、起きなさい。もう休憩は終わりよ」 
「……お姉様?…んんっー!おはようございます!」
「梨璃さん、よく眠ってましたわね。とても可愛い寝顔でしたわよ」 
「梨璃、幸せそうだったよ。どんな夢を見てたの?」
お姉様に起こされて、目が覚める。周りには楓さんたちがいて、外征任務の準備を始めている。私も急いで準備に取り掛かった。
「結梨ちゃんと美鈴様と、3人で遊園地に行く夢を見たんだ。ハンバーガーを食べたり、もぐら叩きのもぐらがヒュージになったヒュージ叩きで遊んだり、結梨ちゃんがジェットコースター乗るのに3回も付き合ったり……とっても楽しい夢だったよ」
「……それはいい夢だったわね」

 準備ができた私はCHARMを手に取り、みんなの元へ駆け寄った。
 夢の中のような戦わず遊んでいられる平和な世界にするために、今は恐れられてるヒュージも玩具の中のキャラにしてしまうために、私はリリィとして今日も戦います。だから結梨ちゃん、美鈴様、見守っていてください。

「一柳隊、出撃します!」

人形の家【壱、爾[ヌャdZモ遯、樟美、月詩】※ホラー注意

「ホラー」をテーマに書いたお話です。苦手な方は閲覧注意?かもしれませんわ。



最初のきっかけはありふれた、と言うと失礼なのですが
どこにでもあるような不幸な事故でした。

とある地方にご主人と奥様、そして一人娘の3人家族がいたんです。
とても仲睦まじい家族で、特に高校生になる娘は溺愛されて育てられました。
そんな家族に悲劇が襲いました。
スモール級ヒュージに娘さんが襲われてしまったんです。
こんな世の中ですからそれ自体はそんなに珍しいことではなかったかもしれません。
でもその時はすぐさま駆け付けたリリィによってヒュージは討伐され、九死に一生を得たんです。
ご主人も奥様も奇跡ってあるんだとリリィへの感謝とともに感激されていました。
その翌日のことです。
娘さんは自宅の階段から足を滑らせて
打ち所が悪かったのかそのままお亡くなりになってしまいました。
九死に一生を得たその次の日になんでもないような事故で命を落としてしまうなんて皮肉なものですよね。

それからです。
とても仲の良かったご主人と奥様は毎日のように口論をするようになり
結局は離婚、奥様は家を出ていき、ご主人だけがその家に残されました。
元々それなりに立派なお屋敷で一人で住むには広すぎる家でした。
最初こそふさぎ込んでいたご主人でしたが、あるときから近所の方々に奇妙なことを口走るようになったのです。
曰く、自分の娘はリリィだったのだと。
もちろんそんな事実はありません。
娘さんはごく普通の高校生でリリィ適正もない、マディックでもなければリリィを目指したことすらありませんでした。
しかしご主人が言うには娘は大変に有望なリリィで、かつて現れたヒュージから一般人を守るため戦い、そしてヒュージと相打ちになって命を落としたのだと。
まるで周知の事実であるかのようにそう語るのでした。
きっとご主人からしてみれば娘の死になにがしかの意味があったのだと思い込まなければその死を受け入れることができなかったのでしょう。
元々リリィの熱心な支援者であったことも関係していたのかもしれません。
近隣の方々も当初はそういった同情の目で見ていました。
しかし。
ご主人の妄想はどんどんと肥大化していきました。
自らの手書きの新聞もどきのようなビラを印刷して町中に配り、大声でよくわからないことを捲し立てていました。
ビラには偉大なリリィが国葬されただとか慰霊碑が建てられただとかそんなことが取りとめもなく書かれていてとてもまともに取り合う内容ではありませんでした。
さらにご主人は自分の脳内の物語を形にしたいと思ったのか大量の人形を作り始めたのです。
彼の頭の中には娘を中心とした架空のガーデンやレギオン、リリィ達が形作られていて、
それを再現するためにリリィの人形を作り続けているのでした。
家には大量の人形で溢れかえり、外からでも見える位置にも夥しい数の人形が配置されるほどでした。
そんな有様ですから近隣に方々も気味悪がって誰も近づかなくなり
十数年が経った頃、その家で孤独死しているご主人が見つかったとのことです。
ほとんど寝食もせずに人形を作り続けていたと言うのですからゆるやかな自殺だったのかもしれません。
彼には他に親戚もおらず、家の引き取り手もなかったことから夥しい人形とともにその家は放置されることになりました。
いつの頃からかその廃墟となった家は不気味な人形の館としてオカルト好きの間では有名な心霊スポットになったということです。

「…で?その廃墟に今から行こうってわけ?」
いかにも真面目そうなそれでいて気が強そうなリリィの少女は、心底くだらないとでも言いたげにため息をつきました。
仮にこの子をIちゃんとしておきましょうか。
「そうそう!ちょー面白そうじゃない!?」
そう言って目を輝かせるのはハートのような特徴的な形に跳ね毛が飛び出している、溌溂とした少女です。
この子はTちゃんとしておきましょう。
「Tちゃんそういうの好きだね…」
控えめに、だけどはっきりと意志を感じさせる声でそう言う少女。この子はKちゃん。
「だいたい廃墟って言っても勝手に入るのは犯罪よ?私達はリリィなんだからそういう自覚を持って…」
委員長らしい、Iちゃんの正論でした。
ところが。
「怖い…けどちょっと行ってみたいかも。Iちゃんも一緒に行こ?」
こんなときに限ってKちゃんがそんなことを言うものだから
Iちゃんは行く以外の選択肢がなくなってしまいました。
KちゃんとIちゃんは昔いろいろあってKちゃんの言うことにIちゃんは逆らえないのです。
二人のそんな関係は友達としては歪だと思うのだけれど、その詳細については今回の話とは関係ないので割愛させていただきます。
ともあれ3人で連れ立ってその廃墟に行くことになったのでした。

町外れの静かな場所にその家はありました。
話に聞いていた通り、2階建ての立派な家でした。
「けっこう雰囲気あるね~」
なんて、Tちゃんが能天気に言っています。
「はぁ…なんで私がこんなこと…」
Iちゃんはまだ不満そうです。
「ほらほら、IもKもおいてっちゃうよ~!」
Tちゃんが意気揚々と家の扉を開けました。
鍵はかかっておらず、簡単に開いてしまいました。
「いっちばんのり~、って、おわぁ!?」
足を踏み入れた瞬間、Tちゃんが声を上げました。
「ちょっと何!?」
その声にIちゃんとKちゃんも反応します。
「ごめんごめん、足元に何かあってさ、思わず蹴とばしちゃったんだよね」
懐中電灯で足元を照らすと…そこにあったのは人形でした。
それも1体や2体ではありません。
玄関を埋め尽くすほどの人形が敷き詰められていたのです。
「うーわ…」
これも話に聞いていた通りではあるのですが実際に見てみるとやはり不気味でドン引きしてしまいました。
人形はどれも13㎝ほどの大きさで体の素材は暗くてよくわからないけれどどれも布製であろう服がきれいに着せられていました。
なるべく人形を踏まないように気を付けながら3人は奥へと進みました。

放置されてどのくらい経っているのかわかりませんが
家の中はやはり廃墟然としていて歩くたびに床が軋み、壁紙もぼろぼろに剥がれています。

リビング、キッチン、水回り、奥の個室と順番に見て回りました。
そして思った通り、どの部屋にも先ほど玄関で見たのと同じような人形がいくつも置かれていました。

1階の部屋を一通り見て回り、リビングに戻ったときのことです。
「…動いてる」
ずっと無言でIちゃんやTちゃんの後をしがみつくように付いて行っていたKちゃんがぼそりとそんなことを言いました。
「動いてるって…何が?」
「そこ…そのお人形…最初に見たときはそこじゃなかった」
「えっ、ホントに!?」
言われてみれば…そうだったような気がします。
「K、そういうのいいから。気のせいでしょう」
Iちゃんはそんなことはあり得ない、と言い切りました。
でもKちゃんはめずらしく食い下がります。
「本当だよ。間違いないよ。それともIちゃんは私が嘘ついてるって…思ってるの…?」
「うっ!それは…」
ずるいなぁKちゃん、と端から見ていたTちゃんは思ったそうです。
Kちゃんにこんな言い方をされたらIちゃんはKちゃんを全肯定するしかなくなるってわかってて言っているんです。
でもKちゃんの言うことを肯定するならば人形が勝手に動きまわっているということを認めねばならず、そんな非現実的なことは到底Iちゃんには受け入れられませんでした。
Iちゃんが苦虫を嚙み潰したような顔をしているとTちゃんがあっけらかんと言いました。
「あ、それか私達以外にこの家に誰かいて人形を移動させてるとか?」
「…それはそれで怖いでしょう」
Iちゃんの言う通りです。
Tちゃんは二人を怖がらせたいのか天然なのか「それもそうだね」なんて言って笑っていました。

その時でした。
2階からガタンッ!と何かが動くような音が響きました。
3人は声にならない悲鳴を上げ、2階へ続く階段に目をやりました。
しばらく階段のほうを見つめていましたがそれきり何の音もせずしぃん…と静まり返っています。

耐えきれなくなったのかIちゃんが言います。
「ねえ、もう帰りましょう。やっぱり変よここ」
それにTちゃんが反論して
「え~でもまだ2階見てないよ」
「あなたさっきの音聞いてなかったの!?2階なんて行けるわけないじゃない」
たまらずIちゃんが言い返します。
「でも却って気にならない?」
「それはまあ…気にはなるけど…」

「Iちゃんが2階見て来て」
Kちゃんがとんでもないことを言いだします。
「えっ!?」
Iちゃんはなんで私が、という言葉を寸でのところで飲み込み、Kちゃんに言いました。
「うぐぐ…ええ、わかったわ。きっと猫か何かがいるんでしょう。Kを安心させるためにも確かめてくるわ」

Tちゃんは(あ、行くんだ)とこの二人の関係に軽く引いたそうです。

「見てなさい、幽霊なんていないんだから」
Iちゃんは鼻息荒くして2階へと上がっていきました。

二人はそんなIちゃんが戻ってくるのを待ちました。
2階を見て回るだけならそんなに時間をかけずに戻ってくることでしょう。
しかし5分経っても10分経ってもいっこうにIちゃんは戻ってきませんでした。
それどころか2階からは物音一つしません。
こんな廃墟ですから2階を歩いただけで床の軋む音なんかがしてもおかしくありません。
それなのに一切の音も聞こえてこないのです。
15分ほど経ったのでしょうか、二人は流石に心配になって2階へ様子を見に行くことにしました。

2階へ続く階段にも人形は置いてあってそれらをなるべく見ないようにしながら進みます。
2階に上がってすぐに誰かの話声がすることに気がつきました。
この声の主は…どう聞いてもIちゃんでした。
とりあえずIちゃんが無事で安心したのとこんなところで一人で何をしゃべっているのだろうという不安が同時に起こりながらも声のする方へ向かいます。

向かった先にはドアが開け放たれた一室がありました。
そこを覗くと…Iちゃんがいました。
薄暗い部屋でソファに腰かけ、誰かと談笑しているように見えます。
「Iちゃん…?誰と話してるの…?」
Iちゃんは二人に気づいていないのかその声には応えず、
しきりに「なるほど」とか「勉強になります」なんて感心したように頷いています。
しかしIちゃんの向かい側、薄暗闇の向こうにはどう見ても誰もいません。
Iちゃん以外の声も一切聞こえません。
「Iちゃん!」
意を決してさっきよりも強くIちゃんを呼びました。

「あら、あなたたちも来てたのね。二人もこっちに座りなさいよ。こんな機会めったにないんだから」
Iちゃんはようやくこちらに気づいたかと思えば当たり前のような口調でそんなことを言いました。

「こんな機会って、どういうこと?何を言っているの?」
「せっかく爾[ヌャdZモ遯様のご生家に来ているんですから」
なに…?何様?そこだけがうまく聞き取れません。
「蜈ィ隗呈タ枚ヒ蟄の爾[ヌャdZモ遯様よ」
なにそれ?ガーデン?靄がかかったようにそこだけよく聞き取れないけどそんなガーデンもリリィもいないってことだけはわかります。

Iちゃんを見ると目に光がありません。焦点が合っていません。
明らかに正気じゃないのがわかりました。

「私ちょっと泣いちゃった。単槇ヌャdZ モ遯様がいたから今の私達がいるのよね。蜈ィ隗呈タ枚ヒ蟄でのご活躍のお話も本当に素晴らしくて…」

「Iちゃん、しっかりして!何言ってるの!?変だよ!」
Kちゃんの呼びかけにも応えず、Iちゃんは続けます。
「爾[ヌャdZモ遯様と闡フ罌ケ鬥Sが…」
「なんなのそれ!?リリィ?レギオン?そんなの知らない!」
「だから、爾[ヌャdZモ遯様って言っているじゃない」

「Kちゃん、それ以上聞いちゃダメ!」
Tちゃんが叫びました。
「えっ」

Tちゃんは直感的に感じたのです。
これは、マズイ。
これは聞こえちゃマズイやつだ。
だってそのリリィも。ガーデンも。レギオンも。
もはや。

――コノ世ノモノジャナイ、と。



ぎぎぎ。

音がする。

ぎぎぎ。

ぎぎぎ、と。
部屋中に置かれた人形たちの首が動いて。
一斉にこちらに顔を向けてきました。

人形の顔はどこか笑っているようでした。

「逃げるよっ!」
TちゃんはIちゃんの手を無理矢理引っ掴み、空いたもう片方の手でKちゃんの手を掴んで部屋から飛び出しました。
一刻も早くこの家から出ないと本当にヤバイ。Tちゃんはそう確信していました。
しかし。
階段を駆け下りようとしたその瞬間、Tちゃんの足が止まります。
Tちゃんはこの世の終わりのような顔をしていました。
Tちゃんのこんな顔、Kちゃんは見たことがありませんでした。
「い…っ、い、いっ、いっ、いっ!」
「い?」
「…いる!!!!」

1階へ続く階段のその階下。
降りきった先に、体をおかしな方向に曲げて倒れている女の子が見えました。
そう、まるでたった今階段から転げ落ちたかのように。
首が明らかにへし折れているような曲がってはいけない方向に曲がっています。

その首が。

ぎぎぎ。

ぎぎぎ、と。

先ほどの人形たちのように。
ゆっくりとこちらに向き直ろうとしています。

…駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。ここから下には行けない。
でも後ろにもあのわけのわからない部屋しかない。
どうしよう、どうしようどうしようどうしよう。

そのとき。

不意に耳元に近いほどのすぐ後ろから声がしました。

「駄目じゃないかぁ。×××、お客様をおもてなししないと」

男性の声でした。

…そこから先の記憶はほとんどないそうです。
3人は気づけば近くのコンビニの駐車場で放心状態で座っており、どうやって逃げてきたのかも記憶が曖昧でした。
いやそもそもあれは現実だったのか?それすらも曖昧で、Iちゃんに至っては2階に上がってから先の記憶が一切ないそうです。

とにかく3人無事に帰ってこれた。
それでこの話はおしまいにしよう、と3人は決めました。

だけどひとつだけ。心に引っかかっていることがあるそうです。
最後に聞いた男性の声。
そこで男性が呼んだ、おそらくは例の娘であろうその名前を、そのときははっきりと聞こえてしまったような気がするのです。
それすらも忘れてしまっているのですが。

もしも。

もしも不意にその名前を思い出してしまったら。
彼女のことを、あの架空の世界のことを認識してしまったら。

どうなってしまうのでしょうね。

そんな気持ちが3人の心の隅に、残響のように残っているのでした。

                                    <了>

らんかいぎ【藍、一葉、恋花、瑤、千香瑠】

らん「きょう らんたちにあつまってもらったのは ほかでもないらん。じゅうだいじこうを きめないといけないらん」
らん「なにらん?なにらん?」
らん「てばやくすますらん」
らん「ねむいらん…」
らん「こいつざこらん!」
らん「…いまらんのことざこっていったらん!?」
らん「らんどうしで けんかはやめるらん!」
らん「せいしゅくにらーん」

一葉「さあ本日も始まりました、藍の藍による"らん会議"!実況解説は私、相澤一葉が務めさせていただきます!」
恋花「待って待って待って!?突っ込みどころが多すぎるんだけど!?」
一葉「恋花様!ここは藍の脳内、藍は大事なことを決めるときにこの"らん会議"を開催して内なる藍どうしで話し合いをしているのです」
恋花「…いろいろ言いたいことはあるけど一旦置いといて、ウチらは藍の脳内の産物ってこと?」
一葉「その辺はよくわかりません!」
恋花「わからないんかい」
一葉「まあ我々はワイプのようなものです」
恋花「脳内会議のワイプとは…?」

らん「こほん!らん。きょうのぎだいは おつきみのおだんごについてらん」
らん「おつきみってなにらん?」
恋花「そこから!?」
らん「ちかるが つくってくれるおだんごを みんなでたべるひらん」
恋花「間違ってないけどお月様どこいった」
らん「おもいだしたらん!おだんごたのしみらん!」
らん「らんはおだんごよりたいやきがいいらん」
らん「でもおつきみは おだんごをたべるってきまってるらん」
らん「そんなことだれがきめたらん?」
らん「むかしのひとらん」
らん「むかしばなしらん?」
らん「さるかにがっせんよりもむかしらん?」
らん「らんはうさぎとかめの おはなしのほうがすきらん」
一葉「おおっと!話がどんどん脱線しています!本題にもどせるのか!?」
らん「しゃらっぷらん!いまはおだんごの はなしをするらん!」
一葉「真ん中の議長っぽい藍が強引に話題を戻したー!この藍はできる!」
恋花「一葉テンション高くない?」
らん「おだんごには みたらし きなこ くさだんご いろいろしゅるいがあるらん!ちかるにつくってもらうおだんごを ひとつだけきめるらん!これはらんのライフプランにもかかわってくるらん」
恋花「ライフプランにはかかわらないって」
らん「どれもおいしそうらん」
らん「ぜんぶつくってもらえばいいらん!ぜんぶらんのらん!」
らん「らんもさいしょは そうおもってたらん…。でもそれはちかるのふたんがおおきいらん。だからちかるにおねがいするのは ひとつにしぼるらん」
らん「なるほどー」
らん「ちかるのたんじょうびも もうすぐだから すこしでもやすませてあげるらん!」
らん「さんせいらん」
らん「らんはぜんぶたべたいらん!」

一葉「千香瑠様のことを想って…藍も成長しましたね!感慨深いです!」
恋花「へぇー、ま、藍にしては殊勝な心掛けじゃん」
らん「かずはー、しゅしょうってなにー?」
恋花「ワイプに話しかけんな」
一葉「それはね藍、とっても立派でえらいってことだよ」
らん「わぁい、褒められたー」
恋花「ワイプと会話すんな」

らん「ぜんぶ!ぜんぶよこすらん!」
恋花「誰かこの藍だけつまみ出して」

らん「らんは みたらしがいいらん!あまくってとろとろらん!」
らん「きなこにきまってるらん!」
らん「さんしょくだんごらん」
らん「ごまだんごらん」
らん「らんはあんこがいっぱいつまってるやつがいいらん」
恋花「意見ばらっばらじゃん」
らん「らんはたいやきがいいらん」
恋花「前提を無視すんな」
らん「それらん!おだんごじゃなくてたいやきをつくってもらえば なやむひつようないらん!」
らん「でもおつきみは おだんごをたべるってきまってるらん」
らん「そんなことだれがきめたらん?」
らん「むかしのひとらん」
らん「むかしばなしらん?」
恋花「話題がループしてる!」
一葉「まずいですね!ここはさっきの議長っぽい藍の実力の見せどころです!」
らん「すやすや…」
恋花「寝てる!」
らん「ぷー!こんなじかんにねるざこがいるらん!」
恋花「自分を煽るな」
らん「らんはこのらんとちがってざこじゃないらん!ざこじゃ…ない…らん…すぅ…すぅ…」
らん「またひとり ざこになったらん」
らん「らんはざことは よばれたくないらん!」
らん「らんもらん!これは いじといじの しょうぶらん!」

千香瑠「始まったわね…。藍ちゃんの藍ちゃんによる不眠バトルが…!」
恋花「どっから湧いてきた」
一葉「脱落した者は容赦なく雑魚のレッテルを貼られる恐ろしい勝負ですね…」
恋花「どの藍が勝ってもおんなじだから」
瑤「眠気を我慢する藍もかわいい…」
恋花「また増えた」

らん「いちばんはらんにきまってるらん!こうやって おふとんに はいっても ねむくならないらん!…スヤァ」
恋花「余計なことしなきゃいいのに即落ちじゃん」
瑤「即落ちする藍もかわいい…」
らん「らんは…らんは…すやぁ…」
らん「ぐんない」
らん「あんなにいたらんが もうらんとらんだけになったらん…」
らん「いっきうちらん」
一葉「ついに藍が二人に絞られました!果たして勝つのはどっちか!?」
らん「ねたほうが らくになれるらん。むりするならん」
らん「そっちこそらん…」
らん「…」
らん「…」
らん&らん「すやぁ…」
一葉「おぉっと!これは同時KO!まさかの幕引きです!」
千香瑠「藍ちゃん、がんばったわね…」
瑤「がんばる藍もかわいい…」
恋花「なにこれ」

一葉「ああ…藍の意識とともに我々も消えゆく定め…それではまた会う日までー」
千香瑠「夜更かしはだめよー」
瑤「すやすやな藍もかわいい…」
恋花「瑤はそれ以外言うことないの」

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「むにゃ…むにゃ…ふぃなーれはキャンディーのつかみどり…」
「ふふっ、藍ちゃんどんな夢を見てるのかしら」
「さっきまでお月見のお団子お団子ってはしゃいでたのにほーんとお子様なんだから」
「お月見の当日はみんなでいろんなお団子を作りましょうか」
「それ、いいね。藍もいろんなお団子食べれて喜ぶと思う」
「そうと決まれば早速準備ですね!明日のお月見が楽しみです!」

タイトル

本文