存在しないメモスト置き場5

Last-modified: 2023-10-06 (金) 22:20:02
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月下の傍観者.jpg

月下の傍観者【鶴紗、梨璃】

月下の傍観者【鶴紗、梨璃】

外征の日、ちょっとした戦闘を済ませた後に受け入れ先のガーデンから提供された宿泊施設でのこと、みんなが出撃に備えて寝静まっているだろう夜更けに、わたし、安藤鶴紗は一人で窓の外を眺めていた。
ヒュージの出現を警戒してとか、異変に備えてとかいう理由じゃない。
リリィという貴重な戦力を温存するために、見張りは防衛軍の人たちが買って出てくれていた。レアスキル「鷹の目」持ちでもない限り目視での確認には限界がある。あたりの様子を見るのが目的なら、観測機器の取り扱いになれた防衛隊員に素直に任せる方がどう考えても合理的だった。
何か起きればすぐさま彼らから通信が飛んできて無理やりにでも目を覚ましてくれるだろう。そういうわけでこの時間までわたしが起きている必要は全くなかった。
外征の時にこんなふうに自分のペースで夜更かしできるのは珍しい。外征先ではたいてい大部屋で雑魚寝みたいな状況が多くて、今回みたいに各人に個室が割り当てられるのはレアケースだった。他校のリリィを呼ぶくらい追い詰められているんだから、普通なら満足な施設を用意できないのも当然といえば当然だ。今回は運がいい。
慣れない土地で翌日に戦いを控えて、一人でゆっくり過ごせるのはありがたい。──だというのに、その夜は静けさが返って耳に響いて、目が冴えてしまって眠れなかった。

「……」

窓際に置かれたベッドのへりに腰掛けて、ぼんやりと夜空に目を向ける。
今夜は月が大きく見えた。別に天体や暦に詳しいわけではないけれど満月に近いのだろうということくらいはわかった。
太陽の光を反射したその光は、しかしそのごく一部しか跳ね返していないことにより昼間のような激しい熱量を感じさせず、ただ寝つけない子供に寄り添うようにうっすらと、世界をほんの少し明るくするだけだった。
夜は嫌いじゃない、静かでゆっくり考え事ができるし、わたしが愛してやまない猫が活発になるのも夜だ。どうせ眠れないならたまにはこの空気に浸るのも悪くない。
昼間にはない独特の空気を感じながらとりとめのないことを考えていたその時、ガチャリと背後でドアが開く音がした。突然のことに対して、反射的に体を180度ひねる。

「あ、あれ!?鶴紗さん!?」
「……梨璃?」

振り向いた先、開いたドアの向こうから顔を覗かせていたのは、わたしの同級生であり一柳隊の隊長でもある梨璃だった。
こんな夜更けに梨璃が人の部屋を尋ねるなんて意外に思えた。何となく予想は付いたけど、その理由を一応聞いてみる。

「どうかしたの?」
「い、いえ……部屋を間違えちゃったみたいです……!」

想像通りの答えが返ってきた。なんだかおかしくなり口角が上がる。

「ふふ、やっぱり」
「すみません、起こしちゃって……!」

梨璃は申し訳なさそうに頭を下げる。こんなことでそこまで謝らなくてもいいのになんて思ったけれど、同時にそこが彼女の魅力にも感じる。
どんな時も一生懸命で精いっぱいで、支えてあげなきゃって気持ちになってしまう。だからこそ梨璃はわたし達の隊長なんだから。

「いいよ、どうせ眠れなかったから」
「……本当ですか?私に気を遣ってたりは……」
「ううん、だってほら、さっきまで寝てた人がこんな座り方しないでしょ?」
「確かに……」

寝ていたところを起こされたならベッドの上で上半身だけ起こしてドアの方を向いているはずだ。こんなふうに横向きに窓側に体を向けているはずがない。
それを聞いて梨璃の表情が少し変化する。一瞬ほっとしたような顔になったかと思うと、すぐさま何かを心配するように眉をひそめてこちらを見つめてきた。

「鶴紗さん、ひょっとしてどこか調子が悪いんじゃないですか?」
「え?」
「眠れないなんて、もしかして昼間受けた傷が痛むとか……!」

今日の戦闘で、ヒュージの不意打ちによって私は軽いけがをした。もとはといえば私の無茶が原因のものだ。私の持つ強化スキル「リジェネレーター」は傷は一瞬で治るけれど、その痛みまでは消えない。それを心配してくれているのだろう。

「ありがとう、でも大丈夫だよ、ただ目が冴えてるだけだから」
「そ、そうですか……」

まだ納得がいかない様子の返事が返ってくる。
嘘をついているわけでもないのに信じてもらえなくて気まずいような、心配してもらえてうれしいような、とにかくむず痒い感覚がした。

「梨璃はどうしてこんな時間に?」

わたしは楓みたいなストーカー気質じゃない。だから梨璃の生活習慣に詳しいわけではないけれど、それでもこんな時間に出歩くようなタイプじゃないことはわかっているつもりだ。

「うーん……」

梨璃は何かを悩んでいるようで、わたしたちの間にほんの少しの沈黙が流れた。
まさか教導官に対してそうするように深夜徘徊の言い訳を考えているのかな、別に怒るつもりはないんだけど、なんて考えていると、梨璃が伏せた顔をこちらに向けて口を開いた。

「鶴紗さん」
「なに?」
「隣、いいですか?」

わたしの返事を待たずに梨璃はこちらに近寄ってきて、すとんとベッドのマットレスの上に腰を下ろした。
肩と肩が触れ合う距離まで梨璃の存在が近づいている。ふわふわとした髪からほんのりと甘い香りが漂ってきた。

「梨璃?」
「少し言いにくいんですけど、実は私も眠れなかったんです、お姉さまのところへ行こうかなとも思ったんですけど、もう寝ちゃっていたみたいで……」

得心がいった。夢結様に会うことをあきらめて部屋に戻ろうとした時に、間違えてわたしの部屋に入ってしまったのだ。

「久しぶりの外征で緊張してるのかな……、隊長なんだからしっかりしないとダメですよね」

えへへ、と人差し指で頬を掻きながら気まずそうな笑顔をこちらに見せる。
わたしは突然隣に来られてから少し心臓の鼓動が早まるのを感じていたけれど、梨璃の方が申し訳なさそうな顔でそんなことをいうものだから。甘い気持ちに浸ってもいられなかった。
何となくだけど、その言葉からは梨璃の気負いみたいなものを感じた。リーダーとして強くならないといけない、周りに弱い姿を見せてはいけない、そう言ったことがプレッシャーになっているのだろう。

「いいんじゃないかな」
「へ?」

梨璃が意外そうな顔でわたしの目をのぞき込んでくる、わたしの発言の意図を測りかねているようだった。
丁寧に説明するためにさらに言葉を紡いでいく。わたしは自分の思いを長々と口にするタイプじゃない。柄にもないことを、なんて思って少し照れくさかったけれど、ここで止めるわけにはいかなかった。

「いいとおもう、緊張しても。戦うのが怖いのは当たり前だもの。戦いは痛くて、怖くて、苦しい、だからみんなで助け合えるし、誰かを守ろうとできるんだと思う」
「鶴紗さん……」
「私だってそう、梨璃が気付かせてくれたことだよ」

強がっていたわたしを絶望の底から救ってくれた梨璃の言葉が、まだ耳に残っている。
誰しも心の深いところでは戦いを恐れている。それは傷の痛みだったり、大切なものを失うことだったり、責任に対する重圧だったりと人それぞれだろうけれど、全く嫌な気持ちを抱かないで戦っている人はいないんじゃないかって思った、梨璃のおかげでそう思えるようになった。
あの時梨璃がわたしの所へ来てくれたのも、梨璃自身がヒュージとの戦闘に対して少なからず恐れを抱いていたからこそ、それをわたし一人に背負わせまいとしてくれたんだと思う。
だから、ヒュージとの戦闘に対して緊張を抱くことを否定することはできなかった。それはわたし自身も必死に押さえつけていた苦しみで、何より梨璃とわたしをつなげてくれたものだから。

「だけど梨璃は優しいから、自分だけじゃなくて人のことも考えちゃって、それが重荷になってるんじゃないかな」
「そ、そうなのかな……」
「うん、きっとそう」

今回は特に救援要請を受けての外征だから、力にならなければ、助けてあげなければという思いが強いんだろう。
それは決して悪いことじゃない、寧ろリリィとして大切なことに思えた。誰かのことを思ってそのために動けるというのは人々を守るためには必要不可欠な精神で、間違いなく梨璃の美点だ。
けれど今回に限ってはそれがかえって悪い方向に作用した。

「だけど」
「た、鶴紗さん?」

そっと梨璃の手に触れる。また柄にもないことをしてしまった。今度は照れくさいなんてレベルじゃなく、顔が熱を持っているのが自分でもわかる。
薄暗いこの部屋ではわたしの顔色も梨璃から良く見えないだろうことを祈る。うっすらと明るい程度の月の光が、今この瞬間だけは少し憎らしかった。

「わたし達がいるから大丈夫。誰も傷付けさせないし、守って見せるから、だから安心して」
「鶴紗さん……」

梨璃だけが不安に思う必要はない、あの日わたしにそうしてくれたように、力を合わせて戦い、苦しみを分かち合えばいい。

「そうですよね、ありがとうございます、鶴紗さんの言葉を聞いて、ちょっと楽になりました……、すみません、付き合わせちゃって」
「ううん、気にしないで」

梨璃に助けてもらって、大切なことを教えてもらって、それで今わたしはこの場にいることができている。だからこれは梨璃にもらった物の中からほんの一部を返しているだけだ。
なのに梨璃はわたしにお礼なんか言っている。本当ならお礼を言うのはわたしの方なのに。

「ふぁ……、安心したら、なんだか眠くなってきちゃいました……」
「もう部屋に戻る?」

わたしの問いかけに対して、梨璃は少し気まずそうな顔でこちらを見つめてきた。

「そ、それが……一人になるとまた不安が戻ってきちゃいそうで……」

その言葉で何となく続きが察せられた。

「その、ここで寝ちゃ……だめ、でしょうか……?」
「……!」

予想していたというのに心臓が跳ねるのを抑えられなかった。
梨璃は上目づかいで申し訳なさそうにこちらの様子をうかがってくる。夢結様は普段からこんなことを体験しているのか、と思うと、うらやましいと同時によく耐えられるものだと感心せずにはいられなかった。

「……いいよ」

元から断る理由もないけれど、理由があったとしても断れなかったかもしれない。

「ありがとうございます!」

薄暗闇の中でも梨璃の表情がぱっと明るくなったのが分かった。

「じゃあ、どうぞ」

座ったままで自分の膝の上をぽんぽんと叩く。

「膝枕、してあげる」
「じ、じゃあお言葉に甘えて……」

実際のところ、何とか自然な流れで膝枕を提案した風を装ったけれど、内心は穏やかじゃなかった。
寝ている梨璃を完全にほっておくのも申し訳ないけれど、かといって梨璃と添い寝なんてして、顔が目の前にあるのを、体が密着するのを想像すると耐えられそうになかった。
色々と考えて必死に絞り出した妥協案が膝枕だった。
梨璃も少し恥ずかしそうにしながらもわたしの太ももに頭をのせる。

「柔らかくって気持ちいいです……」
「そう、よかった」

梨璃が嬉しそうにしてくれているのを見て、恥ずかしいのに耐えてよかったと思う。

「鶴紗さんって、なんだかお姉さま見たいです」
「?」
「強くって、無口だけれど優しくって、いつも私を守ってくれて……」
「ふふ、ありがとう」

そういえば梨璃は先ほど、夢結様のところへ行くつもりだったと言っていた。
わたしが梨璃にとって夢結様の代わりになれるとは思えないけれど、ほんの少しでもその穴を埋められればそれ以上のことはない。
それを梨璃に直接伝えてもらえたのが無性に嬉しくて、全身がこそばゆい感覚につつまれる。

「……」
「梨璃?」

会話が途切れたからこちらから何となく呼びかけても、彼女からの返事はなかった。
どうやら眠りに落ちたらしい。楽になったというのはわたしに気を遣っての言葉ではなかったらしく、もう梨璃の体からは力が抜けきって、その胸は上下にゆっくりと規則正しく動いていた。

「……」

すうすうと寝息を立てる梨璃の顔を見ていると私もだんだんと眠くなってきた。そこでようやくわたしは、自分が眠れなかった理由に気付いた。

(緊張してたのか、わたしも……)

慣れない土地で、いつの間にか当たり前になっていた一柳隊の賑やかさから離れて、心細かったのかもしれない。
梨璃のぬくもりを感じることで心がほぐれていく。体の緊張も解けてすぅっとリラックスしていくのが分かる。

(もらってばっかりだな……)

さっきの会話で彼女を励ますことができて、ほんの少し恩返しできたと思ったのに、また借りが一つ増えてしまった。
一体いつになれば返しきれるんだろう。それは途方もなく、一生終わらないようにすら感じたけれど、決して嫌な気持ちはしなかった。同じ永遠でも、梨璃と出会う前に感じていたものとは正反対の永遠だった。

「ん、んぅ……」

梨璃を起こさないように静かに、そっと毛布をかける。
命を救うとか人生を変えるとか、大きなことは難しいから、まずは小さなこと、夜眠れない時にそばに寄り添うとか、風邪をひかないように毛布をかけるとか、そういったことから始めよう。
梨璃から受け取った光のほんの少しずつでも反射して、彼女を照らすことができれば、いつかきっと……。

「おやすみ、梨璃」

【おしまい】


ゼロ距離のしあわせ.jpg

ゼロ距離のしあわせ【紅巴、叶星】

ゼロ距離の幸せ【紅巴、叶星】

‘’御台場沿岸 遊歩道’’

 朝です。
 御台場の波はいつも穏やかです。
 人工島の岩壁(コンクリート)にさやぐ水は白波になるでもなく、チャプチャプと音をたてて笑っています。
 ここの海の色は鉛のようにどんより澱んでいて、灰色の建築群によく溶け込んでいます。
 こんな様子ですから、内陸との距離も近いせいもあって、あまり海という気がしません。
 唯一、潮の匂いだけがこの水たまりが海であることを示してくれています。

「……はぁ、久しぶりです」

 いま、土岐は沿岸の遊歩道にきています。ひとりです。
 ここはちょうどレインボーブリッジの全景を眺望できる場所なのですが、いつも人気がありません。
 適当な位置でコンクリートの縁に腰掛けて足をぷらぷらさせながら無為に時間をつぶします。
 くるりと見回しても、やっぱり周りには人の姿はありません。
 ……よし。

「Mmm…」

 ここでなら土岐は安心して歌えます。
 ひっそりとしたこの場所は御台場の中等科時代に見つけたスポットのひとつです。
 わたしは歌うのは好きなのですが、じぶんが歌っているところを他人にみられるのは苦手なのです。

「La La La…」

 海風に乗った土岐の歌はささやかな潮騒の中に飲み込まれて消えてゆきます。
 誰に届けるわけでもないじぶんのための独唱。
 中等科生だったころ、自主訓練の休憩中によくこうしていました。
 じぶんの歌が風景に溶けてゆく感じが好きなのです。
 
「Sha La La…」

 黄昏に染まるビル群をのぞみながら、土岐はくり返し歌っていました。
 ほんの一年前までずっとこうしていたはずなのに、どこか遠くなってしまった思い出です。
 土岐が感じる過去との距離感は、いまの土岐があまりに恵まれているせいで遠く感じてしまうのでしょうか。
 あの頃と今。
 土岐は想像もしなかった未来をすごしています。
 わたしが漂っているのはこんなに穏やかな海ではないですけれど、連れ添ってくれる仲間と、さきに灯りを照らして導いてくれる先輩方とに囲まれて、なんとか前へ進むことができています。

「La La La… Tra La La…」

 中等科時代、わたしはスキラー数値が足りなくて、御台場女学校ではマディックアカデミーのアーセナルに所属していました。
 能力が足りずリリィに憧れるふつうの少女、それが土岐でした。
 数あるガーデンの中で御台場を選んだのはスキラー数値が低くても入学できる点もあります。
 御台場女学校からはスキラー数値が50に満たない生徒からも多数の優秀なリリィが輩出されているのです。
 いまの時分だと特に有名なのはロネスネスの井草昴(いぐさすばる)様でしょうか。
 昴様は小等科入学時のスキラー数値は10に満たない、非常に厳しい数字でした。
 それこそ血に滲む努力の果てに、御台場3大レギオンの司令塔にまでのぼりつめられたのです。

――成功は苦しみからこそ得られる。

 これは御台場女学校の校訓であり、御台場の生徒たちはそれを体現する苛烈な訓練をこなしています。
 リリィになりたいマディックやアーセナル(アーセナルでもリリィの方はいらっしゃいますが……)にとっては、こういった信念こそがもっとも支えになるのかもしれません。
 たとえ不断の努力を続けてもマディックのうちでリリィになれるのは1割程度なのですが、強化リリィになる以外の手段でリリィになるには、ここが最後の砦なのだと土岐は思っています。

「La La La…」

 土岐はいつからかリリィとリリィの関係に焦がれるようになっていました。
 どうしてそうなったのかと問われれば、そういう性分だったとしか申し上げられません。
 気づけば自然とそうなっていました。
 関係性リリィオタクという生き方をするようになった土岐は、憧れを心中で肥やしながら御台場女学校でひときわ大きな輝きをはなつ双星を見つけます。
 そう。
 叶星様と高嶺様です。

「Sha La La… Sha La La…」

 御台場女学校はリリィ課程とマディック課程ではそもそも校舎が違います。
 そのため残念ながら、朝から晩まで御台場女学校のリリィを好きなだけ目に焼きつける、というわけにはいきませんでした。
 それでも土岐は休みの日や放課後にはしっかりとリリィの訓練や出撃の様子を観察して糊口をしのいでいたのです。
 東京沿岸の防衛を一身に背負う御台場のリリィたちの奮闘を土岐は影から見守っていました。
 けっしてわたしなどの手の届かないところに彼女たちはいたのです。
 誰しもが刮目に値するリリィでしたが、やはり土岐の眼は叶星様と高嶺様に注がれていました。
 幼馴染という関係。戦場を駆ける度に深まる絆。
 それら自体はめずらしいものではありません。
 土岐の心を打ったのは叶星様と高嶺様の在り方なのです。
 叶星様が手を震わせているとき、そっと寄り添い、その手を包む高嶺様。
 怯えを抱えたまま戦場で指揮を執る叶星様を高嶺様が鼓舞します。
 一見すると高嶺様が一方的に叶星様を守っているように見えるかもしれません。
 しかし、叶星様へ向けるまなざしは対等なものです。
 一方的なものなどではなく、共に並び立とうとする強い意志が宿った眼です。

「Sha La La… Tra La La…」

 高嶺様が使うリサナウトは重心が高く扱いが非常に難しいCHARMです。
 しかし高嶺様の刃がその重量に澱むことはありません。
 ゼノンパラドキサに乗った流麗な太刀捌きは鋭くしなやかに、神事の演舞のようにヒュージを切り裂き、見る者の目を奪います。
 TZで独楽(こま)のようにくるくると敵を薙ぎ、払い、討つ。そんな高嶺様を下支えするのがBZの叶星様です。
 あの頃の船田予備隊は叶星様が指揮官でした。
 叶星様のもとで戦斧を振るう高嶺様には強烈な魅力がありました。
 土岐は高嶺様の戦うお姿からは、貴女の隣だから戦えるのだと叫ぶような凄みを感じていました。
 それは今になっても、グラン・エプレで間近に見ることができるようになった今も変わっていません。
 土岐はずっとこのお二人を遠巻きながら見ていたいと思っていました。
 御台場女学校こそ土岐がいるべき場所だと、そう信じることができました。
 しかし、お二人は御台場女学校を去ってしまったのです。

(どうしよう……)

 じぶんの魂の半分が失われたような感覚。
 途方もない喪失感。
 あのお二人がいない御台場女学校ではもう、土岐の心を潤すことはできません。
 耐え難い飢餓感が常にまとわりつき、遠く神庭の地へと離れてしまわれたお二人を思うほどに、土岐の心は乾きに悶えました。
 このまま卒業まで海に浮かぶ人工島の上でひからびていくのだという絶望。
 生きる糧を失ったわたしは、しかし、御台場女学校の理念に救いを見出します。

――成功は苦しみからこそ得られる。

 そうだ。
 リリィになろう。

 土岐の中で闘争がはじまりました。
 訓練という名のじぶんとの飽くなき決闘に身を投じることで己の精神を保ったのです。
 
 叶星様と高嶺様を失って、1年。
 土岐は自身をいじめぬきました。
 ただ、あのお二人の傍らでその友愛を、勇姿を、熱情を見守りたいがために全てを捧げて訓練に励みました。
 マディックからリリィへの転身、それを成就できるのは高々1割です。
 天国への切符を手にするためにわたしは井草昴様のように寝食をも訓練に見立てて研鑽に没頭しました。
 そして、奇跡が起きたのです。
 スキラー数値50越え。
 あのときの喜びは、まだ褪せることなく心に刻まれています。
 土岐は無宗教ですが讃美歌を歌う気持ちはわかります、今がその歌いたい気持ちです。
 かなたかよ、御許へ近づかん 讃美歌320番ト長調。

「主(かなたか)の御許へ!」

 ああいけません。
 パッションにまかせてこんな大声で歌うのはいけないことです。

「たとえこの身、磔(はりつけ)になろうとわが歌を捧ぐ!」

 こんなはしたない姿を叶星様たちにみられたら幻滅されてしまいます。
 まぁ、ここには土岐以外の人はいらっしゃらないので大丈夫です。
 すー、はー。すー、はー。
 歌うのを止めて、いったん深呼吸です。
 心を落ち着けて、念のためあたりを確認します。

「あっ」
「あっ」

 振り返った瞬間、叶星様と目が合いました。

「……えっと」

 ばつが悪そうに叶星様が表情を翳らせました。
 下級生の痴態をたまたま目撃してしまって気まずいというような、そんな表情です。いや、ようなではなくその通りです。

「あの、声をかけようとは思ってたんだけど、紅巴ちゃんが歌ってるの邪魔したくなくて……その、ごめんね」
「……ふ、ふぁい」

 ……。
 恥ずかしい!!
 叫んだのもそうですが、舞い上がって歌っていたのも聴かれていたようです。
 なんてことでしょう。
 確かに、土岐は長時間まわりを確認せずに放歌高吟していました。
 途中で叶星様が土岐の声に気づいて来てくださったのでしょう。
 そしてタイミング悪く、土岐は思い出し喜びで叫んだ挙句、讃美歌してしまったのです。
 嗚呼。消えたい。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのよ? 紅巴ちゃんの歌声すごく素敵だったわ」
「ひぃいい!! 許してくださいぃぃい!! 土岐は……土岐はっ!!」

 羞恥に耐えきれず土岐は顔を覆って身をかがめます。

「紅巴ちゃん?!」
「すみませんすみません!」
「いえ、こちらこそごめんなさい。なんだか、盗み聞きしてしまったような形になっちゃって……」
「叶星様は悪くないですぅ……土岐が、これは土岐のせいです!」
「そんなことないわ! く、紅巴ちゃん顔をあげて! ね? ね?」

 丸くなって悶絶する土岐の背を叶星様がやさしく撫でてくださいます。
 ひきこもごもの感情が混ざり合って、土岐の精神は荒れ狂う海のようです。
 どうにか落ち着こうと、がんばります。
 すー、はー。すー、はー。
 深呼吸。深呼吸。

「……大丈夫?」
「は、はい。大丈夫……です」

 わたしは声楽科の生徒です。
 人前で歌うのが苦手と言っても、それは徐々に改善されてきています。
 ただ、いまの讃美歌を叶星様のまえで披露するのはいろいろとあまりにも無理です。
 不幸な事故とはいえ、とんでもないものを叶星様のお耳に入れてしまいました。

「か、叶星様はどうしてここに?」
「今朝はちょっと早く目が覚めてね、久しぶりの母校だから散歩してたの。そしたら、紅巴ちゃんの背中をみつけて」

 そもそも、わたしたちグラン・エプレが御台場に来ているのには理由があります。
 昨日までグラン・エプレは御台場女学校のロネスネスやヘオロットセインツと共同で、房総半島の防衛任務についていました。
 特型ギガントのメイルストロムを含む、多数のヒュージから半島を防衛するための緊急出撃。
 わたしたちは総力をあげて戦い、ヒュージを討滅することに成功しました。
 しかし損耗を強いられる激しい戦いだったため、CHARMの修理などが必要になったのです。
 それで土岐たちは共同作戦で戦った純様・椛様らとともに御台場女学校のアーセナルへ帰投し、CHARMの整備をお願いしてつかのまの骨休めをしている状況です。
 いちおう予備のCHARMもあるのですが、特型ギガント級との戦闘で消耗したマギや体のこともあり、今日はよほどのことがないかぎりは土岐たちに出撃の要請はこないそうです。
 土岐たちのかわりにルドビコのリリィたちががんばってくれているのでしょうか。

「なんていうか、紅巴ちゃんは本当にいつも、私と高嶺ちゃんのことを思ってくれているのね」
「はっはいぃいぃいい!! いつも考えていてすみませんんん!!」
「落ち着いて紅巴ちゃん?!」

 そんなわけで土岐はひとり、朝から御台場をふらふらしていたのでした。

「はぁはぁ、落ち着きます」

 もはやいまさらの感もあるのですが、さすがに讃美歌を聞かれて平常心を保っていられるほど土岐の心臓は頑丈ではありません。
 ふつうにしたいのですが、もうすこし時間がかかりそうです。

「……あ、あの。そういえば、高嶺様はご一緒ではないのですか?」

 わたしは気になっていたことを訊きました。
 もしいまのを高嶺様にまで聴かれていたら、土岐はこのまま御台場の海に身投げしてしまうかもしれません。

「高嶺ちゃんならまだ眠……お部屋にいるわ」
「よ、良かった……」

 高嶺様に聴かれなかったのは不幸中の幸いです。

「それで、ここにいたのは紅巴ちゃんもひょっとしてお散歩してたのかしら?」
「は、はい。そんな感じです」
「もしかしてこの場所にはよく来てたの?」
「その通りです……もともとここは人通りもなくて、この時間だとひとりになれるので、それで、ここで歌ったりしてました。すみません」
「謝らないで紅巴ちゃん。私は紅巴ちゃんの歌が好きなんだから」

 微笑みながら叶星様がわたしの隣に腰をおろしました。
 肩が触れ合うほど距離が近いです。

「……ねぇ、紅巴ちゃん」
「はいぃ!」
「紅巴ちゃんが神庭に来たのは私と高嶺ちゃんを追って、ということなのよね」
「……はい。そうですけれど」

 なんでしょうか。
 もはや公然の事実となった土岐の神庭入学の経緯について叶星様がなにごとか問いただしたそうな雰囲気です。土岐は神庭へ入学してすぐ、グラン・エプレの一員に抜擢されましたとき、書き溜めていたノートもとい日記帳を叶星様と高嶺様にすべて見られてしまいました。それは決して盗み見されたなどというわけではなく、土岐の日記帳を使ってグラン・エプレ内で交換日記を行ったためなのです(詳しくはLast Bullet内レギオンストーリー「グラン・エプレ」2話:爆誕!!サブリーダー-1をご覧くださいませ)。

「私ね、すこし思っちゃったの。もしここに残って戦い続ける決断をしていたら、どんな未来を迎えていたんだろうって」
「えっ」

 叶星様はその柳眉を悲しげに顰め、わたしの目を慈しむように見つめてきました。
 土岐の瞳の奥にあるなにかを見極めようとしているようなまなざしです。

「紅巴ちゃんは、御台場を離れたこと後悔してない?」
「後悔なんて、そんなのしてません! 土岐は叶星様と高嶺様のいる学校に行きたいって、そうずっと思ってましたから」

 むしろあのときは御台場を離れて無事に神庭へ行けることが決まり有頂天になっていました。

「うふふ。紅巴ちゃんは本当にまっすぐね」

 叶星様が笑顔を作ってみせましたが、そのまなじりにはまだ悲しげな余韻が残っています。

「あの、どうしてそんなことを……」
「歌っている紅巴ちゃんの背中を見ていたら、ちょっぴり不安になっちゃったの」
「ふ、不安って」

 叶星様はすこし目を伏せました。そこで土岐は気付きました。
 叶星様が醸しているのは悲しみの色ではなく罪悪感なのだと。
 でも、叶星様が土岐に対して罪悪感を感じるというのはどういうことなのでしょうか。身に覚えがまるでありません。
 叶星様が言葉を続けます。

「間接的にとはいえ、私は紅巴ちゃんが御台場を出る理由を作ってしまったわ。もちろん、自分の進路を決めたのは紅巴ちゃん自身の意志だけど、でも、東京のトップを飾る御台場に紅巴ちゃんが残っていたら、もっと活躍できたんじゃないかって、そうも思うの」
「わ、わたしが御台場で活躍?!」

 叶星様の口から出てきたのはとんでもない空想です。
 土岐が御台場で活躍などと、そんなことできるとは思えません。

「むむむ無理ですよ! わたしじゃ御台場のリリィの後ろをついていくのがやっとです」
「そうかしら? 私はね、紅巴ちゃんならここでも、東京御三家たる御台場女学校でもしっかりやっていけると思うわ」
「いやいや! わたしなんかが御台場でやっていくのは厳しいと思います!」
「……いいえ。そんなことはないわ。けっして、そんなことはない」

 静かにそう言い切り、叶星様の双眸が指揮官としてのものに切り替わりました。
 突然、わたしに向けられるまなざしは重たい質量を持ってわたしの眼を射抜きました。それはまるで冷ややかな鋼鉄のようでした。深く見つめられるほどに土岐の耳からは海の音が遠のいてゆきます。静寂の中、叶星様の声が凛と響きました。

「あなたは自力でリリィになった。それにレアスキルにも、希少なテスタメントにまで覚醒してみせた。私と高嶺ちゃんが神庭女子へ出て行ってからずっと、紅巴ちゃんがどれほどの努力をしてきたのか、修練に身を捧げたのか。それを思うと、考えずにはいられなくなったの」

 わたしのした努力はわたしのための努力です。叶星様のためでも高嶺様のためでもありません。中等科3年生のときに費やした1年は間違いなくじぶん自身の野望のために捧げられたものです。しかし、叶星様はその土岐の1年と御台場でのありえなかった未来に別の価値を見出しているようでした。

「これは私の傲慢な考えかもしれない。でも、私がもっと強くて、あのまま御台場に残っていたなら、紅巴ちゃんにはもっと違った未来があったんじゃないかって思うの。紅巴ちゃんが私たちを慕ってついてきてくれたのは嬉しい。本当に嬉しい。でも、それでもやっぱり、私が紅巴ちゃんの可能性の一つを潰してしまったんじゃないかって、そんなふうにも思ってしまうの」

 叶星様が体ごと後ろを振り返りました。わたしも倣って後ろへと向き直ります。振り返ると眼前には御台場のガーデンが広がっています。

「成功は苦しみからこそ得られる。紅巴ちゃんはこの校訓をそのままにリリィとして開花したんだもの。だから、この御台場でだってきっと」

 嫌だ。聞きたくない。そんなことは考えたくない。
 気付けばわたしは叶星様の言葉をさえぎっていました。

「わ、わたしはっ! 叶星様が笑顔じゃない学校なんていやです!」
「え」

 叶星様の表情が揺らぎました。

「……笑顔?」
「そうです笑顔です! 土岐にとっては叶星様と高嶺様が決めたのならそれが正しいことです! あの当時、どんなことがあったのかは土岐には想像もつきません……でも、お互いを思い合って、二人の幸せを願う叶星様と高嶺様が神庭を選んだのなら、それが絶対に正しいはずです! 御台場ではそれが叶わないと思って、笑顔でいるために神庭を選んだのなら、それでいいんです! わたしは神庭に入学して、ようやく見ることができたお二人の表情が笑顔で、とても幸せでした! だから! 叶星様は間違ってなんてないです! わたしは、いまだってヒュージと戦うのは怖いし、こんな世界で悲しいことも多くて、でも、綺麗だって思えるものをたくさんみつけられました! 神庭に入学して、いろんな人と出会って、歌や芸術で繋がって、大事にしたいって思えるものがたくさんできました! そういったたくさんに気付けたのは叶星様と高嶺様を追ってきたからです! わたしは……神庭にいってよかったって、ほんとにそう思ってます!」

 言いながらヒートアップして、わたしは早口にまくしたてていました。
 いっぺんに肺の中の空気すべてを使ったせいではぁはぁと息がきれます。
 あぁ、なにか失礼なもの言いをしてしまったような気がします。じぶんでも途中からなにをいってるのかわからなくなっていました。
 当惑していた叶星様の相貌に、徐々に色が戻ってきます。
 それは日常の色。
 御台場の海がまとう鉛のような色ではなく、神庭の花園を思わせる明るい色。

「紅巴ちゃん……」

 土岐はいま、どんな顔をしているのでしょうか。
 見つめ合っていた叶星様はすっと目を閉じて、ほんの数瞬思案なさいました。
 そして卒然と眼を見開き、困ったように相好をくずしました。

「ごめんなさい。私ったら、失礼なことを言ってしまったわ」

 言いながらかぶりを振った叶星様はもう、いつもの叶星様でした。

「私、だめね。御台場に戻ってきて、昔を思い出して弱気になってしまったのかしら……」
「あの……もしかして昨日、御台場の方となにかあったのでしょうか?」
「いいえ。何かあったというか、その……紅巴ちゃんなら私が船田予備隊にいたのは知ってるでしょう? 私が御台場を離れてから1年以上経ったけれど、純はずいぶん変わっていたわ。もちろん変わっていないところもあるけれど、あの子は変わった。きっといい方向に。メイルストロムとの戦いを通じてそれが強く伝わってきたのよ。そんな純の姿を見せつけられたら、私の方はあれから変われたのかな? って、不安になってしまったの」

 船田純様。
 純様が率いていたかつての中等部船田予備隊は、あまりに苛烈な純様の思想・言動についてゆけず、ついには解散してしまいました。
 純様はその事件が切っ掛けで遊学の旅に初様と出られて、そしてついに修業の末に御台場へ戻られてロネスネスを結成します。
 あの頃の御台場女学校はまさに動乱の時代でした。
 叶星様が純様や船田予備隊についてなにかを語ってくださったことはまだありません。あのころに起きた事件が叶星様と高嶺様を御台場から遠ざけてしまったことは土岐もわかっています。
 当時の叶星様がなにを思い、船田予備隊に居たのか、御台場女学校を去ったのか。
 それをわたしの方から訊ねることなどできないことです。そんなのもってのほか、憚られることです。

「ごめんなさい紅巴ちゃん。あなたの思いを疑うようなことを聞いたわ。許してちょうだい」
「そ、そんな。謝らないでください叶星様……」

 べつに叶星様から謝罪を受けるようなことはされていません。
 あぁ! 土岐なんかに頭をさげないでください叶星様!

「もう大丈夫よ。紅巴ちゃんを不安になんてさせないわ。これからだって、神庭にきたことを後悔させないように、私は頑張る。私と高嶺ちゃんの背中を追ってきたことをあなたがいつまでも誇りに思えるようにね」
「か、叶星様」

 なんということでしょう、叶星様があろうことかわたしのために頑張るなどとおっしゃってくださいました。
 
「ありがとうね紅巴ちゃん」
「わっ!?」

 叶星様が土岐を抱き寄せてきました!?

「あっ! あぁっ! あああぁあ!?」

 頭をよしよしと撫で繰り回されます。
 土岐のほっぺが叶星様のほっぺと触れ合っています。
 近い、近い近い近い。
 近いです。
 あまりに近いです。
 距離がゼロです。

「か、叶星様っ! 近い! 近すぎますぅうっぅ!!!」
「いいじゃない。ほら、その顔をよくみせてちょうだい! ほらほらほら!」

 あはははとお日様のような明るい笑顔で叶星様が土岐にスキンシップを求めてきます。
 いったいなにが起こっているのでしょうか。土岐にはわかりません。

「なんですかなんですか!? どうしちゃったんですか叶星様?!」
「だって紅巴ちゃん、その表情、いつも高嶺ちゃんにばっかりみせてるでしょ? 私にもみせてくれないと不公平だわ!」
「えぇえええええ!?!?!?」

 そうは言いますが、高嶺様にさえここまでもみくちゃにされたことはありません。
 完全に土岐のキャパオーバーです。
 叶星様はなにか勘違いなさっているのではないでしょうか。
 あっあっあっ叶星様が柔らかくて良い匂いであっあっああっ。

「えいえいえい!」
「あっあっあっ……うわああああぁああああああ!!!!!!」

 それからしばらく、土岐は叶星様とのゼロ距離の幸せを噛みしめました。
 このときのことはとても高嶺様には言えそうもありません。

ゼロ距離の幸せ【紅巴、叶星】
おわり


なかよしとわいらいと.jpg

なかよしとわいらいと【千香瑠、藍、ほかヘルヴォル】

その日の戦闘は長丁場になった。朝から出撃していて、お昼を過ぎて夕方にさしかかろうという時間だというのにまだ作戦を完了させられないままだった。一体一体は大したことないのだけれどとにかく数が多く、司令部から多数のヒュージを確認とは聞いていたけれど、これほどだとは思っていなかった。
ヒュージが広範囲に散らばっていて建物や市民に被害が出ないように立ち回る必要があったことを差し引いてもなお、負担の大きな戦いだった。とはいえ粘り強く攻撃を加えていって、私達のマギも残り少ないけれどそれでも強力なヒュージはあらかた片づけ終えて、もう間もなくケイヴにたどり着いて破壊できる。そんな時だった。

「もう一息です!」

一葉ちゃんが私達を鼓舞する声が聞こえる、周囲の人に勇気を与えてくれる力強い叫びだった。それを聞いて私の心にも熱いものが沸き上がった。あと少しで守り切ることができる。また一歩ヘルヴォルの理想に近づける。
だというのに、いや、あとほんの一息だったからこそなのかもしれない。

「まてー!やあああああぁぁぁぁあ!」

すばしっこい小型のヒュージを追いかけて突出した藍ちゃんが交差点へと飛び出して目標に追撃を食らわせたその瞬間に、ビルの陰から信号機ほどの背丈のヒュージが勢いよく飛び出してきたのだ。

「GYA!」
「!」

普段ならなんて事もなくカバー可能な、失敗とも言えないほど一瞬の陣形の乱れ。しかしその時に限って、油断のせいか、それとも疲労のせいか、いずれにせよ私も含めた残りの4人の反応が遅れた。
当の藍ちゃんも攻撃直後の隙をつかれ、突然の出来事に体が硬直している。

「GYUGYU!」
「藍ちゃん!っ!」

ヒュージの太い腕が藍ちゃんめがけて振り下ろされる。象の足を何倍にも拡大して表面を金属でコーティングしたようなそれは、自動車ですら粉々に粉砕してしまいそうな質量と勢いをもって藍ちゃんに迫る。いくら魔力で強化されたリリィの肉体と言ってもまともにくらえばひとたまりもないだろう。
今から駆け出しても間に合わない。射撃モードへの切り替えも遅すぎる。ヒュージの腕を止めることはできない。──私に取れる選択肢は一つしかなかった。
残り少ないマギをチャームに、そしてその中枢であるマギクリスタルコアに集中させると、体の内から熱い感覚が湧き上がる。それと呼応するように、ヒュージから放出され空気中に滞留したままだった負のマギがその性質を正に反転させ、リリィを守る盾へと転化される。

「ヘリオスフィア!」

誰も目の前で傷ついてほしくない。私の気持ちが物理的に発現したかのように、藍ちゃんの周囲に透明なマギバリアが形成されヒュージの腕を受け止める。分厚い装甲と強固な光壁が反発し合いマギのエネルギーが火花となって飛び散る。それとともに無機質で鋭い衝突音が空気を震わせた。

「GYI……!」

空気が破裂するような音がして、ひときわ大きな衝撃とともにヒュージの腕が後ろへと弾かれ、それに引っ張られて全身が大きく傾く。
消耗度外視でレアスキルを発動した甲斐あって、どうやら藍ちゃんを守ることができたようだ。

「藍ちゃん、今よ!」
「千香瑠……!はああ!」

あっけにとられていた藍ちゃんは私の方に一瞬目線を向けた後に、すぐさま強気な表情を取り戻した。そのまま、攻撃をはじかれてひるんでいるヒュージの懐に飛び込んで攻撃をたたき込む。
分厚いモンドラゴンの刃が無機質な甲殻を突き破り、ヒュージの体の奥深くまで達する。

「GG、GYO……」

渾身の一撃をまともにくらったヒュージは力なく鳴き声を漏らし、傷口から青白い粘性の体液をまき散らしながら崩れ落ちる。
巨体がアスファルトの上に倒れ伏した瞬間に重たい振動が足元を揺らし、土埃が舞い上がった。周囲のヒュージによる追撃を警戒しながら口元を袖で覆うが、ほかのヒュージがこちらへ向かってくる気配は感じなかった。

「……っ!」

体力が残り少ない状態で攻撃を正面から受け止めるなんて流石に無茶をしてしまっただろうか、想定外のマギの消費により私の体から力が抜け、思わず膝をつく。ひとまず危機をしのいだとはいえまだ戦いは終わっていない、立ち上がらなければ。そう思う心とは裏腹に体は思うように動いてくれなかった。

「千香瑠!」

恋花さんがこちらに呼び掛ける声と駆け足のブーツの音が聞こえる。顔を持ち上げると前方に飛び出していた藍ちゃんもこちらへと戻ってきていた。
瑤さんと一葉ちゃんは私には近寄らずに周囲の警戒を行っているが、二人とも不安そうに時折こちらに視線を向けてきている。

「大丈夫!?」
「ええ、すこしふらついただけよ。すぐに治ると思うわ……」
「千香瑠、ごめんなさい……」
「ううん、いいのよ。私達のために頑張ってくれたのよね」
「……」

責任を感じているのだろう、私のすぐ目の前で悲しげにうつむく藍ちゃんの頭に手をのせて励ます。仕方のないことだがすぐには表情は晴れてくれなかった。
藍ちゃんだけでなく恋花さんもまだ不安の色を拭い去れてはいない様子で、いつも明るく朗らかな顔は不安に影っていた。

「さあ、あと一息だもの、早く終わらせてしまいましょう」

心配してくれること自体はとってもありがたいのだけれど、いつまでもここで固まって話し込んでいるわけにはいかない。まだヒュージは残っているのだし、勢いが弱まっているとはいえケイヴが破壊できていない以上敵の増援がやってこないとも限らない。
それに、私のせいでみんなに不安を与えているという状況はなんとも居心地の悪いものだった。。まだ完全には調子の戻っていない体に力を込めて立ち上がり何とか笑顔を作る。

「……千香瑠様のおっしゃる通りです。私達もこれ以上の持久戦を行う余裕はありません、迅速にケイヴの破壊を遂行しましょう」

マギの回復のために一度退くこともできるけれど、それでは私達の戦いは楽になっても街への被害が拡大する危険性があった。誰も傷つかない戦いのためには、ここで仕掛ける意義は大きかい。
それが分かっているからこそ、ほかの3人も不安げにしながらも異を唱えることはなかった。

「千香瑠、ほんとにいいの?」

恋花さんが目元に険しい空気を残したまま私に尋ねる。彼女は今、理想と現実を天秤にかけながら最後の判断材料として私を見つめているのだろう。苦しい役目をさせて申し訳ない。

「ええ、心配しないで」

心配をかけないように、なるべく消耗を表に出さないように気を付けて発声する。

「……まったく、うちのモンはみんな無茶ばっかりなんだから」

私の答えを聞いて恋花さんはほんの数秒の沈黙の後、口角を少しだけ持ち上げながらそう言った。

「しゃーない、付き合ってあげるわ」
「恋花、ちょっとうれしそう」
「は!?仕方ないって言ってるじゃん!?」

二人のやり取りで空気が少し和らぐ。

「……一葉!分かってるよね!」

恋花さんの言葉を受けて、一葉ちゃんはふっと微笑んでから私の方に向き直った。

「はい、千香瑠様は決して無理をせず、後方からのサポートに専念してください」
「ええ、わかったわ」
「よろしくお願いします、それでは皆さん行きましょう!」

一葉ちゃんの声を合図に全員が前を向く。ここが正念場だ。

「ヘルヴォル、参ります!」

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「はー、疲れた~、お腹すいた~」
「ハードな戦いだったね」

戦闘を終えた私達は5人で並んで歩きながらガーデンへと向かっていた。あたりはすっかりオレンジ色に染まり、5人の影は身長の何倍にも引き延ばされて道路の上に横たわっていた。
太陽の恵みを失いかけて冷えてしまった空気が汗まみれの体を撫で、ぞくりとした感覚に思わず身震いをしそうになる。

「でも、そのおかげで周囲に大きな被害もなかったみたいよ」

もちろん私達にも被害というほどの被害はなかった。そっと藍ちゃんの様子をうかがうと、あんなことがあったばかりだからか何となくいつもよりも元気がないように見える。ただ、今日は長い間闘っていたから、単に疲れて眠たくなっているだけということも考えられた。それに、私の方が気にしているからそう思えるだけかもしれない
先ほどのことを引きずっていなければいいのだけれど。いっそのこと直接尋ねてみようかとも思ったけれど、藍ちゃんが気にしていないのであれば私の方から蒸し返すのもためらわれてしまう。

「ええ、これも皆様の尽力のおかげです。」
「ま、それは何よりね。……ってあれは……!」

そんなことを考えながら歩いていると、ふと恋花さんが進行方向に向けて首を伸ばした。その眼もとには、何かをじっと見つめているようにぎゅっと力がこもっている。
それにつられて私もほかの3人もそちらに視線を向けた。

「あれは……恋花様お気に入りの……?」

一葉ちゃんがそう尋ねる。私達の視線の先には、コーヒーショップのロゴマークが描かれた看板がたたずんでいた。見覚えがあると思ったけれど、一葉ちゃんの言葉で恋花さんがよく持っているカップに描かれているものと同じだと気づいた。
それは薄暗い中でもぼんやりと温かい光を放ち、自らの存在を周囲に主張している。

「うん。へー!こんなとこにもあったんだー!ねえ一葉、寄ってかない?」

歩みは止めないままで恋花さんが一葉ちゃんに提案をする。帰り道とはいえ、一応今は任務からの帰還中だから隊長の許可なしに勝手な行動をとるわけにはいかない。そうでなくても恋花さんは皆と一緒に行きたがっただろうけれど。

「しかし、帰ってガーデンへの報告をしなければ……」
「そんなのさ、『隊員の消耗が想像以上に激しかったため現地で休息をとりました』とか言っておけば大丈夫だって!今日はちゃんと戦果を挙げたんだから、上もそんなに厳しく言ってこないでしょ!」
「で、ですが……」

恋花さんの説得を受けてもなお、一葉ちゃんは迷っているようだった。恋花さんが言うように戦闘がすべて片付いた後にカフェで休憩する程度なら大丈夫だろうけれど、出撃中の不要な寄り道は度を過ぎれば苦言を呈されることがある。
生真面目な一葉ちゃんのことだから、どうしてもためらってしまう気持ちがあるのだろう。けれどそれと同時にみんなの今日の苦労もわかっていてねぎらってあげたいとも思っているから、歯切れの悪い反応になってしまう。

「自分へのご褒美が欲しい~!今日は頑張ったんだしいいじゃん~、報告書ならあたしも手伝うからさ~」
「う……]

なおも粘る恋花さんとそれに気圧されてたじろぐ一葉ちゃん。私も疲労を感じはしていて、休憩をとりたくないと言えば嘘になった。でもリリィとして作戦終了後は速やかに帰投すべきという意見ももっともで、どちらの気持ちもわかるだけに、どちらの味方もしにくかった。二人のやり取りを私がただ眺めていると、そこへ瑤さんが口をはさむ。

「一葉、わたしからもお願いできる?」

普段は恋花さんをいさめることが多い瑤さんにしては珍しく、今日は恋花さんの方につくようだった。

「ほらほら~瑤もこう言ってるじゃん?」
「恋花も頑張ってたし、たまには……ね?」
「そんな、しかし……」
「らんも、休憩したいなー」

ここぞとばかりに藍ちゃんも加勢する。ただ藍ちゃんの場合は休みたいというよりも甘い飲み物目当てだろうか、目がきらきらと輝いていた。3対1では流石に分が悪いようで、一葉ちゃんは困った表情を浮かべている。
その間にも目的の看板との距離は縮まり続けて、もうその上に書かれた店名もはっきりと読めるくらいの距離に近づいていた。寄り道するにしてもしないにしても、決断の時は確実に近づいてきている。

「ち、千香瑠様……!」

最後の頼りとばかりに一葉ちゃんは私の方へ弱々しい視線を投げかけて来た。普段の凛々しい彼女も素敵だけれど、こういうこまった表情もかわいらしい。しかし、せっかく私を頼ってくれたのに申し訳ないけれど、私は一葉ちゃんの期待に応えてあげることはできなかった。

「ごめんなさい一葉ちゃん、私も寄り道したくなっちゃったわ」

恋花さんも瑤さんも、何も自分たちが疲れたからという理由だけで主張しているわけではないだろう。無理をしがちな一葉ちゃんのことだから、まっすぐエレンスゲに帰還したらすぐに報告書を作成し、その後も訓練なり事務仕事なりに励むのは想像に難くなかった。
それが悪いことだとは思わない、けれどそればかりでは大変で、ほんの少しくらい休憩をすることも必要だと思う。そう考えると私も彼女たちの味方をしないわけにはいかなかった。本人の意向に反することは承知のうえで、それが私達の役割だろうなんて偉そうなことを考えながら。。

「そんな……!」
「一葉ちゃんだって、これだけの戦いをした後に帰ってすぐに報告書を書くだなんて大変だわ、休憩も必要よ」

最後の一押しをする。優しさに付け込むようで申し訳ないが、心配する気持ちを直接伝えればさすがに一葉ちゃんも無下にはできないだろう。

「おお、千香瑠ナイスアイデア!一葉もさ、そんなに心配しなくても何とかなるって!」

恋花さんは、まるで自分にそのつもりがなかったような口ぶりで私に賛同する。その後ろでは瑤さんが、素直じゃないんだから、とでも言いたげな、少し困ったような笑顔を浮かべて彼女を見下ろしていた。

「……」

一葉ちゃんはじっとうつむいて考え込んでいるようだった。前を見ないと危ないわよ、と注意しようと思った瞬間にその顔は再びぱっと上がり、恋花様の方を向く。
ふぅ、と軽く息を吐き出す。目じりの下がった少し困ったような表情は、力の抜けた自然体の笑顔だった。半分ほど諦めが混ざったため息に続いて、その口からは優しい声がこぼれ出る。

「……皆さんのおっしゃる通りかもしれません、戦ってすぐ帰るだけでは味気ないですものね」
「さっすがリーダー!じゃあいこいこ!」
「ええ、ヘルヴォル、参りましょう!」

コーヒーショップに立ち寄るだけだというのにやけに気合の入った掛け声とともに、私達は店内へと足を踏み入れた。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「あったかーい」
「ふふふ、そうね」

からんからんと軽快に鳴り響くベルの音とともに、私達は店内に足を踏み入れた。
店内は暖房が効いていて、冷えた体を暖かい空気が優しく包み込む。オレンジ色のぼんやりとした照明も相まって、薄暗く寒い外とは単なる空間的な隔たり以上のものを感じた。まるで別世界だ。
同時に甘く香ばしい香りが鼻を満たす。コーヒー、茶葉、ミルク……、いろいろな材料が混ざり合っった香りが鼻腔の中を満たして、それだけで枯渇した体に活力が湧いてくるような気がする。
丁度夕暮れ時ということもあってか、店内はなかなか賑わっているようだった。席はあらかた埋まっており、飲み物だけでなくお皿に乗せられた軽食を摂っている人もいる。

(何にしようかしら……)

カウンターの天井近くにメニューが掲げてあるのを見つけて、ほかの人たちの邪魔にならない位置に移動してそれを眺めながら考える。普段こういうお店に来ることが少ないから、どういうものが置いてあるのかもいまいちよくわからない。
メニュー表には馴染みのないカタカナの羅列の中にココアやキャラメルといった見知った単語が見受けられ、何となくそれぞれの味の方向性を想像することができた。名前の横に添えられた写真やポップなイラストも手掛かりになる。

「うーん、季節限定……いややっぱりここは定番かな……」

隣の恋花さんの方を見ると、彼女も真剣な表情で悩んでいるようで少し気が楽になる。慣れているであろう彼女ですら考え込んでいるのだから、私もじっくり時間をとっても問題ないだろう。
ぶつぶつとつぶやいているその様子を見守っているとおもむろに彼女の目がぱっと見開かれ、悩まし気ながらも同時に楽しさに満ちていた顔が、一瞬で何かに気が付いたような驚きの表情に変わった。

「あれ!?ない!」

何を探しているのか、ポケットに手を突っ込んだり体を服の上からこするように動かしている。

「どうしたの?」

瑤さんが目線を動かして、その様子をうかがいながらなにがあったのか尋ねた。

「通信機がない……!」

流石に周囲に聞こえてはまずいと思ったのか、恋花さんは私達だけに聞こえる声でそうささやいた。

「!?」

5人の間に衝撃が走る。

「戦闘中は使ってたよね?」
「うん……」
「とするとこちらへ向かっている途中で落としたのでしょうか?」
「た、たぶんそうだと思う……」

瑤さんと一葉ちゃんが交互に質問を繰り出して、恋花さんは申し訳なさそうに首を縮こまらせて答えていた。
通信機はガーデンからの支給品であり、戦闘などによらない単なる過失を原因とした紛失はペナルティの対象となる。

「はぁ~、探しに行くしかないよね……。今から戻るのか~」

ため息をつきながら心底嫌そうにつぶやく。それはそうだろう、日も暮れかけた寒空の下でせっかく憩いの場を見つけたというのに、来た道を引き返して戦場跡へ戻るなんて嬉しいはずもない。
だからと言ってそのまま放っておくわけにもいかず、渋々といった様子だった。

「瑤~、手伝って……?」
「うん、一人だと大変だろうし、そのつもりだった」

瑤さんはそれが当然である、といった様子で自然に承諾する。

「……あと、一葉も……」
「私もですか?……そうですね、隊員の過失は隊長の過失でもあります。お手伝いさせていただきます!」
「過失、うっ……」

過失という言葉を聞いて恋花さんが気まずそうに肩を震わせる。一葉ちゃんには恋花さんを責めるつもりはないのだろうけれど。

「ごめんね二人とも……」
「いえ、気にしないでください」
「うん、こういうこともあるよ」

二人の服をくいくいとつまんでお願いする恋花さんに対して、二人とも特に嫌がるそぶりを見せることもなく受け入れた。
それを見ていると、私も手伝わなければという気持ちが湧いてきた。どうせなら三人よりも五人で探した方が早く見つかるだろうし、少し憂鬱な行き帰りもみんなでおしゃべりをしながらならばあっという間だろう。

「それなら私も一緒に行くわ」
「しかたない、らんもお手つだいしてあげる。」

藍ちゃんも同じ気持ちだったようで、私に続いて手伝いを申し出る。
しかし、それに対する恋花さんの反応は予想とは違うものだった。

「いやいや、二人ははさっき無茶したばっかりなんだから、ここで休んどいてよ!
「でも……」

確かに無茶をした自覚はあるけれどその後の戦闘は皆が肩代わりしてくれたのだし、疲れているのはみんな同じだと思う。そう言おうとしたのだけれど、恋花さんの言葉に先を越されてしまった。

「いいからいいから、3人もいれば十分だって!一葉ので通信かけたらすぐ見つかるだろうし」
「なるほど、着信音ですね。それなら確かに全員で行く必要はないかもしれません」
「わたしも、それがいいと思う。千香瑠と藍は待っていて」

いくらか納得がいかない物を感じこそすれど、探しに行くことがすでに決まっている三人がそう言うのであればこれ以上反対することもかえって迷惑に感じてしまう。
親切心から言ってくれているのだろうし、それを無下にするのはいささか心苦しいものがあった。先ほど一葉ちゃんをここに誘った時と同じ状況に私が陥ってしまったようだ。私の場合はそれに気づいているからこそなおのこと断りにくい。

「そう……じゃあお言葉に甘えることにするわ。藍ちゃんもいいかしら?」
「うん、じゃあおるすばんしておくね」
「よしよし、えらいね」
「えへへ~」

瑤さんがひざを曲げて藍ちゃんの頭を撫でた。

「じゃ、すぐ戻って来るから!」
「いってらっしゃーい」

恋花さんの言葉とともに3人は出入り口のドアの方に向かっていく。私と藍ちゃんも玄関口までついていき、三人が来た道を引き返していくのを見送った。

「それじゃあ、私達はお先にいただいちゃいましょう」
「うん!」

店内に戻り、藍ちゃんに話しかける。

「藍ちゃんは何にするかもう決めたの?」
「ううん、まだだよ。せっかくのきかいだから、メニューをよくみて、じっくり考えてからきめようとおもったの」

恋花さんだけでなく藍ちゃんも、私と同じように何を頼むか決めかねていたようだ。藍ちゃんにとっても見慣れない言葉が多いだろうしゆっくり検討したくなるのは当然だろう。
藍ちゃんを待たせて私だけ考え込むのは申し訳ないし、かといって藍ちゃんを急かすのも悪いし、ちょうどよかった。

「あら、私もちょうどそうしようと思っていたのよ」
「ほんと?」
「ええ、それじゃあ一緒に考えましょうか」
「うん!」

再び先ほど眺めていたメニュー表の近くへと移動する。
狭い店内ではぐれる心配なんてないけれど、何となく藍ちゃんの手を握る。藍ちゃんも私の手を握り返してきて、柔らかい感触が掌の中におさまった。

「いっぱいあるわね。藍ちゃんはどういうのがいいかしら?」

空いたほうの手でメニュー表を指さしていく。藍ちゃんもそれにつられて手を目の前に掲げた。

「うーん、甘いのがいいな」

藍ちゃんらしく素直でシンプルな注文だった。とはいえこれだけでもかなり候補を絞り込むことができる。少なくともブラックコーヒーやストレートの紅茶などは外して構わない。
それでもメニューが豊富なおかげでまだまだ決定には遠く、こちらからいくつか提示してその中から選んでもらうことにした。

「じゃあ、あれはどうかしら?バナナのやつね」
「バナナ、いいね」
「あれはイチゴ味」
「いちごもすきー」

私がこれはどうかと聞いて、それに対して藍ちゃんがコメントをする。そんなことを繰り返しながら一つずつゆっくりと検討をしていった。ただ飲み物を選んでいるだけではあったけれど、ものによって藍ちゃんの反応もさまざまで、それを見ていると微笑ましい気持ちになる。
戦い通しで空っぽになりエネルギーを求めてやまない体とは対照的に、私の心はその、ある意味ではじれったい時間に安らぎを感じていた。
そのやり取りを続けるうちに最終的に候補は二択まで絞られた。幾重にもわたる選抜を潜り抜けたのは、根強い人気を誇るといういちご味のドリンクと、今の時期限定という、かぼちゃを使ったもの。

「うーん……どっちもおいしそう」

しばし黙って真剣な表情をしていた藍ちゃんだったけれど、ようやく決意を固めた様子でそっと手を前に伸ばす。

「こっちにするね」

藍ちゃんの腕が示した先にあるそれは、かぼちゃのドリンクだった。

「きかんげんていだから、今のうちにあじわっておかないと」
「ふふふ、そうね。それじゃあ注文しましょうか」

カウンターの方へそっと藍ちゃんの手を引く。
しかし、それを聞いた藍ちゃんはきょとんとした顔で私に問いかけて来た。

「あれ?千香瑠ももうきめたの?」
「あ……」

その言葉で大事なことが抜け落ちていたことに気付く。藍ちゃんの注文を考えるのに気を取られて自分の分をすっかり忘れていたようだ。

「ごめんなさい、うっかりしていたわ」
「まだなの?じゃあ、さっきは千香瑠に考えてもらったから、おかえしにらんがいっしょに考えてあげるね。」
「あら、ありがとう」

きりっと眉を持ち上げた自信たっぷりな顔がなんとも愛くるしかった。先ほどまで一人で考えていても決まらなかったのだから、藍ちゃんに任せるのはいいアイデアかもしれない。
それに藍ちゃんにお返しをしてもらえるのは素直に嬉しかった。

「じゃあ、藍ちゃんのおすすめはあるかしら?」
「うーん……千香瑠にはこれがいいと思うな」

藍ちゃんが指さしたのは先ほど二択に挙がったうち藍ちゃんが選ばなかった方、いちごのドリンクだった。
考えてみれば藍ちゃんから見て魅力的に映るものなのだから、それが選ばれるのも自然なことだ。

「ふふふ、そうよね。実は私もちょっと気になっていたの」

実際のところ、藍ちゃんが好意的な反応を示すのを見ていたら私も自然とそれに惹かれてしまった部分はあった。我ながら単純である。

「それとね、おっきいのがいいと思う」
「あら、どうして?」

確かにドリンクのサイズはこちらで注文できるし当然店員さんに伝える必要はあるのだが、サイズの指定まで藍ちゃんがしてくれるとは思わなかった。
何かこだわりがあるのかもしれないと思い、その理由を問う。

「らんにも分け……じゃなくて、いっぱいたたかってのどかわいたでしょ?」
「え、ええ」
「だいじょうぶ、のみきれなかったららんがのんであげるから!」

藍ちゃんの意図をようやく察することができた。要するに自分だけでは二つの選択肢から一つしか選べないのならば、もう一つは私に選んでもらおうということだ。
幼いようでいて、こういったところはなんとも賢い。ずるいという感情よりも先にその聡明さに感心してしまったのは「親ばか」だろうか。

「……そうね、それじゃあ藍ちゃんのおすすめにします」
「うんうん、それがいいよ」

もとより頼む物に強いこだわりがあって悩んでいたわけではないのだし、きっぱりと決めるきっかけになってくれたのだからお礼として少し飲ませてあげるぐらいわけはない。それで藍ちゃんが喜んでくれるならお安い御用だった。

「それじゃあ今度こそ、いきましょう」
「うん!」

お互いに目線を合わせて頷いてから二人でカウンターへと向かい、列の最後尾に付く。人の流れはスムーズに進んでいき、さほど待つこともなく私たちが先頭へと到達した。店員さんに注文を伝えてお金をはらい、レジ横の提供口で待つ。

「お待たせいたしました」
「ありがとうございます」

注文をしてからドリンクが提供されるまでにほとんど時間はかからなかった。二人分のドリンクを受け取って隣の藍ちゃんへと片方を渡す。

「はい藍ちゃん、どうぞ」
「わーい」
「それじゃあ席に……」

辺りを見回して座れる席がないか確認するが、いい席が見当たらなかった。どうやら私達がメニューを眺めながら考えている間にもお客さんは増えていたようだ。
空きがないわけではないのだが、まとまった空席がない。恋花さん達が戻ってきた時に5人で座るどころか、今二人で並んで座るのも難しそうだった。
藍ちゃんもあたりの様子からそれを察したのか、残念そうな顔でわたしの方を見上げてくる。

「いす、空いてないの?」
「ええ、困ったわね……」

どうしたものか、まさか店内で立ったまま飲むわけにもいかない。目立つし他のお客さんの迷惑になってしまう。それに疲れた体はそろそろ腰を下ろせる場所を求めていた。

「千香瑠」
「?」

私がどうしたものかと悩んでいると、そこへ藍ちゃんが声をかけて来た。
座るところを探してうろうろと泳ぎ回っていた視線を下へ向けると、藍ちゃんが手を伸ばして出口の方を指し示していた。

「いす、あったよ?」

それにつられて窓の外に目を向けると、どうやら屋外にもテラスのようなスペースが設けてあり、いくらかテーブルや椅子が設置してあるようだった。
しかし、外の空気の冷たさを思い浮かべると少ししり込みしてしまう。店内が混み合っているのにそこに避難する人がいないという事実が私の想像を裏付ける証拠となった。

「でも、いいの?きっと寒いわよ?」
「うん、だってこれがあるから」

藍ちゃんは手元のカップを顔の横に掲げてにっこりと微笑む。
彼女の言う通り、暖かい飲み物があればしばらくは夜の寒さもあまり気にならないだろうか。せっかく藍ちゃんの方から提案してくれたということもあり、少しくらいなら大丈夫なように思えてくる。とはいえあまり長居したくないことに変わりはないけれど。

「……そうね、でもお店の中が空いたらすぐに入りましょうね」
「うん!」

ガラス戸をあけて表に出ると手足や顔の皮膚が露出した部分にしびれるような寒さが広がり、緩んでいた筋肉に力が入る。予想通りだった。

「……!寒いわね」
「そうだね、いきもまっしろ。みてみて、はーっ」
「ふふ、ほんとね。はーっ」

つい先ほどまで暖かい室内の空気をいっぱいに吸い込んでいた私達の口から吐き出された息は、凍えるような外気に触れるとあっという間に温度を奪われて霧状の凝結を生じた。
しかし、一度外の世界へと放たれたそれは、ほんの数秒間二人の目を楽しませた後、すぐに濃紺の空間へと拡散していって見えなくなってしまう。肺の奥にしんと横たわる、吸い込んだ空気のひんやりとした感覚だけが私達が呼吸をしたことを証明してくれた。
そのまましばらく二人で呼吸が可視化される風情を味わっていたが、じきに喉の奥が冷たく乾いてしまいこほこほとを軽く咳をする。

「凍えちゃいそうだわ」
「そうだね」

出入り口に近いところに置いてあったベンチに腰掛ける。
ここなら後ろを振り返れば店内の様子も良く見えるし、戻ってきた恋花さん達ともお互いを見つけやすいだろう。気分的にも、店内に近く光が届くところにいる方がほんのわずかでも暖かいような気がした。

「冷めちゃう前に飲んじゃいましょう」
「うん」

火傷しないように気を付けながら、蓋に空けられた穴に顔を近づける。そこから漏れ出る湯気にのって、イチゴのさわやかさとミルクのまろやかさが混ざり合った、甘く優しい香りが鼻をくすぐった。
一口、少しだけとろみのある不透明な液体を口に含む。口の中に広がるまったりと濃厚な甘みは舌の上を滑らかに包み込んで喜びを感じさせた。
しばし口内で転がしてからごくりと飲みこむと、冷え切った体内に熱がじんわりと伝わっていって心地よい。

「おいしい……」
「らんのもあったかくておいしい。さむいところであったかいものをのむのは、ふうりゅうなんだよ?」

そんな物語をどこかで読んだことがある気がする。確か極寒の国で暖房の効いた部屋の中で冷たい飲み物を楽しむ、といった内容の、ごく短いシンプルな物語だった。
シチュエーションは逆だけれど似たようなものだろうか。寒い屋外にいなければならないこの状況を楽しみに変えられる藍ちゃんの素敵な感性は、私も見習うべきものに思えた。

「そうね、寒い方が温かさがよくわかっておいしいかも。それにしても難しい言葉を知っているのね」
「らん、かしこいでしょ?」
「ええ、とっても……そうだ、私のも飲んでみる?」

先ほどのやり取りを思い出しそう提案する。

「いいの?まだ一口しか飲んでないよ?」
「ええ、温かくておいしいうちに飲んでちょうだい」

それを聞いた藍ちゃんは自分の手元の容器にちらりと視線を向けてから再び口を開いた。

「じゃあ、一くちずつこうかんしよ?しぇあ、って恋花と瑤がやってたの」
「まあ!とってもいい考えだわじゃあどうぞ」
「千香瑠も、どうぞ」

手渡されたカップに口を付けるとかぼちゃの素朴な甘さが染み渡る。

「おいしいわ」
「千香瑠のも、どっちもすっごくおいしいね」
「そうね、藍ちゃんがじっくり選んでくれたおかげね」

交換していたカップを元に戻してまた味わう。
そんなことをしているうちに太陽はますますその高度を下げていき、ビルの影、そして地球の裏側へと自らの姿を隠そうとしていた。
もはやほんの一部がわずかに顔を覗かせるばかりで、一面暗闇の空の中で、先ほどまで太陽が鎮座していた一角だけがが弱々しくオレンジに色づいている。

「お日さま、沈んじゃうね」
「そうね」

ビルの輪郭線を照らしていた光も次第に薄れていき、あたりがどんどんと闇に包まれていく。それと反比例するように手や顔を撫でる風は、冷たさをいや増していった。
夕暮れ。逢魔が時。そして誰(た)そ彼(かれ)どき。店内から漏れ出る明かりも背中を照らすだけにとどまり、太陽が沈む方向を眺める藍ちゃんが今どんな顔をしているのかも定かではない。
いつも一緒にいるというのに、今日はあんなことがあったせいか、藍ちゃんと二人きりのこの瞬間が妙に落ち着かなかった。

「藍ちゃん」
「なあに?」

私が名前を呼ぶと藍ちゃんはこちらに首を回した。
顔の側面が窓からあふれ出たオレンジ色の光に照らされて、私の目をのぞき込むあどけない顔が少しはっきりと見えた。いつもと変わらないとろんとした目元。私の取り越し苦労なのだろうか。

「……」
「どうしたの?」

藍ちゃんが不思議そうに私をじっと見つめてくる。
自分から名前を呼んだというのに続ける言葉が見つからず、少しの間黙って藍ちゃんと顔を突き合わせ合う形になった。先ほどまで気にならなかった沈黙が急に気まずく感じられはじめて、頭と目を動かして必死に話題を探す。

「ほっぺが赤くなってる……、やっぱり、寒くないかしら?」

藍ちゃんをじっと見ていると、暗い中でも頬や鼻が赤く染まっているのが分かった。いくらドリンクが温かいと言っても、体の表面までぬくもるわけではない。私だって肌が露出した手や顔は依然として冷たいままだった。

「うーん……ちょっとさむい、かも?」
「やっぱり中に入って待つ?」

五人纏まって座るスペースがなくとも、もう一度よく探せば二人が並ぶくらいの席は空いているかもしれない。

「……」

しかし藍ちゃんは私の提案に対して、首を縦にも横にも振らないで何かを思案しているようだった。

「藍ちゃん?」
「そうだ、千香瑠これもってて?」
「?、ええ」

突然藍ちゃんが持っていたドリンクを私の手に押し付けてきた。さっきみたいに交換し合いっこという様子ではない。その重さと温度から飲み終わった空の容器を渡してきたわけでもないとわかり、なぜだろうかと疑問が浮かぶ。
私がカップを握ったのを確認して、彼女の手は離れていった。

「まだ残っているけれど、どうしたの?」
「……えいっ」

藍ちゃんは私の質問には答えず、突然抱き着いてきた。思わず姿勢が崩れてカップが傾きそうになるのを何とかこらえる。二人とも容器の中身がある程度少なくなっていたこともあってか、両手の中で液体が揺れるだけで済んだようだ。

「藍ちゃん?」
「こうすれば寒くないよ、ぎゅーっ」

隊服の布越しでも藍ちゃんの体温が確かに伝わってくる。

「お日さまがしずんでも、くらくても、さむくても、千香瑠といっしょならだいじょうぶ」

今度は私の体に回していた腕をほどいて、私のマントを首元にマフラーみたいに巻き付けている。

「千香瑠がお日さまみたいにあったかくてやさしいから、だからへいきだよ」
「藍ちゃん……」

カップを持ったままだから思いきり抱き締めることはできなかったけれど、私の方からも藍ちゃんの体に腕を寄せる。幼い体は私の両腕の中にすっぽりと収まってしまった。
こんなに小さくて細い体では、感じる寒さは私よりもずっと大きいものだろう、末端などは冷え切っていてもおかしくない。だというのに、私に気を遣ってか本心かはわからないが、なんともいじらしいことを言ってくれる。

「千香瑠、さっきはごめんね」

しばらく私に身を寄せていた藍ちゃんが顔を離して上目遣いでぽつりとつぶやいたのは、謝罪の言葉だった。

「さっきって……、あれはもう、謝らなくてもいいのよ。」

先ほどの戦闘のことをまだ気にしているようだ。なんとなく、もしかしたらという可能性程度には考えていてそれでも今まで聞けなかったのだけれど、藍ちゃんの中ではまだ解決していなかったのだろう。
私が戦闘の直後にそうしたのと同じように気にしなくてもいいと告げても、藍ちゃんの表情は浮かないままだった。

「ううん、千香瑠はいいよっていってくれたけどね、ほんとはそうじゃないの」
「そうじゃない?」
「うん。らんね、みんなのためとかじゃなくて、ヒュージとたたかってたらね、たのしいたのしいってあたまの中がわーってなって、それしかかんがえられないの」
「……」
「だから、千香瑠がむりしないといけなかったのは、らんのせい」

ごめんなさい、と再び頭を下げる。弱々しく私の上着に顔をうずめた姿は、自分の罪を深く悔いて、甘んじて受け入れなければならない罰におびえているようにも見えた。
蒸し返すのも悪いかも、などと考えずに、早く安心させてあげるべきだった。藍ちゃんの方から切り出させてしまうなんて、それはひどく勇気の要る行為だっただろう。胸がちくりと痛んだ。

「いいのよ、それでも」
「……どうして?」

自分を責めているような藍ちゃんとは対照的に、私の中に藍ちゃんを責める気はまるで沸いてこなかった。彼女を安心させるための慰めなんかではなく、本心から出た言葉だった。

「私には藍ちゃんみたいに戦うことはできないから」
「?」
「藍ちゃんが私の代わりに一番前でヒュージと闘ってくれているから、私もその姿に勇気をもらえるの。藍ちゃんがいないと、いいえ、ヘルヴォルの誰がいなくても私は戦えない」

私は弱い人間だ。みんなの強さを分けてもらって、そうすることで何とか戦場に立つことができている。ようやくリリィであり続けることができている。

「その代わりにみんなを後ろからサポートしているのだから、少しくらい迷惑をかけてくれてもいいのよ」

心に空いた穴は皆が代わりに埋めてくれている。だから私もその分だけみんなを助けるのが当然だ。それぞれの足りないところを補い合い、協力し合うのがヘルヴォルなのだから。

「……ほんとに?」

いくらか和らいではいるものの、それでもまだ信じきれないといった表情で不安げに私の目を見つめてくる。それを見つめ返して、藍ちゃんを安心させるために笑顔を見せながら答える。

「ええ、もちろんよ」

そこでようやく、藍ちゃんの顔から不安げな雰囲気が抜けて柔らかな笑顔が浮かんだ。

「……ありがとう」
「お礼なんていいのよ」

藍ちゃんが再度私に抱き着いてきて、私の胸の部分に顔を寄せながらつぶやく。その背中に手を添えてさすってあげると、ぎゅっと私の服をつかまれる感触がした。

「そうだ」

しばらくその体制のままでいたのだけれど、ふと藍ちゃんが何かを思いついたような声とともに顔を持ち上げた。さっき見せた者よりもすこし強気で、元気を取り戻したように見える表情で私を見据える。

「どうしたの?」
「こんどから、千香瑠のことはらんがまもってあげるね。きょうのお返し」

眉をきりっと吊り上げて自信ありげにそう宣言する。

「まあ、頼もしい」
「千香瑠がまもってくれたときね、あぶないっておもってドキドキしたけどね、それとおなじくらいすごくぽかぽかして、うれしかったの。今と同じくらいあったかかったよ。だから、らんも千香瑠をまもってあげる」
「ありがとう。藍ちゃんが守ってくれるなんて、私もとっても嬉しいわ」

ヘリオスフィアによるマギの浄化作用──ではないのだろう。それは、今二人の間に、そして私の胸の内に満ちているのと同じ種類のぬくもりだとわかった。
思わず頭を撫でてあげたくなったけれど、両手にカップを持ったままなことを思い出して踏みとどまる。
その代わりに藍ちゃんの方からますます私の方へと身を寄せて、ぴったりとくっついてきて、二人の間に冷たい空気が挟まる余地はもう残されていなかった。

「ねえ千香瑠」
「なあに?」
「みんながもどるまで、このままでもいい?」
「……ええ、もちろんよ」

先ほど藍ちゃんは私のことをお日さまみたいだと言った。それはこの上なく嬉しく光栄なことだ。けれど私からすれば、その称号は藍ちゃんの方がふさわしいように思える。
その光は私の彼(か)は誰(たれ)時を明るく照らし、その温かさは夜の寒さを優しく溶かしてくれる。
けれど私もそうだと言ってくれるのであれば、藍ちゃんにとっての太陽になれているのだろうか。暖かい日の光が彼女の顔を明るく照らすように、私も何かを与えてあげられているのだろうか。

「やった!えへへ~」

その答えは私の腕の中にあった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

~近くの物陰~

「あの、恋花様……まだ駄目なのでしょうか……?」
「さすがに、寒くなってきたな……」
「もうちょい!あと少しだけ見守ろ?」

【オワリ】


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思い出がもう一つ【壱、樟美、他】

思い出がもう一つ【壱、樟美、他】

 11月が終わろうとしている。
 窓に目を向ければ景色を彩っていた紅葉も色褪せて、路には枯れ葉がまばらに散っている。実りの季節を終えて、鎌倉の景観も寂しさに満たされつつあった。

「失敗したわ」

 木枯らしのような溜息と共にいっちゃんが言った。
 わたしたちはラウンジで昼食を取っていた。窓際の席に陣取って日替わりのランチを頂いている。いっちゃんはビーフシチュー、わたしはサンマの塩焼きだった。
 シチューのお皿に添えるいっちゃんの左手の指には、親指以外の4本に絆創膏が巻かれている。痛々しくも、猫さんがプリントされた絆創膏で見た目がちょっとかわいい。

「さっきのすごく痛そうだったね。大丈夫?」
「大丈夫。骨も折れてないし、爪も無事」

 いっちゃんが怪我をしたのは午前の訓練中だった。
 デュエル形式で亜羅椰ちゃんといっちゃんが対戦したとき、互いに激突した際にいっちゃんの指が二人のCHARMの柄でサンドイッチされてしまったのだ。
 大きな怪我ではないけれど、CHARMを持つ指先の怪我なので、フロントでCHARMを振り回すいっちゃんには大きな影響になりかねない。

「ブリューナクでの癖が抜けてないのよね。ナックルガードがないのについカチ合っちゃったわ」

 いっちゃんが言うように、アロンダイトの柄(ヒルト)にはブリューナクのような護拳(ナックルガード)がない。ないというか、ブリューナクだとグリップが完全にナックルガードに覆われているのに対して、アロンダイトでは傾斜の付いた鍔がガードの役割を果たしている。しかしあくまでそれは鍔であってナックルガードではなく、柄頭(ポンメル)とガード部分が接続されているわけではない。ガードで受けても、角度によってはグリップを握る手に攻撃が当たる。

「まぁ、最悪、右手で振るえなくもないしね」

 そう言いながら、いっちゃんはスプーンを持つ右手ーー怪我をしていないほうーーをひらひらさせた。
 もともといっちゃんは右手でCHARMを振るっていた。しかし左手のほうがCHARMにマギを乗せやすい体質だと指摘され、AZにポジションを変える際に左手持ちに切り替えた経緯がある。
 そして最近、いっちゃんは新調されたアロンダイトに慣れるために、ずっと使っていたブリューナクを半ば封印している。ヒュージ相手の実戦でならわざわざナックルガードで攻撃を受けるようなことはほとんどしないのだけれど、対人のデュエルでは重宝される。近接を好む亜羅椰ちゃんが相手なら尚更だった。

「痛む?」
「ううん。変に触らなければ大丈夫。CHARMも持てる。……あー、ほんと気が抜けてた」

 ビーフシチューを口に運ぶいっちゃんの表情は固い。茹で方を間違えたジャガイモのように固い。いっちゃんはやたら自分自身に厳しいところがある。こういったケアレスミスも他人より引きずりがちな気がする。実際、好物のはずのビーフシチューも進みが捗々しくない。

「亜羅椰ちゃんが貼ってくれた絆創膏、かわいいね」
「え? あぁ、そう……ね」

 いっちゃんは指の猫さんを見て複雑な表情を見せた。
 怪我をした直後のことを思い出したのだろう。

「亜羅椰ちゃん、すごかったね」
「……ええ」

 事故が起きたことに亜羅椰ちゃんはすぐ気付いて訓練を中断した。そしていっちゃんの指を診たのだ。


『壱。いま指挟んだでしょ? 見せてみなさい』
『い、いいわよ別に、大した怪我じゃないわ』
『ダメよ。見せなさい』
『……わ、わかったわよ。ほら』
『血は出てないけど赤くなってるわね。動かないで』
『?』
『ちゅっ』
『!?』
『ちゅぅぅぅ』
『ちょ、ちょっと何しゃぶってんのよ!?』
『ぢゅぅぅぅぅぅぅ』
『おい亜羅椰!』
『じゅぱっ……だってほら、治療しないと』
『しゃぶるな!!』
『あら。遠慮しなくていいのよ? 壱の指ならわたし、何時間でもしゃぶっていられるから』
『遠慮してるんじゃないわよ!!』
『待って。でも、まだ一本しかしゃぶれてないわ』
『"でも"じゃないわよ!! もはやあんたがしゃぶりたいだけでしょそれ?!』


「正直やりそうだなとは思ったけどあんなガッツリしゃぶられると思わなかったわ」
「やりそうだとは思ってたんだ」
「やっても舐めるぐらいで済ますと思ったのよ。ダメね。完全読み違えたわ」

 デュエルの技術と同じぐらいに亜羅椰ちゃんはそっち方面も進化が著しい。最近の亜羅椰ちゃんの挙動はわたしたちの予想をぴょんと飛び超えてくる。

「午後の訓練は、どうするの?」
「防御の基礎練に当てようかな。アロンダイトの取り扱いを体に覚え込ませないといけないわ。切羽詰まるとどうしても癖が出てきちゃうから、矯正していかないと」
「……一緒に、練習しよっか」
「ええ。お願い」

 ようやく、いっちゃんが表情を解いた。じっくり煮込まれたビーフのように柔らかな微笑み。こわばっていた食指も動き始める。
 わたしも歩調を合わせて箸をすすめて行く。お箸の先でサンマから身を削いでゆく。
 しばらくしてふと、いっちゃんがスプーンを止めてじっとわたしの手元を見つめているのに気がついた。

「どうか、したの?」
「いや……樟美ってさ」
「うん」
「魚食べるの、本当に綺麗よね。なにかこう……芸術性すら感じるわ」

 いっちゃんが凝視していたのはわたしのお皿の上にあるサンマだった。それは既に尻尾の先から7割ぐらいが骨になってしまっている。
 そういえば以前、月詩ちゃんに「まるで標本みたい」だとわたしが食べたお魚の骨を指して言われたことがある。

「そ、そこまで言うほど、かな?」
「なんていうか、こう、一切の無駄がないわよね。樟美が魚を食べるとさ。そのサンマも、身の部分が1mmも残らなさそうな、そんな食べ方されてて関心する」
「??? そ、そう? ……ありがとう??」

 褒められている……のだとは思うけれどよくわからない。
 食べ方は丁寧な方だと自分でも思うけれど、こんな妙な賞賛を浴びるほどに習熟している気もしない。気付いたらこういう食べ方になっていた。原因はわからない。
 わかるのはただ、いっちゃんが何故か深刻な表情でわたしのお魚を見つめていることだけだ。

「わたしだと背骨とその肋骨? みたいな細い骨の間にさ、身が結構残っちゃうのよね。取ろうとしてもなんか潰れてしまってよけい取れなくなったりして。いつもそう。樟美ぐらい綺麗に食べられた試しがない」
「で、でも、わたしも、残っちゃうとき、あるよ」
「だとしても、樟美はあんまり失敗しないでしょ?」
「……まぁ、そうかも」
「それってやっぱり、CHARM捌きに関係したりするのかしら?」
「え」

 話がおかしな方向に転がり出した。
 いっちゃんが委員長モードになって言葉を続ける。

「繊細さっていうかさ。指先の動きって、重要じゃない? CHARMって変形させて、グリップを何度も握り直して、トリガーに指を掛けてって、普通の兵器に比較したらとてつもなく指の動きが多いでしょう? 樟美のCHARM捌きの繊細さってそういう日常の所作からきていたりするのかなって思って」
「ど、どうだろう……関係……あるのかな?」

 ごめんいっちゃん、関係ないと思う。

「わたしは日常生活から改める必要があるのかもしれないわね……」
「そ、そうなの、かな? いっちゃんは、大丈夫、だと思うけど」
「とりあえず、今日は樟美を見本に自分を矯正していくことにするわ」

 えっ、それすごいプレッシャー。

「ご飯を食べて一息ついたら付き合ってくれる?」
「えっ、あ、うん。……いいよ」
「ありがとう!」

 わたしを見本にするつもりらしいいっちゃんの視線に背筋を正されながら、わたしのお昼休みが始まった。

◇◇◇◇◇

 午後。
 食後の紅茶を頂いてから歯磨きをして、わたしたちは訓練場へ向かった。
 外の路は枯葉がところどころに枯葉が落ちていてくしゃくしゃと冬の音を立てる。ローファーの下で枯葉を砕きながらわたしたちは移動してゆく。

「もう12月ね」
「そうだね。風も、冷たい」

 百合ヶ丘の空気にも冬の気配が染み込んでいる。ここ数日の間にすっかり寒くなり、お手洗いの水の冷たさに身がこわばることもあった。

「もう山梔(クチナシ)の実も染まってきてるわ」
「え。あ、ほんとだ」

 道すがら、いっちゃんが夕焼け色の実を付けつつある山梔を指差した。
 山梔の鮮やかな橙色に目を奪われて、わたしは思わず足を止めた。いや、わたしが足を止めたのは山梔の色のためだけではない。
 百合ヶ丘には種々の樹木が植えられて管理されているけれど、その中でもこの山梔たちはたぶん特別な意味を持っている。

「あら。ご機嫌よう。壱、樟美」

 立ち止まっていると依奈様に声をかけられた。
 2年生の依奈様がちょうど、上級生寮である旧館から出てきたところだった。
 そう、この旧館の正式な名称を山梔館という。

「……ご機嫌よう依奈様」
「ご機嫌よう、です、依奈様」

 会釈とともに依奈様に挨拶をする。
 この山梔館という名前が「洗練」や「喜びを運ぶ」などの山梔の花言葉から取られたものなのか、野溝七生子(のみぞなおこ)の作品「山梔」から取られたものなのか、わたしは知らない。多分、後者だろうとわたしは思っている。「山梔」の中では少女を表す象徴として白百合も出てくるからだ。

「二人は何を見ていたの?」
「山梔の実です。実が、オレンジに染まってきたので」
「あら、本当。もう12月になっちゃうものね。綺麗な色」

 今でこそ上級生用の寮舎となっている山梔館だけれど、もともとはこの旧館に百合ヶ丘のリリィのみなが住み込んでいたことを考えれば、昔は百合ヶ丘生徒の象徴の一つとして山梔が掲げられていたのではないだろうか。山梔の実は熟しても割れることがない。クチナシとは、ひび割れて口を作ることのない実になぞらえた名前なのだと、そう聞いたことがある。山梔を冠する旧館には「割れることがないように」と、リリィへの悲痛な願いを感じる。

「わたしたちは訓練場へ向かってたんですが、依奈様も訓練場ですか?」
「いいえ。わたしは座学だから校舎の方よ。あなたたちは訓練場に行くのね?」
「はい。CHARMの扱いを樟美から教えてもらうつもりです」
「えっ」

 あれ?! そんな話だったっけ?!
 防御の基礎練だと思ったんだけどいっちゃん?!

「そっか。怪我しないように気をつけ……あら? 壱、怪我してるの?」

 依奈様がいっちゃんの怪我に気づいた。
 まぁ、気づくよね。

「……はい。ちょっと、午前の訓練で、その……失敗してしまって」
「なるほど。そっか」

 いっちゃんが少し所在なさげに顔を伏せた。
 怪我のことを、いっちゃんは依奈様に知られたくなかったのかもしれない。
 依奈様はいっちゃんを心をほぐすように笑みを向けた。

「わかってるだろうけど、指が痛むようなら無理に訓練しないようにね」
「はい。もちろん」

 いっちゃんの顔はまだこわばっていた。いっちゃんは依奈様の前だと、ことさら気を張るきらいがある。
 わずかな沈黙の後、依奈様がパッと表情を弾ませた。

「そうだわ! 二人とも、ちょっとそっちに並んで」
「えっ?」

 依奈様がいっちゃんの肩をついと引っ張って山梔の下に立たせた。わたしも従っていっちゃんの横に立つ。

「うんうん。やっぱり素敵ね。じゃあ、写真を撮るわよ」
「えっ? な、なんでですか?」

 いっちゃんが困惑した声を発する。

「なんでって……山梔がきれいだから?」
「意味がわかりません」

 こういうとき、いっちゃんは依奈様の心遣いにだけ疎くなる感じがある。いっちゃんは進んで写真を撮りたがる性質ではないけれど、かといって嫌っているわけでもないはずだ。わたしは依奈様と同じ気持ちだった。

「いいじゃん、撮ってもらおうよいっちゃん」

 このままだと渋りそうだったので、わたしはいっちゃんの肩にぎゅっとくっついた。

「ちょ、樟美?!」
「わたし、いっちゃんと、写真撮りたいな」
「え、ええ?」
「……だめ?」
「いや、ダメってわけじゃないけど」
「嫌なの?」
「! ち、違う。嫌じゃないわ! 撮る! 撮ります! 撮ってください!」

 わたしといっちゃんのやり取りを見て、くすくすと依奈様が笑った。

「じゃあ撮るわよ。ほら、壱。もっと笑顔笑顔」
「え、笑顔ですけど」
「んーまだ固いわねぇ。……樟美」
「はい」

 依奈様の暗黙の指示で、わたしはいっちゃんの耳元で囁きかける。

「笑顔で写真、撮ってくれたら、夜、いっちゃんの指、舐めてあげる」
「!?」

 囁きにギョッとして、いっちゃんがわたしに振り返る。

「嘘、です」
「やめてよ!! びっくりするじゃない!!」
「ん? 何を言ったの樟美?」
「秘密です。えへへ」

 そんなふうに、きゃあきゃあと騒いでいるうちにいっちゃんの表情もほぐれてきた。
 仕方ないわね! と、気を取り直していっちゃんが佇まいを正す。
 依奈様がスマホのカメラを構える。

「いいわ。さっきより全然いい表情よ」
「恥ずかしいから早く撮ってください!」
「うふふ。わかったわ。じゃあ撮るわよ」

 カシャ。
 依奈様がスマホのシャッターを切った。

「いいわ……すごく、すごくいい。THE いちくすって感じよ。ばっちりの一枚ね」
「意味がわからないですがとりあえず見せてください」

 撮った依奈様はすごくご機嫌だった。
 そんな依奈様からいっちゃんの手にスマホが渡る。
 ディスプレイを見たいっちゃんが吠えた。

「ちょっと!? これ樟美ほぼ真顔じゃない?! 笑顔はどうしたのよ?!」
「いっちゃんの笑顔が、大事だから、これで、いいの」
「どういう理屈?!」
「いつもの、いっちゃんとわたし」

 わたしは依奈様と視線を交わして微笑み合う。言葉はいらなかった。わたしたちは完璧に仕事がなされたことをわかっていたから。

「うふふ。ルームメイトに愛されてるわね、壱」
「愛されているというか振り回されている感じが強いんですが……」

 いっちゃんとわたし、いっちゃんと依奈様。ぶつかったり、すれ違ったり、いろいろあったけれど、今日は素敵な写真が撮れた。撮られる人と、撮ってくれる人。わたしは周りの人に恵まれている。
 季節はもう冬になろうとしている。時間はあっという間に過ぎてゆくけれど、わたしたちが積み重ねてきた時間は今日撮った一枚の中に確かに刻まれている気がした。
 依奈様から自分のスマホに写真を送ってもらって、わたしは待ち受けに設定した。とても満足だけれど、でもまだ足りない。

「じゃあ、今度はわたしが、依奈様と、いっちゃんを撮ります」

 わたしは欲張って、思い出をもう一枚撮ろうと、二人に声をかけた。

思い出がもう一つ【壱、樟美、他】
終わり


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クリエイターズコラボ ‐楓の頃‐【楓、梨璃】

クリエイターズコラボ ‐楓の頃‐【楓、梨璃】

 はらり、はらり。涼やかな風が葉を散らす。
 ひらり、ひらり。鮮やかな朱が空に舞う。

「わぁっ、すっかり秋めいたねー!」
「えぇ、本当に。とっても綺麗ですわね」
 茹だるような暑い夏も何処へやら、天高く晴れ渡る空と共にやってきた秋は、世界をすっかり自分の色に染め上げていた。いつも2人で歩く散歩道も赤や黄色の紅葉で彩られ、足を一歩進める度に落ち葉を踏みしめるシャクシャクと小気味の良い音が鳴る。そこに呼吸を合わせるかのように、カランコロンと楽しそうな下駄の音。
「綺麗って言うなら、楓さんの浴衣姿だよ! 本当によく似合ってて綺麗!」
 下駄の音の主が、桜色の浴衣の裾を翻し振り返って私を見た。秋晴れの空のような晴れやかな笑顔で、時折舞い落ちるモミジに手を伸ばしては、取れずに少し悔しそうにする。一柳梨璃さん。私の、大切な人。
「まあ……! ありがとうございます梨璃さん! 梨璃さんの浴衣姿も相変わらずとっても素敵ですわ!」
「えへへ、ホント? 嬉しいなぁ……。お母様に感謝、だね」
「えぇ、ですわね」
 そう、私達は今お互いに浴衣姿で秋の小道を散歩していた。きっかけは、母からの贈り物だった。

「楓さーん、ご実家から何か届いてるよー?」
 百合ヶ丘を卒業後、ルームシェアをしながら同じ日本の大学に通う私達の元に届いたのは、全く身に覚えのない大きな包みだった。大きくて平たい、まるでキャンバスが入っているかのような白い箱。送り主の欄には、『朋美・ヌーベル』と母の名前。
「あら、何ですのこれ? 私に送り物があるだなんて、そんな連絡は来てなかったはずですわ?」
「ね、開けてみようよ!」
 2人してベリベリと包みを破り、箱を開ける。そこにあったのは……。
「まあ、これって……」
「浴衣、だよね……。すっごく素敵な柄……」
 そこには、真新しい秋用の浴衣が仕舞われていた。赤い布地に黄色く色付いた葉が描かれた、綺麗な浴衣。母からのメッセージカードにはただ一言、『楓の頃に』とだけ書かれていた。
「実家では見たこと無い浴衣ですわ。母が私の為に見繕ってくれたのかしら……?」
「ね、ね、楓さん!」
 生地を手に取りしげしげと眺めていると、隣に座る梨璃さんが興奮した声で話しかけてきた。
「一緒に浴衣を着て、秋の散歩デートしようよ!」
「えっ? 浴衣デートですの?」
「うん! お互いに浴衣を着て、あそこの小道を歩くの! 丁度今の季節なら紅葉がとっても綺麗だと思うし! どうかな?」
 この浴衣を着て、梨璃さんとデート。こちらからすれば断る理由が思いつかないくらい、魅力的な提案だった。何より梨璃さんのあの浴衣姿を夏を待たずにまた見られるのが素晴らしい。梨璃さんの幼い可愛らしさが浴衣を羽織ることで妖艶さも滲ませるかのような色気がプラスされて見るだけでクラクラする。あぁ梨璃さんの浴衣。でも……。
「でも、梨璃さん? 梨璃さんの浴衣は夏用ですわよ? 今の時期に外を出歩くのは少し肌寒いかもしれませんわ?」
「大丈夫だよ! まだまだお昼頃に歩くと暑くて汗をかくくらいだし! ねぇ楓さん、一緒に浴衣デート、したいな……? ダメ……?」
「行きましょう! 何があっても何もなくても何が何でもデートしますわ~!」

「……くしゅんっ!」
 やはりあまり大丈夫ではなかったようで、冷たい秋風が首筋を撫でる度に小さく震える梨璃さん。仕舞いには可愛らしいクシャミまでし始めた。
「……梨璃さん? 寒いのなら無理せずそこのカフェでお茶でもしませんかしら?」
「だ、大丈夫だよ! ちょっと涼しかっただけだから! ほら、手を繋げば暖かいし!」
 そう言って、私の手をギュッと握る梨璃さん。仄かに熱を持った梨璃さんの体温が手を通じて伝わってくる。……いえ、普段より少し熱くありませんこと? もしかして、風邪を?
「あの、梨璃さん? このままではお風邪を召してしまいますし、そろそろ戻りませんこと?」
「いやいや、本当に大丈夫だよ! 楓さんたら相変わらず心配性なんだから!」
「当たり前でしょう! 私をここまで心配させるのは梨璃さんだけですのよ? ですから無理せずお家に戻りましょう……?」
「ありがとう楓さん。……うーん……でももうちょっとだけ……」
 それでも梨璃さんは何かを探すかのように空を眺め、指を伸ばす。その掌を目指すかのように、1枚の真っ赤なモミジがゆっくりと舞い落ちた。
 はらり、はらり。
 ひらり、ひらりと。
「あっ! きた!」
 梨璃さんはまるで待ち望んでいた大切な物をそっと受け取るかのように、両手を受け皿にしてモミジを受け止めた。導かれるかのように落ちてきたそれを、大切そうに抱えながら、私に見せてくる。
「やった……! 楓さん、見て! 取れたよ!」
 どうやら梨璃さんは、風に舞う紅葉を地に落ちる前に掴み取りたくて、秋風の中ここまで粘っていたらしい。でも、どうして?
 その答えは、すぐに彼女自ら教えてくれた。
「はい、楓さん! これあげる!」
 そう言って梨璃さんは、私の髪にそっとモミジを乗せてきたのだ。
「えっ……? 梨璃さん、これは……?」
「えへへ、あのね? ずっと思ってたの。楓さんの髪色と、紅葉したモミジの色ってそっくりだなって! きっと髪に乗せたら似合うだろうなぁって!」
 そう、彼女は私のために寒い中モミジを集めようとしていたのだった。真っ赤な手と頬で、動きにくい浴衣を着た状態で、私のために。
 それに気付いた瞬間、思わず私の身体は勝手に動き、梨璃さんを抱き締めていた。この小さくて可愛くていじらしい私の恋人を、強く抱き締めていた。
「あっ……。えっと……楓さん……?」
 あぁ、しまった。久々にやってしまった。あの頃みたいなセクハラじみたことはもうしまいと心に決めていたのに。困惑している彼女に何か言わなければ。そうだ言い訳を、言い訳をしよう。「梨璃さんが寒そうでつい……」とか、そう言ったらきっと彼女は信じてくれる。いやその前に頭の紅葉のお礼を言う方が先? そんな混乱する私の口から出たのは、
「……もう少し、だけ……」
 だった。
「か、楓さん?」
「もう少しだけ、このまま抱き締めさせてくださいまし……。大好きですわ、私の梨璃さん……」
「……うん。えへへ、私ももう少しだけ、ギュッとしてほしいかな。私も大好きだよ、楓さん」
 それから2人は、しばらく抱き合ったあと、手を取り合って2人の家に戻ったのだった。
ーーーねぇ、楓さん。また2人で一緒に楓を見に来ようね。
ーーーえぇ。2人で楓の頃に、また。